13//密謀(みつぼう)
千種の動向を探るうちに浮かんだ人物が二人。
一人は、闍彌――。
新進気鋭の易者で国籍は不明。年齢不詳。男性。ここ数年で、にわかに名を売り出した人物だ。いくら調べても、家族構成も交友関係も一切が分からない。だが現在、徂徠という名の貴族の屋敷に抱え上げられているらしい。
この二人目の人物・徂徠は、成り上がりの貴族であるようだ。こちらも男性。年齢は六十代前半。元々は都の片隅で小さな骨董の店を経営していたはずが、七~八年ほど前に、突如この場所に大きな屋敷を構えた。その金の出所は不明。周囲の人物には、舶来の骨董でひと山当てた――などと漏らしていたというが、果たしてそれが真実か否か…。兎にも角にもその時に、半ば財力にものを言わせるような形で貴族の地位を得たらしい。
ようやくそこまでの情報を掴んだ之寿は、とりあえず、都の外れにあるという問題の屋敷を目指した。聞いたところによると、その付近一帯がその屋敷の所有者・徂徠の土地であるらしい――ということは油断できない。その敷地内に何があって、どんな仕掛けが潜んでいるかも分からぬからだ。
(大体、素性の分からぬ易者を抱えたぽっと出の貴族など…。いかがわしいことこの上ないじゃないか)
胸の内で毒づきつつ、やがて問題の屋敷へ通じる小道へと辿り着いた。
すると。
「ん…?」
前方の藪の中で誰かが屋敷を窺っている。
茶色がかった黒髪を下ろし、質素な生成りの小袖と鉄紺の袴を纏った挙動の怪しい人物だ。こちらに背を向けているので、性別までは判断しかねるが…。
(しかし、あれが女だとしたら結構でかいよな。俺といい勝負じゃないか?)
近付いてみると、気配を察したのだろう、藪の中の人物は更に深く身を沈めた。恐らく本人はうまく隠れたつもりなのだろうが、はっきり言って丸見えだ。
(そう頑張られても、まる分かりなんだがな…)
このがさつな身のこなしから察するに、どうやら自分のような斥候や間諜の類ではなさそうだ。
之寿は苦笑した。
「あの…こんにちは」
「!」
声を掛けてみれば、ぎくりと肩を揺らし、問題の人物は振り向いた。
だが、その人物は――。
「あ!あれ…!?ひ、ひょっとして、あなた、愁様!?」
うまく隠れたはずなのにあっさり見つかってしまった。その上、いきなり名前を呼ばれて――。
「え!あ、あの…失礼ですが、その…ど、どちら様でしたでしょうか…?」
驚いたのは、むしろ愁である。茂みにしゃがみこんだ愁は、強張ったまま目を白黒させるのだった。
「あ…。どうもこれは申し遅れました。私は東一条三坊で孔雀堂という漢方薬店を営む薬師。名を之寿と申します。あの…臣様のご紹介で、篠懸様のお薬をいつもご用意させていただいておりますが――」
にわかに恐縮して、之寿はぺこりと頭を下げた。
「く、孔雀堂のご主人!?いや…あの、初めまして。いつもお世話になっております」
慌てて愁も立ち上がり、丁寧にお辞儀をを返す。
「すみません。知らぬこととはいえ失礼しました。こうして実際にお顔を拝見するのは初めてのことでしたもので…。あ…でも、孔雀堂さんはご存知なんですね、私のこと…?」
愁は首を傾げた。
「ええ…まあ。個人的な趣味――と申しますか、宮の学者様方に憧れる余り、何度か内裏にも足を運んでおりますので…。あと、軍医の渚様のところで、時々はお勉強もさせていただいておりますし、臣様と睦様には、とても懇意にしていただいていますしね。高名な学者様のお顔は粗方存じ上げておりますよ。一方的に…ですけど」
之寿は、商売人らしい人懐こい笑顔を覗かせた。
「そうでしたか。ではまた宮でお会いできるかもしれませんね…。
あ…!そうそう、篠懸様のお薬、本当に良く効いて助かっております。何ですか、以前に他国から取り寄せていたお薬よりも、ずっと早く胸が楽になられるみたいで…。あのお薬、全然苦くないのだそうですね。すっきりと甘くてとても飲みやすいと、篠懸様がそれは喜んでいらっしゃいましたよ」
幾分緊張が緩んだか、愁は屈託なく笑った。
「それは良かった…。服用されるのが篠懸様とお聞きしていたので、舌触りと味の方は私なりにちょっと工夫したんです。
ところで――。愁様は、こんな藪の中で何をしていらっしゃるんです?それに、その眼鏡…」
そう口にした途端――。
「!!」
あたふたと眼鏡を外し、愁はそれを袖の中へ隠してしまった。
「いや、これはその…別に…」
あからさまな狼狽ぶりが、之寿に強烈な違和感を与える結果となったことは言うまでもない。
(何なんだ、この慌てよう…?宮の歴史学者が、一体このようなところに何の用がある?それに確か――)
之寿はまじまじと不審の目を注いだ。
「変だな…。確か愁様は今、宮にはいらっしゃらないと耳にしたような――。私の勘違いかな?」
「!」
愁の胸がびくりと跳ね上がった。
今の愁にしてみれば、この人物――之寿があの屋敷や千種と関わりがないとは言い切れない。まして既に、このような場で姿を目撃されてしまっているのである。疑うような彼の視線も気になる。
さて、ここで何と答えるべきか…。
「ちょ、ちょっと所用で…」
まずは無難な返事をしたつもりの愁だった。
「え…?この藪の中に、用事…ですか?」
とはいえ、今現在、之寿も裏の仕事の真っ最中だ。本当なら愁などに構っている暇はない。
(だが、この様子…何だかとても気になる…)
仄かに湧いた興味から、之寿は、ほんの少し意地悪をしたつもり――だったのだが…。
「あ、あの…それは…」
首を傾げる之寿の前で、思いがけず愁の顔色はどんどん曇ってゆくのである。
都では、品行方正、冷静沈着、そこに加えて温柔敦厚の好人物として通っている彼のこの怪しげな素振り。何とか表面だけは取り繕っているつもりらしいが、相当焦っている様子だ。
元々紗那の斥候をしていた之寿だけに、観察眼にはちょっとばかり自信がある。殊更、人の心の変化には敏感だ。
(おやおや。どうやら余程のことらしいな…。ま、このぐらいで勘弁しておくか)
之寿はにっこりと破顔した。
「この辺りで何か面白い出土でもありましたか?」
「え!ええ、まあ…そんなところです…」
互いがほっと安堵したその時、ふとした気配に二人は屋敷を振り返った。
ところがである。
「!!」
「…っ!!!」
視界に飛び込んできた異様な光景に二人はぎょっと目を剥いた。
そして。
(と…十夜様――!!)
かの人物の名を心で呟き、愁は額を押えた。まるで疲れがどっと噴き出すようだった。開いた口が塞がらなかった。
(な、何だ…?)
愁の素振りから心象の変化を読み取った之寿は、変わらずの注意を残しつつ、悠然とこちらへ近付いてくる怪僧へと素早く視線を走らせた。
そして。
(どうやらこの二人、知り合いらしいな…)
之寿の五感はまさしく真実を見抜いたのである。
それにしても――。
どういうわけか問題の巨大な虚無僧の足取りは、傍目に見ても不似合いなほどご機嫌に弾んでいる。更に驚いたことに、その虚無僧の両手いっぱいには、大量の野菜や果物がしっかりと抱えられていたのだった。
(ま…まさかあれが全部巻き上げた施しか!?どう見てもせびり過ぎだろうに!…つか、でか!)
自ずと顔が引き攣った。
そ知らぬ素振りで今、まさに彼らの横を過ぎてゆく虚無僧は、身の丈、七丈《約二メートル》はあろうかという大男だ。之寿とは顔一つ分は違う。
何気なく隣を見ると、なぜか愁は恥ずかしそうに俯いている。
(ははあ…この人物、今日の愁様のお連れか…。ということは、まさか――)
遠ざかる巨僧を気にして、愁は何度も目を泳がせた。
(あの人物、ひょっとして堅海様?いや、十夜様か!!しかし、そもそもここでお二人は、一体何を…?それにお二人のこの奇妙な格好は一体…)
どうにも分からない。
高名な歴史学者と政治学者の二人が、このような怪しげな貴族の屋敷で一体何を?しかも二人のこの妙な変装は何だ?
(内裏であれほどの巨体をお持ちの方と言えば、堅海様か十夜様ぐらいしかおられぬはず。しかし、愁様がこうして篠懸様の元を離れている以上、その近衛長の堅海様までもが皇子様を放り出してここに来ているとは考えにくい。となると、あの人物は十夜様ということになるが――)
「あの…そろそろ私はこれで…」
既に愁は心ここに在らずといった様子だ。
「あ…はい。ではまた…」
そそくさと逃げ去ってゆく背中を見送りながら、ぼんやりひとりごちる。
「しまったな…。握手をしてもらうのを忘れた…」
* * * * * * * * * * * *
早足に少し歩いてからそっと後ろを振り返ってみる。ここまで来れば之寿の姿は見えないだろう。しかし、先を行くはずの十夜の姿の方もまた、愁からは見えなかった。
彼の歩く速度は速い。それは出掛けに嫌というほど知った。
慌てて愁は駆け出したが――幸いそれはほんの暫くのことで、今度はすぐに十夜を捕まえることができた。
「十夜様!」
振り向いた巨僧は身を屈め、頭の大きな天蓋をこちらへ差し向けた。両手の塞がった彼の代わりに大きな天蓋を外してやれば、案の定、満面に喜色を湛えた十夜の顔が現れる。
「土産ができた」
胸に抱えた野菜を見せ付けながら、十夜はにっと口角を吊り上げた。
ちょっと様子を見に行くだけ――などと言いながら、屋敷の内部へまで入っていってしまった十夜を内心ではかなり心配していた愁だけに、彼のこのご機嫌ぶりには相当拍子抜けしてしまったようだった。
「あ…あの…。それ、どうしたんですか?まさか十夜様、盗んで――」
「あのな、曲がりなりにも人の上に立つ宮廷学者であるこの私が、そのようなあくどい真似ができるか、馬鹿っ!」
「じゃあ…」
「ふふん。これはな、まさに私の人徳のなせる業だ」
「は?」
愁は複雑な表情を浮かべた。
十夜の話を掻い摘むとこうだ。
まんまと門前に出てきた下人に布施を求めたら、今、屋敷の主人は大事な客人があって手が放せないので、その娘に伺いを立ててくる――と答えた。そこで、特権階級である虚無僧に無礼を働く気か、と責め更に、このような場でなく、せめて玄関口で待たせろ、と言うとすんなりと敷地の中へ案内してくれた。
素直についていくと、その敷地の奥に、確かに見覚えのある青糸毛の牛車が停まっている。相当奥まった所だったので、さすがに白露らの姿まで確認できたわけではないのだが、まず間違いはないだろう。
玄関の上がり口に腰掛けて待たせてもらっていたら、問題の貴族の娘、珊瑚とその奥女中の由比という人物が出てきた――。
「ちょっと待ってください、十夜様。なぜまたお女中の名前までご存知なんです?」
抜け目のない突っ込みである。思わずぎくりとたじろぐ十夜であった。
「だ…大の男が年頃の女性を前に名を訊かずにおいたとあっては、そのお方に申し訳がないからだ」
「はあ?」
わけの分からない理屈である。得心がゆかぬとばかり、愁は一層の疑念の眼差しを送った。
「う…」
先刻の道端でのやり取りが脳裏を掠める。ここでこれ以上愁の不審を買うのは得策ではない――十夜はそう考えた。
「珊瑚様よりも由比様の方が数段美しかったからだっ」
「また正直で結構ですねえ…」
これ見よがしの呆れ顔で愁は長いため息をついた。
十夜の話は続く。
振る舞われた茶や茶菓子など馳走になりながら、得意の口説き文句を浴びせたら、五十香同様、至極あっさりと珊瑚は十夜の手の内に堕ちた。
後は簡単だ。十夜が何事か褒めるたびに、彼女は次々に由比に命じ、米や食べ物を用意させた。そして、どうか御勤めの足しに…などと言って、珊瑚自身がこしらえたという舶来の珍しい焼き菓子まで持たせてくれたと言う。
更にさすがと言うべきか、十夜は必要な情報もいくらか聞き出していた。
「お屋敷の持ち主は、徂徠様と仰る骨董商上がりの貴族だ。白露様――とはさすがに仰らなかったが、かなりのお偉い人物がお越しになっているとは言っていた。もちろん例の闍彌とかいう易者も同席している。そしてもう一人、闍彌の息子もいると言っていた。恐らくこいつが…」
「千種ですか!?」
十夜は頷いた。
「事前に睦や右京から聞いていた千種の風体と照らし合わせると、どうもそのようなんだがな…。といって証拠があるわけでなし、本人の姿を確認したわけでもなし――正直どうとも言えん。仮に目にしていたとしても、元々私はその顔を知らぬしな…。結局、問題のその息子の名までは訊き出せず終いだ」
十夜が肩を竦めると、愁も悔しげにため息をついた。
「だがな、こうも言っていたぞ。闍彌は易者で予見をするが、息子の方はその結果を好転させる手助けをすると。まるっきり遊佐様の話と辻褄が合うだろう?
