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月の雫 ―春霞の抄―  作者: 惠 悠冬(めぐみ ゆうと)
9/14

09//要らない命

 布団の上で、氷見ひみはぼんやりと膝を抱えていた。

 退屈な日々の中では、何度となくあの辛い日を思い出したりもするが、色々なことがあったお陰で、今日は考える暇もなかった。


 今なら、ぐっすり眠れるだろうか…。


 暫く療養していたせいで、すっかり鈍ってしまった身体がだるい。寝不足のせいか、実は昼間も時々足元がふらついた。


 それでも。


 何かを考えれば考えるほど、どうしても目を閉じることができない。眠りたいのに眠ってはいけない――やはりどこかでそう思っているのだ。


 眠ればきっとまたあの日の夢を見てしまう。あの恐ろしい夢を、また…。


 思いふけっていると、不意に廊下のふすまが開いた。そこにいたのは目をしょぼつかせた篠懸すずかけであった。


「何だよ。こんな夜更けに…」


「……」

 しかし篠懸は答えず、眠そうに何度も目を擦りながら氷見の隣にちょこんと座った。


「ひょっとして…寝惚けてるの、おまえ?」


 茶化してやると、篠懸はむっとむくれた。


 そうして。


「今日はここで寝る!」


 それだけ言うと、篠懸はさっさと氷見の布団に潜り込んでしまった。


「はァ?何で!?だって布団、一組しかないんだぜ?」

「だったら一緒に寝たらいいだろう?」

「やめてくれよ、何だって男同士でそんな…。ほら、とっとと部屋へ戻れ!」

「……」


 頭から潜り込んだ篠懸は、まったく出てくる気配がない。


「おいってば!ほら、篠懸!」

「……」

「起きろーっ!!」


 揺ろうとも叩こうとも、力尽ちからずくで布団を引っ張ろうとも、ぎゅっと丸まったまま動かない。


「まさか…もう眠ったのか?」

「眠ってない」


 くぐもった声の後、布団から伸びた手がいきなり氷見の手を握った。


「な、何だあっ!?」

 びくりと声が裏返る。


そばに…いるから…」


 消え入りそうに小さな声だった。


「私が傍にいるから…もう怖くない」

「え…?」


 ようやく篠懸は布団から瞳を覗かせた。


「昔…暗闇が怖くてなかなか寝付けなかったとき、そんな私の手を愁がずっと握っていてくれた。そうしたらちゃんと眠れるようになったんだ。だから…」


 そう言いながら、瞳の方は今にもとろけそうだ。相当眠いに違いない。


「やれやれ…負けたよ。分かったからもうそこで寝ろ。まったく…おまえの頑固は間違いなくしゅう譲りだな…」


 観念して眉を解くと、


「氷見も寝るんだぞ、一緒に」

「はいはい」


 そろりと滑り込んだ布団の中で、篠懸の呼吸は既に寝息になっていた。それでも握った手は離さない。


「そうだよな…。疲れたよな、今日は。おまえ、いっぱい頑張ったもんな。俺さ…皇子様ってのは、もっと威張ってて気取った嫌な奴ばっかだって思ってた。だけどほんといい奴だよな、おまえは。こんなにちっちゃいくせにさ。心配してくれてありがとな、篠懸…」


 聞こえぬのを承知で語りかける。それはむしろ、聞こえていないからこそ口にできる――そんな台詞。


 そのまま氷見は暫く篠懸の寝顔を見ていた。


 たちまちこみ上げてきたのは、切ないような懐かしいような温かさ――。


 どうしたことだろう。

 以前にもこんなことがあった気がする。


 まさか…そんなはずはないのに、どうして?


 すると何を思ってか、突然氷見はくっくっと声を殺して笑い出した。


「あはは、そっか…。こいつ――姉ちゃんに似てるんだ」


 前から、髪の感じが良く似ているとは思っていた。

 だが、こうして近くで改めて眺めれば、まるで女の子のような顔立ちも、何でもひとりで決め込んで散々に氷見を振り回す、そんなところもどことなく…。


(そうか、これは――)


 まだ幼かった頃、姉代わりの李燐りりんと枕を並べ、手を繋いで眠ったあの時の感覚だ。


 またくすりと笑って、瞼を閉じた。じんわりと疲れが体の表面に湧いてくる。


(ああ…。今日こそはいい夢を見よう)


 きっと今この胸にある温かい気持ちは、幸せというやつだ。きっとそうに違いないから、もう悲しい夢はめなくちゃ。ちゃんと前を向いて歩くために。泣いてばかりいたって、何かが変わるわけじゃないんだから…。


 次第に意識が遠退いてゆく。氷見は深い眠りの中へと墜ちていった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 爽やかに夜は明けて――。


 篠懸がなかなか起きてこないので様子を見に行くと、部屋に彼の姿はなかった。その代わり、丁寧にたたまれた布団の上には一枚の書き置き。


『氷見と寝ます』


 おみは苦笑いを浮かべた。


「おいおい…。男同士で添い寝か?色気も何もあったもんじゃないな」

 手紙を摘み上げ、ひらひらと扇がせる。


 篠懸の世話に訪れた御許おもともくすくすと笑った。


(とはいえ、まあ…昨日の今日だからな)


 御許に下がるよう指示を出し、臣は氷見の部屋へと向かった。


 こっそりと中を覗いてみると、果たして互いに手を繋いだまま仲良く眠る二人の姿が目に入る。もうとっくに夜が明けたというのに、どちらもぐっすりよく眠っているようだ。


「放っておくか…。そのうち起きてくるさ」

 臣はそっと襖を閉めた。


 ここはひとまず篠懸の部屋へ戻り、彼らがやってくるのを待つとしよう――。


(銀鏡の鬼…か…)


 障子のへりに体を預け、臣はぼんやりと彼方の空を眺めた。

  

 ――紗那の皇子らが楼蘭を訪れたその晩、黄蓮おうれんの都を発った臣は、そのまま真っ直ぐ馬を飛ばして北上。一路いちろ天飛山あまだやまを目指した。


 郊外の小さな農村をいくつか過ぎると、いきなり目の前がぱっと開ける。一面に広がるのは、吹き晒しの荒れ野原だ。更にそこを抜ければ、黒々とした木々の生い茂る山道に入る。道は険しくも一本道。迷うことはない。


 やがて如月へ続く山道から外れ、臣は以前に紗那の亡命者より聞き出した獣道を辿った。このまま行けば国境が見えるはず。紗那軍が警備を担当している場所だ。

 とはいえ、それは数年前に聞いた話。


 適当な場所に馬を隠し、学者の衣を脱ぎ捨てる。その下に着込んでいた服は、彼が傭兵ようへいをしていた頃のものだ。


(こういうものを再び握る日が来るとはな…)


 薄く笑って、臣は隠し持ってきた一本の長剣を背負った。


 曲がりなりにも一国の跡目に仕える身。紗那の者に顔を見られるわけにはいかない。


 そこで臣は、えて真夜中を選んだ。


 運の良いことに、国境の警備は以前に聞いた情報とそっくり同じだった。

 二重に張り巡らされた高い柵の中には、聞いていたとおり何匹もの軍用犬が放たれている。更に目を凝らせば、柵に沿ってぽつぽつと松明の炎が揺れている。どうやら見張りの兵士が等間隔に配備されているようだ。


