2話 3年前の出来事(1)
もう、あれから3年かぁ。
路上教習の信号待ちの時に、助手席の窓から特に何かを目的として外の風景を見る訳でもなく、ただボォ~っと光り輝いている看板に目を向けていた時、ふと、そんな昔の事が頭に過った。
「あの~、このまま教習所に帰るんですよね」
僕はまるで、現実の世界に急に引き戻されたかの様な錯覚を感じながら、ハンドルを握って運転中の教習生の女の子から声を掛けられた。
「えっと、あっ~そうそう。次にこの交差点を過ぎたら、左に寄せる合図を出して、二輪車が入ってこないか確認してから、歩道に寄って教習所に入ってくれる」
少し戸惑いながら僕は、彼女に指示を出した。
「はい、わっかりたました~」
そう元気に答えると同時に信号が青に変わり、彼女は、僕の指示に従って教習所に戻って行った。
路上から教習所の中に帰って来た安堵感と、本日最後の教習ともあって、ホッとした気持ちで教習所の外周コースを回っていた時、突然、運転中の教習生の女の子から話し掛けられた。
彼女の名前は、高野 絵里。
さっきから、いや、教習が始まってから殆んどずっとだ。彼女の方から矢継ぎ早に話し掛けて来る。雑談7割、教習3割ってな感じで。
するとまた、彼女が口を開いた。
「やっぱり路上と違って、教習所の中は落ち着きますよね」
「うん、そうだね」と、僕は話しを合わせる感じで答えた。
「所でさっき信号待ちの時に、何か考え事してたでしょ?」
うっ、良く見てるなぁ。
「ちょっとね」
「何か外の方を虚ろな目をしながら一点を見てましたもんで」
「こっちが高野さんの運転の仕方を観察しないといけないのに、反対に見られてるね」
ちょっとばつが悪そうに、苦笑いを浮かべて僕はそう答えた。
「一応これでも私達、芸大に行ってるんですけど、人間観察が好きなんです。ね~、遥」
「へ~」と、話しを合わせる為に曖昧な返事で返して、この話しを終わらせようとした時、後部座席に座っていた友達の遠藤 遥の方を向いて左手の親指を立てた。
「おっ~、高野さん前見て前」
そんな僕の気持ちとは裏腹に、高野さんは、すかさず次の話題をふって来た。
「私達、高校の時に知り合って、大学も同じなんですよ。学部も一緒で」と、高野さんが答えた。
確か何週間か前の朝礼で、失声症の女の子が入所して来るって言う話しを聞いた事があるけど、それが今、後部座席に座っている彼女だ。
今回初めて技能教習で担当したのだけれど、詳しい事情は聞かされていない。
何でも失声症とは、主なものとして、ストレスや心的外傷等によって心因性の原因から声を突然発する事が出来なくなったとの事らしい。
まぁどんな人であれ、僕にとっては、ごく普通に分けへだてもなく接するつもりだから、頭の隅っこに記憶する程度で名前を覚えていた。
「所で片瀬さんは、何でこの指導員の仕事をしようと思ったんですか」
良く喋る子だなぁ。
「さぁ、何でかなぁ。この仕事に就く前は、全然違う仕事をしてたんだけどね」
「へぇ~、どんな仕事をしてたんですか」
高野さんは、単に話しを合わせるって訳でもなく、興味津々で次から次へと話し掛けてきた。
うわっ、聞く気満々だな。
「てか高野さん。目を見て話すのは良い事だけど、前、前。言うから」
彼女の勢いに少し押されぎみになりながら、その質問に軽く足を踏み入れた。
「え~とね、アパレル業でカジュアル服の販売の、店長を」
「え~!!全然違うじゃないですか。私てっきり指導員の人って、車が好きな人達ばかりがなってるんかと思ってましたよ」
「まぁ、中にはそう言う人もいるかもね」
「で、また話しが戻るんですが、何でこの仕事をしようと思ったんですか」
「え~と、それはまた次に会う機会があればね」
教習時間も後わずかって事もあり、僕はこの話しを遮った。
