14//絆
如月は雨だった。愁が発って数日――どういうわけかずっとこんな天気ばかりが続いている。
絶え間なく木の葉を打つ雨音が、沈む心にまるで追い討ちをかけるかのようだ…。習字の練習をしながら、篠懸はもう何度もため息ばかりついていた。
「……」
ただ愁がいないというだけでこんなにも寂しい。もちろん今だって、堅海や久賀が変わらず傍にいてくれている。紫苑や氷見も一緒だ。なのに、この遣るかたのない心細さはどうしたことだろう…。
「あ、あの…篠懸様、墨が…」
堅海の声でようやく我に返った。見れば握った筆からぽたぽたと墨が滴り、机と自分の膝とに大きな染みを広げている。
「あ!」
「うわぁ!何やってんだ、篠懸!!」
氷見は鉛筆を放り出して立ち上がった。
何をしても、身が入らない。つい考え事ばかりしてしまう。
臣はどうなっただろうか?
兄上は元気にしているのだろうか?
愁は今頃何をしているのだろう――?
どこからか持ってきた雑巾でさっさと机を拭いた後、氷見は篠懸の衣の方も手早く拭ってやった。
「…ったく。ちょっとそこをどけ、篠懸!それからそれ、早く脱いじゃえよ!ほら、堅海!おまえもぼさっとすんな!さっさとこいつの衣、着替えさせてやって!!」
実に手際よく氷見は動き、自分よりもずっと長上の堅海にきびきびと指示を出している。これではどちらが年上だか分からない。
「すまぬ…氷見、堅海」
消え入るように呟き、篠懸は俯いた。
「いいよ、気にすんな!愁や臣が心配なんだろ?分かってるよ!!」
片付けの手を休めもせず氷見は言う。
「如月の兄上もなかなか良い兄上ですね」
堅海は苦笑した。
だが、消沈する篠懸とは対照的に思えるこの氷見も、努めてそう振る舞っているだけにすぎない。皇子様同様、彼も宮の状況を気にしているはずだ。
いや、彼らだけではない。この自分だって――。
「なあ、堅海。如月の兄上って、もしかして俺のことか?」
氷見はむっと眉を寄せた。
「そうさ。甲斐甲斐しいとても良い兄上だ。お陰でこちらも楽ができる」
「ふん。友達だったり兄貴だったり都合がいいな!篠懸を任されたのは堅海、おまえだろう!?大体おまえがぼけーっとしてるから俺は…!」
「確かにそうだ。感謝する」
「はァ!?何なんだよ、それ…」
再び口を尖らせた氷見は、黙々と墨の始末を続けた。
その時。
「おや…。篠懸様、ようやく止むようですよ。ほら、あちらに虹が…」
堅海の指す先へ目を凝らせば、暗い雲翳の狭間に微かな碧落が覗いており、山の端から伸びゆく玉虫色の帯は淡彩ながらも清々しく、春霞む稜線をひっそりと結んでいる。
「ああ、やっと…。やっと晴れるんだ――」
吐息のように篠懸は呟いた。
* * * * * * * * * * * *
一方、離れ座敷では。
「紅藤とともに、これからすぐに黄蓮の都へ――愁様のいらっしゃる内裏へ向かいなさい、紫苑。これからあなたは、あの方のお傍であの方をお守りせねばなりません」
「え…。で、でも…」
戸惑う紫苑に遊佐は言った。
「ここは大丈夫。篠懸様のことは心配ありません」
「遊佐様、でも紫苑は――」
遊佐と暮らすようになって、もう何年経ったか分からない。そしてその間、一人で天飛を出たことのない紫苑である。
自動人形の身でありながら、今でこそ普通の人間のように振る舞い言葉も難なく操る紫苑だが、かつてはとても人前に出られる状態ではなかった――。
それは、まだ紫苑が山奥の庫裏で過ごしていた頃のこと。
当時、ともに暮らしていた『法師様』が、毎日いろいろなことを語りかけてくれたお陰で、相手が何を言っているのかぐらいならば何とか理解はできていた。だが、その返事をいざ言葉にしてみようとすると、そちらの方はなかなかうまくいかない。否、それ以前に、声を言葉として発することができないのだ。
この屋敷へやって来る前の紫苑は、身のこなしもぎこちなく、その上、口をつく言葉も片言で、言いたいことを満足に伝えられることなど皆無だった。
結局、最期まで本人には伝えられず終いだったが、紫苑はずっと法師様のようになりたいと願っていた。
法師様のように風雅に言葉を操り、ごく自然にしなやかに動けるようになりたい。そして、まるで普通の人間同士のように、ともに野山を歩いたり他愛もないことで笑ったりしてみたいと――本当はそう思っていた。叶うことならばそう法師様に伝えたかった…。
そんなささやかな願いは、法師様を亡くして後、儚い夢と消える。
日がな一日、庫裏の縁側に蹲ったまま、紫苑はただ呆然と毎日を過ごした。裏庭へ葬った法師様の墓前へ、毎朝夕、花を手向けることだけは忘れない。でも、紫苑の毎日にあるのはそれだけ…。
目まぐるしく変わりゆく季節はいつも時の訪れを紫苑に伝えた。だが、そこに何の意味があるだろう…。
あれほど望んだ人らしさも、いつしかどうでもよくなってしまった。法師様と触れ合うほどに、胸に湧いた数々の欲――もっと自由に歩きたい。もっとたくさん話がしたい。もっと法師様の笑顔が見たい。もっと法師様を喜ばせてあげたい。その何もかもが、どういうわけか夢の出来事のように掻き消えてしまった。何をするのも億劫だった。夢も希望も何もなかった。
孤独と虚脱と、そして絶望――。
これは、人が何かを嘆くときの感情?
人は、これを寂しさと呼ぶのだろうか…?
何もない空虚な時間だけが、あたかも飛ぶように過ぎてゆく。
何度目かの春。花曇りの麗らかなある日、庫裏に一人の人間がやって来た。法師様とは性別の異なる人間――紫苑が初めて目にした『女』なる生き物は、ひどくか細く小柄で、ふんわりとした優しい雰囲気を持つ存在であった。
とても…。
とても美しい生き物だと思った――。
そんな紫苑と同じくして遊佐と名乗るその女も、初めて目にした人造の存在に驚いたようだった。
遊佐は、たたみ掛けるように様々なことを問いかけてくる。だが、やはりうまく言葉を返すことができない。
その代わり紫苑は、彼女の反応や仕草から、自分が懸命に発する言葉は実は人には伝わらぬのだということを知った。いつも紫苑の話に耳を傾けてくれていた法師様も、本当のところは紫苑の言葉など何一つ理解していなかったのかもしれなかった。
(紫苑の言葉は誰にも届かない…)
そう思うと、それ以上の言葉はひとりでに出なくなってしまった。そんな胸の内を知ってか知らずか、ついに遊佐は言うのだ。
「これからは私とともに暮らしましょう」
あのときの遊佐の笑顔が忘れられない。
自動人形の紫苑に涙はない。嬉しくとも悲しくとも、涙など出ない…。
だが。
きっとこんなとき、人は涙を流すものなのだろう――そう思った。
去来するかつての記憶に、紫苑はそっと瞼を閉じた。
「紫苑は――紫苑は、遊佐様のことが一番大切です。遊佐様はもう…紫苑を必要としてはくださらないのですか…?」
紫苑はぎゅっと胸を押さえた。
「まさか…。違います。そうではありません、紫苑。私にとっても大切なあなただから言っているのですよ」
小さな体を抱き寄せてやると、紫苑は素直に遊佐の腕に収まった。
人の温もりが好きだ――。
言葉などなくとも、命の温もりはたくさんの思いを伝えてくれる。こうしてただ身を寄せているだけで、遊佐の気持ちも彼女の言葉の本当の意味も全部分かる。
作り物の紫苑の体にだって温度ならばある。一応ながら、人のような温もりだってちゃんとあるのだ。
でも、やはりそれは作り物。人のものとは違う。
自動人形の紫苑には心臓がない。とくとくと小刻みに脈打つ鼓動や呼吸のたびに僅かに上下する胸間全身を巡る血潮の流動。そして、そこから生まれる確かに生きているという息吹――そんな、人が当たり前に持つものを紫苑は何一つ持っていない。
それでも遊佐は、いつだって紫苑を人として扱った。自動人形の紫苑をちゃんと一人の人間として認めてくれていた。
そして。
自分の正体を知っても変わらず優しく接してくれる愁。秘密を打ち明けた後も、おまえは人だと笑った臣。そして、まだ本当の紫苑を知らぬみんなのこと…。
今では皆、紫苑にとってはかけがえのない存在だ。
春紫苑と同じ薄紫の髪を撫で、遊佐はゆっくりと言葉を続けた。
「私のことも心配ありません。あなたはあなたのために行きなさい。いいですか、紫苑。あなたは決してあの方のもとを離れてはならない。あなたは、彼とともに生きねば…。それが互いのためでもあるのですよ」
「仰ることが、よく…分かりません」
「今は分からなくても良いのです。あの方があなたを必要だと思ったときに、ちゃんとお傍にいて差し上げることができばそれでいいのです。いずれ同じようにあなたが愁様を必要だと感じることもあるでしょう。自分とは違う存在を認め、そして惹かれ合い、互いの心を欲し、互いの存在を求める――。これは人の心ですよ、紫苑」
「人の…心…」
紫苑はぼんやりと繰り返す。
「あなたがなりたがっていた人という存在そのものなのです。それをあなたに教えるのは私ではなく、愁様なのですよ」
「愁が…?」
「ええ。愁様はあなたに人の心をくれます。だから片時もお傍を離れずともに…。いいですね?」
遊佐はふわりと微笑んだ。それは、紛れもなく紫苑が初めて彼女と出会ったあの日と同じ温かな優しい笑顔だった――。
* * * * * * * * * * * *
果たして数時間後。
小さな体に妖刀・紅藤を背負い、すっかり身支度を整えた紫苑は、見送りに出てきた皆に深々と頭を下げた。
佇む篠懸の表情は暗い。
(また一人、私のもとを離れてゆく…)
そう思うとつい泣き出しそうになる。胸を覆う孤独に負けてしまいそうになる。
だが、それはできない。
(大丈夫――。みんな、またちゃんと戻ってくる。宮の不穏さえ片付けば、そう…すぐにでも…)
何かを言いたげな紫苑の瞳が篠懸を映している。
いけない。
こんな寂しい別れはだめだ。
もっと…もっと私は毅然とした態度で送り出してやらねば。紫苑の勇敢な旅立ちを、心から讃えてやらねば…。
すると突然、氷見が篠懸の手を握った。はっと横を振り向けば、にっかりと破顔する氷見。
釣られて何とか笑顔をつくり、お陰でようやく篠懸は口を開くことができた――。
「あ、あの…紫苑。これを…」
篠懸は折りたたんだ手紙を差し出した。
「愁が発ってからずっと、考えたことを手紙に書いていたんだ。まさか、こんなに早く届けることになるとは思わなかったけど…」
「愁に…ですか?」
「いや…みんなに。宮で頑張っている臣や愁、そして睦と右京…みんなに宛てて書いた」
紫苑はしっかと頷いた。
「承知しました。必ずお届けします。それで、ちゃんとみなさんのお手伝いをして、それから…必ず愁を連れて戻ってきますから」
「うん。くれぐれもみんなによろしくな。そしてどうか…伝えて欲しい。遥か天飛の空の下で、そなたらの成功を切に祈っている。必ずや事を成し得よ、と――」
篠懸は、繋いだ氷見の手をぎゅっと握り返した。そうやって、必死に涙を堪える彼の心は、ちゃんと氷見にも伝わっていた。
健気に強がる篠懸の背後には堅海と久賀が控えている。
突然――。
裸足で土間に駆け下り、遊佐は紫苑を強く抱き締めた。
「どうか気をつけて、紫苑…!」
「はい!」
決意に眉を結び、紫苑は改めて深々と頭を下げた。
「では、いって参ります!」
* * * * * * * * * * * *
開削すらされていない荒地を伸びる一本道。
そこを今、北へ向かう一行があった。人数は全部で五人。この一団、大人らしい人物はただの一人だけで、あとは皆子どものようだ。
そのただ一人の大人は、やや恰幅の良い小男で、年の頃は二十台後半から三十台の前半といったところ。どうやら子どもたちの世話人であるらしい。
「では、坊ちゃん方。この辺りでまた少し休みましょうか」
男は、後に続く子どもらに言った。彼の背中では、年端のゆかぬ幼い少女とクマのぬいぐるみが眠っている。
すっかり歩き疲れた子どもらは、ほっと安堵の表情を浮かべた。
父親の指示で夜が明けぬうちに都を離れ、かれこれもう何時間歩いたものだろう。
疾うにお天道様は頭上に上がり、春の麗らかな陽気が彼らの額や首筋に汗をじわりと滲ませている。生まれてからずっと都で暮らす彼らにとって、郊外の悪道はなかなかに堪えるのである。長路を歩くことにも、野道を行くのにも慣れていない子どもたちは、既に足を引き摺っていた。
「ええと…。お茶持ってるの俺だっけ、博音?」
そこかしこに茂る新緑が眩しい――。
博音と呼ばれた御付の男は、背負っていた少女をそっと木陰に下ろした。柔らかな下草の上に体を横たえられても、少女の寝息は少しも乱れない。よほど疲れていたのだろう。
博音はくすりと口元を綻ばせ、少女がいつも大切に抱えているクマを寄り添わせてやった。
「ええ。確か高基様のお荷物の中に入っているはずですけど」
「え?あれ??そうだったっけ?」
担いでいた荷物をよいしょと下ろし、高基はごそごそと中を探るのだった。
「もう…お兄ちゃん、しっかりしてよう…」
妹の伊織は、すっかり疲労困憊の様子だ。
「あれ?おかしいな…母さん、どこに入れたのかなあ…」
「もーっ」
伊織は一層頬を膨らませ、街道脇の草むらにぺたりと座り込んでしまった。
ところが――。
「……」
そんな姉の横で膝を抱える次男の飛馬は、大きな風呂敷包みを背負ったまま一文字に口を結び、憮然と足元を睨んでいるのだった。
「どうなさいました、飛馬様。足が痛むのなら、お父様から預かった塗り薬がありますが…」
「別にそんなんじゃないよっ」
気遣う博音をも突っ撥ねる。
「あ…!あった、あった!!おにぎりも入ってる!!」
この高基の声は伊織の仏頂面を吹き飛ばすには十分だったが、すっかり拗ねた弟の唇を更に尖らせてしまう。
そして…。
「なんでみんな…」
「飛馬様?」
博音の心配顔が飛馬を覗き込んだ途端、ついに不満は爆発したのだった。
「なんでみんなそんなに平気なんだよ!!すー兄ちゃん、大怪我したんだぞ!?夕べ、いっぱい血を流して帰ってきたじゃないか!それなのに、なんで…!なんでみんな、そんなに笑っていられるんだよ!!」
飛馬はぐっと拳を握った。
「すー兄ちゃんじゃなくてお父さんでしょ?もう…いつになったら言えるようになるのよ、あんたは」
兄の手から水筒を引ったくり、伊織はうんざりとばかりに顔をしかめた。
「そんなこと今は関係ないだろう!すー兄ちゃんのこと心配じゃないのかよ、姉ちゃんは!!」
「別にそんなこと言ってないでしょう!?でもそのお父さんが、すぐにお母さんの実家に行け、って言うんだからしょうがないじゃないの!」
「じゃあ姉ちゃんは、すー兄ちゃんが死ねって言ったら死ぬのかよ!すー兄ちゃんが言ったからって、何でも言うこと聞くのかよッ!」
だんだん伊織もむきになる。
「馬鹿!なんでそうなるのよ!」
「いい加減にしろ、飛馬!!」
「何でさ!!」
見かねた高基が諌めに入っても飛馬はまったく怯まない。それどころか、逆に高基を睨みつけ、
「大体兄ちゃんも兄ちゃんだよ!なんで俺たちだけ逃げるんだよ!刀、刺さってたんだぞ!?おかしいじゃないか!なんで薬草採りに行ったすー兄ちゃんに、刀なんか刺さるんだよ!!」
ところが…。
「なんで…なんで…あんなこと……」
飛馬の威勢もそれまでだった。気丈な瞳にみるみる涙が湧き上がり、強気だった声音が泣き声へと変わってゆく。
「……」
もう誰も声を掛けることができなかった。飛馬同様――皆、昨夜の出来事を胸に蘇らせていたのである。あの時、子どもらが目にした父の姿は今思い出してもとても信じられるものではなかった――。
「飛馬、おまえ…。やっぱりあの時、見ちゃったのか…」
「見たよ!ちゃんとこの目で見たよ!!母ちゃんも兄ちゃんも隠そうとしてたけど、見えちまったんだからしょうがないだろ!たか兄ちゃん、全部知ってるんだろ!?すー兄ちゃん、どこで何してたんだよ!何で…っ、何であんなこと…!!」
大粒の涙が次々に頬を伝う。
誰もが飛馬と同じ気持ちだった。本当は、皆、物分りの良い子の振りをして家を出て来たに過ぎなかったのである。
確かに――昨日という日はいつも通りの平穏な日だった。
朝、いつもどおり元気に出かけて行った父親が、息も絶え絶えになって帰宅するその瞬間までは…。
* * * * * * * * * * * *
その日、末っ子の篠乃をやっと寝かしつけた多鶴は、居間の窓からぼんやりと外を眺めていた。辺りはすっかり宵闇に包まれている。いつもならとっくに夫が帰っている時間だ。そう、裏の仕事の日でさえも。
今朝、確かに彼は言った。
「夕飯、頼むな。夕方には帰れると思うから」
「今日は…探しに行かれるんですよね?」
「ああ」
振り向いて之寿は笑った。
言葉だけを素直に聞けば、薬師をしている夫が単なる薬草採集に出かけるようにしか聞こえない。だが彼は、本当に薬草を採りに行く時にはそうは言わない。薬草と言わず、ただ「探しに行く」とか「採りに行く」などと彼が告げる日は、裏の仕事が入った日なのである。
夫が怪しげな仕事に手を染めているのは承知している。堅気の仕事を持つ彼が、わざわざこうして裏の仕事を請け負うのは、それが楼蘭国第一皇子の側近・臣から直々に出された条件であるからだ。元々楼蘭の敵国である紗那の兵士で、しかも諜報活動に従事していた之寿が、本当の名も身分も国籍をも捨て、多鶴や子どもらとともにこの国で生きるためのたった一つの手段として呑んだ条件。
だからこそ多鶴には、それが全うな仕事とは思えない。時折夫が、探しに行く――などと言って出掛けて行くたびに、夫が危険な目に遭ってはいないか、その身は無事かと気が気ではなかった。
ある時、そんな胸の内を打ち明けてみると、思いがけず之寿は声を上げて笑った。
「笑い事じゃないですよ。本当に私は…」
多鶴はたちまち眉を曇らせた。
「あのなあ、そんなことあるはずがないだろう?大体、臣様はおまえが思うような危険なことは、全ッ然お申し付けにならないんだから。本当だぞ?ずっとそんなことを専門にやってきた俺なんか、ほとほと呆れているほどだ」
「でも、あなた…」
「裏の仕事と言ってもな、俺が依頼される仕事なんか、かつての仲間を使って掻き集めた情報を、ただあの方に引き渡すというだけのものさ。気を揉み過ぎなんだよ、おまえ」
しかし、そうして彼女が心配していたことは、この日ついに起こってしまったのだ。
夜の闇に裏の木戸を叩くけたたましい音が響く。脳裏を過ぎる嫌な予感に、多鶴ははっと胸を押さえた。
「はあい」
何も知らぬ伊織が、甘ったるい返事をしながら勝手口へ歩いてゆく。咄嗟に多鶴は娘の袖を捕まえた。
「お母…さん?」
伊織がきょとんと振り向いた。
「もう寝なさい、伊織も飛馬も。もう遅いから」
「でも――」
「お母さんが出るから…ね?今すぐ飛馬を連れて部屋へ行って。お願いよ、伊織。高基も、この子たちをお願い」
伊織も高基も――もちろん飛馬も、母親の様子がおかしいのにはすぐに気付いた。だが、母のひどく真剣な顔を前に、逆らうことなどできない。
やがて素直に頷き、三人は自分たちの部屋へと下がった。
廊下を歩くその間も、扉を叩く音はずっと聞こえていた――。
「もしかして、すー兄ちゃん――かなあ…」
「馬鹿。すー兄ちゃんじゃなくてお父さんだろ」
弟を窘める兄の声にも覇気がない。飛馬同様に高基の胸も、得体の知れぬ不安にとっくに支配されてしまっていた。
「何かあったのかな…。私、何か…ちょっと怖い…」
既に伊織は今にも泣き出しそうに顔を歪めている。
その時、しんと静まり返った廊下に――。
ガタン!!