 一旦馬へ戻った臣は、脇に下げた麻袋から、道中で捕らえておいた二羽の野うさぎを取り出した。


「すまんが一役買ってくれ。貴殿らの武運長久ぶうんちょうきゅうを心より祈っている。死ぬなよ?」


 大仰おおぎょうに言ってにやりと笑うと、臣は柵の中にうさぎを放り込んだ。


 程なくして、犬は獲物に反応した。狭い柵の中を縦横に逃げ惑ううさぎを追って狂ったように駆け回っている。


 もうもうと立ち込める砂埃。

 ぎゃんぎゃんと絡み合ういくつもの犬吠けんばい


 そして、まったくこちらの計算どおり、異変に気付いた兵士らが迂闊うかつにも持ち場を離れてゆく――。


 その隙を見逃す手はない。軽やかに柵を飛び越え、臣は難なく紗那領内へと潜入した。


 国境から充分に距離を取った場所で辺りを窺い、所持していた松明に火をともす。すると、揺れる炎の中に静寂のもりがぼおっと姿を現した。


 銀鏡の集落は、このもう少し北のはずだ。


 時折、小さな獣の足音が足元を掠めてゆく。自らの気配を闇に忍ばせ、細心の注意を払いつつ臣はひたすらに歩を進めた。


 と――。


 目的の場所へ迫るほどに、ある独特な臭気が鼻を衝いた。数々の戦場に身を置いたことのある臣は、この異臭の正体を知っている。


 一歩また一歩と進むにつれ、鼻腔を抜ける不快さが激しい苛立ちを呼び起こしゆく…。


 やがて前方に、焼け落ちた集落跡がちらついた。


 不意に。


 ざ…ざざ…ざざざざ…ざざざ…ざ…。


 風に乗り、途切れ途切れに届いた音は、葉擦はずれとは明らかに別のものであった。


 むしろ、もっと別の――。


 何かが這い回るような――。


 ざ…ざざざざざ…ざざざざざざ。


 更なる気配は、獲物を争う獣たちの荒ぶる鼻息と唸り声。

 そして、乾いた葉を闇雲に散らす爪の音。


 ようやく視界が捉えたものは、そびえ立つ岩のような何かと、入り乱れる四つ足の黒い影が無数――。


 そこへ松明の灯が届こうかという手前で、臣は不意に歩みを止めた。実は、この時点でもう、目前で彼を待つ光景ものの見当は付いていた。


 胸が落ち着かぬ。

 ざわざわと腹の底が荒くれる。


 暫し何かを躊躇ためらった後、臣はゆっくりと前方へ灯りを向けた。


 そして。


「!!!」


 堪らず目を背ける。

 愕然とした。分かっていても、どうしても凝視はできなかった。


 目前に立ちはだる黒いかたまり、それは――。


「何てこと…何て惨いことを…!!」


 松明を握る手が激しい憤りにぶるぶると震えた。


 臣の目にしたもの――それは、幾重にもうずたかく詰まれた数十人もの子どものしかばねであった――。


 ざざざざざ。

 ざざざざざざざざざ。

 ざざざざざざざざざざざざざ。


 無残に放置された遺体からだぬるむ風に煽られ、辺りに強烈な腐臭を漂わせていた。そのすべてに無数のうじがみっしりとたかり、もろく腐った皮膚を食い破っては、その内となり外となりをぞわぞわとうごめいている。

 更に、そのどす黒く変色した肉叢ししむらを野犬の群れが無心に漁っている。時折、餌をめぐるいさかいの声が静寂の森に響いて、狂喜の鼻息の上に重なった。


 ぐずり――。


 粘りのある嫌な音を立てて肉塊にくかいが崩れた。内部で蓄積されていたガスが、何かのはずみに外部へ放出されるのだ。すると、そこを狙って野犬らは、一層がつがつと鼻面を突き立てるのであった。


 戦慄わななく唇をぐっと噛みしめ、臣は子どもたちの元へ向かった。わざと乱暴に枯葉を踏み分け、感情的に剣を引き抜く。


 対して、剥き出しの敵意に気付いた獣らは一斉に向きを変え、低い唸りを上げ始める。


 思い切り松明を投げつけた刹那、獣たちは大地を蹴り、次々に襲いかかってきた…!


 剣聖牙けんせいが光焔こうえん――!!


 差し上げられた刀から、突如として天を突くような火柱が上がった!ごおっという轟音を噴きあげてうねるほむらは刀身を取り巻いて大きなとぐろを描き、臣の腕をまるまるその内側に抱き込んでいる。


 耿々(こうこう)と燃え盛る炎――それは、今の彼の心そのものだったのかもれない…。


「はああああッ!!」


 しかと剣を構え、群れの中心へ跳んだ。しゃにむに突進してくるてきの懐へ敢えて斬り込みながら、臣は夢中で神速の剣を振るった。目にも留まらぬ剣(さば)きに、紅の残像が幾つも幾つも尾を引いては消えてゆく。暗く沈む木々の狭間に、紅蓮ぐれんの閃光が激しく強く鮮やかに無数の太刀筋を焼き付ける。


 矢継やつぎ早に飛びかかる敵を臣の剣は確実に捉え、次々にむくろへと刻み続けた。炎の軌跡きせきが紡ぐ幻想に、まるでその身を踊らせるかの如く、身を翻せばその度に、いくつもの命が散ってゆく。怒りと悲しみとで我を忘れた彼の、華麗なる剣舞の前に!!


 やがて――。


 森は、再び暗闇と静けさを取り戻した。


「はっ…はあ…はあ…っ…はあっ……」


 大きく身を屈め目を見開いたまま、臣は肩で息をしていた。深い静寂の中に聞こえるのは、たった一つの激しい息遣いだけ――。


 うなだれた顔から、いくつもの雫が散る。

 これは汗か。それとも涙か。


 鮮血にまみれた足元には、無数の犬の死骸が転がっている。ふらふらと足を引き擦り、臣は子どもらの元へと歩み寄った。


 そして――。


「!!」


 見るに耐え得ぬ光景を前についにその手の剣を取り落とし、臣はがくりと膝を付いたのだった。


珠洲すず――!)


 胸の内で一人の少女の名を叫ぶ。ぐっと枯葉を握り締めると、その拳の上にまたいくつも雫が落ちた。


 遥か夜天から見下ろすは、冷たく冴えた月華ばかり。

 今宵、黒く沈む森の上に、深い悲しみが降り積もる…。


 かつては、子どもらの無邪気な笑い声が絶えなかったであろうこの場所。

 か弱き子らが、力強く生きたこの場所。


 それが今は…。


 もはや跡形さえもない…。


 やがてゆらりと立ち上がり、臣は遺体の山に火を放った。炎は勢い良く燃え上がり、高く焔の翼を広げ、天を焦がした。濛々(もうもう)と立ち上る煙が、聖なる夜天そらを白く覆う。


 振り上げた剣をその前へ突き刺し、臣は静かに祈るのだった。


 それはささやかな墓標の代わり。

 罪なき者たちへの精一杯の手向たむけ。


 病んだ時空ときのいたいけなる犠牲者たちよ。


 どうか今は安らかに天へ昇れ――。

 

 考え事をしながらぼんやりしていると、ようやくながら寝巻き姿の篠懸と、枕をぶら下げた氷見がやってきた。


 ところが――。


「お…臣…!」


 縁側に佇むその姿を見た途端、二人はぎくりと固まってしまった。


「おはようございます。いや、こんにちは――と申し上げるべきかな」

 ゆっくりと振り向いた臣はふっと口元を緩ませた。


 しかしそんな臣とは裏腹に、二人の少年の顔は一層おろおろと所在を失くし――。


「あ、あの…長らく待たせてしまって…。その…。つ、つまり寝坊した!すまぬ!!」


 潔く篠懸が頭を垂れると、続いて氷見も慌てて頭を下げた。


「それで…。お二人とも夕べはよく眠れたんですか?」


「うん…」

 氷見の頬が僅かに染まった。


「そうですか。それじゃあ勘弁するしかないな。でもその代わり、遊び時間を削ってきっちり二時間お勉強ですよ、二人とも。一分たりとも負かりません」


 ところがそう告げた本人は、篠懸に衣を着せ終えるとなぜか部屋から出て行ってしまった。


「……」

「……」


 何とはなしに、ぽつんと取り残された感の二人である。


 おずおずと見合わせた顔は、どちらの目も点になっている。

 てっきりこっぴどく叱られるものと思っていた。約束の時間に遅れてくるなど、宮では決して許されることではなかったからだ。


 それに――。


 上手く説明できないが、臣という男はどことなく飄々(ひょうひょう)淡々としていて、とっつきにくい雰囲気がある。


 思えば、昨日の山頂での一件の時もそうだった。


 あれだけ多くの怪物を前にしても、動揺も狼狽ろうばいも…まして、人が当たり前に感じるような恐怖でさえ、微塵みじんも覗かせはしなかった。

 冷静沈着――いや、そんな生半可なものじゃない。むしろ、何も感じていないような冷めた眼差しに平静どおりの声色。そして、あのいかにも堂々とした立ち振る舞いには、違和感さえ覚えたほどだ。


 だが、あの時の彼の姿が皆に安堵を与えたのも事実。


 そう――確かにあの時、誰もが彼を心から頼りに思った。同時に、彼というたったひとりの存在の特殊さに、あの場の誰もがそれとなく気付いていた。


 実は偽の学者だというが――一体彼は何者なのだろう?


