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月の雫 ―春霞の抄―  作者: 惠 悠冬(めぐみ ゆうと)
8/14

08//春の花火

 暗い牢の石床いわとこで、李燐りりんはひとり、膝を抱えていた。凍える膝へ額を押し当て、固く固くうずくまる。


 寒さ。

 恐怖。

 心細さ。


 手を放してしまえば、こみ上げる思いに負けてしまいそうだった。


 瞳を閉じれば、まぶたに浮かぶはあの日の出来事。

 あの日、平和だった銀鏡しろみを襲った恐ろしい出来事…。


 事前に情報が知れていたお陰で、ある程度の準備はできていたはずだった。


 だけど現実は――。


 氷見ひみの手引きで、追手から何とか逃げ延びた李燐と珠洲すずは、彼が見つけたという洞窟に一旦身を隠すことになった。真っ暗な中を手探りで進み、奥の窪みに身を潜める。


 意外にも暖かいいわむろ

 だがお世辞にも心地よい場所とは言えない。ひどく湿気が多いのだ。べたべたと纏わりつく空気が、やけに息苦しかった。


「二人とも、絶対ここから出るなよ。いいな?」

 そう言って来た道を戻ろうとする腕を、李燐は慌てて捕まえた。


「ちょっ…ちょっと、どこ行くの!?氷見は…あんたはどうしようっていうの!?」

「俺はあいつら撒いてくるから」


 見る間に李燐の瞼は涙でいっぱいになった。口を一文字に結び、嫌々と首を振る。その李燐に縋る珠洲も何度も首を振り、大きく肩をしゃくり上げた。


「ね、姉ちゃん…。珠洲…」


 二人の涙につい絆されそうになる…。


 しかしそんな心を悟られる前に、氷見はふっと頬を緩めた。気丈な彼らしい姿だ。


「ば…馬鹿だな。なんて顔してるんだよ、二人とも。すぐ戻るから大丈夫だって!俺が戻ったらさ、みんなで楼蘭へ行こう。どうせ元は同じ民族なんだ、紛れちまえば分かりゃしねえ。あやもあっちに居るし…。ちゃんと雲英きらにも言ったんだぜ?後で楼蘭に来いよって。だから…ちょっとだけ待っててくれよ。なっ?」


 二人の髪を撫で、しっかりと言い聞かせた。震える少女らを何とか勇気付けようと、氷見はまた白い歯を見せて笑った。


 そうして、ついに――。


「姉ちゃん、珠洲を頼む」


 この言葉で、ようやく李燐も腹を決めたのだった。


 氷見の気配が消えた後は、しんみりと静まり返るばかりだった。

 ぽっかりと口を開けた黒い空間には、いくら目を凝らしてみても何もない。耳を澄ましても何も聞こえない。ただ感じられるのは、ごつごつした岩の感触と、どろりと澱んだ濃密な空気。そして、しっとりと濡れた土の匂いだけだった。


 静寂というものが、こんなにも重く不安に満ちたものだったなんて――。


 小さな珠洲を抱いて、李燐はじっと窪みに蹲っていた。


 とても心細かった。

 まるで珠洲と二人、生温い泥沼の底へ沈み込んでゆく気がした。


「ねえ…。ちょっとだけ表の様子を見に行こうか…?」

 暫し思いあぐね、思い立ったように李燐は言った。


「で…でも!でも氷見、ここにいろって言ったよ?」

「それはそうだけど…。でも、もしここにあいつらが攻めてきたら、あたしたち逃げ場がないじゃない」

 そう口では言いながら、実はこの時、李燐の頭の中には別の理由が居座っていた。


(もし氷見が戻らなかったら?氷見にもしも何かあったら…?)


 まだほんの子どもの氷見が、世間では凄腕の殺し屋『銀鏡の火喰鳥ひくいどり』などと噂されているのは知っている。

 だが、そんなことは何の意味も持たない。彼女にとっての氷見は、どこにでもいるごく普通の十五歳の少年であり、それ以上にかけがえのない弟でしかなかった。そんな彼女に、この深い闇の中で不安に駆られながら彼の帰りをひたすら待ち続けることなど、とてもできたことではなかったのだ。


「そおっと覗いてみるだけだから…。ね?」

 右手で珠洲の手を握り左手は洞窟の壁を探りつつ、李燐はゆっくりと入り口へと向かっっていった。

 濡れた足場に細心の注意を払い、少しずつ、少しずつ…。


 すると、前方の闇の中にぽつりと小さな光が覗いた。


(……?)

 ふと脳裏を翳めた違和感は気のせいだろうか。


「出口だ!」

 珠洲は声を弾ませたが――。


(出口…?もう少し先だったような気がするんだけど…)


 その時、光の点が左右にちらと揺らいだ。


(ち、違う!出口じゃない!人がいる…!!)


 直感した。

 五感が警笛を鳴らし立て、全身を巡る血液が波のように引いてゆく。

 ひと際大きく、どくん!――と、胸を殴りつけた嫌な焦燥。底知れぬ恐怖が、たちまちに胸を支配した。


 心臓が早鐘を打ち続けている。

 ねっとりとした汗がこめかみを這う。


 李燐は震える手で珠洲の肩を抱いた。暗闇の中で顔はよく見えない。それでも、怯える李燐の心はすぐさま珠洲へと伝わった。


「り…李燐…。李燐ってば…」


 再び手を握り返すや否や、李燐は――。


「珠洲、下がって!さっきの所まで下がって!!早くッ!!」

 小さな背中を無理矢理に押しやると、李燐は珠洲を庇って立ちはだかった。


 そうこうする間に、前方で揺れる松明は益々増えて大きくなり、洞内に反響する野太い声がすぐ間近に迫っている。


 間違いない。あれは…!


「行きなさい、珠洲!早く!!」


 竦んだ体と恐怖に縛められていた小さな足は、この叱咤で不意に自由を取り戻した。あたふたと地べたを探り、ようやく珠洲は今来た道を戻り始めた。


 だがこの声が、自らの存在を敵に知らせる結果を招く。


 追っ手はもはや、言葉が聞き取れるまでに距離を縮めている。前方の炎が入り乱れる様がはっきりと見て取れる。


 そして、ついに――。


 目前の黒い岩肌がぼおっと朱く浮かび上がった。炎の揺らめきが岩壁を覆った湿気に反射し、怪しくてらてらと輝いている。


 それでも李燐はそこに立っていた。

 いくら堪えようとしても、全身の震慄しんりつが止まらない。それでも李燐はその場を動こうとはしなかった。


(動けない。今、私がここを動くわけにはいかない…!)


 私がここに立っていたからといって何ができるわけでもない。そんなことは分かっている。だけど、こんな私にだって珠洲を逃がす時間ぐらいは稼げるはず――。


「いたぞ!」

「こっちだ!!」

 武器を構えた兵士が李燐を取り囲み、逃げ場を塞いだ。


 本当は怖くてたまらない――。


 ついこぼれそうになる涙を懸命に堪え、李燐は精一杯の気丈な眼で目前の敵を見据えていた。


「こちらです、千歳ちとせ様!例の少女を発見しました!」


(例の…って…。この人たち、私を探してたの…?)


 心臓を鷲掴みに握り潰された気がした。彼らがなぜ自分を求めるのか見当も付かなかった。


「そうか…。ご苦労だった」


 驚いたことに、姿を現した男は李燐と同じくらいの年恰好の少年であった。なぜか他の兵士らとは異なる純白の軍服を纏い、軍人らしからぬ繊細な輪郭にきりりとした眉、そしてその下にきらめく大きな瞳が印象的な美しい少年だ。


「……」

 『千歳』と呼ばれた少年は、すらりと腰の刀を抜いた。刃に反射した炎が眩い。


 これまでか…。


 ぎゅっと目を閉じ、李燐は首をすくめた。


 ところが――。


「!?」

 鋼の明光みょうこうが映し出した影に怯んだのは、意外にも千歳の方であった。


「あ…」

 一体何に驚いたのか、小さく声を漏らし後退あとずさる。


 一方、一度は観念したものの、なかなか振り下ろされない刀に、李燐は恐る恐る目を開けた。


 すぐ目の前に、千歳が呆然と佇んでいる。


 刀の光は李燐を照らすと同時に、千歳の顔をもはっきりと浮かび上がらせている。

 どう見ても軍人のには見えないその顔――。まるで虫も殺せぬような柔らかく端正な顔立ちに、李燐は一層強い違和感を覚えた。


 その時だ。


「李燐ーッ!!」


 虚空に響くこの声は――!


 直後、頭上の闇を黒い影が舞い、居並ぶ兵士を跳び越えた。漆黒の主は着地と同時に双刀の鯉口を切るや否やすかさずその身を翻し、敵前へと向き直った。

 持ち前の赤い髪が、彼の背中で踊っている。


「き、雲英きら!!」


 しっかと刀を構え、雲英は目前の敵――千歳らを見据えている。

 煌いた白銀が、雲英の影を浮かび上がらせたその刹那、何の感情もなかった顔に、ほんの僅か怒りのようなものがひらめいた。


「し…銀鏡の夜叉…!」

 誰ともなく声が漏れる。


 視界も足場も悪い上、多勢に無勢。おまけに李燐と珠洲を庇いながらの戦闘では、圧倒的に不利である。とても雲英にがあるとは思えない。


「なるほど…。こやつがあの…」

 にやりと口元を吊り上げ、千歳が笑む。


「離れるな、李燐」

 

 雲英は今一歩、千歳との間合いを詰めた。


 不敵な笑みを湛えたまま微動だに見せぬ千歳の代わりに、背後の兵士らがたじろいだ。音に聞こえた銀鏡の夜叉の恐ろしさ――それを知らぬ者などここになかった。


 ところが。


 突如として千歳は刀を払い、元通り腰の鞘へと収めてしまったのである。


「ふん…。思わぬ拾い物だったな。だがこれで手間が省けたというもの。相手にとって不足はない。私が相手になろう。夜叉よ、表に出ろ」


 兵士らに両側を固められたまま、李燐と雲英は洞窟を出た。闇に慣れてしまった目が陽光に眩む。


 不意に、先頭を歩いていた千歳が振り向いた。


「私を負かせば、おまえもその少女も、そしてそこで窺っている小娘も見逃してやろう」

 李燐らの背後を顎で示す。


(え…!?)