つまりだな、白露の依頼で予見をした易者・闍彌と、その結果を都合よく動かすことのできる息子・千種――いや、千種の実体は結構な齢の女だということだったな。ということは、もしもこの息子が千種本人だったとするならば、当然、闍彌の息子だなどと言うのは嘘だろう。闍彌の女か…あるいは仕事上の相棒――と言ったところか。この二人が結託して、白露の野望を支えているとしたなら…」
「……」
愁はおもむろに眉を曇らせた。
篠懸皇子を襲ったと思しき敵が、すぐそこにいる…。そう思うほどに、急に篠懸のことが思い起こされた。
いや、大丈夫だ。堅海も他のみんなもお傍についている。そして何よりあそこには強力な霊能力者・遊佐本人が居て、強固な結界も張られている。
大丈夫…きっと大丈夫。
元気に自分の帰りを待ってくれているはずだ…。
何度も自分に言い聞かす。
「どうする――?ここで千種が出てくるのを待つか?」
「いえ、それはちょっと…。この付近にいるのは我々だけではないですから…」
待てるものなら待ちたいが、あの之寿とかいう人物がどんな人間なのか分からない。また、何の目的でここにいたのかさえ。
先ほどのように何事か勘ぐられるのも厄介だ。
「ああ、さっきの男か…。あれは確か、時々宮へ来る薬屋の店主だろう?知り合いか?」
そう言いながら、十夜は抱えていた野菜を次々に愁の手の天蓋の中へと放り込んだ。そうして、再び天蓋を受け取ると、やけに馴れた手つきでさっさと風呂敷に包んでゆく。
「いえ、あの方と実際にお会いしたのは今日が初めてです。あの…篠懸様のお薬をお願いしている方なのでちょっとご挨拶をと…。十夜様はご存知なんですか、あの方?」
「まあ、顔だけはな。どうやら臣の知り合いのようだが…」
「睦とも渚様とも付き合いがあると言っておられましたよ」
「ふうん…。孔雀堂の上得意は内裏というわけか。どうせ全部あいつの紹介だろうがな」
十夜はよいしょ、と風呂敷を背に担いだ。
「臣の友人ということなら、そう警戒することもないのかもしれませんが、ここは念には念を入れた方が」
「そうだな。では今日のところは帰るか…」
西の空に、ほんのりと赤みが差し始めている。
* * * * * * * * * * * *
愁と別れた之寿は、徂徠の屋敷へと向かった。
「こんにちはーっ!」
門前で大声を上げると、程なくして、何ともしょぼくれた感じの小男が出てきた。屋敷の下人であるようだ。
「何か御用でしょうか?」
嗄れた声が尋ねる。
之寿は、持ち前の愛想の良さでもって、揉み手などしながらそれらしい嘘をでっち上げた。日頃の彼とは似付かぬ腰の低さである。
「どうも、お初にお目にかかります。私めは東一条三坊で孔雀堂という薬屋を営む之寿と申す者。実は私、今現在とある貴重な薬草を探しておりまして、その植物の特性から、この辺りの土地ならば…と目星をつけていたのですが、本日ようやくこちらに足を運びご近所で少し伺ったところ、この一帯はすべてこちら様の所有される土地であるとか。そこで、もしもできればこの裏山辺り、少し薬草など探させていただきたいと思い、お邪魔した次第です。構いませんでしょうか?」
そう言うと、下人は少し困ったような仕草を見せた。
「はは…。いやいや、どうかそう怪訝なお顔をなさらず。こちら様に何かご迷惑をお掛けするなどということはございませんし、ほんの数時間、山の雑草を漁らせていただくだけですから――。
ああ、そうだ。もし宜しければ、これを…。少ないですが、皆さんでおいしいものでも召し上がってくださいまし。いや、ほんの気持ちです。私からのささやかなお礼のつもりですから、どうかひとつ…」
すかさず之寿は、袖口から小さな紙包みを差し出した。彼の口ぶりと包みの形状から、中身は想像に難くない。
にこにこと人の良さそうな笑みを湛えた之寿の前で、下人は明らかに動揺していた。
彼程度の立場であるならば、先ほど十夜が来た時のようにここで主人に伺いを立てるのが筋だ。しかし、それでは差し出されたこの金子は自分のものにはならぬだろう…。
下人は、ごくりと喉を鳴らして生唾を飲み込んでから、おずおずと包みを受け取った。思いのほか分厚いその感触に唇がだらしなく緩む。
之寿はふっと瞳を細めた。
「で…では、ようござんす。ですが、お屋敷の敷地内には決してお立ち入りにならぬよう。それだけはくれぐれもお願い申し上げます」
之寿は頭を掻きながら、ぺこりと頭を下げた。
「はい、それはもう間違いなく…。ご親切、心より感謝致します」
裏山へ向かう振りをして屋敷の裏手へ回る。辺りを警戒しつつ之寿は、着ていた中羽織と野袴を脱ぎ捨てた。現れたのは、まるで忍びのような黒装束だ。
提げてきた銅乱に脱いだ着物を素早く収めると、之寿は屋敷の外塀へ飛び上がった。そこからそろそろと塀を伝い、ひと際高い土蔵の屋根へと上がる。
棟を跨いで天辺に立ち、屋敷の全貌を見渡せば、母屋の背後に身を潜めるが如く大きな離れ家が建っていた。その前には黒塗りの高貴な車と付き人らしき人物が数名見える。そこまで確認し終えると、之寿は素早く身を伏せた。
「あれは…近衛の篁様じゃないか?」
今ちょうど離れの玄関から出てきた人物には見覚えがある。あれは確か第一后・白露付きの近衛を束ねる人物、篁――。
(ということは、あそこに来ているのは白露様か…。では愁様と十夜様は彼女を追って…?いや、しかしなぜ?なぜ彼らが白露様をつけてくる必要があるんだ?)
その時、観察を続ける之寿の目が屋敷のある一画でぴたりと止まった。
「あいつ…!」
忌々《いまいま》しげな目線の先で今、屋敷から離れ家へと向かう反り渡殿を見覚えのある人物が歩いて行く。さっぱりとした短髪に絹の袴をきちんと着こなしすその姿は、遠目に見ればまるっきり少年だ。
すいすいと棟を渡り、之寿はそっと離れへと近付いて行った。
ここからは、細心の注意が必要である。
何と言っても彼女――千種も自分と同じ斥候をしていた人物。気配や空気の変化には敏感なはずだ。ここに窺見が潜んでいることを気取られてはまずい。
之寿は離れ家の屋根の上に飛び移ると、その側面に設えられた風窓へ滑り込んだ。
しかし――。
通風口が開けてある割には、ひどく湿気の多い屋根裏だ。それに異様に暑い。うんざりとため息をつき、之寿は屋根裏の梁から慎重に階下の動向を探った。
千種が入っていったのは、とある一室。果たして、そこで彼女を待っていたのは、この国の第一后・白露――そして闍彌という名の新進の易者であった。
(はあ…。妙なことになってきたな…)
白露ほどの人物に、御付の者が誰一人付き添っていないのが実に不自然だ。
改めてぐっと眉を結び、之寿は、息を殺して内部の様子を探り続けた。
「…で、いかがですかな、白露様。その後、例の癇疾の方は…」
黒っぽい道行に身を包んだ初老の男――闍彌は、少し掠れた低い声で尋ねた。
「以前にくらべれば、幾分ましになったようには思うが…それでも時々は胸がむかむかとして叶わぬ。そなたが千種に持たせるあの香も、この頃ではあまり効かぬようだ。誰も彼も妾の胸を逆撫でおる。何をしても気分が落ち着かぬわ」
白露が煙管の煙を気だるげに燻らせている。
つと立ち上がった千種が白露に寄り添うように座った。その姿も仕草も、まったく無邪気な子どものそれである。だが、その実体は白露と齢の変わらぬ女。白露はその事実を知っているのだろうか?
(まったく、ぞっとするね…。可愛い子ぶるのも大概にしておけと言うんだ。相変わらず胸くその悪いババアだなっ)
之寿は胸の内で毒づいた。
「また睦様…ですか?」
澄んだ子どもの声が尋ねると、答える代わりに白露は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
(睦様――?まさか、睦様が白露様の愛人だとかいうあの噂…本当なのか?)
都の中をまことしやかに流れる宮に関する噂には、意外とデマが多いものだ。ましてそれが不名誉なものであるならなおさらである。なぜかと言えば、朝廷にとって都合の悪い話というは都に流れ出る前に、宮そのものが握り潰してしまうか、隠蔽してしまうかするものだからだ。
しかし、それが却っていけない。周到に手が加えられた秘密は、人の関心を殊更に煽り揺さぶり…挙句誰かの勝手な想像や浅ましい妄想をも合わさって、広まれば広まるほどに拗れてゆくもの――これもまた摂理なのである。結果、人々が嬉々として噂する醜聞の類は、その真実とは程遠く形を変えている場合が多いのである。
そこに加えて、斥候時代に之寿が嫌というほどその身に叩き込んだ「己で見知ったことしか信用しない」という信条――それが故に、これまで宮の個人に関する噂などまるで信じてはいなかったが…。
「睦など、もう何度牢に入れてやったか分らぬというのに――。それでもあやつ、それに懲りるどころか、近頃ではわけの分からぬ忠告めいた言葉まで吐きおるようになってのう。たかが慰み者、それらしくただの人形でおれば良いものを、あまりに調子に乗るので、つい先日も放り込んだばかりよ。そうしたら今度は水紅の皇子付きまでが乗り込んで来おってな…。我が子の側近ながら相も変わらず忌々しい男だ!あやつだけは気が置けぬ!」
之寿は眉を曇らせた。
(慰み者…って…)
睦とは先日知り合ったばかりだ。正直なところを言えば、彼のあまりの名うて振りに、さぞかしやり手の学者なのだろうと勝手に思い込んでいた。しかし、実際に本人に見えてみれば、驚くほど大人しく謙虚で、それは淑やかな麗人――。
あの日、之寿はその温かな笑顔に彼の人柄を見た。少しばかり言葉を交わしてみれば、途端に親しみが湧いた。あれほどの実力を持ちながらまるっきりそれを鼻にかけるでもない彼の姿に、異例の若さで皇子付きに選ばれたという事実が思い起こされた。彼を知れば知るほど、そこに見える彼の人格は、なるほどさもあろうと感じさせるのに十分だった…。
その彼をただの慰み者と――。
ただの人形だなどと!!
之寿は唇を噛み締めた。
水紅皇子付きと言えば、自分の雇い主でもある臣のことだ。今の白露の態度と口調から、牢へ送られようとする睦を庇って彼が彼女に食ってかかっていったであろうことは想像に難くない。
(ま、そういうお方だよな…)
之寿はふっと眉を開いた。
それにしてもこの屋根裏の蒸し暑さ――。
じっと潜んでいるだけなのに、額やこめかみに汗が次々と浮いてくる。何度となくそれを拭いながら、之寿は再び足下の室内へ視線を向けた。
白露は言葉を捲くし続けた。
「どうもあの皇子付き、息子までそそのかしおったようでな…。あろうことか、ついに水紅までもが妾に難癖を付けて来おったのよ。その咎で即刻彼奴も放り込んでやったがのう――まあ、これも、いい機会だ。このままあの男、馘首してくれよう」
之寿ははっとした。
(そんな!臣様が!?あれほど隙もそつもない彼がまさか!!この女、宮から彼を追い出す気か!!)
ようやくながら之寿は、現在臣が獄中にいることを知った。だが、心当たりなら一つある。
(そうか…水紅様!水紅皇子様を庇って…。そうでなければ有り得ない。あの方に限ってこんなの!!)
口惜しさにぐっと拳を握ったその時――。
(……?)
この時の白露の饒舌さに、ふと之寿は微かな違和感のようなものを覚えた。だが、その根拠が何なのかまでは分らない。
ただ何となく――。
そこに別の人格が入り込んでいるような――。
やおらに闍彌は立ち上がり、音も立てずに部屋を下がった。
「ふふっ。それはまだだめですよ、白露様。臣様の身柄は僕にくださるはずでしょう?もう暫くあの人は宮に預かっていただかなければ。そのうち僕が様子を見に伺いますから、どうかそれまでは…ね?」
屈託なくそう言って、千種は白露の手を取った。まんざらでもなさそうに、白露もふっと瞳を細める。
「ふん。そなたも物好きよのう。あんな者、どうするつもりだ?扱いに手を焼くだけだぞ。傭兵だか何だか知らんが、それは卑しくずる賢く、身の程も弁えぬ生意気な男よ」
慣れた手つきで煙管の灰を盆へ捨てた後、白露は自らの手で新たな刻み煙草を火皿に詰めた。
「そうかもしれませんが、僕はあの方のね…あの子に備わる気――なるものに興味があって…。あの子は、白露様が考えておられるよりも、ずっと価値ある特別な子ですよ。きっとご自身でも、そんなことまではご存知ないでしょうけどね。さあ、どうか心をお静め下さい。お体に障ります」
千種はそっと白露の背中を摩った。
(臣様の気――?価値ある特別な子?何だそりゃ??)
