表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月の雫 ―春霞の抄―  作者: 惠 悠冬(めぐみ ゆうと)
7/14

07//その赤き心に

 光の宮に、硬い靴音が響く。


 水紅皇子ときのみこの専属教師・おみは、静寂の雲廊うんろうを足早に進み、正面に鎮座する黒檀こくたんの扉を静かに叩いた。


「私です。失礼します」


 内側で一礼して顔を上げると、窓辺の陽だまりの中、頬杖を付いた水紅が気だるげに振り向く。膝の上には『統計学概論』と偽装された例の本が広げられている。


「どうです?お勉強の方は進みましたか?」

「ふん…。おまえ、わざわざここへ嫌味を言いに来たのか?」


 水紅は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 実は、取り寄せてまで手に入れさせた東方秘術の書物ではあったが、その道をかじったことさえない水紅が読んでみたところで、いくらもその内容を理解などできず、当然ながら読書は遅々として進んではいなかった。


 そして、そうなるであろうことは百も承知していた臣である。


「ですから何をお知りになりたいのかと、何度も伺っているではありませんか」

「別に…。何でもない」


 そうぼそりと言うと、水紅は再び書面へ目を落としてしまった。どうあっても理由を明かす気はないらしい。

 とはいえ実は、これでもう何度となく交わされた同じやり取りである。


「願わくはもう少し…私を信用していただきたいものですね…」


 ため息交じりに呟いて、


「水紅様、今日はお願いがあって参上しました」


 臣は皇子の御前にひざまずいた。


 ページを捲る手がぴたりと止まる。


「明日の紗那の来訪が済み次第、暫くのおいとまをいただきたいのです」


 途端。


 ぱたん――!


 どうしたわけか、いつになく感情的に本は閉じられ、ようやく水紅はゆっくりと顔を上げた。それでもその後、彼の端正な顔が臣へと向けられることはついになかった。


「なぜだ?」


 伏目がちな眼差しが、密かに臣を捉えている。


「はい。ゆえあって、如月を訪ねたく存じます」

「……」


 尋ねておきながら臣を見もせず、頑なに水紅は自らの膝元ばかり睨んでいる。だが、その横顔に宿る真実の感情こころを、臣は確かに感じ取っていた。


「おまえまでもあいつのもとへ行くというのか…」


 それは、ひどくひっそりと、まるで吐息のように漏れた本心こころ――。


 水紅のこの言葉――予想はしていた。それでも臣は、えて聞こえぬ振りを通すと決めていた。

 水紅の胸の内はよく理解しているつもりだ。自分がこう切り出せば彼が深く傷つくであろうことも、そしてそれを下手に気遣えば、そんな臣をも拒絶し、更なる悲しみの淵へ沈みかねないということも。

 それが水紅の胸に巣食う孤独。まるで心の内側へ侵食するように、更なる深淵の闇へと己を追い込んでゆく、そんな彼の――彼だけの心の風景なのである。


 表層では、強く気高くただひたすらに孤高の頂を求めながら、心の奥底では誰かの差し伸べる手を密かに待ち続けている彼の弱さ。そして、あの篠懸すずかけのように誰もに愛され守られたいと確かに願っているのに、それを言葉にすることさえ叶わぬ彼の悲しみ。

 本当は、そのどれもを臣は臣なりによく理解していた。


「如月を越えた辺りの紗那領内で、どうも不逞ふていの動きがあるようです。また、その件に関して少々気になることもございますので、行ってこの私がじかに確かめて参ります。末の水紅様の世に関わらぬ事態とも限りませんので…。蘇芳帝すおうていの許可は、既にいただいております」


 結局最後まで水紅は臣の顔を見ようとはしなかった。むしろその姿を避けるように、さり気なく窓の外へと目を背け――。


「そうか…。ではよろしく頼む」

 水紅は静かに呟いたのだった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 紗那の来訪が明日に迫った吉日――。


 いにしえより神秘が息づくここ楼蘭国では、大きな行事を迎えるその度に、『星読み』という手法で吉凶を占う慣習がある。


 『占い』とひと口に言っても、この国における星読みは、国家そのものを左右するといって過言でないほどの重要な儀式といえる。

 なぜなら、ここでもたらされた結果次第では、行事内容を変更したり、日程を先送りにしたり――時には、なんと行事のすべてを白紙に戻してしまうことさえあるからだ。


 もっとも、今回は相手のあることなので、容易に延期になどできはしないが、それでも日が近付けばこうして形式的に星読みの儀は開かれる。


 まさに今。


 内裏中央、磨鑛殿まこうでん前の広場には、国内屈指と名高いかの人物の星読みをひと目見ようと、内裏内外を問わず大勢の人々が所狭しと集り始めていた。

 広く開け放たれた殿中には、皇帝・蘇芳と第一皇子の水紅、第一后の白露、更にその横には臣や常磐ときわら重臣が静座し、儀式次第を厳かに見守る。


 やがて――。


 祭司の合図に従いおずおずと祭壇へ上がったのは、真っ白な衣に身を包んだむつみであった。


 宮の抱えるどの星読み学者よりも若く、それでいてずば抜けた天賦てんぷの才を持つ睦。彼無くして、もはやこの儀式は成り立たない。

 彼の星読みは、ここで抱えるどの術師よりも優美華麗な上、何ともいえず色めかしく、また誰の目にも鮮やかで、予見さきみを説く言葉もずばりと鋭く的を射て明確である。これまでに一度とて読みを違えたこともない。


 時として向けられる卑劣な陰口そして中傷――にも関わらず、今の彼の地位を揺るぎないものにしているのは、なにも白露の口添えばかりではなかった。


 古来の作法にのっとり、先ずは殿宇でんう一拝いちはいしてから睦は瑠璃色に輝く天球の前へと歩み寄った。


 日ごろあれほどおどおどと小さくなっている睦が、この時やけに大きく見えたのは、星読み学者としての彼の存在の確かさを、改めて皆が悟ったからだろう。


 ふうっ…と小さくひと呼吸おいて、睦は両手を天球に翳した。


 と――。


 不思議なことに、辺りでさえずっていた鳥や虫の声、また、今まで優しくそよいでいた風さえもがぴたりと止んでしまった。


 音を失くしたときと空間とが、ぴんと張りつめてゆく。そして、あらゆる気が、すっかりなりを潜めるまさにその瞬間とき


「……」


 睦の口から微かな呪文のような言葉がこぼれ始めた。よく耳を澄ましてやっと聞こえるかどうかのささやかな声――それがゆったりと漂い、辺りを薄く包み込むと、瑠璃色だった天球が徐々にほの白い輝きをまとい始めた。天球を包む光は、ゆらゆらと揺らぐように何度も瞬きながら、確実にその強さを増してゆく――。


「は、速い…!!」


 この手際の鮮やかさには、さすがの臣も声を漏らさずにはいられなかった。手順こそ同じようなものだが、かつて彼が各地で目にした星読みとはあまりに異なっていたからである。

 臣の知るそれは、天球に命を吹き込むまでに確か半時(約一時間)ほどの時間を要していたと記憶している――というより、むしろそれが当たり前なのである。


 ところが今、睦がここに要した時間はごく一瞬。


 まさしく神の御業みわざとしか言いようがない。誰の追随ついずいも許さぬ彼の実力のほどを、強烈に知らしめる現実がそこに確かにあったのだ。


 やがて、天球の輝きに人々の目が眩しさを覚える頃――。


 爆音とともに一斉に地中からせり上がった何かが、睦のみならず聴衆の髪や衣の裾をも一斉に跳ね上げた。


 いつしか広場は光の天柱てんちゅうに囲まれていた。幾筋もの白銀の筋が、一心にそらを目指し、高く高く伸びてゆく。


 そのさまは、あたかも神仏来光の如し。


 よもやこれは夢か。


 はたまたうつつか――。


 ついに天上へ昇り詰めた光の柱は、人々の頭上でことごとく弾け、ぱっと四方へと飛び散った。


 そうして。


 天空を次々にこぼれた星々の飛礫つぶてが降りしきる只中で、さやかに空を仰ぐ睦の姿は、この世のものとは思えぬ神々しさを湛え、ひときわに美しく輝ているのであった――。


 ところが。


「光の…指す方へ…」


 占いの示す未来が、少しずつ言葉へと紡がれ始めたその時。


「かの光の指す方へとゆく…鳥の如くに…暗雲迫りて、後の世も…荒ぶる時の…定めなればこそ…」


 見守る人々の顔が見る間に青ざめてゆく。


「まだなおざりの時なれば…今ここによどみなく…闇もなお、その姿を潜め…。まだその時ではない…まだかりそめの流れは揺るが…な…い…」


 なんと禍々(まがまが)しき言葉なのだろう――!!


 何事かある度に、半ば形式的に行われたこの儀式。それを今回、あの睦が行うとあって、ひと際に大勢の人間がここに集い、その星読みに注目していた。だが、その中の誰ひとり、このように不吉な星読みを目の当たりにしたことはなかった…。


 彼の異常に真っ先に気付いたのは臣であった。


「睦!!」


 咄嗟に立ち上がったその刹那、睦の姿が忽然と消えた。


 すぐさま祭壇へ駆け登ると、天球の手前に崩れ落ちた睦が胸を押さえて蹲っている。臣は、震える細い体を抱き起こした。


「う…」

 幸い、辛うじて意識だけは保っているようである。しかしながら、血の気が失せた額にはびっしょりと汗が浮き、呼吸もかなり浅い。


 不意に誰かの悲鳴が上がると、広場は一気に騒然となった。


 術者がこれほど消耗する未来。

 そして、悪夢を示唆しさする数々の言葉。


 それは一体――?