 はっと振り返れば、洞門の陰に隠しきれなかったお下げ髪が覗いていた。


「珠洲!!」


 小さな影がびくっと揺れた。


 ついに紗那の手に落ちた李燐と珠洲は、後ろ手に戒められ自由を奪われたまま、対峙する二人の前に晒されていた。

 お陰で雲英は、敵前にありながら、つい彼女らを気にして目を泳がせてしまう。これでは集中することができない。


「私の言葉が信用できんか。まあ、それも無理はないが、こちらとて二言はない。悪い条件ではないと思うがな」


 一人の兵士が、慌てて口を挟んだ。

「し…しかし千歳様、それではたちばな様のごめいに…」


 だが、それもそこまで――。はっと口を噤んだ兵士の顔が、にわかに青ざめる。浴びせられた眼差しに、身を貫くような鋭さを見たのである。


「ふん…。紗那軍特殊部隊・御神楽みかぐらが副長、この千歳。見縊みくびってもらっては困るな。万が一の責は私が負う!それで文句はあるまい!!」


 風に揺られた木々の葉が、ざわざわと騒ぎ出す――。


「さあ抜け、夜叉。おまえは二刀。私は一刀。そしてこの決着がつくまでは、この私の名において少女らには手出しはさせぬ。心置きなくかかって来い!」


 言うが早いか柄に手を掛け、千歳は雲英の攻撃に身構えた。対して雲英は大きく地を蹴り、一気にその間を詰めにかかった!


 軽やかに躍り出たかと思うと翻り、右をいだかと思えば次の刹那には左の刀を振り下ろす。まるで舞踊を舞うが如き雲英の、華麗で独特な動きに誰もが目を奪われた。


 だが、千歳もる者。


 相手の攻撃を楽しんでいるのか、えてそのすんでで切っ先をかわしているのである。更に驚いたことに、その表情には必死さが微塵もない。変わらずの涼しい表情を浮かべたまま、驚異的な雲英の速攻を、彼は易々と避けているのだ。


 どちらを取っても、とても同じ人間とは思えぬ身のこなし。まさに人を卓越した神技であった。


 そうして今――。


 僅かな隙を突いて、ようやく千歳の太刀が抜かれようとしていた。抜きざまに、神速の剣が唸る。


 ぎん!!


 耳をつんざく金属音とともに、雲英の左の刀が天空へと弾かれた。ほんの一瞬の一撃であった。


「雲英!!」

 悲鳴のように叫び、少女らは互いの手を握り締めた。里で安穏と暮らす雲英の姿しか知らぬ二人が、彼の戦う姿を目の当たりにするのは初めてのことだった。


 あのまるで赤ん坊のように純心な雲英が…。

 まさか、こんなに激しい戦い方をするなんて…。


 得物を一つ失ったというのまるで顔色を変えることなく、雲英はぺろりと左手に負った傷を舐め上げた。


 千歳。そして雲英――。互いに相手を睨んだまま、ぴたりと二人は動きを止めた。


 また頭上で風が鳴る。梢を離れた木々の葉が、二人の間をはらはらと舞い落ちてゆく。張り詰めた静寂だけが流れてゆく…。


 再びじりじりと二人が間を詰めたその時であった。


 蒼黒そうこくのいかづちが、居並ぶ兵士らの真ん中に突き刺さった。おののき仰いだ逆光の空に、またも黒い人影が浮いている。次いで放たれた鉄槌の形を視界が捉えたその頃には、兵士の何人かはうめきをあげ、ばたばたと地面に転がっていた。


 一閃いっせん戦慄せんりつが走る。居竦いすくむ兵士らの目前に降り立った人物は――。


「氷見!」


 安堵に顔を綻ばせ、李燐は愛する弟の名を口にした。ところが、思いがけずその声は雲英の集中を削ぐ結果となってしまった。


 ぎいん――!!


 再び、かん高い金属音が耳を裂く。


「……っ!?」

 ついに弾かれた最後の得物に、さすがの雲英も表情を歪めた。


「一体どこを見ている!おまえの相手は私だろうが!!」


 もはや勝負はあった――。


「いやあああっ!」

 不意に少女の悲鳴が上がった。

 見れば兵士の一人が珠洲の腕を掴みじ上げている。


「珠洲!」

 即座に槍を抜き、氷見は珠洲のもとへと走った。


 慌てた兵士が刀を抜くより早く、風鬼ふうきの槍はずぶりと芯を貫いた。一瞬の間をおいて、あっけなく崩れ落ちたむくろ。その下から小さな体を引きずり出してやると、珠洲は声も上げずにぽろぽろと大粒の涙をこぼした。氷見の胸に縋る小さな肩は、小刻みに震えていた…。


「つかまってろ、珠洲」

 低い声でそう言うと、氷見は珠洲を抱いて頭上の枝へと跳び上がった。


 さて、その頃。


 果たして地上では、まだ修羅の戦いは続いていた。

 敵前にありながらもはや丸腰となった雲英は、僅かな隙を突いて一気に跳躍を試みる。この形成の不利を立て直すべく、とりあえず敵から大きく距離を取った――はずだった。


 ところが。


「残念だったな、夜叉」

「!?」


 なんと、既に息がかかるほどの距離に千歳の顔が迫っている!すわや!と思われたその刹那、もう彼の切っ先は雲英の胸にぴたりと宛がわれていたのである。


 驚異的な速度!

 これぞまさに神速の…!


 その時。


「李燐!!」

 羽交はがい絞めにされた李燐の姿が視界の端に映った途端、雲英の集中力は一度に目的を失ったのだった。


「これでまだ女を選ぶか。どこまでも甘い奴だ」

 がら空きとなった脇腹を蹴り飛ばすや否や、すぐに刀を反転させ、更に千歳は峰で雲英を叩き伏せた。


 無様に地を這う雲英に、すかさず刀尖を差し向け、

「誰か、こやつに縄を打て。その少女とともに城に連れ帰る」


 そして――。


「……」

 樹上では、仲間が無下に捕らえられる様を、氷見と珠洲が無言で見つめていた。


 迂闊うかつに近付けば、自分はおろか珠洲の命まで再び危険に晒してしまう…。

 氷見は唇を噛み締めるのだった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 階上かいじょうへ続く石段から、微かな怒鳴り声が聞こえる。


 ややあって、二人の兵士に引き擦られながら降りてきたのは、紗那の軍服を着せられた雲英だった。ひどく乱暴されたのか、顔にはいくつかあざが浮いている。


「蘿月様に喧嘩を売っておいてこの程度で済んじまうなんざァ、貴様、運が良かったな。ほら、今日からは愛する嬢ちゃんと相部屋だ!千歳様の御計らいに感謝するんだな!」


 いやらしい薄笑いを浮かべた兵士の一人が格子戸の鍵を開ける――と、もう一人が、戒めを解く前に雲英の背中を力ずくで蹴り飛ばした。お陰で雲英は、あっけなく石床に打ちつけられ、李燐の足もとへと転がった。


「雲英!!」

 駆け寄った李燐は、気丈に兵士らを睨みつけた。


「おおっと、怖い姉ちゃんだ。なあに、邪魔はしねえからせいぜいその小僧を可愛がってやんな」

 やがて兵士らは、下品にげらげらと笑いながら石段を上がっていった。


「……」

 緊張の糸が切れた途端、李燐の目にわっと涙があふれた。悔しくて仕方がなかった。


「ひどい…。ひどいよ、こんなの…」


 何度も嗚咽をすすりながら、李燐は雲英の縛めを解いてやり、そして雲英は――。


「李燐…」


 ひどく悲しい気持ちで彼女の涙を見ていた。


 誰より大切な李燐が自分のために大粒の涙をこぼす姿には耐えられない。しかし、今この無力な手には、いつもの笑顔を取り戻してやる術がない…。


「ごめん。泣かないで、李燐。俺、守るから…。李燐のこと、絶対守るから…」


 震える少女を抱き、袖で涙を拭ってやりながら、雲英は何度も同じ言葉を繰り返す。いくら拭っても止まらぬ涙が雲英の胸を濡らしている。


 抱いた髪に顔を埋め、そのまま雲英は瞳を閉じた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 氷見は順調に快方へと向かっていた。あれほど深かった胸の傷も今ではしっかりと塞がり、身体を起こそうと歩き回ろうと、それほどの痛みを感じることもない。

 とはいえ、このまま如月に居座っていても何もすることがなく、時折、紫苑のたきぎ拾いの手伝いをするほかは、部屋の縁側でぼーっとしているだけの毎日だ。


 見かねた愁は、とんでもないことを言い出した。


篠懸すずかけ様と一緒にお勉強しませんか?」


「はァ?」

 氷見はきょとんと目をしばたかせた。


(勉強?俺が…??)


 考えただけで口元がふにゃりと歪む。とうとう氷見は腹を抱えて笑い出してしまった。


「あははは!無理無理!!俺、字だってほとんど読めないもん!勉強なんて…」


 呆れた愁はむっかりとむくれたが――。


 それでもすぐに気を取り直し、改めてにんまりと微笑みを浮かべる。いや、微笑みというよりもむしろ、不敵な笑み――という方がこの場合は適切だったかもしれない…。


「そうですか。では読み書きを覚えましょう」


 さっさとそう決めてしまったようだ。

 しっかと氷見の腕を掴むと、愁は篠懸の部屋へ向かってずんずん歩き出した。


「い…いいよ、愁!俺、勉強なんて…!愁ってば!!」


 振り解こうとするが――。


 一体、この細い体のどこにこんな力があるのかと問いたくなるほど、力強く掴まれた氷見の腕は、なかなかどうして離れない。


「字ぐらい読めなくてどうします!すぐ覚わりますから、いい加減に観念なさい!!」


 やいのやいのと揉み合いながら、ようやく廊下の角を曲がったところで、偶然二人は堅海と擦れ違った。


「……?」

 嫌がる氷見を引き擦り、すたすたと目の前を行くともに、さしもの堅海も瞿然くぜんの面持ちで立ち尽くすのであった。


 それにしても…。


 一旦こうと決めたら、なかなか後へは引かぬこの男の頑固さを知らぬ堅海ではなかったが、平素の彼のおっとりとした物腰を思えば、目の前で繰り広げられている光景はまやかしのようですらある。


 はたと目が合ったその時、

「……」

 悪戯を始める子どものように、愁は口角を吊り上げた。


(はあ…。またこいつは何を始めたのやら…)


 苦笑いが漏れる。

 このように、愁が愁らしからぬ行動をとるときは、たいてい何事か別の企てがあってのことだ。そんなことは、これまでの長い付き合いから、誰に言われずとも承知している堅海であった。


「ちょっ…ちょっと堅海、こいつ止めて!このままじゃ俺、勉強させられちまう!!」


 ばたばたともがき続ける氷見を、堅海は実に冷めた眼差しで見送った。


「残念だが諦めろ。そうなったら誰の言葉も聞かんぞ、愁は。おとなしく勉強でも何でもさせられてこい」

 

