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月の雫 ―春霞の抄―  作者: 惠 悠冬(めぐみ ゆうと)
11/14

11//大切なひと

 牢を出されたその足で、むつみは再び白露はくろの元へ出向いた。


 まるでいつもと同じに――何事もなかったように彼女は彼を求め、彼も平静の如く応じる。今更抗うこともない。何一つ変わらない、ただ繰り返されるだけの日常。


 でも一つだけ――。


 最近になってようやく一つ、気付いたことがある。


(なぜ私なのかとずっと不思議に思っていたが、結局は嫉妬なのかな…)


 すらりと細く華奢きゃしゃないでたち。しなやかで張りのある白い肌。端正且つ気品をも備えた、まるで女性の如きしとやかな顔立ち。


 すべて、白露も一度は手にしたものである。


 だがそんな彼女も今や齢を重ね、事あるごとに身の衰えをうれいている。きめ細かく滑らかだった肌は今やくすみがちになり、ぴんと涼しげだった目元にも細かなしわが刻まれた。皇帝の寵愛ちょうあいを欲しいままにした当時とは別人だ。


 彼女は、睦の若さと、男ながらに麗しいその容姿に嫉妬している――。


 しかし、いくらそねまれようと、ねたまれようと、睦とて望んでそうなったわけではない。むしろ彼自身はそんな自らを恥じているほどだ。


 堅海かつみのように堂々とたくましく、しゅうのように意思を強く、おみのようにさとく気高く――本当はそうなりたい。そんな彼らの姿に憧れる。

 この自分がそんな自分であったなら、香登かがとは今でも宮に残っていてくれたかもしれない…。


 鬱々(うつうつ)とした心を引きり自室の前まで戻ってきた睦は、ため息をついて扉に手を掛けた。


 そこには――。


「失礼しているぞ、睦。鍵が開いていたのでここで待たせてもらっていた」


 頬杖をついた臣が振り向いた。


「あ…いえ、構いません。こちらこそお待たせして申し訳ありませんでした」

「おまえ、いつもそうして謝ってばかりだな」


 あからさまに呆れるため息の先で、恥ずかしそうに睦が笑う。


「ほら、土産だ」

 臣は折りたたまれた手紙を差し出した。


「お土産…?私にですか?確か、如月きさらぎへ行っていらしたんですよね…」


 そっと中を開いた途端――。


「篠懸様…!!」


 沈んでいた睦の顔は、雲の切れ間に覗いた陽だまりのように、鮮やかに晴れてゆくのだった。


 やがて、ゆったりと窓辺に寄りかかったきり、睦は動かなくなった。

 瞬きも忘れて紙面に見入る瞳や唇から、ふんわりとほのかな笑みがこぼれている…。


 再び頬杖をこしらえた臣は、そんな睦の姿をひどくぼんやりと眺めていた。


(篠懸様…か。本当に不思議なおかただな…)


 水紅に手紙を手渡したときもそう思った。いや…それ以前に、銀鏡の火喰鳥ひくいどりと異名を取るあの氷見と初めてまみえた日にも感じていた。


 篠懸という少年は、いつも瞬く間に人の心を虜にしてしまう――。


 まさか意図的にそうしているわけではないだろう。だが、時として彼は、人の心の弱っている部分に、それは巧みに飛び込んでしまうのだ。そうしていつしかじっとそこに居座ってしまう。


 悲しみや苦しみ――打ちひしがれ固く閉ざされた人の胸を、彼の純真さというつるぎは容赦なく貫き、あっという間にこじ開けてしまう。

 彼の存在は人の心を掴んで放さない。

 その笑顔は見た者を不思議と安らかにしてしまう。


 そう…。


 思えば、臣とて例外ではなかった。

 僅かながらも同じ時を過ごし、ともに語らい、その心に触れ――そうしている間に臣の中の篠懸は、もはやかけがえのない存在へと成長してしまっていたのだから。


 篠懸の武器――それはその小さな胸に宿る慈悲の心。そしてそこから生まれる、とてつもない強さ。温かく混じりけのない無垢むくな彼の心のすべてが、ただ一つ最大最強の彼の武器。


