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月の雫 ―春霞の抄―  作者: 惠 悠冬(めぐみ ゆうと)
6/14

06//皇子を囲む者

 氷見ひみの部屋は、遊佐ゆざの離れ部屋のすぐ隣にあった。


 大きく力を発揮するときや集中力を高めるときなど、時折遊佐はこの離れ部屋に篭り、数日もの間、飲まず食わずで過ごすことさえあるという。そして、一旦彼女がそこへ入れば、紫苑を除く他の人物は付近に近寄ることさえ許されず、彼女自身も殆ど外へは出てこない。つまり、遊佐や紫苑を除けば殆ど誰も来ることがない――そんな場所である。


 だが無防備なことに、えてこの場所に銀鏡しろみの鬼との異名をとるこの少年を置いたのは、他でもない遊佐自身であった。


 障子を透かした麗らかな日差しに誘われて、氷見はふと目を覚ました。


 昨晩の熱はほぼ下がったようで、呼吸もずいぶん楽になったように思う。いつの間にか昨日紫苑が額に乗せてくれたあの手拭いが、枕元に落ちて乾いている。とこに横たわったまま氷見はそれを拾い、そっと手桶へ戻した。

 手桶の水はとうに温くなっていた。


 ずっとこめかみを締め付けていた頭痛も嘘のように治まっている。鉛のように重かった体の感覚も、いくらかましになった気がする。これならば、ちょっと上体を起こしてみるぐらい造作もないだろう――そう思った。


 ところが。


「つ……っ!」


 少しばかり腹に力を込めただけで、電光石火の痛みが駆け抜け、ぎくりと体中が強張ってしまう。恐る恐る寝巻きをはだけてみれば、胸の矢傷は思いのほかひどく残っており、他にも、赤みを帯びた刀傷やらかすり傷やらがあちらこちらに残っている。


「まったく…。俺としたことが、ざまあねえよな…」


 思わず苦い笑みをこぼす。


 その時、不意に廊下側のふすま越しに何者かの気配を察した。全神経を一点へ注ぐ。


 と――。


「は…。なんだ、あんたか…」


 気配の主は、膳を手にした遊佐であった。


「ずいぶんとお元気になられましたね。もしや、紫苑を待っていらっしゃいましたか?」


「え!?ち、違…!俺はただ――。つか、別にそういう意味じゃ…」

 あたふたと布団を掻き寄せ、口ごもる。


 遊佐はくすりと笑った。


「紫苑は今、使いに出しておりますゆえ、帰りは真夜中か明日の朝になりましょう。ところで…差し出がましいとは思いましたが、一つお伝えしたいことが」


 ひたと手を止め、氷見は訝る眼差しを向けた。


 銀鏡の鬼と呼ばれた彼の処世術――それは、身の回りのあらゆる変化をまず疑うこと。そして、仲間以外の誰にも決して心を許さないこと。

 既にそんな癖は当たり前に染み付いている。もちろんそれは、これまでを逞しく生き抜いた彼本来の生き様なのであろうが、同時にそれは、まだほんの十五歳の子どもでしかない彼の一番の不幸であるとも言えた。


「何だよ?えらくもったいぶるじゃねえか」

 つっけんどんに言い放ち、再び氷見は箸を取った。


「あなたの探し人…。何とか目的の地に辿り着かれたようですよ」


 どきりと胸が鳴る。


「な…!?貴様!!」


 誰に打ち明けることもできず、それでもずっと心残りにしていた珠洲の動向。なぜそれをこの女が知っているというのか――?


 苛立ちがが胸の奥を湧き上がって弾けた。


(珠洲が無事だと?あの日の屈辱、あの悲しみ、あの怒り――それを何一つ知るよしもない人間が軽々しいことを!!)


 すぐさま氷見は立ち上がった。


「!!」


 つもりだったが…。


 深手を負ったばかりの体はそうそう自由に動かない。膝がぐらりとよろめいた拍子に、ろくな受身も取れぬまま、氷見は前のめりに突っ伏す格好で無様に床へ転がった。そしてその衝撃は、氷見の全身に再び耐え難い激痛を走らせたのだった。


「ぐ…ぐああっ!!ああ、もう何だ!!何だってんだよ!ちっくしょおおおっ!!」


 痛みに悶え、転げ回り、氷見は感情的に床を殴りつけた。

 額にびっしょりと浮いた汗が散る。思い通りにならぬもどかしさに、やるせなさと怒りがこみ上げる。


「ご心配には及びません。あの子は強い子です。あなたの言いつけをよく守ってがんばりましたよ」


「!!」

 愕然とした。あの何もかもが遊佐に見透かされているなんて…!


 でも――。


 如月の遊佐といえば、紗那でもその実力を広く知られた霊能力者である。その噂はこの耳にもしかと届いている。確かにその力を持ってすれば、珠洲の動向を探るぐらい何でもないことなのかもしれない。


(そっか、珠洲が…。あの泣き虫の珠洲が、無事に妖の元に…)


 ようやく氷見は胸を撫で下ろした。


 ふと、あの日の珠洲の顔が浮かぶ。


 あの時――。


 涙でぐしゃぐしゃになりながら、氷見の言葉に健気に頷いた珠洲…。


 きっと恐ろしかったろう。

 一人きりの寂しさに、何度も押し潰されそうになったろう…。


 不覚にも、熱いものが頬を伝った。


 今の氷見には、遊佐の言葉の真偽よりも、幾度も祈った珠洲の無事を誰かの口から聞けたということが、しみじみと嬉しかったのだ。


「あなたの胸の内を勝手に覗くような真似をしてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」

 遊佐は手を付いて深々と頭を垂れた。


(し、しかし…。かの有名な楼蘭の霊能者が、敵国のお尋ね者でしかないこの俺を匿っている理由ってのも、さっぱり分かんねえが――。それにしても、あの篠懸といいこの遊佐といい、こいつらのこの態度…。一体どうなってやがんだ、この国は…??)