之寿は顔をしかめた。どうもよく意味が分らない。
(だが…千種はどうやら臣様を狙ってるらしいな。身柄をくれとは、また…。あのお方を持ち駒にでもする気かね。嘗められたもんだ。というかはっきり言って無謀だな)
臣という人物をよく知る之寿にしてみれば、千種の言うことはまったく無茶な話にしか聞こえない。大体まさかあの臣が千種ごときに大人しく従うはずがないではないか。
そう…。
例え彼が現在囚われの身であろうとも。
例えその身が自由にならぬとしても。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、独りでに口元が緩んだその時。
小箱と竹筒を手に闍彌が戻ってきた。闍彌はきちんと正座すると、箱の方だけを白露の前に差し置いた。
「白露様。これは月桃の香です。これもまた荒ぶる心を落ち着ける作用があります。先の麝香の香の代わりに、今度から暫くはこちらをお試しください。それから、千種…」
闍彌が目配せをすると、
「はい、父上。ではこれを」
千種は、懐から奇妙な文字の書かれた一枚の符と短剣を取り出した。
「宮へお戻りになったら、まずこの符をこの香と一緒に焚きこんで下さい。それから、お傍にはいつもこれを…。護身剣『いざなぎ』と申します。ここには強力な思念が込めてあります。きっと、例の篠懸様からの呪詛ぐらいならば返せましょう。それであなた様の癇疾もいくらかは和らぐはずです。ですが、いいですか、白露様。どうかくれぐれも決してこの剣を、御身からお離しになりませぬよう…」
不意に、先刻の愁の顔が浮かんだ。
(篠懸様の…呪詛?愁様がここを探っていた理由はこれか…!?)
いや、まさかそんなはずはない。
もしもそれが理由であるとすると、この場所まで彼が到達せねば意味がない。あんな門前の小径で屋敷を窺っていたからといって、彼らの企みも動向も――およそ必要な手掛かりは何一つ得られぬではないか!
十夜にしてもそうだ。彼が愁に協力してあのようなひと芝居をうったとして、玄関口でさっさと戻ってきてしまったというのでは、詳しい情報を集めるのにまったく意味を成さない。
(これは一体どういうことだ!彼らはこの屋敷で何をしていた!?それに、篠懸様が白露を呪っているなど…。彼はまだほんの子どもだ!ならばそこに愁様が関わっておられぬはずはないのに…!!)
先刻の愁を今ひとたび思い起こす。
確かにそこに不審な点はあった。しかし、本当にあの彼が、そのようにいかがわしい人物なのだろうか?あの挙動の不審さを加味しても、十分噂に違わぬ好人物と見受けたが…。
そんな苛立ちが集中力を僅かに殺いだ刹那、顎を伝った汗がぱたりと手元に落ち――。
(し…しまっ…)
千種の瞳が天井を見る。にやりと怪しく細められたその瞳は、僅かな天井板の隙間から覗く之寿をしっかりと捉えていた。ぴたりと目が合った瞬間、之寿の背筋は凍った。
すかさず千種は懐から何かを引き抜き、真上の空間へと放り投げた。同時に、屋根裏の之寿が飛び退る…!!
程なくして――。
ドオン!という轟音とともに、見えない何かが之寿の足元を突き抜けた。すさまじい衝撃が建物全体を揺さぶり、積もりに積もった梁の埃が、あたかも煙幕のように屋根裏を覆う。
今しがた彼女の懐から抜かれたのは、紙の人型だ。天井の隙間を難なくすり抜け、屋根裏に上がった大量のそれは、見る間にその形を変えてゆき――。
瞬く間に、何十人もの影だけの兵が之寿の目の前に現れた!
(…ったく、何てことだ!この俺としたことが!!)
胴乱に仕込んでおいた小太刀を引き抜き、之寿は手近の風窓へ走った。その小太刀を一旦咥え、肩からの体当たりで窓そのものを突き破る。古い木枠が砕けるのと同時に、之寿の体は屋根瓦の上へ投げ出された。
平屋でありながら二段構えの構造になっている徂徠の離れ家。その下側の屋根を転げながら、何とか瓦に手を掛ける。滑り落ちようとする反動を利用して即座に体を反転させた之寿は、小太刀を構えて屋根の端に立った。紗那で培われた軽業は、今もまだ健在だ。
一方。
階下の千種は、座敷に佇んだまま僅かに眉を寄せた。
「やれやれ…屋根裏にねずみが潜んでいたようですね。あの動き、素人ではない。どうやら誰かに飼われているようだ」
やけに落ち着き払った千種とは裏腹に、白露はあまりの恐怖に青ざめた。
「千種!!誰かとは誰だ!?まさか陛下が――」
「さあ…?ですが、相手が誰にしろ、ちょっとまずいことになりました。僕もあなたも宮の人物の名を何人か口にしてしまいましたし…当然それも聞かれてしまったでしょうね」
白露は真っ白な顔をして震えていた。十かそこらの子どもにしがみ付き、ぶるぶると慄く女…。
異様な光景である。
壁に掛かった薙刀を無言で手に取り、闍彌は離れを出て行った。
「大丈夫ですよ、白露様。今、僕の式と父上があの人物を追っていますから。それに…」
千種は薄い笑みを浮かべた。
「多分、僕はあのねずみを知っていますし」
壊れた風窓から這い出てきた人型は、うねうねと奇妙に体をくねらせ、ぎこちない動きで迫ってくる。そこには顔はおろか、身の厚みもない。白い紙の人形がその大きさと色だけを変え、意思を持って動いている――そんな感じだ。
「恐らく式神ってヤツだよな、これも…。だが、以前見たものに比べれば、こいつらは随分とお粗末なことだ」
以前、之寿が目撃した千種の式神は、まったく普通の人間と同じような姿をしていた。人ごみに紛れれば、凡人には見分けすら付かぬであろうという様相だったのだ。それに、言葉こそ話しはしなかったが、人と変わらぬごく自然な仕草で動いていたようにも思う。それなのに、今、目の前にいるあのおかしなものは何だ…?
眉を結び、構えた刀を持ち替えた。
かつて紗那軍に属していた頃は、何度となく戦場にも身を置いたし、実は五年前の紛争の際にも、あの百雲の激戦区を戦い抜いた之寿である。
いや…当時の彼の名は昴琉――本名を名乗っていた頃だ。
まだ本人には言わずにいるが、遠巻きながら当時の臣の姿も見たことがある。無論、あれが臣その人だったと気付いたのは、彼の下で働き出してからのことであったが――。
当時、彼の名など軍の誰もが知らなかった。その顔を間近でしかと見た人間すら皆無であった。なぜかと言えば、彼に近付いて生きて帰ってきた者がないからだ。
戦場での彼はいつも返り血を浴びて全身真っ赤に染まっており、妖しの剣技も然ることながら、神速の剣捌きも大層見事で、その太刀筋などは残された残像でしか捉えることができなかったと聞く。そんな彼の前で、紗那軍そして助太刀に来ていた楼蘭軍――大勢の兵士の命が露と消えた。
彼奴の後には何も残らない。
血も涙もない化け物だ――。
彼の姿を垣間見た者は口を揃えてそう言った。一陣の風の後に残るのは、まるで見えない鎌鼬が、そこにあった命を根こそぎ刻んでしまったかのように、薙ぎ倒され鮮血に塗れた屍の群れ。そこには敵も味方も、まして情けも容赦もなかった。
いつしか紗那軍は彼を風と…。
紅蓮に染まった『赤い風』と呼び称し、心底恐れるようになる。
あの時、彼方から窺い見たあの技。距離を置いた場所から、たった一振りで何人も薙ぎ斬ってしまうあの剣技――あれが今の自分にあったなら…。
(こっちはこんなの相手にしたことなんかないってのに…。どうやって倒すんだ、こいつら!しかも、俺の得物と言えばこんな小太刀一本。果たしてどこまで持つか…)
一歩後ろに後退って気付いた。
もう後がない――。
小さく舌打ちをすると、こめかみを嫌な汗が伝った。
屋根の縁に立つ之寿の真後ろに広がるのは、何もない空間。近くの高みに跳ぶにも、一番近い外塀まではかなりの距離がある。
(かと言って、この高さは――)
ちらりと眼下を覗く。錣屋根のように二段構えになったこの屋根は、勾配がきつい造りになっていて、平屋といえど、場所によっては相当な高さがある。その上、既に式神に取り囲まれて逃げ場もない。
もはや活路は一つ!!
「うおおおおおお!!!」
心を奮い立たせると、之寿は影の懐へ真っ直ぐに斬り込んだ。薙いだ小太刀に手応えは殆どない。袈裟懸けに振り下ろした瞬間、彼の前に白い飛沫が「どん!」と空気を震わせて湧いた。
その白を縫って再び迫り来る影を之寿は無心に刻んでゆく。幸い、刀を交える相手としては手強い相手ではない。しかし、この影を倒すたびに視界が真っ白に遮られ、どうしてもそこには一瞬の隙ができてしまう。之寿にはそのことの方が気掛かりだった。
「くそっ!何だってんだこれ…っ!!」
嫌な予感ほど的中するものだ――。
「……っ!!」
ぎらりと白銀が瞬いた。既のところで身を捻り、切っ先をかわすのがやっとだった。
真っ白な吹雪の中に、ちらついたその姿は――。
之寿の顔色が変わる。
(闍彌か…!)
咄嗟に之寿は別方向に吹雪を抜け、錣屋根の頂上へ一気に駆け上がった。
今の彼には守るべきものがある。
愛する妻とたくさんの子どもと――やっとのことで手に入れた平穏な日々――。
家族の顔が脳裏を掠め飛んでゆく。
(か…顔を見られるわけには!!)
今では黄蓮の都に住み、薬屋を営む之寿である。ゆえに裏稼業の最中に顔や姿などを覚えられるわけにはいかない。まして、こうして面と向かって刀を交わすなど以ての外だ。
もしも万が一、この場で買ってしまった恨みの矛先が家族に向けられでもしたら…!!
不覚にも、心臓が大きく波打った。
そこからどきどきと騒ぎ出したのはこの胸の恐怖――!?
太陽を背にして振り返る。逆光のお陰でいくらか顔は隠せたはずだ。
しかし…!
驚いたことに振り向いたすぐ鼻先に、あの闍彌の顔が迫っている!!あたかも息がかかるほどのその距離。之寿の瞳は凍った。
「な…っ!?」
即座に低身を翻し大きく横に刀を薙ぐと、闍彌は後方へ跳躍して巧みにそれを避けた。
今…まさか見られたか!?
しかしこの驚異的な速さは…一体!?
(既に殺生は捨てた気でいたが、ここは殺らねばならんか――!!)
薙刀を構えた闍彌が、奇声を上げて突進を始めた。
薙刀と小太刀ではあまりに間合いが違いすぎる。刃を合わせては不利だ!
ならば、狙うはその真ん中。
闍彌の懐、ただ一つ――。
(見極めろ、あの得物の動き…。あの闍彌の身のこなしを!)
之寿は気丈な笑みを浮かべた。
薙刀が大きく振り上げられた瞬間、之寿は思い切り足場を蹴り、闍彌の真正面へ水平に跳んだ。跳びながら絶妙な間合いを見極め、小太刀を斜めに薙ぎ払う!!
それは、ほんの一瞬の勝負だった。
着地と同時に、視界を血飛沫が覆った。
やがて――。
「く…」
小さく呻いて、之寿はがくりと膝を付いた。
あろうことか、彼の右の肩口は薙刀に完全に貫かれていたのだ。足元の瓦の黒に、鮮やかな紅の雫がぱたぱたと滴り落ち、筋を描いて流れてゆく――。
しかしながらその時。
「!?」
暫し悠然と立ちはだかっていた人影が、大きく揺らめいたのである。
見れば、闍彌の胴体は右腰から左肩へ斜め一直線に斬り裂かれ、そこからおびただしい血液が噴き出している。そのまま闍彌は後へ卒倒し、もんどりうって屋根を転げた。そうして最後、ついにぐしゃりと叩きつけられた地面に、じわりと血だまりが広がった。
闍彌の体が動くことはもうなかった…。
屋根の下では、異変に気付いた人々があちこちから集まり始めていた。屋敷の主である徂徠そしてその召使いらと、白露に付き添ってきた侍従らと――。
皆、闍彌を取り囲み、恐る恐るその様子を窺っている。
と――。
不意に上がった誰かの悲鳴を引き金に、屋敷は一気に騒然となった。
ちょうどその頃、実は大棟を挟んだ反対側の屋根に之寿はまだ潜んでいた。本当ならば、さっさとこの場を離れるべきだ。それは分かっている。しかし、この長い薙刀を肩に突き刺したままでは、満足に動くこともできない。
震える左手で何とか抜こうと試みるが、深く刺さった刃は執拗に食い込み、更に柄が血で滑ってうまくいかない。その上、刃が僅かに動くだけで身を焼くような激しい痛み駆け巡るのである。激痛に何度も顔を歪めながら、之寿は懸命に薙刀と格闘していた。
「はあ…っ…はあ…はあっ……。だめだ…。力が…力が入らない…」
荒く息をついて、再び柄を握ったその時!
