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月の雫 ―春霞の抄―  作者: 惠 悠冬(めぐみ ゆうと)
4/14

04//たゆたう時の徒(いたづら)に

「なんだと?ふた月!?まったく愁も篠懸様も、公務を一体どのようにお考えなのだ!?」


 嫦娥こうが殿へ向かう石畳の廻廊かいろうを足早に進みながら、楼蘭国執権・常盤ときわは感情的に声を上げた。薄暗いしじまに野太い怒号がこだまする。


 小走りに後を追うのは、堅海の配下であり篠懸専属の近衛を務める久賀だ。この日彼は、篠懸の長期宮禁(きゅうきん)不在許可を得るために都へ戻って来ていたのである。


「しかし、恐れながらこれは、如月の遊佐様のご指示であり――」


 言いかけた久賀を遮り、常盤は更なる大声を放った。


「そんなことは分かっておる!!それでも、だ!あと数日で、紗那の皇子がこちらにお越しになると言うのに、我が国の皇子が出払っておるなど、まるで格好がつかぬではないか!」


 威圧的な視線が差し向けられたその時、二人の背後でコツリと微かな靴音が鳴った。


「ほう。では、この私だけでははくが足らぬと…つまりそう申すのだな、常盤」


 声の主を確かめるよりも早く、常盤と久賀は素早くきわへ跪き、頭を垂れた。


「め、滅相もございません、水紅とき様!私は…私めは、決してそのようなこと――」


 床を睨むまなこを白黒させ、常盤はしどろもどろになって答えたが、その間にも近づく靴音は、一層大きく迫り、やがて平伏す彼の鼻先でぴたりと立ち止まった。


「ならば構わぬだろう?此度の紗那の来訪とて形式的なものなのだし、それに何と言っても篠懸は今、療養中なのだ。それで充分理由は立つではないか」


 冷ややかに見下ろすは、年の頃は十八。艶やかな黒髪に切れ長の目元の涼やかな麗人――一見しただけでは女性と見紛うほどの美貌を持つ青年であった。

 篠懸とは腹違いの兄・水紅である。


 楼蘭国第一皇子で次期皇位継承者の水紅にそうたしなめられてしまっては、さすがの常盤も返す言葉がない。じっとりと額に滲む汗を拭いながら、常磐はひたすらに床に額を擦るほかはなかった。


「はっ!仰せのままに…!!」


 やがてうっすらと口元を緩めた水紅は、隣の久賀へと目をれた。


「戻ってしかと篠懸に伝えよ。公務は可能な限りこの水紅が代わって引き受けよう。そなたは、病を治すことだけに専念しておれば良い。くれぐれも大事に致せ――とな」

「はっ!かしこまりました!」


 即座に立ち上がるや敬礼し、久賀は速やかに皇子の御前を下がった。その久賀と入れ違う形で現れた男は、水紅皇子付きの教師・おみである。


「皇子様、謁見えっけんの時間に遅れます!さあ、お急ぎください!」


 いずれ国を継ぐ立場にある水紅は、毎日決まった時間に下々の者と謁見する。こうして皇子と民とがまみえ、直に言葉を交わすことで、中央へ寄せる民衆の信頼を強固にすることが、その主たる目的だ。


 その一方で民は、幾度も内裏へ足を運び、皇族や廷臣ていしんに自身を売り込むことで、上手くすれば各宮の出入り許可等、様々な特権を得ることさえ夢でなくなる。従って、謁見を申し出る者は内裏御用達を求める商人や、軍入りを切望する武人などが圧倒的に多い。


 ところが、こういった連中は、どういうわけか皆似た雰囲気を持っていて、その上話す内容も、異国で手に入れた珍しい品の話だの名うての剣豪と一戦交えた話だの――と至極似かよったものが多いので、何年もそれらを聞き続けている水紅は、正直すっかり辟易へきえきしているのだが、それが公務とあらば、立場上逃げるわけにもいかない。


 やれやれと肩を竦めると、水紅は、臣に追い立てられるようにその場を立ち去った。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 水紅が謁見を務める間、暇ができた臣は、中庭に設えられたせせらぎの畔に腰を下ろし、ひっそりと読書に耽っていた。


 水面を渡って吹き抜ける風が心地良い。


 今でこそ、水紅の専属教師という形でここに収まっている臣だが、元々は異国出の武人で、傭兵として各地を渡り歩いた経歴を持つ。

 もっとも、その頃に負った傷が原因で現役を退くことを余儀なくされて以降は、様々な仕事を転々としながら細々と暮らしていたのだが、この特殊な経歴に目を留めた水紅皇子たっての希望で、偽の数学教師として宮中へ上がった。そんな臣が、実際に皇子に教示する学問は軍学ぐんがくである。つまり、表向きでは水紅付きの数学教師としながらも、その実、水紅専属の軍師として彼は仕えているのである。