「えっ~、そう何ですか。じゃあ次に会う機会があれば、その時は是非教えて下さいね。約束ですよ」
「あ~、機会があればね」
そんなやり取りから話題を変えようと、スタート地点である発着点に車を停止してもらい、この時間の路上教習に関する運転の講評や注意点を彼女達に伝えた。
「所でこの時間の運転だけど、初めて高野さんと遠藤さんの運転の横に乗ってて、二段階中盤の路上教習と言う事もあって、中々安心して横に乗れました。今みたいな運転をしていれば、いずれ横に乗ってくれる大事な人も、同じ様な気持で乗ってくれるんじゃないかな。で、この複数教習からは、走行する経路も自分で考えて主体的な運転が求められます。これからも、この調子で、確認と歩行者等の側方間隔に注意して次も頑張って下さい」
「はい」て言ってもらって、この教習を終わらせたかったのに、僕の思惑とは裏腹に、話しはやっぱり高野さんのペースになってきた。やばい。
高野さんは、にこやかな笑顔を見せて、僕の講評に対して話しを続けてきた。
「それって誉められているんですよね」
「うん、まぁ、この時間は」
「イェ~~イ」と、高野さんは言うや否や、後部座席の遠藤さんに左手を伸ばし、二人してハイタッチをした。
「はい、次も頑張ります」と、遠藤さんは答えた。
「また二人の教習を担当するか分からないけど、試験で良い結果が出たら教えてね」
「はい、遥といの一番で行きます」
「それじゃあ、終わろうか。お疲れ様でした」
「はい、有難うございました」
そうして僕達は教習車から降りると、冷房をきかした快適な車内と違って、昼間の太陽の熱で熱せられたアスファルトが夜になってもまだ残っているのか、むあっとした湿気が体にまとわりついてくる感じがした。
一日の教習が終わりを告げるメロディを耳にしながら、僕達は、校舎までの道のりを暫くの間、一緒に横に並んで歩いて行った。
「今から遥とご飯を食べに行くんですよ」
「へぇ、良いね」
「じゃあ、一緒に行きます?」
「うーん、その気持ちだけ頂いとくよ」
「そうですか、それじゃあ、お疲れ様でした」
高野さんがそう答えると、隣にいた遠藤さんも話せない分、僕に軽く会釈した。
その後、教習生用と指導員用との入り口が違うので、途中で僕達は別々の方向に分かれて歩いて行った。
ふぅ~、やっと最終時間の教習が終わった。この仕事って、ずっと同じ姿勢で横に座っているから肩が凝るんどよなぁ。
そんな事を考えながら、左手を握りつつ、右肩をトントントントンと軽く叩いた。
それにしても良く喋る子だったなぁ。何で指導員になったんですか~か。まぁ、たまに聞かれる質問だけど、今まで教習生や他の指導員の人にも本当の事を話した事がないよなぁ。
ふとその場で立ち止まり何気に夜空を見上げて見る。
もし停電で街灯がなければ、辺り一面、眩いばかりの綺麗な天の川が見れただろう。しかし、ここは大阪の国道170号線沿いにある教習所。街灯やお店の照明、マンションの各部屋のカーテン越しから漏れる光などで天の川おろか、目を凝らして何とか見える星の光だけ。そう、あの時と同じ7月の夏の星座が、薄っすらと夜空を照らしていた。
はぁ~、もうそろそろ良いかな、麻衣。
あれから3年。俺は何か変わったかな。毎日毎日が忙し過ぎて、日に日にあの日の出来事や、麻衣と二人一緒に過ごした楽しかった出来事が、時間の経過とともに全てが頭の中から少しずつ消えさっていくよ。これってさぁ、今の俺は幸せって事なのかな?もしもさぁ、あんな事が起きなかったら、今頃俺達、どうなってたんだろうなぁ・・・・。
一日の教習が終わり、きちんと整列している教習車。それと照明が消された教習所。そんな教習所のコースの所々に生えている雑草の中から、「やっと自分達の時間がきたぜ!!」と言わんばかりに、様々な虫達の鳴き声が所狭しと響きわたっていた。