「お元気そうですね、篠懸様」

「ああ…」

「あなたのことも書いてありますよ。ええと…堅海はお父さんで、愁はお母さんで、氷見という新しいお友達と臣はお兄さんだ、と――」

「何だそれは…。むさ苦しい家族だな」


 嬉しそうに差し出された文面には、確かに篠懸本人の字でそう書いてある。臣は、ふっと眉を解いた。


「あちらには女の子もいるんですね…。あ…でもこの子は家族じゃないんだ?」

「確かにあの子は違うだろうな」

「そうなん…ですか?」


 頷いて臣は、卓の上に指を組んだ。


「篠懸様にしてみれば、あの子は恋のお相手さ」


 異性という存在を意識してか、いつしか篠懸は軽々しく紫苑の傍に近寄ろうとはしなくなっていた。それでも、確かに気を配っていたようには思う。勘付かれないよう細心の注意を払いながら紫苑の様子を窺う篠懸の姿を、臣は如月で何度も目撃していたのである。


「そうそう――。おまえのあの贈り物、大層喜んでおられたぞ。小さな袋に入れてな、いつも大切に持ち歩いておられるようだ」

「そうですか。喜んでいただけたのなら良かった…」


 睦はふわりと瞼を伏せた。篠懸の手紙は、胸に集めた両腕の中に大切に包まれている。


「臣もとても楽しそう…。何だか声が前より明るいですよ」

「そうか?」


 きょとんと見返すと、睦はまた嬉しそうに瞳を細め、うんうんと頷いた。


「おまえも…出られるといいんだがな…」


 臣はにわかに声を落とした。


「もう皇子付きではないのだから、本来ならいくらでも外へ出て行けるはずだ。それこそあの篠懸様のお見舞いに伺う事だってな。だがそのようなことを、まさかあの年増狐としまぎつねは許しちゃくれんだろうな…」


 持て余した指先をふらふらと遊ばせつつ毒づけば、見る間に――。


「あ…あの…っ。い…今、何て仰いました!?と、年増…!?あなた、そんな滅多なことを!!」


 まん丸にした眼を白黒させて、睦は一人で慌てている。


「ふん。別に本当のことだろう?今に始まったことではないが、大体あの女、少し頭がどうかしていないか?私に人の好みをどうこう言えた義理ではないが、それにしたってこうも齢の離れた若い男に毎晩毎晩(とぎ)の相手をさせるなど…。いい齢をして色惚けもいいところだ。いくら身分が高かろうと、節操の欠片も持ち合わせぬたかが牝犬。ここでどう呼ぼうが私の勝手だ」


 けろりと言ってのける。


「ちょ…ちょっと、臣!あなた、何てことを!言葉が過ぎますよ!?」


 睦はあたふたと辺りを見回した。もちろん部屋には彼ら以外の人影はない。


 白露と言えば、唯一内裏に残る皇帝夫人――しかも、臣本人が仕える第一皇子・水紅の実母。いやしくも、その従者同等ともいえる立場の彼が、遥か尊いその人物の悪口雑言あっこうぞうごんを好き放題に放っている――。

 これが万が一にも誰かの耳に入り、白露の知るところとなれば、とんでもない結果をも招きかねず、そういう意味でこの睦の慌てようは当然のことと言えた。


 だが…。


 そんな臣の口ぶりを小気味良く思う気持ちも正直ある。胸の内で睦は密かに苦笑していた。


(そうか、臣は…彼はこういう人物だったんだ。全然知らなかったな…)


 臣に限らず皇子付きは、常に自らの受け持つ皇子の傍らにある。つまり臣の場合は光の宮、愁は星の宮、そして香登がいた頃の睦は風の宮――というように普段の彼らは、互いに別々の場所で生活しており、その姿を目にすることさえひと月に何度もなかったのである。

 従って、同じ職務に従事していた頃にも繋がりなどほとんどなかった。

 定例の会議で時々顔を合わせ、たまたま廊下で擦れ違えば月並みな挨拶や会釈を交わす――確か臣ともその程度の付き合いだったように思う。


 それでも、同じ皇子付きだったということもあって、睦にとっての愁や臣は特別な存在ではあったのだ。


 特に会議の場での二人――それはいつだって、それこそどんな議題であろうとも、決して物怖じすることなく、大勢の諸先輩方を前に堂々と意見を戦わせる二人の姿…。


 彼らは良くも悪くも目立つ存在だった。

 基本的にどちらも若く、態度も物静かな方ではあるが、臣は少しでも得心がゆかぬとなれば、どこまでも強気に食って掛かっていってしまうし、愁などはじっと押し黙っていたかと思うと、不意に発する核心の一言で荒れた議論をも見事に収めてしまう。

