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月の雫 ―春霞の抄―  作者: 惠 悠冬(めぐみ ゆうと)
12/14

12//それぞれの憂鬱(ゆううつ)

 小さな少年が一人で泣いていた。


 星のない空の下。

 紅く細い月の下。


 ひとりきり、じっとしゃがみこむ小さな背中。


 途切れ途切れに、微かなすすり泣きが耳に届く。


 幾度もしゃくりあげる細い肩。

 触れた途端に壊れてしまいそうな小さな身体。

 ひどく儚げなその後姿。


 ああ、やっぱりそうだ…。


 私は確かにあの子を知っている。


 少年が震えながら何度も呟いていた言葉、それは――。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

むつみ…?」


 はっと目を開けると、格子の向こうからおみがこちらを覗き込んでいた。


「大丈夫か?もう戻って寝ろ。疲れているんだろう?」


 あれから明日の打ち合わせをして、皆、自室に戻った。すっかり夜も更け、恐らくは、もう寅一つ頃《三時過ぎ》…。


 だが――。


 ひどく眠たげながら、なぜか睦だけはいつまでもその場を動こうとしなかった。なんだかんだと適当な理由をこねつつ、結局睦は今もまだ格子を挟む形で臣と肩を並べ、壁際にうずくまっているのである。

 そうして臣と二人、ぽつぽつと他愛もない会話を交わしていたはずだったが、いつの間にか睦だけが寝入ってしまっていたらしい。


「あ…。ご、ごめんなさい」

 瞼を擦り、睦は恥ずかしそうに頬を染めた。


「まあ、今日は色々あったからな…。もういいから、おまえ、部屋に戻れ」


 そう言われた途端、なぜか睦の顔は半泣きに歪んだ。


「あの…もうちょっとだけだめですか?私がここにいてはご迷惑ですか?」

「いや…別に迷惑とかそういうことでは――。だがおまえ、眠いんだろう?」

「うん、ちょっとだけ。でも…。あ、そうだ!じゃあ、今日だけここに泊ってもいいですか?」


 どういうわけか執拗しつように食い下がる。何としても部屋へ戻る気はないようだ。


「はあ!?こんなところにか!そんな…風邪を引くぞ、おまえ…」


 にわかに顔をしかめ、臣は短いため息をついた。


「だ、だって…。あの…何か今夜は…何て言うか…その、一人きりになるのが嫌なんです。けど…やっぱりご迷惑ですか?ほんとに今夜だけですから…だめですか?」


 泣き出しそうな顔が訴えてくる。


 やれやれといった素振りで臣は立ち上がり、隅にしつらえられた寝台から毛布と敷布を運んだ。


「ほら」


 差し出された毛布の端を格子から引っ張り出した睦は、嬉しそうなにそれにくるまった。


「おかしな奴だな…」

 ぼそりと言って、臣本人は薄手の敷布を被った。


 そして――。


 二人はまた先ほどと同じように肩を並べ、壁にもたれた。


「そうだ、ちょうどいい。今のうちに之寿しずとの繋ぎの付け方を教えておこう」


 睦は眠たげな眼差しを向けた。立てた両膝に頬を乗せ、首を傾げるような格好で話を聞いている。


「あいつを呼び出せるのは主に晩だ。余程の用事がなければ、昼間にあいつをあそこへは呼ぶなよ?

 之寿の本業は飽くまでも薬屋だ。おかしな真似をさせてはいるが、それはこちらの都合で無理にさせているにすぎない。あいつには愛する家族と、やっとの思いで手に入れた堅気かたぎの暮らしがある。くれぐれもそいつをおびやかすことのないようにな」


 なるほど、之寿の言っていたとおりだ――と睦は思った。


 彼は信じるに値するものをちゃんと持っている。得体の知れないところも確かにあるけれど…まだ自分にすべてを語ってはくれないけれど、それでもやっぱり彼は優しい。


 臣は之寿の思いを知っているのだろうか――?


 臣の片腕を務められることを、彼がどれだけ誇りに思っているのかを。

 かつての敵であり現在の雇い主でもある臣を、彼がどれほど慕っているのかを…。


 そう思うと、また顔が綻んでしまう。


「……?」

 複雑な顔をした臣がこちらを見ている。彼には、睦がそうして微笑む意味がさっぱり分からないのだ。


「ふふっ。分かりました。昼間は呼びません」


 再び睦がにっこり笑って見せると、臣は更に顔をしかめた――が、すぐに気を取り直し言葉を続けた。


「晩に之寿を呼び出すときはあのとおり、用件をしたためた矢文を彼の家の軒下に射ることにしている。だが、それをおまえにやれと言うのもこくだし、多少なり弓のできる人間を連れて行ってもな…。あの距離からあいつの家を狙える人間は、正直そうはいないだろう。第一、他の者に之寿の存在を知られるのは困る。

 従って、おまえはだな――待ち合わせの時間と場所を記した手紙を、昼間のうちにあいつの家へ直接届けろ。あの家で彼の裏の仕事を知っているのは、妻の多鶴、ただ一人のはずだ。之寿がいなければ、彼女に手紙を手渡せ。私の名を出せば、彼女は中身を察してくれる。決して彼の子どもらや使用人に渡してはならんぞ。手紙には必ずしっかりと封をして、他人の目に触れぬよう細心の注意を払え。あとな…」


 目をごしごしと擦りつつ何度か頷き、睦は素直に話を聞いていた。聞けば聞くほど、そこに彼の人柄が見える気がして嬉しかった。


「料金はあまり少なく見積もってやるな。名の売れた薬屋と言っても、あいつは呆れるほどの人情家。時には、割に合わん物々(ぶつぶつ)交換までして薬を売ってやっていると聞く。

 家族を大勢抱えながらそんな甘い商売をしていたのでは、生計など立たんはずなんだがな…。しかし、どうもそれは奴の信条であるようで、私がどれだけ言っても聞く耳を持たん。多鶴にしても、あいつのそういう所に惚れこんでしまっていて、まるで話にならんのだ――とまあ、そんなわけでな…。様々事情を知りながら、あいつに怪しい仕事を無理強いしておいて、更に金を出ししぶったとあっては、こちらも夢見が悪くてかなわん。故に料金を弾まざるを得ん。そういうことだ」


「はい」

 睦はまたくすりと笑った。


「何だ、おまえ。さっきからにやにやと…。気持ちの悪い奴だなっ」

「にやにやなんてしてません」


 そう言いつつ、毛布から覗く睦の目は笑っている。


 臣は拍子抜けしてしまったようだった。


「もう寝ろ。目が開いていないだろう、おまえ」


「はぁい…」

 甘えた声で返事をすると、睦は小さく欠伸あくびをした。とろんとした瞳がようやく閉じてゆく…。


 どういうわけか、その顔にはまだ笑みが浮いていた。


 ほっとしたような、喜んでいるような、あたかも幸せそうなその笑顔。

 数々の辛酸しんさんめてきたはずの睦の安らかな寝顔…。


 すぐに聞こえてきた寝息にふっと笑うと、臣は一通の手紙を取り出した。愁と篠懸すずかけに宛てて書かれた水紅ときの手紙である。


 ――如月を出るときに、篠懸様がこれを臣に持って行くようにとおっしゃって…。辛い思いをしているのは兄上も同じだから、苦しくとも負けてはならん、そう伝えよと…。ここには今の水紅様の正直なお心があります。ですから…どうかこれはあなたが持っていてあげてください。


 部屋へ戻る直前に、愁がそう言って置いていったものだ。


 中を開けるでもなくただひらひらと、臣は折りたたまれた手紙をもてあそんでいた。中身など見ずとも分かる。自分のせいで臣が牢に入れられた、何とかして欲しい…と、そう書いてあるはずだ。だからこそ愁は内裏へ戻ってきているのだろう。


 だが、それを篠懸にまで言う必要があるのだろうか――?


 正直、見るべきか迷っていた。開けてしまえば、とんでもなく心が揺れそうな気がしていた。


(あの方の心の中…か)


 胸の内で呟く。


 確かにそれはずっと臣が欲していたものだ。水紅が心を偽るたびに、その本心を知りたいといつも躍起やっきになって…。


 それこそ彼に何度も言った。

 どうかもっと私を信じてください、と――。


 敷布に包まり膝を抱えた。


 今この手にある一通の手紙。


 まだ開けてはいない。

 今はまだ中を見る勇気がない…。


 自分はこれほど臆病者だったかと臣は苦笑した。ため息をついて、結局、臣はまた水紅の手紙を懐へ収めた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 昨晩打ち合わせた内容はこうだ。


 睦の話では、白露が臣を追い出しにかかるとしても、動くのは明後日以降と思われる。なぜかと言えば、話をしていてもとこの相手をしていても、どうもそわそわとどこか落ち着きがないからだ――と。


「経験上のかんですけど、あの様子――恐らく、近々千種様がいらっしゃるのではないかと思うんです。だとしたら、こちらとしては絶妙な間合いですよね。確かに昨日まではそんな素振りが無かったですから、今日…しかも、朝の一件の後で何らか繋ぎが来たのだと思います。あの方――千種様は自分を勘ぐられることを極端に嫌っていて、本当にお越しになる直前にしか合図をよこさないですから、まず間違いはないかと」


「ならば訪問は明日…ということはないのか?」


 十夜とおやは眉をひそめた。


「ありません。明日は白露様、お出かけになるようですから。懇意こんいにしている占い師の元へ出向かれるようです」


「お前というものがありながらか?おまえだって占い師だろう?」


 臣が口を挟むと、睦はばつが悪そうに答えた。


「ええ、そう…なんですけど、何だか違うようなんですよね、星読みとは。えきとか言うそうです。なんでも、星読みのように先を予言するだけの占いではなくて、結果を後にどう生かすかだとか、運命を受け入れるすべだとか、そんなことまで面倒を見てくださるそうですよ」


 臣と十夜――二人がはたりと顔を見合わせる。


「易――また道教か。方術、呪禁道、陰陽道に易…どうなっているんだ、あの女。神秘主義も大概たいがいにしろと言うんだ」


 臣は小さく舌を打った。


「道教…?あの式神と同じ類のものということですか?」


 あまりその筋に詳しくないが故か、不安とも興味とも思しき様子で愁が問う。この問いには十夜が答えた。


「うむ。易と言うのはだな、道教の基本とも言える経典『易経えききょう』に残されている占術のことだ――ということはつまり、かつてここに存在した陰陽道の根源でもあるとも言える。そもそも陰陽道とは、道教の教えを魔法や術の類にまで高め、進化させたものだからな」

「へえ…そういうものですか。となると、もしや千種という人物とその易者、何らか繋がりがあるのかもしれませんね」


 愁は頷いた。


「あ、そうか――。ひょっとしたら、あの落ち着きの無さは千種様がこちらにいらっしゃるからではなく、明日直接会いに行かれるからなのかもしれない。その易者の元に千種様がいらっしゃるのかも…」


 そう言ってしっかと顔を上げ、睦は仲間を見渡した。この確信めいた言葉といつになく自信に満ちた表情かおが心強い。


 十夜がふと眉間を寄せた。


「何にせよ、猶予ゆうよは明日一日限り。そこで確実に手を打たねば取り返しがつかん、と言うことか…。ささやかながら白露の不在は幸いと言えるな」

「ですね」


 右京も頷き、相槌あいづちを打つ。


 やがて――。


 大きく深呼吸をして、すっくと睦は立ち上がった。


「では…明日の朝一番で動きましょう!」


 一斉に視線が集まる。


「朝一番に十夜様は常磐様の元に参じてください。そこで千種様の存在を打ち明ける。妙な人間が光の宮に出入りしている――その程度の情報で構いません。情報は、右京からということに…。あ…。そう言えば、右京は千種様の姿を見たことがあったかな?」


 右京はこくりと頷いた。


「時々宮に来る、角兵衛獅子かくべえじしの子ですよね?」


 一同はぎょっと目を剥いた。


「角兵衛獅子だと…!?おまえ、そんなことまで知っているのか!!」


 集まる視線と強められた語気に、まるで自分が責められているような気になる――。

 何の非もないはずの右京は、おろおろと視線を散らすのだった。


「え…?あ、はい…。あの…天羽あもう大路の大橋のたもと興行こうぎょうしているのを時々見かけますから…」

「大体、終日宮に仕えているおまえが、なぜ天羽などに用事がある!」


 やけに鋭くやけに厳く、臣は尚も畳み掛けてくる。


 お陰で右京はどんどん萎縮いしゅくしてゆき、ついには――。


「え…と、あ…あの、あちらに…そっ…その、知り合いが…」

「ほほう…。さては女だな?」


 すかさず十夜が反応を見せる。そのにんまりと妙な含みを漂わせた顔を見るにつけ、右京は更に慌てた。


「え…っ。あ…あの、幼馴染おさななじみなんですけど…」

「女だなっ!?」


 無闇むやみに威圧してくる。それを尋ねて、一体どうしようというのか…。


 愁と睦は苦笑した。


「え、ええ…まあ…。そうです…けど…」


 そう言ったきり、とうとう右京は小さくなってしまった。対する十夜は、なぜか鬼の首を獲ったか如きドヤ顔なのであった…。


 臣は、やれやれと肩を竦めた。


「睦、話を続けろ」 

「は、はい…っ。えっと…では、右京。そなたについては、通常の勤務をごく普通にこなしてくれ。で、もしも誰かに彼女――千種様のことを尋ねられたら、彼女の風体と、ここに来たときの様子だけを答えるように。決してあの方の正体まで話してしまわないこと。いいね?恐らく常磐様は私にも話を聞きにいらっしゃるだろう。そうしたら私は、旧友と聞いた、とだけ話す。実際、あの方から聞いた話はそれしかないからね」


 右京はしかと頷いた。


「さて、みなさん、これだけで十分事は足ります。相手が得体の知れぬ人物だと感じさせるほどに、そこを調べる必要が出てくる…。ですから彼女に関してはあまり多くを語らないようにしてください。ほんの少しの情報で必ず何らか常磐様は動いてくださるはずです。あとはその動き自体を、それとなく白露様に気付いていただくだけ…。その役は私にお任せください」


「睦――。常磐様に千種の話をする役は、私に回してもらえませんか?」


 愁が口を開いた。


「十夜様は毎日のお仕事がおありでしょうし、どの道、篠懸様の呪詛じゅその件を常磐様や蘇芳様に詳しく申し上げねばなりません。千種という人物の話は、右京から、使いのついでに聞いた…ということでどうでしょう?