 つと胸をよぎぎる数々の思いに戸惑いながら、とりあえず二人は卓に着いた。


「なんか…あんまり怒ってないみたいだな、臣」

 愁が用意してくれた練習帳を卓上に広げ、氷見は篠懸の耳元に囁いた。


「う、うん…。実は今まで臣とは話をする機会があまりなくて、勝手に私はもっと怖い先生かと思っていたのだけれど…」

「やっぱ愁の方が怖いよな」

「う、うん…」

「腹減ったな」

「うん…」


 ぽつぽつと話していると、やがて盆を手にした臣が戻ってきた。なぜか衣の袖がたすきで捲くり上げられている。


「二人とも、お腹が空いたでしょう?はい、どうぞっ」


 得意げに差し出された盆の上には、握り飯が二つと湯呑みが三つ乗せられている。


 二人はきょとんと顔を見合わせた。


「台所はもうお昼の支度を始めていたので、今はこれで我慢してくださいね」


「ねえ…。これ、ひょっとして臣が作ったの?」

 氷見は目を丸くした。


「私にだってこのぐらいのことはできるさ」


 襷を外して茶をすすりながら、涼しい顔で答えてくる。昨日山頂で垣間見た姿を思えば、まったく不似合いなことこの上ない。


「あははは!似合わねー!やめとけよ、そんなの!!」


 思わず氷見は吹き出した。篠懸も声を上げて大いに笑った。


「おまえね…。人の親切を笑うか、普通。文句を言うなら食うな」

 そう言う臣も笑っていた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「お加減はいかがですか、愁?」

 紫苑が微笑む。


「ありがとう。もう熱もすっかり下がりました。紫苑にも随分心配をかけてしまったようですね」


 上体を起こした愁の肩に堅海がそっと肩掛けを羽織らせた。


 だが、紫苑の隣――遊佐の表情がひどく険しい。遊佐はおもむろにあの紙の鳥を取り出し、愁の前へ差し置いた。


「これは…昨日の…?」


 遊佐は静かに頷いた。


「昨日、愁様の懐に入っていたものです。術者との繋がりを断ちましたから今はもうただの紙切れですが、私は敵を――篠懸様を狙うあの人物を、どうも見縊みくびっていたようです」

「どういうことです?」


 眉をひそめると、遊佐は深いため息をついた。


「皆さんがこちらにいらして以来ずっと、私は篠懸様にかけられた呪詛じゅそをひたすらに送り手に返し続けていました。それ自体はうまく運び、ある程度あちら側にも影響を与えることができたはずです。ですが、そうすることで、こちら側にも術者が付いているということが知れてしまった。

 そのため、あちらは攻め方を変えました。それがこの式神です。これはつまり、この屋敷の結界を離れたところであれば、如何様いかようにも攻撃が可能であるということ。これら式神は、術者の念によりあらゆる生き物に姿形を変えるわけですから、気付かぬうちに目前に…などということが今後起こらぬとも限らない。正直、彼女がこれほど多様な術を使うなどとは思ってはいませんでした。

 そして、最大の失態は、あなたの存在の大きさを敵に知られてしまったことです」


 そう言って遊佐は床に手をついた。


「私…ですか?」

「ええ…。あなたの懐にだけこれが忍んでいたのがその証拠。今の篠懸様の最大の弱点は愁様――あなたですから。あのままあなたがこれを屋敷に持ち込んでいたなら、恐らくは今頃――」

「私は…死んでいたわけですね…」

「はい…。もしも今このような形であなたを失えば、篠懸様のお心は別のものへと変わられる。きっとご自分を深く責めて、最後にはその身を持ち崩してしまわれます。それこそが敵の狙いだったろうと思うのです。

 山へ行けば何事か起こるであろうことは予測していましたが、まさかこれほどのことが起こるとは――。全て私の失態です。申し訳ありません」


 遊佐は深々と平伏した。


「そ、そんな…どうか顔をお上げください。皆、無事に戻れたのですから、もうそれで良いではありませんか。ですからどうか、遊佐様…」


 遊佐はおずおずと顔を上げて言った。


「時に愁様、『呪禁師じゅごんし』というものをご存知ですか?」

「呪禁師――。遠い昔に存在したという宮廷呪術師のことですか?」


 だが宮廷呪術師は、その昔紗那と楼蘭が分裂し、仮初かりそめの友好関係を築いた頃に役を追われたはずだ。


「ええ…。此度の式神の術、道教の流れを汲んでいます。つまりは、かつて紗那と楼蘭がまだ一つの国であった頃の、呪禁師の家系の者のようなのです」

「以前遊佐様は、依頼者は楼蘭の者で、術者は紗那の者だ――と仰いましたよね?」

「はい…。確かに彼女は紗那の者には違いありませんが、今は楼蘭に住み、宮にも自在に出入りしているようです」


  二人はその場に凍りついた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 熱心に文字を綴りながら、なぜか氷見は時折顔を上げて臣を見る。隣には、せっせと与えられた計算問題をこなす篠懸。


 そして、目の前で卓を挟んだ臣はと言えば、静かに読書に耽っている――。


(不思議だな…。こうしていたらただの先生にしか見えないのにな)


 氷見は昨日の山頂での出来事を思い出していた。


 あの鋭く鮮やかない剣(さば)き。

 力強くも神秘的な技のみょう――。


 大体臣は、見てくれからしてぜんぜん武人のそれではないのだ。すらりと細くて、むしろ華奢きゃしゃすぎるほどの身体に、傷一つない綺麗な顔。柔らかな栗色の髪。

 どれをとっても、まるで戦いの世界からは無縁の人間。


(そうだ、あの技…)


 あれだけを見ても普通の剣客とは思えない。あれほどの腕を持ちながら、なぜ学者などという仕事に従事しているのだろう?


 そんなことを考えながらまた帳面から目を離した途端、なんと臣本人とぴたりと目が合ってしまった。


「集中しろ」

 臣がこちらを睨んでいる。


 慌てて顔を伏せ、せっせと鉛筆を動かす…が…。


 つい気になってまた顔を上げると、今度はこちらを見もせずに臣は言った。


「さっきから一体何だ、氷見。何か用か?」

「ん…ええと…。あのさ、あれ…どうやってるの?」


「『あれ』とは?」

 ようやく臣は本を閉じ、顔を上げて氷見を見た。


「うん、あのさ…。あの飛燕ひえんってやつ」

 氷見は、照れ臭そうに身をよじった。


「はあ?まったく…何を言い出すかと思えば」


 さもうんざりとばかり、臣は大きなため息をついたが――。


「私も知りたいな」


 困ったことに篠懸まで筆を置いてしまったのである。


「また篠懸様まで…。あのですね、あれはそんなに簡単にできるものでもないし、口で説明しろと言われてもうまく言えません。何と言うか…感覚のものですから」


「ねえ、言えないならもっかいやって見せて」


 氷見が瞳を輝かせると、同調した篠懸もうんうんと合いの手を打った。


「あなたちねえ…」

 大袈裟おおげさに肩を竦めた後、臣はしっかりと二人を見据えた。


「いい機会ですからお二人にしっかりと申し上げておきますが、私が剣を振るっただなんて絶対に他言しないでくださいね!蘇芳帝から直々に止められているんですから!大体宮の皇子付きが、実はただの戦争屋でした――なんてこと、万が一にも内裏で噂になどなったら…。いや、それ以上に他国に知られたら、大変なことになってしまいますから!いいですねっ!?」


「うん!じゃあ誰にも言わないから、もっかいだけやって?」


 したり顔の氷見が食い下がる。


 しまった――と思ったがもう遅い。まんまと氷見の手に乗せられてしまったのを悟る。


「おまえ…。まさか私を脅迫する気か?」


 柄にもなく、臣はうろたえていた。


「篠懸の御許にも遊佐の女中にも、紗那に帰ってからも絶ッ対に誰にも言わないから、もう一回だけやって??」


 にんまりと細められる瞳。


「やって、やって!」


 無邪気に氷見を真似てくる篠懸にも怯む。


「ねえ、やって、やって!見たいよ、俺。もっかい見たいっ」

「私もっ」


 放っておけば、いつまでも言いそうだ。


「ねえ、一生のお願いっ」

「一回でいいからお願いっ」


 なかなかしつこい。


 そうして臣は、ついに二度目のため息をつくのであった。


「…ったく。本当に一回でいいんだな?」


「うんっ!!」

 満面笑顔の二人は、すこぶる上等な返事を聞かせた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「実は使うものは何でもいいんです。剣や刀でなくてもね。そう…振りやすいものなら…」


 と、手元に転がっている鉛筆をおもむろに取り、


「別にこれでもできますよ」

 頬杖をついた臣は、摘んだ鉛筆の先をふらふらと動かして見せた。


「でもさ、そんなのじゃあの紫苑の刀みたいに壊れちゃうんじゃないか?」


 小さく頷いて、臣はにっと口の端を吊り上げた。


「いい質問だ、氷見。しかしそれは、力の加減の問題だな」


 三人は、縁側に並んで腰掛けた。


「裂空斬・飛燕――という技は、見た目は派手に感じるかもしれませんが、理屈は至極単純です。自らの気を飛ばして敵を断つ、ただそれだけ。

 でも、昨日は遠くに大勢の敵がいたでしょう?つまりあの時は、通常の飛燕に加えて、遠くまで気を飛ばす力や広範囲の敵に衝撃を与える力なども必要だったわけです。

 もちろん、あれを遠くへ飛ばしたり、狙った的に当てたりするのは本人の腕の問題ですが、飛燕そのものは実際の刃を当てる技ではないので、あれだけ巨大な刃を必要とするなら、大量の気をじっくりと時間をかけて溜めねばなりません。それに、あの時のように相手が動く標的であるならば、目標の速度と動き、そしてその間合いや放つ角度なども考慮しつつ、もっとも適した瞬間や位置を選ばなければならない。撃ったはいいが掠りもしない――というのでは、話にならないでしょう?