 果たして数分後、氷見は篠懸の隣にちんまりと座らされていた――。


「これからは氷見も一緒ですよ、篠懸様」

 二人の前に座った愁は、天使のように悪魔のようににこにこと微笑んだ。


「うんっ!」

「ったく、何で俺が!!」


 対して氷見は、すっかりふて腐れてた様子だ。


「頑張って字を覚えて手紙を書きなさい、氷見」


 急に神妙な顔になって、愁は氷見へ向き直った。


「は?手紙…?」

「そう、黄蓮にいるというあなたの仲間に。彼らの行方は今、堅海が部下を使って内々に探させています。見つかり次第、そのかたに手紙を差し上げればいい。そうすれば、あなたの悪夢もいくらかましになるはずだ」


 どきりとした。


 愁は知っていたのだ。

 毎晩氷見が、同じ悪夢にうなされているということを。そして、それを見まいとする余り、氷見が眠りそのものを恐れているということを――。


 紗那を逃れたあの日以来、頭の中は昼夜を問わず朦朧もうろうとしている。暗くなってもよく眠れない日が続いているためだ。眠れば、決まってあの日の夢を見てしまう。眠りに落ちればうなされて、またすぐに目を覚ましてしまう。

 氷見は、もうずっとそんなことを繰り返していたのである。


 平和だった銀鏡を襲った脅威と、救えなかった仲間の影。そして、後戻りのできぬ記憶に囚われの氷見――。


「いいですか。身体を癒すとはそういうことですよ、氷見。目に見える傷さえ治ればそれで良いというものではないでしょう?逃げてばかりいないで、そろそろ立ち向かうことを考えなさい」


 堪らず氷見は俯いた。向けられた真っ直ぐな眼差しが眩しかった。愁の気持ちが痛いほどに胸にむ。


 いつだってそうだ…。

 愁は俺を一人の人間として見てくれる。愁は俺を一人の人間として大切にしてくれる。


 顔を上げることもできぬまま、氷見はこくりと頷いた。


「ああ、それから篠懸様。例のお約束、明日辺りでいかがです?」

 再び愁はにっこりと微笑んだ。


「約束?」

「ええ。先日、紫苑や遊佐様と相談をして、そろそろ…ということになりました。氷見の怪我の具合もだいぶ良いようですし、篠懸様のお顔を椿が忘れてしまわないうちに会いに行きませんとね」


「そ、それはまことか!?愁!!」

 篠懸の顔は、見る間にとびきりの輝きを見せるのだった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 静々と夜は明けて――。


 いつもより早く目が覚めた篠懸は、顔を洗った後、一人でさっさと衣に着替えた。いつもならお付きの御許おもとがやってきて着せてくれるのだが、それを待つのももどかしい。

 篠懸の心は既に屋敷を遠く離れ、山の頂上へと歩き始めていた。


 朝食まではまだ間がある。


 篠懸は、縁側からそっと外に出た。

 見上げた空はまだあけぼの。ひんやりと肌に触れる山の空気が心地よかった。透垣すいがいに沿って庭を歩き、屋敷の門へ足を向けると――。


「なんだよ、篠懸。えらく早いな。散歩か?」


 振り向くと、氷見が立っていた。


「おはよう、氷見」

「ちゃんと寝たのかよ、おまえ」


 篠懸は微笑み、頷いて応えたが――。


「そう言う氷見は、また遅くまで起きていたようだな…」

「え…?」


 朝焼けが目に眩しい。

 山裾を覆っていた霧が、陽光に追われるようにして頂上へと昇ってゆく…。


「私の部屋から障子越しにそなたの部屋の灯りが見える。一晩中灯りが消えぬ日があるのも知っている。それに…今日は顔色も少し悪いようだ。あまり辛いようなら、屋敷で休んでいても構わぬぞ?」


 今この胸を殴ったのは、心臓を突き破ってしまいそうなほどの大きな鼓動――。

 思わずぱっと顔を伏せた。動揺を悟られるのが怖かった。


「い…いや、大丈夫。少し体を動かした方が眠れると思う」


 囁くようにそう言って、氷見は俯いたまま苦く笑った。


(愁も篠懸も…。ここのみんなは何だって俺なんかのこと、こんなに気にかけてくれるのかな…)


 そっと目を上げ、篠懸の顔を覗き見る。


 澄んだ中に気高さと優しさと強さが同居している――そんな深い瞳だ。自分よりもずっと背は低いし、齢だって三つも下だ。なのに、篠懸という少年は時々やけに大人びて見える。そして、その胸に宿る無垢な心と、それが織り成す言葉の数々は、いつだって氷見の弱い部分を強烈にえぐるのだ。この小さな体の中には、とてつもなく強く温かい何かが息づいている――そんなふうに思えて仕方がなかった。


 目が合うと、篠懸は少年らしいあどけなさで笑った。釣られて氷見もぎこちなく笑う。


「あの…さ、まだメシまで時間あるからさ…。俺に少し…字を教えてくれよ。書けるんだろ?」

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 ただならぬ気配を察し、そっとふすまを開ければ、廊下を右往左往する御許と女中らの姿が目に留まった。屋敷の中が、なにやら騒然としているようである。


 はてさてと首を捻りながら様子を窺っていると、運良くあたふたと駆けて来た紫苑を捕まえることができた。


「紫苑、一体何事です?朝っぱらから…」

「あ…愁!!ちょうど良かった!あの、篠懸様が…!!」


 愁の顔色が一変した。


「篠懸様がいらっしゃらないのです!屋敷のどこを探しても…!!」


 にわかに眉根を寄せ、愁は隣の襖を開け放った。


 何の変哲も見られぬ篠懸の部屋だ。そこには何者かが侵入した形跡も、激しく争った跡もない。見たところ、特に目立った異変は感じられない。ただ一つ、いつもならあるはずの皇子の姿がない――そのことを除けば。


 だが――。


「…?」


 愁は、この室内に僅かな違和感を認めたようだった。


 そこへ血相を変えた堅海と久賀が駆けつけた。続いて集まり出した御許らに、思いがけず愁は穏やかに尋ねた。


「今日のお召し換えは誰が?」


 すると、御許の一人が思い詰めた様子で答えた。


「あの…私がお部屋に伺ったときにはもう…」


 その言葉が終わらぬうちに堅海は苛立ち、拳で柱を殴りつけた。こうしている間に篠懸の身に何事かあったなら――と、心配すればこそ気が気ではなかった。


 ところが、今にも部屋を飛び出そうとする堅海を、愁は手振りでいさめめたのだった。


「なっ…!?愁!何を…!」


 逸る堅海とは異なり、愁の顔はなぜかほんのり微笑んでいるようにも見える。大切な皇子の行方が知れぬというのに、まるで平然としたその顔――皇子付きたる彼のその姿は、到底信じられるものではなかった。


 その上――。


「皆、もういいから食事をお取りなさい。皇子様は私が探してくるから」


 この意外な言葉には堅海らのみならず侍従らも仰天したが、最高責任者たる愁の言葉とあっては逆らうことはできない。


 そして、愁の前には紫苑と堅海、久賀の三名が残された。


「あの…私も何かお手伝いを――」


 おずおずと申し出た久賀に、愁はふっと眉を解いた。


「いえ、本当に心配には及びません。考えてみてください。こんなに屋敷中で大騒ぎをしているのに、あの氷見の姿が見えない。おかしいでしょう?それに…」


 愁はつかつかと篠懸の部屋へ入っていった。


 簡素な部屋の片隅には几帳面にたたまれた布団。その上には、これまたきちんとたたまれた寝巻きが置かれている。

 その傍らに膝を付き、愁は更に言葉を続けた。


「これ…多分、皇子様ですよ。誰もお召し換えをしていないのに、寝巻きがちゃんとたたんである。恐らく待ちきれなくてご自分でお召しになったんでしょうね」


 ここでようやく堅海らにも事の真相が理解できたようだ。堅海はほっと胸を撫で下ろした。


「紫苑、そこの障子を開けてごらんなさい。恐らく履物が消えていますよ」


 言われるまま障子を開けてみれば、果たして愁の言う通り履物がない。それどころか、よくよく耳を澄ませば、楽しげな話し声まで微かに聞こえてくるではないか。


 ああ、この声は――。


「あ…!!」

 紫苑は声を上げて振り向いた。


「ね?」


 さすがの観察力である。


「でも…。今度ばかりはちょっとお灸を据えないとだめかな」

 愁は困ったような顔で笑った。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 堅海らにも食事を取るよう指示をして、表に出る。


 門前へ出て来たところでふと足元を見ると、ごちゃごちゃと何かで引っ掻いたような跡が地面いっぱいについているのに気付いた。


「……?」


 精一杯首を捻りながら、何度も立ち位置を変え、角度を工夫しながら眺めれば、どうやら文字のようである。文字は、門扉もんぴから屋敷をぐるっと取り囲むようにして裏手の方へと続いていた。


「お屋敷の玄関をこんなにしてしまって…。まったく!」

 やれやれと腰に手を当て、愁は盛大にため息をついた。


 文字の続いている方向とは逆の位置から二人の声がする。どうやら文字を書きながら移動しているうちに、屋敷を一周してしまったらしい。


 土塀の影で息を殺し、そっと覗いてみると――。


 少し先に棒切れを手にした二人の後姿が見えた。こちらの存在に気付きもせず、何やら夢中で地面を引っ掻いている。やけに真剣な面持ちだ。


「この字とこの字は良く似ているから気をつけて」

「ええと…こうか…?」

「うん、そう。でもここをもう少しこう…強く払って…」

「こう?」

「うん、そうそう」


 時折氷見の手を取り、篠懸は懇切こんせつ丁寧につづり方を教えてやっているようだ。一方の氷見は、素直に生徒に徹している様子。

 微笑ましい光景である。


 熱心に文字を書きながら、腰を屈めた二人の背中がそろそろとこちらへ近付いてくる。こちらに背を向けているせいか、もはや僅か数歩の距離と迫っているというのに、まるで気が付く気配がない。驚いたことに、あれほど警戒心の強い氷見でさえも――。


 にやりと口元を緩め、愁は大きく息を吸い込んだ。


「勉強熱心、大いに結構!ですがね、これをどうするおつもりですか、二人とも!!」


 二人は、びくりと肩を揺らして振り向いた。


「「し…愁っ!?」」


 なんと真正面に仁王立ちした愁がいるではないか。しかも、その顔からはいつもの笑顔が消えている。


「……」

 むっと眉を集め、愁は二人の足元を指さした。


 我に返って見渡せば、あちこちが棒切れでガリガリと掘り返されてしまっている。そしてあろうことかそれは、屋敷のずっと裏手から続いているのである。


 そうだ…。確か、文字を書き始めた時は門の前にいたはず――。


 二人は顔を見合わせた。


「紫苑!ほうきを二本用意してください!」


「あ…!!は、はいっ!!」

 垣根の向こうで、こっそりと様子を窺っていた小さな影が揺れる。


「すまぬ、愁…」

 篠懸はしゅんと肩を窄めた。氷見もすっかり小さくなっている。


 愁はそっと二人の手を取った。


「いいですか、二人とも。あなた方がここでこうして楽しんでいる間に、お屋敷では、篠懸様が消えてしまったと、それは大変な騒ぎになっていたんです。みんな、とても心配したんですよ?そういうこと、分からないあなたではないでしょう、篠懸様?」