 いつもおろおろと気後れするばかりで、話の成り行きを見守ることしかできない自分とは大違いだ。


 そんな劣等感は、睦の足を更に彼らから遠ざけた。睦にとって、彼らの存在はあまりに眩しすぎた。


(本当は…いつも羨ましくて仕方がなかった…)


 そんな心を知ってか知らずか、臣は――。


「まあ…おまえにしてみれば、結局は全部自分で決めたことだからな。辛かろうが苦しかろうが、ある意味では仕方がないと言える。だが、それでももう少し楽に胸の内を吐き出す場が要るな、おまえには。いつか身体を悪くするぞ」


 そう言われても返す言葉がない。


 だが確かに彼の言うとおり。元はと言えばすべて己の望んだことだ。内裏を出たくない。宮に残りたい。ただその一心で…。


 だけど、もう――。


「時におまえ、今日白露様の前で星を読んだろう?あの時何を見た?星はおまえに何を告げた?」

「え…」


 睦は俯いていた顔を上げた。


「あの時白露様は、見えるものがどうの見えないものがどうのと言っておられたぞ。あれはどういう意味だ?」

「あ…あの…。あれは、その…」


 それこそ今に始まったことではないが、毎度ながら、睦のこれにはいらいらさせられる。


 臣の眼がじっとりと据わった。


「はっきり物を言え」


 そんな苛立ちを察するほどに睦は萎縮いしゅくし、ついにはしょんぼりと小さくなってしまった。


 だが――。


「もしやあの部屋のあの妙な雰囲気…。あのざらついた空気と何か関係があるのか?」


 この言葉ではっと我に返った。


「あ…!あなたも気付かれましたか!?あのおかしな雰囲気!!」


「ああ」

 臣は小さく頷いた。


「実はあそこで星を読んだわけではないんです。ここで読みました。ずっとあの変な空気が気になってて…。あの状態、もうひと月近くになるんです。それでどんどん重くなる。でも…私はそう感じているんですけど、当のご本人や御許、それに出入りしている近衛たちに至っても、まったく気付く気配がなくて、もしかしたら私の方がおかしいんじゃないかって――。でも、やっぱり何かあるんだ!早くめさせなきゃ!」


 血相を変えて立ち上がる睦を、すかさず臣は捕まえた。


「懲りん奴だな。迂闊うかつにおかしなことを申し上げれば、また牢に放り込まれるぞ。何をそうはやる。止めさせるとはどういうことだ?あの女、何か怪しげなことでもしているのか?」


 大きく深呼吸をして一旦心を落ち着けた後、睦は机の引き出しから小さな手鏡を取り出した。


「今、天球は白露様にお貸ししているので」


 月が映るように位置を調整して手鏡を据え、その両側にそっと手を添えた瞬間――。


「!!」


 鏡面は即座に強い閃光を放った。先日の見事な星読みをも遥かに凌ぐ驚異的な速さである。


 急な刺激に眩んだ目が、咄嗟とっさに臣の瞼を閉じさせる。

 そんな僅かな隙にすっと鏡から立ち上がった光の一筋は一直線に真上を目指し、やがて――。


「!!」


 天井に当たって砕け散り、小さくとも見事に詳細な模擬宇宙を創り上げたのであった。


「あれです、臣。見えますか?」


 恐る恐る目を開ければ、指し示された先の空間に恐ろしく紅い三日月が浮いている。だが三日月と呼ぶにはあまりに細い。


 例えるならあれは…。


 そう、あれはまるで、鮮血をまとった月のつるぎ――。


「あれは…月か…?」


 囁くように問うと、思いがけない険しさを見せ、睦はしっかと頷いた。


「そう――。でも、あちらを見て。あちらにも白い弓張りの月が浮いています。なぜか月が二つあるんです、このそらには。常識的にはやや高過ぎる位置に怪しげな緋色の月。一方、通常の位置にはすがしいほどに純白の弓張月ゆみはりづき

 分かりますか、あの三日月の正体…。あれ、爪ですよ。女性の紅い爪」

「女の爪…?」

「天を裂く爪です。この夜天は、ここでは太平の世――つまり現在の平和な状況を指しています。そこにあの月。あの高い位置で燃える真紅の三日月。あれは位の高さを表しています。天下の頂点に彼女がいるということなんです。実はここ最近、何を読んでも出てくるんです、あれ」