タタタタタと律動的な音を立てて、足元の瓦に棒切れのような物が突き刺さった。
薙刀の柄を握ったまま、反射的に飛び退き、攻撃の源を見ると――。
「ち…千種…!!」
青ざめる視線の先で、その人物は静かに佇み冷ややかな笑みを浮かべた。
たった今、相棒を殺されたばかりだというのに、彼女のこの余裕は一体…?
手にした竹筒から再び細い棒のようなものが飛び、手負いの間諜を更に追い込まんと足元へ突き刺さる。
これは易者の筮竹!!
今は、跳んで逃れるしか術のない之寿である。だが、そうして動くたびに肩の傷は更に抉られ、流れ出た血が周辺に散る。
おびただしい出血により急激に体力を奪われた体はもう満足には動きそうにない。苦しげに喘ぐ顔を伝い、止め処ない汗が滴り落ちている。
(もはや…これまでか……)
つい弱気になったところへ、またも愛する家族の顔が蘇った。それはまるで走馬灯の如く次から次へと――。
(馬鹿な!縁起でもない…!!死ねるかよ、こんな所でっ!!)
もう一度自らを奮い立たせ、之寿は小太刀の鞘をくわえた。その柄を左手で一気に引き抜く――!!
「はああッ!」
居合い一番刀身を跳ね上げると、鮮やかに切断された薙刀の柄の部分だけがカランと音を立てて足元に落ちた。柄は、そのまま地上へと落下していった。
「う…。がは…っ…!」
その衝撃で肩口を激痛が襲い、堪らず膝を付く。しかしもう休んでいる暇はない。これなら何とか動けるはず。一刻も早くこの場を離れねば。
筮竹がまた飛んだ。小太刀でそれを払うと、之寿はふらりと立ち上がった。
「何奴っ」
不意の声に目を向ける。千種の隣に飛び出してきたその人物は――!!
(た…篁様まで…!本気でまずいな…。この状況で手練れ二人が相手となるとさすがに――)
頭上を見据えた篁は、腰の刀をすらりと抜いた。
(南無三ッ!!)
再び之寿は屋根の上へ駆け上がった。そこから棟伝いに走り、なんとその端から渾身の力で跳躍――!!
ただでえ急勾配のこの屋根の天辺は相当な高さだ。そのまま均衡を崩して地面に叩きつけられれば、確実に闍彌と同じ運命を辿ろう。
宙を舞う之寿の真下では、あの青糸毛の牛車がいそいそと帰り支度をしているところだそこへ、ダンッ!と大きな音を立てて着地、そうして間髪容れずにまた空へ向かう。
敷地に林立する建物の上を跳び伝い、何とか屋敷の外へと逃れようとする之寿――動くたびに衝撃で肩が抉られ、そこかしこに血がぼとぼとと散った。熱を帯びた傷口が滔々と滾り脈打っている。
だが、ここで立ち止まっては追いつかれてしまう。
慄く人々が逃げ惑う中、之寿は脇目も振らずに次々に跳躍を繰り返した。
「は…っ、はあ…っ…はあっ……はあっ…」
体力は疾うに臨界を越えた。
今、彼を支えているのはその精神力。生きることへの執着のみ――。
何としても行かねばならない。
そう、帰らねば!
いつもと同じ笑顔で、自分の帰りを待ち続けている家族の元へ…!!
何度目かの跳躍で、之寿は何とか外塀にまで辿り着くことができた。しかしほっと安堵を浮かべるも束の間、背中に貼り付いた異様な気配に之寿は震えた。
これは…。
今しがた味わったばかりのこの不気味な気配は…!?
即座に小太刀を突き付けると、背後の気配が遠ざかった。横目で振り向けば、果たして、ひどく小柄な人物がすぐ傍の屋根の上に立っている!!
(追いつかれた…!)
もはや声を上げる気力もない。悔しさに歯を食いしばり、身動きもできずにいると、不意に牛車から女が走り出てきた。
「千種…っ。千種はどこじゃ!!」
我を失くした白露が狂ったように叫び続けている。
「!!」
千種が気を散らした僅かな隙に、之寿は姿を消してしまった…。
「ちっ…。取り逃がしたか…」
千種は忌々しげに唇を歪めた。
ふと視線を落とせば、足元に落ちていたのはあの曲者が流した血液――。不敵な笑みを浮かべた千種は、それを指でそっと掬い、舐め上げる。
「ふふっ…やっぱり。久しぶりだね、昴琉。ほんのちょっとだったけど君と一緒に遊べて嬉しかった」
そんな異様な光景を、篁だけが無言で見ていた…。
* * * * * * * * * * * *
二人が内裏に戻る頃には、辺りはすっかり夕闇に包まれていた。
「思ったより遅くなってしまったな…」
「十夜様が茶屋町に行きたいなんて言い出すからでしょっ」
愁はひどく不機嫌そうだ。
「別にどこにも寄っていないだろう?ちょっと茶屋町界隈を歩いただけじゃないか」
「でもあちこちをぐるぐる何度も回ったじゃないですか」
「細かい奴だな。そうやっていつまでもうじうじ文句ばかり言う奴は、ご婦人方に嫌われるぞ?」
「別に今すぐ好かれなくてもいいです!」
十夜はすっかり士気阻喪してしまった。愁は決して悪い人間ではないが、少し真面目すぎるのだ。
「こちらはなかなか都へ出る機会がないんだ。ちょっとぐらい遊ばせてくれてもいいだろうに…」
ぼそりとぼやくと――。
(そうか…そうだったのか)
愁は、はたりと立ち止った。
ただの学者でありながら、その実、普通の学者ではない十夜。彼にしてみれば、今回の任務は束の間の息抜きのようなものでもあったろう。忙しく雑務に追われ、退屈なお偉方の相手と本来の研究に日々明け暮れる彼にしてみれば…。
そう言えば確か、彼はこの日のために今夜徹夜で仕事をするとも言っていた。
そうだ。
そうまでして彼は、この役目を楽しみにしていたんじゃないか…。
「……」
ばつが悪くなって口を噤むと、今度は十夜がこちらを覗き込んでくる。
「ん?どうした、愁。もう突っ込みは終いか?」
「あの…。すみません…でした」
聞き逃してしまいそうなほど小さな声だった。
「は?」
「今日は…十夜様の邪魔ばかりしてしまって…。その…すいません…」
既に次なる攻撃に身構えていた十夜は、いささか拍子抜けしてしまったようだった。
「ふっ…。別におまえが謝ることなどないさ。さてと――そろそろ皆、集まる頃合だな。このまま臣のところへ行ってぱあっと団子でも食うかな」
しょげる愁の頭にぐりぐりと拳を当て、十夜はにっかりと笑った。
牢舎に着くと、案の定と言うかやはりと言うか――早速入り口手前で十夜だけが牢番に声をかけられた。いかにも怪しげな荷物を携えたままなので仕方がない。
しかも、その場で背中の荷を開けさせてみれば、そこには籠一杯の野菜や果物――。
牢番らはさも如何わしげに眉を寄せた。
「…で、これを牢へ持ち込んで何をなさる気なんですか?まさか十夜様、ここでお料理でもなさるので?」
「なんだ、今日は妙に態度が悪いな。何か嫌なことでもあったか?」
不服そうに鼻を鳴らす十夜の横で、愁が苦笑を噛み潰している。
意を決した牢番の一人が、むんずと十夜の鼻先へ詰め寄った。
「あのですねえっ!先日はあなたにまんまと騙されてしまいましたけど、今度はそうは行きませんから!よくよく考えてみれば、十夜様――あなた、ただの学者様じゃないですかっ」
「そうさ。ただの学者だ。だから何だ?勝手に恐縮して鍵を差し出したのは、おまえたちの方だろう?」
「勝手にって…。言葉巧みに我々を脅迫なさったのは十夜様でしょう!?」
牢番は入れ替わり立ち替わり、次々に言いたいことを浴びせかける。だが、まあ――それも無理はない。つい先日、うっかり彼の口車に乗せられ、大切な牢の鍵を奪われてしまったことがよほど悔しかったに違いない。
「あのなあ、おまえら。自分たちより遙か身分の高い人間を捕まえて、脅迫だ、などと…。まったく失礼極まりない連中だな。理由はどうあれ、そう軽々しく物騒なことを口にするものじゃないぞ。だが、まあ…その様子では、おまえたちも相当に日頃の鬱憤が溜まっているようだな。さあ、これでも食ってまずは落ち着け」
十夜は珊瑚に貰ったという舶来の菓子を差し出した。
「これはな、マドレーヌと呼ばれる舶来の焼き菓子だ。なんと西洋では王族に献上されるほど、大変に高価で珍しい菓子なのだそうだ。おまえたち、このようなものを見たことがあるか?食したことがあるか?何を隠そう私は既に少しいただいたがな、それはそれはこの世のものとは思えぬほど上品に甘く、とろけるように美味なるものであったなあ…」
十夜は、やけに芝居がかった眼差しをうっとりと泳がせるのだった。
そうして、まんまと――。
「あの…ひょっとして、これを…。こんなに貴重なものを私たちにくださると…そう仰るのですか?」
牢番たちは、ぽかりと互いの顔を見合わせた。
「当たり前だ。日々我らの平和のために、粉骨砕身の思いで尽くしてくれているおまえたちに――と、わざわざこうしてこの私自ら持参したものだぞ?おまえら以外に誰が食う?」
満足げに頷く十夜の横で、愁はにこにこと愛想笑いを浮かべている。
「我らの感謝の気持ちだぞ。安心して受け取れ」
一番古株らしき牢番の肩を力強く抱き寄せ、十夜はきらりと眩いばかりの笑みを浮かべた。
そうして。
呆れたことに、またしても牢番らは十夜の術中に墜ちたのだ――。
「と…十夜様…あなたというお人は…!」
「あの…本当に…ありがとうございますっ!」
「感激です!!」
口々に感極まる牢番らへ再び爽やかな笑顔を振り撒いて、さっさと荷を抱えた十夜がさも意気揚々と階下へ向かう。慌てて愁も後に続いた。
「――ほんとにあいつら、あれで大丈夫なのか?ああも簡単に賂を受け取るなど、兵の風上にも置けんじゃないか。まったくもってけしからんなっ」
さて。
ひょっこり階下に顔を覗かせた二人を見るなり、睦は嬉しそうに声を上げたが――。
「あ!おかえりなさ…」
向けられた天使の笑顔は、すぐにぴたりと動かなくなってしまった。視線は二人の手に抱えられている野菜や果物に釘付けだ。
振り向いた右京もぎょっと目を剥いたまま固まっている。
「あの…な…何ですか、それ…?今日は…白露様を尾行されていたんじゃ…ないんですか…?」
「もちろん行ったぞ。ばっちり行方も突き止めた!!」
満面に破顔して、十夜はこれでもかと胸を張る。
「なんで行く時よりも荷物が増えてるんですか…」
脱力気味のため息をつく右京。
「なに、私ほどの人物が都へ出ればな、黙っていても周囲が放っておいてはくれぬというわけだ。つまり、まあ…なんだ。いろいろあってな」
この上なく得意げだ。
今日一日を思い起こして、また愁は一人で笑った。確かに散々疲れはしたが、今思えば楽しい一日だった。
「ご苦労だったな、二人とも。無事の帰還、何よりだ」
そう言って、臣は口元を微笑ませた。その仕草には嫌味も皮肉もない。
それからややあって――。
持参したたくさんの土産を振る舞いながら、十夜は今日一日かけて調べ上げたことを上機嫌で語った。
「そんな…。探りに行った敵の屋敷で、堂々とお土産を頂いて帰ってくるだなんて。一体どういう神経なさってるんですか、あなた」
明け透けに毒づきつつ、手渡された団子を口に含んだ右京だったが、
「…?」
突如としてひどく奇妙な表情を見せる。それはそうだろう、この団子は、あの――。
「すみません、十夜様。これ…どこで買われたんですか?」
実は密かに待ち望んでいたであろう反応に、十夜は一瞬含みのある笑みを浮かべた。
「その辺の適当な茶店だが。それがどうした、右京?」
「あ…。いえ、別に…」
それっきり右京はしゅんと口を噤んでしまった。
「…それでだな、その闍彌という易者と白露様の関係を探るには、徂徠の方に鎌をかける方が手っ取り早かろうと思うんだ」
十夜は話を続けた。
「易者と千種と思しきその息子は当然仲間と考えられる。彼が本物の千種なら、まさか本当の親子であるはずなんかないだろう?となると我らが近付くのは危険だぞ。強力な陰陽道の使い手なんだろう、千種は」
臣が口を挟む。
「だが、その徂徠という人物が術に通じていないという確証もない。その三人のうちの誰が術者か…あるいはすべてこちらの見当違いなのか。その辺りが今一つはっきりしない。そんな状態で動けるか?」
「でも、白露様は…。どうやら今日、そこで何事かあったようですよ?」
ぽつりと睦が呟いた。
「どういうことだ」
「えと…実は十夜様たちよりも白露様の方が先にここへ到着されたので、ちょっとだけ様子を見に伺ったんです。そしたら見事に追い出されてしまいました。でもね…」
睦はふと考え込むような仕草を見せた。
「あの様子、とても尋常ではなかった。顔色はもう蒼白で、出かける前とは比べものにならないくらいそわそわと…。まるで…そう、何かに怯えていらっしゃるようでした。あの様子ではこちらが策を講じなくても、当分は臣の処分どころではなさそうですけど…」
「ほう…。だが、何があったのか気になるな。何事かあったとすれば、恐らく我々の訪問の後だ」
十夜も何事か考えを巡らせているようだ。
この次の手はどう打つべきか――。暫し誰もが考え込んでしまった。
「あ…!そうだ、そう言えば…!!」
その沈黙を破ったのは愁であった。
「徂徠様のお屋敷の前で、偶然、孔雀堂さんに会いました。あの後、彼はお屋敷に向かわれたようですし、ひょっとして何かご存知かもしれません」
「之寿が…?」
臣の眉がぴくりと動く。
睦は、はっと臣を見る。
(そうだ…之寿さんに千種様のことを調べていただいてたんだった――。ということは、やはり白露様は徂徠という人物のお屋敷で、闍彌という易者とともに千種様にも会っていたんじゃ…?でも、あの様子はどうして?いつもなら、千種様とお会いになった後は、それは嬉しそうにしていらっしゃるのに…)
目が合った瞬間、どきりとした。彼の瞳が何事かを訴えているように思えたのだ。
そこに浮かんでいるのは不安…?