 昨日もあの刃の大きさならあれでぎりぎりの間合いです。あれより早くても遅くても、きっと全然当たらなかったと思いますよ」


「臣…。『気』というのは何だ?」


 篠懸が首を傾げる。


「うーん。なかなかうまく言えませんがね…。何かを成そうとする時の気合や気迫――というのに割と近いですかね。いや、むしろ身体や心を動かす原動力とでも言いましょうか。

 つまるところそれは、普段は目に見えない内なる力でしかないのです。でも、それを一部とはいえ体外へ飛ばしてしまうわけですから、撃てば多かれ少なかれ体力を消耗します。ですからあまり多用はできないんです。私も駆け出しの頃に一度それで失敗しています」


 臣は苦笑した。


「どういうこと?何があったの??」


 興味を剥き出しにした氷見が、ぐっと身を乗り出した。


「使いすぎて敵地の真ん中で立てなくなった」

「な、何で臣、生きてるの!?」

「仕方がないので、ずっと物陰に這いつくばって隠れていた」


 二人は声を上げて笑った。


「何やら難しいものなのだな」

 眉間を寄せた篠懸が顔をしかめた。


「だから初めにそう申し上げたでしょう?で、やり方はですね…」


 臣は、指先で摘んだ鉛筆をちょうど二人の目の高さで水平に構えた。


「まず得物をしっかりと構え、その上に気を乗せるような感じで集中します。体の芯からこみ上げるものを感じたら、それを形として思い描くようにするといいですね」


 昨日と同じ白光の糸がふわりと立ち上がり、少年たちの胸はわくわくと踊った。


「そのまま集中し続けて、ある程度が溜まったら、目標へ向けて一気に…」


 大きく息を吸い込み…。


「放つ!!」


 さっと鉛筆をぐと、放たれた小さな気は、真っ直ぐ庭の中央へ飛び立った――と思った瞬間、滑走するツバメのように向きを変え、片隅でひっそりと咲いていた梅の花を一つだけ弾いた。


「うわあー!」

「すっげええー!!」


 二人が歓声を上げる。

 ふと、篠懸はまじまじと臣の手に残る鉛筆を眺めた。


「壊れなかったな…鉛筆」


「あの程度なら大丈夫」

 にっこりと笑う臣。


「でも、力加減を誤ると…」


 再び臣は気を溜め始めた。しかし、今度は先ほどのような小さなものではない。鉛筆全体が白いうねりに包まれている。


 臣はもう一度光を放った。


 びゅっとくうを裂いた飛燕は同じようにまた途中で向きを変えたが、今度は篠懸の腕ほどもある梅の木の枝をばっさりと落としてしまったのである!


 そして――。


 息を呑む二人の前に差し出された鉛筆は、パキン!と乾いた音を立てて、粉々に砕けてしまったのだった。


「!!」


「ね――?このように、与える力が大き過ぎると得物自体が壊れてしまうんです。相手だけではなく、撃った本人と使った得物――そのどちらともに大きな負担がかかる危険な技とも言えますね。

 く言う私も、飛燕を撃つなど本当に久し振りで…。恥ずかしながら昨日は加減を誤ってしまいました。威力も若干弱かったようですし、速度の方ももう一つといったところ。我ながらよくもここまで腕を鈍らせたものです」


 臣は苦く笑った。


(腕が鈍ったって、あれで…?嘘だろ!?)

 氷見は目を丸くした。


「はいっ。では、飛燕の話はこれにておしまい!お粗末さまでしたー」

 臣はぺこりと頭を下げた。


「すごい!すごーいっ!!」


 盛大に手を叩いて子どもらは大いにはしゃいだ。


 が――。


「ああ…。お世話になっているお屋敷の庭木をこんなにしてしまって…。どうなさるんです、これ?」


 どっかりと組んだ胡坐あぐらの上に頬杖をつき、堅海はこれ見よがしのため息をついた。

 いつの間にか、隣の縁側から堅海と愁が覗いている。


「おまえたち、いつからそこにいたんだ?」


「最初からいましたが」

 しれっとうそぶく堅海の横で、愁がくすくすと笑った。


「か、片付ければいいんだろう、片付ければ…!」


 むっとして立ち上がると、横から氷見が顔を出した。


「俺が見せてって頼んだんだもん。俺がやるよ!」

「私もっ」


 嬉しそうにそう言うと、篠懸も氷見を追って駆けていった。


 やがて――。


「全部おまえのせいだぞ、堅海」


 子どもらの姿が見えなくなると、ぼそりと臣はそう呟いた。


「は?私ですか?」

 きょとんとした顔が振り向く。


「あのなあ、私がかつて傭兵だったというのは、表向きには伏せてある話だ。陛下からも決して他言無きようにと固く仰せつかっている。それなのにおまえは皆の前でべらべらと…。お陰でこのざまだ。今のだってもう一度見せろと、それはしつこく強請ねだられたんだぞ?」


「はは…。あははは!」

 それまで俯いて堪えていた愁も、これにはつい吹き出してしまった。目尻には涙がうっすらと浮かんでいる。


「ずっと臣を誤解していたかもしれませんね、私は」


 それとなく愁は涙を袖で拭った。


「誤解…?」

「だってあなた、いつも会議で他のかたと喧嘩ばかりなさるじゃないですか。随分手厳しい方だなって――私なんか、ちょっと怖いぐらいに思ってましたよ」


 まだ愁は肩を震わせている。


「人は見かけにらないとか言いますしね」


 堅海の言葉に、臣はまたうんざりと肩を竦めた。


「またおまえは…。どういう意味だ、それは。私がどんな見かけだと言うんだ?」


「いえ、別に。でも愁の言うことは分かります」


 堅海は声を落とした。


「私の知っていたあなたと、今のあなたはどうやら別人だ…」


 短いため息をついて顔を上げると、堅海は素直な気持ちで真っ直ぐに臣を見据えた。


「あの時あなたは、私の目の前で友を斬った」


「か、堅海…!」

 慌てていさめようとした愁だったが、もはや堅海は言葉を止めようとはしなかった。


 臣はじっと耳を傾けている。


「覚えておいでかどうかは分からないが…。あの百雲もくもの南側にある小さな集落でのことです。当時、私は補給部隊にいました。まだ二十一になったばかり。ほんの駆け出しの頃です。あなたは既に紗那軍の間では有名人でしたよ。賊軍ぞくぐんがとんでもない化け物を飼っている――とね。

 そんなある日、そこに突然一人で現れたあなたは、姿を見せるなりいきなり彼を斬り捨てた。この私の目の前でね…ほんの一瞬の出来事でした。

 その僅か半年後、水紅様の皇子付きであなたが楼蘭に来られたときは、本当に複雑な気持ちでした。憎いというより悔しかった。あの時、友を斬った敵を前に、恐怖に駆られて動けなかった悔恨かいこんの念。そして、今、目の前にいる仇に手が届かないという現実。友の無念を晴らすことも、あなたを許すこともできない自分…。そのどれもが本当に悔しくて仕方がなかった…」


 すると――。


「そうか、あの時の…。斬った楼蘭兵の後ろで震えながら槍を構えていた若者――あれが堅海だったか…。残念ながらしっかり覚えているよ」


 臣は僅かに頬を微笑ませた。


「あの時、恐怖に駆られたのは何もおまえだけじゃないさ」

「……?」

「あの時はこちらが退いたんだ。おまえ、やはり見えていなかったんだな」


「どういうことです?」


 言っていることがまったく分からない。

 正直、あの時のことは何も覚えてはいないのだ。


「あの時な…。槍を構えるおまえの足元を、なぜか赤ん坊が這っていた。こちらは散々人を斬った後で、体中に返り血を浴びている。おまえはと言えば、正気を失ったかのようにぶるぶると震えていて…それはものすごい形相をしていた。でも――足元の赤ん坊は、そんな我らの間でなぜか楽しそうに笑っているんだ。