 やがて訪れるであろう戦乱の世に、水紅が――いや、楼蘭国と楼蘭国皇帝たる未来の水紅がきっと勝ち残るために、皇子自身が彼の宮入りを強く求めたのだ。

 だが、この事実を知る者は水紅や蘇芳帝が信頼を置くごくわずかの人間に限られている。無論、他言は許されていない。


 臣が、元来武人でありながら、堅海や久賀のように筋骨(たくま)しい風貌を持たず、ほっそりと中性的な印象の男であることも、経歴の隠蔽いんぺいに幸いしていた。


「…?」

 突如、膝に広げた誌面に濃い影が落ちる。


「ふっ、今度は何の本だ?また、何事かつまらぬことでも企んでいるのではあるまいな、臣?」


 毎度ながらの生意気な物言いに顔を上げると、逆光の中、腕組みをした水紅が臣を見下ろしていた。


「もう終わったんですか?ずいぶんお早いですね」


 あてつけがましく音を立てて本を閉じれば、それをひょいと引ったくり、

「ああ、今日は来訪者が少なくてね。それよりおまえ、この本、統計学などではないだろう?」


 水紅は、ページをぱらぱらと捲った。


 確かに背表紙には『統計学概論(がいろん)』とあるが――。


「皇子様がお探しになっていた東方秘術の書物ですが」


 僅かに顔をしかめた後、淡々と言葉を続けた。


「貴族連中は噂好きですからね。このように怪しげな物を堂々と宮に持ち込みなどしたら、何を言われるか…。ですからちょっと細工しておいたんです」

「そうか、待ちかねた。恩に着るよ、臣」

「どういたしまして」


 満足げに頷いて、水紅は氷のような笑みを湛えた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 楼蘭の都・黄蓮おうれん内裏だいりには、政治の実質的な拠所よりどころと皇帝の住居を兼ねた巨大な宮殿――嫦娥こうが殿と、祭事の殆どを取り仕切る磨鑛まこう殿、新旧の貴重な書物を納めた校書殿、品々に応じて造られた数々の宝物庫などの他に、それぞれ光の宮・風の宮・星の宮・水の宮と呼ばれる四つの美しい建物が存在する。


 廻廊で結ばれたこれら四つの宮は、初代皇帝が后や皇子たちへの愛情の深さを示すために造らせたもので、現在は光の宮は水紅に、風の宮は第二皇子で現在行方の分からない香登かがとに、そして星の宮は第三皇子の篠懸にそれぞれの住居として与えられており、残る水の宮については、この国の誇る宮廷学者らの住居兼書斎として利用されている。


 香登皇子が消えたのは、もうずいぶん前のことになる。


 香登の母親であり、第二の后・霞深かすみは、ある有力貴族の娘で、まだ若くとても美しかったが人一倍独占欲が強く、金品でも名誉でも男の心でも、欲しいものを手に入れるためには、どんな手段をも厭わない――そんな女性だった。


 その霞深が、皇帝の心を欲しいままにした時期もあるにはあったが、第三の后・梓が宮へ来てからはそれも叶わなかった。


 霞深にしてみれば、自分よりもずっと齢上の梓ばかりがなぜそうも皇帝に愛されるのか、また、あれほどに自分を愛した皇帝の心がなぜ突然離れていってしまったのか――と、不満や疑念も多かったことだろう。

 それが理由なのかどうかは定かでないが、ある日、何の前触れもなく霞深は姿を消した。


 まだ幼い香登を宮に残して――。


 そのまま香登は、ちょうど今の篠懸のように彼専属の教師・むつみや、他の御許らを親代わりに十四歳までを宮中ここで過ごした。


 ところが、今からちょうど二年前のこと。

 十五の誕生日を目前にしたある日、彼もまた謎の失踪を遂げてしまう。


 その一方。


 香登失踪事件直後に専属教師の任を解かれた睦は、今も自らが専門とする学問『星読み(占術のひとつ)』の学者として、宮仕えを続けていた。


 それぞれの皇子に付けられる専属教師というのは、その殆どが朝廷の抱える学者である。


 彼らは、それぞれが専門の学問分野を持っていて、内裏の厚い擁護の元、日々研鑽(けんさん)を積んでいる。社会的地位も相当に高い。彼らの研究内容が実に多岐に渡っており、求められさえすればそれぞれの分野において、議会や諸大臣、執権、果ては皇帝にまで助言や意見を陳情する権利が認められているためだ。


 国内に数多存在する学者連中が例外なく憧れ、その多くが自らの最終到達点と志すこの宮廷学者という身分は、学術研究を生業とする者にとっては羨望の地位であり、ここに学者の一人として名を連ねるということは、当然ながら大変な名誉でもあった。


 睦は今、水紅の母・白露はくろの前に跪いていた。


 いつものようにさっさと人払いを済ませた白露は、冷酷な光を宿した瞳を細め、青白い右手を差し出した。促されるまま、先ずはその甲へ接吻くちづけた睦は、やがてじっと見下ろす真紅の唇に自らの唇を重ねるのであった。


 白露が四十三、睦が二十一――。


 親子ほども齢の離れた二人のあからさまな関係は、二年前のあの時から続いていた。


 もっとも、それを望んだのは白露の方で、彼女の口添えで何とか内裏ここに残ることができた睦に、それを跳ね除けられたはずはない。宮で暮らす殆どの人間が、彼らの関係を知りながら、それを公然の秘密としているのは、白露という人物をよく知る者たちがそれを察したためである。


 齢を重ねるごとに離れていった夫の気持ち――。


 もはや今の白露はそんなものに何の未練も持ち合わせてはいない。今の彼女にしてみれば、身近に置いたこの若いつばめ・睦の存在と、一人息子の水紅の成長こそが生きる支えと言えた。


 情事を終えて白露の部屋を下がる時、偶然にも睦は、謁見から戻ったばかりの水紅と臣に出くわした。すぐさま膝を付き頭を垂れる。これがこの国の皇族に対する礼節の形である。


 水紅は、ぴたりと歩みを止めた。


「睦。母上様は、変わらず健やかであらせられたか?」


 もちろん水紅も彼らの関係を知っている。だからこその皮肉なのである。


 折に触れ、睦は色々な人間から、こういった嫌がらせや中傷を受けねばならなかった。己の心の弱さが招いた結果と心の奥底では理解していたが、それでもまだ若い睦には辛いことだ。


「は、はい。水紅皇子様には、ご機嫌麗しく…」


 ひらむ睦に目も呉れず、水紅は憮然と鼻を鳴らした。


「ふん…。なにも、そなたが私の機嫌などとる必要はない。そなたは母上様がいつも健やかであるよう、心尽くしておりさえすればそれで良いのだ」


「……」

 堪らず睦は目を伏せるのだった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 篠懸が如月の里に滞在して、はや一週間という月日が過ぎようとしていた。