 そうそう、あと気になるのは、あの臣の手紙…。睦に直接手渡すところを白露様に目撃されているんですよね?本物の方は如月に置いてきましたけど、もしもあれを話題にされれば面倒だ…。万が一のときは偽装しますから、適当に何か書いといてもらえます?紙とペンはここにあります」


 愁は鞄から紙とペンとを取り出した。

 黙って受け取り、その場で臣はさらさらと適当な文を書く。ほどなくして、如月滞在時の礼状ができあがった。


 睦は言葉を続けた。


「それはそうと愁、あなたがここにいる理由はどうします?臣を心配するあまり皇子様を放り出して戻って来てしまった――というのでは少しまずくないですか?」

「……」


 さすがの愁も苦笑するしかなかった。

 確かに違いない。愁は、如月での最高責任者でありながら、病を患う第三皇子・篠懸を、文字どおり放り出して来てしまったのだから。


「あ、あのっ…そうじゃなくて!愁がここに暫く滞在する理由が何か要るんじゃないかな…って。えっと…その…。ごめんなさい…」


 勢いづくあまり率直過ぎる言葉を放ってしまった自らに慌て、睦はしゅんと小さくなってしまった。


「いえ…。本当のことですし、どうか気にしないで。うーん、でも…確かに睦の言う通りですね。どうしましょう?」

「それなら私が呼んだというのでどうだ」


 十夜は胡座あぐらを組み直した。


「篠懸様の呪詛の件、直接上に申し上げろと私が命じた――と、右京に伝言したとかなんとか、な…。それで後は篠懸様の許可さえあれば問題ないわけだ」

「許可ならあります。皆の前で皇子様から直接宮へ戻れと命令を下していただきましたから」


 ようやく睦はほっとした表情を浮かべた。


「では…常磐様の件は愁にお任せします。後は白露様――あの方のあとをつければ運良く千種様に辿たどり着けるかもしれません。でも危険と言えば危険です。とりあえず私は…明日の朝のお供を申し出てみますけど、どうかな…お許しが出るかどうか」

「それには及ばん。私が尾行するっ」


 待ってましたとばかりに、鼻息を荒げたのは十夜だった。


「十夜、おまえ…。何だその妙に嬉しそうな顔は」

 さもうんざりと臣が顔をしかめている。


 そして…。


「十夜様、あの…お仕事の方は宜しいんですか…?」


 にわかに心配顔の睦。


 しかし、十夜は完全に勝ちを悟った顔で答えるのだった。


「明日の晩、徹夜する。それで万事問題ない!」


 今度は愁が口を挟むが――。


「あの…申し上げにくいんですけど、その…尾行なさるにはちょっと目立ちすぎるかなって…。何と言うか…十夜様、体格がご立派でいらっしゃるから…」

「変装する!」


 不思議なほど自信たっぷりなのである。いくら変装したところで、人並み以上の身長や体格はごまかしようがないのだが…。


「要するにおまえ…尾行そのものに興味があるんだな」


 臣は皮肉めいて言ったが、それでも十夜はすこぶるご機嫌な様子だ。


「あのなあ、十夜…。もしも見つかればどうなるか分からんぞ。万が一にもおまえの身に何かあれば、彼女はどうなる?そういうこともちゃんと考えてものを言っているんだよな?」


 ――などと、きつくたしなめられた程度でひるむ十夜ではない。

 その代わりに実は愁と右京が『彼女』という単語に密かに反応していたが、ここはえて黙許もくきょを決め込んだようだ。


「あれはなかなかできた女だ。私の性格はよく理解してくれているし、その程度ではびくともせん。私にしてもそんなへまはしない」

「できた女だって…?何を寝ぼけたことを…。阿呆が」


 すると、途端に十夜がむきになる。


「おまえな、仮にも恩師に向かって阿呆とは何だ、阿呆とはっ。宮に上がりたての頃、散々面倒を見てやっただろうが」

「恩師だ…?少々質問に答えたぐらいで何を偉そうに…。恩師だかオヤジだか知らんが、阿呆に阿呆と言って何が悪い。大体な、今に始まったことではないが、おまえのそのいわれのない自信はどっから湧くんだ?」

「お…っ、おまえという奴は、相も変わらずいつもいつもっ!あれほど目をかけてやった恩人を捕まえてオヤジとは何だ!とおも齢下のくせに生意気だぞ!?」

「そいつは悪かったな、若くて」


 臣はあざけるように笑った。


「言われてへこむほど齢をくってはおらんッ!!」

「そうかな?水紅様や篠懸様から見れば立派に親の齢だがな」

「う…うるさいっ!皇子様方は今、関係ないだろう!?」

「それからもう一つ教えておいてやるが、おまえと私の年の差は十どころではない。十二だ。ひと回り違う。計算ぐらいしっかりしとけ」

「なお悪かろうがっ!後輩ならば後輩らしく、その減らず口、ちっとは遠慮してもらおうか!!」

「何も分かってないな。位で言うならこちらが上だぞ?」


 涼しい顔で言い放つと、臣は更に挑発ちょうはつして鼻を鳴らした。


「そういう問題ではない!人生の先輩に敬意を払えと言うんだ!!」

「おいおい、本気か?だとしたら愚かにも程がある。齢を重ねるだけなら誰にでもできるさ。別に偉くも何ともない。尊敬して欲しくば、目からうろこが落ちるほど私を感動させてみろ。そういうことならば考えてやらんこともないぞ」

「ななな何だとおッ!!」


 怒髪どはつ天を突くとはこのことだ。十夜は真っ赤になって格子を掴み、一層声を張り上げた。


 格子を挟でまるで子どものように言い争う大の男が二人。しかも、そのどちらもが内裏では知らぬ者のない立て者であるという。


 暫くこの状況に変化はなさそうだ――。


 やれやれというように愁は盛大なため息を漏らした。この様子では臣に分があるようだ…と、ぼんやり思う。

 一方の睦はと言えば、やはり彼らを止めるでもなく、なぜか嬉しそうにくすくす肩を震わせている。


 従って右京は、たった一人で仲裁に回るしかなかった。


「ま…まあまあ、どうかお二人とも落ち着いて…。もう夜も遅いですから、この辺りでお開きに…ね?」

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 手筈てはずどおり、翌朝一番に愁は常磐の元へ向かった。


 皇帝の住居兼総務を司る役所でもある嫦娥殿こうがでんは、内裏の中でもひと際大きく美しい建物だ。月の別名をかんするこの宮殿のすべての柱は、夜天を思わせる漆黒の漆でつややかに塗り上げられられており、屋根には重厚な黒瓦、その下には金飾りのついた軒丸瓦のきまるがわらが整然と並ぶ。

 朝のすがしい陽光に、堂々ときらめくその姿は、今まさに神々しいまでの荘厳そうごんさを湛え、たたずむ愁を威風堂々の様で見下ろしていた――。


(しかし…。何度来ても緊張するな、ここは)


 大きく深呼吸をすると、愁は宮殿内部へ足を踏み入れた。


 ところで――。


 宮廷学者は、家柄や育ちに関わらず、一定の条件さえ満たせば誰でもなれるが、その基準は果てしなく厳しい。

 例えば、採用されるまでには、数日に渡る数々の試験を高得点で通過せねばならないし、専攻によっては実技や論文の提出、更にはそれにまつわる質疑――などといった過酷な審査をいくつも潜り抜けねばならない。それでも、一旦それらを越えてしまえば、人の上に立つ者としての地位と名誉、そして学術研究にあたり最高の環境と待遇が保障されるのである。従って、毎年国中から大勢の学者が宮入りを望み、この試験に挑んでいる。

 そんな彼らであればこそ、必要ならば、自分の意見を直接上に陳情ちんじょうする権限をも認められており、国に与える影響力も大きいのである。

 当然ながら、身分の方もかなり高く位置づけられている。具体的に言うなら、現在、執権と改称された太政大臣、次いだ地位の左大臣、その下の右大臣――宮廷学者とは、単純に権力だけを比べた場合、その一段下に名を連ねてもおかしくないほどの力を事実上(おおやけに)に認められているのである。そこに加えて、愁や臣のように『皇子付き』に抜擢されたとなれば、位はまた更に上――左大臣にまで迫る権利が認められている。


 だが、そんな愁でさえもこの建物に近付くには少々勇気が要る。


 楼蘭国の時の皇帝がおわすつねの御所・嫦娥殿。その圧倒的な存在感の前では、いくら位が高かろうとそんなことは意味を成さない。ここにはそんな重々しい空気があるのだ。


 身が引き締まる思いで、愁は真っ赤な絨毯の敷き詰められた通路を進んだ。


 ――コツ、コツ。


 ようやく辿り着いた執務室の前でもう一度深呼吸をした後、愁は扉を静かに叩いた。


「おはようございます、常磐様。愁です。今、宜しいですか?」

「構わん。入れ」


 扉の内側で、愁は深々と一礼した。


「そなた、篠懸様はどうした?」


 書類だらけの机から、貫禄かんろくのある低い声が投げられる。


 ここまでは予定通りである。迷わず愁は、かねてより打ち合わせてあった言葉を返した。


「はい。先日、十夜様より、篠懸様のお体の件は直接報告に参じるようにとの連絡を頂戴しましたので…。また、実はあれから数々込み入った案件も生じまして、篠懸様より急ぎ宮に戻れとご下命かめいたまわりましたゆえ」


 するとほんの一瞬、常盤はいぶかむ素振りを見せた――が、幸いそれ以上深く気に留める様子はない。その代わり、常磐は手元の呼び鈴を鳴らし、隣の小部屋に控えた侍従を呼んだ。


 よし、ここまでは上出来だ。


「そうか…。して…どうだ、皇子様のお加減は?」


 常盤は応接用のソファへ愁を促した。


「以前、久賀からご報告させていただいたとおり、みるみる元気を取り戻されています。確か先日、堅海を通して文書でもお届けしているはずですが…」


 現れた侍従に、常磐は手振りで何かの合図を送った。


「うむ、見た。この呪詛云々の件について、私も詳しく知りたいと思っていたところだ」


 愁は、遊佐から聞いた呪詛の話と、その主に関する情報を手短に語った。そして更にもう一つ、あらかじめ用意していた新たな書類を差し出した。


「楼蘭の人間が、紗那の人間を使って呪いをかけている…とな?」

「はい」


 受け取るや否や、さらさらと中に目を通す。

 薄く束ねられたそれは、その後の新たな情報が書き加えられた報告書である。もちろん天飛の山頂での式神強襲の件については一切触れられていない。


「ええ。しかもその人物はどちらも女性。更に術者については、現在楼蘭国内に居を構え、宮にも出入りしているとのことです」


 常盤の顔色が変わった。


「何!?しかし、水紅様に謁見えっけんを申し出る者から物売りまで、それこそ大勢の者がここを出入りしている。そのような者、調べようがないぞ!?」

「ええ…。ですが、手懸りならあります。篠懸様が例の発作を起こされるようになったのはここ半年から数ヶ月といったところ。つまり、そこから推測しても、相手はこの一年以内に宮へ出入りを許された者ではないかと思うのですが」


 眉間にしわを寄せ、常磐は何度か頷きながら耳を傾けていた。その顔色は冴えない。


「しかし、そうは言ってもな…」


 不意に扉が叩かれる。


「失礼します。お呼びですか、常盤様」

「おお、来たか。その報告書、以前のものは既におまえに見せたな、十夜」


 程なく現れた待ち人に、常磐は愁の報告書を差し出した。


「ええ…。拝見しました」


 受け取った書類をめくりつつ、十夜は愁の向かい側へ腰を下ろした。


 それにしても――。


「……」

 今、目の前にある彼の、静逸せいいつ且つ沈着としか言いようのない様は、一体どうしたことであろう。見るほどに、昨晩の人懐ひとなつこさが嘘のようだ…。


 鋭敏で涼やかな眼差し。

 堂々と落ち着き払ったその物腰。

 おごそかで、むしろ近寄り難ささえ覚えるこの雰囲気。


 どれを取っても、昨晩、臣と散々に遣り合っていた彼と同一であるとは信じられない。あたかも別人を思わせるこの十夜の豹変ひょうへん振りには、さすがの愁も我が目を疑うよりなかった。


 だが――。


 よくよく考えてみれば、目の前のこの姿こそがこれまで愁が知っていた十夜のはずだ…。


「愁――。二つ三つ、質問があるのだがな」


 呆然と目の前の大男を見つめて思いを巡らせていた愁は、本人の言葉で我に返った。


「あ…は、はい。何なりと」


 力強い視線が真っ直ぐこちらへ向けられている。りんとしたその顔は、穏やかながらそつがない。まるで彼の知性の高さが丸々にじみ出ているかのようだ。


「遊佐様の言葉をまとめればこういうことだろう?

 篠懸様の現在の病状は何者かの呪詛にるもの。その送り手は少なくとも二人、しかもどちらもが女性。楼蘭に生まれ住む『依頼者』と、紗那の出でありながら今は楼蘭で暮らす『術者』――。そして、後者はかつての宮廷呪術師の末裔まつえいであり、方術の類をも操る強力な能力者でありながら、先ごろまでその力を封印していた節がある。ということはつまり、我が国において、現時点で名を馳せている霊能力者の類は、全員該当(がいとう)から外れるわけだな?」


「そう…なりますね」

 愁はわずかに眉を寄せた。


「更に前者は、篠懸様の身近に今もある者――とある。そうなると、この人物は宮の人間ということになるが、ここであの方を恨まねばならん者などあるかな…?皇子様とはいえ、篠懸様はまだよわいほんの十二の少年だ。しかも将来この国の皇位を継ぐわけでもない。そう…せいぜい大臣辺りの地位に落ち着くか、皇族の一人として皇帝陛下の後援に回るというだけのお立場だろう?そんな彼を亡き者にしたとして、誰に一体何の得があると言うのだ?しかも、ひと思いにというのではなく、じわりと時間をかけて苦しめるこのやり口、よほどの私怨しえんがあると思えるが、愁…そなた、何か心当たりはないのか?」


 さすがの明察めいさつ、さすがの洞察どうさつ――。


 昨夜の天真爛漫てんしんらんまんな彼とは明らかに一線をかくすこの凛然りんぜんたる姿はどうだ。諸大臣らを始め数々の官僚らが、一目置くというのも頷ける。


 一瞬愁は返す言葉に詰まった。


「え、ええ…。ですがしかし、そういったものがあるとすれば、私には梓様のことぐらいしか…」


 愁は目を泳がせた。

 このようなこと、証拠もなしに言うべき事ではない。それは分かっている。分かってはいるが、正直疑わしい人間は、ただの一人しか…。


 続く言葉に戸惑っていると、十夜はかっと声を荒げた。


「滅多なことを…!!愁!そなた、自分が何を言っているのか分かっているのか!?軽々しく梓様の名を口にするなど!!あの方が庶民の出であり、元はめかけであったこと、更には陛下のご寵愛ちょうあいの前で、他のお后様方から疎ましく思われていたことは周知の事実!つまり、どなたかの梓様に対する恨みが篠懸様にまで及んでいるとするならば、今現在、その悪意の出所は一つしかないのだぞ!!」


 激しい剣幕の前に成す術もない。確かにそう…彼の言うように悪意の出所など一つしかない。


 先ほどから常盤はじっと目を閉じたまま、ふたりのやり取りを静観せいかんしている。


「……」

 まさか返事などできるはずがなかった。


「貴様、白露様がその主だと…そう言いたいのか!!」


 煮え切らぬ愁に苛立ったか、十夜は思い切り卓を殴りつけた。浴びせられた怒号の激しさに、細い肩がびくりと揺れる。


 膠着こうちゃくした時だけが密かに流れ行く。

 沈黙に支配された空気が愁の前で重くこごっている。


 やがて、唇を噛み締め、おそ躊躇ためらいながら顔を上げた愁を、変わらずの険しさを宿した瞳が鋭く深く射竦いすくめる。


 だがしかし――なのである。


 目が合ったその瞬間、どういうわけか十夜は口の端をにんまりと微笑ませたのだ。


(え!?)