 複雑な思いに暮れる。


『銀鏡の鬼は人の姿をして人にあらず』


 紗那にいる頃には、そうして虐げられ、蔑まれ続けた氷見にとって、自分よりも明らかに格高の人物の謙虚な振る舞いなど、到底理解できるものではなかった。


 すると、またしても襖が開けられる微かな音。


「あ…っ」


 ところが新たな来訪者は、小さく声を上げるやいなやすぐに首を引っ込めてしまった。襖の陰でうろたえているのは、紫苑を探して屋敷内を歩き回っていた篠懸すずかけであった。


「ふふっ。どうぞ、篠懸様」


 そろそろと覗く気まずげな瞳。


「あ…ええと…。構わぬだろうか、氷見?」

「いいよ。入れよ、篠懸」


 呆れ顔で答えた後――。


「まったく…。ここの奴らときたら、警戒心ってもんがまるでねえのな…」

 本音がぼそりと口を突いた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「そうか…。紫苑はおらぬのか」

 紫苑の留守を告げられた途端、篠懸はつまらなそうに唇を尖らせた。


「申し訳ありませんが明日までご辛抱くださいませ、篠懸様。その代わり――と言ってはなんですが、氷見の怪我がもう少し良くなったら、くだんの山頂へ出掛けるというお話、現実のものと致しましょう」


「それは本当か、遊佐様!」


 現金な瞳が、瞬く間に輝きを取り戻す。


「…ったく。何の話だか知らねえが、俺、関係ねえし」


 そっぽを向いて鼻を鳴らす氷見に――。


「いいえ。あなたにも同行していただきますから」


 平然と、そしてきっぱりと遊佐は言うのである。


「はァ!?何で俺がそんなこと!!傷さえ治れば、俺はこんな所に用なんか…!!」


 その一瞬、こちらを見た遊佐の瞳がひどく鋭い光を放ったように思えて、氷見はぎくりと口を噤んだ。


「あなたも、皇子様を囲む重要な役者の一人なのです。まだここを出ることはなりません」


 皇子を囲む役者――?


 いきなりそう言われても、その言葉の意味は篠懸にも、まして氷見にも分からない。


「氷見。何度も言いますが、あの子は無事です。それさえ分かれば、今すぐここを出る必要もないでしょう?」


「はっ!何でもお見通しってわけかよ!何だってんだ、まったく…!」


 ぷいと目を逸した先に篠懸がいた。そのひどくきょとんとした面持ちと目が合った途端――。


「ちょっ…ちょっと待て!皇子様って、まさか…こいつ…!?」


 ようやく氷見は気付いたのである。


 そうだ。

 初めて『篠懸』という名を聞いたとき、確かにどこかで聞いた名だと感じた。あの時はまるで思い出せなかったが、多分それは…。


 いや、まさか。

 でも…!!


「ええ。こちらは楼蘭国・第三皇子篠懸様であらせられます」

 にっこりと微笑む遊佐だった。


「は……!?」

 痛みを堪えて向き直り、氷見はあたふたと平伏した。

「す、篠懸皇子様!し、知らぬこととは言え、そのっ…ぶ…無礼の数々、何とぞ…!」


 おそれ強張る氷見の手に、ひと回り小さな手が重ねられた。ぎょっと顔を上げると、温かな微笑みが氷見を見ている。


「氷見。そなたと私の間でそのようなことは要らぬ。これまでどおりでいて欲しい。私は…。私は、そなたを友達と――そう思いたいのだ」


「そ、そんな!!で、でも…。それは――」


 耳を疑った。

 銀鏡の鬼として今や紗那に追われる身の俺が、楼蘭の皇子様の友達…?


 まさか。

 そんなことはあり得ない。

 いや、あって良いはずはない――。


 氷見は床についた手へ視線を落とした。


 『銀鏡の鬼は人の姿をして人にあらず』


 すっかり耳にこびり付いてしまった言葉。

 かつて何度となく投げつけられた悪意が、今また繰り返しこだまする。ひたすらに耳を塞ぎ、そのすべてを振り切るように氷見は何度も首を振るのだった。


「恐れながら…皇子様。俺は鬼と呼ばれる者。銀鏡の鬼は紗那では人ですらない…。俺のように卑しい者と、楼蘭の尊い皇子であるあなた様が、そのような――」


 唇を噛み締め、硬く拳を握る。


「ふふ…。面白いお友達ができましたね、皇子様」

 なぜか遊佐は楽しそうだった。


 ああ、そうか…。

 俺はからかわれているのに違いない。でなければ、こんなのは悪い夢だ。熱が見せる幻覚だ。

 きっと俺はまだ眠っていて、今も熱に浮かされている。


 だが――。


「……」

 おずおずと顔を上げると、潤んだ瞳が呆然と氷見を見ていた。


「なぜ…?なぜ自らを卑しいなどと…。そんなことは断じてあるものか!氷見を…。大切な私の友を…そのように侮辱する者は、例え本人であろうと許さぬ!」


 つぶらな瞳いっぱいに涙を湛え、篠懸は打ち震えていた。ともすれば今にもこぼれそうになる涙の向こうから、ひたすら氷見だけに注がれていたのは、悲しさと悔しさと…そして、深い慈愛に澄んだ眼差し――。