「なるほど。やはりな…」

 ため息が漏れる。


「あ、あなた、ご存知だったんですか?」

「いや、知っていたわけじゃない。ただ…近頃のあの方に何となく妙な雰囲気を感じていただけだ。睦、他に何かないか。彼女に関すること――何でもいい。どんな些細ささいなことでも構わん」


 実は、例の本を水紅皇子に手渡して以来ずっと気になっていたことがある。執拗しつようにそれを探させておきながら、水紅がこれまでその目的や理由を明かそうとしなかったことだ。


 それこそ臣は何度も尋ねた。一体何をそうも知りたがっているのか――と。だが、その度に彼の言葉は何かとはぐらかされてきたのである。


 彼がそうして頑なに理由を隠そうとしたのは、なぜだ?


 それはもしや――。


(水紅様が白露様の異変に勘付かれたからではなかったか。いつもあの方は、お母上のことを良くは仰らない。それでも、水紅様にとって白露はたった一人の母親だ。もしや皇子様は、たったお一人でお母上を止めようとなさっているのではなかろうか?

 しかし、白露…一体あの女、何を企んでいる?なぜ篠懸様のお命を狙う…!?)


 部屋中に散らばっていた光が輝きを失い、ほたほたと足元へ落ちては消えてゆく。星読みの難しさ――それはこの滞空時間の短さにるものが大きい。


 天球や鏡などを媒体に創り出される小宇宙――術者はそれを天空へ打ち上げ、星を読む。散らばる光は星々の粒。新たに出現したもうひとつの夜天は、その晩に浮かぶはずの星座の上に占うべき未来を重ねて映す。


 時に写実に、時に抽象に――描かれる結果は常に一定ではない。見えるものも、その表現法も、術者によって様々だ。

 術者はその情景を瞬時に記憶し、示された未来を咀嚼そしゃくして人に伝える。

 少しでも何かを見落としたなら、予言は大きく変わってしまう。腕が未熟なら、未来はほんの一部しか映し出されない。伝達技法が稚拙ちせつなら、真意を伝えることさえできはしない。


 学問と呼ぶにはあまりに難解。そして、並みの努力ではひととおり会得えとくすることすら叶わない。睦のように生まれつき備わった才能でもなければ――。


 星読み学とはそんな学問だ。


「実は…気になっていることはまだあります」


 睦は、臣の前に自分の椅子を運んだ。


「もうそろそろ一年になろうかと思うんですが、白露様の元に時々不思議なお客様があるんです。月に一度あるかどうかという程度ですから、ひょっとしたら臣や水紅様はご存知ないかもしれません。なんでも、古いお友達だとかで、白露様直筆の参謁さんえつ許可証をお持ちなんだそうです。ですから…つまり、いつでも宮へは自在にお越しになれるわけですが…」


 にわかに眉を寄せ、睦はぐっと声を潜めた。


「あの…おかしいんですよ。古いお友達だということなのに、そのお方、どう贔屓目ひいきめに見ても子どもなんです。それこそ篠懸様ぐらいの少年なんですよ。その少年――千種ちぐさ様と仰るんですが、彼がいらっしゃるといつも私は追い立てられるように部屋から出されます。それで…妙なことにその後は二、三日はお呼びが掛からない。普段は、何と言うか…その…お世話をするにしてもしないにしても、必ず毎日一度はお声が掛かるのに、千種様がいらっしゃると、ぴたりとそれが来なくなる。おかしいでしょう?」


 睦は更に言葉を続けた。


「それに、彼が去った後のお部屋の空気は、明らかにその前よりもよどんでいて…。以前はそれもしばらくすれば元に戻っていたんですが、この頃はずっとあんな状態で…。

 あの…さっき臣の言っていた、空気のざらつく感じというの、確かにそのとおりだと思います。本当にそんな感じなんですよね…。あまりに様子がおかしいので、何をしていらしたのかと何度か尋ねてみましたが、ただ昔話をしていただけと軽くはぐらかされてしまうし、あまりしつこくすると逆上されてあのように――私はまた牢へ押し込められてしまう。

 特に、ここ最近というもの本当に顕著けんちょです。あの方、前から少し高圧こうあつ的なところはおありでしたけれど、それにしてもこの頃は本当にひどい。それこそ何がきっかけでそうなるのか分からないほど、突然(せき)を切ったように感情的になられる。なんだか…私はちょっと…」