 如月の春は、祭の季節である。

 毎年、この時期に訪れるさくの晩に、ここ如月の里では、その年の秋の実りを占う祭が行われる。占者はもちろん、楼蘭の誇る霊能師・遊佐だ。

 月明かりのない真っ暗な夜、屋敷近くに設けられた祭壇へと、大きな瑠璃鬼火るりほおずきでこしらえた提灯ちょうちんを手に人々は集い、吉凶の行方を静かに見守るのである。


 今年も、いよいよ二日後にその祭が迫っていた。


 その情報を聞きつけるやいなやすっかり興奮した篠懸は、朝からそわそわと落ち着かなかった。勉強にもまるで身が入らない。


「愁、本当に私が祭を見に行っても構わぬのだな?」


 歴史の本を広げていながらこのとおり、学習内容とはまったく関係のないことを口走る始末なのである。これでもう何度目だろうか。


 開け放った障子から柔らかなそよ風が入り込んで、篠懸の代わりに本の頁を捲ってゆく…。


 苦く笑って愁は空を見上げた。雲一つない上天気だ。


「皇子様――。ですから私は、先ほどから何度も構わないと申し上げておりますよ。但し、堅海も一緒です。よろしいですね?」

「うん、分かった。愁も堅海も一緒だな!」


 無邪気な顔が、弾けんばかりに破顔はがんする。

 思えば、この屋敷へ来てからというもの、篠懸は一度たりとも発作を起こしてはいない。それどころか、傍目には、みるみる元気を取り戻しているようにも思える。


 だが遊佐は、きっぱりとそれを否定した。


「それは、この付近に張り巡らせた結界の成せるわざでありましょう。篠懸様のお体が良くなったということではありません。結界のお陰で、悪しきあやかしにお身体を犯されることがなくなったというだけのこと。長年の悪意に蝕まれたお身体は、そう簡単に癒せはしませぬ」


 そんな言葉を思い出し、愁はにわかに神妙になった。


「でも皇子様。一つ愁にお約束ください。ご気分が少しでも悪くなられたなら、我慢せずにきっと私にお教えくださること。それを約束してくださらなければ、このお話はなかったことに」


 篠懸はひどく慌てたようだった。


「わ…分かった、約束するぞ、愁!きっとだ!!」


 つい愁の顔にも笑みがこぼれる。


「では…。あまり身も入らないようですし、歴史のお勉強はこの辺りで止めて、後は表で植物のお勉強と致しましょう。今日はとてもいいお天気ですよ」


「うん!」

 篠懸の瞳は一層の輝きを湛えた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 一方、その頃。


 紫苑はひとり、天飛の山中で薪を拾っていた。小柄な体には不釣合に大きな背負子しょいこの脇では、愁に頼まれて摘んでおいた青い鬼灯の実が揺れている。


 紫苑は女中でも召使いでもなかったが、この仕事と水汲みだけは、男手のない遊佐の屋敷で唯一力の強い彼女の仕事と決められていた。


 適当な小枝を拾いつつ、紫苑は、柔らかな枯葉の積もる道なき道を、更に奥へと踏み入っていった。遊佐の屋敷はおろか如月の里からも離れ、ずいぶんと深く分け入ってしまったが、長くここで暮らす紫苑にとってこの山はどこも庭のようなものである。


 突然――。


 ぴくりと手を止め、紫苑は辺りを見回した。息を殺し、視線をずっと先へと凝らす。


 ふと、遠くで山鳥が啼いた。


「あ!」


 見開かれた瞳に映ったものは、一体何であったか…?


 抱えていた薪を取り落とし、紫苑は更なる森の奥へと急いだ。そうしてついに辿り着いた場所で、紫苑は呆然と立ち尽くすのだった。


「……」


 目前にそびえるは、この辺りでもっとも大きなくすのきの大木。その根元に、目を覆いたくなるような痕跡が鮮烈に残されていたのである。


 剥き出しの根に絡みついた、おびただしいほどの赤黒い染み。

 何かをなすったような生々しい跡の残る幹。

 真新しい血液で染め上げられた枯れ草――。


 尋常ではない。ひどく傷ついた何者かが、たった今しがたまでここに蹲っていたはずだ。


 注意深く気配を窺うと、紫苑は、すぐそばの茂みに慎重に近付いていった。


 刹那。


「!!!」

 目前の茂みから跳び上がった何かが、紫苑の頭上を飛び越えた。


 即座に振り返れば、そこには――。


「……」

 大きな鳥の頭を被った奇妙ないでたちの少年が、深々と矢の突き刺さった胸を押さえて立っていたのである。年の頃は篠懸と同じくらいか、もう少し上か――といった、うら若い少年だ。


 露骨な警戒心が鋭い眼光へと形を変え、紫苑を一心に貫いている。その間もずっと、胸から滴る鮮血は彼の足元でぱたぱたと小さな音を立て続けていた。


「あ…あなた、血が…!」


 言いかけたその時、大量の出血にもはや立ってはいられなくなったのだろう、少年は大きくよろめき、がくりと膝を付いた。


 ところが。


「ばーか。迂闊うかつに…寄って来るんじゃねえよ…!」

 咄嗟に駆け寄った紫苑に、隠し持っていた苦無くないを素早く抜き、少年はその切っ先を白い喉元へと突きつけた。


 少年の呼吸はひどく浅い。


 ここで無理に抗うのは得策ではない――咄嗟とっさにそう判断した紫苑は、そろそろとその場に腰を下ろした。少年の顔色と傷とを観察しながら、とにかく今は頃合を待つべきだと思った。


 どうやら少年の方もまた、無下むげに危害を加える気は無いようだった。

 いや、そんな気力も限界に近づいているということか…。


 膠着こうちゃくの時――。


 気を抜けば朦朧もうろうとする意識を、少年は今、持ち前の精神力だけで支えている。それでも血の気が失せたその顔は時折虚ろのものとなり、もはや殆ど焦点の定まらぬ瞳は、小刻みに痙攣けいれんを見せ始めている。