 そう優しく諭してやると、篠懸はぎゅっと肩を強張らせた。


 すると、

「愁…!あのっ。俺が無理に頼んだんだ!字を教えてくれって、俺が…!!」


 慌てて前へ割り込み、氷見は必死の弁解を始めた。篠懸が責められる筋合いのことではないと思った。


 だが――。


「私が言いたいのはそういうことではありません、氷見。申し上げにくいが、あなたと篠懸様では立場が違う。篠懸様が黙って消えたとあれば、それこそ国を挙げて大勢の人間が動きます。万が一にもその御身おんみに何事かあったとあらば、そこに関わった者は責を問われ、罰を受けねばなりません。ほんの小さな我侭わがままがそんな不幸な結果を生んだとなれば、結局一番胸を痛めるのは篠懸様ご自身。人の心の痛みが分かる篠懸様だからこそ、私はこのようなことを敢えて申し上げているのです」


「……」

 しょんぼりとうな垂れ、氷見は口を結んだ。


「でもね、氷見。私だって、こうして楽しいひと時をともにするお二人を邪魔したくはありません。どうか今後、篠懸様とお屋敷を出るときには、私にひと言声を掛けてくださいね。それに…篠懸様はもちろん、あなたがどこかへ消えてしまったとしても、やはり私は同じように心配ですから」


 不意に氷見の手を握った小さな手――そこからじんわりと伝わってきた温もりは、篠懸の心そのものに思えた。篠懸も愁と同じ気持ちであるに違いなかった。


 その時。


「ああああのっ…愁!こ、これでよろしいでしょうか!?」

 あたふたと門を飛び出してきたのは、二本の竹箒を抱えた紫苑だ。


 やにわにそれらを受け取り、愁は、

「では…今日のところはこれで勘弁しておくとしましょう」


 二人の前に、むんずと箒が差し出される。


「さあ、今からあなた方二人が練習したこの文字を、すべて綺麗に消しなさい!朝食も山登りも、それが済むまでお預けです!いいですね!!」


 きっぱりと言い放つと、愁は二人の手にしっかりと箒を握らせた。


 そして――。


「それから、紫苑」


「は、はいっ!」

 細い肩が再びぴょこんと揺れた。


「決して二人を手伝ったりしないように!」

「あ…。は…はい…」


 くれぐれも念を押し悠然と去りゆく背中を、子どもたちは声もなく見送るのだった。


「なあ…」


 ぼそりと氷見が呟く――。


「愁ってさ…時々すげえおっかないよな…」


 顔を見合わせた三人は、互いの苦笑を確かめ合うのであった。

 

 その頃――自室の縁柱えんちゅうに背を預け、堅海が失笑を漏らしていた。実は、今しがたのやり取りは丸々ここから見えていた。


「どうだ?二人とも真面目にやっているか?」

 堅海の背後に、戻ったばかりの愁の顔がひょいと覗いた。


「ああ、ちゃんとやっているさ。お可哀想に…。今回は相当効いたぞ」

「だが、そうそういつも甘い顔もできんだろう?」

「ま…違いないな」


 もう一度子どもらを振り返った後、愁が部屋と縁側を隔てる欄間らんまを潜ると、堅海もその後に従い屋敷の奥へと消えた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 山頂への出発は大いに遅れた。


 朝からこってり叱られて、すっかりしょげ返っているかと思いきや、ずっと楽しみにしていた山頂への遠足とあって、今やそれもどこ吹く風。すっかりご機嫌な篠懸である。

 道中の供は、当初の予定通り愁、堅海、氷見、そして久賀と紫苑――の五名である。


「紫苑」

 長く離れ座敷にこもりきりだった遊佐ゆざが、やけに神妙な面持ちをして玄関へ見送りに出ていた。


「何かあったら迷わず力を使いなさい。いいですね」


「え…。で、でも、遊佐様…」

 紫苑は何かをためらっているようだった。


「前へ進みたいのでしょう?今は皆様が付いていらっしゃるから大丈夫。くれぐれも迷いを捨てて事に当たること。分かりますね?」


 愁だけがその光景を見ていた――。


 屋敷の裏手から伸びる山頂への一本道は、何の整備もない細道であった。足元のあちこちで大岩の一部が顔を出しており、時にその隙間を巨木の根が地を這うように伸びている。慎重に足場を選んで歩かねば、蹴躓けつまづいてしまいそうだ。


 氷見がしきりに篠懸の顔を覗き込んでくる。


「おまえ、ほんとに歩けるの?山の道は平らじゃないんだぜ?」

「……」


 その度に、篠懸は憮然とした顔で頷くのだった。


「あの…いつでも負ぶって差し上げますから、遠慮なく仰ってくださいね」

 紫苑の言葉で、篠懸は更に膨れた。


「おい…愁…」

 今度は堅海が愁の袖を引いた。


「そんなに心配しなくても大丈夫さ」

 前を向いたまま愁はくすくすと笑っている。


「篠懸様、歩くのはもっとゆっくりで構いませんから、もしもお疲れになったらいつでも…」

 この久賀の気遣いで、ついに堪忍袋のは切れてしまった。


「もうっ!誰の助けを得ずともちゃんと一人で歩ける!!皆、私に構うな!!」


 愁と堅海は吹き出すも――いや、それを篠懸に知られれば事だ。咄嗟とっさに顔を背け、二人は声を殺して笑った。


 道は更に縦横にくねり、進むごとに一層細く険しくなっていくようだ。もうかれこれ半時(約一時間)近くは歩いただろうか――。


「もうちょっとで休憩できますから、がんばってくださいね、篠懸様」


 紫苑の差し出した手拭を受け取ると、篠懸は顔を伝う汗を何度も拭った。


「そこで水を一口もらえるだろうか…?」


 もう喉がからからなのだ。


「ええ、冷たい井戸水がありますよ」


 紫苑はふわりと微笑んだ。

 さすがに毎日来ているとあって、彼女の顔にはまるで疲れがない。


「どなたかのお屋敷ですか?」

 久賀が問うた。


「いえ、無人の古い庫裡くりで…。建物自体はもうぼろぼろなんですが、井戸やお庭は綺麗にしてありますから」


(庫裡――?まさか例の…?)

 愁は、以前遊佐から聞かされた話を思い出していた。


――ここから更に山を分け入った所に古ぼけた小さな庫裡があります。十数年前、私と紫苑はそこで初めて出会いました。


 かつて紫苑が一人で暮らしていたという場所。


 そう、確か…。確か紫苑はそこでった一人、自分を造ったであろう人物の墓を守りながらひっそりと生きていたはず。きっと彼女は、今もそうして――。


 彼女が毎朝山を登る理由が分かった気がした。


「どうした、愁」

「いや…何も…」


 更に進むと――。


(あれが…。あれが紫苑の庫裡…)


 やがて木々の間に、朽ち落ちた茅葺かやぶきの屋根が覗いた。一行は、紫苑に導かれるまま庫裡の板戸を潜る。


 聞いたとおり、建物そのものは使えたしろものではなかった。

 入母屋いりもやは大きく崩れ、柱も傾き歪んでいる。至るところで土壁は剥がれ、床板もあちこちで腐り落ちていて、敷かれていた畳ごと陥没している箇所もいくつか見受けられた。


 しかしながら、意外にも広い庭面にわもは、驚くほどきちんと手入れが届いており、折々の前栽ぜんさいの植え物から、石組いわぐみに至るまで、何もかもがまこと情緒ゆかしく仕上がっている。更に庭の一角には、長さ三尺(約1メートル)はあろうかという立派な花房をいくつも下げた立派な藤棚まで設えられていた。


 篠懸らは歓声を上げて駆け寄った。


「うわあ…!」

「凄えな!こんなの初めて見た…!」


 誰もが目を見張り、ため息を漏らした。


 やがて、庫裡の裏手から紫苑が現れた。提げた盆には、冷たい井戸水の入った土瓶と人数分の湯のみが乗せられている。


「さ。どうぞ、皆さんそちらで涼んでください」


 子どもらは二度目の歓声を上げた。


 そんな麗らかな庭を離れ、建物の西側を抜ける――。


 愁はひとり、庫裡の裏にたたずんでいた。目の前には庭石としてはあまりに不自然に大きな石が置かれている。その傍らでは、故意に植えられたと思しき春紫苑ハルジオンの可憐な花が、いくつも風にそよいでいる。


 恐らくこれが、の墓標。


 かつて紫苑はこの庫裡で生き、ともに暮らしていたであろう自動人形オートマタ技師の亡骸をここに埋葬したのである。以来毎日、ここに花を手向け続けた。


 一体どんな気持ちなのだろう。

 たった一人で、二度と戻らぬ人を想い続けるあの子の心は――。


 一体どんなものなのだろう。

 先の見えぬ長い時間、ただそこに在るだけだったあの子のせいは――。


 いたたまれぬ思いに、愁は拳を握り締めた。


「ご存知なんですね、愁は…」

 いつの間にか、隣に紫苑が立っていた。


「この方…お名前は何と仰るんです…?」


 そう問うと、紫苑は微かに憂いを見せた。


「分かりません…。紫苑はずっと法師様とお呼びしていましたが、実際に仏道に帰依きえされたかたかどうかも分かりません」


 静かに手を合わせると、風が二人の髪をき紫苑の花を柔らかに揺らした。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 皆のもとへ戻る道すがら、板塀いたべいもたれた堅海に出会った。


(もしや、裏でのやり取りを探っていたのか――)


 そう思い当たるほどに、愁には不愉快に思えてならなかった。


 確かに、友を気遣うがゆえ――また、警備責任者である近衛長としての立場上、何の断りもない愁の行動に彼が関心を覚えるのは当然のことだ。それでも、呼ばれぬ以上は堂々と近付くことは叶わない。そうした結果でしかないこの彼の行為に、もちろん悪意など欠片かけらもない。そもそも、そんな下衆な私心ししんを持ち合わせた男ではない。