 睦は卓の上に重ねた手元へ視線を落とした。


「ちょっと心配なんです。どうかするとあの方が…身を持ち崩されてしまいそうな気がして」

「はァ?心配――!?」


 臣は素っ頓狂とんきょうな声を張り上げた。

 えらく呆れた話だ。あれほど身も心ももてあそばれていながら、白露の身を気遣う心が理解できない。


「何を言っているんだ、おまえは?まさかあのババアに惚れているなどと言い出すのじゃあるまいな!?」

「ば…ババアって…。もう…そういう乱暴な言い方止めてくださいってば。尊いお方なんですから!大体、私はそんなのじゃないです!そんなわけないでしょっ!?」


 睦は、半ば呆れ半ばむっとしたようであった。


「睦、おまえ…口は堅いか?」


 唐突に臣はそう言って、窓の外へ目を向けた。


「その千種とやらを探りたいのなら、力を貸すぞ」

「え…?」

「だがその代わり、これから見るものを決して口外しないと誓え」

「え…と…。そ、それは、あの…」


 まごつくと、即座に臣の眉は反応した。


「はっきりしろっ!!」

「あ…。は、は…はいっ!!」


 つい勢いで返事をしてしまった…。


「まずは目立つその学者の衣を脱げ。出かけるぞ」


 もう後戻りは出来ない――。


 睦はぼんやりとそう思った。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 臣に従い、睦は密かに内裏を出た。蒼く冴えた月が、地上の二人をひっそりと照らしている。


 それは見事な月の霜――。


 頭上に浮かぶは、先ほど部屋で見たのと同じ真っ白な弓張りの月。そして、それを抱いて霞んだ満天の星夜せいやだ。真夜中だというのに、灯りなどまるで要らない。


 思えば昔、風の宮の露台ろだい香登皇子かがとのみこと二人、こうしてよく夜空を仰いだものだった。嬉しそうに窺天鏡きてんきょうを抱えて笑う、あどけない顔がそらに浮かぶ。


 今頃どこでどうしているのだろう…?


「香登様…」

 愛しいその名を口にすると、じわりと星がにじんだ。


「……!」


 はっと我に返れば、臣の背中は随分先だ。潤んだ瞼を袖で拭い、睦は慌てて後を追った。


 やがて。


「あの…一体どちらまで?」


 二人は、内裏はおろか大内裏をも抜け、都の外れに広がる山林へとを進めた。


 時折小走りになりながら、それでも睦は懸命に臣について歩く。しかしながら既に額はうっすらと汗ばみ、吐き出す息もやや乱れ始めている。睦にとって臣の歩みは少し速すぎるようである。


「なに、もうじきに着く。だが、そこでのことはくれぐれも他言無用にな。全部だぞ、全部っ」


 正反対にけろりと涼しい顔をした臣は、遅れがちな睦を振り返り、二度目の念を押した。


 木々に覆われた頼りなげな小径こみちが続いた。慣れぬ悪路に少しばかり不安を覚えながらも大人しくついて行くと、やがて先の高みに粗末な小屋が見えてきた。どうやらあれが目的地であるらしい。


 先に辿たどり着いた臣が小屋の周囲をあらためている。



「ふう…」

 ようやくながら到着した睦は、さもくたびれたと息をついた。


 構わず顎をしゃくり、臣は内部へと睦をうながした。


 ず…ずずっ…。


 古ぼけた木の引き戸は立て付けが悪いのか、やけに重い。

 ぐっと肩に体重を集め、睦は力尽ちからずくで扉を押し開けた。そこへうまく月光が差して、足元を白く照らしたが、さすがに小屋の奥へまでは届かない。


 既に頂点へ達した興味と不安――。胸の鼓動はひたすらどきどきと暴れ、内部へ足を踏み入った睦がその目をらすのを急かしていた。


 ところが――。


「……?」

 そんな睦を待っていたのは、ただがらんと真っ暗なだけの空間なのである。


 臣ははりに吊り下げられた洋灯ようとうに火を入れた。辺りがほんのりと柔らかい炎に包まれる。


 それでも…。


「……」


 ようやく隅々まで目にすることのできたその場所は、やはり何の変哲もなく、ひどくありきたりなものであった。

 中央に大きな卓と椅子が四つ。そのほかには、南側の壁に小さな突き上げ窓が一つ――たったそれだけ。何者かの気配はおろか、秘密らしきものも何もない。


 あれほどしつこく念を押されていただけに、内心ではがっかりしきりの睦であった。


「ここは…?狩猟小屋か何かですか?」


 壁に立て掛けられた弓とえびらを横目に尋ねてみる。実際、この小屋を知る手掛かりになりそうなものはほかにない。


「多分な」


 臣は窓を開け放った。


 高台である上に、南の窓の外側がきりぎしの崖になっているため、昼間であればここからは都のすべてが一望できるだろう。とはいえ、もう真夜中。裾に広がる町並みに、明かりは殆ど見当たらない。ひんやりとした夜気が、そろりと滑り込んでくるだけだ。