 紫苑は、その僅かな彼の変調をも見逃しはしなかった。


「やあっ!!」


 不意の隙をついて、紫苑は苦無を思い切り蹴り上げた。弾かれた得物が弧を描いて回転し、楠の根に深々と突き刺さる。


 やがて、最後の武器を取り上げられた少年は、がくりと糸が切れたようにうなだれた――。


「も、もし…!お気を確かに!!」


 しかしその言葉に応えることなく、少年は眠るように意識を失ったのだった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「……」


 ふと瞼を開けると、少年は広い部屋に横たえられていた。枕元には、身に着けていた鳥の頭と衣服とが、丁寧ていねいにたたんで置かれており、更にその横には水差しと、小さな椀が一つ。


 胸に刺さっていたはずの矢は、いつの間にかなくなっていた。


 ならば――と、起き上がろうとしたが、傷ついた己の体は信じられないほど重く、ほんの少し動かすことさえままならない。その代わり、僅かに体が揺れた拍子に、胸の芯を鋼でえぐられるような激痛が走った。


「ぐ…!!」

 びくりと大きく身を震わせ、少年は激しく顔を歪めた。


 情けない。これでは逃げ出すことはおろか、立ち上がることもできやしない――。


 是非もなく、少年は改めて辺りを見回した。


 誰か名のある者の屋敷の一角とおぼしき部屋は、八帖ほどの板間である。片隅では行灯あんどんの柔らかな炎が揺らいでいる。だが、それ以外には、家具も飾りも何もない。簡素な客間――といった感じだ。


 部屋の北側は、恐らく他の部屋へ通じる廊下だろう。南側は庭に面した縁側であるように見受けられる。とはいえ、今はそれぞれが障子やふすまで隔てられており、しかと確認できたものではないが…。


(果たしてここは何処だろう)


 ふうっとため息をついたその時――。


「……?」


 少年は息を殺し、耳を澄ませた。

 察したのは、次第に近付いてくる何者かの話し声だ。すぐさま目を閉じ、少年は意識の戻らぬ振りを装う。


 ――そっと襖が開く音。


 どうやら、誰か入ってきたらしい。


 一人?

 いや、二人…。


 固く眼を閉じたまま、ひたすら気配を探り続ける。


 一人が、別のもう一人の人物に囁いた。この声には聞き覚えがあった。


「ですから、だめですってば、篠懸様!ここでお待ちください!そうしていただかなければ、紫苑が愁に叱られてしまいます!!」


 もう一人の声が答える。どうやらどちらも子どものようだ。


「そうは言うが、その少年は深い傷を負っているのだろう?それも、私と同じくらいの子どもだと言うではないか。気の毒に…」

「お気持ちは分かりますが、紫苑だって一度は刃を向けられた相手なんです。もしも、篠懸様に何かありでもしたら…」

「だが、今はもう武器など持っていないのだろう?ならば平気だよ」

「そういうことを言っているのではありません。篠懸様、本当にもう…。どうかお許しくださいまし…」


 紫苑というのは恐らく、山で出くわしたあの小さな少女のことだろう――と少年は思った。そして、もう一人は篠懸。どこかで聞いた名のような気もする。しかし、それが一体どこで聞いたもので、どんな人物のことであったかというと、いくら考えても思い出せない。


 他にもう一つ分かったこと――それは、彼らがどうやら自分に敵対するものではないらしいこと。それだけだった。


「そんなに心配しなくても…まだ動けねえよ、俺は」


 小さく口を開いた途端――。


「「えっ…!?」」


 戸口で揉みあっていた二人が同じ顔をして振り向いた――と思うと、もう次の瞬間には、結局そのどちらともがぱたぱたと枕元へ駆けつけてきたのだった。


「お気が付かれたのですね!」

 少年の顔を覗き込み、紫苑は嬉しそうに声を上げた。


「まあな…」


「まだ傷は痛むのか?」

 反対側から、もう一つの顔が覗く。見るからに育ちの良さそうな顔立ちの子どもだ。きっと貴族の子に違いない。


「あ…。ああ、少し…な」


 ひどく心配そうな篠懸の顔に少年は驚いた。こんなふうに下賤を気遣う貴族など、初めて目にしたからだ。


「あの、良かったら…お名前をお聞かせくださいますか?」

 紫苑は、少年の額に浮いた汗をそっと拭った。


「俺か…。俺は…氷見ひみ

「そうか、氷見。おまえを助けたのは、この紫苑と申す者。そして私は――」


 すかさず割り込んだ篠懸に、氷見は思わずくすりと眉を解いた。


「あんた、篠懸…様って、言うんだろう?」

「そなた…。なぜそれを知っておるのだ?」


 少し呆れたように笑って、氷見は入り口の戸を顎で指し、

「あんな近くで、やいのやいのと喧嘩されちゃあな…。嫌でも聞こえるさ」


「あ…もしや、私がそなたを起こしてしまったのか?そ、それは…大変に申し訳のないことをした」


「……」

 しゅんと小さくなる姿に、またも戸惑う。

 実はこの少年――氷見は、卑しい身分であるが故、自分の生まれた土地ですらまともな人間として扱われたことがなかったのである。


「い、いや…。そんなことよりも礼を言う。助かった。心より感謝する」


 しっかりとした口ぶりに、紫苑も篠懸もほっとしたようだった。


「さあ、お疲れでしょう?もう少しお休みください。また後で、お食事を持って伺いますから」


 乱れた襟元を直してやりながら、紫苑はふわりと微笑んだ。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 紫苑とともに自室の前まで戻ってくると、二人の姿を見つけた堅海が眉を寄せて近付いてきた。


