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月の雫 ―春霞の抄―  作者: 惠 悠冬(めぐみ ゆうと)
2/14

02//仄かな想い

 如月の里は、楼蘭国と紗那国の国境付近、天飛の山中に位置する小さな集落である。


 ここを目指すには、昼なお暗く足場の悪い細道を何時間も行かねばならず、そういう意味でなら万人が好んで行くような場所とは決して言えない。だが、ここに霊力師であり祈祷師としても名高い遊佐なる人物が住まうとなれば話は別だ。

 現人神あらひとがみとも囁かれる彼女に備わる神力はなかなかに確かで、楼蘭の民のみならず、紗那国から密かに国境を越えて訪れる者もあるという。


 篠懸一行がこの里に到着したのは、暮れ五つ(午後八時過ぎ)をとっぷり回った頃で、既に周囲の家々からは夕食の香りがこぼれ始めていた。


 遊佐の屋敷は、この里の最も奥まったところにあった。


「遊佐様、ただいま戻りました!」

 元気に声をあげ、屋敷の奥へ消える紫苑。


 待つこと暫し――。


 白い小袖に朱色の袴をさっぱりと身に付けたうら若い女性が現れた。艶やかな黒髪を薄い肩の上に横たえ、ほっそりとしたおもてに煌く黒い瞳が印象的な美しい女性である。


「ご一同様には、この夜分に遠路はるばるお疲れ様でございました」


 女はふわりと跪き――。


「お初にお目にかかります。遊佐と申します」


 手をついて、深々とこうべを垂れた。


「ほう…。噂には伺っていたが、よもやこれほどお若く可憐なお方であったとは…」

 ――と、惚けっぱなしの堅海をこっそり小突き、愁は遊佐の前に突い居った。


「お世話になります。私は愁。こちらの楼蘭国第三皇子・篠懸様付きの教師です。これに控えるは、近衛長の堅海。他数名おりますが、何とぞよろしくお願い申し上げます」


 続いて、

「篠懸と申します。どうぞよろしくお願い致します」


 篠懸もきちんと居住まいを正し、丁寧に頭を下げた。


 匂い立つような高貴さと皇族らしからぬ謙虚さ、そして何にも染まぬ無垢な心をしかと宿したこの少年に、微笑を浮かべる遊佐であった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 山間にそぐわぬ立派な屋敷には、供人の一人ひとりに至るまできちんと個室が用意され、愁と堅海の部屋は、篠懸の部屋の手前にそれぞれ整えられていた。何かあればすぐに駆けつけることのできる距離である。


 とはいえ、時間が時間なだけに、ひと息つく間もなくじきに夕食となるはずだ。愁は、今夜の篠懸の膳だけは自分が直接部屋へ運ぶよう手配した。例の発作を起こしたばかりの篠懸の身を案じてのことである。


 勝手場で膳を受け取り、足早に愁は廊下を進んだ。実のところ、こうして急ぐのにはもう一つわけがある。


 ここへ到着後すぐに寝間を敷かせ、くれぐれも横になっておくようにと言い置いた愁なのだ。篠懸の方も素直に頷き、おとなしく寝巻きを着せられていたはずだ。


 だが確かにその時、彼らしからぬ妙な素振りが覗いた――ような気がしたのである。いや、それもほんの一瞬のことではあったのだが――。


 平素、年頃にそぐわぬ沈着さを備えた篠懸である。きっと宮という特殊な環境がそうさせてしまったのだろう。愁には彼が早く大人になりすぎてしまっているように感じられてならない。

 物分りがよく、羽目をはずさず、周りの大人たちが、自分にどんな振る舞いを求めているのかを彼はよく知っている。ゆえに、その姿を当たり前のこととして演じてみせる。その上、堪えることや諦めることにもすっかり慣れてしまっている。自由の許されぬ身の上を、彼は彼なりによく理解している。


 いな――。


 どうしようもないという諦めとともに、彼は自らの不幸を受け入れているのである。

 もちろん彼には、それよりすべはない。だが、そこに無理があるのも事実だろう。そこへかの病がつけ込んでいるのやもしれぬ。


 本来の彼なら――もしも彼が、あの年頃のごく普通の少年であるならば、もっと自由に様々な世界に触れ、遊び、学び、行動して、心の向くまま一心に、自らの歩む道を求めて良いはずだった。そうして人は、大人になる。そうして人は、人らしく自分らしく存在する意義を知るのである。