それとも…。
(まさか之寿さん、巻き込まれたのでは…!?あの白露様の様子に彼が何か関係しているんじゃ…!!)
かろうじて平静を装い、睦は小さく頷いた。
* * * * * * * * * * * *
ひと通り互いの情報を交換をした後、全員が自室に戻ることとなった。今後どう動くかは一旦各自が考え、また明日の朝検討する。
だが。
この晩の十夜はまだ部屋へは戻らず、大あくびをしながら光の宮へ向かったのだった。朝、水紅皇子と交わした約束を果すためである。
「十夜様!!」
振り向けば、睦がぱたぱたと駆けて来る。十夜は静かに立ち止まった。
「あの…水紅様に伺ったんですけど、皇子様を臣に会わせて差し上げるって――それ、本気ですか?」
「皇子様に嘘などつけんだろう?」
十夜は涼しい顔で答えた。
「でも…あの、一体どうやって…!?」
と――。
突然十夜は後退り、おもむろに腕組みをすると、じいっと睦の全身を眺め始めた。頭の天辺からつま先まで――なぜか十夜は顔をしかめたり眉を解いたりしながら、視線をくまなく行き来させている。
「……」
「あ…あの…」
そうして見つめられる羞恥に、睦は耳まで真っ赤に染めて俯いてしまった。
「睦。その上衣を貸せ」
「はい?あ、あの…これですか?」
睦は、衣の裾を指先でちょんと摘んで見せた。
「ちょうどあのお方と同じ体格と見た!」
ビシリと人差し指を突き付けて言い放つ。指の先では睦がきょとんとした顔で佇んでいた。
十夜の考えた作戦――とは。
「名付けて『水紅様変装大作戦』!!」
「そ、そういう名称要らないと思いますけど…」
要するに水紅に学者の衣を着せ、ついでに髪型も変えて一見その人と分らぬよう、変装をさせるというだけのことである。
「何を言うか。世紀の大作戦に心揺さぶる呼び名は必要だ!何事もな、まずは形から入るのが良い。形をまず整えてこそ、そこに魂が生まれ気合も入るというものだ。俗に言う世の慣わしというやつだ!」
力いっぱいに力説して、いざ水紅皇子の部屋の扉を叩こうとすると、驚いたことに先に扉の方が開いてしまった。開いた扉の内側には水紅本人が佇んでいた。
「随分と威勢のいいことだな、十夜。待ちかねたぞ…」
嬉しそうに頬を染め、水紅は小さくはにかんでいる。
思わず顔を見合わせる二人であった。
「さてと…。いいですか、水紅様。階段を降りきってしまうまでは絶対に声を上げてはいけません。あの馬鹿牢番ども、次は相当警戒しているはずですからね」
水紅は神妙な顔で頷いた。
「でも、それは十夜様のせいじゃ…」
「うるさいぞ、睦っ!」
ふて腐れつつ、十夜は慣れた手つきで睦の上衣を着せてやった。
一方、水紅はと言えば、それは大人しく素直で、何もかも十夜のするがままに任せている。驚くほど穏やかで、驚くほど従順な水紅皇子――そんな姿も目にするほどに見違えるようだ。
「はい、じゃあ…水紅様。ちょっと失礼しますね」
衣を着せ終えたのを確認すると、今度は水紅を椅子に座らせ、睦は両側で結い上げられている髪をそっと解いた。ぱさりと肩に広がる艶やかな黒髪を優しく櫛で梳いてやる。
じっと黙ってはいるが、こうして直に触れてみれば、そわそわと逸る彼の心が手に取るように伝わってきた。彼がこれほどまでに素直な感情を睦に見せてくれたことがあっただろうか…。
前の椅子に腰を下ろした十夜は真正面から水紅の瞳を見つめ、力強く言葉を続けた。
「私があいつらの気を引きますから、その隙に皇子様は睦と一緒に階段を降りてください。ゆっくりでいいですからね。急ぐと却って怪しまれます」
「うん…分かった…」
水紅は、ほんのりと頬を綻ばせた。
恥ずかしそうに、それでいて心から嬉しそうにする姿がひどく切なかった。尊大と言うよりは、むしろ生意気なほどいつも傲然と振る舞っていた水紅の、この素直且つ儚げな素振りはどうだ――。臣たち皇子付きと称される連中が自分の皇子に夢中になってしまう気持ちが、十夜にも少し理解できた気がした。
「はい、できました!こんな感じでどうです、十夜様?」
確かに学者のそれらしく、後ろで一つに束ねられた長い黒髪。だが、顔そのものがなるべく見えぬよう、全部をまとめずに前髪と横の髪はある程度垂らしたままにしてある。これならば、ちょっと俯けばその横顔は殆ど髪の内側に隠れてしまう。
「よし、準備万端!では、参りますか!」
十夜は不適な笑みを浮かべた。
* * * * * * * * * * * *
(之寿…あいつ、一体…)
いつものように、臣は壁際に背を預けて蹲っていた。
思い巡らすは、睦の言う白露の様子。そして、愁が徂徠の屋敷の前で別れたという之寿のこと。
まさか妙なことになってはいまいか…。
かつては敵兵だったとはいえ、今では彼にかなりの信頼を置く臣だ。
しかし――。
(あれで之寿も元は斥候。大丈夫だ…。きっと大丈夫…)
そう何度も自らに言い聞かせるが、なぜか嫌な予感ばかりが首をもたげる。こんなところで身動きさえ取れずにいる自分が、どうにも情けなく恨めしくて仕方がなかった。
之寿の性格はよく分かっている。
確かに口は少し悪いが、それでもとにかくとんでもなく誠実でお人好しな人間だ。だがそれ故に、こちらの望む成果をあげようと無茶をしがちでもあり…。
深いため息をつくと、臣は立てた片膝に額を押し当てた。
コツン――。
「……?」
何かが上の小窓から落ちてきたようだ。
(小石…?)
立ち上がり、それを拾い上げた。何気なく頭上の窓を見上げる。
と――。
「!!」
なんと鉄格子から左の掌が覗いているではないか!
まさかあれは…。
その顔こそ見えないが、ひらひらと手を振るその主はまさか…!!
「お、おまっ…こんなところで何を――!!」
「ちょっと、もう…。大きな声…出さないでくださいよ。見つかっちゃうでしょ…?」
手の主は、いつもよりずっと低く小さな声でそう言った。だが、確かに聞き覚えのある声である。
「おま…おまえ…っ!今日、徂徠の屋敷に行ったそうだな!?何があった、そこで!今すぐ正直に全部言え、之寿ッ!!」
牢舎の外壁に背を預けて座った之寿は、ふっとため息をついて笑った。
「なんだ、もう…知ってるんだ…。愁様って…案外口が軽いんだな」
「はぐらかすなっ!」
「だから…。大声出さないで…って…言ってるのに…」
不意に臣の顔色が変わった。
「おまえ、まさか…。怪我を…しているのか?」
懸命に取り繕っているが、之寿の息遣いはひどく荒い。それに、その声音も僅かに苦しげだ。
「……」
答えはない。
「答えろ、之寿ッ!!」
つい声を荒げると――。
「……ちぇっ…頑張ったのに…。またばれちゃったか…」
喘いで之寿は小さく笑う。
「何があった!?徂徠の屋敷で一体何が…!!」
「今ここで…全部話してる暇なんか…ないですよ…。もうすぐ定刻の見回りが…来ちゃうでしょ?」
気を抜けば、意識が朦朧としてくる。歯を食いしばり、何度も息を付きながら、之寿は懸命に言葉を紡いだ。
「それにね…もう私、帰らなきゃ…。夕飯は家で食べる…って、今朝、多鶴に…約束しちゃったんですよね…。だから一つだけ…どうしてもすぐにあなたに…お伝えしたくて…。あの…その徂徠の屋敷のね…離れで聞いた話なんですけどね…。あの千種の狙いは…なんとあなたでしたよ」
「何だと…?どういうことだ、それは」
臣は驚いたようだった。
心当たりらしきものなど何もない。そもそも、千種の顔すら臣はまだ知らないのである。
「さあ…?詳しいことまでは…ちょっと分かんないんですけどね…。何か、あなたのね…気――に興味があるって…特別な価値があるって言ってました…。それで、あなたの身柄をよこせとね…白露様にそう言ってましたよ」
之寿は深いため息をついた。
「笑っちゃい…ますよね…。つか…いい年して…変態じゃないですかね…あのオバサン…」
乾いた声でせせら笑う。
「……」
臣は無言で眉を寄せた。
「そうそう…近々宮に…出向いて来るとも言ってたな…。それまではあなたを…宮に置いておけと…ね」
突然、之寿が咳き込み始めた。
ここから彼の姿はまったく見えない。怪我の具合もまるで分からない。あれほど無茶は慎めと言っておいたのに――。
どうしてやることもできぬ歯痒さに、臣は唇を強く噛み締めた。
「おまえ、誰にやられた?その傷――かなり深いだろう?」
「いや…ちょっとヘマをしまして…闍彌とかいう占い師に…ね。でも…すいません…。そいつ…まだ情報を引き出せたかも…しれないのに…向かってくるもんだから、つい殺っちゃいましたよ…。その…詳しいことは篁様にでも…聞いて下さい。その場にいらっしゃいましたから…。でも、まあ…こちらは幸い…死ぬような怪我ではないですし…」
「そういう問題ではない!なぜ命令に背いた!?無茶はするなといつもあれほど…」
「はは…。ちゃんと覚えてますよ…。身の危険を感じたら退け…。任務遂行よりも…自分の身の安全確保を優先しろ――って…そう言うんでしょ?」
何度となく交わされたやり取りだ。
彼がそうやって自分の身を案じる度に決まって之寿は、何を甘いことを言っているのか、と笑い飛ばしたものだ。部下に敵情を探らせておいて任務を二の次に…など、指揮官が言うことではない。
しかしいくらそう言っても、臣はどういうわけかその考えを変えようとはしなかった。彼も自分同様、戦いに身を投じ続けた人間であるはずなのに――。
臣は一層語気を強めた。
「おまえ一人の命ならばそうは言わん。だがな、之寿。ここは戦場ではない。お国のため、大義、志のためにと、その命や人生までも投げ出して大将の首を取ってくる必要などないんだ!おまえはただ金で私に雇われているだけの窺見だろう?全うな仕事の傍ら、おまえが裏に手を染めてまで稼いでいるのは何のための金だ!?守りたい者を守るための金だろうが!!だが、その僅かな金を得るために肝心のおまえの命がここで消えてしまったら今後おまえの家族は誰が守る!?金はおまえの妻子の生活ぐらいは支えてくれるだろうが、それだって一時的なものに過ぎない。金は使えば消えてなくなる。だがおまえという存在はそうではない!!金はな、おまえの家族の心までは支えてはくれないぞ。おまえを失った家族の胸の穴までは塞いじゃくれないんだ!!」
之寿はふっと笑った。
「ほんと…いつまでも甘いんだから…。おかしな人だなあ…」
「放っとけ」
「おや…誰か来たみたいだ…。じゃあ…そろそろ私は帰ります。ああ、そうだ…。あの…こういう体になってしまったんで…例の調べもの、もうちょっとお時間頂いても…いいですかね…?」
「構わん。好きにしろ」
「すみません…。じゃ…また…」
再びひらひらと手を振ると、之寿は闇に溶けるように消えた。
「あの馬鹿…」
唇をぐっと噛み締め、冷たい壁に額を押し当てる。こうして自分がもたもたしている間に、この外では皆がめまぐるしく動き、知らないうちに傷付いたり危険な目に遭ったりしているのだ…。
(だが私は何もできない…)
そう思うだけで発狂しそうなほどに苛立つ。
これまでに牢へ入れられたことなら何度もある。しかし、これほど胸をかき乱されることはなかった――。
膝を抱え、臣はすっぽり毛布に包まった。
* * * * * * * * * * * *
ついに牢舎の前に立つ三人――。
しかし、牢番はやはり十夜にのみ不審の目を向けていた。想定通りの展開である。
「ふふふ…。貴様らもようやく気付いたようだな。またも私の巧妙な罠にかかってしまったということに」
十夜は不敵に笑った。
水紅と睦は、そんな十夜の陰で黙って息を潜めている。
「なぜ…。一体なぜなんですか、十夜様!我々に何の恨みがあってこんなことをなさるんです!?それとも、清くまじめに働く私たちをからかうのが、そんなに楽しいとでも仰るんですか!?」
「うむ。楽しいな」
「そんな!ひどいですよっ!!」
切なく声を張る牢番らに悟られぬよう、さり気ない目配せが送られる。応えて睦は微かに頷いた。
「おまえたちの方こそどうかしているだろう!?深く考えもせぬまま少々のことにおろおろと動じ、更に懲りもせずまた賄賂を掴まされるなど言語道断だ!!そんなことで罪人の番が務まると思っているのかっ!いつかその罪人の仲間が、言葉巧みに言い寄ってきたらどうする!?おまえら、またそいつらの甘い餌に釣られて道を開ける気か!憎き罪人を再び野に放す気か、そうやって!!」
自分で担いでおきながら偉そうに声を荒げる十夜の横を、睦と水紅はそそくさと擦り抜けた。
「失礼なことを言わないでください!」
「我々はもうそんなことには騙されませんよッ!!」
拳を震わせ、牢番は感情的な声を張り上げた。どの顔も火を噴かんばかりに高揚している。
それは怒りからだろうか?