 分かっている。

 分かってはいるが――。


「……」

 目を合わすこともなく、無言で目前を行く愁を、堅海もまた冷めた眼差しとともに見送った。


 こちらから声をかけるでもない。


「何だ?」

 ついに眉を寄せ、愁は立ち止まった。訝む眼差しがかんに障ったらしかった。


「別に…。ふっ、安心しろ。紫苑と何事かを話していたのは知っているが、内容までは聞こえちゃいない。人の話を立ち聞くような趣味もない」


 うそぶく言葉の端々に、いつもの堅海らしからぬ刺を感じる。こちらの心を読みにかかっているのも気に入らない。


 結局愁は振り向きもせず、足早にその場を立ち去った。


 こうして擦れ違ってしまう心は初めてじゃない――。


 ごくまれなことではあるが、時々愁はこんな風に変に意固地になってしまうことがある。

 他の者に――例え、それが互い無二の友と認める堅海であったとしても――面倒をかけまいとする余り、厄介事を一人で背負い込もうと、固く心を閉ざしてしまうのである。こんな愁の態度は、従者としていつも傍で控える堅海であればこそ、うに承知している彼の姿だ。だが、そうであるからこそ堅海の気懸かりは尽きない。


 諦めともとれるため息をつくと、堅海は黙って愁の後に続いた――。


 この庫裡を過ぎると山頂はすぐだった。


 山頂と言っても、木々の開けた所にちょっとした草原があるだけの野っ原だ。ただ、ちょうどこの場所は山肌から空へ突き出すような格好をしていて、お陰で見晴らしだけはすこぶる良い。


 どこまでも続く青い空。

 ぼんやりと霞を帯びる彼方の稜線りょうせん

 眼下一面を覆う広大な森。


 木々は今、新緑に萌えている。


 それらを一望して、篠懸はまた歓声を上げた。


「素晴らしいな…!!このような景色は本の挿絵でしか見たことがない!」


 ひゅっと紫苑の口笛が鳴った途端、一体どこに控えていたのか、蒼天を小鳥の群れが覆った。同じような背格好の鳥が数十羽。いやもっと。


「う、うわっ!何だこれっ!!」

 氷見が、目を白黒させている。


 さもあろう。


 大空に散らばるそれは、まるで蒼にゆ、とりどりの宝石。

 鮮やかな鳥たちの輪舞ろんど――。


「…?」


 微かな呼び声を耳にした気がして、篠懸は振り向いた。

 そわそわと辺りを見回せば、少し先の空の真ん中で、懸命に羽ばたく小さな姿が目に留まった。他の鳥よりも遅れて羽ばたくやや小柄なその鳥は、ひたすらにこちらを目指している。


 瑠璃色の小さな体。

 やけにおぼつかぬその仕草。

 そして、しきりに囀る真っ赤なくちばし――。

 そのどれもに篠懸は確かに見覚えがあった。


 まさしくそれは…。


「椿!!」


 やっとのことで駆けつけた椿は、すっと篠懸の肩に舞い降り、耳元で何事かを語り続けた。初めて出会ったあの日のように。


 そんな小さな友の姿に、篠懸はうっとりと目を細めている。心から幸せそうな笑顔だった。


 氷見と紫苑、そして篠懸。

 無邪気に戯れる子どもらをしかと瞼に焼き付けて、愁は静かに瞳を伏せた。


「おまえが命をしてまで見たかったのはこれだろう?」


 前を向いたまま呟いて、堅海は笑った。


「ああ…。もう十分だ。もう…私はどうなってもいい…」


 胸を抱き、ため息をつく。もう胸がいっぱいだった。篠懸がこうしてずっと微笑んでいてくれたなら――心からそう思った。


「ふっ…。また馬鹿なことを」


 内心ではほっとしながら、堅海はやれやれと肩を竦めるのだった。


 ところがその時。


「!?」


 足元がぐらりと揺らいだ――かと思うと、地鳴りのような轟音が地中深くから迫り、山々一帯に鳴り響いた。同時に、鈍い振動が大地をびりびりと震わせ、静かだった森は動物たちのおびただしい悲鳴に包まれた。


 果たして、その直後――。


「篠懸様っ!」


 蒼天を覆った禍々しい気配を睨み、久賀は腰の刀の鯉口こいぐちを切った。


 刹那!


「!!」


 にわかに漂う臭気に振り向けば、ちょうど背後の岩肌を舐めるように這い上がった何かがその異形の姿を露わにしている。


 すぐさま愁と堅海は、篠懸のもとへと向かった。

 駆けながら堅海は背中の槍を抜き、愁は怯える篠懸を抱いて潅木かんぼくの茂みへ滑り込む。


 あれは一体何だ――?


 やがて、巨大な黒い影は大きな翼を羽ばたかせ、見る間に大空へと舞い上がった。


 これは…!?


火喰鳥ひくいどり!?」


 氷見の表情が一転した。


 翼を広げた渡りは、九尺(約3メートル)ほどはあろうか。鮮やかな紅の巨体に、雪白の冠羽かんむりばね――深い緑の頬羽ほおばねには、黄金きん瞳子どうしがぎらりと煌き、地上の獲物を見定めている。


 そして、あろうことか敵は一羽ではなかったのである。


「なんで…。なんでこんな所にこいつら…!」

 本来なら遥か北方――年間を通して雪に閉ざされた山岳地帯にのみ生息しているはずだ。それが一体なぜ。


 この怪物を実際に捜し求めたことのある氷見には、こうしての当たりにしたところでとても信じることはできなかった。


 火喰鳥はどんどん集まってくる。あれほど平和だった空を一転、猛炎もうえんはだれに染め上げて――。


 弾けるように堅海が怒鳴った。


「あれはおまえが頭に乗せていた鳥だろう!何なんだ!どういうことだ、これは!?」

「そ、そんなの俺だって知らねーよ!だって、ほんとは寒い地方の鳥なんだ!こんなところにいるはずがない!!」

「実際いるだろうが、そこにッ!!」


 けたたましく耳を裂く雄たけび。

 旋回しつつ、隙を狙う巨鳥の群れ。


「そんなこと俺に言われても…。つか、武器!誰か何か持ってないのかよ!まさか俺に、丸腰で戦えってのか!?」


 すると唐突に、すい…と一本の刀が差し出された。


「!?」


「……」

 刀をささげ持っていたのは、なんと紫苑であった。


「な…!おまえ、どっからこんなもん…」


 紫苑の刀は、一般的なものとは少し様子が違っていた。どういうわけか、どこもかしこもすべてが金属で出来ているのである。

 その上、鋼鉄の柄にはつばがなく、刀身もまったく見たことのない形状をしている。


「ま、いーや…。久しぶりだな、こういうの。ほら、もういいから下がれよ、紫苑」

 満足そうに呟いて、氷見は舌なめずりをした。


「あの…で、でも…」

 戸惑う紫苑に、氷見はにっかりと白い歯を見せた。


「こういうのは男の仕事…っ」


 言うが早いか刀を斜めに跳ね上げる。それで見事、敵の首を斬り落とした――はずだったが…。


「あ…れ…!?」


 何とも手応えがおかしい。


 見上げれば、確かに火喰鳥の姿は消えていたが、その代わり頭上一面で白い紙吹雪が舞っていた。それどころか堅海が突いた鳥も、久賀が斬った鳥も――皆、討った途端にどっと弾けるように紙吹雪へと姿を変えてしまったのである。


「何だ…?どういうことだ、これは…!?」

 久賀の声が震えている。


「それは恐らく式神です!!」


 背後に篠懸らを庇いながら、紫苑は再びどこからか調達したらしいあの不思議な刀をしっかりと構えていた。


「式神?」

 問い返すその前に、堅海の激しいかつが飛ぶ。


「まだだ、久賀!来るぞ!」


 再び火喰鳥が集まり出している。これではきりがない。


 そして更に――。


「堅海、久賀!あれ…!!」


 氷見が示すその先に、おびただしい数の斑点が浮かんでいた。


 まさかあれは…!


「あれが…全部そうだって言うのか…?」


 戦慄が走る。体中の血が引いてゆく。


 天翔あまかける巨大な敵を相手に、地上から刀や槍で応戦せねばならぬ人間たち。更にその数で負けているとあらば、もはや我らに勝ち目はない!


 万事休す――誰もがそう思ったその時である…!!


「あなた方、こんなところで一体何をしているんです?」


 愁らの潜む茂みに、ひょっこりと顔を覗かせた人物がある。それは、あろうことかここに居るはずのない…。


「「お…臣――ッ!?」」


 愁と篠懸は、同時に素っ頓狂とんきょうな声を張り上げた。


「こんにちは、篠懸様。お久し振りですね」


 折も折だというのに、臣はにこにこと愛想の良い笑みを浮かべている。

 いささか愁は、拍子抜けたようだった。


「お…臣!あなたこそ、どうしてこんなところに!?」

「ん?まあ、何と言うか…。お使いのついでさ」


「お、臣様…?」

 今度は、目をまん丸にひん剥いた久賀が振り向いた。


「おや、久賀か。久しいな。ところでおまえたち、さっきから一体何をやっているんだ?」


 どうも状況が呑み込めていないようである。


 篠懸は、愁の腕の中から懸命に声を絞った。


「お…臣っ、あのっ…。あの大きな鳥が!!だから…それで、みんな…!!」


「鳥…ですか?」

 遅ればせながら空を仰ぐ。


 つい先刻まで上空にいた数羽は、既に紙吹雪へと姿を変えてしまっていたが、そのまま彼方へ向けられた臣の瞳は、遥か先からこちらを目指す大群の姿をしっかりと捉えていた。


「紙吹雪と鳥――か…」


 独り言のように臣は呟いた。


「あの…!式神だと思うんです!!」

「式神だと?」


 紫苑のこの言葉に、臣はにわかに顔色を変えた。


 すると、突然――。


「状況を理解していただいたのなら、臣殿にも是非お手伝い願いたいものだな!」


 一体何を思ってか、振り向きもせず堅海は怒鳴った。


「何…?」

 臣は顔をしかめた。いな、それは臣でなくとも、この場の誰もが耳を疑った台詞だ。


 なぜならば――。


「か、堅海様…?何を仰って…」

 おろおろと久賀が目を泳がせている。


「おまえ、学者に剣を振るえと言うのか?」

 鼻先で臣が笑う。


 ところが、おもむろに堅海は向き直り、自分よりもずっと格上であるはずの臣をぎろりと睨みつけたのである。


「はっ。このに及んで何を仰いますやら!あなた、学者などではないでしょうに!!」


 臣は真っ直ぐ堅海を見ていた。ある意味では臣らしい眼光が、その身を貫いたところでまったく動じず、堅海は更に強気に声を張った。


「今から五年ほど前――紗那国の最南部、百雲もくも地区での民族独立運動。その鎮圧に楼蘭からもいくらか兵を出したこと、ご存知のはずだ!私はあの時あの場にいた!そしてあの時、臣殿も独立義勇(ぎゆう)軍にいらっしゃったでしょう!?髪の色を変えておられるようだが、あれは間違いなくあなただ!!」