「一体今までどちらにいらっしゃったのです!あちこち探したんですよ、篠懸様っ!!」


 大柄である上に元来地声の大きな堅海があまりに強い口調で責めるので、さすがの篠懸もびくりと肩を揺らして首を竦めた。


「い、いや…その…。堅海、実はな…」


 まごまごと口ごもっていると、代わりに紫苑が口を開く。


「申し訳ありません、堅海様。篠懸様と一緒に、あの少年――氷見と申すあの少年の様子を窺いに行っておりました」


 途端に堅海の表情は豹変した。当然のことである。


「な、何!?そなた、そのような得体の知れぬ相手に皇子様を!?」

「申し訳ございませんっ!」


 声を荒げた堅海より先に、紫苑は床へ跪き、ひしと額を擦った。


 すると。


「ま…待て!止めよ、堅海!」


 慌てて篠懸は二人の間に割って入った。そして、


「紫苑は何も悪くはない!!私が無理についていったのだ!」


 身を呈して紫苑を庇う。


 とにかく篠懸は必死だった。自分の勝手のために、紫苑が責められる筋合いなどないと思った。


 ところが――。


 そんな篠懸の態度に胸を射抜かれたのは紫苑ではなく、むしろ堅海の方であったのだ。


「す、篠懸…様…」


 背後に紫苑を匿いながら、ぐっとこちらを見据える澄んだまなこ。それは、愛する者を守りとおす男の瞳――そのもの。よもや、篠懸のそんな眼差しが、これまで忠実に仕えてきた自分に向けられようとは。


 堅海はひどく動揺していた。


 と、その時。


「何事ですか、騒々しい!」


 現れた愁が目にしたものは――。


「こ、これは一体…?何があったのです??」


 毅然として堅海を睨む皇子の姿と、ひたすらにうろたえる少女。そして、すっかり毒気を抜かれて立ち尽くす大男の姿であった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 自室に堅海を連れ込み、事の顛末を聞いた愁は、珍しく声を上げて笑った。


「わ…笑い事ではないぞ、愁!あの時、本当に俺は…」


 必死の弁解を始めた堅海と再び目が合うと、またも愁は肩をひくつかせている。


「しかしすごいな、篠懸様は。堅海ほどの豪傑を、こうも簡単に倒しておしまいになるとは」

「おまえというやつは…。俺がこんなに心を痛めているというのに」


 堅海が小さく舌を打つ。


 七丈(約二メートル)を超えようかという巨体に、猛々しい筋骨を遺憾なく携えた楼蘭一の武人が、肩を窄め子犬のように小さくなっている。しかもそれが、ほんのよわい十二の子どもの仕業というのだから、これを笑わずにいられようか。


 ひととおり笑ってようやく落ち着きを取り戻すと、愁は言った。


「この件に関しては、日を改めて私からよく篠懸様にお話しておくことにするよ。それで構わんか、堅海?」

「あ…。ああ」


 とはいえ、堅海の心配ももっともである。


「しかし、あの氷見という少年の素性は、少し調べた方がいいだろう。あの奇妙ないでたちは、もしや楼蘭のそれではないかもしれない。頼めるか?」


 頷く堅海を認めると、愁は静かに立ち上がり、障子を開けた。


 ああ、赤く染まった西の彼方を鳥たちが列をなして飛んでゆく――。


「ここでは誰もが成長し、変わってゆくのだな。何もかも…」


 誰に言うでもなく、ぽつりと愁は呟いた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 その夜遅く、任を終えて堅海の元へ参じた久賀は、任務完了の報告と水紅から預かった篠懸への伝言をつぶさに伝えた。


「そうか。ご苦労だったな、久賀。今日はもう部屋で休んで構わんぞ」

「はい。では…」


 一礼して去ろうとすると――。


「ああ、そうだ、久賀。すまないが、その伝言はおまえの口から直接篠懸様にお伝えしてくれ。明日で構わん」

「え…?ああ、はい。でも、どうしてです?」


 そう尋ねられても、まさか先刻の篠懸とのやり取りを部下に話すわけにはいかない。狼狽する心を悟られぬよう、堅海は努めて冷静を装った。


「い…いや、俺はその…。少し急ぎの調べものができてな。暫くは手が離せそうにないんだ」


 更に、紫苑が拾ってきた少年のことを手短に説明すると、驚いたことに、久賀はそんなやからに心当たりがあると言うのである。


「詳しく話せ」


 久賀は、ある子どもたちの話を始めた。


「私も、それほど詳しいわけではありませんが…。人づてに聞いた話ですと、ここから更に北の紗那国・銀鏡しろみの森に『銀鏡の鬼』と呼ばれる連中が隠れ住んでいるそうなんです。彼らは、金さえ払えばどんなに薄汚い仕事でも請け負う節操のない連中で、どうやらその殆どが未成年の捨て子たちで構成されているとのこと。かつて、紗那国のある地域では、口減らしの風習があったそうで、法で禁じられた現在でさえも、脱税目的で幼い子や老いた親を森に捨てに行くことがあるそうですが…」


「ふむ…。して、その薄汚い仕事――というのは?」

 尋ね返すと、久賀は表情を翳らせた。


「具体的には、誰かを暗殺するとか、金品を奪取するとか…。要するに、そんな犯罪にも手を貸す連中――ということのようですね」


「な、なんと破廉恥はれんちな!」

 堅海はにわかに拳を握った。人道を外れたことは許せぬ性質たちだ。


「その代わり、彼らは、世俗と離れた場所で生きる者――つまり、人間以外の存在であるとして、ひと目でそれと分かるような風変わりな格好をしていると聞きました。国から内々に免税されているとも…。万が一、それが事実なら、その存在は紗那に黙認されているふしがありますね」


 そこでやおらに久賀は声を潜めた。


「それはつまり、紗那が過去に…あるいは、今現在も、彼らを何らかの目的で利用することがある、そう見て良いのではないでしょうか?」


「……」

 ふと注がれる不審の眼を察して、久賀は慌てて言葉を繕った。


「あ!あの、これは…かつて亡命目的で我が国へ侵入した不審者を取り調べた際に、たまたま聞いた話でありまして…。ですから、その…当時の私の上司にも、このことはきちんと報告済みなのですが…」