 それなのに…。


「……」

 ぼんやりと耽り、愁は深いため息をついた。


 だからといって、この自分が何をしてやれるでもない。身分は理屈のものではないのだ。


 しかし、それにしてもその彼が、先ほど僅かに見せたそわそわしい素振りは何だったのだろう。ややもすると、感情さえ表に出そうとしない彼の、あの不可思議な仕草は。


 実はあの時、御許に着替えをさせられながら、篠懸は何度かふらりと眼差しを泳がせた。そして、あたかも夢の中にでもいるかのように何もない空間を眺め、微かなため息をついていたのだ。


 幸い、そのおかしな素振りは、ほんの暫くの間に治まったが――あれはもしや。


 まさか、また胸に違和感が――。


 ところが、


「!」


 そそと速められた足は、目指す部屋の目前でぴたりと動きを止めてしまった。


 この先から微かに――そう、ちょうど篠懸の部屋の辺りから、何やら楽しそうな話し声が聞こえるのである。さすがに内容までは聞き取れないが、声の感じから察するにどうやら紫苑と篠懸の会話であるようだ。時折、屈託のない笑い声も漏れ届く。


 ああ、こんなにあどけない篠懸の声を聞いたのはどれだけぶりだろう――。


 そっとふすまをずらし中を覗けば、仲良く縁側に並んで腰掛ける二人の子どもの背中が見えた。すっかり会話に夢中とみえ、こちらに気付く素振りもない。


 その光景だけを見れば、まるで篠懸が皇子という不自由な立場でも特別な存在でもなく、ただの無邪気な少年のように見える。


 ふと胸に、じんわりとしたものがこみ上げた。


 そうか。

 あの時の皇子様の、妙に浮ついた感じはきっと…。


「失礼します。皇子様、お食事のご用意ができました」


 改めて部屋の外から声を掛け襖を開けると、肩を並べた二人が同じ顔をして振り向いた。


「あ…ごめんなさい。長居をしてしまいました」

 照れくさそうに紫苑が笑う。


「お二人とも、何のお話をしておられたのです?ずいぶん楽しそうでしたね」


 向けられたのは、抑えきれぬ心を映したありのままの少年の顔だった――。


「紫苑の日課について聞いておったのだ」

 すっかり興奮しきったようにそう言うと、一体何事を思い出してか、篠懸はくすくすと肩を揺らした。


 きょとんとした紫苑の顔が、そんな篠懸と愁の顔を交互に見ている。


「紫苑さんの――日課…ですか?」

 膳を整えつつさり気なく問い返すと、篠懸は更に早口で言葉を続けた。


「紫苑はな、毎朝早くここから山頂近くまで歩いて登って、鳥と会っているのだそうだ」

「鳥…って、あの…空を飛んでいる鳥のことですか?」

「うん!それで話を交換するんだそうだよ。紫苑が体験したことや感じたことと、鳥が他の場所で見てきたものなどをさ。他の者が言うなら信じられない話だけれど、私は紫苑が言うなら本当だと思うんだ。だって、さっき獅子とも話をしていたからね」


 ふと道中の出来事が思い起こされた。確かにあの時、紫苑はただ語りかけることのみで、荒ぶる獅子をいとも簡単に手懐けてしまったのである。


「なるほど…。しかし、紫苑さんはなぜ生き物の言葉が理解できるんです?何か遊佐様の元で特別な修行でもなさっているのですか?」


 紫苑は困惑したようにふるふると首を振った。


「…いいえ。紫苑は遊佐様のお弟子ではないので、修行といったことは何もしておりませんが…。ええと、なぜなんでしょうね。紫苑にもよく分かりません。でも、生まれたときからずっとこうしているので…」


 そうしてはにかむ紫苑の横から、突然――。


「あのな、愁…!」

 口を挟んだのは、篠懸である。こんなふうに不躾ぶしつけに人の話へ割り込むなど、いつもの彼なら有り得ない。


「は…はい?」

 我が目を疑う思いで向き直れば、いつになく真剣な眼差しがじっと注がれている。ただならぬ様子だ。


「どうなさいました、皇子様?」


 しかし、その途端。


「あ、あの…」

 言いかけては口ごもり、僅かに躊躇ためらう素振りを見せた篠懸は、大きく呼吸して心を整えた後、ひと思いに口を開いた。


「じ、実は私も、その…紫苑とともに頂へ行ってみたいのだが…。構わぬだろうか…?」


 さすがの愁も、これにはすっかり面食らってしまった。

 天飛の頂上へ向かうとなれば、道は更に細く、恐らく牛車は使えまい。また、先刻のように獅子や他の野生動物に襲われぬとも限らない。


 どうしたものか…。


「……」


 そんな愁の胸の内を悟ってか、篠懸は小さなため息を漏らし、眼差しを落とした。


「やはり無理か…。いいんだ。困らせてすまなかったな、愁」


 あんなに晴れやかで楽しげだった表情かおが、いつもの彼に戻っている。窮屈な宮中で、肩身の狭い宮中で――我儘わがままの一つも言えず、ただ自分らしさを押し殺して、大人の振りを演じ続けてきたあの篠懸の顔に――。