「……」

「……」

 炯然けいぜんの眼差しはひたすらに堅海へ注がれている。身動みじろぎも瞬きもせず、堅海も臣から目を逸らさない。

 二人は暫しそのまま睨みあった。


 誰も言葉を挟めなかった。


 静寂に張り詰める空気。

 重々しい膠着こうちゃくの時。


「馬鹿…。こちらが地毛だ」


 観念のため息をつくと、ようやく臣は立ち上がった。


「お嬢さん。申し訳ないがその手に持っておられる刀、私にお貸し願えますか?」


 ぎょっと見開かれるいくつものまなこの前で、紫苑の刀を受け取った臣は、驚くほど慣れた手つきでそれを握った。


「まさか、臣…。本当なんですか、今の…?」

 愁が声を震わせる。


「ああ、本当だ」

 さらりと答えて、髪を結わえていた帯を解く。持ち前の長い栗色の髪が、はらりと彼の肩に落ちた。


「だが…。それにしても話が違うじゃないか。あの時の人間はもう軍に残っていないと聞いていたんだがな」


 続いて臣は、金属が剥き出しになっている柄の部分に帯をくるくると巻きつけていった。


「ええ、仰る通り。残っているのは私だけですよ」

 堅海が憮然と鼻を鳴らす。


 その一方で、かつて彼の下で働いたことのある久賀は、ひどく瞠目どうもくしてその様を眺めていた。学者としての臣しか知らぬ久賀にしてみれば、今こうして刀を握り、目の前をゆくかつての上司の姿は、例えそれを間近にした今でさえ、にわかに信じられるものではなかった。


 無理もない。


「氷見、その刀をこちらに貸せ。こいつと替えてやる」

 堅海は自らの槍を放ってよこした。


「え…?」

「おまえにその刀は重過ぎるだろう?その調子じゃ、あといくらももたんぞ。すぐに手を傷めるはずだ」

「あ…う、うん」


 差し出された刀を握ると、その感覚を試すように堅海は何度か空を斬った。その横では満足そうに瞳を細めた氷見が、久しぶりに手にした得物をくるりと回している。


 今ひとたびの闘いの仕度が整いつつあった。


「断っておくが、こちらの腕のほどは保障しかねるぞ。なにせ、あれから殆ど刀を握っていないからな」


「ふっ、どうだか…」

 振り向きもせず、せせら笑う堅海。


「そういちいち突っかかってくるな、おまえは」


 やれやれとため息をついて、改めて敵を仰ぎ見る。

 既にくだんの大群は、その姿形が肉眼で確認できるほどの距離にまで迫っていた。もう一刻の猶予もない。


 振り向いた臣の顔は既に学者のそれではなく、戦人いくさびとらしい気鋭と清々しさを宿している。もはやその眼差しを疑う余地はどこにもなかった。


「愁!!篠懸様とその少女を連れて更に後方へ下がれ!久賀、堅海、それからそこの銀鏡の小僧もだ!私の前に出るな!!」


「銀鏡の…って、何でそれを…」

 氷見は目を丸くした。


「その話は後だ」


 一層に語気を強め、臣は続ける。


「堅海!あの時あそこにいたのなら、言葉の意味が分かるだろう?さっさとこいつらを下げろ!」


 ここで何に心当たったか、むんずと久賀らの腕を掴んだ堅海は、素直に後方へと退いた。


「わ!ちょっ…ちょっと、何だよ、一体!?」

「な…何です?何があるんですか、堅海様!?」

「あいつ…。あの距離から飛燕ひえんを撃つ気だ。敵の数を減らすつもりだろう」

「飛燕…?」

「なんだそりゃ?」


 前衛ぜんえいの臣は大きく深呼吸をすると、深く腰を落とし、刀を脇に構えた。ちょうど鞘から抜刀する姿勢である。

 そうして静かに士気を高めているようだ。


 その間にも、大群の影は更なる膨張を続けていた。その数ざっと数十羽――!


 鈍色の太刀に一閃いっせん凄気せいきが宿る。


「!!」


 ふわり。


 刀身が瞬き、純白に輝く光の糸のような雲気うんきが現れた―――と思う間に、次々と湧いた光の絹は、生き物のようにうごめいては立ち昇り、何度も形を変えながらみるみる輝きを増してゆく。時に纏わり、時に揺らめき、やがて刀全体を包み込んだ触手は、それでも質量を増し続けて…。


 ついには臣自身をもその懐に飲み込んでしまったのだ…!!


「な、何だ…?何なんだこれ…!?」

 氷見は得体の知れぬ恐怖に震えた。


 息を呑んだ。目の前で何が起きているの誰もか理解できなかった。


 光の中に臣の背中が溶けゆく刹那、

「うおおおおお!!」

 気合の雄たけびが上がり、大きく刀がぎ払われた。


 刹那。


 大気をびりびりと震わせ、一筋の光華こうかが天空へと飛び立った!


 やがて光は一陣の風巻しまきへと姿をやつし、低い唸りを上げながら深緑の縁の上を駆け抜けた。光速の旋風に削られた木の葉たちが、ざあっと音を立てて舞い上がる。


 その様は、まさしく白銀のツバメ――。


 あたかも幻想のような光景に、誰もが瞬きも忘れて立ち尽くした。



(こ、これが飛燕!なんて技だ…!臣様…この方は格が…。格がまるで違う!!)


 久賀は己の魂が戦慄わななくのを感じた。


 人知を超えた神秘の剣技。

 あまりに鮮やかな夢想のみやび


 その前には感嘆の声を漏らすことさえ叶わない――。


 ところが。


「くそっ、だめだ…!」


 臣の顔色が変わる。


「すまん、外した。刀が持ち堪えてはくれなかった」


 なんということだろう。

 振り向いた臣の手に握られていた刀は、差し出されたと同時に亀裂が走り、微塵に砕け散ってしまったのだ。


 鋼の刀剣が砕けるほどの大技!?

 数年間、学者に徹してきたはずの彼から、まさかこれほどのものが繰り出されようとは!


「小僧!皆を連れてその下の庫裡まで逃げろ!!堅海、久賀、来るぞ!構えろ!!」


 げきを飛ばす背後で、今や大群の真下にまで迫った白刃はくじんは、飛行角度を垂直に改め、目標目掛けて一気に急上昇を開始。


 そして。


 燦然さんぜんきらめくツバメにその身を刻まれるや、巨鳥は爆煙を吹き上げて、次々に紙吹雪へと変化を遂げたのである。空に大量の吹雪が舞い荒び、湧き上がる飛沫しぶきは、今までそこにあった青を一面の白へと染め上げた。


 しかしながら、技を繰り出す只中で刀に亀裂が生じたため、そのすべてを仕留めることは叶わず、今なお生き残った十数羽は白の吹雪を突き抜けて、今もこちらへ迫っている。


「私が責任を持って篠懸様を庫裡までお連れします。ですからどうかお二人は…!」

 久賀は腰に差した太刀たちを鞘ごと引き抜き、臣の前へ差し出した。これが今の最良の方法だ思った。


「これだけ数が減れば上等だ。あなたと私で、一人当たり七羽…というところですか」

 堅海が笑みを浮かべる。


「心得た」

 しかと頷き、臣が刀を受け取ったその時――。


「す、篠懸様!」

 愁の声に振り向けば、腕の中の篠懸がぐったりとうなだれている。


 浅い息と微かに聞こえる独特の呼吸音。間違いない、あの発作だ――。


「篠懸様、しっかり…!!」

「だ…大…丈…」

 駆け寄る紫苑に、篠懸は気丈な微笑みを返そうとする。


 血相を変えた氷見が弾けるように怒鳴った。


「馬鹿!!もういいから喋るな!愁、こいつを早く!!」


 一刻を争う事態だった。


「よし。行くぞ、久賀!!」

 例の薬を飲ませた後、しっかりと皇子を抱きかかえ、愁はすっくと立ち上がった。


「篠懸様を頼むぞ」


 堅海の言葉に頷いて応え、久賀は皇子らを衛護しつつ庫裡へと急いだ。


 そうして――。


 山頂には臣と堅海、そして氷見の三人が残された。


「さっさとおまえも行け」

 天を睨み臣は言った。


「別に足手纏いにはならないと思うぜ?これで一人、五羽だ」


 氷見はにたりと不敵な笑みを浮かべた。


 頭上に滞空していた火喰鳥バケモノが、次から次へと舞い降りてくる。

 三人は素早く武器を構えた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 堅海らが敵を引き付けてくれるお陰で、庫裡までは難なく逃げ延びることができた。


 藤棚の下に自分の上掛けを脱いで敷き、愁はそこに篠懸の体を横たえてやった。そろそろ薬が効いてきたのか、篠懸は少しずつ落ち着きを取り戻し始めたようだった。


 井戸水の桶を抱いた紫苑が、傍らに跪いた。


「冷たい…」

 宛がわれた手拭の冷たさが心地よい。篠懸はほっと目を閉じた。


 見守る三つの表情かおが、安堵に緩んだその時だった。


「ちっ…!紫苑、こいつを借りるぞ!!」

 久賀は立て掛けてあった紫苑の刀を握った。


 見上げた先には、遥か上空で大きく旋回を続ける一羽の怪鳥の姿――!


