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大きな風車

作者: 川咲 みゆ

 私と夫を乗せた車は海沿いの道路を走っていた。私は初めてだが、夫は友人と何度か通ったことがある道だと言っていた。

 海が見える道。夫の言う通り、確かにドライブするには良い道だ。初夏のやわらかな日差しを受けた海は嬉しそうに光っている。梅雨明けしたばかりの空には雲一つない。

 それでも、今の私には澄み切った青空や光る海が、まるで他人事のようにしか思えなかった。



 急に子供を一日両親に預けると言い、私を無理やりドライブに連れ出したのは夫だった。

「お前最近疲れてないか?」

「全然疲れてないよ。そう見える?」

 決して強がりではなく、本当に自分が疲れているとは思っていなかった。

「うーん、お前は真面目過ぎるからなあ。いつも仕事のことか子供のことか、何ていうか難しいことばかり考えてるように見える。まあ今に始まったことじゃないが。」

 確かにそうかもしれない。家で子供が起きている時はひたすらその子のことを考えて、それ以外の時間は、最近思うようにいかない仕事のことを考えていた。私は昔から良くも悪くも責任感が強くて真面目だと言われることが多かった。

 でも、母親が子供のことを考えて、働く者が仕事のことを考えるのは当たり前のことだろう。

 そもそも夫が楽観的すぎるのだ。


「どうにもならないことだってあるさ。」

 それが夫の口癖だった。私が何か育児で悩んでいた時、仕事で迷っていた時、夫に相談すると必ずそんな言葉が返ってきた。

 夫は恐らく他の人よりも育児には協力的な方だ。仕事のことでも子供のことでも、私の相談を真剣に聞いてくれているということは分かっていた。だから、夫がそんな返事をするのも決して私の相談を軽く受け流しているからではない。それが彼の性格なのだ。もっとも、自分とは正反対の彼のそんな性格に私は惹かれたのかもしれない。

 それでも、何か解決策が欲しくて相談していた私としては、正直彼の楽観的な返事に少し腹が立っていた。


「きっと、上手くいかないこと全てにはっきりした原因があるわけじゃないんだ。おれにもお前にもできないことはどうしようもない。どうしようもないことからは、ただ逃げるだけさ。」

 いつかそう言っていた彼の言葉を思い出した。

 その口調からは、それが冗談なのか本気で言っているのかよく分からなかったが、どっちにしても私は彼のその考え方に納得できなかった。


 私は今まで、大学受験だって就職だって、人一倍努力して自分の納得するようにやってきた。そのせいか、何事も成功するかしないかは自分の努力次第だと思うようになっていた。    

 反対に上手くいかないことがあれば、それは私の中に何か原因があるはずだ。それは私自身のせいだ。


 何が悪いのだろう。

 子育てが上手くいかない原因は何だろう。仕事でよくつまずくのはなぜだろう。

 今の自分の何が悪いのか、考えてみても分からなかった。


 でも、このままではいけない。

 私は母親として、子供を育てなければいけない。弱い子供を守らなければならない。一人の大人として、働かなければならない。

 もう、私は無力な子供ではないのだ。


 子供の頃、私にとって世界は果てしなく広く思えた。

小さな私には立ち向かえないようなものが多くて、怖がりだった私はいつも誰かのそばにくっついていた。

一人では何もできずに、両親に、祖父母に、学校の先生に頼って、守られていた。

 当時の私には、見るもの出会うもの全てが大きく思えた。


 小学生の頃、私は夏休みを祖父母の家で過ごした。

 祖父母の家からは遠くに風車が見えた。白い風車の3枚の羽根はいつも静かに回っていた。少なくとも遠くから見る限り、その風車は田舎ののどかな風景に溶け込んでただのんびりと回っていた。

 ある時、祖父は私を風車の近くまで車で連れて行ってくれた。

車から降りると、まるで嵐が近づいてくるかのような音が耳に響いた。風車の羽根が風を切って回る音だった。

 その風車は、本当は静かに回ってはいなかったのだ。近くで見る風車は遠くから見るそれとは全く違っていた。

(思ってたよりも、ずっと大きいや)

 幼い頃の私には、近くで見る風車はまるで怪物のように見えて恐ろしかった。回転するプロペラが数秒おきに迫ってくるたびに、私は後ずさりして目を閉じた。

「おじいちゃん。私、風車って電信柱くらいの大きさだと思ってた!」

 私はそう言って祖父にしがみついた。祖父はそんな私を見て、

「近くで見るとかなり大きいだろう。体の小さいお前には少し怖いかもなぁ。」と言って笑っていた。

(もっと背が伸びて、大きくなったら、この風車も怖くなくなるのかな?)

