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月の雫 ―春霞の抄―  作者: 惠 悠冬(めぐみ ゆうと)
5/14

05//空に輝く星のごとく

 広間では、紗那の客人をもてなす簡単な宴が催されており、執権・常磐ときわと数名の大臣、そして第一皇子専属教師のおみが、彼らと卓を囲んでいる。


 一方。


 当然のこととして、そこに加わることの許されぬ堅海かつみは、談笑の漏れる廊下で、またしばらくの時間を潰さねばならなかった。

 だが、これさえ済んでしまえば、あの二人にようやく本題が聞き出せる。


 ふと目を向けた窓外そうがいの彼方に、うっすらと雲を纏った天飛山あまだやまが見えた。


「皇子様は…まだお怒りでいらっしゃるのだろうか…」


 ふと、そんな思いが口をつく。


(結局あれから、お会いすることも言葉を交わすことも出来ずに、黙って屋敷を出てきてしまったが…。もしかしたら、そのことでまた腹を立てておられるかもしれないな)


 ぼんやりとため息をついたその時、広間の扉が開き、そこからひょっこり臣が顔を出した。


「堅海。常磐様がお呼びだ。入れ」

「え…?あ、はい。畏まりました」


 何がなんだか分からぬまま、それでもとにかく扉の内側へ滑り込めば、取り巻くまなこが一斉に堅海を見る。にわかに恐縮しつつ一礼して、堅海は常磐の傍らに跪いた。


「ああ、よいよい堅海。楽にせい。実はこちらの橘様が、そなたを大層気に入られたご様子でな」


 顔を向けた拍子に目が合うと、橘はにこりと瞳を細めた。


「私ども相手では退屈かもしれませんが、どうかご一緒してくださいませんか、堅海殿」

「い…いや、退屈などとめっそうもない!では、失礼して…」


 あたふたと用意された席に着く。


「堅海殿。今はな、ちょうど――そら、先ほどの自然と都の調和について話しておったのだ」


 手ひらの内側で声をひそめるふりをして、来栖はにっと歯を見せた。


「我が国も見習いたいと思ってね…」


 そう言って頷くと、橘はおもむろに皆を見渡した。


「そういったわけで――。つきましては我が国の現状を、ご高名なこちらの宮廷学者様方にご覧いただき、貴重なお知恵を拝借願いたいのです。もちろんそのようなこと、今この私の一存のみで決められるものではありませんが、ご了承いただけるのであれば、すぐにでも宰相らと相談させていただきたい。まるで都合の良い話と、皆々様にはさぞ思われることと存じますが、何とぞご一考賜りたく…」


 そう言って、紗那の二人は深々と頭を下げた。


 これまでにも紗那の使者が楼蘭を訪れることは何度もあったし、それぞれの皇子が互いの国へ出向くのも今回に限ったことことではない。しかし、これほど腰の低い紗那の姿を見た者がここにどれだけあったろう。それも宰相補佐と軍の准将といった、地位も名誉もある人物が――となると尚更である。

 会場はにわかにどよめき、誰もが戸惑いを隠せなかった。


 常磐の額に玉の汗が噴き上がる。


「い…いや、どうか…!どうかお顔をお上げください、橘様!来栖様も…!!」


 そして――。


「ああ、そうだ。この願いが実現したあかつきには、どうか堅海殿もご一緒に…。是非一度、我が国へお越しください」


 顔を上げた橘は、なぜか真っ直ぐ堅海を見ていた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 その後つつがなく宴は終わり、夕方近くになってようやく堅海は橘らに声をかけることができた。


「橘殿、来栖殿。実は少々お伺いしたいことがあるのです。お手間は取らせませんので、どうか少しばかり私にお時間をいただけないでしょうか?」


 警護兵らに下がるよう合図を送り、堅海は紗那の客人を星の宮の庭園へ連れ出した。


 内裏に数ある庭園の中でも、特に、この時期のこの庭の美しさは格別だ。

 目にも鮮やかな新緑の下では、色とりどりの躑躅ツツジの絨毯が広大な庭の奥へ向かって敷き詰められ、脇で枝垂れる小手毬コデマリの枝々は、そんな彼らの雄姿にわずかばかりの色をえるよう可憐な弓を重ねている。中央に鎮座する翡翠ひすい色の池では、ひと足早く天を目指し始めた蓮の蕾のいくつかと、周囲を縁取る花菖蒲ハナショウブの紫がそよ風に踊り、負けじと畔で胸を張る立葵タチアオイ――まだ盛りには早いそれらの目前では大輪の芍薬シャクヤクが絢爛たる篝火を点している。