子どもたちは一斉にぎくりと肩を震わせ、互いの体にしがみ付いた。家の戸を誰かが蹴破ったのかとさえ思った。
「た…たか兄ちゃん…。ねえ、今の…何の音…?」
しかし、そんなことは高基にだって分かりはしない。急速に高まりつつある緊張に、子どもらの喉はごくりと鳴る。
「……」
暫くの間、三人はそのまま固まっていた。だが、その後はいくら耳を澄ましてもそれ以上の音は聞こえてはこなかった。
あれは一体何の音だったのだろう…?
抱き付いた兄の腕越しに、部屋の隅で寝息を立てている篠乃を窺い見る。大丈夫、妹はまだ夢の中にいるようだ…。伊織はほっと胸を撫で下ろした。
「ねえ、お兄ちゃん…。ちょっと様子見てきてよ…」
伊織が囁くと、
「え!俺がァ!?」
高基はあからさまにたじろいだ。
「だって一番年上で男なんだもの」
「そりゃあそうだけど…。俺…一人で…?」
「怖いの?じゃあ、飛馬も行ったらいいじゃない」
伊織は少し怒ったように答えた。
「ええ!俺え!?」
今度は飛馬が目を剥く番である。
「二人なら怖くないでしょ?それにほら、今の…お父さんかもしれないんだからさ」
二人は顔を見合わせた。
「あんたたち、お母さんに何かあったらどうする気なのよ?男でしょっ!!」
「う…」
「……」
そうまで言われて行かぬわけにはいかない。ついに観念した二人は連れ立って部屋を出た。
「あいつ、ちょっと口煩いんだよな。一体誰に似たんだか…」
弟の手を引きながら、高基がぶつくさぼやき続けている。そうして強がることで、ほんの少しだけ気持ちが大きくなるのだ。一方の飛馬も何度も頷いて、自らを懸命に奮い起こしていた。そうしなければ足が竦んでしまいそうだった――。
そうこうしながら、真っ暗な廊下をそろそろとゆくと、やがて、微かに聞き覚えのある男の声が二人の耳を掠めた。残念ながらその声は父のものではなかったが、何やら相当慌てた様子である。やはり、この先の勝手口付近で何事かが良からぬ問題が起こっているに違いなかった。
「兄ちゃん…」
再び飛馬が高基の手をぎゅっと握った。
「ねえ、この声…渚先生じゃ…」
「!!」
そうだ、渚先生!!これは時々薬を買い付けにやって来る宮の医師・渚先生の声だ!だが、こんな夜中に一体何の用事だろう?
(やっぱり父さんに何かあったんだ…!)
高基は直感した――そう思った途端、どくん!と胸の奥底が大きく脈打った。
詳しくは知らずとも、実はある程度なら父の裏の仕事について聞かされていた高基なのである。
父には薬師とは別にもう一つの仕事があって、それは国を守る大切な仕事だ、と――。そしてそれは、誰に話してもいけない秘密の仕事なのだ…と、十八の誕生日を迎えて間もないある日、父は高基にだけそっと打ち明けてくれたのである。
薄々ながら、之寿がただの薬師ではないと勘付いていた高基にとって、たったこれだけのことですら、十分に納得できる話だった。父に裏の顔があるということよりも、血の繋がっていない自分を息子と見込んで秘密を打ち明けてくれたことに、高基は少なからず喜びを覚えた。
そしてあの時、確か之寿はこうも言った。
「このことは、時期が来たらちゃんと伊織や飛馬にも話すつもりだ。だが、今はまだおまえだけの胸にしまっておいて欲しい。母さんにもそう言ってある。俺は…何て言うか、もうおまえたちの父親だからさ…。大切なわが子を、妙なことに関わらせたくはないんだ。分かるよな、おまえなら…」
高基はぴたりと歩みを止めた。
「たか兄ちゃん…」
震える弟の声で、高基ははっと我に返った。
じっと見上げるつぶらな瞳。この幼い飛馬に、果たしてこの先の光景を見せてしまって良いのだろうか?
父の安否が気に懸かる――それはもちろん、飛馬も同じ気持ちだろう。之寿が、自分たちを実の子同然に大切にしてくれるのと同じように、自分たちにとっても今や彼はたった一人の父親なのだ。
高基は無意識に飛馬の手を握り返していた。
不吉な鼓動がどんどん大きくなってゆく。恐怖と焦燥と、とてつもない不安と…。
「飛馬――。このまま姉ちゃんの所へ戻れ。兄ちゃんが話を聞いてくるから」
ぐっと眉を結び、高基は飛馬に囁いた。
「なんで…?俺も行くよ。渚先生が来てるなら平気だよ」
「いいから戻れ!」
突然高基は声を荒げた。
日ごろ温厚な兄らしからぬ態度に、小さな肩がびくりと揺れる。
「あ…ご、ごめん…。ごめんな、飛馬。もう兄ちゃん平気だからさ、飛馬は姉ちゃんの傍に付いててやってくれよ。な…?」
努めて優しく言い直すと、飛馬は繋いでいた手を離し黙って後ろを振り向いた。
とたとたと遠ざかる背中を見届け、高基は足早に勝手口へと向かう。漠然とした心配は、もはや確信となっていた。
果たして、やはりそこには――。
「之寿殿、もう少しです!ここでは治療などできません。どうかもう少し頑張って歩いて!」
よろめく体を支え、渚は彼の耳元で何度も叫んだ。
「もう少し…!もう少しだから…ね、あなた!頑張って歩いて!そこの仏間まででいいから…!!」
左に寄り添う多鶴も、涙ながらに訴える。
ぐったりとうな垂れたその顔をここから見ることは叶わない。しかし今、勝手口の土間に崩れ落ち、片膝を付いた之寿が、苦しそうに肩で息をしていることだけは、遠目ながらもはっきりと窺えた。
そして――。
渚が何枚もの手拭いで押さえている右肩には既にじわりと血液が滲み、高基が見つめるその先で、まるで薔薇か椿の花が開くように、次々に広がってゆくのである。
目を落とせば、その足元にも、いくつか血痕が滴り落ちていた。
あまりに信じがたい光景を前に、高基は愕然と立ち尽くした。
「……」
気配に気付いた之寿が、ゆっくりと顔を上げる。
血の気が引いた真っ白な顔。ぐったりと疲れきった瞳が真っ直ぐ高基へ向けられる。
目が合った瞬間、高基は小さく震えた。
「と…。と…さん…」
うわごとのように呼ぶと、応えて之寿は瞳をふっと笑ませた。その姿を目にした途端、じわりと思いがこみ上げる。それがこぼれ落ちてしまう前に、高基は父のもとへ駆け寄っていた――。
「父さん!なんでこんな…!!どうして…!?」
蹲る父の体を正面から掬い上げる。
そこで初めて、高基は父の右肩に短い刀のようなものが刺さったままになっていることに気付いた。
「は……はあ…はあ…っ…はあ…はあっ…。汚れる…ぞ、たか…」
荒い吐息から搾る声はとても細く、すっかり乾ききっている。
「そんなの気にするな、馬鹿!いいからもっと俺に寄り掛かって!!俺が父さんを運んでやる!もう喋らなくていいから…!!」
之寿は、素直に身を預けた。
「高基…!あなたどうして!!」
振り向いた高基が見せたのは、涙にまみれたぐしゃぐしゃの瞳。それでも、しっかりとした意思を持つ気丈な眼差し――。
「だって俺の…。俺たちの父さんだもの。心配ぐらいさせてよ。いいでしょ…?」
渚はほっと眉を解いた。
「何とも心強いご子息ですな、之寿殿。では…高基くん、お父様をそこの仏間までお連れしてくれるか。多鶴殿は布団を敷いてやってください。それから、清潔な敷布や手拭いをたくさん用意して。ああ…それと、お湯もできるだけたくさん…」
高基は体勢を改め、横から担ぎ上げるようにして父を支えた。お陰でようやく之寿は立ち上がることができたが――。
ふと高基は、しがみ付いた手が強く握り締められるのを感じた。
「あ…飛馬…っ…」
肩越しに喘ぐような声が漏れる。
驚いて目を向ければ、なんと高基の真後ろに真っ青な顔をした弟の姿があった。
慌てて父を背で庇い、高基は大声を上げた。
「飛馬!!おまえ、部屋に戻れって、さっき…!」
「すー兄ちゃん…怪我した…の…?」
震える瞳を潤ませ、近付こうとする飛馬に、
「来るな!それ以上…来るんじゃない、飛馬っ!!」
渾身の力で之寿は怒鳴った。
びくりと飛馬は立ち竦む。
「頼むから来るな、飛馬…。頼む…」
再びがくりとうな垂れた体をすかさず受け止めた高基は歯を食いしばり、仏間へ足を向けた。
「兄ちゃん…すー兄ちゃん…。すー兄ちゃあん…」
その場に突っ立ったまま、飛馬が声を上げて泣いている。
何度もしゃくりあげる小さな肩を包み、渚は飛馬を連れて子ども部屋へ向かった。
* * * * * * * * * * * *
街道脇の木陰で、篠乃はまだ寝息を立てていた。野を渡る風が、少女の前髪を優しく揺らす。
それは、穏やかな春の昼下がり――。
「飛馬様、それは…。この事情については、その…具合が良くなられれば、お父様の方からきちんと…」
何とか宥めようとする博音をも跳ね除け、飛馬は驚くほど強い瞳で睨み返すのであった。
「だって、すー兄ちゃんは…俺には教えてくれなかったんだ!俺にだけ…何にも言ってくれなかったんだ!!」
飛馬は、怒りとも悲しみとも取れる瞳を手元へ向けた。ぐっと握り締めた拳が小刻みに震えている。
「違うよ、飛馬!そうじゃない!!それは誤解だ!父さんはただ――」
肩に触れた兄の手を飛馬は乱暴に振り払った。
「違わないよ!!兄ちゃんも姉ちゃんも知ってるんだろう!?何があったのか!」
「だ…だからそれはね、飛馬――」
「違う!!俺は、ちゃんとすー兄ちゃんの口から聞きたいんだ!なんですー兄ちゃんがあんなにひどい怪我をしたのか!なんで俺にだけ話してくれないのか…!!」
じりじりと後退さると、飛馬はきっぱりと背を向けた。
そして。
「それに…すー兄ちゃんがあんな風なのに、また今度何かあったら誰が母ちゃんを守るんだよ!俺、やっぱり残るっ!!家に帰る!!」
言うが早いか、飛馬はたった一人でもと来た道を駆けて行ってしまったのだ。
「馬鹿!おまえ、何言って――!ちょっ…飛馬、待て!!」
「飛馬様!!」
高基と博音が同時に立ち上がったその時。
「うああああああん!ママあああ!パパああああ…!!」
はっと振り向けば、いつの間にか目を覚ました篠乃が大声を上げて泣いている。
すぐに駆け寄った高基らだったが――。
「博音、ここはいいから飛馬を追ってくれ!!」
「し…しかし、高基様…!」
博音は判断に迷っていた。自分は、子どもたちを如月にある多鶴の実家へ無事に送り届けるように――と、固く之寿から命じられている身である。このまま子どもたちを残して、この場を離れて良いものだろうか?
「大丈夫だ!俺たちはここで待ってるから、早く!!」
急かされるほどに博音はひどくうろたえた。
隣では、めちゃくちゃに泣きじゃくる妹を伊織が必死にあやしている。
「大丈夫…大丈夫よう、篠乃。パパとママはねえ…後から必ず迎えに来るからねえ。よしよし、泣かないで…いい子ね、篠乃――って、あれ?篠乃、パパに買ってもらったクマさんは?」
この言葉で、篠乃は初めて大切なクマのぬいぐるみが消えていることに気付いた。
「う…うあああああああん!!クマーっ!!パパのクマああああ!!」
耳を裂かんばかりの大声で篠乃は泣き、止まりかけていた涙が再びぼろぼろと頬を伝っている。
慌てて伊織は辺りを探し回ったが、どういうわけか見当たらない。いつもはあれさえあれば簡単に泣き止むのだ。確かに、ちゃんと篠乃の傍に置いておいたはずなのに…!
「お兄ちゃん!お兄ちゃんてば!!篠乃のクマさんがない!」
伊織が金切り声を上げる。
「うるさいな!今はそんな場合じゃ…」
「うわああああああん!!」
苛立つ高基に張り合うように、篠乃は一層の激しさで泣きじゃくる。
伊織はすっかり困り果ててしまった。泣きたいのは伊織だって同じである。
そして、そうこうしている間に肝心の飛馬の姿はすっかり見えなくなってしまったのだった――。
「だってあれがないと、篠乃、泣き止まないのよ!よしよし、いい子ねえ…。いい子だからもう泣かないで。今、たか兄ちゃんが、篠乃のクマさん、探してきてくれるからね…。大丈夫よ。泣いちゃだめよう…」
懸命に妹をあやしながら、ふと思い起こされた父の姿に様々な思いが湧く。伊織の瞳にもうっすらと涙が浮かび始めた。
その時だった。
「こんにちは」
澄んだ声に振り向くと、木の陰からちょこんと篠乃のクマさんが覗いている。
涙でぐちゃぐちゃになった篠乃の顔が輝いた。
「パパァ!!」
元気に叫んで手を伸ばす。涙の跡はそのままに、篠乃の顔はもう笑っている。
「パパ――?篠乃、それはクマさん。パパじゃないだろ?」
三人は、ほっとすると同時に吹き出した。
「この木の裏側に落ちていましたよ」
ぬいぐるみを差し出したのは、刀袋を背負った小さな少女だった。
「あ…ありがとう!ほら、篠乃、お姉ちゃんにお礼言いなさい」
「ありがと、お姉ちゃん!!」
姉に促されてぺこりと頭を下げた篠乃に、少女はふわりと微笑んだ。
「すみません、本当に…。助かりました」
と、頭を下げる高基の横から、
「あの、失礼ですがどちらから…?」
博音が口を挟む。実を言えば、如月へ行くのは彼にとっても初めての経験なのである。
「ええと…。この先の如月の里というところからです」
少女はにっこりと微笑んだ。
「ああ、やっぱり!あの…あとどのぐらいになりましょうか?」
「うーん…そうですねえ…。あなた様の足なら、あと三時間程でしょうか…。でも、こちらのお嬢様の足ならもう少しかかると思います。でも、本当にこの道を真っ直ぐ行くだけですから、迷うことだけはないと思いますよ」
「そ…そうですか、それはありがたい!坊ちゃん方、もうすぐですよ!お母様の里は、もうすぐそこです!!」
博音は嬉しそうに子どもたちへ向き直った。
子どもたちの顔も、一度はは明るさを取り戻したが――。
「でも飛馬は…?飛馬はどうするの?」
この言葉に、博音と高基ははっと顔を見合わせた。
「ああっ!そう言えば…!!」
「そ、そうだ、飛馬!博音、早くあいつを追わなきゃ!!あいつに何かあったら俺…!!」
慌てて踵を返す高基。
「あの…どなたかと逸れてしまったのですか?」
少女は小首を傾げた。
「あ…。ええと、実は…弟の飛馬が、どうしても黄蓮の家に戻るって聞かなくて…。それでたった今しがた、来た道を駆けて行ってしまったんです」
ばつが悪そうに高基は言った。
「どんなお方です?」
「ええと…年は十二。それで、あなた様よりもう少し背が高くて…短髪の――」
博音の説明が全部終わらぬうちに、少女はしっかと頷いた。
「その方が都へ向かわれたのなら、行き先は紫苑と同じです。もし宜しければ、このまま紫苑が追いかけましょうか?」
「で…でも、それじゃああんまり…」
しかしながら、これは思いがけない申し出である。
やがて、じっと考え込んでいた博音が、思い詰めたように口を開いた。
「あの…初めてお会いしたお方にまるで不躾なことと承知しながら、そ、その…誠に恐縮なんですが――どうかお願いできますでしょうか。都の入り口までご一緒していただくだけで構いません。いや、坊ちゃま方を如月へお送りしたら、私も折り返し大急ぎでお迎えに向かいます。ですから、どうか…その――」
博音は神妙な顔をして言った。
「何言ってるんだ、博音!そんな図々しい真似をしたら、俺が父さんに怒られるだろう!?」
「しかし、高基様!私だってそのお父様から、あなた方をお母様のご実家へきっと無事に送り届けるようにと、固く申し付かっているんです!大切なあなた方をこの場に残しては行けません!!」
「でも…!!」
紫苑はふわりと微笑んだ。
「大丈夫、紫苑なら構いません。本当に都へ行くついでですし…。本当は、紫苑も一人きりでちょっと心細かったんです。その…飛馬様がご一緒して下さるなら、こちらもありがたいです」
「紫苑…様と仰るのですか。如月の紫苑様…」
呟いて、博音は再び深々と頭を下げた。
「はい。如月の――遊佐様にお仕えする者です」
「あ、あのご高名な遊佐様の…!」
博音は声を震わせた。
今日でも霊能力や法力といった神秘の力が息づく楼蘭国で、その道において最たる実力者と名高いその人物の名を、知らぬ者などない。
「ええ。決して怪しい者ではありません。ですからどうかお任せください。飛馬様は必ずこの紫苑が無事にお家へ送り届けます」
「重ね重ね本当に何とお礼を申し上げれば良いやら…。このご恩は必ず…!」
すると紫苑は――。
「お礼なんてそんな…。あ。でも、もしご迷惑でなければ、一つだけお願いがあるんですけど」
「何でしょう?私どもでできることなら何なりと」
この恩義が少しでも返せるのなら、願ってもないことである。博音は大きく頷いた。
「あの…皆様が如月にいらっしゃる間、時々でいいので遊佐様のお屋敷へ遊びに行っていただけませんか?」
紫苑は子どもたちの顔を見渡した。
「は?あの…遊佐様のところへ…ですか?」
一様にきょとんと目を丸くする。
「ええ。あの…わけあって、今、お屋敷にちょうど飛馬様と同じ年頃のお方がいらっしゃるんですけど――。ちょっといろいろあって…この頃ずっと元気がないんです。本当にたまにで構いませんから、紫苑の代わりにあの方のお話し相手になっていただきたいんです。あの方も、きっととてもお喜びになると思います」
「ええと、その方は何と…。あの…その方のお名前は何と仰るんですか?」
紫苑は暫し考え込むような素振りを見せた。
「ええと…それは…。ここでは言わずにおきます。とても愛らしくてお優しくて――尊いお方ですよ」
都から来た彼らが、第三皇子の名を知らぬはずはない。ここで篠懸の名を明かせば、きっと皆、腰を抜かしてしまうだろう。
改めて向き直ると、高基は深々とお辞儀をした。
「分かりました。では早速明日にでもお屋敷へ伺ってみます。ああ…そうだ、申し遅れました。俺は高基。黄蓮の都、東一条三坊の孔雀堂という薬屋の長男です。それから、ええと…これは妹の伊織。それからこっちは篠乃――で、彼は使用人の博音と申します」
目が合うと、伊織とその腕に抱かれた篠乃が同時に頭を下げた。
「では…あのお方のこと、本当にどうかよろしくお願いいたします。その代わり――と申し上げては失礼ですが、飛馬様の件についてはどうか紫苑にお任せを。それでは紫苑は先を急ぎます。皆様もどうか道中お気をつけて!」
「紫苑様も…!」
「よろしくお願いします!!」
手を振る子どもらを何度も振り返りながら、紫苑は再び都を目指して駆け出した。
* * * * * * * * * * * *
つい勢いで走ってきてしまったが、たった一人でこんな僻地を歩いたことなどない飛馬は、こみ上げる不安に押し潰されそうになっていた。
(絶対みんな、一緒に帰るって言ってくれると思ったのに…)
何度振り向いてみても、誰かが追ってくる気配もない。瞼に早くも涙が滲んだが、そうして泣きべそをかきつつも飛馬は半ば意地になって都を目指していた。
今来た道をとぼとぼと戻る彼の足元を丸い影だけが付いてくる。太陽はとっくに真上を越えている。
「兄ちゃんの馬鹿。姉ちゃんの馬鹿…。博音の馬鹿っ!」
ぶつぶつとぼやき、また振り返る。
やはり誰も来ない…。
むっと唇を尖らせ、飛馬は思い切り小石を蹴飛ばした。
だが――。
(すー兄ちゃん、怒るかな…。俺、また言いつけを破っちゃったもんな…)
大好きな義理の父を思い浮かべて、飛馬はしょんぼりとしょげ返るのだった。
この『すー兄ちゃん』というのは、多鶴の子どもらが、かつて之寿につけたあだ名である。
彼らが初めて出会ったのは今からおよそ五年前。当時の之寿はまだ紗那軍の兵士で、所属は斥候――つまり、身分を偽って楼蘭国に潜み、その国勢を探るという特務に就いていた。
表向きの職業はやはり薬屋である。しかし、現在のように都のどこかに店を構えるということもなく、毎日大きな薬箱を背負って各家を渡り歩く行商の薬売り。そしてその名前も今のものではなく、昴琉――と、本名の方を名乗っていた。
年の瀬も迫るある日。
まだ七つだった飛馬は、母に頼まれた買い物をようやく終え、とある小路を前屈みになって歩いていた。彼らの住む長屋までは、まだ結構な距離がある。
実を言えば、その日の飛馬は朝からずっと腹痛に苦しめられていた。でも、おかしなことにその痛みは、暫くじっとしていればだんだんと鈍くなるし、静かに放っておけばそのうちふうっと遠退いてゆく。確かに一瞬はずきりとくるが、それからは断続的に強弱を繰り返すのみだ。別に大騒ぎをするほどのことではない――そう思っていた。
母親から、お塩を買ってきてちょうだい、と声を掛けられたのは、ちょうどその痛みが治まっていた時だった。
子どもを三人も抱えながら、ただ遊び呆けるだけで少しも働こうとせぬ実父。そして、その代わりに日々身を粉にして働き、自分たちを必死に養ってくれる母。少しでもそんな母の力になれるのならと、その日、喜んでそのお使いを引き受けた飛馬だったのだ。
日頃から寝相の悪い飛馬にとって、実は腹痛なんか馴れっこだ。何度布団を着せてもらっても、眠っている間になぜか全部剥いでしまう。お陰で腹を冷やしてしまう――なんてこともしょっちゅうだった。従って、飛馬本人はこの腹痛に何の警戒心も抱いていなかった。
放っておけば、きっとそのうちに治るだろう、と――またいつものやつだ…と、そんなふうに軽く考えていた。こんなことで毎日忙しくしている母や兄姉を煩わせてはいけないと思った。
(でも、やっぱり何かちょっとおかしいな。どうしよう…)
いつもこととすっかり高をくくっていた飛馬も、だんだんと時間が経つにつれ、今日の痛みは不可解だと思い始めていた。何度目かの痛みで気付いたのだが、どうも患部が下腹へ移動しているようなのである。こんなことは初めてだった。しかも痛みは、その度ごとにぐりぐりと腹を抉るように激しさを増している。
その時。
不意に腹からこみ上げてくるものを感じた飛馬は、素早く口を押さえた。
(何か…お腹、気持ち悪い…!)