「これは何事だ!一体何だと言うのだ!!睦、貴様…っ!!」

「お…お待ちください、蘇芳帝!!」


 熱り立つ蘇芳を、懸命になだめにかかる常磐。その隣で后妃・白露は蒼白の顔で震えていた。


 その姿を横目に小さくため息をつき、水紅は静かに立ち上がった。


「臣。睦を連れて、ここは一旦下がれ」

「はっ!畏まりました」


 睦を抱えた臣が直ちに立ち去るのを見届けた後、水紅はおもむろに広場へ向き直った。


「ええい、静まれ!たかが予読み。何を怯えることがある!未来はここからいくらでも変わる!星の言葉などに躍らされる私ではない!!」


 すると、なんということだろう――。

 たったその一声で、あれほどのざわめきがたちどころに消えてしまったのである。


 次期皇帝・水紅皇子の堂々たる姿に、聴衆が一様に圧倒された瞬間であった。


 そして。


「皇帝陛下。予定はどうかこのままで」

 踵を返し、うやうやしく膝を付くと、水紅は強い眼差しで蘇芳を見据えた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「た、大変なご迷惑を…。申し訳ありません」

 自室に運ばれた睦はとこから僅かに身を起こして言った。


「そういつまでも気に病むな。あとは水紅様が良しなにしてくださる」


 再び睦を布団へ押し込め、臣は手桶の手拭いを固く絞った。


「だが…。世辞ではなく、今日は心底驚いた。おまえの星読みを見たのはこれが初めてだが、噂に違わずとんでもない腕をしているな」

「痛み入ります」


 差し出された手拭いを受け取り、睦はほっと表情を綻ばせた。


「では、私はひとまず水紅様のもとへ戻る。おまえはここで少し休め。また後ほど様子を見に寄る」

「はい…。ありがとうございます」


 素直に閉じられた瞼を見届け、臣は睦の部屋を後にした。


 足早に広場へ戻ってみるとあれほどいた物見の姿はなく、皇帝や后も既に下がった後で、柱に背を預けた水紅だけがその場でぼんやりと臣の帰りを待っていた。


「どうだ、睦の様子は?」

「はい、意識はしっかりしておりますので、問題はないかと」

「そうか…。何よりだ」


 普段、決して快く思っていないはずの睦を気紛れに気遣う水紅。彼のこういった態度は初めてのことではないが、本来の彼はきっとこういう優しい人物なのだろう――と、密かに臣は感じていた。

 だが彼は、いつも無下に周囲をね付けては、立場上の体裁ばかりを取り澄まし、温かな感情を全部殺して自らが創り上げた『水紅皇子』という存在を演じているのである。


「見事、場を収められたようですね。さすがです」


「父上も母上も、呆れるほど役に立たなくてな」

 ため息をついて、水紅は鼻先でせせら笑った。


「み、皇子様!このような所で滅多なことをおっしゃっては…!」

「ふっ…そうだな。口が過ぎた」


 面倒臭そうに髪を掻きあげると、水紅は臣を従え、内裏の奥へと消えた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

あや、お水汲んできたよ!」

 手に包んだ小さな椀の水面を気にしながら、少女がそろそろと階段を上がってくる。


 鏡の前で化粧を整えていた妖は、ゆっくりと立ち上がった。


「ありがと。じゃ、こぼさないようにその窓のところに置いてやってくれるかい、珠洲すず


 そうして、ひゅっ!と窓辺で口笛を鳴らすと、一体どこにいたのか、青空の真ん中に一羽の鳥が姿を現した。


「お帰り、八重やえ


 勝手知ったる様子で欄干へ降り立ったはやぶさ――八重は、きょろきょろと何度も辺りを見回して安全を確かめると、椀の中の水を飲み始めた。


 八重は、まだ妖が紗那にいた頃からずっと一緒に働き、寝食をともにしてきた大切な相棒だ。

 銀鏡の出でありながら、里から遠く離れた紗那の首都・おおぎで暮らしていた彼女の一番の友でもあり、最良の理解者でもある。妖は、この八重を使って請けた仕事を仲間に伝え、また都で得た情報を里へと流していたのである。


 実は、紗那政府の鬼狩りを、いち早く銀鏡へ伝えた人物こそ彼女であった。その情報を伝えてすぐ妖は自らに迫る危険を避け、密かに楼蘭国へと逃れた。

 誰も知らないはずのその動向を氷見だけが知っていたのは、彼と彼女が単なる仲間同士といった関係でなかったこと。そして、そうであるからこそ、敢えて妖がこの八重を氷見のもとへだけ遣わしたためである。


「ねえ、妖。氷見、まだかな。ほんとに氷見はこの場所知ってるの…?」


 いそいそと支度を整えていた手がぎくりと止まる。


「そ、そうだねえ。氷見のことだから、どこかでまた道草でも食ってるのかもしれないね…」


 銀鏡でどれほどの惨事があったのか、そしてその後の仲間がどうなってしまったのか――それらは珠洲の話しぶりから見当がつく。

 里の仲間の動向は絶望的だ。そしてそれは氷見とて例外ではない。


 そう――。


 あの日、数十人もの追っ手から幼い珠洲を庇い、何とか国境近くまで逃げ延びた氷見は、最後に己の命を犠牲にしてこの子を妖に託したのである。そんな彼の心は、妖にだって胸が痛いほど理解ができた。


(だって氷見は…。いつだって、あの子はそういう子だったもの…)


 そんな風に思えばつい涙がこぼれそうになる。しかし、今ここで涙をこぼしてしまえば珠洲は――。


 鏡の中で、しょんぼりと珠洲が俯いている。


 振り向いて妖はにっこりと微笑んだ。


「ほら、珠洲。髪をいてあげよう。ここにおいで」


 珠洲を鏡の前に座らせ、妖はゆっくりと髪をかし始めた。


 鏡に映る珠洲は、ひたすらに膝の上の自分の手ばかりを見つめている。ぎゅっと握りしめた小さな手には、胸の奥の不安や寂しさが固く包まれているに違いない。不意にほどいてしまえば、途端にあふれ出すであろう気持ちをそこに押し込め、ただじっと耐えるばかりの健気な珠洲…。


「まあ、氷見は強い子だからね。きっとそのうちひょっこり帰ってくるさ。元気出しな」


 珠洲はぐっと一文字に口を結んで頷いた。


 と――。


太夫たゆう、そろそろ御髪おぐしとお召し物を…」

 引船ひきふねの女郎がふすま越しにささやいた。


「さ、珠洲。表で遊んでおいで」


 入ってきた女郎と擦れ違い様ふと足を止め、もう一度珠洲はそっと妖を振り返ってみたが――。


 もはやそこにいたのは彼女の知る妖ではなく、絢爛と咲き誇る百花ひゃっかの如き花魁おいらん・桔梗太夫その人であった。

 

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「さて。一体どうしたものでしょうね、あの星読みは…」

 臣はひどく退屈そうにため息をついた。


 星の宮の一室では、水紅皇子専属教師の臣と執権・常磐ほかの諸大臣らと、睦を除く星読み学者ら数名が、先刻の予見さきみに関する議論を重ねていた。


 とうに陽は沈み、卓に並ぶ蝋燭ろうそくの炎が、集った面々の顔を揺らしている。だが、冴えた表情の者は一人とてない。


「それはそうと、臣。睦はどうしているのだ?やはりこういったことは、本人に直接問いただすのが一番かと思うが」


 常磐がそう口を開いた途端――。


「そうだ!あれを読んだのは彼なのだからな、それが筋というものだ!」

「此度こそ、睦には自らの責任を負わせるべきではないのか!」


 睦を庇ってしかるべき同僚の星読み学者らから、真っ先に辛辣しんらつな言葉が放たれる。


 やれやれと頬杖をつく臣をよそに、議場のあちこちからここに居もしない睦を責める言葉が飛び交い始めた。そんな光景を見るほどに、毎度ながら臣はうんざりとするのだった。


「まったく乱暴な方々だな…。彼のあの衰弱ぶりをご覧になったでしょう?それでまだそのように酷なことを仰るとは…。彼はもう充分じゅうぶんに働きましたよ」


「だが、仮にも陛下の御前でのあの無礼な振る舞い、黙って見過ごすわけにはゆくまい!」


 星読み学者の一人が感情的に拳を振り上げた。


 だが、その手が振り下ろされる前に、臣の鋭い眼差しが突き立てられる。一見冷静な瞳の奥には、圧倒的な迫力が確かに存在している。


「無礼だと――?では逆にお尋ねするが、貴殿らが読めば結果が変わったとでも仰るのか!あれほど直ちに明確に、必要の全てを呼び出し、しかと表現できる者がここにただの一人でもいると言うのか!!」


 強烈な鋭気を孕んだ眼光が向けられると、あれほど威勢の良かった口はぴたりと噤まれ、再び息苦しいほどの静けさが戻った。


 そんな暫しの膠着こうちゃくの後。


 学者らがようやく冷静さを取り戻したのを悟ると、再び卓上に肘を付き、臣はおもむろに指を組んだ。


「結果は何も睦の責任などではない。彼は星の言葉を伝えただけのこと。いい加減に、その嫉妬に満ちた物言いはお控え願いたいものだな」


 痛烈な嫌味ととれるこの言葉には、さしもの学者らも不快の表情を覗かせた。


「ほう…やけに睦の肩を持つではないか、臣。皇子付き同士のよしみというものか?」


 常盤がせせら笑う。しかしながら、国家第二の実力者である常盤のこんな皮肉にも、臣はまったく動じない。若輩ながらも強気な男である。


「肩を持つなど滅相もない。私はただ、客観的に事実を申し上げているだけです。お気に障りましたか?」


 その時、小さく扉を叩く音が聞こえた。


「あの…大変遅くなりまして…。申し訳ありません…」


 あろうことか、そこに姿を現したのは睦本人であった。


 お辞儀をした顔を上げるや否や、一斉に視線が突き刺さる。そんな空気に睦は怯え、びくりと肩を揺らした。


(まったく一体何をしにきたのやら…。これではまた彼らの思う壺ではないか…)