 仄かに漂う白丁花ハクチョウゲの香り――これは、いったいどこから流れてくるものだろうか――。


 えもいわれぬ美しさに、二人は素直に息を呑んだ。


「ああ、これはまた美しい」

「なんと幻想的な…」


 そんなため息ばかりが漏れる。


「喜んでいただけてよかった。さて、実は――このような場で無粋な話かとは存じますが、此度、私がお尋ねしたいことというのは、銀鏡しろみの鬼――と呼ばれる存在についてなのです。ご存知であられますか?」


 そう堅海が切り出した途端。


「――ああ、彼らならば…」

「待て、准将」


 素直に応じた来栖をすぐさま制し、橘は訝る素振りを見せたのである。


「堅海殿、なぜ――とお訊きしても構いませんか?一体なぜ、そのようなことをお知りになりたいのです?」


 堅海は、昨晩の久賀の言葉を思い出していた。


 ――その存在は紗那に黙認されている節がありますね。

 ――それはつまり、紗那が過去に…あるいは今現在も彼らを何らかの目的で利用することがある、そう見て良いのではないでしょうか?


(やはり、何かあるか…!?)


 そう察した堅海は、あらかじめ用意しておいた理由をさももっともそうに語った。


「いや…既にお聞き及びのこととは思いますが、実は今、私は第三皇子・篠懸様のお供で、天飛の如月に滞在しておりまして…。銀鏡の鬼という言葉も、そこで偶然に耳にしたものなのです。ただ、隣国といっても、すぐ北の銀鏡の森のこと。そのような近場に怪しい輩が潜んでいるかも知れぬというのに、近衛長のこの私がうかうかもしておれず、ついに上司のめいで、この機会に直接お話を伺いに参じたという次第なのです」


 さもあろうとばかり、来栖が大きく頷いている。何とか納得は得られたようだ。


「おお、そうであった!第三皇子の篠懸様は、ご病気で療養中だそうですな。お加減はいかがです?少しはお元気になられたか?」

「ええ。まだ暫くはかかりますが、徐々に快方へ向かわれているように感じます」


 しばし思いつめた様子を見せ、ようやく橘は重い口を開いた。


「なるほど…。そういうことならばお話しましょうか。銀鏡の鬼――というのは、あの森に巣食う山賊の一団でしてね、実に狡猾で残忍な連中です。近年の近隣への被害増大に伴い、我が国としても適時討伐隊を差し向けて森をさらっているところなのですが――」


 来栖が続ける。


「これがなかなかすばしこくてな。何とか数名は捕らえたが、その殆どはまだ見つかってすらおらぬのだ」


 確かに昨夜得た情報と比べてみても、それなりに辻褄は合っているようである。


 だが。


「しかし、来栖殿。それならば、彼らの住処すみかさえ詳細に特定しておれば、簡単に一網打尽にできたのでは…?」


 答えたのは橘の方だった。


「いや、それはもちろん見つけ次第、即刻すべて焼き払ったのですが、恥ずかしながら、どうもこちらの情報が漏れていたらしく、隊が到着した時には、どの住処ももぬけの殻だったのです。子どもながらになかなか頭の切れる連中ですよ」


「ほほう…。子ども…ですか」

 唸るように呟いて、堅海はしばし考え込む素振りを見せた。


「だが、天飛ならば相当近い。国境を越えた者がおらぬとも限らぬか。堅海殿、今となってはあまり役に立つ話ではないかもしれぬが、奴らはそれは風変わりな連中でな。鳥の羽根やら熊の毛皮やら、おかしな装飾品を身に着けていることが多いんだ。万が一にもそういったやからを楼蘭国内で発見したなら、どうか遠慮なく私へ知らせてくれ。責任を持って、我が国の軍が捕らえに向かう」