ついに飛馬は往来の片隅に蹲ってしまった。
人々が忙しそうに横を通り過ぎて行く。誰も道端の小さな飛馬になど気付かない。
季節は冬の只中――師走の終わり。
年末の慌しさに、木枯らしの冷たさが身に凍みる。
度重なる激痛に、もはや声も上げられなくなった飛馬は、助けを求めることもできず、ただその場でぽろぽろと涙をこぼしていた。
と――。
「どうした、坊主。具合でも悪いのか?」
あれからどれほど経ったか分からない。
でも、ようやく飛馬に声を掛けてくれたその人物は、まったく見たこともない黒髪の若い男だった。男は飛馬の傍らに膝を付き、すっかり冷えきってしまった飛馬に自分の着ていた上着と襟巻きを掛けてくれた。
男の上着は僅かに煙草の匂いがした。
「……」
声の出せぬ飛馬は、真っ赤に腫れた眼で男を見つめた。
「腹が…痛むのか?」
男の声はとても優しかった。
ぎゅっと腹を押さえて頷く飛馬を、男は暫くじっと観察していたが、やがて右の手をそっと額に宛てがった。
ひんやりとした感触が気持ちいい…。飛馬は静かに目を閉じた。
すると、一体何を察したか、男はにわかに眉根を寄せた。今度は冷たい手が飛馬の両頬を包む。
「おまえ、少し熱があるな…。ちょっと立ってみろ。できるか?」
飛馬はそろそろとその場に立ち上がった。
しかし――。
一歩踏み出した拍子に、更なる激痛が襲う。ぐらりと足がよろめいて、飛馬は再び男の肩にしがみついた。
「無理か…。他に…そう、吐き気なんかはどうだ?いや、それよりおまえ――この痛み、いつからだ?」
そう尋ねられても声が出ない。飛馬は何度も頷くことで応えた。今はそれだけで精一杯だった。
続いて男は飛馬の体を腕に抱き、慣れた手つきで腹のあちこちを押さえ始めた。どうやら飛馬の表情と自らの指の感触を頼りに、患部を探っているようである。
「今、急に痛くなったのか?」
首を小さく横に振る。
「まさか、おまえ…。朝からこんな状態なのか?」
こくりと飛馬が頷くと、男の顔色は一変した。
「なんてこった…!いいか、そのまましがみついてろよ、坊主!!」
男は飛馬を抱えて走り出した。男の腕の中はほっとするような温かさだった。
「飛馬!!」
突然張り上げられた声の主は、帰りの遅い飛馬を心配して迎えに来た高基であった。
男は静かに立ち止まった。
「知り合いか?」
「……」
飛馬は小さく頷いた。
「あんた、うちの飛馬に何の用だっ!?」
自分よりも遥か背の高い男の袖を捕まえ、高基はじろりと気丈な眼差しを向けた。
「なんだ、坊主の兄貴か」
「坊主じゃない、飛馬だ!俺は高基!」
高基は不審の眼を吊り上げた。
男はふっと微笑んだ。
「そうか、高基。いいところに来たな。おまえの弟は病気だ。このまま俺がこの先の町医者へ連れて行くから、おまえはそこへ母ちゃんか父ちゃんを呼んで来い!」
「え…?病気…!?」
高基は目を丸くした。
「ああ。西五条の水留大路付近で倒れていた。脅すわけじゃないが、どうもちょっとばかりやばそうだぞ」
にわかに高基はうろたえたが、目の前のこの男――どうやら人攫いなどではなさそうである。
「あ…あんた…。じゃなくて…えと、おじさん、お医者様なの!?」
「おじさん――ってなあ…」
男はがっくりと肩を落とした。
「えと…じゃあ…」
「俺は薬屋だ。名は昴琉!それに、おじさんなんかじゃない。これでまだ二十六だ!いや、そんなことより――ほら、高基、急げ!俺の見立てが間違っていなければ、こいつは一刻を争う病だ!いいか、この先の琴陵診療所だぞ!必ず連れて来いよ!!すぐにだぞっ!!」
言うが早いか、男は飛馬を抱いて走り去った。
ぎゅっと眉を結んで踵を返すと、高基も長屋へ向かって駆け出した。
* * * * * * * * * * * *
飛馬を抱えた昴琉は、診療所の扉を肩で無理に押し開けた。
「すみません、琴陵先生!急患です!」
ところが――。
そこに、いつもならいるはずの琴陵医師の姿はなく、代わりにいたのはその息子の暄であった。だが幸い彼も父親同様医師である。
「ああ…薬屋さん。いつも、どうも。父は今往診に出ていますけど…一体どうしました?」
「あ…暄先生、この子が腹痛みたいで…」
促されるまま、寝台に飛馬を横たえる。
「よく頑張ったな、飛馬。もうちょっとだからな…」
昴琉は飛馬の汗と涙とを拭い、何度も髪を撫でてやった。
一方――。
手早く飛馬の着物をはだけた後、なぜか暄は僅かに怪訝な素振りを見せた。しかしそれもほんの一瞬のことで、すぐに表情を装った暄は、慣れた手つきで聴診器を宛がう。
「この子、あなたのお知り合いで…?」
「いや、道で蹲っているところを偶然見つけて――。今、この子の兄弟に親を呼びに行かせています」
「なるほどね…」
低い声でそう呟くと、なんと暄は飛馬の襟元をまたもとどおりに合わせてしまった。
「では――。お薬を出しておきましょう」
「はァ!?」
昴琉はぎょっと目を剥いた。
「何か?」
「ちょっと、あんた!本当に医者か!?」
実は、飛馬の容態から病名にある程度の見当を付けていた昴琉なのである。それゆえに、この新米医師のあまりに簡単な結論には納得がいかない。
「失礼な…。何なんです?」
「これが薬で治るか、馬鹿!どう診たらそうなるんだ!問診も何も無しか!!」
暄は薄く笑った。
「まったく何を仰るやら…。風邪から腹痛を起こすなんてこと、この時期…特にこのぐらいの子どもにはよくあることですよ」
「ただの風邪だあ!?おい、いい加減にしろよ、あんた!…ったく、琴陵先生はいつ戻るんだ!?」
琴陵の名を出した途端、暄は激しくうろたえた。
「ち…父は関係ないでしょう?」
「大有りだッ!琴陵先生はあんたみたいな藪医者じゃないからな!」
「や、藪医者だって!?」
不躾な言葉に、かっとなった暄は診察室の壁を拳で殴りつけた。
「ちょっと、あなた!言い掛かりもいい加減にしてくださいよ!!文句があるならどうぞお引取りください!!」
「それができないから言ってるんだ!この症状、どう見ても虫垂炎だ!!しかもこの子は朝からこんな状態なんだぞ!見つけたときにはもう立ち上がることもできなかったし、嘔気だってあるんだ!ここは今すぐ開腹だろうが!!」
「あなた、何の権限があってそんなこと!」
「琴陵先生が診れば同じことを言うさ!!」
暄は大きなため息をついた。
「あのですねえ…。はっきり言いましょうか」
「何だ」
「この子…いや、この子の親御さんは手術なんか望んでいるんでしょうかねえ?」
「ああ?」
昴琉の眉尻がぴくりと動く。
「どうも…身なりをお見受けしたところ、あまり裕福な家柄とは言えぬご様子。手術ともなれば、結構な費用がかかりますよ?この子の親御さん、それを負担できるようなお方なんでしょうか」
「貴様…子どもの前で何てことを…!それが本音か!!」
昴琉はぎろりと暄を睨みつけた。
「やれやれ…。私は親切で申し上げているんですけどね。ま、赤の他人のあなたに、こんなことをお話しても意味ないですけど」
「ふっ…ふざけるな!それが医者の台詞かッ!!」
即座に掴み掛かった昴琉だった…が。
「……」
なぜか不意に我に返り、動きを止めた。
目を落とせば、動くことさえままならぬはずの飛馬が寝台からじっと見上げている。そして、その小さな手には昴琉の着物の端が握られていたのである。
「あ…飛馬、おまえ…」
飛馬は健気に微笑みかけてくる。まるで自分は平気だとでも言うように――。
「く…くそ…っ!!」
瞬間、昴琉は声を失った。頭をガツンと殴りつけられたような衝撃を覚えた。
すぐさま暄から手を離し、昴琉は飛馬の枕元に膝を付いた。
「飛馬…飛馬…っ!おまえの親御さんが来たら、よその医者へ行こう。それまで頑張れるか?心配するな。ちゃんと俺が連れてってやる。最後までおまえの傍にいてやる!絶対助けてやるからな!!」
そんな余裕などないはずなのに、飛馬はまたにっこりと微笑んでくる。まるで天使の笑顔だ――そう思った…。
だが次の瞬間、今度はとてつもない不安が昴琉の胸を覆った。
本当にそれでいいのか?
他の医者へ見せに行っている暇などあるのか?
朝から腹痛を抱えていたこの子に、そんな余裕があるのだろうか…?
昴琉はぎりと歯を食い縛った。
「ちっくしょおおおっ!もう!何だってんだ!!何やってやがんだ、琴陵先生はっ!!」
突然やけっぱちのように吐き捨て、昴琉は懐の財布を思い切り机へ叩き付けた。
「今、持ち合わせはそれだけしかない!金は後日、必ず俺が用意する!これでこいつの腹を開け!今すぐにだ!!」
「は?あなたがお支払いになるんですか?」
暄は目を丸くした。
「そうだ!」
「全額?」
「何度も言わすな!全部だっ!!」
きっぱりと言い放ち、昴琉は暄を睨みつけた。
「倒れているところを偶然拾ってきたんでしょう?見ず知らずの他人の子なんでしょう?」
「うるさい!俺の気が変わらぬうちにさっさと始めろ!!曲がりなりにも、あんただって医者なんだろう!?だったらこのぐらいの手術、お手の物だろうに!!」
「はは…。呆れたお人好しだな。まあ…もらうものさえもらえるのなら、別に私は構いませんけど…」
「この子には時間がないんだ!早くしろ!!」
やれやれとため息をついて、ようやく暄が支度を始めたまさにその時――。
「飛馬!飛馬…!!」
診療所に女性の甲高い声が響いた。
そっと扉を開けてやると、血相を変えた飛馬の母親・多鶴と高基、そして伊織の三人がなだれ込んでくる。
昴琉を見つけた高基が真っ先に声を上げた。
「おじ…お兄ちゃん!母さん、呼んできたよ!!」
「おう。ご苦労だったな、高基!よくやった、偉いぞ!!」
くしゃくしゃと頭を撫でてやると、高基は恥ずかしそうに頬を染めた。
「飛馬…」
瞼の涙を震わせて、多鶴は愛しい息子の顔を拭った。飛馬もあの天使の微笑みを浮かべ、母の温もりに応えている。
「あの…先生、飛馬は…!」
「ええと…」
暄が昴琉の顔色を窺っている。しかし、おもむろに腕を組んだ昴琉は何も答えず、ただひどく憮然とした顔で暄を睨み返すのみなのであった。
「ど…どうも…その、急性の虫垂炎――つまり盲腸炎の疑いがありますので、すぐにでも開腹手術をする必要がですね…」
「し…手術…!!」
多鶴は青ざめた。
「ええ…。いや、そうは言ってもどうかご心配なく。ごく簡単な手術でして…その、特に命に関わるようなものにはなりませんから…。あの、それで…宜しいですかね?」
恐る恐る尋ねる暄に、
「は…はい!是非お願いします!!」
多鶴は改めて深々と頭を下げた。そんな母に習い、まだ幼い高基と伊織もお辞儀する。
その時だ。
「おやおや、今日は満員御礼だな。何事かな?」
不意に開いた扉からひょっこり顔を出したのは、やや小柄な初老の男――この人物こそが、昴琉が待ち望んだ人物である。
「琴陵先生!!」
「おや、なんだ…そこにいるのは昴琉さんかい。この時間に珍しい――」
その姿を見るや否や姿勢を改め、昴琉は神妙に頭を垂れた。何を口にせずとも、昴琉のこの態度――琴陵に何かを直感させるに十分であった。
そうして。
「!!」
然るべくして、琴陵の視線は一点でぴたりと据わったのである。
「これは…。この子、おまえが診察したのか、暄?」
暄はひどく緊張しているようだった。
「は…はい…。ええと、あの…朝からずっと腹痛が続いており、少し吐き気もあるとのことです。恐らく虫垂炎ではないかと…。それで…」
落ち着かなく目を泳がせながら、どうにかこうにか返事をする。そんな暄に何度か頷き、琴陵は飛馬のもとへ歩み寄った。
「……」
実のところ、先ほどからの暄の言葉はまるっきり昴琉の下した診断そのものである。それでも特にそれを責めるでもなく、再び腕を組み直すと、昴琉は黙って扉に背を預けた。
やがて、手早く触診を終えた琴陵は、きっぱりと顔を上げた。
「うむ、いい判断だ。開腹するぞ!すぐに支度をしろ、暄!」
そう言い放った後、なぜか琴陵は一瞬昴琉を見た。
そうして、今度は多鶴らの方へと向き直り、
「大丈夫――。もう安心ですよ、お母様。では、どうかみなさんは待合室の方へ…」
細かな皺を目尻いっぱいにこしらえ、琴陵はにっこりと頷いたのだった――。
* * * * * * * * * * * *
(だって…。だって、すー兄ちゃんは俺の命の恩人なんだ…!だから今度は…俺の番なんだ!!)
飛馬はぐっと拳を握り締めた。
すー兄ちゃんの見てくれと名前が変わり、自分たちとの繋がりが変わってしまった今だって、変わらず飛馬は之寿のことが大好きだ。
あの日掛けてくれた優しい声。
自分を抱えて医者へ走ってくれた腕の温もり。
手術の前に振り向いて見せてくれた笑顔――。
目を閉じれば、そのすべてを今もありありと思い起こせる。忘れたことなんか一度もない。
大好きなすー兄ちゃんが、自分たちの父親になってくれると分かった時だって、本当は嬉しくて仕方がなかった。毎日すー兄ちゃんが家にいるなんて、ちょっと夢のような話だ。
でも、なぜだろう…?嬉しい反面、父親になってしまったすー兄ちゃんは、飛馬の知っているすー兄ちゃんとは別の人のような気がして…。
高基や伊織は、すんなりとすー兄ちゃんを父と呼んだ。母親が実父と離別して、その代わり、すー兄ちゃんが自分たちの家に顔を出すようになって…。
皆、薄々は感じていた。むしろ誰もがそうなることを望んでいた。彼と知り合ってからは、兄弟三人で何度となく話したものだ。
「すー兄ちゃんがお父さんだったらいいのにね」
子どもたちのそんな願いは、やがて現実となった。
でも、そのすー兄ちゃんは今…。
懐かしい記憶に思いを馳せながら、飛馬は都へ伸びる一本道をひたすら南へ歩いていた。
すると不意に先刻の兄姉らの姿が蘇り、またも飛馬は仏頂面に戻ってしまった。
「みんなひどいや。いつもはあんなにお父さん、お父さん言ってるくせにさ…」
しかし、その時。
「!」
いきなり誰かに襟首を掴まれ、あっ――と思った瞬間にはもう、飛馬の小さな体は空中に吊り上げられてしまっていた。
「!?」
突然のことに声も出ない。
「おやおや…こりゃまたどこのお坊ちゃんだ?随分といいおべべ着てるじゃねーか」
それは、もちろん兄ではない。
博音でもない。
まったく聞き覚えのない乾いた濁声――。
宙ぶらりんにされたまま恐る恐る振り向けば、いかにも凶賊といった面構えの無頼漢が何人も立っている。飛馬は瞬く間に青ざめた。
「小僧一人か?こんなところを、おまえみたいなのがたった一人で歩いているなんて、無用心にもほどがあるぜ?」
賊徒の一人が、飛馬の顔を覗き込みながら下衆な声を上げて笑った。
「何だ、小僧。びっくりして声も出ねえってわけかい。へへ…まあいいさ。今、俺たちが家まで送って行ってやるからよ」
男たちの腰には皆、刀のようなものが差してある。それらを目にした途端、恐怖は一気に頂点に達した。
「っ…!……!!」
飛馬は、じたばたと闇雲になって暴れた。こんな輩を家に連れて帰るわけにはいかない…!!