目敏めざとい連中だな…!」

 しかと刀を構え敵を睨む。


 しかして目が合った刹那、巨鳥は羽ばたくのをぴたりと止め、地上へ猛降下を開始したのだった。


 得物を握る手に力がこもる。


 ばさり。


 打ち付けるような羽音と捷速しょうそくの爪が襲い掛かる。瞬時に翻って攻撃をかわし、久賀は刀を水平に構えた。


「はあああッ!!」

 切っ先がが大きく弧を描く。そして――。


 返す刀を真横に薙ぐと、蒼天に鮮やかな飛沫が弾けた。どっと爆音を上げた紙吹雪は、一旦上空へ吹き上がった後、はらりはらりと地上へ降り注いだ。


 純白の花弁の中で、久賀は深い息を吐いた。


 臣のような派手さも堅海のような大胆さもないが、彼の確実な剣捌けんさばきは、見る者を圧倒させる。久賀もまた相当な手練れであると言えた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「おまえ…。私の過去を知りながら、よく五年も黙っていたな。かつての敵だぞ?」


 振り下ろされる距爪きょそうを巧みにかわしながら臣は言った。


「別に今更騒ぐ必要もないでしょう?恨みがないかと言えば、微妙なところですが」


 巨大なくちばしを払いつつ堅海も答える。


「だろうな。あの時はこちらも尋常ではなかった」

「は…?」


 堅海の真上を滑る石火の剣戟けんげき。その直後、あの白い吹雪が宙を舞った。


「ひどく個人的な理由だ」

「……」

「敵と見れば有無を言わさず斬っていた。義勇志士らに雇われていながら、その指示さえまるで無視して斬り込んで――。私の勝手な行動に払った犠牲も大きかったはずだ。どちらに恨まれても文句は言えん」


 白刃一閃、臣は袈裟懸けさがけに刀を振り下ろした。また一つ飛沫が上がる。


「あの頃の私は、ただ死に場所を探していたに過ぎん」


 間を置かず振り向いて天を突く。するとまた一つ鳥が弾けた。


「どのような理由であれすべて自分で蒔いた種だ。それに、現役を離れたとはいえ、仇と呼ばれて逃げ隠れするほど落ちぶれてもおらん。だが、私を討ちたければ、まず水紅様の許可を得てくれよ」

「何です?水紅様…??」

「勝手に死ぬなとの仰せだ」


 水平の構えから、堅海は天空へ向けて刀を振り払った。へさきは鮮やかな半月を描き、開いた嘴から巨鳥の頭は真っ二つに裂けて弾けた。


「忠義なことですね」

「当たり前だ。皇子付きだぞ?」


 堅海はふっと笑った。


「お喋りしながらとはさすが余裕あるね、でかい兄さんがた


 二人の注意を惹いたのを悟ると、氷見はにっと歯を見せて笑った。空へ突き上げられた槍の先で、怪鳥の体が純白の爆煙を吹いている。


「おっしゃ!あと一羽ああ!」


「へえ…。なかなかやるじゃないか、氷見」

 堅海が横目で振り向いた。


「さすがは銀鏡の火喰鳥――ってな」

 鼻先で臣が笑う。


「だから何で知ってるんだよ、あんた!!」


 三人がそれぞれほぼ同時に最後の一羽を仕留めると、一面の吹雪が頭上を白く覆った。


「新手が来る前に消えるぞ!」


 三人は篠懸のもとへ急いだ。

  

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 一方――。


 さわさわと鳴く藤の木陰では、愁の腕に抱かれた篠懸が安らかにまどろんでいた。血色も呼吸もすっかり戻ったようである。

 そして、あれほど喧騒けんそうに満ちていた空は、ようやく本来の蒼天を取り戻し、先刻の妖しの影は跡形もなく消えて去っていた。


 庫裡へ戻ったばかりの堅海ら三人はほっと安堵の息をついた。これでようやくひと安心といったところだ。


「良い太刀だった」

「痛み入ります」

 刀を受け取り、久賀は深々と頭を下げた。


 うに中天を過ぎた太陽が、西の寝床へ向かう支度を始めている――。


 眠る篠懸を抱いたまま帰途につかんとする愁を、すかさず堅海が引き止めた。


「おまえ、顔色が悪いぞ。篠懸様は俺が背負う。よこせ」


 心配げに愁の顔を覗き込む。


「本当に大丈夫か、愁?」

「ああ…。問題ない」


 そう答えると、逆から伸びた臣の手が愁の額にひたと触れた。


「馬鹿を言うな。大いに問題だ。熱がある」


 さすがに繕うこともできず、愁は口の端で苦く笑った。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 辺りは夕焼けに染まっていた。

 疲れた足を引き擦り辿たどり着いた屋敷の裏門に、遊佐の姿が見える。ようやく帰ってきたのだ。


 とにかく今日は、朝からいろいろありすぎた…。誰もがくたくただった。


 だが。


 一行がほっとするも束の間、唐突に掲げられた彼女の右手から、突如として小さな竜巻が巻き上がった。


「……!」

 わけも分からず立ち竦む愁らの回りを、細い竜巻が取り巻いた。


 すると、一体いつの間に潜んでいたのか、あの式神の欠片らしきものが、皆の衣服の隙間や髪の中からするすると引き摺り出され、次々に竜巻の中へと吸い込まれていったのである。目を丸くする皆の前で、竜巻は白い螺旋らせんの筋となり、やがて遊佐の手のひらへ消えた。


 そして――。


 再びそっと開かれた手に、ぽっと小さな蒼い炎がともった――と見た刹那、欠片は細かな灰になり、はらりと砕け散ってしまったのだった…。


「お帰りなさいませ」

 遊佐は深々と頭を垂れた。


「あ…。た、ただいま…戻りました」


 何とか会釈を返したその時。


「!!」

 遊佐の眼が異変を捉えた。すぐさま歩み寄り、愁の懐へ手を入れる。そこから彼女が取り出したもの、それは――。


 鳥の形に切り抜かれた一枚の小さな紙片であった。


「こ、これは…。いつの間に…!?」


 堅海の声を遠くに聞きながら、そこで愁の意識はぷつりと途切れた。


 がくりと崩れ落ちる体を、素早く臣が受け止める。


「早く中へ…!」

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 遊佐の離れ座敷で、臣、堅海、氷見、そして紫苑の四人は、無言で静座していた。その前には、先ほどの紙の鳥が置かれている。


「あの…これ、少し見せていただいても構いませんか?」


 そう言って紙を手に取った臣は、しげしげとそのなりを眺めていたが――。


「!?」


 摘んだ指先に力を入れた途端、突然鳥は息を吹き返し、その手から逃れようとばたばたと羽を動かして暴れたのだった。


「げ…!?」

 氷見がぎくりと跳び上がる。


「臣様は…少し霊力がおありのようですね」


 遊佐はそう言って微笑んだ。


「さあ、それはどうですか…。でもこれ、あの式神の正体ですよね?剪紙成兵法ぜんしせいびょうほうとかいうあれですか?」


「ぜんし――?何だって?」

 聞きなれぬ言葉だ。氷見がはてなと首を傾げた。


「剪紙成兵法――。東方の秘術で、人間や動物の形にした紙を実体に変えて操る術だ。総じて方術ほうじゅつと呼ばれている。しかし、そうだとすると此度の件は、道教の流れを汲む術者の仕業…ということになるのかな」


「やけにその道にお詳しいんですね」

 臣を見もせず、堅海が呟く。


「本当におまえ、いちいちなあ…」


 くすりと遊佐が笑った。


(ん…?『東方の秘術』――今、私はそう言ったか?)

 臣ははっと口を噤んだ。


 水紅皇子が長らく探し求めていたあの本。確かあれは…。


 そもそも、彼があれほど必死になってあの本を読んでいるのはなぜだ?あの本に関して何を尋ねても、それを頑なに語ろうとしないのはなぜだ…?


(水紅様、あなたは一体…!!)

 臣はにわかに眉を曇らせた。


「篠懸様に害を成している例の術者の仕業…。どうやら彼女は相当な力を付けていますね。でも、お陰でこちらも役者が揃った…」


 遊佐はやおらに立ち上がり、祭壇に立て掛けてあった二本の槍と二本の刀とを彼らの前に運んだ。


 そして――。


 柄の部分が青鈍あおにび色をした長い槍を堅海。

 銅緑どうしょう色の柄をしたやや小ぶりな槍を氷見。

 そして、薄紫色の鞘に収められた刀は紫苑。

 深紅の鞘の刀は臣。


 遊佐は、それぞれの前にそれらをそっと差し置いた。


「どうか、これをお持ちください。必ずや皆様のお力になりましょう」


「……?」

 四人はきょとんと顔を見合わせた。


「あの…お言葉ですが、私は一介の学者。このようなものをいただいても、ただ持て余すだけですが」

「それでもお持ちください。必要と思ったときにお使いくだされば良いのです。抜かずに済むのなら、無論その方が良いのですから」


 ある種もっともな臣の言葉にも、遊佐はきっぱりと言葉を返してくる。どうやら引っ込める気はなさそうである。


「このようなものを宮に持ち帰ったら、また何を噂されるか…」


 やれやれとため息をついて、臣は刀を手に取った。ずしりとした重さが驚くほど手に馴染む。


 どうやら同じことを他の者も感じているようだ。


「この刀が、この槍が選んだあなた方なのです。どうか拒まないで。堅海様の槍は『蒼劉そうりゅう』、氷見の槍は『緑青ろくしょう』、そして紫苑の刀は『紅藤べにふじ』、臣様の刀は『火蓮かれん』――それぞれそう申します。どれも命あるものです。大切にお傍に置いてやってください」


 遊佐は深々とぬか突いた。


 そして――。


「紫苑。あなたはそれで愁様をお守りするのです」

 両手で刀を捧げ呆然とする紫苑を、遊佐は真正面から見据えた。


「愁…を…?」


 いきなりそう言われても、言葉の真意が分からない。察して遊佐は言葉を続けた。


「時がくればこの言葉の意味が必ず分かるはずです。いいですか、あなたは何があっても愁様を信じなさい。そして必ずやお守りし通しなさい。あの方のお傍にさえいられれば、あなたはずっとあなたのままでいられます。ですから――」


 遊佐はふわりと微笑んだ。優しく慈愛に満ちた眼差し――そこに紫苑は何を感じたのだろう…?


「はい…!」

 紫苑は力強く頷いたのだった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 目を覚ますと、そこは自室の布団の中であった。


「あれから…眠ってしまったのか、私は…」

 ゆっくりと体を起こす。


 みんな、あれからどうしたのだろう――?


 ぼんやりとする頭でそんなことを考えていると、そっと襖を開ける音が聞こえた。


「あ…。お目覚めでしたか、篠懸様」

 枕もとに膝を付いた久賀がほっと笑みを浮かべた。


 ところがその顔を見た途端、昼間の記憶が一ぺんに蘇り、慌てて篠懸は飛び起きた。


「あ…。あのっ…久賀、みんなは!誰も怪我はないか!?」

「え…ええ、まあ、怪我はありませんが…」


 そっと肩に上着を掛けてやりながら、久賀は僅かに表情を翳らせた。


「何か…何かあったのか?」

「その…愁様が…」


 久賀の言葉が終わらぬうちに、篠懸は血相を変えて隣の部屋へ飛び込んだ。


 そこには――。


 愁がひっそりと眠っていた。枕もとには、額に乗せられていたであろう手拭いが斜めになって落ちている。


「愁…!!」

 篠懸はわなわなとその場に崩れ落ちた。


(己の我侭が招いた結果がこれか――!)