「分かり申した。情報の提供、感謝致します」


 そうして来栖の言葉に頷いている間も、鈍い輝きを宿した橘の眼差しは一瞬たりとも逸らされることなく堅海を見ていた。


 ところで。


 実はこの時、庭園には彼らの他にもう一人、ある人物が潜んでいたのである。堅海らが庭を立ち去る気配をしかと認め、岩陰からその人物はついに姿を現した。


「ふん。なるほどね…」

 呟いて、声の主――臣は鼻先で笑った。


 各国を渡り歩いた経験のある臣は、先の話を聞かずとも銀鏡の鬼のことはよく知っていた。ある意味では、当時傭兵をしていた自身と何ら変わりのない連中である。貰うものさえ貰えば、何なりといとうことなくやり遂げる――そういった点では。


 ただし臣は、実際の彼らが紗那の言うような輩でないことも知っている。


 今の橘らの言葉で、臣は一つ確信していた。


(反体制への見せしめということか。まんまとはめられたな、子鬼ども…)


 踵を返すと、臣は自らの主の待つ光の宮へと向かったのだった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 いつものようにたった数時間で釈放された睦は、自室の椅子に腰掛けてぼんやりとしていた。


 机上には、黒曜石こくようせきで作られた星座盤が無造作に散らばり、傍らでは碧く透き通った天球が、それを支える四本の脚の上でゆっくりと自転を続けている。膝に転がる大粒の霰石アラゴナイトの珠――それが時折青白く瞬いても、虚ろな瞳には何が映ることもなかった。


 もう何をする気力もない…。


(あの時、堅海につい心を打ち明けてしまったのは、なぜだろう)


 睦は、繰り返しそんなことばかり考えていた。


 思えば堅海となど、これまでろくに言葉を交わしたこともなかった。たまたま気紛れに優しくされ、つい心(ほだ)されてしまった――そういうこと?ならば、気の毒なことをした。無理に不快な話に付き合わされた――今頃はきっとそう思っていることだろう。

 彼にしてみれば、薄汚いこの私を軽蔑する理由こそあれ、あんな話に付き合わされるいわれなどなかったのに…。


 気だるく髪を掻きあげて、睦は窓の外を眺めた。


 もうじきに日が暮れる――。


「また…夜がやってくる…」


 ため息のように呟いて立ち上がる。

 膝の霰石がゴトリと音を立てて足元を転がり、肩に羽織っていた上掛けがはらりと落ちた。

 ぼんやりと窓辺に凭れ、睦は立ち尽くすのだった。


 憂鬱な静寂が、今夜もゆっくりと闇の中へ滑り込んでくる…。


「?」


 不意の物音に、睦は振り向いた。気のせいか――と改めて耳を澄ませば、確かに聞こえる。この部屋の扉を叩く音だ。


 恐る恐る扉を開けると…。


「!!」


 瞬間、睦は声を失った。


 皇子付きの職を下ろされて以来、この部屋を訪れる人間など白露の使いを除けば皆無に等しかった。まして、軍の人間など――しかも先刻、彼には不愉快な思いをさせてしまったばかりだというのに…。


「睦殿。私はこれから如月へ戻ります」


 跪いた堅海は、足元から毅然と睦を見上げていた。


 ひたむきな誠実さと揺るぎない意思の宿った真っすぐな眼差し――純潔たるその煌きの前で、私は何を口にし、どう振舞うべきであろうか。一体私は今、どんな顔をすれば良いのだろう――。


 そんな畏怖いふにも似た戸惑いの中で、睦の心はどうしようもなく震えるのだった。


「まずは…私のような身分の者が、差し出がましくも宮廷学者様のお部屋へまで押しかける無礼をお許しいただきたい。ですが、睦殿。失礼を承知で申し上げるが、そのようにあまりご自身ばかりを責めてはいけません。もう一度思い出してください。どんな形であれ、睦殿はご自身の夢を叶えるために、ここに身を置いていらっしゃるはず。断じて白露様のためなどではない!