そう言えば近頃、黄蓮周辺には度々山賊の一味が出没していて、手当たり次第に旅人を襲っているとか聞いたことがある。抵抗したせいで、彼らに殺された者も大勢あるらしい。
この連中が…。
まさか、その――。
「そう暴れんなって。親切に送ってやるって言ってるんじゃねえか。家はどこだ?都にあるんだろう?」
男がにんまりと口角を吊り上げる。
刹那――。
瞼に浮かんだのは、優しい母親の顔と昨晩見た之寿の顔。ひどい傷を負ってふらふらになりながら自分を怒鳴りつけた、あの時の父の顔だった。
(すー兄ちゃん…!すー兄ちゃん、助けて!!)
父や母にもしも何かあったら――などと偉そうに言い置いてきたが、情けない事に、結局飛馬が助けを求める相手はあの『すー兄ちゃん』しかいないのである。しかし、ここに頼みのすー兄ちゃんはいない。それどころか、あの怪我では動ける状態にすらない。
「は、離せっ。このっ、離せようっ!!」
「おおっと!この鴨、活きがいいねえ。やっと口が利けるようになったか。どこのお屋敷だ?早速だが案内してくれよ」
ようやく賊徒は飛馬を下ろしてくれたが、髪はまだ男のごつい手に掴まれたままだ。その手が徒に握り締められる度に、飛馬の髪がぎゅっと後ろに引っ張られる。その痛みに飛馬は何度も小さな呻き声を上げた。
「逃げようなんて思うなよ、小僧」
厳つい男がせせら笑う。
(こいつら…うちに押し込む気だ…!どうしよう…どうしよう…)
小さな飛馬は、ただぶるぶる震えるしか術がない。未だ経験したことのない圧倒的な恐怖の前で飛馬はもはや立っていることさえやっとの状態だった。
と――。
「あなた方、今すぐその子を放しなさい!!」
頻伽の如き澄んだ声に、賊徒らは一斉に振り向いた。
ところがである。
一体何奴かと目を凝らせば、そこにいたのは、まるで幼子のように小さな少女。
賊徒らは、どっと声を上げて笑った。
少女の前へ飛馬が無理矢理引き摺り出される。
「ははは!なかなか可愛い嬢ちゃんだな。小僧の連れか?」
ぐっと気丈に眉を結び、飛馬は何度も首を横に振った。
「違う、知らない子だ!あの子に手を出すなっ!!」
横目で男を睨む。
そうだ――。
きっとこんなとき、すー兄ちゃんならこう言うはずだ。
――飛馬、男だったら弱い者を守ってやれ!
勝てるかどうかなど関係ない。自分の身や名誉など二の次でいいんだ!
守るべきものを守ろうともしない奴は、一生ただの負け犬だぞ…!!
「あんたらに用があるのは俺だろう!?あの子は関係ないはずだ!!」
強張る身体を強いて、飛馬はありったけの勇気を振り絞った。
(負け犬にになんかなるもんか。そんなのすー兄ちゃん、絶対怒る。俺は、すー兄ちゃんにだけは嫌われたくない…!)
こんな時、小さな飛馬を奮い立たせるのもやはりすー兄ちゃんだ。憧れのすー兄ちゃん、その人なのだ。
「へえ…チビのくせに一丁前の事を言うじゃねえか、小僧」
男の一人が飛馬の髪を掴み上げ、息がかかるほどの距離ににやけた髭面を寄せている。気丈に歯を食いしばった飛馬の顔が激痛に歪む。
すかさず少女は刀袋の紐を解いた。
「放しなさいと言っているのが聞こえませんか」
毅然と言い放ち、少女は居並ぶ大男を見据えている。その顔には、恐怖や不安は欠片もない。
「ほほう、その格好…。おい、このお嬢ちゃんの方も相当な金持ちらしいぜ。こりゃあ、今日はついてるな」
思いがけず懐に飛び込んできた新たな獲物に、男たちは舌なめずりをしている。
「どうやら…力ずくでお願いするしかないようですね」
ついに少女は刀を抜いた。
反射的に一斉に腰の物を抜く無頼漢たち。飛馬を羽交い絞めにした男がさり気なく後方へ下がる。
淡い藤色の美しい鞘を持つその刀――紅藤は、大地から抜くあの刀とは違って、ふんわりとどこか優しい。そこに例の刀を握ったときのような禍々《まがまが》しい感触や、自我が消えてしまいそうな奇妙な感覚は一切なかった。
きりりと眉を結び、少女は刀を刀背に持ち替えた。
「ほらほら…怪我する前に謝っちゃえ、お嬢ちゃんよう。後悔しねえうちにな」
男の一人がおどけて言うと、仲間のごろつきらもどっと笑う。
すると――。
「その言葉、そっくりあなた方にお返しします」
僅かな動揺すら見せず、少女はふっと薄く笑った。その挑発は、少なからず男らの癇に障ったようである。
「可愛げのねえ小娘だ…!!」
吐き捨てるや否や、何人かの男が奇声を上げて躍り掛かった!
「や…やめろおっ!!」
男に固く組みしだかれた飛馬は、めちゃくちゃにもがきながら懸命に叫び続けた。
とても見ていられたものではない!目の前の賊徒らは、あの少女などより遥かに背も高く、体格も屈強そのもの。加えて総勢五人もいるのだ。
自分よりもずっと小さな――まして、あんな虫も殺せぬような顔をした女の子が敵うはずがないではないか!
(すー兄ちゃん!すー兄ちゃん…!!)
飛馬は固く目を瞑り、自らの信じるたった一人の英雄の名を呼び続けた。
聞こえてくる雑音や怒号に、不安や恐怖がいくつも湧いては入り混じる。
すぐに聞こえてきたのは、合わせ刀を撥ねる甲高い金属音。ひとつ聞こえたかと思うと、矢継ぎ早に響き渡ったそれは、飛馬の鼓膜を容赦なく劈いた。続いて、一瞬の間も置かず飛び込んできたのは、刀が人を打ち付ける鈍い音と、もんどりうって倒れ込んた男たちのくぐもったうめき声――!!
(え…?男の…うめき声??)
恐る恐る目を開けると…。
「!!」
目の前に佇む少女は、驚いた事に息ひとつ乱れていない。
その代わり、彼女の足元に転がっているのは、激しく息を荒ららげ痛みに悶える大男たち…。
ほんの一瞬の出来事だった――。
少女は、飛馬を縛めている男を眼光で射抜き、その鼻先にぴたりと切っ先を突きつけている。
「さあ、さっさとその子を放しなさい!痛い目に遭いたくなければ!!」
少女は眉ひとつ動かさず言い放った。
「す、すげえ…」
飛馬の口から無意識にため息が漏れた。
「く…くそ…!」
やがて男は、飛馬を――そして、地べたに這いつくばる自分の仲間をも放り出して逃げていった。
静かに刀を収めた後、少女はゆっくりと飛馬の傍へと歩み寄った。
途端。
「あ…」
頬が勝手に赤らんでゆく。心臓が独りでに騒ぎ出す。なぜだか目を合わすこともできない。
もじもじと身を捩り、やっとのことで飛馬は少女の顔を見た。
目が合うと、少女はふんわりと微笑んだ。とても愛らしく、温かな笑顔だった。
「飛馬様…ですよね?」
ほっとした拍子に、じわりと涙が湧いた。
怖かった。
本当は、とても怖かったんだ…。
何とか笑顔を返したその時、飛馬の耳に、ここにいるはずのないすー兄ちゃんの声が聞こえた。
――男が簡単に泣くな、飛馬っ。
慌てて涙を拭い、しっかと頷く飛馬だった。
* * * * * * * * * * * *
皆と待ち合わせた時間より少し早く、睦は牢舎に姿を見せた。
「ただいま戻りました、臣」
「……」
分厚い本を捲る手がぴたりと止まる――。
小さく会釈をして、睦は臣の正面に座った。
「ご苦労だったな。で、あいつの具合はどんなもんだ?篁は、闍彌の薙刀が、完全に奴の右の肩を貫いていたと言っていたが…」
口先では之寿の身を案じながら、声色も顔色も何一つ、いつもの臣と変わらない。
「ええ、あなたの仰る通りです。私も渚様にそう伺いました。昨晩お帰りになった時には、出血過多から貧血を起こしていらしたそうですけど、もうその症状もだいぶ落ち着いて…。一応ご本人にもお会いしてきましたが、意識の方も言葉の方もしっかりしていらっしゃいましたし、あとは傷の回復を待つばかりです。私のせいごめんなさいって謝ったら怒られちゃいました」
睦は照れくさそうに笑った。
「ふっ…。あいつらしいな。それにしても、あの渚様が付いて下さっているのか。ならば、体の方はひと安心だな」
「はい。でも…之寿さんの肩は、完治したとしても、もとどおりになるかどうか分からないって、渚様が…」
「そうか…」
結局、何だかんだと言いながら彼と之寿は上司・部下といった間柄などではなく、普通の友人――いや、普通どころか気心の知れあった親友同士であるに違いない。少なくとも、そう…臣にとっては――。
睦はぼんやりとそう思った。
「あと…渚様、ご存知でしたよ。之寿さんの裏の仕事のこととか…」
「そりゃあそうだろう。以前にも、あの方にはいろいろと面倒をお願いしているからな」
相変わらずとんでもないことをさらっと口にしてくる。
彼の交友関係は留まるところを知らない。ほんの先日まで、友人はおろか他愛ない言葉を交わす相手にさえ不自由していた睦にとって、臣の背後に控える協力者や友人らの存在は、羨望にすら値する。しかもその誰もが、その道に長けていることこの上なく、人格者としても評判の人物ばかりなのだ。
「はあ…そう…なんですか。あの…ずっと思ってたんですけど、その…。あなたって何かちょっと…」
睦は訝しそうだった。
「何だ?」
「えと…」
どうもうまく言葉が出てこない。もじもじと口ごもる。
すると。
「得体が知れない…か…?」
胸を突かれた気がした。
確かにそう――。そう思う。
(そしてまた…。私は彼に心の中を見抜かれている)
事あるごとにずっと不思議に思っていた。
――彼は絶対に普通の学者なんかじゃない。
時折彼が覗かせる、まるで人の心の裏側まで見通しているような眼差しや言動、そして怪しげな素振り。また、時に味方のはずの自分たちさえもぞっとさせる、巧妙さや強かさも…。
静逸且つ物静かな中にある、どこか胡散らしいこの雰囲気は、学者のそれでは決してない。数多学者が働くこの宮でさえ、こんな人物は皆無だ。大体、弓矢を射たり馬に乗ったりする学者など、見たことも聞いたこともないではないか。
「あの…」
注がれる視線に、睦はまたも言葉を失くした。
「つまり私が信用ならんと?」
思いがけず穏やかな声が尋ねてくる。
「そんな、まさか!そうじゃありません!!そんなんじゃありません…けど…」
なんだか胸が晴れない。どう言えばいいんだろう。不審とか疑念とか、そういうことではなくて、この胸にあるのはもっと別の…。
「まあ、確かにおまえには話していないことが随分あるな」
そうだ…。
この気持ちは妬みに似ている。
これほど彼を信じ慕っているのに、何につけても肝心の内容は知らされぬまま、隠し事や秘密の存在だけが増えていく不安と、真相を聞かせて欲しいのに――本人の口からちゃんと聞きたいと願っているのに、それを尋ねたところで語ってはもらえぬ、臣の心の中における自分の存在の頼りなさを、睦自身の心が嘆き悲しんでいるのだ。
(もしかして私――之寿さんに嫉妬しているのかな…)
そんな睦の心は、またしても覗かれてしまったようだ。臣はいつもの顔ですらりと笑い、肩を竦めた。
「私のことが知りたいのなら十夜か愁に訊け。彼らは既に知っている」
「え…」
「とはいえ、そんなもの知ったところで別に何ということもないがな。それでも、おまえの胸にある疑問ぐらいは解けるさ。ただ、表向きには伏せておくよう蘇芳帝から直々に申し付かっている。それだけは心に留めておいて欲しい」
「あ…。は、はい」
返事こそしたが、今のこの胸にあるのは嬉しいような――それでいて悲しいような複雑な気持ち。確かに、これまでに何度も彼の正体を尋ねた睦だ。そのたびに、散々はぐらかされてもきた。
しかし、もはや本当に知りたいのはそんなことではない――。
後ろめたさに瞳を伏せ、自らの胸の内に問いかける。どうやら本人にはまだ訊けそうにない。
(臣…。私はあなたの何ですか?ただの学者?かつての同僚?それとも…)
彼の瞳に、自分は友として映っているのだろうか?
この自分が彼を慕うのと同じように、彼も自分のことを慕ってくれているのだろうか?
私は…彼を友と呼んでも許されるのだろうか――?
(私は…あなたの友人としてここにいたいのに)
もはや顔を上げることさえできなかった。
「他には?」
「あ…。えっと…。あの…」
もじもじと言葉に詰まると、またしても苛立たしげな視線が突き立てられる。
「はっきり言え」
「あ…は、はいッ!えと、実は帰り際に奥様から打ち明けられたんですが――」
恐る恐る睦は顔を上げた。
「之寿さん…奥様に、体が動くようになったら自分を置いて里へ帰れって仰ったんだそうです。それで、とりあえずお子様方だけは既に使用人の方と一緒にご実家の方へ向かわれたそうなんですけど――」
臣は黙って耳を傾けている。どこかぼんやりとした眼差しが、また睦の知らぬところで、深く怪しい考えを巡らせているように思えた。
「之寿さんご本人にいくら尋ねても、理由をはっきりと話してはくださらないし、重い傷を負ったあの方を一人置いていくのは不安だと――奥様、そう仰って…」
「なるほど。やっぱりな」
臣は深いため息をついた。
「すまんが、睦。今すぐ之寿の名で宮への立ち入り許可証を一通取ってくれ。先に渚様と十夜に事情を伝えておけば、あとは彼らがうまくやる。それでも許可が下りるのは――そう、明日の夕方ごろになるだろうな」
睦は目を丸くした。
「あの…それは…」
「この状況では、之寿を宮に匿うしかないだろう。宮の中なら敵もそう簡単に手を出せまい」
「敵――って!?ど…どういうことです?」
「篁の話ではな、あいつ――どうも千種に顔を見られたらしい」
「え!?」
胸が大きな音を立てた。
「恐らく、あいつの正体までもが千種に知れてしまったということだ。それで家族を隠したわけだな」
「そんな!」
「だが、之寿のことだ。こちらが気を回してお膳立てをしてやっても、素直にそこに乗っては来ないかもしれん。とりあえず、暫く右京らを孔雀堂へ出向かせるか…」
胡坐をかいた膝の上で、臣は頬杖をついた。彼が考え事をするときに見せる仕草だ。
「あなた、随分余裕がありますね。他人の心配をする前に、ご自分の身の身は心配にならないんですか?」
本心とは裏腹に口をついて出たのは、ひどく棘のある言葉だった。言い放ってから、しまった――と思ったがもう遅い。
「睦――何かあったのか?今日のおまえ、どこか変だぞ?」
臣は頬杖をついたまま顔をしかめた。
「べ、別に変じゃありません。変なんかじゃないです!おかしいのはあなたの方ですよっ」
突如として胸に湧いた懇しく、さもしい感情――。それを必死になって隠そうとするほどに、睦の態度も言葉も妙に不自然なものになってしまう。
自分の意思などでは決してない。でも、これは間違いなく自分自身の感情だ…。
「はあ?おかしい?一体何のことだ??」
「……」
引っ込みが付かなかったとはいえ、自らの口から勝手に出てくる言葉に内心睦は慌てていた。
だが、これではっきりした。
(やっぱり私…雇役されている立場でありながら、臣に友達扱いされている之寿さんのことが羨ましいんだ。これが心の均衡が崩れてるってことなのかな。やだな…こんなの…。こんな醜い自分は嫌だ…)
人に難癖を付けておきながら、妙な憂いを見せる睦に臣は再び首を捻った。
それはそうだろう――。
臣のみならず、睦本人にだって、自分が何を言っているのかなど分かってはいない。ただ、彼が自らを差し置いてまで之寿を庇おうとする姿に苛立ち、ちょっと意地になっている。それだけのことなのだ。
「もう…いいです」
睦はむっと眉を寄せて立ち上がった。
「許可証、申請してきます!みなさんが来たら、話――進めておいてくださいっ!!」
睦は、逃げるようにばたばたと階段を駆け上がって行った。
「……?」
臣にしてみれば、何が何だかさっぱりだ。とはいえ、獄中の身では後を追って問い質すことなどできるはずもなく、黙って彼を見送るよりない。
「なんだ、あいつ…?」
誰に言うでもなくこぼしたその時――。
「失礼します」
睦と入れ違いに階下へ現れたのは右京だった。擦れ違い様、さすがに何かを察したのだろう。右京はしきりに睦のことを気にしていた。
「あの…どうなさったんです、睦様?なんか…すごい勢いで走って行かれましたけど――」
右京はいつものように格子の前に膝をついた。
「さあな。さっぱり分からん」
「???」
臣は大きなため息をついた。
「愁は?」
「あ…!実は、今日は愁様が水紅様の謁見に付き添ってくださるとかで――もうそろそろお戻りになる頃だとは思うんですけど…。それから、十夜様については雑務を少し片付けてからいらっしゃるとのことでした」
「ほう…ならばちょうどいいな」
臣は、にやりとほくそ笑んだ。
「はい?」
「右京、おまえに頼みがある」
「何なりと」
即座に右京はきちんと姿勢を正した。
「悪いが今日から数日の間、内々に孔雀堂へ詰めて欲しい。篁や藤季と交代で、できれば終日。可能か?」
「ええ…まあ、何とかなるとは思いますけど…。孔雀堂って、あの東一条の角にある薬屋ですよね。それで終日――って、何事です?」
「実は、個人的にあそこの店主を使って千種を探らせていたんだがな…。昨日、徂徠邸でひと揉め起こした上に、結構な手傷まで負わされてしまった。更に頭の痛いことに、顔を千種に見られたらしい」
右京はぎょっとした。
「な…何ですそれ?薬屋に内偵??あの…それって…」
「篁に訊け。詳しいことは彼に話した」
「は、はあ…。では、今後は篁も作戦に噛んでくるわけですね」
「ああ。彼と――恐らく藤季も」
「え!藤季もですか!?それはまた…何だかすごい面子ですね。星の宮の堅海と、嫦娥殿の臺が来れば内裏の近衛長は勢揃いですよ」
確かに右京が言うように、これでは国の要人を衛護する人間をほぼ抱き込んでしまったようなものだ。
しかし、これは必然。今ならそう思う。
これまでに浮かんだ数々の懸念――千種という人物と白露の繋がり。彼女らの謎の行動。そして篠懸の周囲に蠢く陰謀と、十夜がよこした三冊の書物。そこから臣は、楼蘭国に垂れ込め始めた暗雲をそれとなく感じ取っていたのである。もちろん、まだ確証はない。だが恐らく、それをいち早く察した十夜が臣に伝えようとしたのはこのことなのだろう。
ゆっくりと――だが確実に、この国には危機が迫っている。今ここに握るいくつかの不穏はその布石に過ぎない。彼の五感はそう訴えていた。
こうなると、もはや自分の身がどうのという問題ではない。国家的案件――宮の…延いては楼蘭国の一大事なのだ。
「言われてみれば確かにそうだ。いつの間にか随分と大事になってきたな…」
口ではそう言いながら、やはり臣の顔色はまったく変わらない。
「ええと、それで…。孔雀堂へは、その店主の身辺警護――ということで宜しいですか?」
「そうだ。くれぐれも極秘裏に頼む。一応、彼を宮に匿うことも考えて今、睦に許可証を申請させているが、之寿の性格を思えば、恐らくそう簡単に言うことを聞かんだろうと思う。そこで、万が一の千種の襲撃に備えて、おまえたちにはあいつの警護を頼みたい。なに、彼の身がある程度不自由なく動くまでのことだ、いくらもかからん。体が動くようになれば、之寿は必ず妻を実家へ帰そうとする。その後の彼の身柄はこちらで預かる――そういう算段だ。
面倒ついでに、右京。おまえ、何とか之寿を説得して、こちらへ来るよう仕向けてくれ。これは彼の妻、多鶴の要望でもある。彼女もきっと協力してくれるだろう」
右京は苦笑した。
「その口ぶりですと、どうやら一筋縄でいく相手ではないようですね。分かりました、何とかやってみます」
「よろしく頼む」
皇位継承者である第一皇子・水紅所有の近衛を束ねる長であり、光の宮の警備責任者。そして、水紅や臣に対する忠誠心にかけては、自他ともに認める右京である。ここで彼が、正当な理由もなしに水紅の一の側近である臣の言葉を疑うなどあり得ない。
彼に限らず、この国の近衛は皆そうだ。