 慣れた手付きで箙から矢を一本取り出し、臣は小さな紙切れのようなものを結わえ始めた。


(あれは…矢文…?)


 呆然と見つめる睦に――。


「絶対に誰にも言うなよ」

 臣はしっかりと三度目の念を押し、窓辺に立つ。


 そして、おもむろに小屋の外へ向けて矢束やつかを引いたのであった。


「ええ!ゆ、弓っ!?あのっ…あなた、できるんですか、そんなの!?――と言うより、これから何を始める気なんです?あなた、さっきから何をしてるんですか??」


 睦はぎょっと目を見張った。彼を一介の学者と信じる睦に、まさかこの行動が理解できるはずもない。


 窓の外を睨んだ臣は、にやりと笑った。


「ここだけの話、弓はな…唯一まともに五年は習った。得意中の得意だ」


 言うが早いか、つがえた矢先に狙いをつけ、勢い良く放つ。矢は大きな弧を描き、あっという間に都の方角へと消えた。


「あ…なんだ。習っていらしたんですか…。でも、あの…今のは一体…?何を射たんです?」


 と、言ってはみたものの、学者が弓など習う必要があるだろうか。やはり彼の言動はおかしい。


 睦はぼんやりと思案を巡らせていた。


「まあ、そうくな。ちょっと待ってろ。すぐに来るから」

「は…?」


 まただ。やっぱり意味が分からない。


 だが、その時だった。


「!」

 不意に何かを察した臣は、そそくさと窓を閉め、手近な椅子に腰を下ろした。


(何だか…胸がどきどきする。でも、すぐに来る…って――。臣はここで誰かを待っているのか?)


 とりあえず彼に習い、睦も向かい側の席に着く。


「これから来る人物な、名を之寿しずと言う。若いながらも、都ではちょっと名の売れた薬屋だ。まあ、表向きはな」

「表向きって…。臣…あの、あなたというお方はどういう…?」


「――しっ!」


 どうやら問題の人物が到着したようだ。人差し指を唇へ押し当て、臣は睦に口を噤むよう促した。


 やがて、コツコツ…と、扉は小さく二度叩かれた。


「……」


 なおも慎重に気配を探りようやく相手を待ち人と悟ると、臣は自ら扉を開けてやった。


「どうもお待たせしまして」


 ぺこりと頭を下げて入ってきた気配の主――之寿は、一本の矢と紙切れを携えている。恐らく臣が結わえていたあの手紙なのだろう。


「ちょっとばかりお久しぶりでしたっけね、臣様?」


 年恰好としかっこうは臣と同じぐらいかもう少し上――そして臣よりも睦よりも若干小柄なその男は、にこにこと愛想よく笑うのだった。


「そうか?まだ一週間ほどしか経っていないと思うがな」

「おや、そうでしたっけ?」


 演技がましく肩をすくめ、之寿はもう一人の気配に振り向いた。


 その眼差しに触れた途端――。


「!」

 睦の心臓はびくんと跳ね上がった。


 ところが。


「あああーっ!あなた、もしや睦様じゃないですかっ!?いやあ、まさかこんなところであなた様のようなお方とお会いできるなんて!!」


 屈託くったくのない声を上げ、之寿はあたふたと睦の足元へ突い居った。


「お、お初にお目にかかります!あの、私、之寿と申します。以前、あなた様の星読みを遠目ながらに拝見し、あまりのみやびにいたく感銘を受けました!!まこと噂に違わぬ手際の鮮やかさ!そして神々しいまでの美しさ!!なるほど間近でお会いしてみれば、ご本人の方も確かに端麗でいらっしゃる…!!都でもあなたのことは有名ですよ。見目みめ麗しき宮の星読み――かの睦様は楼蘭一の…いや天下一の星読みだとね!本当ですよ!?」