 どうか、もっと胸をお張りなさい。胸を張って、ここであなたの望むことを一心に成せばよいのです。そして…もっとお心を強くお持ちなさい。誹謗や中傷など寄せ付けぬほどに!」


 一気に言い尽くすと、堅海は結んだ眉をふっと緩めた。


「そしてもしも…。もしもまたお辛い時があれば、いつでもこの堅海をお呼びください。私などであなたのお役に立てるのであれば、直ちに馳せ参じ、必ずやあなたのお力となりましょう。ですから――よろしいか、睦殿。お願いですから、どうかもうご自身で御身おんみを傷つけるような真似だけはお止めください!」


 血を吐くように言うと、堅海は額をひしと床に擦り付けた。


「そ…そんな…。そんな…」

 声にならぬ思いが込み上げる。


 あまりに思いがけない言葉だった。まさか、こんなふうに自分を思ってくれる者があったなんて――。


 わななく瞳に涙が湧き、ついに睦は崩れ落ちた。膝を付いた拍子に瞼を離れた雫が、冷たい床にいくつも散る。


「恐れながら…。身分を弁えぬ非礼の数々、平にお詫び申し上げます。誠に…誠に申し訳ありません!」


 額を床に当てたまま、堅海はいつまでも顔を上げようとはしなかった。


 類稀なる才能に恵まれ、ここに夢も希望も抱いたはずの若者が、どうにも抗えぬ力に翻弄され、もがき、足掻き、流されるままに己を見失い――。そうしてついには、自らの存在をも卑しめてゆく。

 そんな睦の姿が、堅海には悔しくてならなかったのである。


「も…もういい。止めろ。顔を上げよ!!頼むから…頼むから、どうか…もう顔を上げてくれ!お願いだ、堅海…!!」


 悲鳴にも似た睦の声は、水の宮にいつまでも響いていた…。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「これをこうして――と。はい、できました!」


 篠懸の鬼灯ほおずきへ夜光蝶を差し入れると、紫苑はにっこりと微笑んだ。


「本当に行かぬのか、紫苑…?」


 篠懸は唇を尖らせた。


 陽はとうに暮れ、辺りはすっかり宵闇に染まっている。

 鬼灯の提灯ちょうちんが揺れるたび、薄い皮膜の内側に仕込んだ蝶が、ひらりひらりとはためき始める。すると、その透き通ったはねはまるで炎のように揺らめいて、蒼白いりんの輝きをほたほたと足元に落とすのであった。


 供をする二人の支度を手早く済ました紫苑が、困ったような顔をして振り向いた。


「ごめんなさい、篠懸様。氷見が少し熱を出しているようですし、やっぱり紫苑は屋敷に残ります」

「そうか…」


 後ろ髪引かれる篠懸の手を引き門前まで来ると、愁は静かに振り向いた。


「では、紫苑。いってまいります」

「はい、いってらっしゃいませ」


 柔らかに微笑み、紫苑は三人を見送った。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「そっちだ!一匹たりとも逃がすな!!」

「いたぞ!あそこだ!!」


 静寂の森に響くは、獲物を追い詰める男らの喊声かんせい――。


 迫る追っ手から逃れようと、少年らは枝から枝へ跳躍を繰り返す。


「急げ、珠洲すず!追いつかれる!!」


 先頭をゆく風変わりな姿の少年が、振り向きざまに長い槍の柄を差し伸べた。その柄を両手でしっかと握り、珠洲と呼ばれた少女は懸命に声を絞った。


「でも…!でも、雲英きらが!!それに李燐りりんはどうするの!?」


 槍ごと珠洲を引き寄せた後、少年は大木の先端を目指して一気に跳んだ。


 眼下に男らの声が聞こえる――。


「もう無理だ!あいつらは死んだ!!」


 振り向きもせず答えると、突然珠洲は少年の手を振り払った。


「!?」

 驚いて少年は振り返った。


 あどけない顔が、汗と涙でぼろぼろに汚れている。傷だらけの手のひらでそれらを一度に拭い、珠洲は気丈な声を張り上げた。


「氷見は…。氷見は、平気なの!?雲英と李燐が死んだなんて!!ひどいよ!そんなの嘘だよ!!」

「馬鹿!平気なわけが――伏せろ、珠洲!!」


 咄嗟に氷見は珠洲の頭を抱え、樹上に蹲った。


 その次の瞬間。


 氷見の纏う鳥のかしらから、とりどりの羽根が弾け散る。無数の矢石しせきが二人を襲ったのだ。


「ちっ…!見つかった!」

 愛用の槍を咥えると、氷見は震える珠洲を抱いて宙へ跳んだ。


 空中にいる間の彼らの影はうまく太陽と重なり、地上で見上げる兵士らからよくは見えない。それでも蛮族成敗ばんぞくせいばいの手柄を上げようと、男たちは我勝われがちに矢を放ち続けた。