皇族や要人、それぞれに割り振られた近衛と呼ばれる専属護衛兵は、一応ながら楼蘭軍に属してはいるが、その実まったく毛色の違う単独の存在である。言い換えれば、素質、能力ともに選りすぐられた軍の選良階級者。だからこそ、ただの従者という存在には収まらず、時に主人に意見、進言する権利までも認められているのである。
つまりこの国の近衛は、付き従う主人には確かに忠実。しかしながら、しっかりとした意思や良心を持って主人に仕えているのだ。従って、いくら主人の命であっても、正義に反することには決して従わない。主人の利益にならぬことには手を貸さない。彼らにとっての忠義は、そうして成り立つ。
* * * * * * * * * * * *
また誰かが到着したようだ。二人は慌しい足音の主へと視線を送った。
「すみません。遅くなりました!」
階下に着くなり、愁はぺこりと頭を下げた。
「あれ…?睦と十夜様は?」
皆、とっくに集合しているものとばかり思っていた愁は首を傾げた。
「ああ、彼らはもう少し遅れる。睦からは先に始めておくよう言われている」
「へえ…。臣に指示を出していくなんて、しっかり指揮官してますね、睦も」
くすりと笑い、愁は格子の前へと腰を下ろした。
思わず顔を見合わせた臣と右京は苦く笑った。その指揮官が、たった今しがた膨れっ面で逃げていったことは伏せておくとしよう――。
「さて…早速本題に入るが、実は少しばかり厄介なことになってきた。私の身柄云々などと言っている場合ではなさそうだ」
「どういうことです?」
愁は眉を寄せた。
「ここに十夜がよこした三冊の本がある」
臣は問題の三冊の本を取り出し、一冊ずつ二人に明示しながら丁寧に話を進めた。
「このうちの一冊は、私が水紅様の命でご用意した東方秘術に関する書物。かつて内裏に存在した呪禁師や陰陽師が操ったという数々の術が、ここに詳しく明記されている。そこから順に話そう。
まず、方術についてだが――遡れば起源は古く、根は道教とよばれる宗教にある。この教えの下で何年もの間厳しい修行を積み、妖しの術を会得した者は道士あるいは方士と呼ばれ、人知を超えた存在に生まれ変わることができるらしい。
だがこの術も、時代の流れとともに幾つかの枝葉へと分かれいった。言い換えれば、この術が世界中へ伝えられていく中で各地で独自の変化を遂げたということだな。
その一端で生まれたのが、例の陰陽道と呼ばれる強力な術だ。これまでに得た情報から推察するに、千種の使う術については、やはりこの類のものだろうと思われる。実際に昨日、千種は徂徠邸で式を放ったそうだ。篁がその現場をしかと目撃している。彼の話では、千種なる人物――どうもかなりの使い手のようだ。今後、彼女については細心の注意が必要だな。
また、これらの情報は遊佐様から伺った予見の内容とも往々にして一致するし、信用してもいい内容だろうと思う。遊佐様の仰る、楼蘭に生まれ住む依頼者と紗那の出でありながら今は楼蘭で暮らす術者――そのどちらも女性であるということ、それに千種が紗那の出であるという事実からも、不穏の主はもはや疑いようがないわけだ」
「やはり前者は白露様、後者は千種――ということですよね…」
右京が神妙な顔で呟いた。
「ああ。となると、闍彌や徂徠は実質千種の手下と見るべきだろう。もっとも闍彌は、もうこの世にはいないが」
「え!?」
「!!」
二人が同時に反応する。
「白露様が怯えていらっしゃるのはそのためだ。おまえたちが屋敷を立ち去った直後、闍彌は白露様の目の前で殺された」
臣は顔色一つ変えず、驚くべき内容を淡々と語る。しかもそれは実際に徂徠邸を探りに行った愁や十夜でさえも知らぬごく内部の情報。この場から動けぬ彼が到底知り得る内容ではない。
「ど、どうして…!?それにあなた、なぜそんなこと――」
「その話は後だ」
臣の話は続く。
「それで、残りの二冊についてだが――まず、こちらの『楼華記』のほうは、この国の歴史に関するごく一般的な書物だ。これには、俗に言う烏兎の役――七十余年前の執権・紗那と蒼緋による政権争いのいきさつと、それが後に大乱に至る経過。それから、それ以前の――つまり分割前の楼蘭国の変遷などが克明に記録されている。
残る一冊は、この国では数十年前に禁書となったはずの紗那の史籍『天の香魂』だ。装丁こそ違うけれどな」
「な…!『天の香魂』…!?なんでそんなものを十夜様が!!」
愁は息を呑んだ。楼蘭では、異端の書としてその名のみを残す『天の香魂』。さしもの愁もそれを直に目にするのは初めてだ。
この書は、内容の鮮烈さから過激思想の温床になりかねぬとして、愁が生まれるずっと前に焚書に処せられたと聞く。言ってみれば、もうこの世には存在しないはずの書物なのである。
数多、楼蘭の歴史学者らが探し求め、それでも手にすることはおろか目にすることすら叶わず、ただかつてそれが存在していた――という事実だけがまことしやかに、まるで伝説のように語られていた幻の書。それが今、愁の目の前にある。歴史に携わる者なら誰もが喉から手が出るほど欲するかの本が、まさに手を伸ばせばすぐ届く距離に!
臣の言葉は、第三皇子・篠懸の専属教師ありながら宮廷歴史学者でもある愁の知的好奇心を刺激するのに十分なものだった。
「さあな。あれであいつは都でも有数の旧家の出だからな。大方、家の蔵にでも放ってあったんだろう」
「……」
既に愁の目は問題の本に釘付けだ。
「興味があるのなら持って行け、愁。ここでおまえの見解は貴重だ。後で感じたことを聞かせて欲しい」
「は…はい!」
愁は差し出された本をしかと胸に抱いた。
「さて――ここで問題にしたいのは、この二冊の歴史書の記述には決定的な相違が存在するという点だ。もともと同じ一つの国であるはずの楼蘭国と紗那国――。だがこの二冊を読み比べると、数箇所に渡って矛盾や疑問が生まれる。この本が禁書になった理由については諸説あるところだが、恐らくこの相違点にこそ端があるのだろう。つまりは、国が意図的に握り潰した事実、あるいは統治の妨げになる何かがここにある――そう見て良いと思う。十夜がこれを私の元へよこした理由も、恐らくそこにあるはずだ」
「で――その相違点というのは具体的に何です?」
右京が問う。
「顕著な箇所は例の烏兎の役の――特に呪禁師らの暗躍に関する記述だな。これについては、『桜華記』の方ではあまり詳しく語られていないわけだが――」
さり気なく目配せをして、臣は続く言葉を歴史学者の愁に譲った。
「歴史学界の通説を申し上げれば、楼蘭国にかつて存在した呪禁師なる官職は、地位の方もなかなかに高位で、当時の朝廷の高官、更には皇帝や大臣らへの意見陳情をも認められており、結果、国政の方にも多大な影響を与えていたようです。もう少し平たく言えば、国の要人がこぞって彼らに傾倒していたということ。つまり、当時の首脳は皆、様々な場面で彼ら呪禁師に頼りきっていたわけです。とはいえ、当時の彼らの主な仕事と言えば、呪力を用いた医療や防御、護身などに限られていた。そこに、他人へ害を成すような悪質さはありません。
しかし、そんな彼らもやがては朝廷のみならず、個々の人間に召し抱えられるようなり、欲に目の眩んだ連中の道具と化してゆく。いつしか呪禁師は、主人の望みとあらばどんなことでも――…それこそ、媒体を拠り代に他人を呪う厭魅やら、生物の魂魄を操作して災厄を起こす蟲毒といった、怪しげな呪術にまで手を染めるようになりました。
先の烏兎の役に関してもそうです。あの戦乱の異様な拡大は、互いの敵に送りあった呪術の成れの果てだと考える学者もあるほどです。受けた術は倍返し――これが呪術から逃れる正攻法でありますから、大勢の呪禁師らが自らの命を賭して放ち、また逆に送り返された術の威力は、瞬く間に何十倍、何百倍にも膨れあがっていったはず。そうして増大を重ねた怨讐は、やがて主の手を離れ、いつしか術者の力比べにまで成り下がっていった。彼らの恨みや憎しみの矛先も、主人の宿敵から敵に飼われている術者そのものへと移り変わっていったわけです。
そんな状況にありながら、相変わらず表では武力の行使による鏖戦が繰り広げられていました。もはや戦況も呪禁師同士の抗争に注がれる油でしかありません。呪禁師による武力交戦への介入は通常の戦の常識をも完全に覆してしまいます。術者が軍の背後に控えているということは、言い換えれば天候や災殃までも味方にできるということ。そんなことになれば、当然相手側もそれに対抗すべく一層強力な術者を用意しますよね。この繰り返しが何年も続いたんです。その一方で、何の罪もない国民らは否応なくその渦に巻き込まれていきました。大体、勝利のためお国のため――などと言っても、それで何年も自然の摂理を弄繰り回していれば、いつか人々の暮らしにも影響が出る。あちこちに飛び火した戦火、長岐に渡る飢饉、突如として降りかかる異常災異。様々な苦難に晒された多くの罪なき命がここで失われました。
そして…これも割と有名な話ですが、戦の末期、楼蘭側の呪禁師の中に現れたある人物――『破鏡の天子』なる者の存在が、戦況を一変させたと言いますね。ただこの人物については、本当に謎が多くて…。ほんの七十年ほど前のことなのに、本名も出身も一切が不明。それに、その人物がここに存在していたという純然たる証拠だって何一つ残ってはいません。それでこちらの『桜華記』の方の記述も、どこか貧困なものになっているのではないか…と、言われているのですけど――」
再び臣が言葉を加えた。
「それについては、こちらの『天の香魂』の方に気になる記述がある。だが、それを話す前に、この本そのものの背景にも目を向けねばなるまい。
この『天の香魂』――噂だけを鵜呑みにすれば、恐らく史籍に分類されるはずだ。だが、実際にこの中身に触れ、描写を詳しく眺めれば歴史書と言うよりもむしろ、楼蘭国に纏わる歴史小説と呼ぶにふさわしい。一見、史実をありのまま記しているように見える内容も、表現や言い回しに注目すればどこか紗那側に偏重している節が窺えるからだ。そういう意味では、書かれた内容を注意深く分析、検証しながら目を通す必要があるだろうな」
愁は神妙な顔で頷いた。
「この紗那生まれの著者にしてみれば、楼蘭は憎き敵国であったかもしれない。従ってこの本の所々には、楼蘭に対する痛烈な皮肉と思しき箇所や、それらに付随する過激な描写なども多少なり窺えるわけだが…。ま、正直、この程度の表現が国家に問題を及ぼすとは思えん。少なくとも、この本がこの国から抹殺された原因はそこではないだろうと思う。しかしそれでは、内容の矯激さからこの本が一掃された――という世間の通説に矛盾する。
ここで、もう一つの疑問だ。表立っての貿易には制限の付くこの国とかの国だ。しかし、そこにもいくつか穴はある。事実、農作物や工業品など、密輸入の例なら古今いくらでもあるじゃないか。それなのにこの書物だけが楼蘭へ殆ど輸入されず、一般にも歴史学者の目にも触れなかったのはなぜか…。実はこの答えは簡単だ。それは、楼蘭国どころか紗那国にすらこの本が存在していないからさ。楼蘭にも紗那にも…いや、世界のどこにももはやこの本は存在しない――。そう考えたら自然だろう?実際、私独自の情報筋からも、そのことは何年も前に確認が取れている。
しかしながら、その理由は…?なぜ紗那国までがこの本を隠蔽する必要がある?」
ずっと押し黙っていた右京が口を開いた。
「それは例えば――この本に記された何かが、わが国のみならずかの国にも不都合を生むからではないでしょうか…?」
臣は口の端を微笑ませた。
「さて、ここでこの二冊を広げ、時代的に同じ箇所を照らし合わせてみよう。愁、その本の最後のあたりにある戦の終盤辺りを見てくれ」
言われるまま、愁は抱えた本をぱらぱらと捲った。
一方で臣は『桜華記』を広げ、該当箇所を指し示す。愁と右京は身を乗り出し、並べられた二冊の本の紙面へ目を落とした。
「こうしてよく眺めれば、『天の香魂』と『桜華記』の表記は一致しているようで、実は背反しているということに気づく。具体的に言うと、そう――例えば『桜華記』に登場する楼蘭の窮地を救った呪禁師、『破鏡の天子』。その人物の名が、『天の香魂』の方では『桂尊』と記されている。ほら、ここだ」
臣は問題の部分を示しながら言葉を続けた。
「だが、これは妙な話だ。楼蘭の書物にすら残されていない救世主の名が、なぜここにある?なぜ紗那の人間だけが、彼らの敵であるはずの破鏡の天子の名を知っているんだ?」
にわかに臣は声を落とした。
「さて――。果たしてこの紗那の書物に登場する『桂尊』なる言葉――これは本当に破鏡の天子の名かな…」
「どういうことです?」
すっかり興味に憑かれた愁が、瞳を輝かせた。
「古い書物を数々目にしている愁になら分かるだろう?桂という文字が意味するもの。そして、尊という文字は『みこと』――。つまり、神の名に添える尊称とも解釈できるんだ」
おもむろに腕を組み、愁は考え込んでしまった。隣では、右京がじっと次の言葉を待っている。
「確か、桂って香木の名前ですよね。それから、ええと…古い詩や神話などでは月を意味する言葉として時々出てきます。あと他には…月に生えているという想像上の木の名前…。月の桂とかって――あ!!」
ついに思い当たってか、愁は子どものように嬉々とした声を上げた。
「さすがだな、愁。もう気付いたか」
「はい!ああ、なんだ、そうか…。なるほどね」
「あの…すいません。全然分からないんですけど、どういうことなんですか?」
二人の間で右京が視線を右往左往させている。
「桂尊というのは、もしかしたら『けいそん』と読むのではないかもしれません。例えば…そう、『かつらのみこと』とかね。ということは、もしかすると桂尊というこの言葉は月神を指しているのかも――。
そして、楼蘭に伝わる破鏡の天子、これも同じ。『破鏡』という文字を見れば割れた鏡を想像するでしょう?でもね、これも実は月の異名なんです。欠けた月のね。『天子』とは、天命を受け地上を治める立場にある者のこと。そして、なんとこの言葉も神そのものを意味する場合があるんですよ。ほら、月や太陽を神格化して月天とか日天とか言うでしょう?」
「なるほど…。では、あの…桂尊も破鏡の天子も――どちらも同じ意味合いの言葉だと、つまりそういうことですか?」
「そういうことだ。だが、ここにこそ違和感がある」
臣は更に話を続けた。
「『天の香魂』は紗那国の見地から紗那の人間が書いたもの。その文面を見ると、楼蘭国や当時の首領・蒼緋に関しては、憎き敵としてかなり辛辣に描かれている。それなのに、この楼蘭の救世主・破鏡の天子のこととなると、えらく美化しているように感じないか?楼蘭に加担したはずのこの呪禁師だけが、楼蘭と紗那の双方から意味を同じくした栄えある神の異名を与えられている。これは一体どういうことなのか…」
目前で次々に組み立てられる新たな史実の可能性――そこに夢中になるあまり、愁はふと大切なことを忘れていることに気付いた。
改めて臣を見る。
彼の着眼の鋭さは会議等で何度となく目の当たりにしているし、ある程度ならば承知していたつもりだ。しかし、この恐ろしく豊富な知識と明晰な分析力は…。
(この聡明さ…彼は本当にただの数学者か!?いや…確か以前に、彼は傭兵上がりの武人と聞いたはずだが…)
訝る愁を差し置き、臣の話は続いた。
「――それから、先ほど言った呪禁師に関する記述。この国で働いた彼らは、烏兎の役が終結して後、その役目を陰陽師らに取って代わられ、事実上歴史から姿を消した。しかしそう言っても、それは文字通りではなく、単に野に下ったというだけのことだ。つまり、彼らは民間の呪術師に身を転じていったわけだな。その後、陰陽師らも同じ運命を辿る。
だが、ここで消息が分からなくなっているのが、紗那に付いた呪禁師。『天の香魂』の記述を見れば、どう少なく見積もっても当時の紗那には数十人の呪禁師が存在していたことが分かる。しかし、その彼らは一体どこへ消えた?おまえたちも知るように、紗那という国は非科学を切り捨てた国だ。そんなかの国が、神秘そのものとも言える呪禁師を召し抱えるはずがない。彼らはどこへ行ったんだ?」
「ほほう…。なんともうそこまで分かっているのか。なかなかやるようになったもんだな、おまえも」
突然の声に振り向くと、いつの間に来たのか、階段に十夜と睦が立っている。
臣は肩を竦めた。
「睦、例の物はもう申請したのか?」
「は…はい…」
なんとかそれだけ返事はしたが、先ほどの後ろめたさのせいか臣と目を合わすことができない。ここへ来る道すがら、睦本人から胸の内を打ち明けられた十夜だけが、そんな彼の心中を察していた。
代わりに十夜が答えた。
「明日の午前中には許可が下りる手筈になっている。渚様が一案講じて急かしてくださるそうだ」
「そうか。持つべきものは何とやら…とはよく言ったものだな」
やがて愁も睦の異変に気付く。
「睦…。どうかしました?」
それでも睦は顔を上げることができず、口を真っ直ぐ結んだまま首だけを横に振った。
首を捻る愁のの耳元へ十夜が囁く。
「今は放っておいてやれ。詳しいことはまた教えてやるから」
「???」
「では、私はそろそろ失礼して仕事に戻ります」
察した右京が立ち上がった。
「こちらも残りの分析は専門家にお任せするとにしよう。私程度の頭ではここまでが精一杯だ。ほら、残りの二冊も持って行け、愁」
格子の間から問題の本が差し出される。まるで割れ物でも扱う手つきでそっと受け取り、愁はうっとりとため息をついた。
「水紅皇子付き様ともあろうお方が随分と謙遜なさるもんだ…。この短時間でこれだけ分かれば上等さ。さて、愁――我らもここで失礼しようか」
「ええ!?だって十夜様、今来たばかりじゃ…」
さり気なく腕を回して愁の肩を捕まえた十夜は、やけに愛想の良い顔をして笑った。
「続きはまた晩だ。それで構わんだろう、臣?」
「ああ」
「……」
睦はまだふて腐れているように見える。だがきっと、十夜が何事か彼に言ったのだろう。わざとらしいまでの気遣いである。
「では、また近々ご報告に伺いますね、臣様。みなさんもまた」
軽く一礼して、右京は階段を上がっていった。
そして――。
「あ…あの…。でも、私はまだ…」
「いいから、いいから」
後ろ髪引かれる思いの愁を引きずり、十夜もまた牢舎を出て行った。
なるべくして、臣と睦の二人だけが残された。
「さて――話を聞こうか、睦。言いたいことがあるんだろう?」
「……」
睦は、少し前の十夜との会話を思い出していた――。
* * * * * * * * * * * *
十夜とともに許可証の段取りを済ませ臣の待つ牢舎へと向かう間も睦はずっと考えていた。
醜い妬心から、つい投げつけてしまった浅ましい言葉。あの時、臣はどんな顔をしていたろう?何度考えても思い出せない。もしかしたら、彼を傷つけてしまったかもしれない。まさかあれが原因で、今後彼に疎まれはしまいか。
そんなことを思えば、牢へ向かう足が重い…。
ついに意を決し、睦は俯いていた顔を上げた。
「あの…十夜様。実はご相談があるんです。その…ごく個人的なことなんですけど…。お聞きいただけますか?」
「……」
少しの間、十夜は黙って睦を見ていたが、やがてふっと唇の端を緩めた。
「ほう…嬉しいね。おまえの口から相談があるなど、初めてのことだな」
二人は光の宮の中庭で腰を下ろした。
「そもそもおまえ、私の部屋へ顔を出したときには既におかしな顔をしていたな。また臣に泣かされたのかと思った」