 一瞬忌々しげに舌を打ち、臣は静かに瞳を伏せた。


「おお、良いところに来たな、睦」


 このとき臣は、したり顔の常磐がこちらを一瞥したのに気付いてはいたが、目を合わせてやる気など更々ない。臣はただぼんやりと目前で揺れる蝋燭の炎を眺めるのだった。


 ぺこりともう一度頭を下げ、睦はそそくさと臣の隣の空席に腰を下ろした。


「おまえ、体はもういいのか?」


 小声で尋ねてみると、睦は頷き、無心の微笑みを見せた。だが、その素直な顔を見るにつけ存分に呆れ果てた臣は、安堵あんどともあきらめともとれる曖昧あいまいなため息をつくのだった。

 確かに睦にしてみれば、たった今しがたこの場でどのような会話がなされていたかなど、知るよしもない。それでも臣は、あまりに無防備な彼の姿に苛立ちを覚えずにはいられなかった。


「早速だがな、睦。先刻の星読み、一体どういうことなのか、ここで改めてそなたの口から説明してもらおうか」


 学者の一人が厳しい口調で問う。


 その物腰にもひるみつつ、睦はたどたどしく自らの見解を語り始めた。


「ええと…。あれは恐らく…星読みの光が風に流された方角――つまり北方で何事か良からぬことが起きる…ということではないかと…私には、そう感じられるのですが…」


 ところがである。

 まだいくらも話さぬうちに、待ってましたとばかりの叱責が彼を遮ってしまった。


「たわ言もいい加減にせぬか、睦!」

「思われる、だと!?そのように自信のないことでは困るな!あの星読みは、蘇芳様や奥方様も直に見ていらしたのだぞ!?そなた、それを知らぬわけではあるまい!」

こと、陛下におかれては大層ご立腹だぞ!!貴様、この責任をどう取るつもりだ!?」


 入れ替わり立ち代わり、あたかも畳み込むよう口々に責め立てる。


「せ…責任…ですか…?」


 睦はぎゅっと胸を押さえた。


「当たり前だ!陛下の御前で、軽々しくもあのように不吉なことを…!貴様、それでもし予見さきみたがえたなどということになったら、その身、無事では済まんぞ!それがそなたのみならず、我々星読み学者の顔にまで泥を塗ることになるというのが分からんか!」


 擁護する者などない。またしても睦ひとりを一方的に非難する言葉が、つぶてのように飛び交い始めたのである。


 だが。


 睦にとっては、ある意味ではいつもの光景と言えた。言葉を返す隙も、言い訳をする間も与えられることなく、大勢の敵意の中で自分の居場所だけがなくなってゆく。

 もはや睦に反論する権利などなかった。本来仲間であるはずの同僚らも、決して自分に手を差し伸べてはくれないのは知っていた。


 だから――。


(そう…これはいつものこと。こんなのは、いつものことじゃないか…)


 こうなっては誠心誠意謝罪するしかすべはない。そうする以外の逃げ道は、残されていない――そう思った。


 ところがである。


 観念して立ち上がったその時、ぐっと睦のそでを引いた者がいた。


「!?」


 見れば、時折臣が見せるあの氷刃ひょうじんの瞳がじっと睦を睨んでいる。目が合うと不意に視線を外し、臣はその眼光をそのまま他の学者らへと差し向けた。


「あなた方。責任、責任と先ほどから何度もそう仰るが、それならば、いっそ星読み学者すべてが責を負ったらいかがだ。これだけの雁首がんくびを並べ、貴重な血税を浪費し、宮抱えの恩恵を思うままにしておきながら、未だにその誰もが睦といういただきを越えられない。その程度のあなた方に、まったく非が無いなどとは笑わせる。

 まして一様に同じ道を目指しながら、その頂点に立つ者の言葉をゆえなく疑い、あまつさえその何もかもを彼一人に背負わせようなど…。人の上に立つ宮廷学者たればこそ、到底許されることではなかろう!下らぬ企てをひねり出している暇があるのならば、仲間の荷をともに担いでやれる実力をさっさとつけていただきたいものだな!まさか今後、あのような場で何時間もかけた挙句に、まるで見当違いのめでたい未来を聞かされるなどという茶番だけは、どうにも御免(こうむ)るのでね!」


 即座に皆凍り付いた。


 今しがたあれほど勢いづいていた学者らも、この痛烈な指摘には唇を噛み締めるよりない。

 若いながらも、自分たちよりずっと身分の高い臣。そんな彼の発する言葉は、その内容から込められた皮肉に至るまで、いちいち痛烈に図星を突いていたからである。


 彼らにとっての睦という存在は羨望の的でありながら、同時に邪魔者であるといえた。ひと際に秀でた能力は、同僚として肩を並べる彼らの劣等感をいやが上にも煽る。その上、誰の目にも麗しい容貌と瑞々しいまでの若さ。更には后妃こうひ直々の擁護ようご――である。

 確かに、妬みの温床となるも頷けるが、どれも睦本人を責める理由に叶うものではない。


 再び隣を見ると、頬を強張らせた睦が目を真ん丸にしたまま固まっている。またしても臣は、うんざりとため息をつくのだった。


「まずは皆さん、彼の話を最後まで聞きましょう。それからでも遅くはない。水紅様はおろかあの篠懸様でさえ、我々の話はきちんと最後までお聞きくださるというのに、大の大人たちが寄ってたかってこの調子では、我が皇子様方に顔向けができぬというものだ」


 もう一度そっと袖を引いてやると、ようやく我に戻った睦があたふたと口を開いた。


「あ…!え、え…と、それで…。そ、そうですね…あの…。『後の世』とは、きっと今後のこと…あるいは代替わり後の、そう…もしかしたら、水紅様の時代のことかもしれません。『荒ぶる時』というのは恐らくは戦乱…。ですが、今はまだ静かな時代であるから、と…。敵は…真の我らの敵は、まだそのなりを潜めているのだから…と。そのような意味と、私には感じられましたけれども…」

「つまり、まだ猶予ゆうよはあるというのだな、睦。それに、まこと相違ないのだな?」


「あ…えと…」

 常磐の威圧にまた怯む。


 すると、隣で頬杖をついた臣が鼻先で笑った。


「占いに、確かも何もないでしょう?これは一つの読み方だと、そうお考えになった方が良いのでは?但し、私は信じますがね。我が国の誇る最高の星読みの実力を」

 

 

 

 


* * * * * * * * * * * *


 

 

 

 

 まだ静かな時代――と睦が読んだことで、議論は一応の目処めどがついた。長く時間を費やした会議はようやくそこで終わったのである。


 速やかに会議室を出た臣が光の宮へ足を向けると、背後から誰かの靴音が迫ってくる。立ち止まり振り向くと、その主は息を切らせた睦であった。


「臣…!あの…先ほどはどうも…。本当に、ありがとうございました」


 睦はぺこりと頭を下げた。


「一体何のことだ?」

「で…ですから、その…儀式の後も、それから今も…。色々と…今日は庇っていただいて…。何と言うか、重ね重ね…その…申し訳ありませんでした」

 どぎまぎと言葉を紡ぐ。


 そんな姿を見るにつけ、臣は三度目のため息をつかねばならないのであった。


 敵前に身を守る術を持たず、かといって誰を疑うことも抗うこともしない。

 いたずらに周囲に翻弄ほんろうされるばかりで、懲りる様子もまるでない。


 しかしそれでも彼は、その道では誰もが認める圧倒的な実力者に違いないのだ。


 なぜこうも不当に耐える。

 なぜこうも自らを貶める。

 なぜこうも簡単に――。


 突如として怒りがこみ上げた。


 次の瞬間。


 咄嗟に睦の胸倉を掴み、臣はそのままその細い体を力ずくで壁に叩き付けた。


「…っ!?」


 痛みと衝撃に睦は顔を歪めたが、それでも胸の手は緩められず、それどころか一層の力をもって壁に押し付けられる。


 戸惑う睦を睨み、臣は激しく声を張った。


「貴様という奴は、なぜそうも簡単に非を認めたがる!?あれほどの力を持ちながら、なぜそういつも自分に自信がないんだ!おまえを見ていると腹の底から苛々する!言いたいことがあるのなら、はっきりとそう言え!!おどおどするな!!」


 一気にまくすと、ようやく臣は睦から手を放した。


「おまえの態度は、ただの逃げだ!周りの悪意から逃れようとする余り、流されるままに振る舞い、もはや己自身さえも見失っている!!おまえほどの男が、なぜその愚かさに気付かないんだ!?」


「お、臣――」


 ふと、いつかの堅海の言葉が脳裏をぎった。


 ――もっと胸をお張りなさい。胸を張ってあなたの望むことを成せばよいのです。そしてもっとお心を強くお持ちなさい。誹謗や中傷など寄せ付けぬほどに!