 堅海はこの言葉に強い違和感を覚えた。同じ軍卒であるならば、当然皆が共有していてもおかしくない情報である。


「上司…?誰だ?」

「はい…。あの…臣様ですが…」


「臣…!!あいつか!分かった、久賀。もう下がっていいぞ」


 忌々しげに舌を打ち、堅海は唇を噛み締めた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 一応(とこ)に就いてはみたが、なかなか寝付くことができない。軽い気晴らしのつもりで、堅海は屋敷の外へ出た。


 山岳特有の冷たい風が、もやもやする頭をすっきりと清めてくれそうな気がした。だが、さすがに新月が近いだけあって、頭上の月は細く痩せ、満足に明かりを得ることもできない。


 薄暗い足元に注意を払いつつ、屋敷の裏手へ足を向けると――。


「?」

 少し離れた岩の上に、小さな人影がある。


「あれは、紫苑。こんな夜更けに…」


 仄かに差す月華の下――抱えた膝に顔を伏せるような格好で、紫苑はじっと静座している。


 もしや、一人で泣いているのだろうか。

 だとしたらそれは、夕方、自分が彼女を頭ごなしに怒鳴りつけてしまったことが原因では…。


 脅かさぬように近付くと、思いがけず愛らしい笑顔が振り向いた。


「あ…堅海様。どうなさいました?まだお眠りにならないのですか?」


 良かった…。いつもの紫苑だ。


 だがあの時、よく話を聞きもせず、感情に言動を任せてしまったことを、この子が気にせぬわけはあるまい。


「いや、その…紫苑。先ほどはすまなかったな。いきなりそなたを怒鳴りつけてしまって」


 堅海は、潔く頭を下げた。


「いえ、そんな…。篠懸様を思えばこそ当然です。堅海様は何も悪くはありません」


 ふわりと柔らかな微笑みが向けられる。

 月明かりに照らし出されたその顔は、温かく穏やかでまるで菩薩だ。


 堅海はしばし目を奪われるのだった――。


「でも、あの篠懸様には驚きましたね」

 紫苑はくすりと眉を開いた。


「ん…?あ…ああ、そうだな。あの方があのように激しく感情を剥き出しになさる姿は、正直俺も初めて見た。そなたのことがよほど大切なのだろうな…」


 呟いた横顔がにわかに沈む。


「でも皇子様は…堅海様のこともとても大切に思っていらっしゃいますよ。堅海様と愁が祭をご一緒してくださると、それは喜んでおいででしたもの」


 さり気ない言葉に救われる。ほっとして顔を上げれば、ちょうど目の前に紫苑の瞳があった。向けられた眼差しには、その中にいるだけで自然と心が安らぐ――そんな優しさを湛えていた。


「そなた…愁とはずいぶんと仲が良いのだな」

「え…?」

「いつも呼び捨てているだろう、あいつを」

「それは、愁がそうするようにと…」


「では俺のことも呼び捨ててくれて構わんぞ」

 堅海は、にっと歯を見せた。いつしかその声色も、いつもの彼らしさを取り戻している。


「はい…?」

「年ならば俺の方が少し上だが、くらいで言うならあいつの方がずっと上だからな」


 ようやく肩が軽くなった――と息をついた拍子に、大きなあくびが出た。


「さて、俺もそろそろ眠るか。そなたはどうするのだ?」

「紫苑は…もう暫くここに」

「そうか。ではまた明日な」


「はい。おやすみなさい、堅海…」

 ひらひらと手を振り遠ざかる背中に、紫苑はひっそりと呟いた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 生憎あいにくその日は、早朝から雨が篠突しのついていた。庭の草木を打つ雨音は一向に弱まる気配がなく、昼も間近の今でさえ、引っ切りなしに続いている。


 それを耳にするにつけ、今夜の祭を心待ちにしていた篠懸の心は、ずんと沈んだ。

 習字の練習もまるで上の空。ややもすると篠懸の筆は止まり、実に恨めしそうに外を睨んでばかりいる。


「皇子様、もう少し集中していただかないと」


 そうして嗜めてやれば、また熱心に筆を進め始める。だが、実のところ今日の篠懸は、ずっとこんな調子で、少し書いてはまた休み――を何度も繰り返しているのである。


 ごうを煮やした愁が、障子を閉めようと立ち上がったその時だった。


「皇子様、お勉強中に失礼致します」

 すっと廊下の襖が開き、五寸(約十五センチ)ほどもある大きな鬼灯を三つも抱えた紫苑が姿を見せた。


「鬼灯の提灯ができましたのでお持ちしました。こちらに置いて構いませんか?」

 紫苑は軒先の雨のかからない場所を選び、一つずつ丁寧に鬼灯を吊るしてゆく。


「しかし、紫苑…。この天気では、祭など――」


 すっかりしょげ返った篠懸の傍らに膝を付き、紫苑は彼方の空を指差した。


「大丈夫。もうすぐ雨は止みますよ」


 おずおずと顔を上げた篠懸に、

「ほら、篠懸様。向こうの空がもう明るくなってきています」


 示されるまま目を凝らせば、確かに黒い雲の隙間に光が差してきている。


 篠懸の心の方は一気に快晴へと向かったが――。


「となると、困ったな…。実は皇子様。今朝早く、急な用事で堅海が都へ発ちました」


 今度は愁の眉が曇る。


「この雨では祭は延期されるだろうと、今朝方とり急ぎ出立したのです。今晩のともは――そう、久賀にでも頼みましょうか…」


 ようやく戻った笑顔がまた沈んだ。


「堅海は…私に黙って帰ってしまったのか…」


 篠懸はそっと筆を置いた。


「私があのような態度をとってしまったことを、やはり怒っているのかな…」

「え…!そんな、まさか!誤解です、篠懸様。堅海はまたすぐに戻って参ります。皇子様に黙ってここを発ったのは、本当に急な用事で仕方がなかったからです。朝も早く、まだ篠懸様はお休みでしたし、それに――」