まだ事情を知らぬはずの十夜の言葉は、おかしなことに当たらずとも遠からず。思わず返事に詰まると、途端に十夜は眉を寄せた。
「なんだ、図星か?まったく…おまえたちは仲が良いんだか悪いんだか…。まあ、確かにあいつは自分の感情に正直過ぎるところがあるよな。普段はあのとおり、少し冷たいぐらいに冷静だが一旦かっとなるとすぐに手が出るだろう?そのうち窘めてやらねばと思っていたところだ。だが、私に言わせればおまえもおまえだぞ。事あるごとに簡単に涙を見せ過ぎる。そんなことだからおまえ――」
「あの…。そういうことじゃないんです」
睦は恥ずかしそうに俯いた。
「私は、その…。あの方のお友達になりたいんです」
「はあ?」
意味するものが分からない。
「さっきお話した之寿さんや…十夜様みたいになりたい…。臣に私をお友達だと認めていただきたいんです」
「よく分からんな…。私から見れば、おまえの方こそ立派にあいつの友人だと思うが…。つまり何が言いたいんだ、おまえ?」
睦は曖昧な表情を浮かべた。
「えと…何て言えばいいのかな。例えば――そう、あの方…私にたくさん内緒事があるんです。秘密ならそれらしく何も教えずにいてくださったらいいのに、怪しい素振りだけお見せになるから…。それでそういうことを自分以外の方がとっくにご存知だったりすると、何か…胸がもやもやするって言うか…。んと…うまく言えないんですけど…」
「具体的には?」
「あの方の…正体、とか――」
睦の声は、そよ風の囁きのように細い。
「一体どういう方なのかって、何度ご本人に尋ねても、見たままだ――とか、ただの学者だ――とか仰るばかりで、いつだって結局は何も教えてくださいません。それでさっきまた同じ事を尋ねたら、今度は十夜様か愁に聞け――って…。私はあの方の口からちゃんと聞きたいのに。臣から直接打ち明けていただきたいのに…」
いつしか唇を尖らせ、睦はぶつぶつと不平たっぷりにぼやいている。
確かに彼本人の気にするように、その顔には紛れもない妬心が現れていた。思わず、聞く者が呆れてしまうほどに――。
呆れついでに短いため息をついて、十夜は置石の上にどっかりと胡坐を組んだ。
「なあ、睦。ちゃんとおまえ、そう言ったのか、あいつに?」
「……」
「胸の中で思っているだけでは伝わらんこともある。いや、むしろそんなことの方が多い。一つだけ教えておいてやる。あいつは確かにただの学者などではないが、それを言おうとしないのは上から口止めされているからだ。私だってあいつから直接聞かされたわけじゃない。常盤様から伺った。あいつが宮に来たばかりの頃に後見を頼まれてな…。素性を知ったのは、確かその時だ。当時のあいつは、学者どころかほんの数日前に楼蘭に来たばかりの外国人で、言葉こそ流暢に話しはしたが、この国のことなど何も知らなかった」
「そう…なんですか」
睦の顔は晴れない。
「例の孔雀堂の店主にしてもどうだか分からんぞ。彼は紗那出の窺見なんだろう?ならば互いの国を探る中で偶然知ってしまったのかもしれん。ここへ来る前はあいつ、紗那にいたようだからな。それに――」
十夜はふっと眉を解いた。
「睦、そんなもので友情を測るな。あいつの性格を考えてみろ。私など先日牢舎でおまえたちと見え、この計画に加担することになった時、それは不思議に思ったものだぞ」
十夜は、自らの膝の上で頬杖をついた。
「私自身がおまえという人間をよく知らなかったせいもあるがな、あの臣が、こうもうじうじとはっきりせん男とつるんでいる理由がさっぱり分からなかった。あいつはそういう人間を嫌うはずなんだ」
「確かによく…はっきりものを言え――って叱られます」
睦はしゅんと小さくなった。
「そうだろう?それに、あいつは人の好き嫌いが激しい性質でな、嫌いな人間にはぴくりとも尻尾を振らん。加えて、大人げもなくしっかりとそれが態度に出る性分だ。つまり、まあ…ちょっと不器用なんだよな」
「会議の場でもよく他の方を遣り込めてらっしゃいますもんね」
「うむ。だがな、殊、おまえに関しては甲斐甲斐しいまでに面倒を見ている。あいつはどうでもいい人間に感情をぶつけるほど優しくはないぞ。おまえ、先日もあいつと喧嘩になったじゃないか。あれだっておまえを思えばこそだろう?」
「……」
言葉を返すこともできず、睦はまた俯いてしまった。彼が自分を怒鳴りつける時はいつも本気だ。それはよく分かっている。
十夜はくすりと笑った。
「睦――。誰かを思うのと思われるのとでは、どちらが尊い?」
睦は考え込んでしまった。しかし、今まで信じられる友のなかった睦の答えるべき選択肢は決まっている。
「ええと…私は人に思われたいです。信頼されたり大切にされたり頼りにされたり――」
「なるほどな。だが、それは偽りかもしれんぞ」
「え…?」
「人というのは良くも悪くも賢い生き物だ。信頼している振り、大切にしている振り、頼りにしている振り…そんなことはいくらでもできる。それこそ相手に悟られぬよう、役者さながらに演技して見せる者も世間には大勢ある。おまえにしても、そんな欺瞞を見抜く器があるかな。自分だけは大丈夫――などと豪語している者に限って、ひどい裏切りに遭うものだ。おまえはどうかな…?」
十夜はぼんやりと遠くを眺めていた。
「自信…ありません…」
また声が細くなる。
十夜は改めて睦の顔をじっと見つめた。
「別に恥じることはないぞ、睦。人なんてものは誰しもそんなものだ。だが、思うことは違う。思うということは、己の主体的行動であり自分の意思だ。それを偽るものがあるとしたら、それは己の心のみ。だが、その真相を知るのは簡単なことさ。自分に正直になればいい。他人の思惑などまったく関係ない。そうだろう?より信じるに値するものは赤き己の心。飾らぬ素直な自分の気持ち――違うか?」
「……」
睦はそろりと顔を上げた。
「そりゃあ確かに、誰かに思われるというのも悪くない。それが真実なら天にも昇る心地さ。経験者が言うんだから間違いない」
「経験者?」
問い返すと、十夜は微かに頷いた。
「まだおまえには話してなかったかな…。私と瑞穂は随分歳が離れている。十三だ。ひと回り以上違う。あれと出逢ったのは、確かまだ私が二十八の頃だった。当時の瑞穂はいくつだ?」
「えっと…十…五歳――え!?」
睦は目を丸くした。
「そう、ほんの子どもさ。傍目に見ればちっちゃな妹に、ちょっと齢の離れたお兄さんという感じかな。実は、常盤様から勉強を見てやるようしつこく頼まれてな。嫌々ながら引き受けた。知ってのとおり瑞穂は執権家の一人娘だ。当然いずれは婿をとり、そいつに執権職を継がせねばならない。そんな瑞穂が政治のいろはも知らぬと言うのでは困るだろう?」
「なるほど…」
「彼女は、とても優秀で勉強熱心な生徒だった。放っておいても自発的に学習を進め、課題を見付け、自ら多くのことを学んでゆく。時にはこちらがどきりとするほど鋭い質問を浴びせてくる。自分がそう育て上げたと思うと内心鼻が高かったものだが――。今思えばそれもみんな私の思い上がりだ」
一体当時の何を思い出したのか、十夜は鼻を鳴らした。
「どういうことです?」
「わざわざ質問するために勉強していたのさ、あいつ。私を困らせるために必死になってな。自分自身のためなんかじゃなかった」
十夜は芝居がましく顔をしかめたが、それでも愛おしい記憶には違いないようである。彼の深い眼差しは目の前の睦を突き抜け、遥かに浮かぶ追憶の日々をうっとりと巡っているように思えた。
「要するに、いつも面倒を見てくれる年上のお兄さんにちょっと気に入られたかっただけだ。いつだったかな…あいつが十七、八の頃だったと思うが、ついに気持ちをぶちまけられた。良い生徒を育てたと有頂天になっていた自分に腹が立ったね」
十夜は短いため息をついた。
「で…。どうなさったんです?」
「あのなあ、こっちは三十過ぎだぞ?応えられるわけがないだろう?笑い飛ばしてやった」
「ひ…ひどい…っ」
「ひどかろうと何だろうと無理なものは無理だ。子どもに手など出せるか!」
自ずと『子ども』という部分に熱が入る。確かにもっともな話である。
「だが、そこであいつが退いていれば、今の私たちはないんだな、これが。年齢を理由に断ったら、今度はあいつ、いつならいいのかと尋ねてくる。許容範囲は二十三以上だと答えてやった。
瑞穂がその齢になる頃には勉強を見る必要もなくなっているし、さすがに顔を合わすこともないだろう。大体、あいつは気立てだって悪くはないんだ。なにもこんなに齢の離れた男と付き合うことはないじゃないか。彼女の年頃に似合いの男など、世にごまんといる。あいつが二十歳を過ぎれば、常盤様にしても本腰を入れて婿探しを始めるだろうしな…。これで万事解決のはずだった」
「でも…そうじゃなかった」
「ああ。家庭教師を辞めてからも、何だかんだと理由を付けては、あいつ、当時私が暮らしていた水の宮へ通って来てな。ひどいときには、日に何度も顔を出したものだ。その度に研究の手を止めねばならんこちらにしたらやれやれさ。後で常盤様から伺った話だが、当時からあいつ、見合いの話をことごとく蹴っていたそうだ。そら…昨年、陛下から賜わった例の縁談話。あれだってそうだ。さすがにあの時は、断るのに四苦八苦したようで、とんとん拍子に婚約まで話が進んでしまったわけだが…。結局、本人にその気がないのだから仕方がないよな。それまではずっと理由を口にしなかった瑞穂も、この時ばかりはついに胸の内を白状させられた。常盤様の怒りようと言ったらなかったさ。こちらも散々に小言を言われたよ…」
十夜はうんざりと肩を竦めた。
「なんか…今の瑞穂様からは意外なお話ですね。そんな情の激しい女性にはとても…」
「そうか?瑞穂は強い女だぞ。何年にも渡ってそれこそ何度となく突っ撥ねたのに、とうとう約束の二十三歳まで頑張ったからな。ついにこちらも根負けだ。そこから一応ながら半年ほど付き合って、今に至る…と…」
こちらを見る睦の瞳に深い憂いが見える――。不覚にもはっとして、十夜は一瞬言葉を失くした。
「でも、ずっと秘密なんですよね…?瑞穂様の十夜様に寄せる想いも、僅かながら恋人同士だった時も…。それに今も」
「まあ…。そうなるな」
「瑞穂様、お可愛そう…。やっと大好きな人の心が手に入ったのに、誰にも言えないんだ…」
「……」
これには、十夜も思い当たることがあるようだった。
「私…誰かに思われることはやっぱり尊いと思います。でもその前に誰かを本気で思うことが大切なことなんですね。十夜様だって、積極的で果敢な瑞穂様の気持ちに、戸惑ったり迷惑がったりしていても、本当は嬉しかったんですよね…?」
「ま…まあな…」
「嬉しいことって、誰かに話したくなりますよね…。あのね、十夜様。瑞穂様ね、いつも十夜様のことだけは、本当に嬉しそうにお話しになるんですよ」
「……」
「私…ついこの間まで、話をする相手もいなかったし…。ちょっと瑞穂様の気持ちが分かるような気がします。きっと瑞穂様、強い女性なんかじゃないですよ。本当はお辛いんだと思います」
「そう…かもな」
十夜はまた彼方へと目を移した。その拍子に、日頃あれほど威勢のいい彼とは違うひどく寂しげな横顔が覗く。
「瑞穂様が十夜様を思うのと同じように、十夜様にも瑞穂様を思うお気持ちがおありでしょう?天にも昇る思いを分かち合う二人が、その喜びを誰に伝えることもできず悶々としているのって、なんだか悲しいです」
ついさっきまでは、今にも泣き出しそうな顔で悩みを話していた睦である。だが、いつの間にか話題は十夜と瑞穂の関係へと移り、睦は今懸命に瑞穂の肩を持っている。
そんな姿を横目で覗き見て、十夜はまた笑った。
「ふっ…。この私が逆におまえに諭されようとはな。で、おまえの胸のわだかまりはもういいのか?」
「はい。ちゃんと臣に話してみます。本当のあなたを教えてくださいって自分で言います。それで――」
深呼吸をひとつした後、睦は迷いのない顔を向けた。
「臣にとってどうでも、私にとっての臣は大切なお友達だ――って言ってやります」
「そうか…。では、私もおまえの友人の一人に加えておいてくれ。まあ、齢の方は遥かに離れちゃいるがな」
「ふふっ。もうとっくに加わってますよ、十夜様――」
* * * * * * * * * * * *
ようやく我に返ると、睦はぐっと眉を結び、目前の臣を見据えた。
「あの…臣ってどういう方なんですか?」
「なんだ、またその話か」
ため息混じりに呟き、臣は胡坐をかいて座り直した。
「ちゃんとあなたの口から教えてください。はぐらかしたり嘘言ったり…もうそういうの、無しですからっ」
毅然と睦は言い放つ。
「はあ?何だそりゃ?」
「私、あなたのお友達なんですからっ。あなたがどう思っていようとそうなんですから教えてください!」
「ふっ…。友達…ねえ…」
臣の顔に呆れたような笑みが浮かぶと、たちまち睦の顔が曇った。
「あの…。まさか…違うんですか…?」
「おまえは、いつもそうしていちいち名乗りを上げて誰かと親しくなるのか?」
さも面倒だという口調で臣は言葉を返してくる。そんな姿を見るほどに、睦の不安はまた募った。
そして。
「べ、別に…そうじゃありませんけど…でも…」
ありったけの勇気を振り絞った睦の言葉は、初めのうちこそ勇ましかったが、次第に細く頼りなくなってゆく…。
臣と自分では、齢なんか五つも違う。頭の回転も弁舌のほうも、全然太刀打ちできない。堂々とした態度も鋭く抜け目のない人となりも、内気な自分は遥か足元にさえ及ばない。
それでも睦にとっての臣は、ようやく見つけた心から信頼できる友人だ。自分を拒まず自分を見捨てず、自分を尊重してくれたかけがえのない友だ。
「でも、心配になるじゃないですか!私だけ知らないこととかあると!!」
「ははあ、なるほど。そういうことか…」
一瞬おどけたように口の端を緩めた後、臣はきちんと居住まいを正した。ある意味では彼らしい、強く鋭い瞳がまっすぐ正面から睦を見つめている。
「いいだろう、話してやる。何が知りたいんだ?」
胸がどきりと鳴った。
彼が時々見せるこの刺すような眼差し。また睦はこの目に心を見抜かれてしまったようだ。今この胸にある思いと、先ほど湧いた嫌な感情。もしかしたらそのすべてを知られてしまったのかもしれない…。
でも、もうそんなことは構わない。
だって彼は友達だから。もう逃げたりしない。
「だから…あなたが本物の学者かどうか…」
「答えは、いいえ。学者なんかじゃない。ただの戦争屋さ」
恐る恐る尋ねると、拍子抜けするほどあっさりと彼の真実は明かされた
「戦争…屋?」
「ああ。十二の頃から戦場にいた。まあ、時には雇われの用心棒だったり某国では兵役に就いたりもしたが、ほとんどずっと傭兵として戦場で生きていた」
にわかに眉を顰め、臣はぐっと声を落とした。
「人も数え切れんほど大勢殺した。恨みもつらみも嫌というほど買っている。誰が仇を討ちに来ても不思議じゃない。現役を五年も離れた今ですら、時々は命を狙われる」
「……」
言葉が出てこない。
覚悟はしていた。薄々は分かっていたはずなのに…。
「分かったか!!今、おまえの目の前にいるおまえの友人とやら。ただの人殺しだぞ!それに某国では焼印を押された大罪人だ!!嘘じゃない。このことは水紅様以外、誰も知らん。陛下も常盤様も十夜も愁も之寿もだ!ほら、よく見とけっ!!」
やけっぱちのように吐き捨てて、臣は襟元から乱暴に右腕を引き抜いた。
差し出されたのはあの二つの忌まわしき証。臣がずっとひた隠しにしてきたはずの、あの惨刑のヒランヤであった…。
そうして、憮然と俯く横顔は――。
「さあ、これで満足か、睦!!」
「……」
咄嗟のことに声も出ず、睦は激しく動揺していた。いくら目の前で見せらても、すぐに信じることはできなかった。
(臣が罪人?国を追われるほどの罪を犯した人間だなんて!しかも二つも…二つの国の印をその腕に焼かれて…!!そんな…まさか!でも…!!)
「あ…。あ…の…」
無理に口を開けば、どうしようもなく声が震える。
「ふん…。そうやって怖がるだろうと思って言わなかっただけだ。それをおまえ――」
眼差しを斜に落とし、臣は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
慌てて睦は向き直った。
「ご、ごめん…なさい…!!」
「何なんだ、まったく!」
「全然知らなくて…。その…印のこと…。ほんとにそんなこと、思いもしなくて…。だから…その、本当にごめんなさい…」
ふて腐れつつ、臣は身なりを整えている。その顔色を窺いながら、睦はどうにかして今の自分の気持ちを伝えたいと思った。
確かに驚いた。
想像を絶する真実に、正直少し恐怖だって覚えた。
(でも、それ以上にすごく嬉しかった…)
じわりと心がこみ上げた。
「何なら絶交してくれて構わんぞ」
「そ、そんな…!ごめんなさい…。本当に…ごめんなさい、私…」
湧いた涙がなかなか止まらない。睦は何度も袖で瞼を押さえた。
「泣くな、馬鹿っ」
剥れていた顔が、一ぺんに呆れ顔に変わる。声色もすっかり元に戻っている。
「人殺しや罪人を目の前にして怯えるのは当然だ。これがばれたら私は宮どころか国を追われるだろう。ま…どの道、どちらも時間の問題だ。千種が来ればな」
「どういうことですか、それ…」
睦の顔色が変わった。
「おまえや他の者に心配をかけたくなくて黙っていたが、あいつの目的は私だそうだ。私の身柄を引き取りにわざわざここへお越しになるんだとさ」
「ちょっと…それって!!なぜです?なぜあなたなんです!?」
ひどく衝撃的な言葉とは裏腹に、当の臣本人はまるっきり何でもないといった素振りである。またもや大きなため息をつくと、臣は自らの膝の上で頬杖を付いた。
「さあな。これは之寿からの情報だ。理由についてはよく分からん。まあ…折角だから、お迎えが来るまではせいぜい抵抗してみるかな…」
「そんなの…!そんなの嫌です!!渡しません、絶対にっ!!」
睦は床に付いた手を握った。自分でもびっくりするほど大きな声だった。
「やれやれ。そう言うと思って黙っていたんだがな…」
己の身に降りかかることなのに、まるで他人事である。
こういった彼の態度は今に始まったことではない。だが、そこに睦が苛立つのも毎度のことだ。
「そんなの当たり前じゃないですか!他のみんなだってそう言いますよ!!なんであなた、いつもそんなに――!!」
「では訊くがな、一体どうやって?おまえ、どうやって千種を阻止するつもりだ?」
「そ、それは…」
そう問われても急には思いつかない。そうして怯む睦の代わりに、今度は臣の声が荒げられる。
「あの之寿も歯が立たなかった手練れだぞ!妙な術だって使う!私を狙う目的も分からないし、第一、紗那の出である彼女と宮で一戦交えるわけにはいかんだろう!?こんなことで両国間に波風を立てるわけにはいかないじゃないか!つまりお手上げだ!!もう私の身柄のことなど考えるな!必要ない!!」
だが、そこは睦も負けてはいない。
「嫌!嫌です!!絶対に嫌ッ!!」
「はあ…。まったく…」
臣の方が先に根負けしてしまったようだ。
「毎度ながら何の策もないくせに、妙なところで頑固だな」
「だって…」
睦は唇を噛み締めた。
「それにしてもおまえ…。このごろ、随分怒って見せるようになったな」
「え…」
全身を揺さぶるほどの鼓動が、睦の胸の底を殴りつけた――。
「ついこの間まではただ愛想笑いを浮かべて、おどおど、もじもじしているばかりの人間だったのに…。会話もまともにできなかったじゃないか」
まただ…。
また自分は彼の計算の上にいるのか?