 それは、今の愁にとってたまらなく辛い姿でしかなかった。


「あ…。ええと、そ、そうですね…。堅海に相談してみないことには何とも…。でも、暫くお時間を頂ければ何とかなるかもしれませんね」


 苦し紛れに答えると、見る間に篠懸の顔は晴れていった。これでもう愁は後戻りができなくなった。


「愁…!それはまことか!?」

「え…ええ、お約束します――が、いいですか、皇子様。明後日すぐにというわけには参りません。どうかしばらく私に時間をください。それと紫苑さん。あなたにも、色々と協力していただかねばなりません。お願いできますか?」

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 紫苑と連れ立って中庭に面した廊下まで戻ると、突然愁は胸を押さえて立ち止まってしまった。


「し、愁様!どうなさいました?どこか具合でも…!?」

 俯く顔を、おろおろと紫苑が覗き込んでいる。


「いえ…そんな…。そうじゃないんです。ありがとうございます、紫苑さん。まだ出逢ったばかりだというのに、私は…」


 胸がいっぱいで、うまく言葉が続かない。


 雲間から差し込む月光が、彼らを白く照らしていた。


「あの…何と申し上げたら良いか――。ただ、私は…。篠懸様のあのようなお顔を――あのように嬉しそうなお姿を久しく目にしていなかったもので、今…本当に嬉しくて仕方がないんです」


 うっすらと浮いた涙を堪え、途切れがちに愁は言葉を続けた。


「すべて…あなたのお陰だと思います。今は感謝の気持ちで胸がいっぱいです。本当に…ありがとう」


「篠懸様はお優しくてとても素敵なお方ですね。そして愁様も」


 ほっと緩んだ紫苑の顔に穏やかな微笑みが戻った。月映えの笑顔が目映い。

 その小さな手を取り、愁は足元に跪いた。


「どうか…どうかお願いです。あなただけは、ずっと皇子様の良きお友達でいてあげてください。いつか皇子様が黄蓮へ戻る日が来ても、どうか時には皇子様のお顔を見に内裏へいらしてあげてください。勝手なお願いなのかもしれませんが、どうか…」


「愁様、紫苑のことは呼び捨てて下さっていいんです」


 紫苑はゆっくりと頷いた。柔らかに微笑むその顔は、まるで天から舞い降りた女神だ。


「では…私のこともどうかそのように」


 ああ、どうか願わくは、このささやかな絆の永久とわなることを――。

 愁は静かに祈っていた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 翌朝。


 鳥の囀りで、篠懸はいつもより早く目を覚ました。

 もちろん宮にも庭はあるし、小鳥の歌声とて聞いたことがないわけではないが、山で聞く鳥の声は、殊更ことさらに大きく力強く感じられる。


 障子を開けると、生垣の向こうに紫苑の姿が見えた。


 そっと目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは出会ったあの時の紫苑の微笑――途端に温かな気持ちがあふれ、篠懸の顔にも独りでに笑みが浮いた。


 紫苑。


 彼女をひと目見たときから仄かな何かを感じていた。初めて感じるそれが一体何なのか。そしてそれを一体何と呼ぶのか。幼い篠懸には分からない。ただただ彼女と知り合えたこと――それが素直に嬉しい。そう思った。