 おまえの様子がおかしいのにはすぐに気付いた。放っておけばその勢いで目の前の赤ん坊まで斬ってしまいかねなかった。そして…昨日も少し話したが、あの頃はちょうど私も荒れていた時期でな、他人はおろか自分の命の重さすら分からない状態だったのだが――。どういうわけかあの赤ん坊を見た途端、そこに命の重みというものを感じてしまった。おまえがいつその槍を振り下ろすかと思うと気が気じゃなかったよ。この子を救わねばと…守らねばならないと――あの時、なぜか強くそう思ったんだ。そしてそれに気付いてしまったら、もう…。大勢の人の血に染まった自分自身が恐ろしくて仕方がなかった。どれだけの命を奪ったか分からない我が身が、とてつもなくおぞましく思えた。本当に怖かった。剣を持つ手が震えたよ…」


 深いため息を交え、臣は言葉を続ける。


「気付いた時には、私は赤ん坊を抱いて逃げ出していた。敵前で背を向けるなど、それまで考えたこともなかったがな」


 ついに堅海はがくりと手をついた。緊張が一気に解けた――そんな気分だった。


「そ、そう…だったんですか…」

 ほっとした。肩の荷が急に軽くなっていく気がした。


「あの子が私を引き戻してくれた。あのまま修羅しゅらに身を置き続けていたなら、それこそ私は…。今頃は、本当の化け物に成り下がっていたかもな。理性も感情も…人らしい心はおよそ失くして、ただ人を斬り殺すだけの化け物に。今、私がこうしていられるのは彼女のお陰だ。心からそう思う」


 いつの間にか戻って来た氷見と篠懸が、神妙な顔で俯いている。


 小さく笑って臣は二人の頭に手を置いた。


「氷見。おまえに話がある。後で私の部屋に来い。いいな?」

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「良い話と悪い話があるんだ、多分」


「多分?」

 氷見はきょとんと首を傾げた。


「ああ。ひょっとすると悪い話ばかりなのかもしれんが…」


 臣の顔色は冴えない。


「一体何なんだよ?そっちが呼んだんだろ?」


 やおらに臣は立ち上がり、開け放ってあった庭の障子をそっと閉めた。


「先日な…紗那の皇子と姫皇子が黄蓮の内裏へお越しになった。その時に、ちらっと見掛けたんだがな…」


 胸が、どくんと大きな音を立てて震えた。


「あいつ…夜叉な、生きてるぞ。おまえの相棒だろう?」


 息が止まりそうだった。声も出なかった。


(雲英…。雲英が…生きて――)

 目の周りがじんわりと熱くなった。


「但し…だ」


 臣は氷見の瞳をじっと見つめた。


「紗那の軍服を着ていた。皇子の護衛の中にいたんだ」


「え…?」

 血の気が引いた。


 なぜ…?


 なぜ雲英が紗那軍に?

 俺たちをひどい目に合わせた、あの紗那軍に…?


「個人的な情報筋があってな、かの国の情報は多少なら持っている。何度かおまえたちの噂も聞いたし写真も見たことがあるが、やはりあれは夜叉だったろうと思う。髪も赤かったしな」


 嬉しいのになぜか不安でたまらない…。


 雲英。

 おまえは一体何を――。


 顔を両手で覆い、氷見は愕然とうなだれてしまった。


 だが、ふと思い立って顔を上げ、


「あの、一緒に女の子はいなかったか!?そう…篠懸みたいな髪の色をしてて、背はもう少し高くて…」

「いや、残念だが彼だけだ」

「そっか…」


 そう呟いたきり、氷見は暫し何事かを考え込んでいるようだった。


 と――。


「な…んだ。じゃあ…やっぱ姉ちゃんも生きてるんだな…」


 ほろりと憂いが解ける。


「何だ?姉上??」


 頷いた頬はまだ少し涙で濡れていたが、臣を見る顔つきには何か確信めいたものが宿り始めたようだった。


「夜叉――あいつ、雲英って言うんだけどさ。雲英って奴は、いつだって姉ちゃんの…李燐のことしか頭にないんだ。李燐のためなら何でもするんだよ。他の事は何にもしないくせにな」


 濡れた顔をごしごしと拭い、ようやく見せた笑顔には希望めいたものさえ見えた。


「李燐の前であいつが負けるはずなんてない。俺たちをめるほど賢くもない――となると、姉ちゃんはきっとあいつらに…!」


 氷見は拳を握り締めた。


「囚われの身ということか…」


 しっかと頷くその拍子、拭ったばかりの頬の上をまた一筋の雫が滑っていった。


「あともう一つ。今度は悪い話の方だが…聞くか?」


 差し出された手拭を受け取り、氷見はぎゅっと瞼を押さえた。


「ここへ来る前に、所用で紗那に立ち寄った。銀鏡の様子も見てきたが――」


 そこまでで臣は黙りこんでしまった。その先を口にするのを躊躇ためらっているのだ。


 障子越しに木々が風に揺れる。それ以外の音などない。ひどく重い沈黙だけが、ひっそりとそこを支配していた…。


 氷見はじっと臣を見ている。


 ただ真っ直ぐに。

 ひたすらに。


「俺は大丈夫だよ、臣。言ってよ」


 ようやく意を決し、臣は頑なに自分へ注がれている瞳の奥を覗いた。


 そこに強さは宿っているか。

 彼の心は震えてはいないか。


 いや、臆病なのは、むしろ自分か…。


「里は壊滅的だ。焼き尽くされて跡形もない。だが…おまえの仲間の遺体は、そのままそこに放置されていた。その身は腐敗し、無残に獣に喰い荒らされたままで…な」

「……」


 ぐっと眉を結び、氷見は握り締めた自らの拳を睨んでいた。涙をこぼすまいと耐える肩が小刻みに揺れている。悔しい気持ち。悲しい気持ち――そのすべてを力尽ちからずくで噛み殺し、氷見は気丈に自分自身を保とうとしている。


 静かに立ち上がり、臣は改めて氷見の傍に膝を付いた。


「我慢などすることはない。おまえ、まだ十五だろう?自分を殺すな。いいんだ、泣いても。辛さを押し込めるな」


 肩を抱き寄せてやると、せきを切ったように涙があふれた。


 氷見は声を殺して泣きじゃくった。しゃくりあげた嗚咽おえつが、臣の胸から小さく漏れる。


「おまえたち銀鏡の鬼には、実は私も返しきれないほどの恩がある。目にした者はすべて火葬し、弔ってきた。こんなことしかしてやれずに…すまんな」


 臣の胸に顔を埋めたまま、氷見は何度も首を振った。


「ううん…。ありがと、臣…。ほんと…ありがとう」


 涙でくぐもった声が掠れている。


「俺たち…いっつもそうだ。人間じゃないって言うんだ。みんな、要らないって…要らない命だって…そう言うんだ。弔ってくれる人なんていないんだよ…。喜んでるよ、みんな…。きっと――」


 やりきれなかった。

 子どもの口から聞くような言葉じゃない。そう思った。


 要らない命――?そんなものがあるはずもない。どれも、いつ幸せになってもいいはずの命だ。


 それを彼らは…。


「さっき話した赤ん坊な…。おまえたちに託したんだ。おまえたちの集落の近くに置いてきた。銀鏡の子どもたちが彼女を連れて行くのを見た。あの子が今どうしているのか。あの遺体の中にその成長した姿があったのか。それは分からない。何をしてやれるでもない私が知る必要もない。だが、感謝はしている。彼女にもおまえたちにも」

「名前…。名前とか分からないの…?」

「いいんだ、もう…」


 臣はふっと笑った。ひどく寂しそうな横顔だった。


「生きていれば六つか七つ。信じるさ…。それでいい」

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「そんな…!おまえ、そんなこと!!ならば篠懸様は…。あの方をどうするつもりだ!?」


 堅海は拳を震わせた。


「だからこうして頭を下げている。身勝手と言われればそれまでだが…」

「やめろ、愁!皆、無事に戻った、それで良いと言ったのはおまえだろう!?」


「すまない」


 愁は床に手をつき、深々と頭を下げた。


「やめろと言うんだ!!」

 やり切れぬ思いに胸を掴む。


 それでも、愁は…。


「あれほどおまえに、もしも何かあったらと釘を刺されていたのに、忠告を無視して出掛け、事が起こった。無事かどうかなど問題じゃないさ。万が一の場合の責は私一人がが負うと…あの時もそう言ったろう?」