屈辱からだろうか…?
「そんなの当たり前だ、馬鹿者!!だがな、それは一体、誰のお陰かなっ?」
「は?」
「誰のお陰でそこに気付いたのかと訊いている!以前のおまえたちならば、誰彼構わず簡単に騙されたのだろうがな、その甘さをその身にしかと知らしめてやったのは誰だ!?恐れ多くも、今やその名は宮を越え黄蓮の都にまで名声轟く伝説の政治学者、十夜様だろうが!頭が高いぞ、おまえらっ!!」
「また何を仰って…」
牢番は嘲るような笑みを浮かべた。
「おい、貴様、笑ったな…。今、未来の宮廷学者の頂点とも言えるこの私のことを愚弄したなっ!?」
「大袈裟ですよ…まったく」
一様に呆れ顔を並べ、ため息をつく。
途端。
「ああーッ!!また馬鹿にした!もう怒った!もう許さんぞ!!私の恐ろしさ、篤と思い知れっ!!」
大声でそう言い放つと、十夜はむんずと右の手を差し出した。
「あの…。な…何ですか?」
「さあ、鍵を貸せ」
「はあ…?またですか?貸せませんよ」
「いいや、おまえらは貸す」
「貸しませんったら!!何でそんな!そんなことできるわけないでしょっ!!」
「前は貸してくれたろう?」
「だって、あの時はあなたが…!」
「そうだ…その通りだ。不覚にもおまえらは、この私の華麗なる言葉の魔術に屈し、牢番というその職務において死守すべきはずの牢の鍵を、いとも簡単に差し出したんだったよな?」
「……」
牢番は唇を噛み締めた。悔しいがまったくそのとおり。言い返せない。
ついに十夜は、悪魔のような微笑みを満面に宿した。
「言うぞ」
「え」
牢番はたじろいだ。
「全部言いつけるぞ」
「ちょ、ちょっと…」
「誰に言って欲しい?軍務大臣の笆様か?それとも執権の常盤様か?え?」
「あなた、一体何を…」
堪らず牢番らは目を泳がせる。
「おまえらも知っての通り、日頃より私は大臣様方には大変にお世話になっている。毎日顔を合わせてもいる。お食事をともにすることだってあるっ。当然、世間話をする暇ぐらいいくらでもあるのだ!おまえらの失態を酒の肴にされたくなければ、大人しく私の言うことを聞け!!」
「くっ…。卑怯な…」
口惜しげに呻き、とうとう牢番は観念したのだった。
「馬鹿め。駆け引きに卑怯もへったくれもない。ただそこにあるのは、精密な電算の如き優れた頭脳と咄嗟に機転を利かすことのできる柔軟な思考力だけだ。そもそも貴様程度の凡人が、この私に挑もうなど百万年早い!おととい出直して来い!!」
差し出された鍵を荒々しく奪い取ると、十夜は胸を張り意気揚々と階段へ向かった。
が――。
一段降りたところでなぜか突然立ち止まり、十夜は斜に振り向いた。
「今のは愁の必殺技だ。恨むなら愁を恨めよ…」
謎の捨て台詞を残し、十夜は悠然と階段を降りていった。
* * * * * * * * * * * *
水紅を連れて階段を下りていくと、目指すの牢檻の片隅に毛布の塊が蹲っていた。
「……?」
異様な光景に思わず言葉を失う睦。そして、そんな彼の背後には未だぎゅっと口を結んだ水紅がいる。
「臣?」
呼んでみても反応がない。
「臣ってば」
再び声を掛けると、毛布の塊がごそっと動いた。
「あの…何してるんですか?」
「別に」
毛布が臣の声で答えた。
どう見てもおかしいのに、こんな風に彼が何でもないという言葉を吐く時は十中八九何事かがあった時だ――。水紅は長年の付き合いからそれを知っていた。
「何があった、臣…?」
ぽつりと水紅が問う。
途端。
ガバッ毛布がと剥がれ、そこから目を皿にした臣が顔を出した。
「と…水紅様!?」
互い聞き慣れた声。そして久し振りに目にしたその姿――。
水紅の顔がほっと崩れるように緩んだ。
慌てふためき駆け寄って、臣は格子にしがみ付いた。
「あなた、なぜこんなところに――!!皇子様がお越しになるような場所じゃないですよ!?」
「うん…。分かっている…」
水紅は照れたように微笑んだ。
そっと背中を押してやると、その勢いに任せて歩み寄り、水紅は臣の前にぺたりと膝を付いた。
「元気そうで安心した」
「何言ってるんです、こっちの台詞ですよ、それは!でも、あなた…またちょっと痩せたんじゃないですか…?ちゃんと食べてます?」
「うん…」
「残さずに?」
「時々は残す」
「やっぱり…」
臣が何事か尋ねれば、それがどんなに他愛のない言葉であっても、水紅は心底幸せそうに言葉を返す。
睦の胸に、ほんのりと柔らかな温もりがあふれた。
その時である。
階段から十夜の顔がひょっこりとが覗いたかと思うと、
「いやはや、どうもお待たせしました、水紅様!」
たった今ぶん取ってきたばかりの鍵を得意げに指に引っ掛け、ちゃらちゃらと回している。
「十夜、おまえまた…鍵――」
格子の中では臣が盛大に絶句している。
「さ、むさ苦しいところですが宜しければどうぞ、皇子様」
にっこりと笑って牢の扉を開けると、十夜は水紅を促した。こくりと頷く素直な瞳に、彼の本当の心が滲んでいた。
「――では、睦。すまんがな、実は仕事が山積みだ。これはおまえに預けるから、帰りに牢番に渡してくれ。それから、ちゃんと水紅様をお部屋までお送りしてくれよ。くれぐれもばれないようにな」
嬉しそうに瞳を輝かせ、睦は鍵を受け取った。
「それでは、皆様。おやすみなさい」
大仰に一礼すると、十夜は慌てて階段を上がっていった。
そして、地下牢にもとの静けさが戻った。
一番下の階段に睦はひっそりと腰掛けた。なるべくなら二人の邪魔をしたくないと思った。
ところが――。
改めてきちんと正座した水紅は、なぜか俯くばかりで何も言わない。逸る胸を落ち着かせるように、時折、深く息をついては瞳を上げる。それでも、なかなか言葉の方は出てこないようである…。
ひどく優しい時間だけが、緩やかにそこを流れていった。
「……」
そんな水紅の姿をひたすらに臣は見つめている。
実を言えば、そうしている間にも何度となく目が合いはしたのだが、どういうわけか水紅は、何か言いたげにこちらを見つめ返してはきても、またすぐに手元へ視線を落としてしまうのだ。言いたいことはたくさんあるのに、どう言えば良いのか分からず迷っている――そんな素振りだった。
ずっと会いたくて堪らなかったであろう人物を前に、落ち着きなく何度も同じことを繰り返す水紅を、臣も睦も――二人の皇子付きは黙ってじっと見守っていた。
やがて――。
「あの…な、臣…」
ついに水紅が口を開く。それは、あれからずっと一人で考えていたこと。本当はずっと伝えたくて仕方がなかったこと…。
「ずっと…私は…。ずっとおまえに…謝りたかったんだ」
「え?何をです?」
臣はきょとんと首を傾げた。
「だから、その…。後のことをよく考えもしないで、母上にあのような…」
「そんな…。別に水紅様のせいじゃないですよ」
「もっと…おまえを信じたらよかった…。本当に…すまなかった」
そう言って、再び水紅は俯いた。
「……?」
ぽつりぽつりと途切れがちに言葉を口にするその姿は、いつもの彼とは明らかに違う。もはやこれまでの気位の高さや冷たさなど、どこにもありはしなかった。
今はただ本来の…素直でありのままの水紅がいた。
自分を偽る胸の内で、じっと息を殺し身を潜めていたはずの彼自身は、これほどまでにか弱く素直で優しい人間なのだ。
その胸に確かに息づく無垢な心。その赤き心。
臣は――。
臣だけはずっとそれを知っていた。
「思っていることをちゃんと全部、おまえに話してしまえばよかった…」
「水紅様…」
「だけど信頼していないわけじゃない。むしろ信用などできるのはおまえだけだった。でも…。自惚れていたんだ、きっと。自分一人で何とかなると…。だってあの人は私の母親だから…。あれでもたった一人の私の母上だから…」
水紅はおずおずと顔を上げた。
「母上だって、優しい時もあったんだ。本当だ」
「ええ…」
静かに臣は頷いた。
「けれど、あの時…。おまえが連れて行かれたあの時、母上に新しい皇子付きを選べと言われた。でもそんなこと、私には…」
「十夜を選んでください」
突然臣は水紅の手を強く握った。
「……!」
目を疑った。まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかった。彼も自分のもとを離れたくないと、そう願ってくれていると信じていた――。
臣は握り締めた水紅の手をじっと見ている。いくら水紅がその瞳を見つめても、今度は臣の方が目を合わせてくれなかった。
「ちょ…ちょっと、臣!何を言って…!?」
「いいんだ、これで!!」
血相を変えて立ち上がる睦を、臣は感情的に跳ね除けた。
「もしもこれで私が宮から出されるようなことがあれば、後任には彼を。彼の専門は政治学ですし、きっと後のあなたのお役に立ちます。それにね…彼は…彼ならば、きっとあなたとも仲良くできますよ。そりゃあまあ、ちょっと常盤様あたりはごねるかもしれませんけど――」
「やめろ…!そんなのは嫌だ!!」
水紅は微かに肩を震わせた。
「水紅様…」
「絶対に嫌だ!!だって…だって違うんだ…!違うんだよ、臣…。そうじゃなくて私は…!」
睨む瞳にみるみる涙があふれて――。
「皇子付きが欲しいわけじゃなくて…。ただ…友達を失うのが嫌なんだ!たった一人の友達を失くすのが怖いんだ…!!」
「友達…?」
問い返すと水紅は小さく頷いた。その拍子に、大粒の雫がほとほとと床に落ちる。
「うん…。おまえが…どう感じているのかは知らぬが、でも私は…。ずっとおまえを兄のように…そして、友のように思っていた。私にとって、おまえは初めてできたただ一人の友だ。一度たりとも側近だなどと思ったことはない。それは確かに、口ではそう言ってしまうことはあるが…でも…」
臣は、自分の袖で水紅の頬を伝う涙をそっと拭ってやった。
「あのな…香登がいなくなってからというもの、ここで私と喧嘩などしてくれる人間は、おまえしかいないんだ…。だからな…」
懸命に思いを伝えようとする姿が愛おしくて堪らない――。
誰かに必要とされるということは、これほど心強いことなのか。
誰かに惜しまれるということは、これほど胸が熱くなるものなのか…。
黙って肩を引き寄せてやると素直にしがみ付いてくる。まるで小さな子どもだ。細い肩が震えている。今拭いてやったばかりの涙は、どうもまだ止まらぬようだ。
「なんだ…。こうして差し上げれば良かったのか…」
臣はそっと瞳を伏せた。
如月に発つ前日の彼が目に浮かぶ。篠懸のもとへ行くと告げたあの時の水紅の顔が…。
彼は一度も目を合わせてはくれなかった。口先では、よろしく頼む――と、あたかも大人を気どって…。
でもあれは全部嘘だ。
まるでそれを口にしてはいけないように、彼が頑なに拒んだ言葉はきっと…。
『どうか行かないで。一人きりにしないで――』
きっと寂しくて堪らなかったに違いない。
心細かったに違いない。
だがそれを口にはできない。ただ独り、それに耐えるしか彼には道がない。縋る相手も、弱音を吐く先もない。そんな孤独に蝕まれるまま、ひっそりと彼は泣いていたのかもしれない…。
臣が牢へ送られたあの日もそうだ。縄を打たれるその前に、臣は改めて水紅を見上げた。
あの時、水紅がたったひと筋、流した涙。あの時――見開かれた彼の瞳が告げていた言葉もきっと同じ…。
「すみません、随分と寂しい思いをさせてしまって…。でも、もうちょっとだけ待っててください、水紅様。ほら…今はこうしてみんなもついてますから、もう怖くないでしょう?だから…ね?」
水紅はすっかり涙に濡れた顔を上げた。
「きっと帰りますから…。それまでどうか頑張ってください。だって、私はあなたのものですから。もちろん今も、これからも…ずっとね…」
そっと髪を撫でてやると、腕の中の水紅が微かに微笑む。臣は愛しい皇子を抱いた手に力を込めた。
* * * * * * * * * * * *
どうしても今話しておきたいことがあるから、水紅を部屋へ送ったらまたここへ戻って来るように、と言われた。言いつけどおり睦は折り返し牢へ足を運ぶ。
「すまんが、明日一番に之寿のところへ行って欲しい」
どうも顔色が冴えない。
「やっぱり…。水紅様の仰るように何かあったんですね…?」
「ああ…。実はな、さっき之寿がここへ来た。もちろん中にまでは入ってはこなかったが…」
臣は顎で頭上の窓を示した。
「どうも例の屋敷でひと騒ぎ起こしたらしくてな、奴も相当な深手を負ったようだ。あの様子では暫く窺見は無理だ」
「え…」
「已む無く闍彌を殺ってしまったと言っていたが…。お陰であいつもただでは済まなかったというわけだな」
緊張に喉が鳴る。殺す殺されるなどといった世界とは無縁の睦に、これは衝撃的な言葉だ。
「悪いが早々に見舞って、あいつの力になってやってくれ。それからもう一度、例の徂徠の屋敷の様子も見た方がいいだろう。敷地に入り込んだ曲者に人ひとり殺されたんだ。何事か状況に変化があるかもしれん」
途端に恐ろしくなった。
まさか自分の周りで人が殺されるなんてこと――。
しかも、之寿に千種の調査を頼んだのは自分なのに…。
殺したのはあの之寿で、しかも彼も大怪我を負って…。
「どうした?」
平然と落ち着き払った臣の素振りも信じられない。彼らの生きる世界はこんな世界――?