(こいつは…。このお方は、何て純真な…)


 嬉しかった。

 仲間以外の者に、これほど強く温かな感情を向けられたのも、友と呼ばれたのも初めてのことだった。


「す、篠懸…」

 そっと呼んでみれば――。


 満面の笑顔が頷いた。その拍子に、堪えていた涙がつうっと頬を伝う。


「この俺が…。篠懸…様の、友達…?」


 自分に言い聞かせるよう、何度も何度も繰り返す。

 何度確かめてみても信じられない。まったく有り得ない。


 だけど――。


「もちろん…。氷見が嫌でなければだけど」

 氷見の手を取り、篠懸は照れくさそうに笑った。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 日差しが西に傾きかけた頃、愁は一人、北の土蔵の前に佇んでいた。


(もう半時もせぬうちに陽は沈む。こんな時間に、こんな場所で…。篠懸様に関わる重要な話とは一体何事なのだろう)


 そろそろ待ち合わせた刻限である。


 やがて――。


「お待たせして、申し訳ありませんでした、愁様」

 いそいそと遊佐が姿を現した。


「あの、どなたにもこのことは…」

「お言いつけどおり、誰にも言っておりません。私一人です」


「そうですか…。ではこちらへ…」

 ほっと頬を緩ませ、遊佐は蔵の錠前に手をかけた。


 ごご…ごごご…。


 地鳴りのような重い音とともに、ゆっくりと扉が開く。覗いても、そこには真っ暗な闇が広がるばかりで何も見えない。


 遊佐は、慣れた手つきで手燭てしょくに火をつけた。じっとりと濃密な闇の中に、蝋燭の灯りが届く場所だけがぼおっと仄かに照らされている。傍にいなければ、何も見えなくなりそうだ。


 ちらと目配せをしてから、遊佐は歩き出した。


 彼女に従い、中へ踏み入った途端、つんとかび臭さが鼻を突き、息苦しいような不快な心地に囚われる。ひどくむせっぽい場所だ。


 細く伸びた通路らしき空間の両側には、埃をかぶった葛篭つづらや書物がうずたかく積み上げられ、それらの手前には古めかしい骨董が所狭しと並んでいる。目にするほどに、そのどれもが歴史学者としての愁の好奇心を大いにくすぐったが、生憎あいにく今は、それらにかまけている暇はなさそうだ。

 後ろ髪を引かれつつ更に行く。すると、更に奥に簡素な階段のようなものが現れた。階段は二階へと続いている。


「足元が暗いので、お気をつけくださいね」


 どうしたわけか、二階には、物らしいものの殆どない小奇麗な空間が広がっていた。

 忍び寄る夕焼けの気配が灯窓あかりまどから差し込み、ほんのりと板張りの床を照らしている。


「……」

 ようやく暗さに慣れてきた目で、改めて愁はじっくりと辺りを見回した。


 雑然と埃臭い階下と比べ、驚いたことにこの室内には塵一つない。奥の壁には小さな灯窓あかりまど。その反対側に置かれた台座には、白木でできた細長い箱のようなものが乗せられている。何の装飾も変哲もないその箱は、そうであるが故か、まるで小さなひつぎのようにも思えてくる。


 どうやらこれが、この場所に唯一納められている品であるらしい。何か特別なものなのであろうか?


 しかし、こんな奇妙な場所で一体何を…?


 やがて――。


 窓辺へ向かって歩き始めた遊佐は、白木の箱の前でぴたりと立ち止まった。


「愁様――。篠懸様の呪詛の件ですが…」

「何か分かりましたか!?」


 ゆっくりと振り向いて、遊佐はにわかに表情を曇らせた。


「ええ…。その直接の送り主は、どうやら元々は紗那の者のように思えるのです」

「し、紗那…ですか?しかし…」


 意外な言葉だ。

 紗那と篠懸――どう考えてもそこに接点などはない。


 訝る眼差しに何を悟ったか、遊佐は口の端で小さく笑った。


「そうです。かの国と篠懸様には、今はまだ何のえにしもありません。ですが、あの方は――篠懸様は、必ずや後の楼蘭…そして紗那に、深く名を残すお方。あまり詳しくは明かせませんが、紗那のくれがしは、どうやら強い霊力を持った御仁ごじん。その人物は、二国の未来と自らの人生とに深い因縁を持つ篠懸様の存在を恐れるあまり、このような行動を成した模様なのです。己の命をも賭けた、強固な呪詛を持って――」


 そこまで語ると、なぜか遊佐は窓格子の外へ目を遣った。

 薄闇が広がり始めている。朱塗りだった空が、今や深い紫へと徐々に色を変えつつあった。


「私のような能力を持つ者は、力の大小さえ問題にしなければ楼蘭にも紗那にも数多くあります。ですが此度の紗那の者、相当な力の使い手でありながら、そのことを先頃までひた隠しにしていたふしがあるのです。

 私たち能力者は、見ようとさえ思えば、これから先に起こる出来事を垣間見ることができる…。でも、だからと言ってそれを世に明かしてしまえば、歴史などまるでたった一握りの権力者の戯言に過ぎない。そうなれば、人々のどんな夢もどんな希望も、意味を失くしてしまうでしょう。ですから本来ならば、未来を変えるなど――例えそれが可能なことであっても――もしもこれから待ち受ける未来がどんなに悲惨なものであったとしても、決して叶えてはならぬことなのです。ですが…この者は、楼蘭のる人物の依頼から知れた未来を、傲慢にも己が手で捻じ曲げようと…」