 もっと一緒に――。


 もっとたくさん話をしたい。

 もっとたくさん話が聞きたい。

 心からそう願う。


「紫苑…」


 ぽつりと呟いてみる――と、あろうことか生垣の上にぴょこんと本人の顔が覗いた。どうやら聞こえてしまったらしい。


 気まずさを覚えた途端。


「!!」

 どくん!と、大きな音を立てて胸が震えた。


 急に逃げ出したい衝動に駆られ、どぎまぎと慌てふためいているうちに、垣根の外側をぱたぱたと軽やかな足音が駆け抜け、


「篠懸様、おはようございます。気持ちのいい朝ですね!」


 庭木の間からほうきを持った紫苑がひょっこりと現れた。ふわりと柔らかな笑顔ともに。


「あ…。ああ、すまぬ。掃除中であったか。ん?それは…?」


 篠懸の目は一点に釘付けとなってしまった。紫苑の頭の上に小さな青い生き物がちょこんと座っていたためである。


「あ。ええと…昨日お話した紫苑のお友達です。篠懸様のことを話したら是非お会いしたいと言うので…」


「!」

 息を呑んだ。


 目が覚めるほどの驚きと色鮮やかな喜びが今、篠懸の胸へ一度に打ち寄せ、溶け合いながら幾重にも重なり合って――そうしてそれは、瞬く間に彼の魂の中枢をすべて支配してしまっていた。


 全身が熱い。


 この感動を伝えたい。

 でもうまく言えない。

 声も出ない。

 もう…体が心についてゆけない。


 ああ、こんな時、一体どんな顔をすれば良いのだろう――。


 ところが、そんな篠懸とは裏腹に、紫苑の表情はみるみる曇っていってしまうのである。


「あの…ほ、他にもお友達はたくさんいるんですけど、特にこの子はまだ小さいせいか、本当に好奇心が強くて…。で…その、もしやご迷惑でしたか…?」


 ひどく不安げな顔を前に、篠懸はとうとう吹き出してしまった。


「あはは!やっぱり紫苑はすごいな!この鳥の名は何というのだ?名前ぐらいあるのだろう!?」


 愉快だ、とても。

 嬉しくて楽しくて体中がむずむずする。

 無作法だろうと行儀が悪かろうと、もうそんなことはどうでもいい。

 今はただ無闇に声を上げて大きな声で笑いたい――そんな何とも不思議に誇らしい気持ちだ。体の内から湧き立つ初めての激情に、五感のすべてが震えている…!


 と――。


「!?」

 ぴったり固まったままの紫苑らと目が合った途端、はっと我に返った篠懸は、慌てて言葉を加えた。


「あ…。い、いや、笑ったりしてすまない。別に馬鹿にしているわけじゃないんだ。ただ私は、そなたのようにいつも明るく自由で朗らかで…そ、その…生き物と自由に話す者を他に知らぬのだ。そなたと知り合えて本当に嬉しい、それだけなんだ。とにかく嬉しくて、楽しくて、つい…。だが、そのことで紫苑が気分を悪くしたのであれば謝る」


 更にもうひと言。


「そして、そちらの紫苑の小さな友人にも。大変すまぬことをした」

 篠懸は、ひどく神妙な顔になって頭を下げた。


「篠懸様が楽しいとおっしゃってくださるならば、紫苑も嬉しゅうございます。この子は椿つばきと言うんです。もっとも、名前と言っても紫苑が勝手にそう呼んでいるだけなのですけれど」

「花の…名だな。そなたと同じ」

「はい」


 力強い羽音一番、椿は舞い上がった。


 頭上を仰いだ二人の上で、大きく旋回した小さな瑠璃るりは、そうして暫く青空に己の姿を映した後、ふわりと篠懸の肩へ舞い降りた。


 忙しなく首を動かし、かたりかける小さな命。

 時折頬に当たる微かな感触。

 ささやかな鼓動と温もり。

 そんな優しい息吹が生き生きと肌へ伝わってくる。


「……」

 途端にまた胸がつかえてしまう。


 この心はどう言葉にするべきなのだろう。

 この感動はどう言えば彼女に伝わるのだろう。


「仲良くしてあげてくださいね、篠懸様」


 顔を見合わせ、二人は微笑みを交わすのだった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 愁と堅海は、離れ座敷で遊佐と向き合っていた。


呪詛じゅそ…ですか?」


「ええ。間違いはないかと」

 衝撃的な内容とは裏腹に、遊佐の声はひどく冷静だ。


「な、何を馬鹿な!貴殿きでんは、まだ篠懸様をいくらも見てはいないではないか!そんな状態で何が分かると言うのだ!!」


「やめろ、堅海!」

 愁は、いきる堅海をすかさず制した。


 楼蘭軍随一の巨体に、武人特有のいかめしさを備える堅海。そんな彼の威圧的な態度にも、遊佐はまったく動じない。たじろぐどころか眉一つ動かさない。


「あれほどの強い呪詛、少しばかり霊力に覚えのある者ならば、ひと目で感じることもできましょう。もっとも…」


 そこで遊佐は、なぜかちらりと愁を見た。


「あの方が体を崩される原因は、それだけではないようですが」


 どきりと胸が鳴る。


 そう――。

 確かに愁には覚えがあったのだ。


 もしもこの呪詛の話が事実だとして、それをここでうまく取り除けたとしても、宮にいる以上、篠懸の心が完全に晴れることはないだろう。心が晴れねばいずれまた身体にも影響は出る。つまりは、宮での生活そのものが篠懸の病を引き起こす原因の一つではなかろうか――。