 なぜだか妙に瞳を潤ませ、之寿は一人で捲くし続けている。初対面の相手をも圧倒する人懐こさである。


 睦はすっかり面食らってしまっていた。


「あの…之寿様…?ど、どうか、気楽になさってください。私はそんな大層な者ではありませんから…」


 しどろもどろにささやきながら、睦は真っ赤になって俯いてしまった。


「いやだな、もう!私のことなど、どうか呼び捨ててくださいよ!恐れながら、あなた様とこうしてお近付きになれて、本当に私は幸せ者です!ああ…次は…そう、次こそはできればあのご高名な歴史学の権威とお会いしたいなあ…!」


 どこまでも一人で盛り上がり、勝手に握手を決め込んだ之寿は、睦の両手を嬉しそうに振リ回しながら、ちらりと横目で臣を見た。


 すると――。


「あいつは…。愁は今、宮にはいない…。それよりおまえ何だ、その態度の差はっ!?」

「はあ?まったく…何も分かっていらっしゃらないんだから…。あなたねえ、宮廷学者と言えば、学問を志す者なら誰もが焦がれるそれは立派なお仕事ですよ?私だってね、これで多少なり薬学をかじっているんですから、当然(うらや)ましく思っています!憧れてすらいますよ!

 それが今日、あなたに呼ばれてここに来て見れば、なんとあの睦様がいらっしゃる!これほど高名な宮廷学者様に、まさかこの私なんかが直接お目にかかれるなんて…もう、光栄の極み!そりゃ興奮もしますって!

 大体ねえ、臣様。あなたときたら!あなた、皇子付きなんかしていらっしゃる割に、待てど暮らせどまるで世間に名が届きませんよ?睦様にしても愁様にしても、都では知らぬ者がないほどそれは有名な御仁ごじんであらせられるというのに。臣様、あなた、ちゃんと数学者として真面目に学術研究をしておられるんですか!?」


 ぴしゃりと皮肉を放ってから改めて睦の手を取り、


「ねえ、睦様?」

 おかしな猫なで声を出して之寿は執拗にびまくるのだった。


「わ…悪かったな、無名で!」


 悔しいが返す言葉もない。


 一方、之寿に手を握られたままの睦は、こみ上げる笑いと必死に格闘していた。


(この奔放ほんぽうな毒舌ぶり…。さっきの臣のようだな…)


 目尻の涙を拭いながら、睦は思った。


「まあ、でもね――例え誰が知らずとも、臣様は間違いなく史上最強の皇子付きであらせられますよ。それだけはこの私がちゃんと覚えておいて差し上げますから、そうおねにならず…。ね?」


「おまえな…今の今まで散々人をけなしておきながら…。慰めているつもりか、それで!?」


  臣はあからさまにむっかりとむくれるのだった。


「で…、ご用は何です?睦様までここにいらっしゃるなんて、余程のことでしょう?」


 睦の向かい側に腰掛け、之寿はしっかと二人を見据えた。


「まあな。少し調べて欲しいことがある。急ぎだ」


 臣の声音が変わると、之寿の表情は一転――切れ者らしい眼差しが二人へ向けられた。


「かつての宮廷の呪禁じゅごん師の家系――楼蘭にいる分、そして紗那に渡った分もすべて調べて欲しい。存命の人間だけで構わん。それから宰相補佐・たちばなの情報が欲しい。できるだけ詳しく…そう、彼の生い立ち・背景・それから城内に上がったきっかけとその経緯、印南との間柄やその交友関係に至るまですべてだ。恐らく彼は何やら怪しげな画策をしているはず。その事実を掴んで来い」