「ちょ、ちょっと待ってください。遊佐様は今、楼蘭の然る人物の依頼――と、仰いましたか?」


 再び遊佐は棺へと目を落とした。俯く横顔が深い憂いを帯びている。


「はい。残念ながら今はこれ以上多くを語ることができません。ですが、皆様が宮へお帰りになる頃には、きっとその正体も知れましょう」


「……」

 それ以上を尋ねることがはばかられ、愁は成す術もなく遊佐を見つめるのであった。


 やがて。


 思いつめたような表情を見せた後、おもむろに遊佐は棺の蓋へと手をかけた。蓋がじりじりと押し開けられ、ついにはごとりと向こう側へ落ちる。


 そこで刻は唐突に流れを止めた。


「し、紫苑!?」


 棺の中に横たわっていたのは、紛れもなくあの紫苑だったのである。しかしその顔にいつもの笑顔はなく、肌も青磁のように青白くつるりとしていて、むしろ本人によく似せて造ったただの陶人形にも見える。

 震える指でそっと頬に触れてみれば、ひんやりと固い感触が伝わった。


 まさか…。

 あり得ない。

 これは紫苑などではない…!


 そう繰り返し自分に言い聞かせながら、どうしても愁は五感をあざむけずにいた。


 本当は分かっている。

 これは、紫苑その人に相違ないのである。


「なぜ…どうしてこんな…。この子は一体…?」


 愕然として振り向くと、窓辺に佇む遊佐は、またぼんやりと外を眺めていた。その視線の先で、雲に隠れていた月が次第に姿を覗かせ、大地の上に白く目映い面紗めんしゃを広げ始めている。

 柔らかな月光が窓をすり抜け、音もなく伸びてくる。銀の清い光はゆっくりと室内を這い、やがて少女の顔をほんのりと輝かせた。


 すると――。


 なんということだろう。


 その純白の光に応えるが如く、紫苑の顔色がふうっと白く変化した――かと思うと、あれほど冷たく凍っていた肌は、見る見る血色を取り戻し、固く閉じられていた目元も頬も、ふっくらと柔らかみを帯び始めたのである。


「!?」

 愁は、発する言葉を失った。


 まさにこの瞬間、止まっていた時が動き始めたのだ。さやかな生命いのちの息吹とともに――。


「愁様…。この子は――紫苑は、月の光から生きる力を得るのです」


 遊佐の言葉にはっと息を呑んだ。夜中に外を眺めると、いつもそこに紫苑が蹲っていたのを思い出したからである。


(命を紡ぐ月光浴――そうか、あれは…そういうことだったのか)


「例え雨が降ろうと空が雲に覆われようと、夜空の下にさえいられれば、この子はそこから僅かな光を感じ、生きる力に替えることができます。でも、なぜかさくの晩にだけはそれができません。つまり――」


「新月の次の日には、こうして人形に戻ってしまうわけですね…」


 遊佐は静かに頷いた。


「ええ。朔の晩――の刻限(午前0時ごろ)になれば、途端にこのように…」


 棺では、目覚めたばかりの紫苑がぼんやりとちゅうを仰いでいる。まだ辺りがよく見えていないのか、紫苑はしきりに瞬きを繰り返していた。


「おはよう、紫苑」

 遊佐はふわりと微笑んだ。その声を頼りに、紫苑はひどくぎこちない動きでこちらを見た。

 見開かれた瞳が僅かに揺れる。


「しゅ…う…?」

 まだよく動かぬ指先が、おずおずと愁の手に触れる。人形などでは決してない、ちゃんと血の通った温かな指だった。


 知らず図らず愁の瞼に込み上げていたものが、瞬きをした弾みに頬を伝い、紫苑の手の甲をほとほとと濡らす。


 今、無性に愁は――。


「……」


 彼女が不憫でならなかった…。


「愁…。紫…苑が…怖い…です…か?」


 囁くような言葉はまだ少し片言で、先に聞かされたかつての彼女の生き様を、いやが上にも呼び起こす。


 堪らず愁は、小さな少女を抱き締めた。


「そんな…!何を言うんです、紫苑!そんなことがあるはずがないでしょう?ただ…。ただ私は…こんなあなたの姿を見るのが――」


 抱いた胸にまたひとつ雫が落ちた。


「こんなあなたを見るのが、とても…。とても辛いんです…」

 ありったけの力で声を絞った。こみ上げた感情が、それ以上の言葉を許さなかった。


「ありが…と…愁…」

 深く澄んだ瞳が、静やかに愁を映していた。


 腕に抱いた紫苑の体は温かく、とても柔らかだった…。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 まだうまく動けぬ紫苑を蔵に残し、愁は遊佐とともに離れ座敷へと戻った。