こみ上げてくる思いに阻まれて返事をすることもできず、睦はひたすら床ばかり見ていた。
「良かったな」
そっと顔を上げると、注がれていたのは思いがけず深く穏やかな眼差し。険しさや激しさはどこにもない。
「あ…」
その顔に一つ確信めいたものを覚えた睦は、無意識に小さく声を上げた。
「感情をうまく出せないときがあるんだろう?だが、この調子ならばそれもすぐに良くなるさ。こういう症状には、大げさなぐらい泣いたり怒ったりした方がいいそうだぞ。以前、渚様にそう伺った」
「渚…様?あの…あなた、やっぱり…」
渚が牢へ来たことなどない。では、なぜ彼は渚に睦の症状を相談することができたのだろう?
その答えは一つである――。
「何だ?」
「い…いえ…」
なぜだか急に恥ずかしくなって、慌てて伏せられた睦の顔には、独りでに微笑みが浮いていた。
もう、迷うことはない…。
これでやっと信じられる。
(やはり、牢に入るずっと前に彼は知っていた。私の異常にとっくに気付いていたんだ。それで渚様に…)
彼はかけがえのない大切な友人だ。今なら胸を張ってそう言える。
「えへ。えへへへ…」
睦の頬が、ほんのりと染まってゆく。
「何だおまえ…。気持ちの悪い奴だなっ」
頬杖をついた肘ごとずっこけそうになる臣だった。これではもう張り合いも何もあったものではない。
「絶対に…千種なんかに渡しませんから。みんなと相談して、絶対…」
ちらりと睦の顔をを覗いた後、臣はふっと鼻先で笑った。
「白けるね…。毎度ながら口だけは頼もしいもんだ。安請け合いも程ほどにしておけよ」
「安請け合いなんかじゃありません!本当ですからっ!!」
「はいはい…」
睦が膨れると、臣は眉を解いて笑った。
* * * * * * * * * * * *
例の本を携えた愁は十夜の部屋へ連れ込まれていた。
「いらっしゃいませ、愁様」
部屋中にふわりとほろ苦い珈琲の香りが広がっている。
すっかり馴染みとなった愁と他愛ない会話を交わす瑞穂の姿を、十夜は複雑な心を抱えたままぼんやりと眺めていた。
――やっと大好きな人の心が手に入ったのに、誰にも言えないんだ…。
――瑞穂様ね、いつも十夜様のことだけは本当に嬉しそうにお話しになるんですよ。
あの睦の言葉が、何度も胸をこだまする。
「何か付いてます?」
「いや…」
咄嗟に十夜は視線を逸らした。胸中に居座り始めた後ろめたさのお陰で、我が家にいながらにしてすっかり落ち着かないのである。
――きっと瑞穂様、強い女性なんかじゃないですよ。本当はお辛いんだと思います。
また頭の中で睦の声がする。
(参ったな…。気になって仕方がないじゃないか)
しゅんと肩を窄め、十夜はひとりでため息をついた。
「……?」
夫の妙な素振りには、瑞穂もすぐに気付いたようだった。何度も首を傾げ、それでもとりあえず、瑞穂はそっと隣へ腰を下ろした。
「あの…十夜様、お仕事の方は宜しいんですか?」
この愁の言葉で、十夜はにわかに我に返ったが――。
「ん?ああ…。なんと今日はまだ何の用事も託っていない。いや、本当はあるんだろうけどな、肝心の常盤様が白露様のところへ行ったきりだ。陛下のところへは朝一番で伺ったが、些末な世間話を交わす以外には、何のご用もなさそうだったしな…。一応ながら政殿にも文殿にも軍機処にも顔を出しては来たが――ま、別に構わんだろう。急ぎの仕事らしきものは特になかった。簡単な雑務処理についてはちゃんと指示を出してきた」
「そんなにいろいろお手伝いなさっていたんですか…」
――と、一応の会話は成り立っているが、どうも心ここににあらずといった様子である。
「まあな…。大臣様方直々に頼まれれば、別に断る理由もないしな」
その上、全くこちらを見ようとしない。
ついさっきまではいつもの十夜だったというのに、部屋へ戻ってからは何かがおかしい。瑞穂のみならず、ついには愁も首を捻る有様である。
「あの…十夜様。どうなさったん――」
「ちょっと待ってろ、愁」
言いかけた愁を遮り十夜はすっくと立ち上がった。そのまま、そそくさと奥の自室へ消える。取り残されてしまった二人は、きょとんと顔を見合わせた。
「愁様、主人に何かあったのでしょうか?」
「ええと…どう…なんでしょう。特に何もなかったと思うんですけど…何か変ですね…?」
愁も戸惑いを隠せない。
「どうしたのかしら…。どこか具合でも…」
にわかに表情を翳らせ、瑞穂は立ち上がった。
すると――。
いくらも経たぬうちに、分厚い書類の束を手にした十夜が戻ってきた。
「待たせたな、愁。ほら…これも持って行け。参考になるはずだ」
どすん!という重い音とともに紙束が積まれる。
「何です、これ?」
「烏兎の役当時の犹守司天台の記録だ」
「な…!?そんなものどうなさったんです!そんな貴重なものがなぜここに…」
愁はぎょっと目を剥いた。
「今朝早く文殿からここへ持ってきた。実は、少し前に犹守司天台から台長補佐として出向するよう打診があってな。これはその資料として向こうから届いた書類の一部だ。たまたま古いものが紛れ込んでいた」
犹守というのは、黄蓮の遥か北東の山奥に位置する小さな集落の名称である。
そこには、天文や暦を司る司天台と呼ばれる役所のほか、先人たちにより周到に隠された古の霊宝があるとも伝えられており、朝廷の役人以外にもその宝を代々守り続ける一族とその弟子たちが住んでいる。彼らは楼蘭独自の古武術を伝承する一派である。
そして、ここは何を隠そう――。
「犹守って、確か堅海の実家ですよね」
「ああ。そしてこの司天台は遠い昔は大内裏の中に存在していた役所だ。当時の呼び名は『陰陽寮』。私の言いたいこと、分かるよな…?」
「なるほど。では、犹守に行けば何かまだ分かることがあるかもしれませんね…」
興味深げに書類を捲りつつ、愁は何度も頷いた。早速気が逸り始めた様子だ。
「だが、残念ながら今はそうまでして動く余裕がない。白露様の手前、あまり目立つ行動も禁物だ。実地踏査は後回しにせざるを得んだろう」
頷いて、愁はすっくと立ち上がった。
「そうですね…。では早速手持ちの書籍や書類の分析を始めます。また晩にお会いしましょう、十夜様」
「うむ」
「おいしい珈琲、ごちそうさまでした、瑞穂様」
山のような資料と本とを抱え、ぺこりと頭を下げると、愁はうきうきと部屋を出て行った。
「絵に描いたような学者だな、あいつ…」
十夜が苦笑する。
「あの…十夜様…。もしや、どこかお加減でも悪いのですか?」
「ん…?なぜ…?」
振り向くと、心配そうな顔がじっと十夜を見つめている。
「いえ…ちょっとそんな気がしたものですから…」
瑞穂は取り繕うような笑顔を見せた。
いつの頃からか、いつも傍にあるのが当たり前になっていた一途で素直なその瞳――。
再び胸に去来する睦の言葉に、十夜の心はまた揺れる。
堪らず抱き寄せた。よろめく拍子に倒れ込んだ細い体をしっかりと腕に抱きとめる。
「きゃ…っ」
瑞穂は小さく悲鳴を上げた。
「なあ、瑞穂。おまえ、甘いものは好きだったよな…?」
「あ…は、はい」
しがみ付くような格好で抱きすくめられている瑞穂は、ほとんど身動きを取ることができない。僅かに動く首を斜めにして夫の顔を見上げれば、ひどく寂しげな眼差しが彼方を睨んでいる。
しばし瑞穂は無言でその顔を眺めていた。
やがて――。
抱いた腕を不意に緩め、十夜は腕の中へと視線を落とした。
「うまい団子を食わせる店を見つけたんだが、今度一緒に行くか?」
「え…ええ。でも…それは――」
瑞穂は複雑な表情を浮かべた。
今まで、人前で二人が連れ立つことなど滅多になかった。教師と生徒という間柄のうちならば時々はそんなこともあったのだが、それは瑞穂がまだ幼かったがゆえに許された――というだけのこと。彼女が成長し年頃になってからは、陛下の手前、噂好きの宮の連中の手前…と、父・常盤から口がすっぱくなるほどに禁じられていたのである。従って彼らは今現在夫婦でありながら、揃って人前に出ることすら叶わなかったのである。
それを――。
「なに、構うもんか。ばれなきゃいいんだろ?」
そう口にした途端、瑞穂はほっと眉を解いた。
「うふふふ。またあなた、虚無僧に化けられるんですか?」
「ならばおまえは尼にでもなるか?そうすれば、大手を振って外を歩けるぞ」
だがそう言ったきり、十夜は目を伏せてしまった。叶うことではないと思っているからこその瑞穂の素振り――今の笑顔ですべてに気付いた。
まったく睦の言う通りだ。
思えば瑞穂は、ほんの子どもの頃から形振り構わず自分を慕い、年齢が云々と腰の引ける自分を蹴散らすが如く圧倒した女じゃないか。少なくとも、こんな不自由な生活に満足する玉ではなかったはずだ。
(ずっと私は…。何ひとつ分かってはいなかった…!!)
胸がざわつく。
不甲斐なさに腹が立つ。
こんなに近くで毎日彼女と顔を合わせていながら、その心を何一つ理解してやれなかった自分に激しく苛立つ――!!
「十夜様…?」
再び瑞穂が顔を覗き込んでくる。
しかし言葉は返せない。不平も言わず健気に耐える心を知ってしまった今は、くだらぬごまかしなど返せるはずがない…。
「……」
「やっぱり何かあったんですね?」
向けられた笑顔が痛い。温かく優しく…そして変わらず愛しい彼女の笑顔。この笑顔に、私はなんてむごいことを強いてきたのだろう…。
やりきれぬ思いで胸がいっぱいだ――。
「別に何もない…。ただちょっと…疲れているだけだ」
抱いた手に力を込めると、腕の中の瞳がまた憂う。逃れるように、十夜は唇を重ねた。
* * * * * * * * * * * *
遠くで犬の鳴き声が聞こえる――。
ふと之寿は目を覚ました。
台所の方から包丁の音と味噌汁の香りが流れてくる。障子越しに見る空の様子では、どうやら日暮れが近そうだ。
(なんだ…。あれからずっと眠ってたのか、俺)
ゆっくりと体を起こしてみれば、右肩がずきりと痛んだ。だが、固定されている右腕以外なら何とか動きそうだ。
ひどく気だるい。鈍い頭痛も残っている。之寿はふうっと長いため息をついた。
また犬の声が聞こえた。
なぜか先ほどより少し大きくなった…ような…。
「……?」
迫り来る気配に耳を澄ます。やがて、はっきりと耳に届いたのは、聞き覚えのある犬の甘ったれた鼻声と、そして――。
「そっちはだめよ!待って!待ちなさい!!」
慌ただしい爪音が板張りの廊下を掻きながら近付いてくる。絶妙に間合いを図り、障子を引いてやると――。
すぐさま飛び込んできたのは大きな白い犬であった。くたびれた赤い首輪からは引きちぎられた鎖が垂れ下がっている。
「はあ…。やれやれ…って――い…っ、痛!こら、徳王丸っ!暴れるな、少し落ち着け!!」
徳王丸と呼ばれた白い犬は、形良く巻いた尾をちぎれんばかりにくるくる動かし、興奮に息を弾ませながら愛する主人に圧し掛かっていった。
「馬鹿、やめろ!痛いって言うのに…!!ったく、怪我人を何だと思ってるんだ、こいつはっ!!」
それでも徳王丸は怯まない。喚き立てる之寿に構わず、夢中になって顔中を舐めたくるのだった――。
それでも、なんだかんだ不平を言いつつ嬉しそうな之寿である。左腕で徳王丸の首を抱え込むようにして、わしわしと毛むくじゃらの体を掻いてやる。
「あ…。あなた、起きていらっしゃったんですか…。ほら、もう…だめよ、徳王丸。こっちにいらっしゃい!」
直接首輪に手を掛け、多鶴はありったけの力で引っ張るが、徳王丸の巨体はびくともしない。
しかし、そうこうしているうちに徳王丸の興奮も収まり始めたようである。とうとう徳王丸は之寿と多鶴の間にちょこんと座り込んでしまった。
「徳王丸――。おまえ、鎖ぶっちぎって逃げてきちゃったのか…?」
頭を撫でてやると、徳王丸はゆらゆらと尾を振った。
「朝のうちに、琴陵先生のところへちゃんと預けてきたんですけど…」
「それはまた、えらく遠くまで引っ張って行ったもんだな。でもまあ、こいつにしたらひとっ走りか」
之寿はくすりと笑った。
「仕方ないさ。おまえがここを出るときに一緒に如月へ連れて行くんだな」
「でも…私…」
多鶴はしょんぼりと俯いて口ごもった。
「ちょっと待った。もう、行きたくない――なんていうのは無しだぞ、多鶴。昨日、何度も言ったはずだ」
彼に何があったのかは知らない。知らされていない――。
多鶴は昨晩の夫の姿を思い浮かべた。
荒く苦しげな息遣い。
肩に突き刺さった刃。
朦朧と疲れきった瞳。
おぼつかない足取り…。
昨日裏の仕事へ出かけていったはずの夫は、ついに何か良からぬことに巻き込まれたに違いない。でなければこんなことになるはずがない。あれほど家族を愛した彼が自分一人を残して如月へ帰れなどと言うはずがないのだ――。
「……」
多鶴は袖でそっと瞼を拭った。
「子どもたちをいつまでも放っておくわけにはいかない。それに、もうおまえ一人の体じゃないだろう?おまえが行かないと言うなら俺がここを出る。だが、怪我人にそういう酷なことをさせるわけか、おまえ?」
そう言って笑う夫は、まるで冗談でも言っているかのようだ。だが、そんなはずはない。これは、彼自身の身に危険が迫っているからこその判断。そうであるはずなのに…。
臨月間近の腹を両手で包み、多鶴は小さく頷いた。
「――分かりました。でも、あなた…必ず迎えに来てくださいね。きっとです。約束してください」
「ああ、きっとだ。約束する」
その時だ。蹲っていた徳王丸の耳がぴくりと動いた。
「誰か来たな」
「あ…はい。私が出ます。きっと渚先生だわ」
もう一度さり気なく瞼を拭い、多鶴は立ち上がった。
「思い込みは禁物だ。用心しろよ」
「はい」
多鶴の足音が遠ざかると、そろそろと之寿は布団を抜け出し、廊下側の障子に聞き耳を立てた。
僅かながら感じられた声は、どうも男のものらしい。しかも結構な若者。聞き覚えはない。
徳王丸の澄んだ瞳が、じっと之寿を見上げている。
(渚先生でも琴陵先生でもなさそうだな。一体誰だ…?)
不審に思いながら尚も様子を窺っていると、なんとこの男は家に上がり込んだようなのである。みるみる迫ってくる聞き慣れぬ足音に、之寿はぎょっと目を剥いた。
(な、何だ…!?何やってるんだ、多鶴はっ!こんな時に…!!)