 無尽に吹きつける攻撃を縫い、軽やかに木々を渡ってゆくかに見える氷見。だが、その彼とてまだほんの子ども。幼い珠洲を抱えての移動には限界がある。


 ある程度敵から離れた場所で珠洲を下ろし、氷見は息を整えもせずにこう言った。


「いいか、珠洲。よく聞けよ。ここからずっと南、楼蘭という国の都・黄蓮おうれんあやがいるはずだ。このままおまえは妖の元へ行け!」


「ひ、氷見は…?氷見も行くんだよね!?」


 驚いた珠洲は、氷見の胸にしがみついた。


「俺は後から――。きっと後から追いかける。だからお前は…」


 見開かれた瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれた。


「やだよ!一緒に行こうよ!珠洲一人でなんか絶対無理だよ!行けるわけないよ!!」


 今の氷見の心は穏やかだった。

 もう心は決まっている。己の守るべきものを最後の最後まで守りきること。それが…それだけが今の彼の望みだった――。


「大丈夫。できるよ、珠洲なら。このままじゃ、どっちも危ないんだ。必ず…必ず後から俺も行く。ちゃんと約束するから…だからおまえは先に行って、このことを妖に伝えてほしい。この紗那の裏切りをな…!!」


 生きろ、珠洲。

 強く。

 もっと強く…!!


 氷見は、震える少女を力いっぱい抱き締めた。


 そうしてついに――。


「……」

 ぎゅっと唇を噛み締め、珠洲はこくりと頷いた。


 固く握った拳とは裏腹に、肩はまだ震えている。不安と恐怖と悲しみと…様々な思いにくじけそうな心を懸命に奮い立たせ、幼い少女はしっかりと氷見に頷いて見せたのだった。


「振り向かずに行け。いいな?」

 精一杯優しく微笑み、氷見は涙に濡れた顔を拭ってやった。


 ところが。


 その背中を軽く押してやれば、その勢いで数歩は足を運ぶ珠洲だが、すぐにもじもじと立ち止まってしまう。


 そんな彼女の葛藤は氷見にもよく分かっている。

 それでも――。


 氷見はぐっと眉を結んだ。


「早く!!あいつらが来る前に!行くんだ、珠洲!!」


 激しい叱咤しったにびくりと肩を震わせた後――。


 ついに珠洲は、たった一人で空へ跳んだ。木々の間をたどたどしく渡り、振り向かぬまま森の奥へと向かう。時折立ち止まっては顔を拭い、それでも決してこちらを振り返ることなく、何度も跳躍を繰り返す。

 そんな健気な後姿を、氷見は黙って見守った。


 もう思い残すことはない。


 大丈夫だ。

 これでいい…。


 耳を澄ませば、兵士らの声と乾いた葉を踏み散らす音が、もう間近にまで迫っている。

 氷見は、ふっと口元を緩めた。


 そうして――。


 一陣、鮮やかに空を裂いた長槍が木々の間を鋭く掠め、行軍の只中に深々と突き刺さる。次いで天から放たれたいかづち――苦無くない鋼鉄はがね飛礫つぶてとなって慄く兵士らを襲った。びゅびゅっと空を切る苦無の音。それらを耳にするやいなや、兵士の何人かは悲鳴を上げて枯葉の上に転がった。


 やがて地上へ降り立った刹鬼せっきは、目前に刺さった愛用の槍を引き抜き、にやりと舌なめずりを見せた。


「さあ…。死にたい奴から、とっとと前に出な!!」


 珠洲との約束を果たす気など初めからなかった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「…!!」


 はっと目を開けると、すぐ目の前に濡れ手拭いを摘んだ紫苑の手があった。


「あ…氷見…。起こしてしまいましたか?」

「い、いや…構わない…」


 氷見の呼吸はひどく浅い。


 改めて手拭いをぎゅっと絞り直し、紫苑は氷見の汗を拭ってやった。


「ひどくうなされて…。何か…怖い夢を見ていたようですね」

「まあな…」


 細い手のひらが額に宛がわれる。ひんやりとした感触が、熱った肌に心地良い。


(珠洲は…無事に妖の元へたどり着けただろうか…)