 篠懸は自らを激しく責めていた。

 怒りとも悲しみともつかぬ思いに、握り締めた拳が震えた。感情が雫となって、次から次へとこぼれては落ち、止まらない。だが、今となっては、どんな後悔も取り返しがつかない…。


 震える手で手拭を水に浸し、ぎゅっと絞って愁の額へ乗せる。気付いた愁が瞼を開けても、涙で霞んだ瞳にその姿は映らない。固く口を結んだまま篠懸はひたすらうな垂れていた。小さな肩が、飲み込んだ嗚咽おえつで微かに震えている。


 目を覚ました愁に気付き、久賀がそっと部屋を出ていった。


「もう…お加減はよろしいのですか…?」


 結ばれた小さな手を握ると――。


「!!」

 涙でぼろぼろになった顔がはっと愁を見る。


「愁、愁…っ!!」


 顔を見てしまったらもうどうしようもなかった。

 いくら拭っても、涙が後から後から止め処なくあふれてくる。ついに篠懸は愁の胸に突っ伏してしまった。何度もしゃくりあげながら、篠懸は大きな声を上げて泣いた。


「す、篠懸様…。ちょっと疲れが出ただけですから。ね?ほんとに少し休めば治りますから…」


 優しく髪を撫でながら、愁は何度もなだめたが、それでも篠懸の涙は止まらなかった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 廊下を歩いていた堅海ら四人は、愁の部屋から漏れる号哭ごうこくに足を止めた。


「やれやれ…。早速愁を見つけてしまったようだな」

 臣が苦笑する。


 そろそろと襖を開けてみると、果たして顔も衣もぐちゃぐちゃにしてしまった篠懸と、おろおろと彼をあやす愁がいる。


「篠懸、ほら…もう泣くなよ」

 そうして氷見が宥めにかかれば、今度はそちらに縋って涙をこぼす始末。しゃくりあげる肩がなかなか止まらない。


 紫苑の差し出す手拭を震える手で受け取り、篠懸はぎゅっと目元を押さえた。


「寝込んでいる愁を見て、ちょっとびっくりしてしまったんですよね」

 紫苑が優しく微笑んだ。


「だっ…だって…っ…!わた…っ。わ、私が…わ…我侭…言ったから…!!」

 上ずる声を抑えようとするほど逆に声は震え、うまく言葉にならない。


「馬鹿だな。関係ないってそんなの。この程度の熱、ひと晩寝りゃあ治るさ。そうだろ、愁?」

 氷見は片目を瞑り、愁へ目配せを送った。


「ほら、もう愁を寝かせてやろうぜ。あっちの部屋行こう?な?」

 しゃくり続ける篠懸の腕を抱え、皆には横目で振り向き微笑んで見せてから、氷見は部屋を出て行った。紫苑も続く。


「あいつ…子守りの方もなかなかの手練れだな。あれで本当に十五か?」

 そう言って臣は笑った。


「どうだ、具合は…」

 堅海が傍らに膝を付く。


「すまんな、心配をかけて」

「おまえが謝ることはない。あの時――やはり俺は無理にでもおまえの話を聞いてやるんだった」

「堅海…?」


 浮かぬ顔の友を、愁はじっと見ていた。


(そうか、それで…。庫裡での態度はそういうことだったのか…)


 腹心であるはずの自分にさえ心を隠しながら、一人で厄介ごとを抱え込んでゆく愁を、堅海はすぐ隣でずっと心配してくれていたのだ。


 そう――堅海はいつも手が届くほど傍にいた。それなのに、自分が差し伸べる手は一向に握られることはなく、そんな不安の中で堅海は愁自身の口から助けを求められるのを待ち侘びていたに違いない。


(そうか…そういう男だったな…)


 知らず知らず彼を傷つけていた自分に気付く。


 そう…。

 こんなふうに擦れ違ってしまうのは初めてじゃない。


 だけど…。


「思ったより元気そうで安心した。本当は今夜にでも宮へ戻るつもりでいたが、おまえがその調子ではさっさと帰るわけにもゆくまい。とりあえず、もう一日二日ほどこちらでご厄介になることにする。明日の皇子様の勉強は私が見てやるから、おまえはもう一日ゆっくり休め。では、失礼する」


 きっぱりとそれだけ言うと、臣はさっさと部屋を出て行った。


 愁はくすりと笑った。


「これまで…臣とはあまりゆっくり話をしたことがなかったが、あれでなかなか気持ちの良いかただな」


「あ…ああ、まあ…そのようなんだがな…」


 不意に肩を落とし、堅海は長いため息をついた。


「おまえ、あの方と何かあったのか?臣が来てから少しおかしいぞ?昼間言っていた百雲地区での民族独立運動に何か関係があるのか?」


 堅海は暫し考え込んで――。


「彼に…友を殺されたんだ」


 ぽつりと吐き捨てるように言った。


 庭の木々がざわざわと鳴いている。障子の上を、木の葉の丸い影が滑ってゆく…。


「軍に入って初めてできた心の許せる友だった。名をさかきと言った。

 あの方は当時敵側――つまり、独立義勇軍に身を置いていた。そう…当時の彼の髪は今のような栗色ではなく、真っ黒な色をしていたな…。

 まるで風のように戦場いくさばを駆け、驚くべき速さで目前の敵を倒してゆく。そしてあの飛燕で、敵はおろか味方を巻き込んでまでもそのすべてを斬ってしまう――そんな方だった。彼の行く後には何も残らない。当時、紗那軍は本当に彼を恐れていたよ。冷酷非道な化け物だ――ってな。

 その頃の俺と榊はまだ駆け出しの一兵で、主に補給物資の運搬を担っていた。武器を携帯してはいたが、使う用事など皆無。そんな部署のはずだった。

 だが、そこに彼は現れたんだ。なぜかたった一人で。きっと、補給路を断つべく、奇襲をかけたつもりだったのだろう。

 その前に得物を抜くいとまもなく、一刀の元に榊の体はぼろきれのように散った。それも俺の目の前でだ。何もできなかった。声さえ上げられなかった。彼の――臣殿の動きがあまりに速すぎて見えなかったんだ。怖かった。初めての実戦経験だった。確かにあの時、俺は槍を抜きはしたが――」


 堅海は深いため息をついた。


「実は、あの後何をどうしたのかまるで覚えちゃいない」

「え…?」

「正直、なぜ今生きているのかも分からないんだ。本人にいてみればいいんだろうがな、なかなかそれもできんさ。自尊心ってものが邪魔してな」


 堅海は小さく笑った。


「後に、水紅様直々のご指名で彼が内裏だいりにやってきたときは本当に驚いた。あの顔を忘れるはずなどない。間違いない、あれは榊の仇だと――確かに最初はそう思ったさ。だが、彼は皇子付きだというじゃないか。手など出せるわけがない。友の仇と知りながら彼に何事か命じられれば黙ってそれに従い、お成りとあれば平伏して、ずっと…。もう五年もそうしてきたが――」

「臣を…討ちたいのか…?」

「いや…もうそんな気もない。駆け出しだったとはいえ、あいつも兵士だ。兵士が戦場で死んだからと言って、いちいち仇だ何だと言っていたのではきりがない。あれも万が一の覚悟ぐらいはあったろうしな…」


 愁はほっと胸を撫で下ろした。


「あの方と話していて胸がもやもやするのは、多分、自分の不甲斐ふがいなさが思い起こされるからだろうと思う。敵に友を斬らせておいておめおめと自分だけが生き長らえている。そのやりきれない気持ちがまた蘇ってしまうから…。要するにただの八つ当たりだ。全部分かっている」


 ふと立ち上がり、堅海は月明かりの差す縁柱へ背を預けた。


「あの時は…臣殿も何事か事情を抱えておられたようだ。俺も、古いしがらみは早々に流してしまわねばな…」


 愁は、友の屈強な背中に微かな憂愁ゆうしゅうにじむのを見た。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 篠懸の部屋の襖を、気付かれぬようほんの少しだけ開けてみる。そこから中を覗けば、相変わらず氷見にしがみ付いたままの篠懸の背中が見えた。


 どうやら氷見だけが臣の存在に気付いたようである。困り果てた情けない顔が、縋るようにこちらを見ている。


(やはり手を焼いているようだな)

 臣はにんまりと笑った。


「失礼します」

 一礼して中に入ると、泣き腫らした真っ赤な顔がゆっくりと振り向いた。


「篠懸様、大事をとって明日一日愁を休ませても構いませんか?お勉強は私が代わりに見させていただきますから」


 臣は篠懸の傍らに膝を付き、にっこりと微笑んだ。


「ああ、そうそう…。そう言えばすっかり忘れていました。水紅様からお土産を預かっているのですが」


「兄上…から…?」


 篠懸は、久しぶりに耳にした兄の名に心()かれたようだった。


「はい。それは心配していらっしゃいましたよ」


 懐の包みを差し出す。


「これ…?」

 篠懸は目を丸くした。


「さあ?私も包みの中を見たわけではないので、よくは存じませんが…。確か――元気の素だとか仰ってましたねえ。開けてみたらいかがです?」


 本当は中身を知っているはずなのに、しれっと臣は嘯いた。


 そして、紫苑と氷見の見守る中、がさがさと包みを開けていくと――果たして『元気の素』は姿を現したのである。


「あ!花火だ…」


「ハナビ?ハナビって何だ?」

「紫苑も実物を見るのは初めてです。これが花火ですか…。へえ…」


 氷見と紫苑も興味津々で瞳を輝かせている。


「呆れたな…。おまえたち本当に知らないのか?」

「そんなこと言っても、知らねーもんは知らねーよ!」


 むっと口を尖らせる氷見と、何度も首を振る紫苑であった。


 と――。


「まだ…春なのに…」


 ぼんやりと口をついたのは、まるで風の囁きのよう微かなな言葉…。


「わざわざお取り寄せになったようですよ、あなたのために」


「兄上…」


 包みをぎゅっと抱きしめる。

 兄の心遣いが嬉しかった。宮で自分を待っていてくれるだろう水紅の姿が、伏せた瞼の裏に浮かんだ。


(言葉はぶっきらぼうだけど、いつも優しい兄上。ちゃんと覚えていてくださったんだ。私が花火が大好きだってこと――)


「ああ、ちょうどいい時間ですね。みなさんでいかがです?氷見も紫苑もやったことがないのでしょう?」


 やっと戻った篠懸の笑顔に、氷見と紫苑も釣られて笑った。


「じゃ、決まったところで――はいっ、どうぞ!」


 すかさず臣は、衣の袖から燐寸マッチ蝋燭ろうそくを差し出した。


「何でも出てくるな。包みの中身、知らなかったんじゃねーのかよ?」


 にやつく氷見に、臣はすました顔で答えた。


「細かい奴だな。どうでもいいだろう、そんなこと。誰のお陰で花火ができると思っているんだ?」


 冴え冴えと浮かんだ月が、縁側に並んで花火を散らす子どもらをさやかに見守っていた――。


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