「い…いえ…」
睦は表情を強張らせた。
「だが、顔色が悪いぞ?刺激が強すぎたか?」
睦は首を横に振った。自分は足を突っ込んでしまったのだ。もう逃げるわけにはいかない。逃げちゃいけない。
短いため息をつくと、臣は言葉を続けた。
「ああ…それからな、之寿の話では、例の屋敷にいたという闍彌の息子な――やはり千種だそうだ」
「そ…そうですか…。やっぱり…」
「近々ここへ出向くとも言っていたらしい」
「宮へ…?」
臣は頷いた。
だが、彼女が用があるのは自分だ――とは、敢えて言わずにおく。そんなことを教えれば、またきっと睦は自分を救おうと必死になってしまうだろう。それに、このようなところに入れられていては、どの道逃げ場などないのだ。
更に、そこにまたしてもあの白露が関わっているという事実。千種が臣の身を欲する理由も目的も分からない――こんなことに他人を関わらせるのは危険だ。
「ああ、あとな…明日にでも篁をここに来させてくれないか。奴一人でな」
「え…。何をなさる気ですか?」
「之寿の姿があいつに目撃されている節がある。私が直々《じきじき》に確かめてやるさ」
「え!?で…でも…」
「大丈夫だ、そう案ずるな。何もしないでただ待っているのにも、そろそろ飽きてきたのでな…」
臣はすらりと微笑んだ。
* * * * * * * * * * * *
翌朝早く、睦は孔雀堂へと向かった。
提げた風呂敷包みには、昨日十夜が貰ってきた果物がいくつか入れられている。
水紅の世話は昨晩のうちに右京に頼んだ。皆との打ち合わせの時間も少し遅らせてもらった。臣に頼まれた篁への伝言もちゃんと伝えた。白露についても――あの様子では今日一日寝込んでいるはずだ。きっと声も掛からないだろう。
孔雀堂は、内裏からさほど離れてはいない。
この時間では、まだ店は開いていないはずだ。睦は裏の勝手口へ回り、そっと扉を叩いた。
「おはようございます。之寿さんのお宅はこちらでしょうか?」
ふと足元に落ちた睦の目が凍る。
(こ、これは…血――!?)
戸の裾に、赤黒いものがこびり付いている…!
突如として不安が襲った。無闇に騒ぎ始めた胸を抑え暫らく待っていると、少しだけ扉が開かれた。
「はい…。どちらさまでしょうか…」
顔を覗かせたのは、癖のある長い髪を無造作に引っつめた品の良い女性だ。之寿の妻と思しきその女性は以前聞いたように妊娠しているらしく、下腹部がぽっこりと膨れていた。
「あの…朝早くに申し訳ありません。お初にお目にかかります。私は宮の――内裏の学者、睦と申す者。えと…友人の臣の使いで、ご迷惑も顧みず急ぎ伺ったのですが…もしや奥様の多鶴様でいらっしゃいますでしょうか?」
女性は微笑み頷いたが、それでもその佇まいはすっかりやつれ果ててしまっている。よほど泣きはらしたのか、瞼も少し腫れているようだ…。
胸が痛い…。
睦は、あの狩猟小屋でのことを思い出していた。
五人の子を路頭に迷わせるわけにはいくまい――。
あの時の臣の言葉…。今ならその重みが、それこそ痛いほどに分かる。
之寿の身が危険に晒されれば、それを悲しむ者がここにいる。彼の守る世界――彼の愛するものすべてが、之寿という人間を心から必要としているのだ。
そうとは知らず、そんな彼に自分までが甘えて…。
(どうしよう…。まさかこんなことになるなんて…)
千種という人物が危険な相手と分かっていながら、その調査を彼に依頼したのはこの自分だ。でもまさか、こんな大変なことになってしまうなんて…。
この責任は一体どう償えばいい?
どう詫びればいい…?
「え…えと…。あの…」
口ごもると、奥から聞き覚えのある声が聞こえた。
「なんとそこにおられるのは睦殿か?」
戸口に現れたのは宮の軍医、渚であった。
「渚様…?あなたこそなぜここ…に…」
しかし――。
そこで睦の言葉は途切れてしまった。血の気が一気に引いてゆく。
あろうことか、この時の渚の手に握られていたのは、血に塗れた刀だったのである。いや、その形状から察するに、恐らくは槍か何かの刃の部分だろう。
渚はあたふたと苦笑いを浮かべ、持っていた物をさっと背中に匿った。
「い、いや…。睦殿、これはですな…その…」
言い訳が始まる前に素早く辺りを見回すと、
「すいませんっ、お邪魔します!」
睦は土間へと滑り込んだ。
「み、渚様!之寿さんは!?あの方、大丈夫なんですかっ!?」
渚は、そんな睦に少し驚いたようだった。
姿こそ見知ってはいるが、実はこれまで睦とは殆ど接点がなかった。その驚くべき実力と類稀なる容姿――更に悪意ある例の噂などから、宮では誰一人彼を知らぬ者などない。しかし、睦という人物の人となりまで知る人物となれば、そうはいないのではないか…。
宮で時々見かける彼はいつもたった一人きりで、どこか寂しくそして暗く、地位も名誉もあるはずのその立場からは、あまりにかけ離れた存在に映った。会議に臨席していても、いつも黙って座っているのみ。時におどおどと目を散らし、例えそこで意見を求められたとしても、二言三言ですぐに口ごもってしまう。言いたいことも満足に伝えられない彼を気遣うどころか、わざとらしく当て付けて見せたり大声で罵倒し嘲笑する呆れた学者もうんざりするほどほど多かった。
明らかに格下の連中にまで、いいように嫌がらせを受けているのも知っている。明け透けに本人の前で陰口を叩く者もあるそうだ。そんな陰湿ないじめに堪えきれず、人前で泣き出してしまったのも何度か見た。
専攻する学問における実力の程、またかつて皇子付きを務めたという実績を思えば、彼が何をそう卑下しているのかが分からなかった。彼はもっと堂々と振る舞っても良いはずだ。もっと自分に自信を持っても良いはずだ。ずっとそう思っていた――。
(なんだ…ちゃんと言えるじゃないか…)
ぼんやりと渚はそう思った。
「あのっ…奥様、之寿さんはどちらに!?会わせてください!お願いします!!」
今度は多鶴へ詰め寄ってゆく。その必死の形相が、却って痛々しい。
渚は持っていた刃物を紙に包み、それを多鶴へと手渡しながら答えた。
「まあ…ちょっと落ち着きなさい、睦殿。彼は今さっき、やっと眠ったところですから…。ああ、そうだ、多鶴殿。これを人目に付かぬよう処分して頂きたいのだがね…」
「ですが渚様、私は――!」
睦は尚も食い下がる。
眉を開き、渚は大きなため息をついた。
「その様子では、あなたも一枚噛んでおられるようですな」
「え…。あ、あの、それは…」
戸惑う睦の耳元に、多鶴はそっと囁いた。
「大丈夫。渚様は、主人の仕事についてすべてご存知ですよ」
「あ…」
ほっとした拍子に、気が抜けてしまったのだろう。睦の瞳に、みるみる涙が浮き上がった。涙で声が上ずる。こみ上げた感情が止まらない。
睦は震えていた――。
「私…は…。あの、わたっ…私は…っ…」
さり気なく手拭を差し出し、多鶴は柔らかに微笑んだ。
「あの…。まあ、ここではなんですから、どうぞお上がりください。お話はそれから…」
* * * * * * * * * * * *
通された部屋には誰もいなかった。
この部屋ばかりでなく、開店時間を間近に控えたはずの店舗にも、そしてこの家全体にもまるで人の気配が感じられない。現在四人もいるはずの子どもの気配すらまったくない。まるでこの家中のすべてが、世間から取り残されてしまったかのように、どこもかしこもひっそりと静まり返っていた。
「あの…お子様方は…?」
睦は少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。
「今朝、まだ暗いうちに、供の者と一緒に私の田舎へ発ちました」
「え…?」
「主人の指示です。どうも雲行きが良くないと…そのように申しておりました」
徂徠の屋敷で之寿が騒ぎを起こした――と、臣は確かに言った。だが、雲行きが良くないとはどういうことだろう?
「どういうことですか、それ…?」
「詳しいことは分かりません。主人は、臣様からのお仕事に関することは何も教えてはくれませんから…」
「そう…ですか…」
彼はそうやって家族を守っているのだろう。
家族は何も知らない。家族は裏の世界には関わらせない――それは今、睦たちが水紅皇子を庇っている様に似ている。
「之寿殿の傷は確かに深いですが、幸い彼には知識がある。自分で早々に止血してくれたお陰で、命に別状はありません。それでも私がここに着いたときには、若干ながら出血過剰による貧血を起こしていて、血圧の方も少し下がっていましてね。その症状の方も、今でこそ、まあ…落ち着いておりますが――。何しろ、薙刀の刃が肩を貫通していますので…ね」
睦の背筋をぞくりと冷たいものが伝った。
「刃が…。か、貫通…!?」
「ええ。刃は骨の方にも達しておりました。暫く右腕は動かせんでしょうな」
「で、あの…もとどおりになるんですか、之寿さんの肩は…」
「それは…。正直…何とも…」
「……!!」
言葉を失った。
もしももとどおりにならなかったら?
彼は…この店はどうなる?
そして、彼らの人生は…。
彼らのささやかな幸せは、一体どうなってしまう――!?