 深いため息が漏れる。


「この熱…。遊佐様が、傷が癒えるときの熱だと仰っていました。それから、回復があまりに早いのでとても驚いてらっしゃいましたよ。ひと安心ですね」


「そうか…ありがたいことだ。ん…?」


 再び手ぬぐいが額へ乗せられたそのときだった。


 ただならぬ気配に二人は同時に顔をしかめた。何かがすさまじい勢いでこちらへ近付いてくるのである。


「これは馬の…蹄の音のようですね」


 などと言う間に、早くも屋敷へ上がりこんだ気配の主は、どかどかと大きな足音を響かせてこちらへ迫ってくる。


 そうして、ややもせず――。


「氷見とやら!!貴様、銀鏡の鬼だな!?」


 勢い良く開け放たれた襖から現れたのは、都から愛馬・諫早いさはやを駆って戻ったばかりの堅海であった。


 慌てて紫苑は立ち上がった。


「止めてください、堅海!氷見は大怪我を負っているんですよ!?」

「だがな、紫苑!こいつは銀鏡の鬼といって、紗那では――!」

「そんなの関係ありません!傷を治すほうが先です!」


 背後にしっかと氷見を匿い、紫苑は堅海を見据えた。


「ふっ…銀鏡の鬼…か…。いかにも…俺は銀鏡に棲む鬼。だが…だったら何だってんだ?ろくに身動きすらできぬ子ども相手に…たったその程度のことを言いたくて、こんな夜更けに馬なぞ飛ばして…わざわざここまでまでやって来たってのか、あんた…?」


 途切れ途切れに荒い息を吐きながら、氷見は薄ら笑いを浮かべた。

 無論堅海も負けてはいない。あからさまな氷見の挑発に、一層威圧的な眼差しで応じている。一触即発。どちらもものすごい剣幕である。


「氷見も…堅海も…!二人とも、もういい加減に止めてください!!」


 気丈に言い放ち、紫苑はぐいぐいと堅海の背中を押し遣りながら部屋を出た。小柄ながらに腕力には覚えのある紫苑である。堅海を放り出すぐらいわけはない。


「お…おい、紫苑!!あいつは危険だぞ!分かっているのか!?おまえに…そして万が一にも篠懸様に何かあれば――」


 柄にもなく、堅海はうろたえていた。


「何かなんてありません!氷見はそんな人じゃありません!!」

 後ろ手に戸を閉めると、紫苑はじっと堅海を見上げた。


 だが、そこは堅海も負けてはいない。


「では訊くがな、何を根拠に、おまえにそんなことが分かるというのだ!?何かあってからでは遅――」

「ですから、何もありませんったらありませんっ!!」


 再び堅海はたじろいだ。


「だって…。だってあの時、氷見はあんなにたくさん血を流して…。それに今は、熱だってとても高くて…本当に動けないんです。それに、堅海が思っているような悪い人でもありません。確かに…ちょっと意地悪な人ではあるかもしれませんが…。でも、紫苑には分かります。ですから、どうか…もう少し元気をつける時間を与えてあげてください」

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 広場に設えられた祭壇には、既にたくさんの村人が集まっていた。


 さくの闇に、鬼灯の灯がいくつもゆらゆらと浮かんでいる。そうして瞬きを繰り返す蒼白いほむらは、見つめるほどにひどく幻想的で、暫し篠懸は別の世界にいるような不思議な感覚に陥った。