 どきりと胸の底が鳴った。

 理解できない。咄嗟とっさのことに声も出ない。


 そんな愁をよそに、十夜は常磐へ目を移した。


「しかし、常磐様。確かにこの遊佐様のお言葉から察すれば、愁の言うような解釈になりましょう。今在る材料だけで事を判断せざるを得ないとなれば、彼でなくともそう考えるのは必然。まさかここで愁ばかりを責めるわけにもゆきますまい。

 とはいえ、何一つ証拠がない現状では何とも話になりませんが、疑わしさが払拭ふっしょくできぬ以上、少し警戒した方が良さそうですね、あの方」


「奥方様をか…」

 常盤は複雑な表情を浮かべた。


「ええ…。他に考えられるものもないのですから、ここは手懸てがかりの一つと考えた方が宜しいかと。いい加減にこちらも何らかの手を打たねば、篠懸様だっていつまでも宮へお戻りになれませんしね」


 うそぶいて、さりげなく視線を戻した十夜の顔は何か意味ありげな笑みを湛えている。


(な…っ!まさか…)


 さあ、今こそ例の話を切り出せ――とばかりのこのしたり顔は、やはり…。


(まさか、今のは全部…演技!?)


 一瞬、愁の中で時が止まった。


 そうして愁は、ようやくその顔に込められた十夜の思惑おもわく取ったのである。

 頭ごなしの叱咤しったに、さっきまで本気で怯えていた頬がにわかに引きる。まんまと騙された恥ずかしさで、頬がかあっと熱くなってゆく…。


 急に罰が悪くなって愁は顔を伏せた。


 つまるところ、十夜はこの場の会話を巧みに誘導することで、愁が違和感なく千種の話を切り出すきっかけを作ったのだ。そして、愁をして白露の疑わしさを強調することで、常盤の疑念を更にあおったこの機転…!


 実に巧妙。

 実に老獪ろうかい

 それでいて、このしたたかさ――!


 やがて。


 大きく息をついて気分を落ち着かせると、愁は昨夜打ち合わせた話を切り出した。


「あの、常磐様…。今の件に関わるかどうかはまだ不明なのですが、少し気になる話を耳にしました」

「ん?何だ…?詳しく話せ」


 努めて平静を装い、愁は神妙に頷いた。


「実は昨日、臣からの礼状を持って右京が如月を訪ねて参りました。その折に、たまたま彼から聞いた話なのですが…。時折、光の宮の白露様の元を妙な子どもが訪ねて来るそうです。常磐様はその子どもについて何かご存知であられますか?」


 常盤はおもむろに首を捻った。


「子ども…とな?」

「はい。篠懸様ぐらいの年恰好としかっこうの少年だそうですが、ひと月に一度か二度、光の宮へやって来るとの事。本来ならば、その訪問目的を問わねばならぬところですが、その少年は、白露様直々の参内さんだい許可証を所持しており、近衛長であり光の宮の警備責任者である右京にしても、どうにも強くただせず、扱いに困っているとのことでした」


 十夜は小さく頷いた。


「ほう…。では、その辺りから手を入れますか」

「うむ、そうだな。では、早速動いてくれるか、十夜」

「いえ、申し訳ありませんが、私はこれから少し出かけますので、今日のところはこれで失礼致します」


 その言葉に常盤は慌てたようだった。


 その様子からは、日頃常盤が十夜に対して絶大な信頼を置いていることばかりか、彼の行動力そのものを相当に当てにしていることがうかがえる。つまり、ただの学者でありながら楼蘭国第二の権力者・執権の片腕を務める彼は、今やその実力において当の常盤をもしのいでしまっているのだ。


(十夜様――。知れば知るほど、とんでもないお方だな…)


 そんな二人のやり取りを、愁は無言で見つめていた。


「何事だ、十夜。聞いていないぞ」

「ええ…実は昨夜遅くにまた祖父が倒れたようですので、これから少し様子を見に参ります。ご報告が遅れて申し訳ありません」


 十夜は深々と頭を下げた。


「それに…。あの白露様に直接お尋ねになりたいのであれば、それなりの地位のあるお方でなければ、適当にはぐらかされてしまうか誰かのように牢に入れられてしまうのがオチですよ。私程度では何とも…」


 個人的な理由で自分の手伝いをさせてはいるが、その常盤といえども、表向きはただの宮廷学者でしかない十夜を無理に引き止めることなどできない。ついに観念した常盤は、あからさまに肩を落とした。


「なるほど、確かにな…。止むを得ん、機を見て私自身が奥方様の元へ出向くとしよう」


 その時だ。


 呆ける愁のつま先をコツンと蹴飛ばすものがある。

 はっと我に返れば、真正面から十夜の目配せが送られているのに気付いた。


「あ…!で…っ、では、私もそろそろ失礼します、常盤様!」

 あたふたと愁は立ち上がった。


「愁――。そなた、いつまで宮にいるつもりだ?もしも可能であれば、少し時間を作ってもらいたいのだがな」


 思いもよらぬ言葉に、思わず愁は目を丸くした。

 これまで常盤とは必要以上に言葉を交わしたことがない。愁にとってはむしろ雲の上とも言える人物である。


「え…?あ…ええと、色々買い物などもありますし、こちらの雑務も少し片付けておくつもりですので…。そうですね…少なくとも、あと二、三日は」

「そうか。そなたとはまたゆるりと話がしたい」

「は、はい。ぜひ、また…。お時間の許す時にいつでもお申し付けください」


 そう返答し、二人は連れ立って部屋を出た。


 とりあえず――常盤の態度を察するに、こちらの策略通りの展開が期待できそうだ。

 しかし正直、初めから変にぎくしゃくしていた愁があのまま一人で立ち回ったところで、あれほどすんなりと事を運べたかははなはだ疑問である。良くも悪くも生真面目な愁であればこそ、その不自然さを隠そうとするあまり、肝心なところではうっかりぼろを出しかねない。


 実は、愁が堅海に持たせた報告書を既に目にしていた十夜は、ここでまた常盤から声が掛かるであろう事を予測していた。であればこそ、愁がごく自然に話題を切り出せるよう少しばかり言葉を挟み、細工を施し、絶妙なところで彼の背を押してやった。そしてその後、一度は愁を窘めてやることで常盤をこちらに同調させ、無理なく会話本筋の軌道に乗せてやる。結果、望むとおりの反応をまんまと常盤から引き出すことができたのである。今回のことは、確かに十夜の機転による功績が大きいだろう。


 いや、それはそうに違いないのだが――。


 無言で通路を進み、いくつかの角を曲がり…常盤の部屋から十分な距離をとった場所でついに愁は――。


「もう!ひどいじゃないですか、十夜様っ」


 突然十夜を追い越すと、その前方にしっかと立ちはだかった。


「ひどい?何がだ??」

 先ほどとは一転、ぽかりとした顔が首を傾げる。


「さっき私を騙したでしょう!?」


「し…っ。こらこら、人聞きの悪いことを言うな」

 あたふたと辺りに気を配り、十夜は唇に人差し指を当てた。既に、その表情も言葉も昨夜の彼に戻っている。

 十夜は体をかがめ、ぐっと声をひそめた。


「まあ、少し落ち着け、愁。話の続きは私の部屋で聞こう。このような場所であまりむやみなことを言うものじゃないぞ。壁に耳あり…ってな」

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 十夜の部屋には既に睦がいた。


「演技とはいえ、あんなに強く責めるなんて、人が悪いですよ!!本気で私は心臓が止まるかと思ったんですから!あの方が犯人です――と、私はそれこそ喉まで出かかってたんですからね!!」


 十夜に連れられてここまで来たのはいいが、部屋に入った途端、あらぬ剣幕の愁である。お陰ですぐ横で目を真ん丸にしている睦の姿に気付いていない。


「ふっ、馬鹿な。おまえは言わんさ、そんなこと」

「なぜ…!なぜそう思うんですか」


 愁は不服そうに口を尖らせた。


「おまえが愚かな人間ではないからさ。もしもそれを常磐様の前で断言してしまえば、その根拠や証拠までも並べねばならなくなる。奥方様をそうやって責めることで、おまえ自身が彼女の恨みを買えば、如月にいる篠懸様の身に更なる危険が及びかねんだろう?これでは本末転倒だ。そんな浅はかなおまえではない。

 それより…立ち話もなんだ。とりあえず掛けろ。ほら、睦も驚いているじゃないか。かわいそうに」


 睦の手には、いつかと同じ白いカップが包まれていた。朝からまた馳走になっていたらしい。


「え…?むつ――」


 振り向いて、ようやくその存在に気付いた――が、それよりもその向かい側で微笑むもう一人の人物に息を呑む愁なのであった。


「み、瑞穂様――っ!?」


 先日の誰かとまったく同じ反応である。

 思わず吹き出す十夜の傍らで、睦と瑞穂も同じ顔を見合わせて苦く笑った。


 ややあって――。


「なるほど、そういうことだったんですか…。全く存じませんでした。すみません、つい大騒ぎをしてしまって…」


 十夜と瑞穂の関係を知って、愁は面目なさげに肩をすぼめた。


「伏せてあるのだから知らなくても当然さ。だが、それゆえ、くれぐれもこのことは他言無用にな」


 特に十夜は気にするでもなく、例のごとき愛想のよさでにっかりと笑った。その隣では瑞穂が恥ずかしそうにはにかんでいる。


「はあ…」

 ようやく落ち着きを取り戻したか、愁は深いため息をついた。

 情けない顔が、目の前にのカップの中に映っている。中には例の黒い液体が注がれていた。十夜が認めた人物のみに振舞うアレである。


「さてっ。そろそろ頃合だな!支度をせねばっ!!」


 十夜は何とも嬉しそうに立ち上がった。


「ここから変装して行かれるんですか?」

 睦が不思議そうに首を傾げた。


「いや、このままここを出てある場所にて着替え、待ち伏せる。素早く着替えられるよう工夫も練習も重ねた。ふふ。完璧だ…」


 満足げに何度も頷きながら、十夜はいそいそと奥の部屋へ消えた。


「練習――って、いつの間に…」


 ぼそりと呟いた愁は、半ば呆れ、ちらりと瑞穂を見ると――。


「うふふふ」


 微笑む姿に、ふと複雑な気持ちがこみ上げる。

 恐らくは、これから夫がしようとしていることを知っているであろう彼女の、この意外な落ち着きぶり。だが、そうであるならば、この尾行がいかに危険な事なのかも承知しているはず。それなのに、どこか安穏あんのんとしたこの様子は、昨晩十夜が言っていたように、彼女の肝が据わっているからこそのものなのだろうか…?


「あの…瑞穂様。おうちでの十夜様はいつもあんな調子なんですか?」

「え…?」


 瑞穂は浮かべた微笑をそのまま愁へと向けた。


「あの…。今しがた、十夜様とは常盤様のお部屋でご一緒させて頂いたのですけれど、そこでは…何と言うか、まるで別人のようにどっしりと強かに構えていらして――。ですから、つまり今のような…その…陽気で屈託くったくのないお姿とはあまりにかけ離れていて…。どうもうまく言えないのですけれど…」


 瑞穂はくすりと肩を揺らした。


「ふふっ。ほんと、大きななりをしてまるで子どものような人でしょう?でもそう言われてみれば、確かに出会った頃はあんな風じゃありませんでしたわ、あの方…」


 少し考え込むような仕草を見せた後、瑞穂は再び眉を解いた。どうも十夜の話をするのが嬉しくてたまらないといった素振りだ。


「私が言うのも何ですけれど、仕事中の主人はとても真面目で堂々とした方。でもそれは、そう振舞っているだけに過ぎません。あの通り、人付き合いの器用な性質たちですから、それこそお友達も知り合いも多いですし、贔屓ひいきにしてくださる諸大臣様を始め、懇意こんいにしてくださる官僚の方も数多くありますけれど、本当に心の許せるお方はほんの一握り。主人はそういう方の前でしかあのような姿は見せません。みなさんとお近付きになれたことが、よほど嬉しいのでしょうね」


「はあ…。そう…なんですか…」

 愁は複雑な表情を浮かべ、目の前の珈琲をすすった。


「ねえ、愁。ひょっとして常磐様のところで何かあったんですか?」


 睦が横から顔を覗かせる。


「ん?ああ…いや…。あの方を知れば知るほど、どういう人なのかよく分からなくて。

 でも何年もこの内裏で働いていながら、知っていることと言えば顔と名前だけ――私にとっての十夜様は、ほんの昨日まではそんな方でした。

 時々は大きな会議で顔を合わせもしましたが、いつも常磐様の隣でじっと座っていらっしゃるばかりですし、退室される時だって他の大臣様方といつもご一緒でしょう?普通の学者であるはずなのに、一体どういうお方なのかな…って、不思議に思ったこともありました。

 それでも、何事か意見を求められれば、その場がいくら大きかろうと気後れもせず凛然とご自身の考えを述べられるし、またそのご明察の鋭いことと言ったら陛下や他のお偉方をも唸らせるほど…。気高く威厳に満ちたそのいでたち、本質をずばりと見通す思慮深さ。十夜様のそんなお姿を拝見するにつけ、ああ、この方はその肩書きこそただの学者に違いないが、私など到底足元にも及ばない。雲の上のお方だ――と、正直ずっとそう感じていました」


 愁は肩をすくめた。


「あら…。では、がっかりさせてしまいましたね」

 瑞穂は困ったような顔で笑った。


「いえ、そうでもないですよ。今思えば、むしろちょっと安心したかな…。お近付きになれてこちらこそ光栄です」


 小さく笑ってそう言うと、愁は残りの珈琲を一気に飲み干した。


「でも、さっき何か怒ってましたよね、愁…」

「ああ…あれはね、常磐様の前で十夜様に一杯食わされてしまったから。もう、本当に恥ずかしかったんです。顔から火が出るほど」

「……?」

「?」


 二つの顔が、何度も目を瞬かせながら不思議そうに愁を見ていた。


 その時である。


「なるほど。言いたいことはよく分かった。別にそういうつもりはなかったんだがな。そうか…そんなに困らせてしまったか。折角そこまで買いかぶってもらっていたのに、申し訳のないことをしたな、愁」


 振り向くと、背に巨大な風呂敷包みを背負い、腕に何冊もの分厚い書物を携えた大男が立っていた。これから尾行に向かうというのに、とんでもなく目立つこのいでたちは一体どうしたことか――。


 一同はぎょっと目を剥いた。


「ちょ、ちょっと…十夜様!何て格好なさってるんですか!!まさか、それで行かれるんじゃないでしょうねっ!?」


 血相を変えた睦が立ち上がる。


「無論、これで準備は万端ばんたんだ」


 自信満々に十夜は笑ったが、前に居並ぶ眼はすべて点になったままだ。


「そんな!目立ちすぎますよ、十夜様!!」

 思わず愁も声を上げる。その拍子に、卓上のカップがガチャリと耳障りな音を立てた。


「だから変装はまだこれからだと言うのに…。ああ、そうそう。この本な、臣に届けてやってくれ。牢の中じゃさぞ退屈だろうからな」


 皆の心配をよそに、十夜は愁の手にずっしりと重い三冊の本を握らせた。


「あ…あの…。因みに…どんな変装をなさるおつもりなんですか?」


 にわかに胸をぎるは悪い予感ばかり。騒ぐ胸を押さえ、恐る恐る睦が尋る…のだが…。


「それは秘密っ!敵をあざむくには先ず味方からと言うからな」


 この言葉で、皆の不安は一気に頂点へ上り詰めることとなる。


「どうかお願いですから教えてください…!十夜様、何する気なんですかっ!?」

「ふっ。案ずるな、睦!万事問題ない。与えられた任務はちゃんと完遂かんすいしてみせる!ではなっ」


 満面の顔で言い残し、十夜はさっさと部屋を出て行った。呆気にとられる三人をその場に残して――。


「あ…」

 ふと瑞穂が口を開いた。


「昨夜遅く、主人が大きなかごのようなものを部屋に運び込んでいるのを見かけたのですけれど、それと何か関係があるのでしょうか…?背中のあの包みと、ちょうど同じくらいの大きさだったと思うんですけど…」


「「か、籠…っ!?」」

 同時に張り上げた声を上擦うわずらせ、愁と睦は互いの顔を見合わせた。変装道具に『籠』だって――!?