 言葉は違えど、今まったく同じ思いを浴びせられた気がした。


 堅海も臣も…少なくとも彼らだけは、自分という人間をちゃんと認めてくれていたのだと――このとき初めて睦は悟った。


 こんな自分に何の偏見も持たずに接してくれる者などないと、いつの間にか頑なにそう思い込んでしまっていた。そうしていつしか、誰かと言葉を交わすことにさえ、怯えるようになっていたのだ。


 でも本当は――。


 踵を返し、立ち去る後姿を見つめながら、睦は小さく呟いた。


「ありがとう。本当に…ありがとう、臣…」

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 扉を叩いて中へ入ると、昼間とまったく同じ場所で水紅はあの本に見入っていた。熱中するあまり、傍らの短檠たんけいが細くなっているのにも気付かなかったようだ。


 黙って近付き、種油を足してやると――。


「どうした、臣。何かあったか?」

 こちらを見るでもないのに、だしぬけに問うてくる。


「え…。なぜそう思うんです?」


 問い返すと、ようやく誌面から顔を上げ、水紅は臣の瞳を覗いた。


「おまえにしては珍しく何事かに苛立っているようじゃないか」

「ふっ…。さすがは水紅様ですね。では、少し失礼しても?」


 一応口先では断りを入れたが、実際は許可を得る前にさっさと自分の椅子に腰掛け、臣は背(もた)れに斜めに体を預けた。

 衣の内に着込んだシャツの一番上のボタンを外し天井を仰ぐ。そうして瞼を閉じると、それまで体中を巡っていた疲れがじわりと滲んでゆくようだった。


「本当に珍しいな。何か私に言えぬようなことか?」


 すると臣は少し考え、やがて独り言のように口を開いた。


「結局、私は…。どうせ本物の学者なんかじゃないですから、何度経験を積んだところで、ああいう場には馴染めません。あのように明け透けに下らぬ感情をぶつけ合い、さしたる力もないのに己の保身ばかりを気にするやからは――。こう言っては申し訳ないが、吐き気すら覚える」


 つい思いのたけを吐き捨てた拍子に我に返った。横目をると、何とも複雑な表情の水紅が俯いているのが視界のはしに映った。


(あなたのそのような顔こそ珍しいではないか)


 胸の内で毒づいた。


「すみません。言葉が過ぎました」

「また睦が吊るされたか…」

「ええ…。彼は、突っ込まれる隙が多いですからね」


 頷く代わりに肩を竦め、水紅は小さく笑った。


「で、ご用は何です?お呼びになったでしょう?」


 気を取り直して向き直ると、水紅は用意してあった小包みを投げてよこした。


「明日のうちに如月に発つんだろう?それをあいつに持っていってやってくれ」

「篠懸様に?これ…中身は何なんです??」


 見舞いの贈り物――というには、あまりに小さく粗末な包みである。


「ただの花火さ」

「この季節に花火――ですか?わざわざご自分でお取り寄せに?」

「まあな…。昔、兄弟三人でよく遊んだものだ。私と…香登かがとと篠懸と…な」


 なぜか水紅は寂しそうだった。


「……」

 不意に見せる憂いに臣は戸惑っていた。


 かける言葉が見付からない――。


「まだ…誰もが、自分たちの行く末も存在理由さえも知らずに、ただ毎日、無邪気に笑っていられた頃の…。篠懸は、私や香登とは随分齢が離れているからな。あいつは本当にこんな些細なものが好きで、いつだって嬉しそうにはしゃいでいた。たかがありふれた、ちっぽけな花火だと言うのにな…」


 一見穏やかな眼差しは、目前の臣を突き抜けて遥か遠くを眺めている。それはまるで、優しく幸せな記憶の中へ気ままに魂を遊ばせ、かつて感じた温もりを再び全身で受け止めるが如く――。


「……」


 だがそれもほんの束の間のことで、じっと注がれた臣の眼差しに気付くとすぐに水紅はいつもの彼に戻ってしまった。


「私があいつにしてやれることと言えばこの程度しかない」

 鼻先で笑う。


 何を返すこともできず、臣は黙って目を伏せた。いつもするように笑い返してやることなど出来なかった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 何度も頼み込んでようやく休みをもらった妖は、珠洲を連れて黄蓮おうれんの都を歩いていた。


 楼蘭に来てから妖とともに置屋おきやで生活している珠洲が、花街はなまちの外に出るのは、実にこの日が初めてだ。

 紗那の都・扇とも、もちろん銀鏡の里とも違う、素朴で質素な異国の町にすっかり魅了される珠洲であった。


「珠洲は、扇よりこっちの方が好きだなあ」


 珠洲は実に嬉しそうだった。銀鏡からたった一人、命からがらここまで逃げ延びた彼女の顔に、これほど屈託のない笑顔が浮かぶのは久しぶりだ。


「今日は一日、ちゃんと珠洲のために空けてあるからね。そうだ!何かおいしいものでも食べようか?」

「うん!!」


 こうして笑っていれば、ほんの暫くの間だけでも悲しい記憶をごまかすことが出来る。珠洲の――そして妖自身の胸の痛みは、時間がいつかきっと癒してくれるだろう。絶え間なく続く時が、優しければ優しいほどに――妖はそう考えた。


 見れば、都の中央を走る大路おおじに沿って、既に大勢の人が集まっている。


「ねえ、妖。今日、何かあるの?」

 不思議と興味をごちゃ混ぜにした顔で、珠洲は無邪気に尋ねてくる。思わず返答に戸惑い、妖は曖昧な表情を浮かべた。


 今日は、紗那の皇子と姫皇子が黄蓮へやって来る日だ――。


 隣国からやってくる皇子らの姿をひと目見ようと、人々は大路の脇に幾重もの列を成して集まり、その到着を今か今かと待ちわびているのである。

 だが、それを珠洲に話してしまえば、この楽しいひとときはきっとそこで終わってしまうだろう。


 あの日――。


 涙と汗と泥でぐちゃぐちゃになって、ようやく黄蓮の入り口まで辿り着いた珠洲。小さな体に刻まれたあちこちの擦り傷に血を滲ませ、疲労と空腹でふらふらになりながら…。


 あの時、たまたま妖がそこを通りかからなければ、それこそどうなっていたか分からない。

 仕事帰りの道端で、石のように蹲るぼろぼろの幼子に、もしやと声をかけてみれば、見覚えのあるその少女は恐る恐る顔を上げた。


 あの顔。

 不意に見せたあの時の珠洲の顔は、果たして泣いていたのか、笑っていたのか――。


 思い起こせば、あの日の切なさが痛みとなって、またありありと蘇る。


 もうこの子にあんな顔はさせまい。仲間が――あの氷見が自らの命を賭してまで守ったこの子に、もうあんな辛い思いはさせられない。させられるはずがない。


「ええと…そうねえ…。何だろうか…ねえ?」


 適当にはぐらかすほかはなかった。強引に珠洲の手を引き、妖は大路とは逆の方向へと歩き出した。


「妖…!妖ってば!痛いよ…!!」


 はっと手を放す。知らず知らずのうちに、手に力が入っていたらしい。


「あ…ああ、ごめん…。ごめんね、珠洲…」

 珠洲の髪を撫でながら、妖は何度も何度も謝った。


 ところが、その時。


 シャラン――!


 どこからか響いた、澄んだ鈴の音にどきりと胸が鳴る。咄嗟に妖は、珠洲を力いっぱい抱きしめた。


 シャラーン!

 シャララーン!!


 音はゆっくりと近付いてくる。


 紗那の一行が黄蓮に到着したのだ。


「妖…?」


 にわかに騒然となった大路。


 振り向けば、ゆっくりと過ぎゆく立派な黒い唐車が目に留まった。


「妖、ほら見て!!あそこ!すっごい大っきな車ー!!」

 初めて目にするみやびに、珠洲の無垢な瞳はすっかりとりことなってしまった。


 そうして、あろうことか次の瞬間――。


「!!」


 不意に妖の手をほどき、珠洲は大路へと駆けて行ってしまったのである。


「だ、だめ!だめよ、珠洲!!行かないで…!!」


 叫べども、今の彼女の耳に届くはずもない。


「珠洲!珠洲…!!」


 群れる人垣を掻き分け必死にその姿を探すが、妖の細い声は、無情にも歓声の波にかき消されてしまう。それでも懸命に声を絞り、妖は何度も珠洲を呼び続けた。


 その時だった。


 居並ぶ人ごみの向こうに、見覚えのある赤いちりめんの帯がちらりと見えた。あれは間違いなく妖が着せてやったものだ。


「珠洲!!」

 なりふり構わず人を分け、やっとのことで捕まえた小さな肩は――。


「!!」

 妖はぎくりと凍りついた。恐らく珠洲も同じ気持ちだったに違いない。


「き…ら…?」


 細く声を戦慄わななかせ、珠洲はうわ言のように声を漏らした。


 漆箔しっぱくで飾られたひと際大きな紗那皇子の唐車。その脇には、大勢の供奉ぐぶが歩みをともにしている。その更に後ろには、皇子たちを護衛する軍人の姿があった。


 その中に、二人は確かに見たのだ。かつて寝食をともにした少年の姿を…。


 一体なぜ――!?


 自分たちを裏切り、大勢の仲間を無残に殺したあの紗那の軍に、なぜ同じ銀鏡の子どもが混ざっているのか?仇敵きゅうてきであるはずの彼らと、あの雲英きらがなぜ行動をともにしているのか――。


「妖…。何で…なの?どうして雲英、あそこにいるの?なんで紗那の軍服なんか着てるの…!?」


 瞼いっぱいに涙を浮かべ、珠洲は何度も問うてくる。しかし、そうして尋ねられても、妖にも分かるはずはない。


 と――。


 隊列に誘われるように、ふらふらと珠洲は歩き出した。


 すかさず珠洲を捕まえる。握ったその手を引き寄せ、妖は力いっぱい珠洲を抱きしめた。

 見上げる珠洲の頬を涙が伝う。


「ねえ…あれ雲英だよ。雲英が生きてる…。ほら雲英…。あそこにいるよ、妖…!!」


 そして珠洲は、大きく息を吸った。


「ねえ、妖!雲英がそこいるんだよ!待って!行かないでよ!き――」


 珠洲は、仲間を呼び止めようと思ったのかもしれない。


 咄嗟にその口を手で覆い、妖は速やかにその場を離れた。

 腕の中では、珠洲がばたばたともがき続けている。それでも、手を緩めることなく、やっとのことで物陰まで引き擦っていくと、ようやく妖は手を放した。


「どうして!?そこに雲英いるよ!?妖は雲英に会えて嬉しくないの!?」

「嬉しいさ!そりゃあ、嬉しいけど…!!でもね…。でも、あそこでもし雲英に気付かれたら、あたしたちだってただでは済まないんだよ。どうか今は堪えておくれ、珠洲…!」


 妖は瞼をぎゅっと押さえた。


「あの子――。なぜ軍服なんか着て…本当にどうして…あの子は…」


 不安と悔しさと悲しみが、一度に合わさりもつれ合う。


 どうしてこんなことに…!!


