第2部 カエデ、空手を始める前の物語 ⑨橋本病院の愉快な仲間たち~後半~
橋本病院リハビリ部の昼休みは、本当に自由であった。責任者の杉岡が良くも悪くも気を遣わせない雰囲気を醸し出していた。その為、下で働いている者は伸び伸びと過ごせた。昼休み、杉岡は甘いミルクティーを1リットルの紙パックで購入し、一気に飲み干す。至福の時であった。それだけでなく更に甘いシュークリームやアイススクリームなどを大量に買ってくる時があり、それをリハビリスタッフに配った。リハビリスタッフは喜び、杉岡の体重も年々、増加していった。宮上は筋トレ、小草も筋トレそしてシャドーボクシング、その他のスタッフは談笑したり、お菓子を食べたり、昼寝をしたりなど思い思いに過ごしていた。
そんなある日の昼休み、アイスクリームを食べているタンクトップ姿の後坂がいた。その姿を見た宮上が、後坂のおおよそ運動していないであろう、ぶよぶよの腕を見て笑い。
「逞しい腕ですね~。見せたくなる気持ちが分かりますよ。」
と茶化した。後坂が笑いながら肘を曲げ、膨れているか分からない力瘤を見せながら
「まるで丸太でしょう。」
と返した。その昼休み、腕相撲をすることになった。もちろん井上は拒否。後坂は、それ以外のリハビリスタッフと腕相撲するも、ひろしにまで負けてしまった。とうとう女子スタッフで一番強そうな女性とすることになった。後ろから見ていた小草から
「まさか。負けませんよね。」
と声をかけられるも返事をする余裕がなかった。リハビリスタッフ全員が見守る中、女性スタッフと手を組んだ時、後坂の表情は青ざめていた。後にこの時のことを後坂は
「死刑台に上がった気分だった。」
と語っている。レディーゴーの合図で始まった。始まりは均衡していた。周りから歓声が飛んだ。時間が経つにつれ、後坂は押され始め
「うわー。」
という後坂の悲痛な叫び声と共に力尽きてしまった。リハビリ室に笑い声と歓声が漏れた。昼休みが終わるまで、後坂はうな垂れ、周りは興奮が続いていた。仕事が始まると、そこは切り替えが早かった。後坂も笑顔で患者さんと接していた。しかし、ここから後坂は変わった。仕事終わり、昼休みに急に筋トレをし始めたのである。
何日か経った後、後坂が、ひろしに1カ月後、腕相撲をして欲しいと頼んだのである。ひろしは負ける気はしなかったので快諾した。日時を決め、リハビリ部の一つのイベントとして扱われた。後坂は頑張った。
「職場に来るのは筋トレをする為だ!!」
冗談か本気は分からないセリフを言い始めた。杉岡や宮上も腕相撲のコツを伝授したが、杉岡の説明が細かすぎて、
「この角度から前腕を回旋に入れて云々カンヌン。」
参考にするのは難しそうであった。ひろしは、筋トレを一切せず、イメージトレーニングを中心に練習をしていた。時々、小草が腕相撲のコツを教えてくれたが基礎的な筋力が無いので、それ以上に強くなることは難しかった。とにかく一カ月、後坂は腕立て伏せ、ダンベルなどを繰り返した後、アミノ酸が豊富な栄養薬を摂取していった。本人は
「課金だ。」
と言っていた。
一か月間が過ぎ、腕相撲の勝負の日が来た。後坂は待ちに待っていた。なぜなら女性スタッフに負けた汚名を晴らさなければならない。昼休みになり、リハビリスタッフが集まってきた。肘を置く場所などテープを張り、公正なルールで始まった。しかし、なかなか始まらない。手を組んだ後の手首の位置で揉めた。そして、お互いが納得する手首の位置になり戦いは始まった。結果は、あっけなく後坂の勝利であった。後坂は
「えいっ!」
と力を入れ、ひろしの身体ごと半転させたのである。その瞬間、後坂は笑顔で両腕を挙げた。日々の努力を知っている周りから拍手が起こった。この様子を動画で撮っていた小草はリハビリスタッフのグループLINEに早速、動画を配信していた。
昼休みが終わり、笑顔でリハビリ室から出る後坂、対照的にうな垂れているひろし。しかし、夕方5時になりパソコン室に戻った後坂に異変が起こっていた。右胸を苦悶の表情で押さえているのである。 井上が
「どうしたんや?どうしたんや?」
と尋ねると後坂は答えた。
「右の肺が鷲掴みにされているようで苦しい。」
「え~?」
リハビリスタッフの誰もが驚いたが、喜び過ぎて胸が苦しくなったのかと結論が出た。後坂は早々に仕事を切り上げ帰宅した。
その夜、ひろしの携帯に後坂からLINEがあった。
『お疲れ様です。帰宅しても右胸の痛みが止まらず近くの整形外科に行きました。レントゲンを撮った結果、右第3肋骨が折れていました。腕相撲が原因で折れたようです。』
ひろしは1度読んだ時、後坂が何を言っているのか分からなかった。2度読んだ時、ドッキリかと本気で思ったが事実であった。小草が撮った腕相撲の動画は
『後坂勝利動画!!』
から
『後坂の肋骨が折れた瞬間動画!!』
に変わっていた。
脱線したが、このように愉快な職場のスタッフに囲まれ、ひろしは過ごしていた。その為か、職場の中において、ひろしの心内に住む黒い蛇は大人しかった。そして、その夏、大きな出来事が村上家に訪れた。