 やがて愁はぎゅっと眉間を寄せると、預かった本をむんずと睦へ押し付けた。


「睦――。私、これから十夜様のあとをつけてもいいですか?」

「え…」

「何かあってからでは遅いですから!幸い私はこの後の役目がない。でも、確かあなたはこの後、自室で常磐様を待たねばならないはずだ」


 言うが早いか上衣を脱いだ愁は、それを丸めて睦の腕の中へ無理に押し込んだ。お陰で、睦の腕は荷物でいっぱいになってしまった。


「ええ…。そうですけど、でも…」

「もしも誰かに私の行方を尋ねられたら、買い物に行ったとでも言っておいてください!では、行ってきます!!」

「え!ちょっ…ちょっと、愁――!!」


 呼び止めた声は届かなかったようだ。


「行ってしまわれましたね…」


 呟く瑞穂の隣で、山と積まれた荷物を前に睦はがっくりとうな垂れるのであった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 人目を避けながらうきうきと門を目指す道すがら、偶然にも十夜は謁見へ向かう水紅と右京の姿を見付けた。


「なるほどな。そう言えば、先ほど母上の部屋に御許おもとが何人か入って行くのを見かけた。となると、そろそろ出発の頃合か」


 右京から計画の概要を聞かされ、いくらか元気を取り戻した水紅は、前を向いたまま呟いた。後ろに控えた右京が頷く。


 と――。


 突然水紅の歩みが止まった。


「なあ、右京…」


 しかし、そう言ったきり、なぜか水紅は黙り込んでしまった。


「どうなさいました、水紅様?」

 素早く右京は隣へ回り、俯く顔を覗き込んだ。


「あの…な、私が――。私が会いに行ったら、やはりまずいかな…」

「え…。あの、臣様に…ですか?」

「うむ」


 水紅は小さく頷いた。


「……」

 気持ちは分かる。


 しかし、この国では皇族は神に等しく尊い存在。その彼が、牢にいる罪人の元へ出向くことなど許されるのだろうか?


「そ、それは――。ええと…」


 思わず咄嗟の返答に詰まる。


「……」


 そんな素振りから、自ずと答えを悟ったのだろう。水紅は再びしょんぼりと俯いてしまった。


 その時である。


委細承知いさいしょうち!今晩で宜しければ、この私が何とか致しましょう!!」


 不意の声に振り向くと、腰に手を当てた異様な男が胸を張って立っている。


「十夜…?」

「十夜様?」


 思いがけない人物の突然の登場に二人は驚いた――が、それよりもその背に背負った大きな風呂敷包みに二人の目は釘付けになってしまった。


「ななな何ですか、それっ!?その荷物…っ!!」

「何って変装道具だが?」


 真顔で答える。


 ずかずかと詰め寄ると、右京は苛立たしげに声を潜めた。


「変装、って――!!これから尾行するのにそんなに目立ってどうするんですか!!」


 十夜はむっと眉を寄せた。


「だから、変装はこれからするんだっ」

「だって、ただでさえ目立つ体格でいらっしゃるのに、加えてその大荷物!もうそれだけで十分怪しいですよ!!これでどうやって内裏を抜けるおつもりなんです!?」


 右京は更に強い調子で窘めたが、その程度で怯む十夜ではない。十夜は鼻先で薄く笑った。


「ふっ…。たかが近衛の分際で言ってくれるじゃないか、右京。だがな、心配は無用!何度も頭の中で模擬を重ねた。私の計画は完璧だっ」


 近衛の分際で――。


 その言葉に右京が唇を噛みしめたその刹那、今度は水紅の手が風呂敷へと伸びた。


「何が入っているんだ、これ…」

「だっ、だめですよ、水紅様っ!内緒なんですから!!」


 十夜は慌てて体の向きを変え、背中の荷物を遠ざけた。


「別に我らに伏せる必要などないだろうが」

「何を仰います、大ありですよ!ところで、お時間は宜しいので?謁見に行かれるのでしょう?」


 十夜はにっこりと微笑んだ。


「ああっ!本当ですよ、水紅様!!これでは遅れてしまいます!急がねば!!」


 我に返るや否や、懐中時計を取り出した右京はひどく慌てた。


「し…しかし…」


 おろおろと目を泳がす水紅の背を押し、右京はさっさと十夜の前を立ち去った…が、擦れ違いざま――。


「何を目論もくろんでおられるのか存じませんが、くれぐれもお気を付けくださいね、十夜様!ささっ、水紅様、お早く!」


「き…気を付けてな、十夜。晩にまた…」

 やっとで振り向きそう言うと、水紅は右京に引きられるようにして去って行った。


「口ばかりだな…右京。私の心配など二の次か」


 一人ぽつねんと取り残された十夜は、まるで子どものように口を尖らせるのだった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 あれからすぐに追いかけたのに、なぜかどこにも姿が見えない。


 十夜を追って青竜殿を飛び出した愁は、懸命に内裏の中を駆けずり回っていた。ふと見れば、遥か前方に水紅と右京の姿が見える。


「水紅様!右京っ!!」

 慌てて愁は駆け寄った。


「どうした、愁。血相を変えて…」


 日頃あれほど品行方正で通っている愁が、これほど取り乱しているのも珍しい。水紅はにわかに目を丸くした。


「あの…っ!あの…お二人とも、十夜様を見掛けませんでしたか!?さっきからずっと探しているんですけどなかなか見つからなくて!!」


 息を整える間もなくくす。


「見たぞ、たった今」


 二人はやれやれと顔を見合わせたが――。


「ちょっと、愁様!十夜様のあの格好は何です?これから白露様を尾行されるのでしょう?あれじゃあ目立ちすぎですよ!!」


 愁の袖を引き寄せるや否や、右京は声を潜めた。小声ながらもその語気は荒い。


「いや…私も睦もそう申し上げたんだが、どうにもお聞き分けくださらないんだ。仕方がないので、私があの方の後をつけ、何事か問題を起こさぬよう見張ることにした!おかしなことをされる前にお止めせねばっ。で…十夜様はどちらへ行かれた!?」


 右京は内裏の外へ通じる南門の方角を指差した。


「その通路を真っ直ぐあちらに行かれたと思いますが…」

「分かった、ありがとう!」


 愁は即座にきびすを返すと、振り向きもせずに駆け出した。


「気を付けてな…」

 遠ざかる背中に呟いてみるが――恐らく聞こえてはいまい…。


「しかし、尾行に尾行を付けるとは…。睦…あいつ、手間の掛かることを…」


 自ずと漏れた水紅の言葉に、右京は苦く笑った。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 一方――。


 愁が飛び出していった後。自室へと戻った睦であったがどうにも心配は尽きまじ…。自分の部屋にいるのに、どういうわけかひどく気分が落ち着かない。睦は狭い部屋の中をうろうろと所在無げに歩き回り、ため息ばかりをついていた。

 ふと窓の外へ目を遣ると、白露を乗せた青糸毛あおいとげの牛車が、今まさに通り過ぎて行くところだ。それを見るにつけ、睦の不安はまたつのる。


(十夜様と愁が、どうかご無事でありますように…)


 堪えきれなくなった睦は、机から手鏡を取り出した。


 月灯りのない昼間の星読みは、通常の倍――いやそれ以上の神経と体力を要する。星が陽光を嫌うからだ。まばゆい太陽の下で星を眺めることが叶わぬように、星読みにおいてもまた模擬宇宙のすべてがそこに現れるとは限らない。従って、精確せいかくな結果を求めんとするならば、日が暮れてから…というのが星読みの常套じょうとうとされている。しかし、それも普通の術者に限ってのこと。睦ほどの実力をもってすれば、頃合など選ぶ必要もない。

 程なく、ドン!という低い爆発音とともに、手鏡から光の柱が上がった。光は睦の髪と衣の袖を跳ね上げ、天井高くへ湧き上がると、ぱっと四方に飛び散った。無数の光の粉が部屋中を舞い踊る。

 宇宙そらを仰いだ睦は、ふと眉を寄せた。一体彼は、そこに何を見たのだろう――?


「……」


 降り注ぐ星々の中、睦はぺたりと椅子の上に崩れ落ちた。うなだれた顔から、その表情を窺い知ることはできない。深いため息をつき、睦はひとり、何事かを呟いているようだった。


 その時――。


 コツコツと扉を叩く音が耳に届いた。


「は…はい」

 慌てて立ち上がり、扉を開けると、予想通りそこには常盤が佇んでいた。


 ところが――。


(あ…!)


 睦の瞳が僅かに狼狽ろうばいの色を見せる。意外な人物の存在を認めたためだ。


 常盤の後に控えていたのは、現在の白露の近衛の一人であり、かつては香登付きの近衛長を務めた人物――藤季ふじすえであった――。


 睦と目が合うと、藤季は顔色も変えず軽い会釈をした。


「睦――。少したい話があるのだが、今、構わんか?」


 低いしゃがれ声が問う。


「あ…。はい、どうぞ」

 睦は彼らを招き入れ、常盤を窓際の長椅子へと促した。常盤が腰を下ろすのを見届けると、睦は一人掛けの椅子を運び、自分はそこへ座った。藤季は傍らにじっと佇み控えている。


(なぜ藤季がここに…。白露様と一緒に行ったんじゃないのか)


 そんな睦の胸を察したか、おもむろに常盤は口を開いた。


「奥方様のお供には近衛長のたかむら自らが付いていった。藤季は敢えてここに居残らせた」

「なぜです?」

「彼に少し尋ねたいことがあってな。だが、そちらはもう済んだ。実を言えば、まったく同じことをおまえにも尋ねに参ったというわけだ。

 さて、では単刀直入に訊くが、睦――。光の宮で…白露様の元で怪しいやからを見かけたたことはないか?」


 なぜか常盤が薄く笑ったように思えた。

 どきりと胸が鳴る。いや、ここは落ち着かねば。ここまでは予定通りに運んでいる。そう、ある一点を除けば――!


(それを右京ではなく、藤季にお尋ねになったと言うのか!しかし、なぜ!?愁は、右京に聞いた…とちゃんと説明したはずなのに!!)


 仲間の内ではない藤季が、常盤に一体どのようなことを語ったのか。睦にそれを知るよしはない。


 迂闊うかつだった。まさか常盤が、右京以外の人間から情報を得ようとするとは!!


 顔にこそ出さぬよう努めたが、内心睦は焦っていた。

 わざわざ彼を連れてここへ来たということは、単純な情報集めが目的ではないはず。恐らくは、光の宮に日々詰めている藤季の証言と、毎日白露の元に通う睦の証言をつき合わせ、嘘や偽証を避ける心づもり――。それはつまり、常盤が睦を白露側の人間であると判断したということではないのか?白露と通じている睦が、彼女をかばって偽りを語ると踏んでいるからではあるまいか…!?


(一体…常磐様に何をどこまで語った、藤季…!)


 ここで常盤を敵に回すのは得策ではない。睦は口惜しい気持ちでじっと藤季を見つめていた。


 しかし、当の藤季の眼差しは昔とまったく変わらない。まるで平然とした…いやむしろ、無表情とさえ思えるその顔は、かつての上司・部下の間柄を忘れてしまったかのような冷たさをも感じさせる。

 しかし実際、ほんの二年しか皇子付きを務めていない上に、元来人見知りが激しく、引っ込み思案な性格の睦が、彼とすんなりと打ち解けられたはずはない。それどころか、互い同じ風の宮で生活していたにも関わらず、必要以上の会話を交わしたことすらないのだ。彼の性格、彼の心――そんなもの、睦は何一つ知りはしない。覚えていることと言ったら、彼が驚くほど生真面目な人間だったということ…ただそれだけ。


 向けられた眼差しに気付いた藤季は、やはりこれっぽっちも温もりを感じさせない瞳で睦を見つめ返していた。微笑むどころか、眉一つ動かさない。


 睦のこめかみを嫌な汗が伝った。


 どうすればいい。どう切り出せばいい…!いや、それ以前に、彼は敵か味方か――!?


「どうした、睦。こう言いたくはないが、白露様とは親しい間柄のおまえだ。知らぬなどということはなかろう。なぜ黙っている。隠し立てするつもりか?」


 常盤の声色がやや険しくなったようだ。いけない…これ以上黙っていては疑われる。

 ようやく睦は口を開いた。


「いえ、そんな滅相めっそうもない…。白露様の元にいらっしゃるお客様ならば、何人かお見かけしたことはありますが――。怪しい輩とは具体的にどのようなお方でしょうか?」


 睦は慎重を期して、いきなり千種の話をするのを避けた。


 すると…。


「ただの子どもです、睦様。とおかそこらの少年なのですが」


 なぜかそこで藤季が口を開いた。

 思わず睦は藤季の顔を見る。確か藤季という人物、問われてもいないことに軽々しく返事をするような人間ではなかったと記憶している。正直、少し驚いた。


「あ…ああ、あの子のことですか…。それなら確かに何度か拝見しました。そなたも見たのか、藤季?」


 常盤と藤季の様子をそれとなく窺いながら、睦は、彼らの真意を探るべく慎重に言葉を選んでいた。だが、やはり藤季の表情からはまったく感情が読み取れない。


 藤季は小さく頷いた。


「ええ。宮の内部へ立ち入るには、近衛の詰め所の前を通らぬわけには参りませんから。前に一度、彼に身分を尋ねてみたこともあります」

「その時、彼は何と?」


 そう問うと、そこに常盤が口を挟んだ。


「その前に、おまえは白露様から何と聞いた?その者について、あの方は何かお話にならなかったか?」


 思った通り、そう易々と探らせてはくれぬようだ。


「えっと、確か――」

「千種様は昔からのお知り合いだと」


 返答をあぐねているうちに、またも藤季が常盤の質問に答えてしまった。まるで睦の返答をさえぎるようなこの態度は…?


(やっぱりおかしい。彼はこんな人間だっただろうか…?)