 どうもまだ混乱している。まるで白昼夢の中にあるように手応えのない現実が、頭の中で渦を巻いている。

 目にした以上は信じぬわけにはいかない。そう頭では理解していても、理屈で片のつくような奇跡ではなかった。


 月影とともに逝き、純白の清暉せいきが再び呼び覚ます無垢なる魂を間近にした今となっては――。


 互い沈黙したまま、時がゆく…。


「愁様…。あなたにだけ、あのような紫苑をお見せしたのには、理由わけがあります。どうか…私の願いをお聞き届けください」

 遊佐は重い口を開いた。


「願い…?」


 問い返すと、遊佐は驚くべき言葉を口にした。


「いつでも構いません、愁様。あなたがそうしたいと感じたときに、あの子を…。紫苑をここから連れ出していただきたいのです」

「な、何ですって!?どういうことですか、あの子を連れ出すというのは…?」


 耳を疑った。


「あの子をいつか、あなたに託したい――ということです」


 きっぱりと言い放つ。強烈な意思の宿った強い瞳が真正面から愁を射る。


「私に何かあれば、あの子はまた一人きりになってしまう。そうなる前に私は…。愁様、あなたにだけはどうしても話しておきたかった…」


 『どくん!』と大きな鼓動が愁の胸を殴りつけた。

 まるで自らの運命を予見するかのようなこの言葉。それはもしや、遊佐の命が残り少ない――ということを示唆しているのではあるまいか?


 しかし――。


 今ここでそれを尋ねてみたところで、恐らく遊佐は未来さきを明かそうとはしないだろう。


「一つお聞きしたい。なぜ…。なぜ、私なのです?」


 すると、僅かに戸惑いを見せた後――。


「それは…あの子とあなたの背負うものが同じだから。そして、その時が来れば、あの子もきっとあなたを選ぶから…」

「背負う…もの?紫苑と私の――」


 それっきり遊佐は、口を開こうとはしなかった。


 わが子の如く愛する紫苑との決別を確かに予感しながら、敢えて彼女は――その流れに身を任せようというのか…。


 遣りきれぬ思いを胸に、愁はただ頷くよりほかになかった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「堅海、今いいか?」


 自室でひとり、都から持ち帰った資料の数々に目を通していた堅海は、聞き慣れた友の声に顔を上げた。


「ああ…構わん」


 ちょうど今から五年ほど前のこと。

 堅海が皇子の近衛として星の宮へ着任したばかりの頃、一介の宮廷学者でしかなかった愁もまた篠懸皇子の専属教師に任じられた。当時、堅海は二十一歳。愁は十八歳。どちらもその道では異例の出世である。


 生粋の古武術の家系に生まれ、剣術・そう術ともに長けた優秀な兵士であり、純朴だが、やや直情的な一面をも持ち合わせる堅海。一方――常に冷静で思慮深く、温和な人柄の中に芯の強さを秘めた宮廷歴史学者の愁。

 一見すれば、まるで正反対の性格を持つこの二人は、今や、年齢や身分の差を越えた固い友情で結ばれていた。


「なんだ?」


 堅海は紙面から目を上げたが――。


「……」

 肝心の愁は部屋の隅に座り込んだまま、いつまでも畳の目ばかり眺めている。明らかにいつもの彼ではない。


 整えた書類を手元に置き、堅海は改めてきちんと向き直った。


「どうした、愁。具合でも悪いのか?」


 ひどくぐったりとした瞳が向けられる。


 そうして――。


「何か…。もう疲れた」

「は?」


 まるで愁らしからぬ後ろ向きな台詞である。


 だが、一旦は顔をしかめた堅海も、


「やれやれ…まったくだ。頭の痛いことだな、お互い」

 おもむろに胡座をかいて、愁同様にしょげて見せるのであった。


 顔を見合わせた二人は同じ顔をして笑った。


 時に愁は、こんなふうに堅海の前でだけぽつりと本音を漏らすことがある。普段は品行方正で通っている愁の、唯一弱音を吐ける場所が彼なのだ。


 実際堅海の方も、こういった愁の呟きが、本音でありながら本気ではない――ということを良く理解していたし、だからこそそんな場合の対処もちゃんと心得ている。


 短いため息をついて愁は、額に垂れかかるる髪を掻きあげた。そうして再び堅海を見た時には、あれほど沈んでいた顔はすっかり元の平静を取り戻しているのであった。


「それでどうだった、そちらは?何か分かったか?」

「まあ…ほんの少しはな」


 堅海は大仰おおぎょうに肩を竦め、自らの得た情報を愁に聞かせた。


くだんの紗那の使者から聞き出せた鬼の情報は、ほぼ久賀の話と同じものだった。銀鏡の鬼という存在が、森に巣食う山賊として忌み嫌われている――という点ではな。氷見がその銀鏡の鬼の一味であることは、本人も認めているところだし、まあ、そこは間違いないだろう。

 紗那はつい先頃、その山賊を一掃すべく銀鏡に討伐隊を送っている。時期的にも一致するから、あいつのあの大怪我は、十中八九その時のものと見て良い。

 だがな…気になるのはここからだ。紗那の宰相補佐・たちばなの話によると、討伐隊を森へ差し向けるという情報、どうも事前に鬼たちに漏洩していた形跡があるそうだ。ということは、少なくとも彼らを襲撃する計画が立てられた時点で、鬼たち――あるいはそれを支持する何者かが、何らかの形で紗那政府に入り込んでいたということだろう?

 一体、何の目的で?まさか彼らは、こうなることを予見していたのか?