床の間に隠してあった脇差を素早く掴み、之寿はあたふたと布団へ滑り込んだ。じっと息を殺し、とりあえずはまだ眠っている振りを決め込む――はずだったのだが…。
「こ…こら、あっちへ行け、徳王丸っ。寄ってくるな…!」
声を潜めて怒鳴ってみても当の徳王丸はどこ吹く風。それどころか、見ず知らずの人間が上がり込んでいるというのに唸りもしない。嬉しそうに鼻面を枕に押し付け、無邪気に息を弾ませるばかりである。
「番犬にすらならんとは…。情けない奴だな、おまえは…」
結局之寿は体を起こし、床の上で謎の来訪者を待つことにした。布団の下ではしっかりと脇差を握ったまま…。
やがて、じっと睨む先でほんの少し障子が開く。まず覗いたのは多鶴の顔であった。
「あの…あなた、お客様が…」
言うが早いか、障子は来訪者本人の手により開けられた。
刀を握る手に無意識ながら力がこもる。
果たして、そこに現れたのは…。
「お初にお目に掛かります、之寿様」
腰の刀を鞘ごと抜いて敵意のないことを示すと、男はその場にさっと跪いた。
「あ…あなた、水紅様のところの――右京様!?」
「見知っていただいていたとは光栄です」
改めてきちんと手を付き、右京は恭しく頭を垂れたが――。
「で、あの…失礼ですが、何しにいらしたんですか?」
あからさまに疎ましげな口ぶりが返ってくる。臣の予想したとおり、歓迎はされていないようである。
「はい。実は臣様の命で、今日から私と篁、それから藤季とでこちらの警護に当たらせていただくことになりました。以後、よろしくお願いいたします」
やはりこの気遣いは之寿の神経を刺激したようだ。
即座に眉間に不快の皺を寄せ、にわかに之寿は声を荒げた。
「はあ?何を勝手なことを…。警護なんて必要ありません!そんなことをしていただく義理もない!どうぞお引き取りください!!」
「でも、あなた…」
「大体あなた方、宮の近衛長様でしょう!?こんなところで油なんか売ってていいんですか!?」
遠慮がちに口を挟もうとする妻をも遮り、之寿は更に強気に声を張った。
「やれやれ…。臣様から伺ったとおりのお方だな…」
ついぼそりと毒づくと――。
「何です!?」
喧嘩腰の瞳が睨みつけてくる。もはや、右京の一挙手一投足が癇に障るらしい。
「いえ、別に。しかし、お言葉を返すようですが、私もお仕えしている主人からの命令ですので、そう簡単に引き下がるわけには参りません。何と仰られても任務には当たらせていただきますから」
右京は平然と言い放った。彼の性格を多少なり聞かされていただけに、少々突っ撥ねられたぐらいでは動じることもない。
どうやら右京は彼を挑発する方向へと作戦を変えたようである。
「だから迷惑だって言ってるだろう!?あんたね…とっとと帰って、その主人とやらにしっかりと言ってやりな!大きなお世話!我が身も家族もちゃんと自分で守ってみせる!余計な気を回す暇があったら自分の心配をしろ――ってな!!」
急に襲った眩暈は、大声を出したせいだろうか。不意に之寿はがくりと崩れ、左手で眉間の辺りを押さえた。
慌てて多鶴は夫の体を支えたが――。
内心、右京は呆れてしまっていた。
「ええ、承知しました。ですが之寿様、そのお体で一体どうやってご家族を守るおつもりなんですか?それに、その布団の中に仕込んでいらっしゃる刀――それにしたって、利き腕でもない左でどれほど振れるものやら…」
ため息交じりに呟く。
すると――。
「何だと貴様!!ならば今ここで試してみるか!ええ!?」
あろうことか之寿は、まんまと右京の策に乗せられてしまったようだった。売り言葉に買い言葉とばかりに、かっと逆上した之寿は寄り添う多鶴をも振り払い、抜き身の脇差を右京の鼻先に突きつけた。
治まりかけていた頭痛がまたこめかみで騒ぎ出す。肩の痛み止めだってとっくに切れている。
堪らず之寿は表情を曇らせた。相当辛そうである。
「大人げのない方だな…」
右京が肩を竦めたその時であった――。
「もう!いい加減にしてください、あなたっ!!」
あたかも悲鳴のような金切り声は、日頃の彼女の慎ましさからは想像もできないほどの激しさを露わにしていた。
「!」
「!?」
あまりの迫力に二人ともぴたりと動きを止める。
「私の気持ちも少しは考えて!お願いよ!!」
多鶴は両手で顔を覆った。声は既に涙に震えている。
「お…奥様、申し訳ありません。私の方こそつい…」
慌てて向き直った右京へ、多鶴は言った。
「あの…右京様、どうかお願いします。この人、ほんと意地っ張りで…一度言い出したらなかなか聞かないところもあるんですけど、でも…」
「な…!?多鶴、おまえ…!!」
「これでいいんです!!もう決めましたっ!たまには私の言うことを聞いて!!」
弾けんばかりに熱る之寿をぴしゃりと制し――。
「どうか…よろしくお願いします、右京様…」
ひしと床に手をついて右京を見上げた。
「はい、お任せください。全力で事に当たらせていただく所存です」
すっかりふて腐れる主人を案じてか、また徳王丸が之寿の顔を舐め回している。
「…ったく。何なんだ、どいつもこいつもっ」
ぶつくさと毒づき、之寿も徳王丸の背中をがしがしと撫で続けた。
もはや勝負はあった――。
「あんた…。うちへ来るなら軍服はやめろ」
「あ…そ、そうですよね。気が付きませんで申し訳ありませんでした。明日からは気を付けます」
「……」
謝って見せても、そ知らぬ振りだ。
(これは確かに…苦労しそうだな)
右京は、密かに苦笑するのだった。
* * * * * * * * * * * *
ようやく都に辿り着いた時には、既に陽はとっぷりと沈んでいた。街のそこかしこから漏れる灯りが、とぼとぼと歩く二人の影を足元に映し出す。
どこからか漂う夕食の香りに気ばかりが逸る飛馬だったが、父の言いつけを破ってひとり戻って来てしまった事実を思うと、自然と足取りは重くなっていった。
「すー兄ちゃん、やっぱり怒るよね…」
飛馬はしょんぼりと肩を落とた。
「大丈夫。紫苑も一緒にお父様に謝って差し上げますから、元気を出してください、飛馬様。ね…?」
紫苑はにっこりと微笑んだ。
この温かな笑顔に救われる。飛馬は力なく笑い返した。
「ねえ…紫苑は父ちゃんとか母ちゃんとかいないの?」
じっと見つめる素直な瞳に、紫苑は一瞬返す言葉に戸惑った。
「ええと…そうですねえ…。父上様とお呼びして良いものか分かりませんけど…そういった方はありました。でも、もうずっと前に亡くなってしまって――。先ほどお話した遊佐様という方が、今では母親のようなものですね」
「あのね…俺の父ちゃんも死んじゃったんだ。事故でさ…」
「え…?でも…」
紫苑は目を丸くした。
「すー兄ちゃんはさ、本当の父ちゃんじゃないんだ。母ちゃんの二人目の旦那。さっき話しただろ?」
小石を蹴り蹴り呟く様は、まるで独り言のようにも聞こえる。飛馬の視線は、先ほどから足元ばかりに向けられていた。
「あ…そうでしたね。それで飛馬様の命の恩人…でしたよね」
「うん。でもさ、俺、酔っ払っちゃあ母ちゃんのこと殴ってばっかりいた本物の父ちゃんより、すー兄ちゃんの方がずっといいよ」
紫苑は、俯く飛馬の顔を覗き込んだ。
「でしたら、ちゃんとお父様とお呼びして差し上げたらどうです?お喜びになりますよ、きっと…」
「うん…そうなんだけどさ…。でも俺、すー兄ちゃんが好きだからさ…」
飛馬は僅かに顔を上げた。
「父ちゃんなんて呼んだら、本物の方を思い出しちゃうんだよな。何か…嫌なんだ。すー兄ちゃんもさ、呼びたくなったらそう呼べ――って言ってくれるしさ…。あ!ほら、もうこの先だよ、俺ん家…」
しかしその元気も束の間、ついに飛馬の足は動きを止めてしまった。
大好きなすー兄ちゃんに嫌われてしまうかもしれないと思うほど、あと数歩の勇気がどうしても出ない。だが、家はもう目の前だ。
「飛馬様」
ためらう背中をそっと押してやっても――。
「う…うん」
何とか返事はするが、やはり足のほうは動かない。
「大丈夫ですから…。ね?行きましょう?」
「うん…」
生返事ばかりが口をつく。昼間の威勢はどこ吹く風。まったく浮かぬ顔の飛馬であった。
促されるまま辿り着いた勝手口の前で、再びまごまごとごねていると、背後からいきなり見知らぬ声が掛かった。
「こちらに何か御用ですか?」
振り向けば、がっしりした長身の男が二人の後ろに立っている。男は、堅海がいつも着ているものと同じ軍服を身に付けていた。
「あ…。堅海と同じ――」
思わず紫苑が声を漏らす。
「おや、お嬢さん。堅海をご存知なんですか?」
男は微笑み、右手を差し出した。
「彼は、私の同僚で友人です。あ…いや、面目ない。申し遅れましたね。私は光の宮・白露様の近衛――篁と申します。どうぞよろしく」
差し出された手を握り、紫苑もふわりと微笑んだ。
「紫苑と申します」
「俺、飛馬。そんで、ここ…俺ん家」
飛馬は上目遣いに篁を見上げた。目が合うと、篁はにっこりと顔を綻ばせた。
「之寿様のご子息でいらっしゃいましたか。以後お見知りおきを」
その時である。
三人は妙な物音に顔をしかめた。聞こえてきたのは、板戸をカリカリ引っ掻く音と、動物のひどく甘えた鼻声――。
「うわ!と…徳王丸だ…!どうしよう、俺がここにいるのがばれちまう!!」
おろおろと慌てる飛馬に、篁は首を傾げた。
「ご自分のお家なのに、ばれたら困るんですか?」
「だって怒られるよ、絶対!」
声を潜めて叫ぶと、飛馬は行く当てもないのに駆け出そうとする。慌てて紫苑はその腕を捕まえた。
「大丈夫です、飛馬様!ちゃんと事情を説明すればお父様だって――」
「???」
自分の家の前にいながら、なぜ飛馬がこうも慌てるのか、さっぱり理由が分からない。篁は一人で首を捻っていた。
やがて、板張りの扉が独りでに開いた――。
「ほう…。では聞かせてもらおうか、その事情とやらを」
不意の低い声に飛馬は大きくぎくりと肩を揺らした。恐る恐る振り向けば、そこにあったのは…。
「!!」
父・之寿の冷ややかな眼差しであった。傍目にも、ほんの一見しただけで、その不機嫌振りが良く分かる。
「あ…」
思わず挨拶をすることも忘れ、呆然と紫苑は之寿を見上げるのだった。
僅かな隙に体を捻じ込み、之寿の脇を擦り抜けてきた徳王丸が、思い切り飛馬に抱き付いた。その衝撃で飛馬はその場に尻餅を付いたが、徳王丸は構わず鼻を甘く鳴らし、嬉しそうに飛馬の顔を舐めたくっている。
しかし――。
肝心の飛馬の視線は目の前の父親へ向けられたまま、すっかり凍りついてしまっていた…。
「す…すー兄ちゃん…」
「……」
縋る思いで呼んでみるが返事はない。向けられた表情は飽く迄も冷たい。そんな父の姿が、一層飛馬を追い詰めてゆく。
「あ…。あの…」
「……」
ひたすら見下ろす瞳に映る飛馬は、小刻みに体を震わせていた。
「あの…ね、俺……えっと…」
「……」
何とか言い訳をしたいところだが、どうやらそれも父の望むところではなさそうだ。
まさか温かな言葉など期待していなかった。しかし、之寿にだけは嫌われたくない飛馬にとって、この無言の仕打ちは大声で叱り飛ばされるよりもずっと辛い。
「すー兄ちゃん…。俺のこと…怒って…る?」
「ああ、怒ってるさ…」
見開かれた飛馬の瞳に、みるみる涙が湧いた。
こうなることは分かっていた。そう――分かっていたはずなのに、最愛の父から浴びせられたたった一言は、小さな飛馬の胸を押し潰しそうなほどきつく締め付けた。
「あ…あの、お初にお目にかかります。篁と申します。右京の方から、詳しいお話をさせていただいているはずですが…」
おずおずと気遣わしげに口を挟む篁。だが俄仕立ての助け舟は、どこか頼りなくぎこちない。
「ええ、伺っておりますが――というか、あなた、初対面なんかじゃないでしょっ」
どういうわけか突き刺すような反応が戻ってきた。
てっきり息子に腹を立てているものと思っていたのに、篁に対する態度までひどく手厳しい。どうにも状況の呑み込めぬ篁は、ただ無闇にうろたえるのであった。
「そ…そうですね…。つい昨日、遠目ながらお会いしたばかり…ですよ…ね、一応…」
之寿はふんと鼻を鳴らした。
「で――?飛馬、こちらは?」
「あ!あの…如月から参りました。紫苑と申します」
慌てて紫苑はぺこりと頭を下げた。
「あのね、紫苑は俺が悪い奴に絡まれていたところを助けてくれたんだ…!」
名を呼んでもらえたのが嬉しくて、飛馬はぱっと顔を輝かせたが――。
「何…?」
冷ややかな眉がぴくりと動く。やはりそう簡単には許してもらえそうにない。ぎろりと睨み返されてしまった飛馬は、再びしゅんと小さくなった。
「あの…。ええと…」
見かねた紫苑が口を開いたその時――。
「とりあえず中に入れ、飛馬。みなさんもどうぞ…」
* * * * * * * * * * * *
三人はそのまま居間へ通された。
比較的広い居間の隅には、まるでそこに追いやられるかのようにちんまりと正座した右京がいる。篁と目が合うと、右京は情けない苦笑を浮かべた。
「……?」
篁は右京の隣にそっと腰を下ろした。
「あれあのとおり、なかなか難しいお方のようだぞ」
目線でこっそりと之寿らを指しながら、右京は篁の耳元に囁いた。
部屋の真ん中では何やら込み入った話が始まるらしい。居並ぶ両親の前で小さな体を更に小さくさせた飛馬と、心配そうにそこに付き添う紫苑――どうも険悪な感じだ。
二人はちらちらとそちらを気にしながら、密やかに話を続けた。
「ああ――。どうもそのようだな。でも、悪い御仁ではなさそうだ」
「そりゃあそうさ。臣様のご友人だからな」
応えて、右京は笑った…が――。
どうも之寿親子が気になって仕方がない。会話こそ噛み合っているが、二人の目と耳の集中力は、丸々、部屋の中央へばかり注がれているようである。
「何にせよ、今日はご挨拶に伺っただけだ。それが済んだら私はすぐに宮へ戻る。交代には明朝、藤季を来させよう。そのときに今晩の――例の会合の内容も分かるようにしておく」
「了解した」
事務的な連絡をさっさと済ませると、二人は固唾を呑んで中央の親子を見守った。
重い沈黙の後、意外なことに最初に口を開いたのは多鶴だった――。
「飛馬…」
その思いがけず穏やかな声に、飛馬は少しほっとしつつ顔を上げた。
しかし、いつも優しい母の表情はひどく硬い。泣いているのか、怒っているのか――。何とも複雑な母の顔に、自分の犯した過ちの重大さが染みる。自分の浅はかな行動は、最愛の父母に多大な心配をかけたばかりか、深く悲しませてしまったのだ…と、今更ながら飛馬は気付いた。
「母ちゃん、あの…俺…」
「お母さん、昨日あなたに何て言ったかしら?」
多鶴は毅然と眉を結んだ。
「あ…」
飛馬は俯き、膝の上でぎゅっと拳を握った。迂闊に手を解けば、涙がこぼれてしまいそうだった。
「え…えと…たか兄ちゃんたちと一緒に…ばあちゃんの所へ行くように…って――」
恐る恐る、まるで消え入りそうに答える。
「で、おまえはここで何をしているわけだ?」
入れ替わりに低い声が問いかける。
「あの…」
飛馬は咄嗟の言葉に詰まった。
その時。
「……」
震える肩にそっと触れた柔らかな手…。振り向けば、紫苑が励ますように微笑んでいる。
お陰でようやく意を決し、飛馬は口を開くことができた。
「俺――。俺…っ、すー兄ちゃんのことが心配で、それで…っ」
半泣きになりながら必死に訴えた。今、胸にある思いを全部、吐き出すように…。ぶつけるように――。
「だって、昨日あんなにひどい怪我をして帰ってきて、顔なんか真っ青でふらふらだったし、それで…。それで、死んじゃったらどうしようって…!俺たちが、ばあちゃん家に行ってる間に、もしも何かあったらどうしようって…そう思って、俺――!!」
「……」
それでも之寿の顔色は変わらない。見つめる瞳も膝の手も…何一つ、動かない。そのまま、時間までもが止まってしまったようだった…。
そんな二度目の沈黙の後、ようやく之寿は、深いため息をついた。
「博音や高基はどうした」
「うん…。一緒に来てくれると思ったけど誰も来なかった。俺、走ってきちゃったし、篠乃、泣いてたし…それでなのかもしれないけど…。時々は立ち止まって待ってみたけど、誰も来なかった…」
「そりゃあそうだろう。博音には、子どもたちに傷一つ負わせたら承知しないと、きつく言っておいたからな。高基らを放り出して、おまえ一人を追いかけるわけにもいかなかったんだろうさ。当然だ」
「……」
返す言葉が見つからない。ぎゅっと唇を噛み締め、飛馬は神妙な顔をして俯いていた。
「つまり、おまえだけが、父ちゃんの言うことを聞かなかったわけだな」
どくん!と大きく胸が脈打つ。飛馬は膝に置いた手を固く握り締めた。
そして――。
「でも…俺――」
「言い訳をするな、飛馬!それで危ない目に遭ったんだろう!?父ちゃんの言いつけを無視して勝手な行動をした挙句、何事か危険な目に遭って…それでこの子に助けられた。おまえ、さっき自分でそう言っただろうが!!」
ついに荒げられた父の声に、全身がびくりと強張った。大粒の涙が再びぼろぼろと頬を伝い、その度に飛馬は何度も肩をしゃくりあげた。
「ごめん、すー兄ちゃん…。ごめん…なさい…」
「博音も高基も伊織も篠乃も――。今頃みんな、おまえのことを散々に心配しているだろう。如月のばあちゃんだって、おまえの姿だけが見えなければ、それは心配なさるだろうさ!それでおまえ、たまたまこの子が来てくれたからこそ、今こうしてここにいられるが、彼女がもう一歩遅れていたらどうなっていた!?それでおまえの身に何かあったら、俺や多鶴…おまえの兄弟たちも、一体どうすりゃいいんだ!!」
之寿は更に激しく声を絞り、平手で床を殴りつけた。
飛馬を見据えているのは、義理の父親のそれは真剣な顔――。大声で叱り付けるその迫力ではなく、自分のしでかしたことの大きさでもなく、ただ本気で自分を叱ってくれる父のその姿に、飛馬はまた涙をこぼした。
「それに、おまえのわがままは、初対面の紫苑さんに大変なご迷惑をかけたばかりか、彼女の身まで危険に晒したんだぞ!分かっているのか、飛馬!!」
「ごめん…本当にごめんなさい…。すー兄ちゃん…母ちゃんも、紫苑も…ほんとに…ほんとにごめんなさい…!!」
両親へ頭を下げた後、今度は紫苑へ向き直り、飛馬はまた頭を下げた。
「あっ…あの、迷惑だなんて…」
厳しい怒号にすっかり圧倒されていた紫苑も、ここでようやく我に返ることができた。
「紫苑もここまでご一緒していただいてとても助かりましたし、道すがらいろいろなお話も伺いましたけれど、飛馬様、お父様やお母様のことを、本当に心配していらして…。それに、心から反省もしていらっしゃいますし…ですから、その…」
之寿の眼差しは、いつしか紫苑へと向けられていた。何の罪もない紫苑でさえ、今しがた目にした光景を思えば、ついどぎまぎしてしまう。
激しくしゃくりあげる飛馬の肩を抱くと、恐る恐る紫苑は瞳を上げた。
「あの…お許しいただくわけには――」
すると、突然姿勢を正して向き直り、之寿は静かに床へ手を付いた。
「申し遅れましたが、紫苑さん。この度は、本当に何とお礼を申し上げたら良いか…。また、愚息の勝手が見ず知らずのあなた様までとんでもないことに巻き込んでしまい、誠に…お詫びのしようもありません」
之寿は深々と平伏した。
「すー兄ちゃん…。わ…!!」
ほっと顔を綻ばせたところへ伸びてきた手が、飛馬の頭を思い切り床へと押し付ける。ごん!という鈍い音とともに、飛馬は無様に床にへばり付いた。
「そ…そんな…。どうかお顔を」
あたふたと戸惑いながら、紫苑の顔にもようやく安堵の色が見えた。部屋の隅では、右京と篁も胸を撫で下ろしている。
「いえ、心より申し訳なく、そしてそれ以上に今は感謝の思いでいっぱいです。本当にありがとうございました」
之寿はなかなか顔を上げようとしなかった。隣で多鶴も頭を垂れている。
「飛馬様…良かったですね」
「うん…!」
飛馬は、真っ赤に顔を染め、照れくさそうに歯を見せて笑った。
「お聞きしていたとおり、とてもお優しくて…素敵なお父様ですね」
「う…うんっ!」
振り向けばいつも通りの母が優しく微笑んでいる。堪らず飛馬は母の胸に飛び込んだ。
「母ちゃん…!」
「もうこんなことはやめてね、飛馬。お母さん、ほんとにびっくりしたんだから…」
「うん…ごめんね…。ほんとにごめんなさい」
髪を撫でる母の手に、飛馬は何度も頷いて答えた。その拍子に、また涙がこみ上げた。
そうして、ついに――。
やれやれと肩を竦め、ようやく之寿は眉を解いた。
「ほら…。おいで、飛馬」
左の手を広げてやると、素直に飛馬は飛び込んできた。小さな身体がまた震えている。あふれた涙はもはや止まりそうにない。
「す…兄ちゃん…!すー兄ちゃん…っ!!」
飛馬は心からほっとしていた。しがみつく手を一層強く握ると、懐かしい鼓動が耳に伝わる。初めて出会ったあの日と同じ温もりは、ちゃんと今もここにある…。
飛馬はそっと瞳を閉じた。
やっぱりこの人が父ちゃんだ。俺の父ちゃんはこの人だけだ…!!
「ほんとに、いつまでたってもちっちゃいままだな、おまえは。男のくせにぴーぴー泣くな!」
之寿はくすりと笑った。
「おかしいと思ったんだよな…。俺のあんな姿を見ておいて、おまえが何も訊かず黙って出て行くなんて、有り得ないじゃないか。なあ…?」
「……」
温かな腕の中で、ぎゅっと額を押し当てたまま、飛馬はただ何度も何度も頷いていた。
元気そうで良かった。
嫌われてなくて良かった。
いつものすー兄ちゃんで、本当に良かった…。
「飛馬…。一人ぼっちで怖かったろ。ごめんな…」
「うん…」
静かに目を伏せ、之寿は愛しい息子を抱いた手に力を込めた――。