 睦の知る限りの藤季という男は、職務に堅く任務に忠実。そして一つ決めたことは決して曲げない――そんな人物。少なくとも、このように求められもしないことに首を突っ込んできたり、言葉を挟むような人間じゃなかった。良く言えば誠実。悪く言えば融通ゆうずうのきかないお堅い部下。いや、兵士らしい兵士…そう言った方が的確だったかもしれない。


 なのに…。


「黙れッ!貴様には訊いておらん!!」

 狙いがあって敢えて睦へ向けた質問に、なぜか藤季が勝手に答えてしまうので、ついに常盤は声を荒げたが――。


「申し訳ありませんでした」


 やはり藤季は顔色を変えない。素早く姿勢を正し、藤季は深く頭を垂れた。ふてぶてしさもないが、あまり悪びれた様子にも見えない。


「あの…常磐様。私も白露様ご自身の口からそう伺いました。その少年…千種様の容貌ようぼうを見ると、正直にわかには信じ難いのですが、何度お尋ねしてもそれ以上のことはお話くださいませんので」


「そうか…」

 常盤は深いため息をついた。


「他に何かないのか、その…千種とやらの情報は。そう…例えばいつごろからだ、彼がここへ来るようになったのは」

「そうですね…。もう一年ほどになろうかと記憶しておりますが。他には特に…」


 再び密かに目を移すと、視線の先の藤季は、あたかも相槌あいづちを打つかのように頷いている。


(何だろう?何だか変な感じ…)


 睦の見知った彼とは、どうも様子が違うように思えてならない。

 そうして困惑しながら、ふと睦は先刻まで感じていた身が強張るほどの緊張が、すっかり消え失せてしまっていることに気付いた。


「よく分かった…。協力に感謝する」


 深いため息の後、常盤はようやく席を立った。慌てて睦も立ち上がる。


 まさにその時、顔を上げた弾みに思いがけずまた藤季と目が合った。


 と――。


(え!?な、何…?)


 胸が大きな音を立てた――同時に、思わず睦は自らの胸を押さえた。


「……」


 あの冷ややかな藤季の顔に、今ほんの一瞬、柔らかな微笑みが浮かんだように思えたのは気のせいだろうか…?


(藤季…。彼は一体…?)


 遠ざかってゆく二人を見送りながら、睦は呆然と胸の内で呟いた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 門の手前付近で、やっと十夜を見つけた愁は、付かず離れずその後をつけていった。遠目に見ても彼の心が弾んでいるのがよく分かる。どうやらこの日をよほど楽しみにしていたに違いない。


「本当によく分からない方だな…」


 庭木の陰に顔をのぞかせながら、つい正直な感想が口をつく。顔に自ずと苦笑いが浮いた。


 一方――。


 そんなことは露程つゆほども知らぬ十夜は、上機嫌でずんずん門へ向かって歩いていった。しかし、案の定、内裏を出るところで門番に止められてしまったようだ。いくら宮で知らぬ者のない豪者えらものといえども、あのように怪しげな大荷物を携えていれば訝られて当然である。

 愁はぎゅっと拳を握り、息を潜めてその様子を見守った。


(ほんとに大丈夫なのか、あの方…)


 そんな心配をよそに、当の十夜は特に慌てた様子もなく、妙ににこやかに門番らと言葉を交わしている。


 ところが――。


 和やかだったはずの空気が突如として激しい緊迫感を帯びた――かと思うと、そこにいた門番らが一斉に振り返り、ものすごい勢いでこちらへ駆けてくるではないか…!!


「…っ!?」

 咄嗟に愁はあたふたと身を沈め、固く目をつぶった。


 一体何があったのだろう――?


 じっと息を殺す愁の傍らを、一様に血相を変えた門番らがすさまじい速さで駆けてゆく…。


(な…何だったんだ、今の…?)


 数々の足音が慌ただしく行き過ぎた後、にわかに騒ぐ胸を抑えつつ再び愁が顔を出す。視線の先では、十夜がきょろきょろと周りを見回していた。念入りに人影がなくなったのを確認し終えると、十夜は素早く物陰に身を隠した。恐らくは、そこで着替えるつもりなのだろう。


 兎にも角にも、一つ障害を越えたようだ…。愁はほっと胸を撫で下ろした。


(確か変装の練習までなさったとか何とか…)


 愁は更に距離を縮め、手ごろな建物の陰からまたそっと顔を覗かせた。そうして暫く待っていると、果たして驚くべき速さで着替えを終えた『十夜らしき人物』が、ひょっこりと姿を現した。


「な!!」


 愁はぎょっと目を剥いた。

 しかし、あの体格から考えればあの人物は、恐らく十夜だろう…と思う!多分…!!

 先刻、瑞穂の言っていた“籠のようなもの”――その正体が今、ようやく分かった!!


「こ、虚無僧こむそう!?しかし、なぜまたあのようなお姿…!やっぱり怪しすぎますよ、十夜様ッ!!」


 遥か遠くから突っ込むが、当然聞こえるはずなどない。愁は額にぴしゃりと手を当て、大きなため息をついた。


(なんて突飛な方だ…!何を考えているのかさっぱり分からない!!)


 だが…。


 思えば、彼の変装における絶対的な自信は、今彼がかぶっているあの深編み笠――天蓋てんがいにこそあったのだろう。確かに何をしても十夜のあの大柄な体格は隠しようがないが、あれで顔だけは綺麗さっぱり隠してしまえる。

 それにしてもあの目立ちよう。いくら顔が見えないと言っても、それが吉と出るか凶と出るか…。

 そのまま十夜はさっさと門を出ていった――が、いくらも行かないうちにまた立ち止まる。どうやらそこで白露を待ち伏せる気らしい。十夜は近くの建物ののきに立ち、腰に差した尺八を取り出した。


(あの方、あんなもの吹けるのか…?と言うか、どこで手に入れたんだろう…)


 じっと観察していると、十夜の方も何やら不思議そうに縦に横にと笛の向きを変え、ただ眺めているだけの様子。さすがに演奏までできるわけではないらしい。


 またも愁は苦笑いを浮かべた。


 その時――。


(来た!!)

 牛車の車輪の音と複数の人物の気配を察した愁は、その場にしゃがみ込み、物陰にすっぽりと身を潜めた。


 しかし、肝心の十夜の方は涼しい顔で突っ立ったままだ――と言っても、天蓋の中の表情を窺い知ることなどできはしないが。


 不安と緊張でまた胸が騒ぐ。ここで彼が怪しまれれば――そう、白露の御付おつきに声など掛けられてしまえば、一瞬でその正体はばれてしまうだろう。大体、あの巨大な虚無僧がまさか人の目に留まらぬはずはない。勝負は、その存在が不審とみなされるかいなかにのみかかっているのだ…!


 そんな愁の思いをよそに、白露を乗せた牛車とその供人がゆっくりと通り過ぎてゆく。


(どうか、神様…!!)


 湧き上がる焦燥。


 愁は固く目を瞑り、ひたすらに十夜の無事を祈り続けた。


 ところが――。


 あろうことかその瞬間、牛車の車輪の回る音がぴたりと止まったのである。


「え!?そ、そんな…!!」


 愁ははっと目を開けた。

 さあっと血の気が引いてゆく。にわかに高鳴る鼓動。それはまるで鼓膜を打ち破ってしまいそうなほどの――!!


 恐る恐る目を開けると…。


「あ…れ?十夜…様?」


 驚いたことに十夜の姿は消えていた。


 門を出たところで一旦停止した牛車は、改めて進行方向を西へと向けた。天羽大橋のある方角だ。やはり目的地は天羽――?時折千種が角兵衛獅子として舞っているという、天羽の大橋なのか!?


 いや、それよりも十夜はどこに?


 牛車が見えなくなると、またも愁は駆け出した。十夜いた辺りまで一気に駆け、何度も辺りを見回してみる。彼方には、ゆっくりと遠ざかる牛車が見える。しかし、肝心の十夜の姿だけはどこにも見えない!!


(十夜様…!)


 顎を伝う汗を拭うのも忘れ、愁は必死に十夜の姿を探した。しかし、これ以上ここにいては牛車をも見失ってしまう!


「ちい…っ」


 愁は小さく舌打ちをすると、牛車へ向かって駆けて行った。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 牛車の後を歩く御付の者――特にあの近衛長・篁には注意が必要だ。愁は物陰に隠れながら一定の距離を保ち、ぴたりと牛車をつけていった。

 牛車はゆっくりと大内裏だいだいりを抜け、どこまでも天羽の方角を目指している。昨晩右京に聞いた話がにわかに信憑性しんぴょうせいを帯び始めた。


(これは本当に…。このままついて行けば本当に千種とかいう人物に辿り着けるかも…)


 そう思った瞬間――。


「!!」


 突然、何者かの腕が愁の首に回った!!


(み…見付かった――!?)


 ちょうど背中から抱きかかえるように締め付けてくる大きな腕は、愁の首を押さえ込むのと同時に彼の口をも封じている。お陰で悲鳴を絞ることもできない愁は、もごもごと口ごもりながら、狂ったように暴れ続けた。だが、絡められた腕は尚もきつく締まるばかりだ。


 不意に――。


 愁が怯んだその刹那、背後の何者かはものすごい力でそのまま愁を物陰へ引きずり込んだ!


(しまった!!)


 万事休す。底知れぬ恐怖の中で、ともすれば諦めてしまいそうになる。しかし、それはできない。


 夢中で抵抗する愁の足や腕がしつこく、そして容赦なく背後の人物を蹴り、殴る。


「い…っ!!痛っ!こっ…こら、ちょっと落ち着け、愁!!暴れるな!!」


 思いがけない声に愁は我に返った。恐る恐る体の力を抜くと、愁を抱く力もゆっくり弱められてゆく。


 声のあるじは、そう――。


「と、十夜様――!!」

 愁は目を真ん丸にして振り向いた。


「お…おまえな…。加減というものを知らんのか…」

「ああ…っ!あのっ、す…すみませんっ。でも…どこへ行っていらしたんですか?探したんですよ!?」


 どうも拳が思い切り鳩尾みぞおちに入ってしまったようである。十夜は激しく顔をゆがめ、腹を押さえたままうずくまってしまった。


 我を忘れていたとはいえ、とんでもないことをしてしまった…。


「その前におまえ、なぜここにいる?なんでおまえまでがあの方をつけているんだ。ええ!?」

 十夜はむっと愁を見上げた。


(う…。し…しまった!!)


 ようやく愁は己の失態に気付いた。


 気まずすぎる…。あれほど入念に下準備をし、練習まで重ねて楽しみにしていた尾行に水を差してしまった。これでは十夜の面目は丸潰れではないか…!!


「そ…その…。ひ…暇だったので…」


 咄嗟とっさに愁は適当な言葉をうそぶいた。声はわざとらしくひっくり返っているし、理由もちょっと苦しいところだが、急ごしらえなのだから仕方がない。


「はァ…?」


 あからさまに不審な眼差しが注がれる。だが、こうなったら押し通すほかない。今更引き下がるわけにはいかない。


「わ…私だって、こういうの…ちょっと興味があるんですっ!!」


 例えそれが苦し紛れでも、言ってしまった以上後戻りはできない。気丈に十夜を睨みながら、愁は心にもないことを堂々と言い放った。


「ほう…。なるほど、そうか…。ふふ。分かるぞ、その気持ち。そうか、そうか…。そういうことか…」


 ありもしない愁の気持ちを勝手に理解して、十夜はにんまりと笑みを浮かべた。

 何とかごまかせたようだ。ほっと胸をで下ろしたその時である。


「と…十夜様、牛車があんなに遠くに!急がねば!!」


 見れば、ずっと先の角を牛車が今まさに右へ曲がるところであった。


「よしっ!追うぞ、愁!!」

「はいッ!」


 二人はまっしぐらに駆けて行った。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 十夜の残していった本を抱え、睦は牢舎への道を歩いていた。色々とあったが、何とか計画は滞りなく運んでいる。気がかりなのは十夜と愁の動向――そして、臣の様子と水紅皇子の胸の内…。


「睦様!」


 呼び止められて振り向くと、謁見の供を終えた右京が血相を変えて駆けてくる。睦は静かに歩みを止めた。


「あの…先ほど常磐様が水の宮から出てくるのをお見掛けしたのですが、ひょっとして――」

「うん…。もう事は済んだよ」

「え…!あの、では…」


 どうやら右京は、自分にまるで声が掛からなかったのを気にしているようだ。


「千種様の件は私と…あと藤季にお尋ねになったようだ」


 右京は目を丸くした。


 藤季――なるほど、確かに彼も千種を知っているはずだ。千種が宮へ姿を見せるたびに、じっと不審の眼差しを向けていた藤季を、右京は実際に何度も目撃している。しかし、千種を捕まえて問い詰めた際に、白露直々の許可証を差し出されて以来、誰もそれ以上の詮索せんさくはできずにいた。思えば確かあの日、藤季本人も右京同様その場にいたはずだ…。


「藤季に…ですか?それはまた…」

「うん。さすがに私も驚いた。でも――」


 睦はそこで小さく肩を竦めた。


「藤季が私に話を合わせてくれた気がする」


 睦は、藤季が最後に見せたあの顔を思い出していた。いつも冷たいぐらい無表情だった彼が、あの時見せたあの微笑。初めて目にしたそれが、今でもどこか信じられない。


 ほんの少し…ほんの僅かな微笑みだったけれど、あれは一体どういう意味だったのだろう――?


「は?あ…あの藤季がですか!?でも、なぜ…。もしや彼に何かお話しに…?」


 現在同じ場所で勤務している右京ゆえに、藤季の人となりならある程度は把握している。彼の知る藤季は、いつも口数少なく、ただ黙々と働く――そんな人物である。友達らしい友達の存在も見たことがない。必要がなければ口さえも開かない。真面目すぎて、むしろ暗いという印象。近寄り難ささえ感じていた。ゆえに、右京にとっても正直それほど親しいとは言えない人物だった。


 その彼が――?


 右京は何とも解せぬといった複雑な表情を浮かべ、首を捻った。


「いや…事前に話をする暇などなかった。だって、常盤様にわざわざ右京の名を告げてあるのに、まさか藤季に声をお掛けになるだなんて思いもしなかったし…」

「あ…。申し訳ありません、睦様。どういうわけか今日の水紅様の謁見は人数がやたらと多くて…。その…思いのほか時間がかかってしまったんです。ですからあの…」


 右京は申し訳なさそうに肩をすぼめた。


「まあ、仕方ないさ。確かにちょっと予定とは違ってしまったけれど、それでも何とか事はうまく運んでいる。だから…そう気にするなよ、右京」


 ようやく右京はほっと眉を解いた。


「ありがとうございます。で、睦様はこれからどちらへ行かれるので?」

「うん。十夜様に頼まれて、これを臣に届けにね」


 睦は胸に抱えた三冊の本を右京の前へ差し出した。


「あ、そうだ!十夜様と言えば…!」

 右京は謁見前に出くわした十夜の様子と、その後出会った愁の話を手短に語った。


「やっぱり…。でもまあ、今更じたばたしても始まらない。愁も一緒にいることだし、後は、どうか首尾よく――と祈るばかりだ」


 やれやれとため息をついて後、睦はくすりと肩を揺らした。


「ですよね…」

「でも、今のそなたの話から察すると、水紅様の方はいくらかはお元気になられたようだな。何よりだ」


 さほど十夜らを心配する素振りも見せずにそう言うと、睦はふわりと微笑んだ。

 二人は肩を並べて歩き出した。


「ええ…。何だか、我々がこうして動いていること自体が、あの方を元気付けているような気がしています。そういう意味ではご報告を怠ることもできません。何とかこれ以上、あの方がお心を痛めぬよう、我々もその行動に細心の注意を払わなければ…。臣様のためにも、水紅様のためにも、我々に失敗は許されません」

「そうだね…」


 睦は前を向いたまま頷いた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 牢の中で膝を抱えた臣は、また例の手紙を手にしたまま――かと言って、開けてみることも結局できずに、ただそこでもてあそんでいた。手渡されて以来、ずっと気にはなっている。開けてしまいたい衝動に何度も駆られた。

 でも、やはりまだその勇気が出ない。時折手紙を取り出しては眺め、再びまた胸に収め…を、臣は昨夜からもう何度も繰り返していた。


「ほんと…この気の小ささ、何とかならんものかな。情けない…」


 ぽつりと呟き、独りで笑った。


 半分地面に埋まる形で設えられた牢の中はひんやりと冷たく、壁のずっと上のほうにある鉄格子付きの窓は小さく空を切り取っている。真っ青なその色を見れば、晴れていることぐらいは分かる。


(水紅様の胸の中はどうだろう。まさかあの空のように澄み渡ってはおられぬだろうが、それでも少しは元気を取り戻されていると良いが…。ちゃんと食事はとっておられるかな。何事かあるとすぐに食が細くなるからな、あの方は…)


 小さな空を見上げながら、つい胸をぎるのは水紅のことばかり。眠っていても起きていても、考えるのは彼のことばかり…。水紅の傍にいられないことがこれほど苦痛とは…。いや、心のどこかで「もう二度と会えないかもしれない」と思えばこその不安なのだろうか?