 なぜか急に心細くなって、繋いだ愁の手を確かめる。


 生活のすべてを遊佐の屋敷の敷地内で過ごしている彼らにとって、こうして里の人々を目にするのは、実にこれが初めてのことであった。


「はあ…。すごい人ですね、愁様。ここにこんなに大勢の方が暮らしていらっしゃったとは、正直…」

「まったくだな…」


 そう言葉を交わす二人の間では、篠懸がきょろきょろと首を動かし続けていた。


「あ!愁、あそこ!!あれは何をしているのだ?あの者、あのように敷物を敷いて…!」


 抑えきれぬ興奮が繋いだ手からありありと伝わってくる。何かを見つけるたびに無意識に握り返してくる小さな手の力強さが、しみじみと愁には嬉しかった。


「うーん。暗くてよく分かりませんが…。あれは…多分、飴屋…ではないでしょうか…?」


 そう言ってちらりと目配せをすると、応えて久賀は篠懸の目線に身を屈めた。


「篠懸様、買って参りましょうか?」


 篠懸の頬が、みるみるほうっと上気する。


「う、うん!だがっ…。だが、久賀…!!私は自分で選んでみたい!構わんか、愁…?」


 二人の従者の顔色を何度も窺いながら、心配そうに尋ねてくる。そんな幼い主人の姿に、思わずきょとんと顔を見合わせた二人は――。


「いいですよ、篠懸様。では、みんなで買いに行きましょうか?」


 はちきれんばかりに綻ばせた顔でぐいぐいと二人を引っぱり、ついに篠懸はお目当ての場所へと辿り着いた。

 簡素な店先に並べられたべっ甲飴が、鬼灯の灯にきらきらと煌いている。その様は、まるで色とりどりの宝石を見るようだった。


「うわあ…!とても美しいな!!」


 店の真正面を陣取った篠懸が、あどけない歓声を上げている。まるで普通の子どもだ。


「変わられましたね、篠懸様…」


 久賀が独り言のように囁く。


 黙って頷き、愁はじっと篠懸の背中を見つめていた。

 無量の思いに胸が詰まる。このささやかな彼の幸せ――それこそが、傍で守り仕える愁にとっての大きな幸福に相違ない。


 顎にたっぷりと髭を蓄えた店主が人懐こい笑顔で言った。


「んんー?どれにするんだい、嬢ちゃん?」


「え…?」

 ひょっこり上げた顔が、耳まで真っ赤に染まっている。


「あ…ええと…。わ、私はその…嬢ちゃんなどでは…」


 しどろもどろになる篠懸の髪を撫で、愁はくすりと笑った。


「ふふっ。この子は男の子なんですよ」

「あちゃー。そりゃあ悪いこと言っちゃったな。お詫びにどれでも好きなのを一つあげるよ」


 広い額をぴしゃり叩いて、髭の飴売りは照れくさそうに歯を見せて笑った。


「何!それはまことか!?ええと、じゃあ…。じゃあ、あれ!!」

 篠懸が嬉々として指差したものは、なんと客引き用に置かれた飴細工である。飛び立つ瞬間の水鳥の姿を力強くかつ繊細に表現した、実に見事な一品なのだが…。


「あ…。篠懸様、それは…」


 慌てて口を挟もうとした久賀をきっぱり制した飴売りは、おもむろに眉間に皺を寄せ、ううむと腕を組んで見せた。


「……」


 途端にみるみる曇ってゆく少年の顔。その顔を、片目でちらりと覗き見て――。


「坊ちゃん、お目が高いねえ。だが俺も男だ、二言はねえよ。持って行きな!」


 この男、なかなかに気っの良い人物のようである。


「あ…ありがとう!!」

 篠懸はうっすらと瞳を潤ませ、心から嬉しそうに微笑むのだった。


「では、飴屋さん。こちらのべっ甲飴をあと三つください。お代はちゃんと支払いますから」


 紙袋に包まれた飴細工を受け取りながら、不思議そうに見上げる瞳に、愁はにっこりと微笑みかけた。


「紫苑と氷見、それから堅海の分を選んであげてくださいね、篠懸様」

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 月のない、星々だけが瞬く夜。儀式の時が訪れる。


 今、祭壇上の大きな篝火の前には朱の唐衣からぎぬを身に着けた遊佐が静座し、その傍らでは、細かな枠飾りに彩られた玉鏡たまかがみが、風に踊る火の粉をちりちりと映し続けている。

 見守るざわめきのあちこちで、無数の瑠璃鬼灯が揺れている。


 刹那――。


 突如として風は止み、大太鼓だだいこの力強い音が響き渡った。


 厳かにこうべを垂れた遊佐は、やがて小さく呪文を唱え始めた。轟く太鼓に衣擦れのようにさやかな声が紛れ、時に大きく時に細く滔々(とうとう)と揺らめきながら、辺りを包み込んでゆく。


 そのまま暫し。


 ひんやりと研ぎ澄まされた夜気やきが、如月の空を覆い尽くした。


 その時だった。


「!」


 遊佐は、両手を差し上げ、何かを捧げるような仕草を見せた。すると、そんな彼女に同調したか、それまで何の変化もなかった玉鏡が、仄かな輝きを宿し始めたのである。

 人々のため息をよそに、鏡はじわじわと輝きを増し――やがて、その眩さに目が眩み始めた時、遊佐はそっと鏡面に両の手を宛がった。


 途端。


 ドオン!!