 そんな見当ならば、おおよそ愁にも付いていたのである。


 だが、当然ながら、第三皇子である篠懸が宮を離れて生きることは叶わない。問題の根本は、篠懸自身が己の背負う宿命に折り合いをつけられるか否かに懸かっているのである。

 愁は、そのことも良く分かっていた。


 重ねて堅海が問う。


「で――、その呪詛とやらは祓えるのか?」

「そうですね…いくつか方法はありますけれど…」


 遊佐は微かに眉を上げた。


「何か問題でも?」

「少々時間がかかります。そう…少なくともふた月…」


「「ふ、ふた月っ!?」」

 二人は目をまん丸に剥いた。


 内裏の想定では、長くて一週間程度――と踏んでいたのだから無理もない。当然、旅支度もその程度のものだった。


「そりゃまずいな。急ぎ内裏にその旨を伝え、長期療養の支度をさせねば…」

 やにわに立ち上がり、堅海はあたふたと部屋を出て行った。部下の元へ向かったようだ。


 すると遊佐は、

「うふふふ…」

 突然肩を震わせて笑い出したのであった。


 一体何がおかしいのか愁には理解できない。


「ええと、あの…遊佐様…?」

「ふふ。だって愁様、望んでおいでだったでしょう?」

「え…?あ、あの…それは一体どういう…?」

「これで皇子様も、暫くは羽を伸ばせましょうね」


 胸を突かれた。愁の心は、完全に見透かされてされていたのである。


「確かに呪詛返しには時間がかかりますが、そう…せいぜい一、二週間もあれば、ある程度の成果は出ましょう。あとは皇子様ご自身の問題。篠懸様が、もっとお心を強く持たねば、また何者かに付け入られ、別のあやかしを呼び入れる結果にも繋がりかねませんから」


 そこで不意に遊佐は声色を落とした。


「愁様――。真に恐ろしいのは幽霊や怨霊の類ではなく、生きた人間の心です。まだしかと見極めたわけではありませんが、恐らく篠懸様に呪詛を仕掛けた相手は、ごく身近にいらっしゃる今も健在のお方。まず、相手の力をよく知ることが肝要です。その後で、日を追って少しずつ相手に呪いを返します。もちろん相手もただで済むはずはありませんが、現状では、これがもっとも早く効果的な方法と考えられます。そして、こうすれば…」

「篠懸様の身近に存在する――つまり、宮に内在する皇子様のかたきも、自ずと炙り出されてくるわけですね…」


 愁は目を伏せた。


「ええ…。どうやら、敵にお心当たりがおありのようですね、愁様は」

「心当たりというか…。宮はああいうところですから、皇子様でなくとも身に覚えのない恨みを買ってしまうことは珍しくありません。まして篠懸様には母君のこともありますしね…」


 呟く横顔が、何かを思いつめている。


「でも皇子様だけは!少なくとも私にとって、篠懸様はかけがえのない、たった一人の大切なお方。お仕えさせて頂いていることを、誇りにさえ思っているのです。ですから、私は…!」


 知らず知らず高揚する自らに、愁はぐっと唇を噛み締めた。

 そして、そんな愁の姿が語る痛いほどの想いを、遊佐もまたしっかりと感じ取っていた。


「お護りして差し上げたいですね…」


 ふと愁は僅かに首を傾げた。


「遊佐様。あなたと紫苑は、なぜかとてもよく似ていらっしゃる。顔貌かおかたちではなくて…何というか、雰囲気――とでも言いましょうか。あの子は、あなたのお弟子でもお女中でもないのですよね?では、紫苑は一体…。あの不思議な少女は、どういう子なのですか?」


「少女――。そう見えますか、あの子が。そうですか…」


 途端に遊佐は憂いを見せた。


「え…?あの…まさかとは思うのですが、違うのですか?男の子…??」

「いえ、いいのです。少女に見えるのならそうなのでしょう」

「…?」


 やがて、ひどく神妙な眼差しが愁を射る。


「では、あなたにだけお話しましょう。今からお話しすることは、どうかここだけのことにしてください。お約束願えますか?」


 遊佐は縁側のり戸を閉めた。

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