多鶴は黙って俯いていた。ひどく疲れたその姿。じっとうなだれるその顔――。
睦は向き直り、床に手を付いた。
「あの…奥様!とても謝って済むことではありませんが、本当に申し訳ないことを…!こちらの身勝手なお願いが、大切なご主人を傷付け、このように取り返しのつかぬことになってしまい、誠に――」
睦は額を床に擦りつけた。
「睦殿…!?」
渚は目を丸くした。
「おやめくださいまし、睦様。どうかそのような真似は…!」
多鶴は睦を気遣ったが、それでも睦は耳を貸そうとはしなかった。
「誠に…お詫びのしようもありません!実は、私が…私が之寿さんにお願いしたんです!このお仕事をお願いしたのは、臣ではなくて、その…私が――!!」
その時。
「もう…ほんとにやめてくださいよ、そういうの」
「し、之寿さん…っ!?」
襖を開けると、そこに敷かれた布団の上に之寿が静かに横たわっていた。襟からほんの少し覗く胸元――そこから幾重にも巻かれた包帯が見える。
睦は枕元にしがみ付き、ぼろぼろと泣いた。
「ごめんなさい…!本当にごめんなさい、之寿さん!!私のせいでこんな…!!」
之寿はやれやれとため息をついた。
「だからね…やめてくださいってば。さっきからあなた、一体何を仰ってるんです?全部聞こえてましたよ」
「だって…だって…」
子どものように泣きじゃくる睦に、多鶴はそっと手拭を差し出した。
「だってじゃないですよ…。誰のせいだとか、誰が悪いとか…そんなはずがないじゃありませんか」
「でも…」
「自分で勝手にドジ踏んだんですからね…。あなたはなんにも関係ありません」
之寿は天井を睨み、静かに目を閉じた。
「これでもね、ずっとこういうの専門にやってたんですよ、私…。どんな内容にしろ、仕事は自らの責任で請け負っているつもりです。だから…いいですか、一旦自分が受けた仕事はね、何が起きたとしてもそれは私の責任なんです、全部。例え腕が一本なくなろうと、それこそ命がなくなろうともね。
ま…でも、私は殺されたって死んだりなんかしませんけど。だってそんな暇ないし…。黄泉つ国へ出掛ける暇なんかないんですよ。私には、背負って歩くには確かに重いが、それでも心から愛しくて――失うわけにはいかないものがたくさんありますから」
「……」
瞳を潤ませ、睦はじっと耳を傾けていた。彼の言葉は睦だけでなく、渚や多鶴にまで向けられているように思えた。
なんて強い人だと――守るものがある人というのは、こんなに強いものなのかと、そう思った。
そして。
そう言う之寿の顔は、どこまでも穏やかに微笑んでいた…。
「あのねえ、私だって、もういい年の大人なんです。それにね、これでその道にかけては正真正銘、玄人筋の人間なんですから、仕事に対して多少の自負ぐらい持ってますよ。まったく…臣様にしてもあなたにしても、私の主はほんとみんな甘くて嫌になっちゃうなあ…」
ぼんやりと呟き、もう一度目を開けると之寿はにんまりと笑った。
「それはそうと…ねえ、渚様。さっきのお薬、全然効かないんですけど。何かちっとも眠くならないですよ?西洋鹿の子草の配合、足らないんじゃないですか?」
体が動かないことのほかは、まったくいつも通りの之寿だ。睦はほっと胸を撫で下ろしたのだった。
* * * * * * * * * * * *
牢舎の階段を誰かが降りてくる。
差し入れられた本を読みふけっていた臣はふと顔を上げた。
「お呼びですか、臣様」
現れたのは篁――白露付きの近衛長である。
臣は本を閉じて向き直った。
「仕事中にこんなところへ呼びつけて、すまんな」
「いえ…」
篁は臣の正面に跪いた。
「早速だがな、実はおまえに少しばかり尋ねたいことがある」
「はい、何でしょう?」
差し向けられたのは、臣が度々見せるあの眼差し。冷たいほどの静けさの中に、まるで人を射抜いてしまうような鋭さを孕んだ威圧的なあの視線…。
「先日、睦から妙な話を聞いた。何でも白露様のもとに、時々おかしな客があるということだったが…。おまえ、その人物に心当たりはあるか?」
篁は、僅かに怯んだようだった。
「し…知らないということもないですが、私自身がここでしかとそのお姿を目にしたことはありません。昨日、常盤様もその件で詰め所へお越しになりましたが、やはりそう申し上げました。右京や藤季は、何度か姿を見ているようですけど…」
「そうか…。だが、その人物が通って来るようになって、もう一年になると聞いたぞ?怪しい輩が宮へ出入りしていると耳にしながら、それをこれまでこの私に報告もせず、放置していたのはなぜだ」
同じ声色で淡々と浴びせられる質問。だが、静かながらもそこに確かに存在する臣の迫力――明らかに篁は狼狽していた。
「それは…」
思わず口ごもる。
「一つ言っておくが、言葉には気をつけろよ、篁。返答によってはこちらにも考えがある。光の宮は我が主、水紅様の宮だ。そこへ、宮の門番とも言える近衛が、確かにそうと知りながら怪しの輩を密かに招き入れているなどということになれば、到底許された話ではないからな。牢に入れられているとはいえ、これでまだ私は皇子付きを解かれてはいない。打つ手はいくらでもある」
口調こそ穏やかだが、その言葉は脅迫しているようにも聞こえる。
篁は尚もうろたえた。
「あ…。そ、それはあの方が――。千種様が白露様直筆の許可証を…お持ちだったからです。私は飽く迄も白露様の近衛ですから…」
「ではおまえ、ここ暫く、睦が白露様の異変を訴えていたのは知っているか?そのことと、千種なる人物との繋がりは疑わなかったのか?」
確かに彼の言うとおり、睦は自分のみならず、篁の部下や白露の御許にまで、部屋の空気がおかしい、白露様のお心が変わられた――などという世迷言を、それこそ何度も訴えていたのである。それは篁自身、良く知っている。
だが、自分がそう感じたことなどないし、他の者にしても、睦が星読みで何事か誤っただけのことだろうと…。いくら名人でも時には勘が狂うことがあるさ――と、あまり相手にしてはいなかった。
しかし、なぜそれを無下にしたのかと言われれば、取り立てた理由があるわけではない…。
「お言葉ですが、あれは…睦様がそう仰るだけで、私も部下もそのように感じたことはありませんので…」
篁は努めて毅然と言葉を返したつもりだった――。
「なるほど。では貴様、かつては皇子付きまで務めた星読み学者の言葉が信用ならんと――つまりそう言いたいわけか」
「そんな…!決してそういうつもりは!!」
「ならば一体どういうつもりだ!貴様ら近衛などよりも遙か身分の高い宮廷学者の…それも予見にかけては右に出る者のない睦の言葉をそうまで疑ったのには、それ相応の理由があるのだろうな!?」
臣は僅かに語気を荒げた。
これほど責められては、もはや篁も観念するしかなかった。返す言葉が見つからない。
そう…確かにその非は、白露の近衛長であるこの自分にあったのだ。しかも昨日、あの千種の異様さを目の当たりにしたばかり。あのような怪しい輩を、事も無げにずっと宮に出入りさせていたという事実――これを失態と言わず何と呼ぶ?
本当は、昨日のあの瞬間からずっとそう思っていた。
「篁…腹を割って話そうか。実はな…その千種なる人物、私の一存で内偵させているところだ」
はっと篁は顔を上げた。
「え!?あの…では…」
「この話はここだけのことにして欲しいが、私は白露様が何者かに操られていると見ている。そこにあの人物――千種が関わっていると…な」
「な、何ですって!?それはどういうことです!」
篁が血相を変えたのを認めると、臣はふっと薄く笑った。
「おまえ、あの人物を何と見る?本当に闍彌の息子だとでも?あるいはただの角兵衛獅子だと?」
「あの…仰ることが良く分かりませんが…」
「あの人物が、白露様と同年代の女性呪術師だと言ったら、おまえ…信じるか?」
「は…!?」
篁は息を呑んだ。
そんな馬鹿なことが…!?
どう欲目に見ても、千種はただの子どもだ。それも十かそこらの…。一方、白露は今年で御齢四十三。その二人が同じような年だなどと…。しかも女性で、呪術を生業にしている人間だなんて――!
「有り得ないと思うだろう?だが、真実だ。しかもちゃんと裏の取れた、間違いのない事実…」
心の動きを見透かされた気がした。途端に湧いた焦燥に、篁の視線はどぎまぎと散る。
臣はうっすらと瞳を細めた。
「思い込みというのは怖いな、篁――?」
臣は、暗に自分を責めているに違いない。あの怪しげな人物を、たった紙切れ一枚――白露の直筆許可証一枚で、簡単に認めてしまった自分を…。そしてそれとは逆に、睦という人物の実力の程やその数々の実績を知りながら、周囲の悪意に惑わされ彼を信用しようとしなかった自分の浅はかさを、臣は言葉巧みに譴責しているのだ。
それは穏やかに静やかに…。だが、炯眼鋭く鮮烈に――!!
臣は尚も言葉を続けた。
「さて、話を本題に戻そう。おまえ、白露様に付いて昨日出かけたそうだな?その先で千種の姿も見たはずだ。違うか?」
「あ…。は…はい…。でもなぜ、それを…」
答える代わりに、臣は僅かに鼻先で笑った。
「ま、まさかあの…!あの侵入者…!?」
再び冷たいものが背筋を走った。そら恐ろしい…。とんでもない人物だと思った。
彼は皇子付き――。あの第一皇子専属の教師であり、側近だ。だがその本業は、ただの数学者のはず。
それが、自らの窺見を持ち、巧みに操っているなど…!
しかも恐れ多くもかの皇帝陛下のお后様の動向を、密かに探っていただなんて!!
「おまえ、そいつの顔は見たか?」
「……」
咄嗟に声が出なかった。目の前で平然と振る舞う彼のすべてが信じられなかった。
「篁、正直に言え。その曲者の顔は見たか?」
「いえ…。遠目だった上に逆光でしたので、私自身は顔をはっきり見たわけではありません。ですが――」
言葉を濁す篁に、にわかに臣は眉を寄せた。
「どうした…?」
暫く考え込んだ後、篁はようやく意を決したように口を開いた。
「はっきり申し上げて、まずいと思います。私はともかく、千種はあの人物を間近で目撃しているはずですから」
「何!?」
臣の顔色が変わった。
「あの方、あそこで闍彌を倒してしまわれた。そこで代わりに千種が出ました。ですが…闍彌はともかく、千種の方は本当にとんでもなかった。咄嗟の判断の正確さも然ることながら、そこから動に移るまでの時間の短いこと。更に、身のこなしの俊敏さたるや驚愕に値します。あの窺見の腕も相当なものと見受けましたが、それでも簡単に千種に追いつかれてしまって…。あの方、手傷を負いながらも何とか逃げ遂せたようですが――。あの侵入者、あれがあなたの内々の部下だったというわけですか」
臣は小さく頷いた。
「まあ、そんなところだ。で、彼の傷の具合はどんなものだ?分かる範囲で構わんが」
「相当な深手だったと思います。闍彌の薙刀が、あの方の右肩を完全に貫いてしまっていましたし…。その上、敷地内を何度となく跳躍して攻撃を避けていましたから、その出血も半端なものではなかった。あの方、ご無事なんでしょうか?」
「ああ…何とかな」
「そうですか。良かった…」
篁はほっとした表情を浮かべた。
「良かった…?おまえ、白露側の人間だろうが。白露様の腹心を襲った憎き敵だぞ?」
呆れたよう言って、臣は顔をしかめたが――。
「ええ…まあ、そうなんでしょうけど…ね。あの千種という人物、どうも胡散臭くて…。それに、白露様の近衛だとは言っても――。こんなときの我々の立場というのはどういうものなんでしょうね…」
篁の顔色は冴えない。
「どう…とは?」
「白露様は、もはや我々近衛のことなど全く信用しておられませんしね…。むしろ煩がられて、扱いは散々なものですよ。部下の不満も溜っています」
「さてはおまえたち、何事かあの方に楯突いたな?」
篁は静かに目を伏せた。
「かれこれもう…二年程…前でしたか、睦様が香登様の皇子付きを解かれて、宮廷学者というお立場までもが危ぶまれた時、白露様はその…ある条件をあの方に出されたんです。それを呑めば宮に残らせてやると…。まあ、それについては臣様もご存知かとは思いますが…」
臣は黙って頷いた。
「結局、睦様はその条件を呑み、今も宮で仕事を続けておられるわけですが、あの時、実は私の部下の一人が、白露様に進言しているんです。いや、今でこそ私の部下…と申し上げた方が適切ですが」
「藤季か…」
「ええ…。あの頃の白露様は、今ほど傲慢なお方ではありませんでしたから、幸い牢へ入れられるような騒ぎにはなりませんでしたが…。あの藤季らしからぬ行動には、正直、私も驚かされました。彼は、一時の感情に振り回されるような人間じゃないですし、ましてやあの白露様を近衛程度の身分で直接窘めようとするなんて…。藤季のあのような姿は、彼と同期の私だって初めて目にしましたよ。でも、個人的見解を言えば、彼のあの行動が間違っていたとは思いません。彼が言わなければ、きっと私が同じことを申し上げていた。ですが、それ以来――白露様は、我々近衛を頼ってはくださいません。こちらとしては皆、誠心誠意の気持ちでお仕えしているつもりなんですが…ね…」
おもむろに臣は、足組みをした膝の上に頬杖を付いた。彼が何事かを考え込む時に見せる、あの仕草だ。
「あの、臣様…」
「何だ」
「私は白露様の近衛である前に、内裏を…延いては楼蘭国を守る一兵のつもりです。ですから、その…。もしも、私で何かお役に立てるようなことがあれば、どうかお申し付けいただきたい。もっとも、あなたが私を信じてくださるのであれば…ですけど」
向けられた眼差しに、もう迷いや恐れはない。
臣はすらりと口元を微笑ませた。
「誰付きだろうと宮の近衛は優秀さ。信じぬ者などない。だが、おまえの方はどうなんだ?おまえは私を信じるか?さっき散々訝しそうにしていたろう?」
「はい。信じるに値するお方とお見受けしました」
臣の瞳を見据え、篁はしっかと頷いた。
「ま…乗る気になったのなら、今晩の戌一つ(十九時)ごろ、体が空いていたらまたここへ来てみるんだな。そう…できれば藤季も誘って――」
そう言って、臣は涼しく笑った。