 大きな地響きが上がり、太い光の柱が次々に天空を目指して湧き上がった。


「こ、これは…。まるで星読み…!!」


 愁の声は震えていた。


 漆黒の夜空をほんの一瞬、真っ白な煌きが覆い、辺りはまるで昼間のような眩さに包まれる。そして呆然と仰ぐ人々の真上でぱあっと弾けた光は、儚げな尾を湛えた雫となって、今度は次々に地上へと降り注いだのであった。


 きらきらと煌めいて儚く散り、砕け――それはあたかも空に煌く星々が、手元へこぼれ落ちるてくるような神秘…!


「……」


 篠懸、久賀、そして愁さえも――誰もがその幻想の前に瞬きも忘れて息を呑む。安堵と感嘆のため息がそこかしこから漏れ聞こえる。


 今年も良い年になりそうだ。


 煌々(こうこう)と注ぐ光の粒を受け止めようと、篠懸は小さな両手を夜空へと差し伸べた。あどけない横顔が光に照らされ、仄かに輝いている。


 愁はただ一心に祈っていた。


(この方の――篠懸様の笑顔が、どうかこうしていつまでも、ここにありますように…)

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「ただいま!!」


 躍る胸を抱え、篠懸は元気に屋敷の門を潜った。ところが、女中らは皆祭の後片付けに出払っており、玄関先に人影はない。


 やがて、奥からパタパタと小走りの足音が近づいてきた。紫苑だ。


「お帰りなさいませ。お疲れ様でした!」


 紫苑はふわりと微笑んだ。


「楽しんでいらっしゃったようですね」

「うん!ちゃんと土産も買ってきたぞ!」


 得意げに差し出された袋の中には、赤いべっ甲飴が入っている。


「わあ、綺麗…!これを紫苑にくださるのですか!?ありがとうございます!」

 嬉しそうに声を上げ、紫苑は包みを胸に抱いた。


 そして――。


「おかえりなさいませ、篠懸様」


 屋敷の奥に控えたもう一人の人物が姿を現したその途端、


「か、堅海…!」

 つい取り落としそうになった包みを慌てて握り直し、篠懸は小さく震えた。


「……」

 膝を付き、いつもと変わらぬ姿で主を迎えた堅海の前では、泣き出しそうな少年の瞳が揺れていた。


 察した愁が小さな背を軽く押してやると、そのままふらふらと歩み寄った篠懸は、


「よく…。よく戻ってくれたな、堅海…」


 逞しく温かな腕にしがみ付いた。


「お約束を果たせず、申し訳ありませんでした」

「……」


 太い堅海の腕に顔を埋めたまま、篠懸は動かなかった。迂闊うかつに動けば、涙がこぼれてしまいそうだった。


 堅海が自分を見限ってしまったのでは――という想いが、本当は、あれからずっと篠懸の心の奥底にこびり付いていた。でも、今はまたこうして堅海が傍にいる。そのことが素直に嬉しくてたまらない。


「そうだ、篠懸様。これを…」


 そう言って、堅海が懐から取り出した物――それは、ちょうど篠懸の手に収まるほどの碧く美しい霰石の玉であった。


「これは…?」

「篠懸様に…と、睦殿から預かって参りました。心と体を癒す霊験あらたかな宝玉なのだそうです」


「む、睦が!?私に…?」

 顔を見知ってこそいるが、殆ど言葉さえ交わしたことのない睦。そんな彼の思いがけぬ贈り物に、篠懸は戸惑い躊躇ちゅうちょした。


 これには愁も驚いたようだった。


「それは…。もしや、睦が宮へ来たときからずっと大切にしていた物では…?」


 堅海はゆっくりと頷いた。


「睦殿の…お母上の形見なのだそうですよ」

「そ…そんな大切なものを、この私に…!?」


 包んだ両手をそっと開いてみる。

 手の上の玉は透き通るように碧くつやつやと輝き、篠懸は、まるであの夢のように降り注いだ星々の粒だ――と思った。


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