 扇の都を遥か離れた銀鏡の森の、たかだか山賊風情がだな、政府をこうまで警戒するというのは…。どうも、やり過ぎている感がいなめない。更に加えて、この亡命者の調書だ。一応写しをここへ持ってきてはみたが…」


 堅海は、書類の山から紐で丁寧に閉じられた薄い束を引き抜いた。その資料の必要箇所を指し示しながら堅海は説明を続けた。


「これを見るとだな…。この亡命者自身は銀鏡近郊の村の出らしいのだが、驚いたことに忌み嫌われているはずの鬼たちと村ぐるみで親交を持っていたというんだ。彼らが紗那に免税されていただの、恩赦を受けていただのという話はその時の情報らしくてな…。ああ、ほら…ここだ。『銀鏡付近に住む者なら誰もが知っていることだ』と…。

 国内では差別的扱いを受け迫害されているはずの彼らが、近隣の村とは密接な付き合いがあったり、政府から特別優遇を受けているなんていう話…。これじゃあ、まるで公の認識と逆じゃないか。

 更に解せんのが、それを軽々しく公言する鬼の行動だ。仮にこの内容のすべてが偽りだとして、そこに何の意味がある?免税だの優遇だの――こんな嘘を得意げに語ったところで、政府ともども彼ら自身があちこちから責め立てられるだけだ。隠す必要こそあれ、わざわざ自らの手で表沙汰にすることはないじゃないか。

 で、最後の疑問は――。金さえ払えば殺人代行や強奪までも請け負うという凶悪な犯罪者集団を、その存在のみならず居場所さえも承知しながら、今の今まで国が野放しにしておいた理由は何だ?鬼は親に捨てられた子どもばかりで構成されていると聞く。鬼だなどと、さも恐ろしげに呼ばれてはいるが、つまりはたかが子ども。それを退治するのに一体何年かかっていると思う?この調書の日付を見てみろ、愁。これは三年も前の話だぞ?」

「なるほど確かにな。内容のすべてを鵜呑みにはできないが…。それにしても、相当違和感があるな、これは…」

「だろ…?何が目的かは判らんが、とりあえずまだ何か裏があるとは思う」


 愁は眉をひそめた。


「で…。おまえの見解は?現時点ということで構わない。堅海はどう思う?」


「それを今まで考えていたんだがな…」

 堅海は遠くの空をぼんやりと見ていた。


 澄んだ空の彼方に、白く細い月が浮いている。


「銀鏡の鬼が単なる山賊だという話。これは、国民一般にそう思わせておきたいという思惑がため、政府が敢えて流した偽の情報ではないだろうか?そしてこれは久賀の推測で受け売りなんだが、やはり紗那政府は鬼と密接な繋がりを持っている。紗那政府はこの癒着を隠さんがために彼らを完全なる悪者に仕立て上げ――つまりは、表向きでは彼らを蔑んでみせ、国民が自らの手で迫害や差別を加えるように仕向けていったのではないだろうか。しかしその実、裏では免税や恩赦といった優遇措置を施す契約を交わし、それを餌に何年も彼らを利用し暗躍させていた。

 ところがどういうわけか、ある時急に彼らが必要ではなくなって、裏のからくりを知る子どもらを根絶やしにしようと考えた、と…。まあ、そんなとこかな」


 愁は瞳を伏せた。


「そうか。では、今一度訊くが鬼自身が自らに与えられた裏の優遇を、敢えて近隣に知らしめた理由というのは…?」


「!!」


 堅海の表情が一変する。同じ何かを先に察していたであろう愁の表情にも憂いが見えた。


「鬼はそんな自分たちの立場に嫌気が差したわけだな!彼らは、民の不満をより自然な形で国や自分たちに向けさせようと考えた。そうすることで、世論を動かし、果ては――」


「言うな、堅海。それは憶測だ。何の証拠もない」


 と、一度は堅海をいさめてはみたが…。


「だが、私も同じ考えだよ。一国の歴史を語る上ではよくある話だ…」

「へえ…宮廷が誇る高名な歴史学者様と、末端の一兵であるこの俺が、同じことを考えているだなんてまったく光栄な話だな」


 どっかりと胡座をかき直し、不敵に笑う。

 その姿に少し救われた気がして、愁も小さく笑った。


「しかし、隣国ながら紗那の内情となると易々と手に入るものではないし…。後はあの氷見に直接尋ねるほかはないようだな」

「ふん、あのガキが本当のことを話すとも思えんが…」


 堅海は不服そうに鼻を鳴らした。


「やれやれ…。さてはおまえ、早速彼に喧嘩を売ったな…?」

 愁は苦笑した。


「ば、ばかな!あれは紫苑が…!俺はただあの小僧に話を聞こうとしただけで…」


「怒らせてしまった、と…?」


 思わず口を噤む。結局、堅海の威勢もそこまでだ。自分という人間をよく知る愁には、あの時の経緯いきさつのすべてが見えているように思えた。


「いいよ、分かった。それじゃあ、私一人で行こう。引き続きおまえは、情報を集めてくれ」


 だが――。


「ちょっと待て、愁!」

「!」


 立ち上がろうとした細い手首は、あえなく捕まえられてしまった。温かく力強い友の手は、逃げもごまかしも許さぬ迫力を孕んでいる。これこそが彼の――堅海の優しさなのだ。愁はそのこともよく分かっていた。


 躊躇ちゅうちょも逃げも許さぬ声が問う。


「おまえは――?俺に、何か聞いて欲しいことがあったんじゃないのか?」


 誠実な眼差しが、真っ直ぐに愁を見ていた。


(参ったな…。さすがに長い付き合いだ…)

 さり気なく目を逸らし、愁は苦い笑みを浮かべた。


「いいんだ…。またにする」


「おまえ…。あまり何もかも一人で抱え込むんじゃないぞ」

 軽く嗜めてやると、穏やかに愁は頷き、そのまま出て行ってしまった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 月明かりの縁側に腰掛け、ぼんやりと氷見は夜空を眺めていた。