「だが、ここでおまえがいなくなればあの方は…!!それに、そんなことを上に申し上げて、ただで済むとも思えん!それこそ、おまえ――」

「それもむを得んな」


「愁!!」

 堅海は更に声を荒げる。


 いたたまれず、愁は目を背けた。

 いつにも増して一本気な姿が嬉しかった。やはり堅海は――彼だけは、もっともかけがえのない友なのだと心から思う。その友に、いつも心配ばかりをかけている自分。


 だが、それもこれが最後かもしれない――。


「昨日の朝だって篠懸様や氷見に、勝手な行動は慎めと偉そうに説教をしたばかりだ。それを反故ほごにするわけにもいかん。これで教師だからな、私も。後のことはおまえに任せる。篠懸様を頼む」

「なぜだ!!なぜそういつも一人で決めてしまう!?なぜ全部一人で背負おうとするんだ!なぜ…どうしてそうも頑ななんだ、おまえは!!」

「いつも迷惑ばかりですまんな…」


 切なさがこみ上げる。これほど自分は恵まれていたのかと改めて思う。


 堅海の――今生無二こんじょうむにの友である堅海の、真っ直ぐな心が胸に痛い…。


「……」

 やがて胸を掴んだ手を離し、堅海は糸が切れたようにへたり込んでしまった。堅海は、あまりに無力なおのれを責めていた。


 日々これほど傍にいながら、友一人も救ってやれない…そんな己を。

 腹心を引き留める言葉の一つも持たない自分を――。


 その時、不意に襖が開く。


「大きな声で…。廊下にまでまる聞こえだ」


 現れたのは臣であった。


「臣…。あなたが都へ戻るときに、私もご一緒して構いませんか?」

「こちらは別に構わんが」


 事務的に答えて、臣は庭側の障子の柱に背を預けた。


 再び愁は堅海の正面に向き直った。


「堅海、もう一つだけ私の我侭わがままを聞いてくれないか…?このことを篠懸様に話せば、またきっと深く悲しまれる。おまえが許してくれるなら、私はあの方に黙ってここを発ちたいと思う。どの道、辛い思いをさせてしまうことに変わりはないが、後のことはどうか…」


「……」

 もはや堅海は何も答えなかった。


 うなだれた表情は窺い知れない。

 だが、きっと――。


 臣はため息をついた。


「随分と勝手な話だな。だがもう手遅れだ、愁」


 言うや否や、臣は勢いよく庭の障子を開け放った。


 そう、そこには。


「しゅ…う…」


 あろうことか、庭には篠懸本人がいたのである。

 見開かれた瞳からは止め処なく涙が流れ、縁側に付いた小さな手には、いくつもの雫がこぼれている。


 堪らず愁は駆け寄った。


「皇子様…」

「私を…私を置いてどこへ行く、愁…!なぜだ?なぜ愁が…!!」


 我が身に縋る愛しい皇子の髪を、愁は何度も撫で続けた。


「私はあなたの身を任されております。そのあなたをみすみす危険にさらしておいて、何もないというわけには参りません」

「い…嫌だ…。嫌だっ!!どこへも行くな、愁!危険などなかった!何もなかったのだ!私は何も見てはいない!!」

「どうか…お聞き分けください、篠懸様」

「嫌だ!絶対に嫌だっ!許さんぞ、愁!!」


 耳を塞ぎ、感情的な声を上げる。その拍子に涙はまたぼろぼろとこぼれ、小さな肩はしゃくりあげて震えた。


 それでも、ついに――。


 後退あとずり、床に両の手をついた愁は、自らの仕える主人の前に深々と平伏したのであった。まさしくそれは、篠懸皇子付きたる愁の揺るぎない決意の形であった。


「い…や…嫌だ…。嫌だよ…愁…!嫌だあああっ!!」


 伏した背中に縋り付き、篠懸は更に大きな声で泣きじゃくった。日ごろあれほど大人びた彼が、人目も省みず明け透けに取り乱す様は、誰の目にも痛い。


「何もなかったよ…ほんとだよ。ほんとなんだよ…ねえ、愁…」


 何度も肩を揺すりながら、うわごとのように繰り返す。


 伏せた愁もまた唇を噛み締め、懸命にこぼれ落ちるものを耐えていた。


 が。


「ええ、仰るとおり!何もありませんでしたよね、篠懸様」

 やおらに腕を組み、臣はいつもの涼しい顔で平然と言い放った。


「……」

 すっかり涙でぐしゃぐしゃになった顔が臣をあおぐ。


「臣殿…」

 ようやく堅海も顔を上げた。


「まったく皆、大袈裟な…。こちとら日ごろの運動不足が解消できたと密かに喜んでいるぐらいだ。それに、この私が力を貸して万が一などということがあるはずもない。このとおり皆無事だ。誰も掠り傷ひとつない。他に何が要ると言うんだ?」


 臣は、さも不愉快だとばかりに鼻を鳴らした。


「少々何かが起きたからといってそれが何だ?尋ねられもしないのに、何もかも馬鹿正直に上へ報告する必要もない。それでいちいち首が飛ぶと言われたら、私などうの昔に死んでいる。

 大体おまえたち、ここへ何をしに来た?篠懸様の療養に来たんだろうが!こうも毎日篠懸様を泣かせて何が癒やせるものか、馬鹿者が!!」


 固く口を結んだ愁は、膝の上の拳を睨み続けている。


「もうこれ以上このかたを泣かすなと言っているんだ、愁!誰も望まぬことに、何を意固地いこじになる必要がある!」


 苛立たしげにそう言うと、臣はじっと愁を見据えた。言葉の方は相変わらずきついが、込められた思いは皆と同じだ。


 すると――。


「もう…かなわないな。みんな強情で…」

 愁は肩を竦めた。こみ上げたものを取られぬよう気丈に笑顔を作る。


「おまえに言えた義理か」

 腕を組み直した臣が呟いて笑う。


 安堵あんどうるむ胸で、今一度愁は愛する皇子を力いっぱい抱きしめた。細く小さな体から彼をいましめていた悲しみが嘘のように消えてゆく…。


 素直に身を預け、篠懸は静かに瞳を閉じた。


「愁…」


 囁かれた声は、深い安らぎに満ちている。


「何もありませんでしたよね…」


 抱いた手に力を込めると、まだ涙顔の篠懸は幸せそうに微笑んでいた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 冴え冴えとしたしろがねの月が、空のてっぺんに浮いている。


 物音を立てないように注意を払い、紫苑はそっと屋敷を出た。

 向かう先は、ここから少し離れた小高い丘。その丘から突き出た岩の上がいつもの場所だ。


 足元の草叢くさむらに濃い影を落とし、紫苑は静かに歩いていった。


 丘の上には大きな桜の木がそびえている。精一杯両手を広げても、幹の半分も抱けない。そんな山桜の老木だ。遅咲きの白い花は今少しずつ散り始め、丘一面を花吹雪がさらさらと舞っている。


 ふと見ると、その根元に臣がいた。


 月を臨みながら、まるで月明かりを避けるように。

 そして巨木の黒い影にその身を深く潜めるように。


 舞い散る吹雪に見え隠れする静逸せいいつな姿は、なぜか妙にはかなく、昼間の彼の精悍せいかんさや明るさは、すっかりなりを潜めて…。


「……」

 なぜか急に心細い気持ちに囚われ、紫苑は瞬きも忘れて立ち尽くすのだった。


 閉じられていた瞼がゆっくりと開き、穏やかな眼差しがぼんやりと紫苑を見た。鋭さも厳しさもない深い瞳だった。


「お邪魔かな?」


 問われて紫苑は小さく横に首を振った。


「いえ、臣様こそ…。紫苑がここにいても構いませんか?」

「ああ、構わんさ」


 臣は口の端で笑った。


「あの…」


 声を掛けたはいいが、次の言葉が出てこない。


 ただ――。


 本当に不思議な人だと思った。

 あれほど強く気丈な中に、今、目の前にあるこの静けさ。まるで舞い散る花びらと一緒にどこかへ消えてしまいそうな気さえした。


 これは寂しさ?

 それとも孤独…?