(私が如月へ出かけている間の水紅様のお心もこうだったのかな)


 如月から戻った時に見せた彼のしおらしさを思い出す。


「いや、でも本当に…。世辞などではなく、とても勉強になる。感謝もしている」


 あの時、ひどく恥ずかしそうに呟いた水紅――。あんな謙虚なことを口にする彼ではなかったのに…。


 途端、せきを切ったように数々の記憶が蘇る。水紅と初めて出会った頃――あれはまだ自分が傭兵ようへいをしていた頃だ…。


 ――西のかの国を追われ、携えているものと言えば、負傷した右腕と傷付いた心だけ。あてもなく、あちらこちらと彷徨さまよった挙句に流れ着いた紗那の地で、その日暮らしの適当な仕事をしてみたりもしたが、思うように金にならない。生きる心の支えにすらならない。呆然と、ただそこで生きているだけの日々。夜が明けて、一日がまた始まるかと思うと、そのすべてが憂鬱ゆううつだった。


 使えぬ利き腕と知りながらも、結局自分は戦場にしか居場所がない…。


 一旦はあきらめた剣をまた取った。運良く雇い主はすぐに見つかり、かつてのように戦場を駆け回る日々が始まる。けれど、もうそこで死んでしまおうと思っていた。結局自分に一番似合う死に場所だと思った。先にったあの方も、これならば納得してくださるだろうと思った。


 雇われの剣客に大義もこころざしもない。生きる気のない者に、名誉や金など意味がない。

 指示などまるで聞いちゃいなかった。戦場にいられればそれでいい。敵も味方も関係ない。誰に泣かれようが、誰に恨まれようが構わない。いつかその誰かが自分を斬り殺してくれればいい。それできっと楽になれる。人の目に怯え、過去から逃れ、印の存在を知られまいと物陰にひそむ。そんな惨めな人生は、もういい加減に終えてしまえばいい。どうせあの方もこのうつつにはいない。帰るところも元よりない。

 しかし、当てにしていた戦場にも自分の死に場所はなかった。敵兵どころか味方の血にまでまみれ、恨みもない数多の命をただ無情に冷酷にうばい続けただけだ。誰も自分を殺してなどくれなかった。だがその代わり、自分はまたもここで罪を重ねてしまった。

 この代償はどこで払えるのだろう…?どうすれば救われる?どうすれば償える?贖罪しょくざいえるものは一体何?たかが我が命、そんなもので事は足りるのだろうか――?


 過ちに気付いた頃に切れた契約。そこから逃げるようにこの楼蘭の地を踏んだ。死ねない我が身…情けないことに自らせいを終える勇気もない。かといって、先の幸せを追い求める人生など、この大罪人に許されるはずもない。どう生きようとも惨め。救いの手などありはしない。当てにしていた黄泉国よもつくにでさえ、このけがれた身を引き受ける気などないらしい。


 ぼんやりと、日々そんなことばかりを考えていた。自分自身を持て余していた。これから何を成すべきか、どう生きればいいのか、そんなことは何一つ分からなかった。いくら考えても答えなど出なかった。


 少なくとも、そう…気紛れにここへ出向き、あの方とまみえるまでは――。


 第一印象は生意気な子ども。皇子だからと言えばそうだろう。偉そうに玉座にふんぞり返って、その前にひざまずく下々をじっと見下ろす冷たい瞳。

 その少年――水紅皇子は当時まだほんの十三歳。ちょうど今の篠懸と同じくらいの年だ。

 子どもとは思えぬほど、冷たく暗い瞳をした少年だった。そこに人が言うような神々しさや荘厳さなど、正直これぽっちも感じなかった。ただ――寂しい目をした子だと…。かわいそうな子だと、そう思った。


 そんなことを考えながら黙っていると、「何か話せ」と言われた。こうして謁見を申し出る者は、何らか土産話をするものだと彼は言う。しかしそう言われても、人に語って聞かせるような愉快な話も、自慢できる話も何もない。大体自分はそんな面白おかしい人生を歩んじゃいない。


 正直にそう申し上げると、ではここに来る前のことを話せ、と言う。紗那での重く苦しい体験を語ったところで、何が楽しいわけでもないが、別にこの国に長居する気もない。ここで無礼だ、不愉快だ、と首をねられたとしても、何の未練も後悔もない。どう思われようと知ったことか。


 言われるままにありのままを語った。紗那での己の非道の数々を…自分が犯した数多の罪をただ切々と…。


 だがしかし――。


 たかがそんな話に、彼は驚くほど熱心に耳を傾けた。こんな退屈な話の一体何に興味を持ったのかは知らないが、そのやけに神妙な面持ちも、時に尋ね返してくる言葉も…そのすべてから彼の胸の高まりのようなものが感じられた。


 そしてついに彼は言うのだ。


『そなた、これより私に仕えよ』と。


 意味が分からなかった。なぜそうなるのか理解できなかった。いくら尋ねてみても水紅は、ただ気に入ったからだ――としか言わない。


 もちろん即座に断ったが、どういうわけか彼はしつこいほどに食い下がる。しまいにはお偉方を何人もその場に呼びつけ、懇願こんがんする始末。

 突然のことに呆気にとられながらも、本当は自分の内にも僅かな変化を感じていた。思いがけずこの自分の中にも、彼に対する興味が生まれ始めていたのだ。一度それに気付いてしまえばもう――断る理由もなかった。


 だが、確かに初めはほんの少し…命数めいすう尽きるまでの寄り道程度にしか考えてはいなかった。どうせまたこの国からもすぐに放り出されるだろうと――。


(それももう五年…。ここでようやく来るべき時が来たということか。きっとここからまた独り。今更、水紅様なしの人生などちょっと考えられないが、こうなってはむを得んだろうな)


 恥ずかしながら今ではすっかり彼に骨抜きだ。それなのに、自分ときたらまたこんなところで何を――!!


 にわかに胸が苛立つ。臣は唇を噛み締めた。


(不甲斐ない…!ただお傍に控えてあの方を見守ることすらできないのか、この私は!!)


 ぐっと握り締めた手紙を、臣は再び見つめた。


(あの方のお心がここに…)


 愁の言葉を思い出してまたうなだれる。水紅の胸の内を思うとやりきれない。手紙を強く胸に抱き、臣は深く身を屈めた。


 きっと不安に暮れているであろうあの方…。その姿を思い浮かべれば、胸が苦しくて仕方がない。こんな時こそ、お傍にいて差し上げたいのに――!!


 地下牢へ続く階段を降りてきた睦と右京は、物陰からじっとそんな臣の姿を見ていた。思いがけぬ光景を前に二人とも無言だった。とても声など掛けられなかった。

 会いに来ればいつも何でもないような顔をしていた。格子越しに話をしていても、その声も顔もいつもの臣のそれだった。涼しい顔でいつものように笑っていた。だけど本当は…。


 握り締めた手紙を綺麗に伸ばし、臣は再びそれを懐にしまいこんでしまった。俯いたその顔は泣いているのか、笑っているのか…。ここからではまったく窺い知ることができない。


 やがて――。


 ふらりと立ち上がった臣は、片膝を立てて寝台に腰掛け、壁に肩を寄せたまま動かなくなってしまった。呆然と、何もない一点をじっと見つめる瞳が悲しかった。


 睦はわざと靴音を響かせて最後の一段を降りた。


「おはようございます!あ…もうこんにちは――かな」


 睦は無理に笑顔を作った。同じく、平静の表情をつくろった右京がその後に続く。


「なんだ、もうそんな時間か…。どうだ、計画は首尾よくいっているか?」

 寝台に腰掛けた臣がふっと笑った。その表情は既にいつもの彼だ。


 その胸に交錯こうさくする不安や葛藤。どうにも思うようにならぬ我が身。彼は、そのすべてにたった一人で耐えているのか…。


 堪らず睦は目を伏せかけ――それでも、すぐに気を取り直して言葉を返す。


「あ…は、はい。後は十夜様たちのお帰りを待つばかりです」

「今おまえ、『十夜たち』と言ったか?」

「ええ。愁もついていきましたから」


 右京は、今朝自分の目撃したすべてを語った。


「本当に、あいつ…。いい年をして呆れた馬鹿だな」


 ぼそりと毒づくが、あまり心配しているようにも見えない。思えば睦もそうだった。


 右京は首を傾げた。


「あの…何か…。お二人とも平気そうですね。気になりませんか?」


 臣はすらりと微笑んだ。


「まあ…そうだな。気にならないと言えばそれは嘘だが…。しかし今、我々がここでじたばたしても仕方がないだろう?それに十夜という奴はな、確かにおかしな人間には違いないが、それでもそれは頭の切れる男だぞ。放っておいても自分の面倒ぐらいは自分で見るさ…とはいえ、昨夜のあの馬鹿っぷりを見た後では説得力も何もないだろうがな」


 右京はにわかに眉をひそめた。


「でも、白露様は元より、お供にはあのたかむらが付いているんですよ?」


 白露の近衛をまとめる篁という人物は、この辺りで剣の道を目指すものなら知らぬ者がないほどの腕を持つ剣豪けんごうである。


 一昨年に楼蘭と紗那の間で開催された友好親善武道大会・剣術の部――。

 そこで彼は、他の強豪を抑え、圧倒的な勝利を収めている。紗那国と楼蘭国――双方の国から選りすぐられた武人が一同に会したあの場所で、篁は他の追随ついずいをも許さぬ強烈な実力を見せ付けたのだ。

 曲がりなりにも、かつてはその道に身を置いていた臣ゆえに、実はその会場にも内々に足を運んでおり、篁の戦いぶりもしかと目にしていた。


「まあ…さすがの十夜も剣で篁には勝てぬだろうが…。それでもうまく素手に持ち込みさえすれば、いい勝負だと思うがな」


「は…?」

 右京は首を傾げた。


「もしも学者として使い物にならなくなった時は、あいつ、軍に入れるといいぞ。あの馬鹿力は実戦でも十分使えるし、その腕っ節もなかなかのもの。学者などさせておくのが惜しいぐらいだ」


 やけに楽しそうに口にする。やはり十夜の身を心配する気はないらしい。

 一方、右京の方は、どうも釈然しゃくぜんとしないようだ。


「腕っ節って…。どうしてあなたがそんなことまでご存知なんですか?」

「まあ…何だ…。あいつとはもう何度も殴り合っているからな。身をもって知っている…というところか」


 睦は何度も目をしばたかせた。。


(あの十夜様と臣が…殴り合い…)


 少し想像してみる――が、そのどちらも品性が売りの宮廷学者なのである。どうにも想像を絶する話だ。


「あ、そうだ!あの、これ…退屈凌ぎにと十夜様から預かったんですけど…」

 睦は持ってきた本を格子の隙間から差し入れた。


 ところが――。


「!?」


 何の気なしにページめくっていた臣の表情が、突如として一変する。


 一旦閉じて裏返し、改めて表紙と背表紙を確かめれば、三冊のうちの一つは、臣が水紅のために用意した『統計学概論』――。東方の秘術に関するあの本である。

 更にもう一冊は、この国の政変と歴史を記した『楼華おうが記』。そして三冊目は、紗那の変遷へんせんを記した書物で『天の香魂こうこん』。もっともこの本は、楼蘭では既に禁書となった書物で、それゆえか、ご丁寧なことに装丁そうていには細工まで施されている。


「ふふふ…あいつ…。こちらの心中などお見通しというわけか。なるほど、いい暇つぶしになるな、これは」


 不敵な笑みを漏らした臣。だが、他の二人にはその意味が理解できない。


「なんです?」

 睦が小首を傾げた。


「いや…。これで橘やあのババアどもの企みが分かるかもしれないぞ」

「そう…なんですか?」


 臣はまたふっと瞳を細めた。


「ま、調べぬことには何とも――だが、こんなものをよこすということは、十夜のほうはもう何か掴んでいるのかもしれんな。相変わらず抜け目のないことだ。あれほど多忙な中の一体どこにそんな暇があるのかね…まったく」


 どういうわけか、臣は実に嬉しそうだった。


 そして――。


 そんな臣の姿に、睦と右京は内心ほっとしていた。先刻、偶然垣間見てしまった彼の本心…。誰にも見せなかったあの悲痛の様相を思えば、今、目の前にある姿は救いだ。


「では、私は水紅様の様子を窺って参ります。また後で来ますね、臣」


 睦はにこりと微笑んで立ち上がった。右京もその後に従う。


「ああ。またな…」

 臣はいつもどおりの顔で微笑んでいた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 隣を走っていた十夜が、不意に愁の袖を引いた。


「違う、愁!こっちだ、こっち!!」

「え!?で、でも…」


 白露の牛車はこの角を曲がったはずだ。だが、十夜はその辻を通り過ぎようとする。


「都の条里じょうりを考えろ!どの道も直角に交わっているんだ、小路こうじを一本外れたところで見失うことはあるまい!!」


 ようやく愁は、十夜が先ほど消えたわけを理解した。


 つまり、敢えて十夜は白露の通る道から一本外れた道を、ちょうど平行に移動しつつ尾行していたのだ。確かに彼の言う通り、黄蓮の都の辻は互いすべて垂直に交わっており、四方の区画――を盾にして追尾することで、一定の距離を保つことができる。真後ろから彼らを追跡するよりも、ずっと見つかりにくいのだ。


「そうか。なるほど…」

「あれほどの車、そう簡単に隠しようもないしな」


 強かな笑みを浮かべて十夜は笑う。


 根拠も何もないと思われた彼の自信――そして、突拍子もないこの変装も、その何もかもすべては、きっと彼の緻密ちみつな計算上のものなのだろう。


 感服だ。恐れ入った。心配して後をつけてくる必要などなかったのかもしれない…。


 そう思うと、己の考えの浅さと未熟さが恥ずかしくなってくる。愁は苦笑した。


 四叉路に出くわすたびに建物の陰に身を潜め、二人はそっと隣の辻を覗く。何度もそれを繰り返すうちに、牛車の進む速さが自然と身に付き、白露らが通り過ぎるのと同じ瞬間に顔を覗かせることができるようになった。それで車が見えなくなれば、その付近に目的地があるということだ。


「右京の言っていた辺りが目的地だとすると、そろそろですよね。この付近、もう西二条三坊…。天羽大路はすぐこの先でしょう?例の大橋もすぐそこのはずですよ?」

「そうだな…」


 そう呟くと、なぜか十夜は束ねてあった愁の髪を解いた。やや茶色がかった長い黒髪が、はらりと肩に落ちる。


「???」


 きょとんと見上げる愁を一瞥いちべつすると、十夜はまた牛車へ視線を戻した。


「おまえも私も、白露様はおろかその侍従にまで面が割れている。多少なり風体を変えねば近付けんぞ。それでは瞬く間にばれてしまう」


 十夜は袖に隠し持っていた眼鏡を取り出した。


「万が一に備えて用意したものだが、おまえに貸してやろう。さすが私だ。こんな時にも抜かりがない」


 十夜は自らを褒めながら、得意げに笑った。


 確かに彼の言うことももっともだし、断るに断れない。複雑な表情を浮かべつつも、とりあえず愁はそれを受け取ることにした。


 今、牛車が通過した――。


 それを認めるや否や、また二人は次の辻へ走る。そうして今度は、ひどくこじんまりとした店の物陰から、再び顔を覗かせた。


 ところがである。


「……」


 どうしたことか、今度はなかなか牛車が現れない。二人は顔を見合わせた。


 いよいよか――!?