 貴い身分の篠懸から見れば、堅海など側近の一人に過ぎない。それでも、そのたかが従者の胸の内をも、これほど彼は気にかけ心を痛めるのである。

 愁は、そんな篠懸が心から愛おしく、誇らしく思えた。


「あれほど篠懸様を愛しているあの男が、よもや篠懸様をないがしろにするはずがないではありませんか」


 ため息のように漏らすと、紫苑の口元にもほんのりと微笑みが浮かんだ。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 ちょうど久賀と入れ替わる形で山を降りた堅海は、その日の昼前には都に到着していた。


 慌てて戻ってきたのにはわけがある。皇子の楼蘭国訪問を数日後に控えた紗那の使者が、その打ち合わせのために、この日、黄蓮へやって来るのを知っていたからだ。彼らから直接、銀鏡の鬼に関する情報を得ようと堅海は考えたのである。


 ところが。


 真っ直ぐ内裏へ入り、水の宮へと足を向けたその時、石畳の道の先で、数名の警護兵が慌しく入り乱れているのに気付いた。どうもひと騒ぎ起きているようである。


「なんだ、なんだ!一体何事であるか!」


 内裏へ詰める軍卒の中でも、皇族直属の近衛といえば選良中の選良である。警護兵や衛兵などとは格が違う。

 兵士らはすぐさまその場を退き、際に控えた。


 果たして、そこには――。


 両腕を結わえられ、自由を奪われた睦が蹲っていたのである。

 乱れた衣の裾は綻び、噛み締められた唇の端には、うっすらと血の朱色が滲んでいる。事情は分からないまでも、睦が彼らに無下に扱われたことだけはひと目で分かった。


「な…!睦殿!?」


 ぎょっと目をいた堅海は、即座に周囲の警護兵を睨みつけた。


 威圧的な眼光に触れ、兵士らは一様に竦みあがる。


「うぬら…!一体これはどういうわけだ!事情を説明しろ!!」


 毅然と進み出た一人が、恐る恐る言うことには――。


「恐れながら我々は、皇后・白露様のごめいで、罪人を牢へ引っ立てておった次第。その我らが、ここで堅海殿に叱咤を受けるいわれはないと考えますが」


「何だと…!?」

 即座に反応した眉が吊り上る。兵士らは再び凍りついた。


「宮廷学者様と言えば、貴様らよりも遥か身分も高く尊いお方ばかり!!どんな理由があるにせよ、それをこのように大勢で…。恥を知れ、馬鹿者が!!牢へは、この堅海が直にお連れする!貴様らはさっさと下れえいッ!!」


 有無を許さぬ迫力に、兵士らは逃げるように立ち去ったのだった。


「だ…大丈夫ですか、睦殿。同じ軍卒として、心より申し訳なく――。代わって平にお詫び申し上げます」

 堅海は膝を付き、よろめく睦に手を差し伸べた。


「いや…。こちらこそすまなかったな、堅海。しかし…そなた、一体なぜここに?篠懸様の供をしていたのではなかったのか?」


 縄を解いてやると、睦は、唇の端に滲む血を袖でそっと拭った。


「はい。少し調べ物があって、今しがた戻りました。折り返しまた如月へ参ります」

「そうか…。それで、皇子様のお加減はどんなご様子だ?お元気にしていらっしゃるのか?」

「ええ、驚くほど顔色も良くなられて…。ところで睦殿。白露様は、一体どういう…。あ、いや、差し支えなければですが…」


 手首に残る戒めの傷をさすりつつ、睦は不意に表情を翳らせた。


「ここ数日というもの…あの方は、何かにひどく苛立っておられて…。恥ずかしながら、実はこのようなこともこれが初めてではなくてな」


(やはり、悪いことを尋ねてしまったようだ――)


 急にばつが悪くなって堅海は視線を泳がせる。しかし、それでもなぜか睦は言葉を止めようとはしなかった。


 それどころか――。


「お飽きになったのかもな、私に」


 小さく肩を竦め、睦は笑った。


「え?あ…!い、いや…しかし、それは…」


 咄嗟の返答に詰まる。

 彼らの公然の秘密については、もちろん堅海とて知っている。しかし、よもやここで、睦本人の口からそんな言葉が出るとは…。


 眉を解き、睦は口元を緩めた。


「隠すな、堅海。知っているんだろう?もっとも――この内裏に、私と白露様のことを知らぬ者などないか」


「……」

 ろくな言葉も返せぬまま、堅海の視線はついには足元へ落ちてしまった。


「あの方…。近頃は、何かある度にひどく感情的になられて、時折こうして私を牢へ追いやってしまわれる。それなのに、ほとぼりが冷めれば、またそのめいを取り下げ、その日のうちに私を寝間へお呼びに…。もう、そんな暮らしにも疲れてしまった。こうまでして、あの時内裏に居座らねばならぬ理由など、本当にあったのだろうか。あのまま――香登様同様、私もここから消えてしまえばよかった…。今更ながらそう思う」


「睦殿――」

 何も言ってやれなかった。どんな顔をすべきなのかも分からなかった。


「あの篠懸様のお傍で篠懸様のことだけを考え、篠懸様のためだけにすべてを捧げられる。そんな風に生きていられるそなたや愁のことが、私は心から羨ましい。私だって…。私だって、本当はそう在りたかった…」


 俯いた顔は枝垂れる前髪にすべて隠れてしまい、もはやその表情まで窺い知ることはできない。


 ただ――。


 そこから、透明な雫がいくつも散るのを、何とも言えぬ辛い気持ちで堅海は見ていた。持ち合わせた手拭を黙って差し出す――それだけが、今の堅海の精一杯の誠意だった。それ以上、今の彼にしてやれることは何一つないと思えた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 水の宮の一室では、午前中から打ち合わせが始められていた。