 紫苑はしょんぼりと俯いた。


「どうした?」


 恐る恐る顔を上げる。


「いえ…。あの…なぜそんなにお寂しそうなのかな…って…」


 つい口をついたのは、ひどく不躾ぶしつけな質問だ。


 それを尋ねてどうしようというのか――。


「あ…。いえ…すみません。何でもないんです…ごめんなさい」


 臆する紫苑に臣はくすりと笑った。


「そう見えるか?」

「え…あの…。は…い」


 紫苑の視線が再び足元に落ちる。


「月明かりが嫌いでな…」


 不意に臣は月を見上げた。


「あの下にいると、まるで自分の胸の中まで照らされる気がする。罪に濡れた我が身と、狡猾こうかつな生き様――そのすべてを裁かれるような気になる。堪らないんだ。自分のすべてが許せなくなってしまう」


 彼の罪と狡猾な生き方――。


 紫苑には、その言葉の意味がよく分からなかった。けれども、彼の胸にんでいるのは、やはり孤独だ――そう感じた。


「こうしていると昔のことを思い出す。あの頃もやはりこうして…。物陰からいつも月ばかり眺めていた。何も語らず、ただじっと…。そこにあの方さえあれば、私はそれだけで…」


 不意にぴたりと口をつぐみ、臣は自らをごまかすように髪を掻きあげた。


「お喋りが過ぎた」


 寂しげな横顔が呟く。


 返す言葉もなく、紫苑はただ曖昧あいまいな微笑を浮かべるのだった。


 と――。


「ときに紫苑。おまえ、妙な術を使うな?」


 口調は、既に普段の彼に戻っている。


「え…と…。術…ですか?」

 紫苑は首を傾げた。


 いぶかむ眼差しが、真っ直ぐに紫苑を貫いている。


「あの時、足元から刀を抜いたな?」


 たちまち紫苑はびくりと凍りついた。誰にも見られていないはずだった。


 いや、本当は――。


「あの…。は、はい…」


 できることなら、こんな自分は誰にも知られたくないと思っていた…。


「何だ、歯切れが悪いな。今更だが見てはならぬものだったのか?」

「……」


 にわかにうろたえ、困惑の色を浮かべ――。しかし、紫苑は急に神妙な顔になって向き直った。


「臣様、ごめんなさい。あの刀――あの時壊れてしまったあの刀、あれは紫苑の責任なんです!」


 紫苑は深々と頭を下げた。


「何?どういうことだ?」

「刀を抜くの、嫌なんです…本当は。でもあの日は、遊佐様がそうするように、と――必要と思ったら迷わず力を使うようにと、そう仰って…。

 でもあの時、紫苑はやっぱり抜くのを迷ったんです。それであのように…。なぜか紫苑は生まれたときからずっとこういうことができるんです。誰に習ったわけでもありません。ですから、術…とかそういうのではないと思います」


 紫苑は膝を付き、指先で、とん!と足元の地面をを叩いた。すると、見る間に土は液状に溶け、そこからあの奇妙な刀のつかの部分が、すっとり出したのである。


「!!」


 柄を一気に引き抜くと、現れたのはまさしくあの刀。


 独特な形状。

 剥き出しの鋼の柄。

 どこもそっくり同じだ。間違いない。


 そして刀身とうしんが離れた途端、液化していた地面ははすぐにもとの土の状態に戻った――。


 それは、臣が昨日山頂で目撃した光景そのものだった。

 そう…あの時も、武器を求めた氷見に、紫苑は密かに地面から刀を抜いて差し出したのである。

 だが紫苑の考えるとおり、他の者はきっと目にしてはいない。皆、怪鳥に気を取られていたからだ。


「術でないとしたら、おまえ――。紫苑、おまえは一体何者だ?」


 突き立てられる眼光の前に成す術もなく、紫苑はおろおろと目を泳がせる。


 ここで正体を打ち明けてしまって良いものだろうか?

 彼は愁のようにこんな自分を受け入れてくれるだろうか…?


「あの…」

 結局言葉に詰まり、紫苑はまた俯いてしまった。


「おどおどせずにはっきり物を言え!まったく、むつみみたいな奴だな!」


 臣は短いため息をついた。


「では、別なことを尋ねよう。他にも何か出せるのか?いやそれよりも、なぜ刀を抜くの嫌う。あのような芸当、そう誰にでもできるものではないぞ?」


「他の物は出せません。刀だけ…。でも…だから怖いんです。人を傷つけるものだけを造り出し、それこそ、どこにいてもそれを手にすることのできるこの能力を使うのが。なぜこんなこと!こんな力、要らない…!!」


 感情的に吐き捨てると、紫苑は両手で顔を覆った。小さな肩が震えている。


「ふむ…。なるほどな…」


 投げ捨てられた刀を手に取り、臣はその隅々(すみずみ)をまじまじと眺めた。


(妙な刃の形状。無骨な刀身。剥き出しの柄…。一見、形はそっくり同じようだが…)


 立ち上がり、振り上げる。頭上から直下へぎ下ろしてみると、手前に突き出していた桜の枝が、ばさりと音を立てて落ちた。


(いや、この感触――あの時のものと若干違うな。硬度が上がっているのか…?)


 にわかに眉を寄せた臣は、紫苑の傍に片膝を付くや否や、その顔を覆っていた手を無理矢理に引き剥がした。


「…っ!!」


 言葉はない――。


 ぎくりと表情を凍らせ、紫苑は瞳を激しく戦慄わななかせた。


 暫し無言のまま二人はじっと見つめ合っていた。臣の眼はその奥に一層の鋭さを孕み、怯える紫苑を否応もなくすくませる。


「……」


 何もかもが彼の手の内にあるように思え、もはや紫苑は声を出すことも叶わなかった。

 とてつもない恐怖と不安が胸をぎる。


(怖い――!!)


 思わず目を瞑り、紫苑は更にぎゅっと身を強張こわばらせた。


「生まれたときからできると言ったな…。おまえ…もしや人ではないのか?」


「あ…」

 紫苑は小さく声を漏らした。


(見破られた…!!)


 やがて掴まれた手が開放されると、同時に紫苑はがくりとへたり落ちた。

 こうなっては観念するほかはなかった…。


「臣様…。し、紫苑は…紫苑は実は、自動人形オートマタなんです…」


「自動人形!?」


 これにはさすがの臣も驚いたようだった。


 自動人形というものについてまるっきり知識のない臣ではないが、それでもまさかこのように生き生きとした――いやむしろ、彼女のように、まるで普通の人間と隔てのない自動人形など、見たことも聞いたこともなかったのである。


「ま…何にせよ、楼蘭のものではなさそうだな」


 低く呟いた後、臣はふっと眉を解いた。先刻の稜々(りょうりょう)たる迫力はすぐに消え去り、また元どおりの彼に戻る。


「……」


 孤影こえいを落としたかと思えば、不意に見せる朗らかな微笑み。飄逸ひょういつな一面を覗かせたかと思えば、突如として慧敏けいびんに冴える瞳。また、時に肌に突き刺さるような激しい凄気えいきを放ったかと思えば、すうっと穏静おんせいを取り戻すその声も――そんな臣の姿は、一層紫苑を戸惑わせるのであった。


 てっきり、もっと詰責きっせきされるものだとばかり思っていた――。


「あの…よく…分かりません…」


「性能がどうのという問題ではない。まるっきりおまえは人と同じだからな。紗那で見た自動人形とは天と地だ。愁や堅海は知っているのか、このことを?」


 紫苑は小さく頷いた。


「愁だけです。知っているのは」

「だろうな。他の者――まして篠懸様になど言えることではないな」


 ため息混じりに呟いて、臣は刀を紫苑の前へと差し戻した。


「あの…臣様は刀を握るとき、どんな気持ちになりますか?」

「ん…?刀を握る気持ちか…。どうだろうな。特には――と言うより、おまえ、何がきたいんだ?」


 涼しい顔が問う。


「あの…紫苑は――刀を手にすると何か…いつも胸の中がざわつくんです。落ち着かないと言うか、おかしな衝動が湧くと言うか…。ともすれば、そのまま自分自身を持っていかれそうな…そんな感じで。うまく言えないんですけど…」