 こうして物思いにふければ、脳裏に浮かぶのものは決まっている。幾日幾年過ぎようと、忘れられるはずはない。


 そう、あの日――。


 里が焼かれ、大勢の仲間たちも殺されて、そして…。


「姉ちゃん…どうしてるかな…」

 ぽつりと独りごちる。


 夜天に浮かぶは、まだ年端のいかない氷見が銀鏡に保護されて以来、ずっと本当の姉のように世話をしてくれた、二つ年上の少女――李燐りりんの姿であった。


 少しばかり心配性で、おせっかいな…。

 だけど、いつも優しくて、そして強くて…。


 泣き虫な氷見をいつも庇ってくれたあの姉ちゃんが、本当は自分よりもずっとか弱く、泣き虫だと気付いたのはいつの頃だったろう?

 自分を守るその背中が、実は自分よりもずっと小さいと気付いたのはいつだったろう?


 頭を抱え、うなだれる。


「生きてるよな、きっと。雲英きらが一緒だもんな。大丈夫…。きっと…大丈夫…」

 自らに言い聞かせるよう、何度も唱えた。だが、不安はそう簡単に拭えはしない。


 折れそうになる心をかろうじて堪え、膝を抱えた氷見の髪を冷たい夜風がそっと撫でていった。


「少し…失礼しても宜しいですか?」


 廊下から若い男の声がする。


「ああ。構わない」


 襖を開けて入ってきた男は、その場で大仰に一礼した。


「こうして言葉を交わすのは初めてですね。愁と申します。以後お見知りおきを」

「愁…?ああ、篠懸…いや篠懸様のお付きの先生だろ?」

「おや、もうご存知でしたか」


 柔らかに微笑み、愁は氷見の傍らへ膝を付いた。


「あの皇子様、飽きもせず毎日ここへ通って来るもんでね。ひととおりの人間の名は聞かされたよ」


 肩を竦めてため息をつくと、氷見はそのまま言葉を続けた。


「で――。早速なんだけどさ。あんたのそのバカ丁寧な言葉、何とかならない?堅海とかいうでっかい男のあの不躾ぶしつけな物言いの方が、まだ好感持てるってもんだぜ?」


 一瞬きょとんとした後、突然愁は吹き出した。氷見には、その意味が分からない。


「な…何だよ?何か俺、変なこと言った?」


 慌てて愁は言葉を繕った。


「いや、笑ったりしてすみません。なるほど、堅海と喧嘩になるわけですね。私が堅海と出会った頃、ちょうどあなたと同じことを言われましたから」

「同じこと?」

「ええ。彼と私は同じ頃に楼蘭の内裏に上がって以来、ずっと無二むにの仲なのですが、彼は私のこういう物言いをひどく嫌うんです。初めは、私の方が少しばかり位が高いことを気にしているのかと思いましたが、実はそうじゃなかった。彼に言わせると、改まった言葉は距離を感じるから嫌だ――と。ついよそよそしい印象を与えてしまうのですね…。彼はそれがたまらなく辛いらしいんです」


 愁は再びくすりと笑った。


「良くも悪くも正直なんですよ、堅海は。そして…多分あなたも、ね。あなたと堅海は、根っこのところがよく似ているんでしょう。似たもの同士は、喧嘩になると言いますから」

「はあ?あんな偉ぶった野郎と俺が似てるって?やめてくれよ。あんな傲慢な男じゃないぜ、俺は」


 うんざりと顔をしかめる。


「堅海は傲慢なんかじゃありませんよ。ただ――彼はいつも一生懸命で必死なんです。ですから時に強いことも言いますし、あの姿形にあの大声ですから、威圧感もありますけど…。でも、きっと今頃後悔していると思いますよ」


 なぜか愁は楽しそうだった。


「多分、いきなりあなたを怒鳴りつけてしまったこと、どう詫びるべきかと頭を痛めているはずです。彼はいつもそんな調子ですから…。どうか許してあげてくださいね」


 庭に投げ出した自らのつま先を眺め、氷見は微かに微笑んでいた。あの時の堅海に腹を立てている様子などまるでない。


 それでも愁は、そんな彼の横顔に潜む深い悲しみを確かに感じ取っていた。


「大丈夫…分かってるよ。守りたいものがあるから強くなれる。そんな言葉だった」

 呟く声が掠れている。


「あなたにもあったのですね。守りたいと願うものが」


 大きく伸びをした後、改めて氷見は愁へ向き直った。


「ふっ…。ほんと、ここの奴らときたら、どうしてこうなんだろうな。人の心ン中にどかどか入ってきちゃあ、散々に掻き回して――。だけど…なぜか全然嫌じゃない。俺…もしかして、吐き出す場所を探していたのかな。今は心の中の全部をぶちまけて楽になりたい――そんな気分だよ」


「私などでよろしければ」

 愁はゆっくりと頷いた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 さて。


 氷見の話をかい摘むとこうだ――。


 まず、『銀鏡の鬼』という存在は、近隣を襲う山賊のようなものではなく、言うなれば一部の権力者の私利私欲のために飼われている『犬』といった色合いが濃い。内争や反乱の絶えぬ紗那国の影で暗躍する隠密――と言った方がふさわしいかもしれない。