「そうだ!じゃあ李燐りりんも…!」

 珠洲は、着物の袖でごしごしと涙を拭った。


「あの時、李燐には雲英が付いてたもん、きっと生きてるよ!!だって雲英、強いもん!絶対負けないもん!だから李燐も――!」


「紗那にいるって…言うのかい?」


 そうだ…。


 一緒にいたはずの雲英が軍に身を置いているということは、李燐も政府あるいは軍にとらわれている可能性がある。


 ならば――。


「そうか、あの子は…。雲英は、あたしたちを裏切ったわけではないかもしれないね…」


 気丈に眉を結び、妖は遠ざかる隊列をじっと見据えた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

夜叉やしゃよ。貴様、万が一おかしな真似をすれば…分かっておろうな?」


 ちらちらと何度も沿道を見る視線に気付いた兵士の一人が、雲英の耳元へ囁いた。


「……」


 堅く口を結んだまま、雲英はしっかと頷いた。


「かの有名な銀鏡の夜叉の姿を拝めると楽しみにしていたのに、まさかこのように呆けた小僧だったとは、まったく興醒めだよな」

 別の兵士があざけて笑う。


「……」


 あの日、女子どもばかり数名を連れて、氷見らとは別の方向に逃げた雲英は、結局、彼女らを他の仲間に預ける形で里へ戻り、改めて氷見らの後を追った。


 恐らくは、十七・八辺りの年齢と思われるこの少年。しかしその風体とは裏腹に、なぜか心は意外なほど幼い。なりは立派な大人の体躯たいくを成しているのに、発する言葉の片言さや考えの幼稚さはまるで赤子のそれなのである。


 そんな雲英を森の奥から連れ帰り、その後も何かと面倒を見てやっていたのは李燐という少女だった。


 一体どうしてそんな場所にたった一人で置き去りにされていたのか――と、何度か本人に尋ねてはみたが、それは無駄な話だった。なぜかと言えば、当時の彼が口にできる言葉が相槌と己の名前だけだったこと。それから、何事か事情があるには違いなさそうだが、どうもその辺りの記憶が曖昧で、その殆どが失われている節があったからだ。

 だがそんなことを気に留めるふうもなく、李燐は甲斐甲斐かいがいしく雲英と接した。雲英も彼女にはことほかよく懐いた。


 いな


 雲英にしてみれば、ちょうど同じ年頃の李燐という娘は、ただの仲間などではなく、ただ一人の大切な存在ひとだったのかもしれない。


 雲英が危険な仕事に手を染めるようになったのは、彼女が氷見を心配したからだ。


「仲間を危険に晒すぐらいなら俺がやる。俺がうまく立ち回ればそれで誰も傷つかずに済む」


 そう言って氷見は、いつも報酬の高い危険な仕事ばかりを選んで請けた。彼を弟のように思い育ててきた李燐にとって、これは辛い言葉だった。


 仕事に出かけた弟を心配するあまり、その度に陰で涙をこぼす李燐を傍でずっと見守り続けた雲英は、ある時ついに刀を握り氷見の隣に立つ。


 誰かに習ったわけでも、鍛錬を積んだわけでもないのに、雲英の剣技は驚くほど鮮やかで巧みだった。


 失う前の記憶が、そこに現れていたとでも言うのだろうか――?


 まるで剣舞を演じるような独特な動きで、軽やかに敵の間を縫い、次々に目標を仕留めてゆく。そんな彼の姿は、いつしか『銀鏡の夜叉』と呼ばれるようになり、『銀鏡の火喰鳥ひくいどり』と異名をとる氷見と並び称され、その世界の者をして次第に忌み恐れられるようになっていった。


 紗那には今、李燐が囚われていた。雲英の高い戦闘能力に目をつけた軍が、その力を利用せんがために敢えてこの二人を同時に捕らえたのだ。

 実際彼女を盾に脅せば、雲英はどんなことも厭わないだろう。そんな彼の純粋過ぎる想いは、今やすっかり軍の手の中に握られているのだ。


 雲英は今試されている。その忠義を、純粋さを。

 そして、求められさえすれば、紗那の兵士としてその腕を如何なく振るう、ひとつの『兵器』としての彼の存在を――。


 隊列は静かに黄蓮の内裏へと進む。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 磨鑛殿前の石畳では、皇帝と皇后、水紅皇子らを始めとした内裏の貴人が出揃い、紗那皇子の到着を待ち詫びていた。


 空は麗らかに晴れ渡り、危惧された昨日の案件も取るに足らぬことのように思われた。


 風がふわりと新緑の香りを運んでくる。

 爽やかな吉日だ。


 やがて、ひと際大きな鈴の音が短く二度響いて、先んじて現れた馬廻うままわりが、国賓の到着を厳かに告げた。続いて、数台の牛車に守られた黒塗りの唐車が、美しい蒔絵飾りを煌かせながらゆったりと広場を半周して停止すると、それらに従う供奉や兵士は一斉にその場に跪いたのであった。


「臣」

 涼しく前を向いたまま発せられたその声は、聞こえるかどうかという程のひどく微かなものだった。


「はい。何です?」

 すぐ後ろに控えた臣が、水紅の肩越しに声をひそめる。


 すると――。


「彼らの名を忘れた。おまえ、覚えているか?」


 臣は苦く笑った。


「ええと…。姉君が月夜つくよ様。それから、弟君は海棠かいどう様…とか。海棠様は、数えで――そう、確か二十歳になられたはず――ではなかったですか…ね?」

 こちらもなにやら自信がなさそうだ。


 平静の顔でそれを聞き、水紅は何度か小さく頷いた。


「そうか。月夜様は海棠様の…確か二つ上でいらっしゃったな?」

「ええ、恐らく」


 そう答えた後、臣は口を噤み膝をついた。


 高らかに紗那皇子の御成おなりが宣言され、唐車から、水紅と変わらぬ背丈の青年と、これまたすらりとした若い女性が現れる。


 皇子の訪問は、両国の友好を示すという名目のもと、もう何十年もの間、数年の間隔で続けられてきた慣例である。だがそれも、今回に限ってはこの日が実に十年ぶりであった。


 十年前の第二后・霞深かすみ失踪事件、そして二年前の香登皇子失踪事件。楼蘭で相次いだ、これら不吉な出来事により、前回・前々回と、この行事はことごとく先送りにされていたのである。


 今日、ようやく皇子らは、その十年で成長した姿をここに示す。相手の顔形や名前を水紅が良く覚えていないのも、そういう意味では仕方のないことと言えた。


 一方。


 臣はと言えば、水紅の皇子付きとなってまだ五年。皇子付きとしてひと通り紗那皇子のことを知ってはいても、実際にまみえるのはこれが初めてのことだ。


 ところが――。


 ふと差し上げた臣の眼は、ある一点に釘付けになってしまった。


(あれは…!?)


 平素あれほど沈着な彼がにわかに焦燥を見せたのは、紗那皇子らに続いて、唐車から現れた付き人の中に、ここにあるはずのない存在を認めたためであった。


 まさか有り得ない!

 なぜ――!?


 の当たりにしても、とても信じられなかった。


 かの国を後にして以来、ずっとひた隠しにしてきた己の過去。それを知る人物の姿を前に、臣ははっと顔を伏せた。唇をぎりと噛み締める。


(ジャスティ…!ジャスティス=イングラム!!奴がなぜこんな所に…!!)


 ジャスティス=イングラム。

 彼は、かつて各地を転々としていた臣が、ここから遥か遠く離れた某国の一兵として暮らしていた頃に、ある関わりを持った人物であった。


「どうした?」

 察した水紅が密かに横目で尋ねてくる。


「いえ…別に。何でもありません…」


 今はそう答えるしかなかった。


 俯く臣を訝りながらも気を取り直し、水紅は蘇芳と白露について紗那の皇子のもとへと向かった。その側近である臣も、当然ながら彼の後に控えねばならない。


 しかし――。


(悔しいが、この場では…。どうにも避けようがない)


 深いため息とともに顔を上げる。

 もはや、己の過去が白日に晒されることを覚悟するしかなかった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 久しく顔を合わせていなかった楼蘭の皇族と紗那皇子らは、互いにうわべの笑みを湛え、形式ばった挨拶を交わした。

 その間ずっと、表向きの平静を保ちながら、臣はイングラムの観察を続けていた。決して瞳は上げず顔も向けず、水紅の背中越しにただ一人の気配だけをつぶさに追う。

 言動や表情などから察するに、どうやら彼も自分同様の立場にあるように思えた。


「水紅様、こちらは…?」

 姫皇子の月夜が臣を見る。


「ああ…。彼は私付きの教師です」


 背後に控えた臣が目礼もくれいする。


「臣と申します。以後、お見知りおきを…」


 そう口を開いた途端、激しい敵意が突き立てられた。


 今更確認するまでもない。眼差しの主は彼――イングラムである。


「私どもの国では教師が専属で付くいうことはないのですけれど、それでも何人か直属の侍従じじゅうがあります。同じようなものと考えてよろしいのでしょうか?」


「そうですね…。そういうことになりましょうね」

 水紅は穏やかに頷いた。


「では…。こちらからは、彼を紹介させていただこう。ちょっと強面ですがね、これがなかなかに気の利く男です。こちらへ、蘿月らげつ

 弟皇子の海棠が一人の侍従を呼んだ。


 その男が前に立っても、臣は暫く顔を上げようとはしなかった。姿など見ずとも、悪意に満ちたその気配だけで十分彼のすべては伝わっていた。


「お初にお目にかかります」

 蘿月と呼ばれた大男は、低い声でそう言うとゆっくりと頭を垂れた。


 もはやこれまで――。


 ついに観念した臣は、真正面から、かの男を見る。こうして近くでまみえてみれば、やはり疑いようはない。確かにその人だ。


 ところが。


 その刹那、なんと蘿月は不敵に瞳を微笑ませたのである。


(……!)


 顔にこそ出さなかったが、正直どきりとした。ふてぶてしいその眼が、ようやくおまえを捕まえたぞ――とはっきり語ったように思えたからだ。


(まさか追ってきたのというのか!!私を…!?)