 そこまで打ち明けると、紫苑は再び俯いてしまった。


「刀を握れば胸がざわざわと落ち着かない、か…。ま、分からんでもないが」


 不意に臣は立ち上がり、また月を見上げた。


 そこに覗いたのはあの孤独の横顔――。


「己が認めた宿敵と対峙たいじする時、あるいは…」


 臣はゆっくりと振り向いた。紫苑は瞬くことも忘れてその顔を見上げている。


 二人の視線がぴたりと重なったそのとき――。


「相手を殺したくて仕方がないとき――と、言ったところか。それならばそういうこともあるかもな」

「こ…殺したくて仕方がない……とき…」


 乾いた唇が恐怖に震える。


 そんな紫苑の傍らに膝をつき、臣は、そのまるで人と変わらぬ柔らかな髪をそっと撫でてやった。


「自動人形と言うが、それでも立派に人の心を持つおまえだ。そう気にすることもあるまい。嫌なら抜かねば良い」


 紫苑の胸で何かが音を立てて揺さぶられた。まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかった。


「臣様は…あまり驚かれないのですね…。紫苑のこと、怖くはないのですか?」

「馬鹿な。愁はおまえの正体を知って怯えたか?」


 ふっと笑って臣は立ち上がり、月灯りの下へ出て行った。紫苑もその後に続く。


 天心に浮かぶ月の鏡が眩しいほどに輝き、二人を煌々(こうこう)と照らしている。止め処なく注ぐ花弁と純白の月光――その中に佇む二つの影…。


「おまえに一つ教えよう。人はな…己の信じるものさえあればそれで良い。誰が何と言おうとな。おまえが人間でなく、人工の産物だとしても、おまえ自身が我が身をどう感じていようとも、私にとってそれは大した問題ではない。己が見て感じたもの、それが全て。それだけが真実に足る。

 私がおまえを人だと感じたなら、やはりおまえは人だよ、紫苑。隔てなどないさ。愁も同じ思いを抱いていると思うが」


 紫苑はこの時の臣の言葉にけるような救いを感じていた。悠久の残雪のようにずっと冷たく胸の中心にこごっていた不安が、じんわりと消えてゆくのが分かった…。


「己の見た真実を差し置いて、他人の言葉に踊るなど愚かな話だ。紗那の連中が氷見やその仲間たちをよく知りもしないまま鬼だ、人畜生にんちくしょうだとさげすむの同じさ。とても許されたことではない。見えるものを見ようとしない、認めたくないから認めない――それが弱者をしいたげる結果となるのなら、それは罪だろう?それのどこが人のすることだ。

 これでもな…一度は人の道を踏み外しそうになった私だ。だからこそ、もうあんなことは御免こうむる。私は、私が信じるに値すると思うものだけを信じる。それでいいんだ」


 紫苑は泣き出しそうな顔で微笑んでいた。また一人、自分を信じてくれる者があった――そう思うと本当に嬉しかった。


「おまえ、あの時遊佐様に言われたろう?何があっても愁を信じろ、と。どういうつもりでそう仰ったのかは知らんが、それでもおまえはその言葉に頷いたじゃないか。信じる気があるのならそうすれば良い。それでおまえはおまえのままでいられるんだろう?」


「は…はい!」

 紫苑はきっぱりと頷いた。微笑んだその顔はいつもの紫苑のものだった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 翌朝――。


「世話になった」

 身支度を終えた臣は玄関先で振り向いて頭を下げた。


「いえ、こちらこそ。道中お気を付けて」

「……」


 穏やかに微笑む愁の隣で、篠懸だけがひどく浮かない顔をしている。

 臣は、皇子の前にひざまずいた。


「兄君と宮でお待ち申し上げております」

「うん…。あ…そうだ。あの、臣…これ…」


 そう言って篠懸は、丁寧に折りたたまれた二枚の紙を差し出した。


「何です?」

「兄上と睦に便りを書いた。届けてくれるか?」

「水紅様と――睦…ですか?」

「うん。睦には大切な贈り物を貰った。嬉しかったんだ、本当に」


 篠懸は、懐の小袋から霰石アラゴナイトを差し出した。


「ほう…確かにこれは見事ですね。これだけの大きさにこの色合い――これほどの霰石はさすがにあまり見かけませんね」

「睦がな、大切な宝物を私にくれたんだ。お母上の形見だと聞いた…」


 石を握りしめた手に力がこもる。


「なるほど彼らしいですね。お手紙、確かにお預かりしました」


 不意に――。


 こみ上げるものを堪えられなくなったか、篠懸は土間へ降り立ち、臣の首にしがみついた。


「寂しくなるな…」

 臣の肩で、細い声がくぐもった。


 たった二日きりのことなのに、臣とともに過ごしたこの数日は、篠懸にとって不思議と何年分にも値するほど貴重なものとなっていた。無論それは臣にしても同じで、篠懸をはじめ愁、堅海、そして氷見や紫苑さえも――今では身内同様にかけがえのない存在へと変わり始めている。


「宮にお戻りになったらいつでも会えますよ」


 泣き出しそうな背中をなだめるように、そっと包み抱き締める。


 その時。


「お待たせしました、臣様」


 屋敷の裏手から一頭の馬を引いた久賀が現れた。氷見も一緒である。


「ああ。ご苦労だったな、久賀」


 臣はすらりと笑ったが――。


「う…馬!?あなた、学者のくせに馬なんかでここへお越しになったんですか!まさかその格好で!?」


 思わず口をついた堅海の声が完全に裏返っている…。


 驚くのも無理はない。

 楼蘭の宮廷学者と言えば、知性と教養そして品性の高さが売りである。馬をり野山をせる――そんな粗野な学者など聞いたことがない。


「悪いか?こんなに遠くへまで歩いてなど来れるものか」


「し、しかし、馬にまたがる宮廷学者など、見たことも聞いたことも…。まったく、有り得ない話だな…」


 頬を硬く引きらせ、堅海は心から絶句していた。

 だが、そこへあたかも畳みかけるかのように、今度は久賀が更に信じられない言葉を口にするのである。


「あの…臣様。ひょっとしてこの馬、水紅様の…竜華りゅうげ――ですよ…ね…」


「は!?」

 一同、ぎょっと目を剥いた。

 改めてよくよく眺めれば、しなやかで無駄のない体つき、くすみ一つない純白のそのいでたち――確かに第一皇子・水紅の愛馬だ。間違いない。


 雅馴がじゅん才賢さいけんを重んじる宮廷学者――その頂点ともいえる『皇子付き』。


 そんな崇高な役目に就きながら…。


 時期皇帝の第一側近であるはずの彼が…。


 あろうことか、おのが主人である水紅皇子ときのみこの愛馬を、まるで我が物顔に乗り回しているという――。


 居合わせた眼が一つ残らず点と化している。開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。


「何だ?許可は取ったぞ?ちゃんと世話もした!」

「そ、そういう問題ですか!?臣殿、あなた――恐れ多くも皇子様の馬に…!その上、刀まで携えて…。いくら衣をお召しとはいえ、どう見ても学者になど見えませんが」


 大仰おおぎょうに肩をすぼめ、すっかり呆れ果てたふうの堅海――その隣では、斜めに顔を背けた愁が、またもや声を殺して笑っていた。


「またおまえはそうして突っかかる…。だいたいな、刀については遊佐様が持って帰れと仰るのだから仕方がないだろう?だが、学者が馬に乗らぬと言うなら、ここで私が前例になってやるさ」


 馬に跨り、臣は不敵に笑った。


「それはそうと氷見。おまえ、篠懸様を傷物にだけはしてくれるなよ?」


「は?何それ?」

 氷見は、馬上の臣をきょとんとした面持ちで見上げた。


「嫁取り前の大事なお体だ。それをおまえ、こともあろうか手を繋いで同じ布団で眠っていただろう?」

「う…」


 途端に篠懸の頬が染まる――と、同じく真っ赤な顔をした氷見が弾けるように怒鳴った。


「ば…っ!馬鹿なこと言ってんじゃねーよ!!つか、見てたのかよっ!?」

「見たぞ。しっかりとこの目で」


 にんまりとしたり顔を見せた後、臣は振り向き、真っ直ぐ紫苑の顔を見た。


 紫苑は――。


「……」


 ただ安らかに微笑んでいた。まるで春の陽だまりのように温かな、彼女本来の優しい笑顔。もう迷いはない。


「いいか、紫苑。信じるものを守れ。それだけでおまえは生きてゆける」


「はい!」

 そう力強く答え、紫苑はぱっと瞳を輝かせた。


「よし、いい顔だ。では皆、元気で」


 それだけ言うと、颯爽さっそうと馬を駆り、臣は去って行った。

 ともに過ごした時はほんの僅かながら、それでも、それぞれの胸に少なからず何かを残して――。


「本当に…」

「ん?」


 振り向いた堅海に、愁は晴れ晴れとした顔で言った。


「本当に…まるで風のような方だな。おまえ、そう言ったろう?彼が風のように戦場を駆けた、と。風はどこで吹いてもやはり風さ。冷たい時も暖かい時もあるだろうが、それでも風だ。皆の胸をかき乱して消える風…」


 清々しい思いを胸に、愁は遥かな蒼天そうてんを仰ぐのだった。



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