 隣で笑っている祖父を見て、私は風車に怯えつつもふと冷静にそんなことを考えていた。


 子供は成長する。日に日に身体が大きくなる自分の子を見ていると、本当にそうだと感じることがよくある。そして当たり前だが、私自身も風車を見たあの頃と比べると成長している。

 きっと外から見ている大人のほうが子供の成長というものは感じやすいだろうが、ちょっとした身体の成長くらいなら自分でも感じることはあった。


 小学校高学年の時、急に背が伸びて、それまで着ていた洋服が入らなくなった。「すぐ背が伸びるのねぇ。お母さんの洋服を一緒に着られるね。」母親にそう言われるのが嬉しかった。大人になって実家の整理をしている時に見つけたランドセルも、肩を通せないほどに小さくなっていた。低学年の頃は遠く感じていた小学校までの道のりだって、今となっては大した距離ではなかった。

 私が幼い頃大きいと思っていたものは、どれも小さくなっていた。

 遠いと思っていた場所も、もう一度歩いてみるとそう遠くはなかった。


 できなかったことだってどんどんできるようになった。

 料理ができるようになった時、母は褒めてくれたし、喜んでくれた。「この子は本当に手のかからない子でね、何でも一人でやってくれるんですよ。」母の嬉しそうな自慢話を、恥ずかしいとは思いつつも実は喜んで聞いていた。

 今思うと周りの人が喜んでくれるのが嬉しくて、あの頃の私はできることを増やしていったのかもしれない。そして、弱くて一人では何もできなかった子供の頃の自分と早く別れたかった。

 でも、いつからだろう。一人ですることが、できるようになることが、全て義務だと感じるようになったのは。


 私は自立しなければいけないんだ。人に頼ってはいけない。「手のかからない子」でいないといけない。

 怖いものだって、あってはいけない。

 もう、子供ではないのだから。

そんな思いがいつも私の心にまとわりつくようになった。



 二人を乗せた車は海沿いの緩やかなカーブに差し掛かった。

 二人の間に会話はなかった。だからますます私は夫の言う「難しいことばかり」考えていた。

 カーブを曲がり終えると、遠くに一本の風車が見えてきた。空と海の青とコントラストをなす真っ白な風車は、遠くにあっても見る者の視線を引き付ける存在感がある。

 その海沿いの風車が、幼い頃祖父母の家から見ていた風車の記憶と重なった。遠くから見る限り、今見ている風車と記憶の中の風車は恐らく同じくらいの大きさだろう。

 海沿いの風車は初夏の海風を受けて気持ちよさそうに回っていた。静かな風景だった。

 しばらく海と風車のある目の前の景色に見とれながら、同時に私は幼い頃見た風車のことを考えていた。

 あれから一度も風車の近くには行っていない。祖父母の家にはよく行ったが、遠くからその風車を眺めながら近くで見た時の迫力をぼんやりと思い出す程度だった。

 そして今もそうだ。

 もしかすると、風車が恐ろしいほど大きかったのは幼い頃の私の記憶の中だけかもしれない。今見るとまた違って見えるのではないだろうか。


「ねえ、あの風車のあるところまでいってみようよ。」

 私は今急に思いついたように運転席の夫に言った。

「風車? 別に行ってもいいけど……」

 私の急な言葉を不思議がりつつも夫は風車のある場所に向かってくれた。

 車から降りると、いつか耳にしたのと同じ、鼓膜を鈍く震わせるような風の音が聞こえてきた。私はゆっくりと見上げてみる。

(大きい…!)

 その風車は全く小さくなっていなかった。

「うわっ! 結構デカいんだな!」

 私に遅れて車から降りてきた夫も少し興奮したような声を出した。そんな彼の言葉を聞いて、私は急に嬉しくなってきた。

「そうだよね。大きいよね。やっぱり、大きいよね。」

 私はふいに身体の力が抜けてそのまま地面に尻もちをついた。なんだか自分で可笑しくなって、私は声を出して笑った。

 夫はそんな私を見て少し驚いたようだったが、私の気持ちが分かっているのかいないのか、隣に腰を下ろして一緒に笑いだした。

「近くで見たら、こいつ怪物みたいだな。」

 昔私が感じたことと同じことを今も夫が感じていることが可笑しかった。

「大きいなあ。もしこんなやつが襲ってきたら、おれはどうすることもできないなあ。」

 そう言う夫の言葉は、不思議と私の心にすっと入ってきた。



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