 直感した。


 だが、もしもそうであるならば、蘿月がここにいる目的などただの一つしか考えられない。到底穏やかとは言えぬ心を平静の仮面で隠し、辛うじて臣は浅い会釈を返すのであった。

 

 

 

 


* * * * * * * * * * * *


 

 

 

 

 両国の揺ぎない絆を祝う宴が、光の宮で盛大に執り行われている。


 その間もずっと、剥き出しの憎悪はしつこく臣に付き纏っていた。

 あたかも舐め回すかのような、身体中に絡みつくかのような――それでいて、人を串刺しにするほど激しい憎悪の宿る視線。


(やはりこの禍々しい気配は…)


 眉をひそめた臣は、わざと視線の主を睨んで合図を送ると静かに立ち上がった。


「皇子様、少し…気分が優れませんので、申し訳ありませんがここで一旦下がっても構いませんか?」


 その言葉に一体何を察したか、水紅は僅かに頷いた。


 念押しの意味で、今一度目配せをくれてから広間を出た臣は、足早に石の廊下を進んだ。そうして向かった先は、水紅の部屋でも自室でもなく、この光の宮の裏手にある小さな噴水のほとりである。


 やがて――。


「久しいな、臣。あれからもう六年になるか…」


 果たして、柱の陰に潜む大男が呟いた。


「……」

 感情のない眼差しが、じっと声の主を睨んでいる。


「随分探したよ…。やっと会えた」


 そして男は、陽光のもとにその姿を現す。

 癖のかかった金色の長髪に蒼玉そうぎょくを宿した瞳。そして、身の丈七尺(約二メートル)を超える頑強な格幅かっぷくは、明らかにこの国のそれではない。


「蘿月…とか仰いましたか?どう見ても異国のかただが」

「ふっ…。それはおまえも同じだろう?」

「私は名を偽ってなどおりませんから」


 蘿月はにやりと口角を上げた。


「はは…。懐かしきかな、貴様のその減らず口。まこと相変わらずで嬉しいことよ…!」


 言い放つや否や瞬時に地を蹴り、蘿月は臣の鼻先へ迫った。


「!!」


 即座に伸ばされた巨大な左手――それがおもむろに臣の髪を掴み上げ、同時に懐から抜かれた短刀が、ぴたりと喉元へと宛がわれた。

 大柄な図体に似合わず、まるで手馴れた俊敏な動きだった。


 蘿月は、僅かに倨傲きょごう表情かおうかがわせたが――。


 その動きのすべてを視界に捉えながら、どういうわけか臣は微塵の抵抗も見せなかった。むしろ相手の何もかもを理解しながら、えてされるがままになっている――と言うべきか。


 狼狽ろうばいも動揺もない代わりに、感情のない瞳は氷のような冷淡さを失うことなく、平然と蘿月の姿を映している。


「できるものなら、今ここで貴様の喉笛を思い切り掻き切ってやりたい。そうすれば、その涼しい顔も激しい痛みと苦しみに悶え歪むことだろうにな…!

 ほとばしる鮮血の海と、止めなく滴る血潮が、徐々に貴様の体の熱を奪い去ってゆく様を、ここでこうして眺めるというのもなかなかに楽しかろうぞ」


「はっ。相変わらず悪趣味な人だな…」

 臣は薄く笑った。ふてぶてしい、まるで人を食った笑みだった。


 あからさまな挑発。


 途端、その眼に尋常ならざる殺意をたぎらせた蘿月は、更にぐっと刃先を押し付け、白い肌にくれないの一筋を伝わせた。


「どうしてもと仰るのなら別に止めはしませんがね…。今更あなたがそうしたところで、あのかたがお喜びになるなどとは私にはとても思えません」


「き、貴様っ!貴様のせいで姫様は…!!」


 更に逆上した蘿月はついに刀をも投げ捨て、その手で直に臣の首を絞め始めた。


「く…!」

 突き立てられた指が薄い皮膚へ食い込むほどについ声が漏れる。


 ところが――。


 反射的に手首を掴み返しこそしたが、それをこじ開けるでもなく、やはり臣はされるがままになっていた。ただし、相手を見据えた瞳だけは僅かたりとも離さない。


 太い指はぐいぐいと喉に沈んでゆく。


 ともすれば遠退とおのきそうな意識を、辛うじて気力で保ちながら、それでも臣の表情が苦痛に歪むことはなかった。


 その時である。


「うちの者に、それ以上ちょっかいを出すのはご遠慮願おうか」


「!!」


 突然の声に怯んだ蘿月は即座に飛び退き、そばの茂みに身を隠した。ここで逃げ場を失っては事だ。


 なぜなら、その声の主は――。


「と…水紅様…!!」


 苦しげに一声絞ると、臣は何度も咳込んだ。


「ここは我が宮。その主である私が、今ここで大声を出せば、すぐさま我が軍がこの場に大挙押し寄せる。そうなれば、此度のそなたの狼藉ろうぜきは、取り返しの付かぬ国際問題へと発展しよう。異国の者とはいえ、紗那の皇子に仕えるそなたが、まさか我が国と紗那の因縁を知らぬわけではあるまい。

 ここは、このまま黙って退く方が得策だと思うがね。今ならば、こちらも敢えて目を瞑ってやろうと思うが――さて、どうする?」


 水紅は懐から短筒たんづつ(銃身の短い鉄砲)を引き抜き、ぴたりと銃口を茂みに合わせた。


 ぬるい風が流れ、噴水から落ちる水音がさらさらと大きく耳に障る。


 やがて――。


 忌々しげに何事かを吐き捨てると、蘿月は速やかに走り去った。


「み、皇子様…。そんな物騒なものを一体どこから…?」

 そこまで言うと、臣は再び咳き込んだ。


「ああ、これか?ここへくる前に、おまえの机から拝借した」

 さらりと言い放つ。そうして差し出された短筒ものを素直に受け取ると、臣は首の傷をそっと押さえた。


 今の話を聞かれたとなると、もう隠してもおけまい。覚悟はしていたが――そう、できることなら水紅にだけは知られたくなかった…。


「さて。これは一体どういうことだ、臣?」


 意外なほど穏やかな声だ。

 もう観念するしかなかった。


 しかし――。


「こ…これは、その…。私が…かつて某国に、一介の兵として身を置いていた頃の…」

「おまえ、まさかここで死ぬ気だったのか?」

「は…?」

「今ここで、あやつに殺されるつもりだったのかといている!!」


 突然水紅は声を荒らげた。


「い、いえ…。決して、そんなつもりは…」


 そう否定しながらひどく怯むその姿に、いつもの凛々(りり)しさは欠片かけらもない。


 水紅はぐっと唇を噛み締めた。

 こみ上げる熱い感情きもちをどうすることもできなかった。とにかく無性に悔しく、腹立たしくてならなかった。


 こんな臣の姿は見たくなかった…。


「ならば今、私がここに来なかったらどうなっていた!?あのまま放っておいたら、今頃おまえはどうなっていたんだ!!」


 にわかにこみ上げる感情のままに、水紅は臣の胸倉を掴んだ。

 本当は平然としていて欲しかった。いつものように呆れるほどの悪態をついて、それは誤解だ、勘違いだと軽く笑い飛ばしてくれたなら…。


 ところが。


「申し訳……ありません…」


 臣はそれ以上の弁明をするでもなく、水紅の視界から逃れようと顔を背けたのだった。


 そんな臣の態度が、水紅の苛立ちを否応なく高めてゆく。


 一体、どうしてこんなことに――。


(そんなことじゃない。詫びて欲しいわけじゃない!あのいつもの臣はどこへ行った!?いくら追い詰められようと、どれほど責められようと、決して一歩も退かぬ、あの臣の姿は…!!)


 彼はこんな男ではないはずだ。

 私の見込んだ男は、決してこのような――。


 水紅は遣るかたのない怒りに震えていた。


「許さんぞ、臣。私に黙って、勝手なことは断じて…!!いかなる理由があろうとも、勝手にあやつにその命くれてやろうなどと努々(ゆめゆめ)思うな!あやつだけではない、誰にもだ!終生この私に仕えると誓ったその身、その命、もはや私の物!それを忘れるな!!良いな!!」


 感情的に放って臣を睨んだその瞳に、うっすらと光るものがある。


(水紅様…)


 崩れるように手を付き、臣は額を伏すのだった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 広間へ戻ると、先に戻っているはずの蘿月の姿が見当たらない。不審に思った臣は、自分の席から比較的近い位置に座る宰相補佐・たちばなのもとへ向かった。


「橘様、先日はお疲れ様でした」

 まるで何事もなかったように、臣は気さくに微笑んで見せる。


「これは臣殿。先日はどうも」


 ふと橘の視線が臣の首元に落ちる――。


 先刻の傷は出血こそ止まっているが、臣の白い喉にくっきりと赤く浮いている。襟を立てることでさり気なくごまかそうとしているようだが、彼が動くそのたびに赤い筋や指の跡がちらりと首筋から覗くのだ。


(あの男、早まったことを…!!)


 実は、イングラムを遠い異国の出であると知りながら、また、彼が紗那へ来た目的をも承知しながら、敢えて城内に招き入れ皇子直属の位置に置いた人物こそ、橘その人であった。


「おや…?今日は…来栖くるす様はいらしていないのですね?」

「ええ、彼は急な用事ができましてね。残念ながら、今日は城で留守番です」


 そのどちらもが終始にこにこと愛想の良い笑顔を浮かべ、まったく他愛のないことを語っているように見えるが、その実、相手の一挙手一投足を余すところなく観察し、互いの腹の内を探り合っているのである。


「ああ、そう言えば…。来栖様によく似た『彼』はどうされました?先ほどから、お姿が見えないようですが?」

准将じゅんしょうに良く似た…?さて…?」


 おもむろに首を捻り、橘は室内を見渡した。


「確か…先ほどお話させていただいた折に、蘿月様――と名乗られましたが…」


 この白々しさには、さしもの橘もつい眉をぴくりと動かした。


(今の今まで一緒だったそなたに分からぬものを、私が知るはずなかろうが…!)