「いらっしゃいませ」


 降り注ぐ花弁の如き軽やかな声に、二人は振り向いた。


 年頃は、愁と同じくらいであろうか――。

 微笑みを湛えて佇んでいるのは、紺色の小袖に赤いたすき、胸当ての付いた真っ白な前掛けを身にまとった若く小柄な女性であった。どうやら二人を店の客と勘違いしてしまったらしい。


「あ…。いえ、私たちは…」

「うむ、そうだな。では、団子を十本ほどもらおうか」


 言いつくろいかけた愁をさえぎり持ち前の巨体を割り込ませると、十夜はにこにこと愛想よく笑った。途端に目を剥く愁である。


「土産に持って帰るので包んでくれ」

 天蓋を外し、十夜は懐の財布をごそごそと探っている。


「はあい。少しお待ちくださいね」


 いそいそと店内へ消える売り子を、すっかり頬を綻ばせた大男が幸せそうに見送っている。ほっこりと呆ける袖を力ずくで引き寄せ、愁は声を潜めて怒鳴った。


「一体何をやってるんですか、十夜様っ!!例の易者がもうすぐそこに――!」

「おまえな…そういうことをしていいと思っているのか?」


 平然と言い放ち、十夜はじろりと愁を睨みつけた。


「は!?」

「美しいご婦人がああやって声をかけてくださっているのに、いい齢の男がそれを無下むげにして良いのかと言っている。大体、彼らの居所いどころもある程度分かったのだから、そう慌てずとも良い。少しせっかちすぎるぞ、おまえ」


 とうとう十夜は、店頭に設えられた長椅子にどっかりと腰を落ち着けてしまった。


「し、しかし…!」

「すまんが、茶を二人分もらえるか?」


 動じる様子はまるでない。


 ついに愁は言葉を失った。諦めのため息一つ愁もがくりと腰を下ろした。


(はあ…。少し見直すとこれだ。やっぱり何を考えてるのか分からない…)


 十夜といえば、諸大臣や学者連のみならず、かの楼蘭皇帝でさえも一目を置く宮廷学者。その年齢こそ、学者としてはまだ若い方には違いないが、それを凌いで余りあるほどの実力の持ち主。現在の我が国、第二の権力者の娘婿むすめむこで、次期執権職をも約束された大人物。質実剛健、頭脳は明晰。その名声は宮を飛び出し、今や都中に名を知られているほどである。

 一応ながらまだ位だけは自分の方が上だ。それでも彼は、まだほんの若輩でしかない自分よりずっと齢上の大先輩。本当のことを言えば、つい昨日、直接言葉を交わし、その人となりを知るまでは、密かに尊敬していた憧れの人物だったのに――。

 だがその非の打ち所のない人物像も、この数日でもろく崩れ去った。このまるで奔放ほんぽうな思考に傍若無人な行動の数々。もう散々に振り回されて、頭が痛くなりそうだ。


 相変わらず心弾ませる十夜の横で、度重なる疲労にすっかり打ちのめされた愁は、ぐったりとうなだれるしかなかった。


「お待ちどおさまでした」


 先ほどの売り子が戻ってきた。盆の上には小さな包みと、湯呑みが二つ乗っている。売り子は愁と十夜の間にそれらを置くと、ふんわりと微笑んだ。


「おや…。間近でよくよく拝見してみれば、これはまたなんと可憐な方だ。失礼を承知でお名前をお聞きしても?」


 代金を差し出しながら、十夜は娘に実に爽やかな笑顔を向けた。


「え…。ええと、あの…五十香いそか申します」

「五十香様…。愛らしいあなた様にとても良くお似合いの素敵なお名前だ。それにしても、私としたことが、このように美しい方がこの界隈かいわいにいらっしゃるとは、まったく知らなかった」


 まるっきり歯の浮くような台詞を堂々と言ってのける。なぜか隣の愁が恥ずかしそうに肩をすぼめ、ずるずると茶をすすった。


「そんな…」


 驚いたことに、五十香の方もまんざらではないようだ。恥ずかしそうに五十香は何度も身をよじった。


「しかし、宮に勤める私の知り合いがこの近辺によく来ているはずだが、このように愛らしい方がいらっしゃるとは一言も…。彼の目は節穴かな」


 涼しげに笑う。


 更に顔を真っ赤に染めた愁は、枝垂しだれかかる前髪越しにそのやりとりを眺めていた。


「宮のお知り合い…ですか?奇遇ですね。私の知り合い…と言うか、幼馴染みも宮にいるんですよ」


「!!」

 はっとした。まさか…。もしや彼女が右京の?


「おや、残念だ。五十香様には、もう良い方がおありなのかな」


 途端に五十香は、頬をぽっと染めた。なんと図星のようなのだ。


 そして――。


 ごく一瞬ではあったが、十夜はにんまりと勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「なるほど。確かにあなたのように素敵な方を、世の男が放っておくわけはない…。ああ、そうそう。そう言えば、先ほどお話した私の知り合いから、この辺りに良く当たる易者様があると聞いたのだが――。五十香様はご存知ないかな?」


 五十香は、暫くの間考え込んでいたが――。


「もしかして…。闍彌じゃみ様のことかしら」

「この近くにいらっしゃるので?」


 尋ね返した愁に、五十香は柔らかに微笑み掛けた。


「ええ。もう一本北の通りの四つ辻に、よく露店を出しておられますよ。確か今日もいらしたと思います」


 二人は顔を見合わせた。


「露店!?ここにあるのはお住まいではないのですかっ!?」

 愁は乱暴に立ち上がった。


「あ…あの、はい…。お住まいはこの辺りではないと思います…けど…」


 ここにあるのが易者の住まいではなくただの露店だとすると、白露はその人物をここで牛車に乗せ、再び移動した可能性が高い。そう、二人がここでこうして油を売っているまさにその間に――!!


 愁は、そ知らぬ顔で茶をすすり続ける十夜をぎろりと頭上から睨みつけた。


「もうッ!だから言ったじゃないですか、十夜様!!」

「ばっ…馬鹿!言うなっ!!」


 慌てて飛びつき口を塞ぐが、時遅し…。


「え…っ!?十夜…様?ということは…。では、まさか…。あの…っ、もしやあなた様は内裏の――」

「で…では、五十香様、ごちそうさまでしたっ!またいずれ!!」


 五十香が言い終える前に、十夜は愁と天蓋を小脇に抱え、逃げるように駆けて行った。


 隣の筋まで来てみると、果たして白露の牛車は影も形もなかった。


「それで一体どうなさるおつもりなんですか、十夜様!すっかり見失ってしまいましたよっ!?」

 すっかりふてくされている愁。


 一方――。


 十夜は、愁の心配とは違う内容で声を荒げるのだった。


「どうするもこうするも…おまえという奴は!何のための変装だと思っているんだ!?名前をばらしたら意味がないだろうがっ!!」


 ぜえぜえと肩で息を切らしているほかは、なぜか意外なほどの余裕を見せる十夜だ。まだ何か手があるのだろうか…?


「すみません」


 愁はぼそりと呟いた。

 まるっきり口先だけのような謝罪だが、とりあえず十夜はそれで納得しておくことにしたらしい。


「…ったく。しかし、幼馴染みということなら仕方がないが、右京の趣味も大したことはないな。あの程度なら睦の圧勝だ」


 十夜は独り言のように呟いて笑った。


「また…。一体何を仰って…」


 先刻、恥ずかしげもなくささやいていたものとはあからさまに異なるその言葉――。愁はまたも存分に呆れた。


「だがおまえ、そうは思わないか?睦のあの器量の良さ、そこらの女が束になってかかっても、遠く足元にさえ及ばん。憎いことに気品も婀娜あだもちゃんとある。まったくもって見上げた美貌びぼうだ。性格だって、確かにちょっと引っ込み思案ではあるが…なに、それも可愛いもんじゃないか。これで男でなければ…と、何度胸の内で思ったか知れん」


 妙にえつに入る十夜とは対照的に、そんなことには関心のない愁の態度はどこまでも冷たい。


「はあ…。そういうご趣味ですか…」

「馬鹿者!妻ある身の私がそんなはずはないだろう?ただ私はな…」


 十夜はぐっと拳を握った。


「良いものは良い、そう言っているのだ!私は常に美しいものの味方だ!いな、美しいものすべてのために、この私があると言っても良い!美しさの前に性別などまったく無意味だ。これは私の信条だ!信念なのだっ!!」

「へえ…そうですか」


 一応言葉こそ返してくるが、愁の声色にはまるで感情というものがない。十夜の力説を気に留めるでもなく、怒ったような悩むような顔で、愁はひたすら自らの足元ばかりを見ている。この失態をどう埋めるべきか――そのことで頭がいっぱいなのだ。


 だが――。


 さすがの十夜もついにへそを曲げてしまったらしい。突然ぷいとそっぽを向くと、十夜はすたすたと一人で歩き出した。


「ちょ…ちょっと!どちらへ行かれるのですか!?」

「白露様を追うに決まってるだろうが」

「え!あの、どうやって!?」


 ひどく憮然ぶぜんとした顔で十夜は足元を指差した。


「……?」


 促されるままに目を遣れば、そこにあるのは数本のわだち…。これで一体何が分かるというのか?


「さっきここに来てみて気付いたんだがな、ほら…見てみろ。この小路、どうやらあまり車のたぐいが通らぬようだ。車輪の通った跡が数えるほどしかついておらんだろう?道幅が若干狭いせいかな」


 尚も首を捻る愁の肩を引き寄せ、十夜は声を潜めた。


「いいか。いかに都広しと言えど、牛車で都を移動するのは高位の貴族か皇族ぐらいなものだ。そこに加え、おまえも知るように、皇族の牛車はそれは豪勢な造りになっている。その派手派手しい装飾も一級だが、そのお陰で重量の方もまた一級。まして、白露様はここで例の易者を乗せたんだろう?牛車は一層その重みを増したはず。後を付いて歩く侍従や護衛の足跡、刻まれた溝の真新しさと、自らの重みでひと際深く沈み込んだ車輪の跡――。そのすべてを考慮に入れて足元を眺めれば、追うべき轍は一つしかない」


「あ…」

 愁は目を丸くした。


「続く足跡が我々が追ってきた進行方向とは逆になっているな。つまり、来た道を戻ったわけだ…。まださほどの時間は経っていない。さあ、後を追うぞ、愁!」

「はいッ!!」


 二人は再び駆け出した。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 水紅はひとり、自室の窓辺からじっと外を眺めていた。彼方には、天飛の山々が霞んでいる。


 そうしてどのくらいの時間がたったのだろう?


 何も考えず何も思わず、水紅はただぼんやりと佇んでいた。今では、見えるものすべてからいろどりが消え失せてしまったような気がした。今は盛りの深緑の美しさにも抜けるような蒼天にも、まるで興味が持てなかった。

 水紅は、深く沈み込むような静寂の只中にいた。いつしか辺りを漂い始めた気だるさは、一層彼を現実の世界から遠ざける。

 あたかも夢のような空虚のときが胸を支配していた。今までこれほどの退屈はなかった。これほどの空しさは感じたことがなかった。

 それほどまでに、水紅の中の彼の存在は大きかった。


 やがて――。


 うっすらとため息を漏らし、水紅はいつも臣が足を組んで座っていた椅子へと視線を落とした…。


 出会ってからもう五年。あれからずっと忠実に仕えてくれた。

 あの日…初めて彼が目の前に現れたあの日――本当は何だか少し不思議な感じがしていた。他国から流れてきた傭兵ようへいだと聞いていたのに、目の前に現れた男は見てくれからして水紅の知るそれではなかったからだ。

 各地を旅する武人や戦士のたぐいならば、これまでに何人もここへやってきた。その誰もが浅黒い肌に分厚い胸板を携え、丸太のように太い腕を得意げに見せ付けながら、力強く己の自慢をしたものだ。見るからに屈強ないでたちは、彼ら自身の口から語られる武勇伝を更なる説得力をもって引き立てる。なるほど、さもあろうと思わせるのに十分だった。


 しかし、彼は――。


 水紅の前で静かにひざまずいたすらりと背の高い青年は、その奥底に確かに力強さが感じられるのに、どこか寂しげな眼差しをしていた。屈強どころかむしろ華奢きゃしゃとさえ思える身体に、細く長い手足、白い肌…。静逸せいいつ且つ孱弱せんじゃくなその体躯たいくからは、剣をちゃんと振れるのかどうかさえ疑わしく思えた。


 一体これのどこが武人だ…?