 ただそれは『鬼』の中でも氷見や雲英を始めとした、ごく一部の者に限ったことで、他の者は近隣の集落の畑仕事の手伝いをさせて貰ったり、買い物の代行として街へ出て行ったり――と、そんなことで日銭を稼いで暮らしている。すなわち、山賊だの人殺しだのと悪く呼ばれるのは、ごく一部の者――つまり、氷見たち数名のみを指してのことだし、それも扇の都を中心とした一部地域だけのことらしい。近隣の村では疎まれるどころか親交も厚いという。

 隠密の仕事は時々入る。暗殺や窃盗などが主だった内容だ。その範囲は国内外に限らない。依頼は都に住む仲間から伝わる。具体的な出所や理由までは末端には知れない。そんな仕組みだ。

 だから氷見たち隠密は、殺せと言われれば何の理由もなく相手を殺すし、奪えと言われればそれがどんなに尊い物でも躊躇ちゅうちょなく奪う。その見返りとして大金を手にするというわけである。もちろんその金は里のみんなのものだ。独り占めはしない。


 だがある時。


 都にいた仲間――あやから、軍の鬼狩りの情報がもたらされた。その後、彼女はぷつりと消息を絶つ。

 これまで忠実に任務はこなしてきたし、国に恨まれる理由もない自分たちがなぜ?

 子どもたちは困惑した。しかし仲間の情報はいつも確かだ。

 早速子どもらは逃走の計画を練った。だが、国籍のない彼らが国を出ることは容易ではない。一人二人ならばそれも可能であったかもしれないが、何十人もいるとなると、まるで至難の業だ。む無く彼らは、年頃の男性と女性・子どもといったのごく少人数の班を作り、各自の判断で逃走を図ることにした。

 氷見はまだ七つの珠洲と姉代わりの李燐を連れ、かねてから目をつけておいた洞穴に潜むことで、一旦ほとぼりが冷めるのを待つことにした。

 だがそこもやがて見つかってしまう。大勢の紗那軍を前に、たった一人で仲間を守り、逃げねばならない氷見。ところが、運良くそこに、腕利きの相棒・雲英が駆けつけた。

 それまでは良かった。しかし、その時の戦いで、ついに李燐と雲英の二人とは離れ離れになってしまったのだった――。


「堅海が紗那軍の来栖准将に聞いた話では、数人の鬼を捕らえた――ということでした。その中に、姉上様とお友達がいらっしゃることを祈りましょう…。それならばまだいくらか望みもある」


 しょんぼりと俯いたまま、氷見はこくりと頷いた。


「聞かせてくれてありがとう。辛かったね…」


 髪に温かな手が触れる。そっと瞳だけを動かし、氷見は愁を見上げた。


 ここにいると、なぜか子どもに戻ってしまいたくなる。あんなに必死に強くなりたいと――もっと大人になりたいと願った日々は、一体何だったのかと、つい疑いたくなる。


「時に、あなた方銀鏡の鬼は国から免税などの優遇を受けていたということですが、それは本当の話ですか?」


 氷見ははっきりと首を横に振った。


「ううん。だって、それは――。俺たち人間じゃないから。あの国じゃ、俺たち国民でもなけりゃ人間ですらないもの。税金って国民が払うもんだろ?その代わり俺たちの声なんかまるで政府は聞いちゃくれないぜ?そういうの優遇って言うのかい?」

「なるほど…そういうことか。確かに、優遇――と言うのはいささか聞こえが良すぎますね」


 愁はにわかに眉を寄せた。


「なあ、愁。俺も訊きたいことがあるんだけど…いいか?」


「はい、何なりと」

 愁はにっこりと微笑んだ。


「篠懸…様ってさ、あいつ、どういうの?何か…さ、友達になりたい――とかって言うんだけど、でも俺は…」


 自分たちが紗那でどんな扱いを受けてきたか、そして自分がどんなに汚いことに手を染めてきたかを語って聞かせた今、やはり氷見は迷っていた。

 当然許されるはずなどないと思った。そして、いつまでもこうしてここにいるわけにはいかない――そう思った。


 ところが。


「篠懸様のことより、あなたの気持ちはどうなんです?」


 返ってきたのは意外な言葉だった。


「え?俺…の?俺の…気持ち…?」


「あなたは篠懸様がお好きですか?あの方をあなたの友として愛してくださいますか?そしてこれから先、あの方と共にありたいと――そう願ってくださいますか?」


 正直驚いた。

 篠懸だけならまだしも、その第一の側近であり教師でもある愁がこんな風に自分を尊重してくれようとは考えもしなかった。


「あ…えと…。俺は…あいつ、好きだよ…。一緒に話しててもさ、あいつの誠実さとか優しさなんかが、どっと体に流れ込んでくる感じで…それでいてホントとんでもなく正直で真っ直ぐで…。俺、何か自分が恥ずかしくなる…。こんなの初めてだ。あんなヤツ初めて見た…」


 氷見は両手で顔を覆った。人を何人も殺め、血と罪に染まった自分が恥ずかしくてたまらなかった。


「ではもうとっくにお友達なんですね」


 愁はにっこりと微笑んだ。


「でっ…でも俺なんかが…!」

「そういう卑屈な言い方、あの方はお嫌いですよ」

「あ…。う、うん…そうだな…」


 たしなめると、氷見は恥ずかしそうに俯いた。


「氷見…あなたが鬼として生きたことを少しでも恥じているのであれば、今から人間に戻ればいい。ここにはあなたを鬼と呼ぶ者はおりません。過ぎたことを悔やむのはそのぐらいでもう止めておきましょう」



 握り締めた拳に雫がいくつも落ちるのを知りながら、愁はそっと部屋を後にした。

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