 しかし、この素振りから、臣は何事かに勘付いたようである。


「ああ、蘿月ですか。そう言えば、先ほど席を外してから戻っておりませんね。探して参りましょうか?」

「いえ、そんな…。それには及びません」


 胸の内では毒づきながら平然とうそぶく橘に、臣はにっこりと微笑みかける。否。ここは、ふてぶてしさを孕んだ会心の毀笑(きしょう)――とでもひょうすべきか。


「ただ私は――先刻貴重なお話を聞かせて頂いたお礼を申し上げたかっただけですから…。そうだ、宜しければ、橘様からあの方にお伝え願えませんか?『昔話の続きはまたいずれ是非。これが私からのお返事です』とね…」

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 宴が行われているその最中さなか、紗那の護衛らの殆どは、光の宮の周辺で、外部の出入りを警戒しつつ時間を潰さねばならなかった。

 普通ならまったく退屈な任務と言えたが、今回に限ってはそうでもない。かの有名な銀鏡の夜叉が、自分たちの中に紛れているというそれだけで、良くも悪くも兵士たちは色めき立っていたのである。


 受け持ちを命じられたその場所で、ぴたりと人形のように動かない雲英に時折ちらちらと目を泳がせながら、紗那の兵士らは口々に様々なことを囁きあっていた。


「あの夜叉っていうのは、こんな痩せっぽちのガキだったんだな…。もっとごつくて、厳つい大男かと思っていた」

「わざわざこちらが気を遣って話しかけてやっているのに、あのガキ、にこりともしねえばかりか、声も出しゃあしねえ。可愛い気のねえ小僧だよ、まったく…」


 そんな彼らをまるで気に留めるふうもなく、雲英は一心に彼方を見つめている。その表情には、喜びも悲しみも――まして怒りすら浮かばない。ただ無表情に黙りこくったまま、じっと前だけを向いている。


 ところが、その時。


「!!」


 茂みから飛び出してきた何者かが、思い切り雲英の背中にぶつかってきた。その衝撃で前方に跳ね飛ばされた雲英は、ぺたりと地面に手を付いた。


「……?」


 見上げると、それはあの蘿月であった。


「貴ッ様あああっ!!このよう場で何をしている!往来の邪魔だ、どけ!今すぐにだッ!!」


 きょとんと小首を傾げる顔に、蘿月は頭ごなしの怒声を浴びせた。


 しかし、雲英にしてみれば、命じられた場に立っていただけのことで文句を言われる筋合いのないことである。そもそも、そこに静止している者にいきなり衝突するなど、どう考えても蘿月の前方不注意であり、雲英にそれほどの非があるとは思えない。ひどい話である。


 だが、そんな風に思うのは先ほどから雲英を密かに窺っていた兵士らだけで、どういうわけか、当の雲英自身は何とも感じていない様子であった。


 すっくと立ち上がりぺこりと頭を下げた後、雲英は宮の玄関方面へと足を向けた。その姿は素直――というよりも、意思や感情といった心の部分が欠落しているようにも感じられた。


 ところが。


「おい、貴様…ちょっと待て」


 不意に肩を掴んで呼び止める。たった今、せっかくの復讐の機会をふいにされたばかりの蘿月は、あろうことかその苛立ちをこの雲英にぶつけようというのである。


「生意気な小僧だな…!まるであいつのように!!」


 忌々しげに舌打ちするや否や、蘿月は猛然と雲英に掴みかかっていった。


 ところがである。


 その手が届くすんでで雲英が足を引いたために、振り上げた拳は虚しくくうを掻き、蘿月はやや前方へつんのめる格好となってしまった。


 お陰で蘿月の苛立ちは、猛烈な怒りへと姿を変えた。


 あたかも獣のような雄叫びを上げ、この生意気な小僧をが非にも捕らえてくれようと蘿月は何度も執拗しつように手を伸ばす。

 一方の雲英はその手を次々にかわし、変わらぬ無表情でするりするりと擦り抜けてゆく。


 忘我ぼうがに眼をたぎらせた蘿月は、完全に上気を逸している。だが、そんな彼とは裏腹に、雲英の顔色にはこれっぽっちの変化もなく、息さえもまったく乱れてはいなかった。


 そんな雲英の姿と、宿敵・臣の姿が蘿月の中で何度も重なった。


「貴ッ様ああっ、なぜ避ける!大人しくそこへ直れええええっ!」


 そう言われた途端、驚いたことに雲英はぴたりと動きを止めた。


 そして――。


 とうとう太い手に胸を掴まれ、雲英の身体は宙にぶらりと浮いた。雲英を睨む血走ったまなこは今や激しい怒りに戦慄わななき、拳はぶるぶると震えている。


 傍観を決め込んでいた兵士らも、さすがにこれには面食らった。


「お止めください、蘿月様…!!」

「どうか、どうかここはお収めください!」


 口々に叫びつつ、何人もの兵が蘿月の巨体に縋り付く。


 紗那の異変に気付いた楼蘭の兵士らも慌てて駆けつけ、光の宮の玄関口は、にわかに騒然となったのだった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 ひどく慌てた様子で滑り込んできた一人の紗那兵が足元へ突い居り、素早く何事かを囁くと、橘は眉を寄せて静かに立ち上がった。


 その様子を自らの席から観察していた臣は、会場の遥か奥で大勢の公賓こうひんに囲まれた水紅あるじへ目配せを送る。

 遠まきながらに水紅もこの異変には気付いたようだった。微かに返された合図を認めると、臣も密かに席を立ち、橘の後を追った――。


 さて。


 ひと足先に玄関口へ到着した橘は、入り乱れる兵らを掻き分けながら蘿月と雲英のもとへと急いだ。


「貴様ら、一体何をしている!?恥(さら)しにも程がある!」


 弾けるような怒声に、兵士らはぴたりと動きを止め一斉に膝を付いた。そうして平伏す兵士らの間を、肩を怒らせた橘が迫り来る。


 しかし、その姿に気を奪われた蘿月の僅かな隙を、雲英の目はしっかりと捉えていた。


 そして――。


 パンッ!


 乾いた音が上がった拍子に蘿月は大きくよろめいた。宙にぶら下げられた体勢から、雲英が思い切り蘿月の脇腹を蹴り上げたのである。


 横っ腹を抉る強烈な痛みに蘿月は激しく顔を歪めた。


 一方、勢い良く足を振り上げた反動で、己の身まで空へ放り投げる恰好となった雲英は、そこで宙返りをひとつして、ひらりと大地に降り立った。


「…っ!!」


 堪らずがくりと崩れる蘿月。しかし、すぐさま気丈に顔を上げ、すっかり憎悪に支配された眼で雲英を射込いこむ。


 そんな二人の間に立ち、再び橘は声を張った。


「貴様ら、いい加減にしろッ!誰かこの馬鹿どもに縄を打て!そして、そのまま車の中にでも押し込めておけ!良いな!!」


 口惜しげな顔が、今度は橘を睨む。


 すると橘は唇の端を不敵に吊り上げ、蘿月の耳元へと囁いた。


「貴様…。彼奴きゃつにはまだ手を出すなとあれほど申し付けておいたというのに、まったく余計なことを――。あまり調子に乗るでないぞ、イングラム。おまえのその首、今ここでねてしまっても、こちらは一向に構わんのだ…!」


 橘は、眼光をぎらりとたぎらせた。


「両人ともに沙汰は追って申し付ける!さっさと連れて行け!!」


 すると、そこを見計らったように――。


「おやおや、これは一体…?何事でしょうか?」


 涼しい顔の臣が現れた。

 口先では尋ねておきながら、もちろんそのすべてを物陰から目撃し承知している。


 臣の目配せを受けた楼蘭兵が一様に頭を下げ、各々の本来の持ち場へ散ってゆく。


(ちっ…!抜け目のないことだ。煮ても焼いても食えんな、この男…)


 毒づく本心を打ち殺し、橘はにっこりと微笑んだ。


「いやいや、ただの喧嘩です。お騒がせして申し訳ありません。何分なにぶん、血気盛んな連中ばかりでしてね」


「それはそれは…。さぞ退屈しておられたのでしょうねえ」


 あたかも意味ありげに細められる瞳。


「え…ええ、まあ…」


 ようやく橘はこの一部始終が彼に目撃されていたことを悟った。牙を噛む思いで、橘はうっすらと苦い笑みを浮かべるのであった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 その後、滞りなく時は過ぎて、紗那の皇子らは何事もなかったように楼蘭を後にした。


 結局先の騒動については、詫びの言葉を賜るどころか楼蘭側へ知らされることすらなく、また、その場にいた臣にしても水紅以外の人間に報告する気などなかったので、事実上、内々に処理される形となってしまった。


(しかし、あの赤い髪の少年…。確か銀鏡の…)


 騒ぎの折、蘿月を蹴り倒したあの少年に、臣は確かに見覚えがあった。


 だが。


 先日橘らと堅海とのやり取りを立ち聞いた際に得た情報を思えば、彼が紗那軍に身を置いているなど、不自然極まりない。


(一体どういうことだ…?彼が…夜叉が紗那を手引きしたというのか?)