 正直、そう思った。


 更におかしなことに、彼は自ら目通りを申し出てきたくせに、なぜかじっとこちらを見つめるばかりで、口を開こうともしない。ついにしびれを切らし、何か言え、と言うと、驚くような言葉が返ってきた。


「お聞かせできるような話は何もございません」


 ならば何をしに来た――と言ってしまいたいところだが、事前に聞いた話では、なんと先の紗那での紛争に身を投じていた人物とのこと。しかも、紗那の敵側――義勇軍にいたと聞いた。楼蘭は、同盟国という立場から紗那政府に加担こそしたが、かの国を快く思っているというわけでもない。


(それでここに入る前に武器を取り上げられたんだな…。付き添う警護兵もいつもより多いしな)


 そう胸の内で呟いた。


 謁見を申し出る人間で、まったくの丸腰でここへ通される者は、何らかの問題や事情を抱えている人間だ。謁見のはかなり広く、玉座と訪問者との距離は随分あるし、その両側の小部屋には兵も控えている。故に、基本的に来る者は拒まぬが、それでも危険人物との疑いのある者は、目通り前にその装身具や武器などの一切を外すよう求められる。きっと彼もそうだったに違いない。

 途端に彼に興味が湧いた。確か、義勇軍には妖しの剣術を操る異国出の剣豪がいて、そのたった一人のために、あの紗那軍が相当な苦戦を強いられたと聞く。ひょっとして、彼がその人物のことを何か知っているかもしれない…。


 思い切って、語るべきことがないなら楼蘭に来る前のことを話せ、と言ってみると、思いがけず彼は素直に紗那での経験を語り出した。


 しかし――。


 それは、はかなげなその姿からはおよそ想像もできぬほど、ひどく陰惨いんさんな彼の歴史そのものだった。聞けば聞くほどにおぞましく、残酷なことこの上ない。そしてなぜか、胸が痛く悲しい。

 もう一つ不思議なことには、数々の戦績を収めたであろう彼の口調には、自分がこれまで出会った武人にありがちな、いかにも我猛われたけしと言わんばかりの横柄さがこれっぽっちもなかった。


 彼はただ、静かに淡々と自分の犯した罪を語る。まるでその過去を懺悔するかのように――。


(もしや目の前のこの男が…あの紗那を震え上がらせた剣士、その人なのか…!?)


 そう直感した。


 ちょうど先日、自分付きの教師を辞めさせたところだ。ちょうどいい。何とか彼をその代わりにげることはできぬものだろうか。いつかきっと、この国とかの国はまた戦になる。その時の皇帝がもしも自分であったなら、その指揮をとる必要も出るだろう。

 そうだ――。ならば各地の戦場を知る彼は、自分の皇子付きに適任ではないか。いつか来るその日のために、彼の元で学ぶべきことも多かろう。


 そして何より――。


(彼とならうまく付き合えそうな気がする…)


 楼蘭の皇子は、十歳から十二歳辺りで「皇子付き」と呼ばれる専属の教師を付けられる。希望さえあれば、皇子本人がその人物を指名することもあるが、自薦他薦を問わず、そのほとんどは宮の抱える宮廷学者から選ばれるのがつね。このように、どこの馬の骨とも分からぬ傭兵上がりに務まるものなのだろうか…?

 先日皇子付きを外した者とは、本当に馬が合わなかった。だが、もうこれで何人目だ…?どいつもこいつも満足に自分に意見すら言えない。何でもかんでも『はい』と答え、命令には確かに従って見せるが、その胸の内では何を考えているのかさっぱり分からない。口癖は『仰せのままに』。皇子と言えど、よわい十三の自分など、たかが子どもではないか。何をそうかしこまる必要があるのだ。

 一の御子みこだから、次期皇帝だから――と、自分とまともに言葉すら交わせぬ皇子付きには、とっくにうんざりしていた。何をしても、いくら我儘わがままを言っても誰も叱ってなどくれない。答えはいつも『仰せのままに』。楽しいことなど何もない。傍にいてくれたって意味がない。この胸に、いつからかぽっかりと口を開けた隙間が、埋まることなどなかった――。


 常盤を始め諸大臣らの反対を押し切り、当人の言うことさえも遮って、無理やり彼を皇子付きにした。今思えば、なぜそう意地になっていたのかよく思い出せない。とにかく、どうしてもそうしたかったのだ。


 だが――。


 そこにいざ彼をえてみれば、目を疑いたくなるほどそれらしい。つい先日まで戦人いくさびとであったことが嘘のようだ。あたかもずっと昔からここにいたかの如く、あの独特な学者の衣もよく似合っているではないか。加えて、その場の空気や話の流れを瞬時に察する頭の良さ、そして会話を巧みに合わせる事のできる口の達者さ。か細く華奢なその体つき、まるで虫さえも殺せぬような端正な顔、意思の強さを窺わせる涼しい瞳――そんな彼のすべてがそう思わせるのだろう。


 皇子付きとしていつも自分に付き従う彼は、次第に心置ける存在になっていった。彼は、これまでの学者連中とは明らかに違う。戦術や戦いのみょうを教え語るその言葉は、なるほど緻密ちみつに計算高く、いつも強い説得力を感じさせた。ただの他愛もない会話の中でさえ、彼はその激しさもしたたかさも…己の持つその何もかもを、不思議なくらい自分の前にさらけ出してくれた。彼はいつも正直だった。歯にきぬ着せぬその物言いは、無礼どころか、むしろ胸がくほど気持ちがいい。

 時には厳しく叱り付けてくれたこともあった。喧嘩だってした。それも一度や二度ではない。場合によっては身分など関係なく言いたいことを言い合い、互いに強烈な皮肉や明け透けな嫌味を言い放ったこともある。だが気心が知れていればこそ、そんなことは何の苦にもならない。互いの信頼の証だった。どんなときも支えてくれた。いつも傍でじっと見守っていてくれた。彼がいるだけで心強かった。時に実の親のように、また兄のように、そして、またある時は腹心の友のように…。他の何にも替え難い、かけがえのない存在だった。これまでも、今も、そしてこれからだって、ずっと――。


 じわりと湧いたものがこぼれてしまわぬうちに、水紅は袖で瞼を押さえた。


(まさかもう会えないなんてこと…)


 そのようなことを考えたくはないけれど、たった一人ここにいて、ふと気を抜いてしまえば、ついついそんなことばかりを考えてしまう…。


 水紅は壁に掛けた刀を見上げた。そのうちの一本を手に取る。まるで血で染め上げたような深紅の鞘に包まれた刀、“火蓮かれん”――。彼が如月の霊能師から授かったという刀だ。

 ずしりと重いその刀を強く胸に抱いた。刀なのに、なぜがほんのり温かい。


「どうか…彼を返して欲しい。どうか連れて行かないでくれ。お願いだから――」


 つかを額に押し当てて目を閉じると、思いが口をついてあふれてくる。


 妖刀“火蓮”、聞こえているか――。人知を超えたその力で、そなたの主を我が元へ戻せ。今すぐにでも…!!


 不意に扉が叩かれた。水紅は瞳に滲んだ涙を拭き、刀を壁の刀架とうかへ戻した。


「睦です。今、宜しいですか、水紅様」

「開いている。入れ」


 何事もなかったように平静を装い、いつもの椅子に腰掛ける。


「ご報告にあがりました」

 睦は柔らかに微笑んだ。


「右京からお伝えしたかと思いますが、例の計画の方は予定通り順調に運んでいます。どうかご安心を…。ええと、それからですね、たった今しがた臣の様子を見て参りました。思ったよりは元気そうでしたよ」

「そうか。良かった…」


 ほっと頬を緩め、水紅は例の椅子とは別の椅子を勧めた。


 勧められるままに腰掛け、睦はさり気なく水紅の瞳を覗く。


(きっとまた泣いていらしたんだな…。おいたわしい…》


 慌てて拭ったのだろうが、瞳そのものの潤みはまだ残っている…。この落ち着いた様子はきっと嘘だろう。本当は、今すぐにでも彼に会いたいはずだ。


 水紅と臣――この二人、本当によく似ている。どちらも人前ではなかなか本心を見せようとしない。真の姿を取られまいと、二人とも、いつも必死になって取り澄ましているのだ。二人の弱さを何度か目の当たりにしている睦の前でさえも――。

 彼らの本心など、どちらも良く分かっている。しかし、そうであるからこそ、それを知りながら彼らの涼しい顔を見ているのは辛い。


「あのな、睦…」

 不意に水紅が口を開いた。


「はい?」

「十夜がな…母上の尾行に出かける前に、今晩臣に会わせてくれると言ったんだ」

「え…?でも、それは…」


 睦は目を丸くした。


「無理かな」

「あ…と、そ…そうですねえ…。ええと…」


 思わず言葉に詰まった。皇子が牢にいる罪人に面会に出かける…。前例がない。しかも取り立てて理由があるわけでもない。


 気持ちは痛いほどに分かる。ただ彼に会いたい――それだけなのだ。


 問題は牢番の存在。彼らに姿を見られれば、それを上に報告されてしまう。そうすれば、何らか水紅にとがめがいくのは間違いない。それでは元も子もない。下手をすれば、自分たちと水紅の繋がりまでもが露見ろけんしてしまう。

 何としても彼は神聖無垢なままでなければならないのだ。彼は何も知らない。何にも何の関わりもない、そうでなければ…。


(臣がその身を犠牲にしてまで牢に入った意味がない――)


 睦の表情から、彼の中の葛藤かっとうが伝わったのだろう。すっかり水紅はしょげ返ってしまった。

 しんみりと瞳を伏せた水紅の前で、睦はただあたふたとうろたえるしかなかった。


「あ…あの、で…でも、水紅様…っ。十夜様がそう仰るなら…何か…その…妙案がおありなのかもしれませんし…ね?」


 そう答えるのが精一杯だった。ごまかそうとしているのがまる分かりである。


「だといいがな…」

 水紅はしょんぼりと肩を落とし、長いため息をついた。慌てて睦は言葉を足す。


「だ…大丈夫ですよ、多分…」

「多分…」


 囁くように呟く。


「いや、その…『きっと』です!あの…何とかなりますから、ほんとに!」

「……」

「か…っ、考えますから、私もっ!絶対何とかしますから!!」


 水紅はすっくと顔を上げた。かつての水紅からは想像できないほど素直な瞳が、真っ直ぐ見つめ返してくる。


「それは本当か――?」



(う……)


 しまった…。また安請け合いをしてしまった…!


「ほ、ほん…と…です…」


 そう答えるしかなかった。絶対などと豪語ごうごしておきながら、睦は情けなく肩を窄めた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「ふふふ、それ見たことか。私の言うことはいつも正しい!!」


 思惑通り牛車を発見した十夜は、物陰に身を潜めつつ満面の笑みを浮かべた。

 その背後では、愁がため息をついている。それは、ようやく白露を見つけられたことへの安堵あんどと体力的な疲労、そして…目前の怪僧かいそう天真爛漫てんしんらんまんぶりに呆れ果てたのと――。


 二人は、先刻と同じように一本隣の筋から追尾ついびする。建物の陰から顔を覗かせ、牛車の通過を確認すると、また次の辻へと走る――この繰り返しだ。

 ふと前方を見れば、何やら華やげで賑わしい雰囲気だ。小ぢんまりとした規模ながら、どうやら茶屋町のようである。


(また何やら十夜様の気を引きそうな場所だな…)


 ちらりと窺うと、どうやら十夜も前方の活気に気付いたようだ。またしても胸を躍らせている様子である。

 一抹いちまつの不安が脳裏をぎる。すかさず愁は、十夜の袖を引いた。


「十夜様!いいですか、くれぐれも言っておきますが、もうだめですからね!今度あんな風に寄り道なんかしようとしたら、私にだって考えがありますから!!」


 ぎゅっと眉を結び、愁は毅然きぜんと言い放った。さしもの十夜も、その迫力の前にたじろいでしまったほどだ。


「な…なんだ…?おまえ、ひょっとしてまだ怒っているのか」

「怒っているとかそういうことではなくっ!同じ任務を負う者として、ご忠告申し上げているのです!!もし、またあのような行為に及ぶ気がおありだと言うなら…」


 普段は大人しい愁だけに、こういう時の迫力は相当なものである。乾いた喉が、不覚にもごくりと音を立てる。

 情けないことに、この時十夜は完全に圧倒されていた――。


「今さっき見たこと、全部瑞穂様に言いつけますから!恥ずかしげもないあの台詞すべて、一言一句そのままに!!」

「な…何いいいッ!?今、何と言った、愁!!」


 愁はふんと鼻を鳴らした。その目は完全にわっている。


「おや。もう一度お聞きになりたいので?」

「い…いや…。いい…」


 いい年をした巨大な虚無僧が、都の往来で小さくなっている…。


 叱り付けているのは、彼よりもいくらか小柄で、ひと回り以上も年下の青年だ。日頃の穏やかな姿からは、やや信じがたいその迫力。人生のみならず、職場の大先輩でもある十夜をガツンと叱り付ける生一本きいっぽん振りや見事!


 まさに、ぐうのも出ないとはこのこと――。


(むう…。くそう、油断した。こいつ、大人しそうな顔をしてこの私を脅迫するとは…。まったくそら恐ろしい奴め。侮り難しかな、愁…っ!)


 恨めしそうな十夜の眼差しをもつんと無視して、愁は牛車の動向だけに注意を注いでいる。


「あ…!ついに目的地のようですよ、十夜様」


 牛車は、都のの外れにある屋敷の中へと入っていった。


「ほほう…結構大きな屋敷だな。どこぞの貴族のものか…。これだけの規模ならば、それなりに名のある方だろう。恐らく所有者も特定できると思うが…」

 二人は少しばかり距離を縮め、屋敷へ続く小道脇の木陰に身を潜めた。


「しかし、ちょっとこれでは敷地が広すぎて肝心の建物のほうに近付けませんね」

「ふっ…。おまえはな」

「え…?」


 きょとんとした瞳が見上げると、十夜は嬉しげ口角を歪め、颯爽と天蓋をかぶった。


拙僧せっそうは、これより托鉢たくはつに参る!!」

「えええええ!そ、そんな!無茶ですよ、十夜様!!」

「おまえはここに残れ」

「でも…!!」


 十夜は自信満々だ。


「案ずるな、ちょっと覗いてくるだけだ」


 言うが早いか、十夜は素早く木陰を抜け出した。吹けもしない尺八を片手に足取り軽く、いかつい虚無僧がひどくうきうきと小道をゆく…。


 更に距離を縮め、愁は物陰から成り行きを見守ることにした。胸の中では、またも鼓動が激しく騒ぎ始めたようだ…。


(あの自信…。信用してもいいのだろうが、何か心配なんだよな)


 やがて。


 意気揚々と門前に立った十夜は、大きく息を吸い込んだ。


 が…。


「……」


 どうやら掛けるべき言葉に迷っているようである。


 愁の専門は歴史である。従ってこれが彼ならば、民俗学的見地から、ある程度の知識は持ち合わせていたのだが…。


 ぽつんと屋敷の前に突っ立ったまま、十夜は考え込んでしまった。


 虚無僧とは、このような時どうするのだろう?僧侶の姿をしていながら、彼らの身分は武人や軍人と同じようなもの。時には、無法者の退治やお尋ね者の捜索など、宮から直々の仕事を依頼される場合もあると聞く。だが、普段は偈箱げばこを首から下げ、風の向くままに各地を行脚あんぎゃし、米や布施ふせを乞うて回っているはずである。

 さて、第一声は何と声を掛ければいい?


 暫し考えあぐね、発した言葉は――。


「た…頼もう!」


 あまりに見当違いの大声!はらはらと見守っていた愁の緊張は、ずっこけんばかりに吹き飛んだ。


「そ…っ、それじゃあまるで道場破りですよ!!」


 遠くから突っ込むが、まさか十夜の耳に届くはずはない。どうすることもできず、固唾かたずを呑んで見守っていると、やがて、屋敷の中から下人と思しき人物が現れた。


 そして――。


 門前で、二言三言、言葉を交わした直後、なんと十夜はその下人とともに屋敷の中へと入っていってしまった。


「だ…大丈夫…なのか、あの方…。本当に…」

 こみ上げる不安に、愁はただ呆然と立ち尽くすのだった。


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