 もちろん、本来なら如月にいるはずの堅海に、同席する権利などありはしない。


 まだ時間がかかりそうである。


 部屋の前にしつらえられた長椅子に腰を下ろし、おもむろに腕組みをすると、堅海は静かに目を閉じた。


 先刻牢へ送り届けた睦のことが頭から離れない。


 周囲に蔑まれながら、甘んじて宮中に身を置かねばならぬ辛苦。もちろんそれは、睦自身が望んで招いた結果に他ならない。

 だが恐らくはきっと、恵まれた環境で研究を続けたかった――それだけのことなのだろう。当時まだ駆け出しの一学者であった睦が、そんな純粋な欲望を抱いたからといって、誰がどうして責められようか。


(そして、もしも――。もしも、香登様が宮に残っていてくださったなら…)


 そう…それだけで、彼の人生は大きく変わっていたはずなのだ。

 ずば抜けた星読みの才を持つ睦。もしも今も香登皇子がここにいて、彼がその傍で仕えていられたならば、今頃はきっと宮廷学者の頂点にまで登りつめていたことだろう。


 しかし――。


 睦が宮を出るなどということを、今更ながら申し出たところで許されるはずはない。かと言って、香登のように極秘裏に宮を抜ければ、間違いなく睦の身はただでは済まぬ。白露とはそういう人物だ。


 堅海の胸は、いたたまれぬ思いに沈んでいた。


 そうして様々な思いを巡らせながら半時(約一時間)ほど待っていると、ようやく重い扉が開かれ、ぞろぞろと中から人が出てきた。


 即座に立ち上がり膝を付く。


 すると――。


「堅海殿…?もしや、堅海殿ではないか!?」

 嬉しそうに声を上げ、近付いてきたのは、紗那国軍の准将・来栖くるすなる人物であった。


 紗那国と楼蘭国では、政府や軍部の組織構図がずいぶん違う。特に紗那軍については機関の細分化が進んでおり、そのため官職の役割や軍職の呼称も楼蘭とはまるで異なる。

 この来栖なる人物は、軍職で言うなら上から四番目の地位にある人物であった。


「お久しぶりです、来栖殿」


 実は、堅海の目的は、まずこの男に会うことにあった。


「確か、一昨年の大会以来か?まことお変わりなく、嬉しく存ずる」

 軍の将校とは思えぬほどの人懐こさを浮かべ、来栖は再会の握手を求めた。


 一昨年に開催された、紗那と楼蘭の友好親善を目的とした武闘大会――。その決勝において、この二人は互いに槍を交えた相手である。この勝負では、すんでのところで何とか勝利を収めた堅海も、腕はほぼ互角であったと記憶している。


「来栖准将、知り合いか?」


 別の男が近付いてきた。

 服装や物腰から察するに、紗那の――それも軍の者ではなく、政府の人間のようだ。


 堅海はさっと踵を合わせた。


「おお、たちばな殿!紹介致そう。こちらは楼蘭の第三皇子・篠懸様の近衛長を務めておられる堅海殿だ。若いながらも、なかなかに素晴らしい槍の使い手でしてな。この方のお陰で、あの日、私はしくも準優勝に甘んじる羽目となってしまった」


 無造作に結った頭を掻き、来栖は照れたような苦笑いを浮かべている。


「なるほど、そうであったか…。堅海殿、私は橘と申します。若輩ながら、国では印南宰相の補佐を務めております。以後お見知りおきを」


 橘と名乗る若い男は癖の無い微笑みを浮かべ、右手を軽く差し出した。


(この柔らかな物腰と、それでいてどこか抜け目のない雰囲気…。どことなしに愁と似ているな…)


 ふと堅海はそう思った。


「おお、ちょうどよい。堅海、そちらのお二方を広間の方へお通ししてくれ」

 常磐の声が響く。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 紗那の二人とともに御影石の廻廊を歩きながら、終始堅海は様々に寄せられる質問に答えねばならなかった。幸いその内容は世間的なものばかりで、返答に困るようなことはなかったが――。


「それにしても、この黄蓮の都は本当に美しいところですね。自然と文明との間でうまく調和が図られているのが実によく分かります」


 橘は感嘆の声を漏らした。


 積極的に近代化を進め、更なる躍進を続ける紗那の政治家とは思えぬこの言葉には、正直、堅海も面食らってしまった。かの国に暮らす彼らにしてみれば、この隣国の田舎ぶり、恐らくは原始的にさえ映るのだろうとすっかり高をくくっていたからだ。


 察した橘は言葉を加えた。


「いや…。お恥ずかしい話ですが、我が国の都・おおぎでは、もはやこのように美しく輝くような花木も水も…。そして、この澄んだ大空でさえ目にすることは叶いません。我々はそれまでそこに在った自然の営みを顧みることも忘れ、利便のため効率のためと闇雲に機械化を推し進め、その果てに多くのものを失いました」


 隣では神妙な顔をした来栖が俯いている。


「あ…。で、ですが…紗那は、とても暮らし良い国だと言うではありませんか。素晴らしく足の速い乗り物や、遠方の者とでも会話のできる機械など…。お噂は、人づてにこの私も聞き及んでおりますが…」


 今の紗那と楼蘭には一応の国交があるとはいえ、それは表向きだけのことでしかなく、互いの国民が国境を自由に行き来することは許されてはいない。つまり、こちらから紗那へ行くことができるのは、目的をはっきりと証明でき、尚且つ朝廷の許可が得られた一握りの人間だけなのだ。従って、堅海ら軍の人間といえども、持ち得る情報は乏しい。

 にも角にも、知る限りのなけなしの情報を掻き集め、堅海は精一杯無難な言葉を返した――つもりであった。


 不意に来栖が振り向いた。


「堅海殿は、それが国の豊かさと同義だとお考えか?」

「いや、それはその…私には、そういったことはよく分かりません。ですが、国家の要人であるはずのお二方が、一兵卒の私などにそういったお話をなさるのはどうも…」


 しどろもどろになって言うと、やがて橘はふっと眉を解いた。


「確かに。それはごもっともですね」

「なるほどな…。おかしなことを申してすまなかったな、堅海殿」


 再び破顔した来栖は、堅海の肩に手を置いた。


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