 そんなことを考えながら、いつしか水紅皇子の部屋の前にいた。あれほど見慣れたこの扉が、今はやけに重く感じられ、触れることさえためらわれる。


 先の報告と、如月への出立の挨拶――今臣は、それをあるじに伝えねばならない。


 しかし――。


 意を決して扉を叩こうとした手がまた止まる。今更、何を迷っているでもない。ただ、あんなことの後でどんな顔をすれば良いのか分からなかった。


 正直なところを言えば、『もう自分などどうなっても構わない』という思いが、あの時――蘿月と対峙たいじしたまさにあの時、臣の脳裏をかすめていたのである。水紅の激しい剣幕に、ついそれを否定してしまったが、過去に己が犯した罪を思えば、あのまま彼になら殺されてやっても良いと――本当はそう思っていた。


 ジャスティス=イングラム。


 彼がまだ、臣の知る彼のままであるならば、その復讐を遂げるためには、きっとどんな手段をも厭わないはずだ。憎い仇をとことんまで追い詰め、その苦しむ顔を拝むためならば、それこそ彼はどんなことでも――。


(そしていつか…。万が一にも、その手が水紅様に及びでもしたら…)


 あの時そう感じた臣は、敢えてあのようにひとのない場所に彼を誘った。そして、そこまで彼が望むのなら、本懐を遂げさせてやろうとさえ思っていた。

 こんな命をくれてやることで、水紅に手出しをされず済むのなら――。臣にしてみれば、それほどまでに己の命は安いものでしかなかったのである。


 だが。


 ――今ここであやつに殺されるつもりだったのかと訊いている!!


 あの時の皇子の顔が、ありありと浮かぶ。紛れもなくあれは彼の本心だった。浅はかな臣の行動に、あの水紅が本気で腹を立てていたのだ。

 己を偽ることしか知らない彼のうちで、他人に対する怒りとも悲しみとも取れる激しい感情が、にわかに爆発したその刹那――。


 思い起こして目を伏せた。


 嬉しかった。


 幸せだと思った。

 心から、彼を愛しいと思った。


(あの水紅様が…まさか、私のために泣いてくださるなんてな…)


 小さく笑って、ようやく臣は扉を叩いた。


「私です」

 いつものように告げて部屋へ入る。


 例によってあの本を広げていた水紅が、ゆっくりとこちらを振り向いた。


 穏やかな中に、濃密な孤独を湛えた深い瞳。


 その視野に触れた途端、臣は思わずその場にひざまずいた。見慣れていたはずの姿に、改めて胸に迫るような神々しさを覚えた。どうしたことだろう。なぜか、まともに顔が見れない…。


「ふっ…。えらく他人行儀だな。いつもは、そこの椅子で踏ん反り返っているくせに」


 眉を解いて水紅はくすりと笑った。


 変わらぬ素振りに救われる。お陰で臣はようやく立ち上がり、いつもの椅子で足を組むことができた。


「あなたにお仕えしている立場の私が、そんなことをするはずがないでしょう?まったく、人聞きの悪いことを仰いますね」


 いつものように肘掛で頬杖を付き、いつもと変わらぬ悪態を返す。今の臣の心は深い安らぎの中にあった。


「もう行くのか?」

「ええ…まあ。先日お話した紗那領内の動きと今日のあの騒動、どうも何か関わりがあるようですしね。何やら妙なことになって参りましたよ」


 臣は、先の事件の顛末を自らの見解を含めて手短に語った。


「その…先ほどお話した銀鏡の夜叉が、なぜ軍に身を置いているのか。確かにそれも妙な話には違いないのですが、それよりも、あの橘が夜叉をここへ連れて来た理由の方が、私には不可解に思えます。

 それに彼は、蘿月と私の間柄についてもどうやらよく御存知のようでしたしね」


 白々しく隠す振りをしながら、わざわざ傷を目の前で見せてやっているのに、橘がそれを気にも留めず、また顔色さえ変えなかったのがその証拠だ――と臣は言う。


「大体、さっきまでなかったあざがあんなに目立つところについていれば、誰だってどうしたのか――と原因をきますよ。でも彼は敢えてそれを無視した。それに、蘿月はどこですかと尋ねたら、彼、笑いましたよ。まるで『おまえ、一緒だったんだろう?』とでも言うようにね。私の下手な演技に呆れて、彼はつい笑ってしまったんです。

 つまり、なぜここに傷がついているのか粗方の見当はついている…ということですよね?」


 自らの首筋を示して、臣は笑った。


(ああ、いつもの臣がここにいる…)


 先ほどの弱々しさはすっかりなりを潜め、至極明晰な見解をすらすらと力強く語るその姿。


 それこそ我が第一の側近・臣、その人。

 おまえがそうしていてくれなければ、私は――。


「なるほど、一理あるな…」


 水紅もまた、溶けるような安堵を覚えていた。


「なぜ、あの蘿月をここに連れて来たのでしょう?私への復讐を遂げさせるため?ならば、その利点は何です?仮に私が死んだとして、橘や紗那政府、いては紗那国が、一体何の得をすると言うのでしょうか?」


 彼らしい意地の悪い語り口も心地よい。


「まずはおまえの考えが聞きたいな。その顔…。何か気付いているんだろう?」

「と、そう仰られても証拠は何もなく、憶測の域は出ませんがね…」


 臣は目を伏せ、言葉を続けた。


「蘿月――いや、イングラムという人物は、いくら名前を変えようとも、その顔つきや体格から、ひと目で異国の出だと分かります。それをわざわざあのような皇子に近い位置に置いている。

 この不自然な配置はなぜか…?

 恐らくそれはあなたです。紗那の皇子を利用して、彼をごく自然にあなたの傍に近付かせるため。あなたにさえ近付ければ、私のところまでは容易く行き着くことが出来る。私の元まで来れるようになれば、彼の性格をかんがみても、いつか手を出すことは確実。それも国家元首に一番近しいあなたという目撃者の前でね。

 さて――。もしもそこで私が死んでしまったら、水紅様、あなたはどうなさいますか?」


 水紅ははっと顔色を変えた。


「紗那の責を…問う。いや、殺す…。紗那に身柄の引き渡しを求めて、きっと彼を処刑する…」

「でも、イングラムは紗那の皇子らの厚い信頼を得ているようですよ?そう簡単に渡してもらえるかどうか…。しんば、うまく彼を処刑できたとして、彼を失う紗那の皇子らの心中はいかばかりか?

 悲しみが、憎しみに姿を変えるのはよくあること。憎しみをきつければ、その火はついに楼蘭にまで飛び火し、互いの敵対心や猜疑さいぎ心を深める種にもなりかねません。それともう一つ。この場合、異国の騒動が発端だと言い逃れに出る可能性もありますよね。私にしたって彼にしたって、この辺りの出じゃありませんし、我々が争っている内容自体が、そもそも異国の問題なのですから…。

 もしそうなれば、紗那はこの責任をイングラム一人に押し付けて、知らぬ存ぜぬの一点張りに出る。きっとどんな求めにも応じませんよ?彼の引渡しも賠償も、謝罪の言葉すらないかもしれない。そして…」


 改めて臣は水紅を見据えた。


「結局、何をしたって死んだ私はもう戻っては来ません。それに気付いたあなたはどうなってしまいますか?その時のあなたのお心は…?」


「……」

 水紅はじっと俯いていた。脳裏に昼間のあの出来事が蘇る。


「まったく私も迂闊うかつだった…。今思えばあの時、水紅様が駆けつけてくださらなければ、そういうことも有り得たんです。もしも、あのまま放っておいたら…と、あの時、あなたは私に仰いましたが、そう――もしもあのまま私がこの世を去っていたら、今頃あなたは怒りに任せて楼蘭中の兵をここに集め、戦の算段をしていたかもしれないんですよ」


「い、戦…っ!」


 声が震えた。まるで思いもしなかったことだ。

 今日という日のあの平和な行事の中にそんな闇が潜んでいたとは!紗那の者と相見あいまみえるということは、そういうことなのか…!?


「あなたにとってどうでも、他の者から見たら、たかがたった一人、傍付きが死んだという程度のこと。だが、あなたには一国を動かす力がおりだ。紗那はまさにそれを狙ったのかもしれないんです」


 張り詰めるとき――。


 水紅は、瞬きをすることさえも忘れ、臣を見ている。

 臣もまたじっと水紅を見つめ返した。


 風に吹かれ、枝を離れた木の葉が窓の外をさらりと流れてゆく。


 暫くの沈黙を経た後、先ずは臣が口を開いた。


「あの…皇子様…」


 我に返ると、注がれている穏やかな瞳に気付いた。途端にそわそわして、水紅はどぎまぎと視線を泳がせるのだった。


「蘿月と私の因縁――と言うか、単なる昔話なんですが…。その…お聞きになりたいですか?」


 あんなところをの当たりにしておいて、気にならないと言えばそれは嘘だ。だが、これまで頑なに隠していたものを、ここで無闇に尋ねてしまっても良いのだろうか?


「自慢できる話でも面白い話でもないし…。むしろ実に退屈で、不愉快な話でしかないんですけどね。そして本当は――ずっとあなたにだけは知られたくないと思っていたんです。でも今は…」


 臣は、ほんのりと微笑んだようだった。


「何と言うか…あなたになら知られてもいいかな、と。但し、本当に私にとっては恥ずかしい話です。命を狙われるほどの恨みを残しているわけですし…つまりは、身から出たまさにさびの部分ですから。

 で、あの…。ええと、どうします…?」


 そうして言葉を重ねるほどに、水紅は更に慌てた。


「あ…。そ、そうか。いや、おまえが話したいと思うのなら別に私は――。だ…だからと言って、その…無理に訊こうとも思わんが…」


 ほっと眉を解いて臣は立ち上がった。


「では、如月から戻ったらお話します。自分でも、まさかこんな日が来るとは思っていなかったので、本当に不思議な気持ちですが、多分…」


 そして、扉の手前で歩みを止め――。


「あの言葉が効いたんじゃないですかね?」

「あの言葉…?何だ?」


 振り向いた顔は穏やかな微笑みを湛えていた。不安も心配も憂いも、あらゆるわだかまりを乗り越えた、そんな安らぎに満ちていた。


「私は、身も心もあなたの物――なんでしょう?本当に凄い口説き文句でしたよ、あれ。

 では、行って参ります。なるべく早く戻ります」


 やがて、扉の合わさる音がして腹心の姿は見えなくなってしまったが、もはや水紅の心はざわつかない。


 小さく笑って、水紅は再び膝の上の本に目を落とした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