 之寿はおもむろに眉を寄せた。


「またえらく難しいことを簡単に仰る。急ぎって、どのくらいですか?ひと月?」

「待てんな。待って半月」


 何でもないような顔で、何とも難しいことをしれっと臣は言い放つ。


「えええーっ!?無茶ですよ、そんなの!!」


「無茶でも何でもやってもらう」

 言い放って臣は、袖下から取り出した札束を卓上に投げ捨てた。


 睦がぎょっと目を見張っている。


無理無体むりむたいは百も承知だ。故に料金は弾んでおく。ああ、そうだ。おまえ、近々また子が生まれるそうだな。では、その祝いと――」


 もう一束。


「そして、これは睦の依頼分。あとは、出産を控えた多鶴たづるに何かうまい物でも食わせてやれ」


 更にひと束ずつ取り出し、計二束をその上に積んだ。


 易々と積まれてゆく大金に、睦のみならず、さしもの之寿も相当に仰天していたが、それでもすぐに気を取り直すとやれやれとため息をついた。


「あなた…相変わらず気風きっぷだけはいいですねえ…」

「だけとは何だ、だけとはっ」


 またもやむっとする臣をつんと無視して、之寿は人懐こい笑顔を睦へ向けた。


「睦様も何かあるんですか?」

「へ!?あ…ああ、えっと…あの…」


 慌てた睦は臣に助けを求めんとしたが――なぜか逆に睨み返されてしまったため、そのまま視線は手元へ落ち…。

 結局は例のごとく、しょんぼりと俯いてしまった。


 臣はまたも存分に呆れ、睦の代わりに彼の依頼を切り出したのだった。


「之寿――おまえ、千種とかいう子どもを知っているか?宮に出入りしているようだが?」


「千種…」

 その名を耳にするや、之寿の顔に苦りが走る。


 臣は尚も強い調子で言葉を続けた。


「恐らくは怪しげな経歴の持ち主だと思うがな…。あるいは先ほど言った呪禁師の家系の者かもしれん」


 やがて――。


 観念した之寿は、積まれた紙幣を一束抜き取り、臣の手元へ差し戻してしまった。


「千種なら知ってますよ…と言うか…。申し上げにくいが、実はかつての仲間です。家系のことまでは知りませんがね」


 臣と睦――二人の学者の顔色が変わった。


「どうせまたあの御仁、何かおかしなことでもしでかしたんでしょ?大体ね、あの人、子どもなんかじゃないですよ」


 之寿は忌々しげに舌を打った。


「確かにあのなりですからそう取られても仕方がないんですがね、あれであの人、いい齢のオバサンです。でも、見た感じはまるでどこぞの小僧みたいだったでしょ?」

「ええ…。でも…あの方って――本当に女性…なんですか?」


 首を傾げる睦を覗き込む。


「そうですよ。齢だってあなたよりもずっと上だ。確か…病気か何かで成長が止まっているとか聞きました」


 臣は何事かを考え込んでいるようだった。ひじを付いた姿勢のまま、なぜか何もない卓の上ばかり見ている――。


「見てくれがあんな風ですから、普段は別の仲間と角兵衛かくべえ獅子を装いながらそこらを転々としているみたいですがね、その実、とんでもない奴です。例えば、彼女の身の軽さったらまるで鳥のようですし、誰かさんじゃないですがね、怪しげな術なんか使ったりもしますよ」


 即座に、余計なことを言うな――とばかりの強烈な視線が刺さる。


「おや、聞こえていましたか。ちょっと言葉が過ぎましたね、すみません」


 口ほどにはあまり悪びれた様子のない之寿であった。


「おまえ、肝心なところがいい加減だな。怪しげな術とは具体的に何だ?」

「えーっと…何て言ったかな…。詳しくはよく知りませんが、確かね…以前私が見たのは、何とか言う召喚術だったと思うんですけど…。何だっけな?何とかどう…とか聞いたような?」


 臣はうんざりと顔をしかめた。


陰陽道おんみょうどう…。おまえが見たのは恐らく式神のたぐいだな」


 それ以上には特に驚いた素振りもない。むしろ、ある程度の想像はしていた――という口ぶりである。それでも先の之寿の言葉は、決して彼が望んだ答えではないらしい。


「ああ、そう!それそれ!それですよ!!」


 嬉々と声を上げる之寿の前で、


「はあ…ついに繋がってしまった…」


 臣ががくりと肩を落としていた。


「之寿、その千種とやらについて、式神の他に何か聞いてはいないか?そういうことなら、呪術にも相当通じているはずだが」

「うーん…よく覚えていませんねえ…」

「そうか。ではそちらも引き続き頼む」


「……」

 彼らの話は難しすぎて、睦にはよく分からない。だが、分からないなりにも、ひどく恐ろしい内容であるらしいことは分かる。


 知る限りの臣という人物――その人柄を信じないわけじゃない。


(でもこの妙に得体の知れない感じ…どこか怖い…)


 そんな胸中を察した之寿が、気遣わしげに笑い掛けてくる。睦はおずおずと口を開いた。


「あの…之寿…さん。あなたはどういう筋のお方なんですか?あなたと臣は一体どういう…?あの…もちろん、差し支えなければで構いませんが――」


 昔の呪禁師に関することや紗那の橘に関する調査依頼。そして、之寿のいうあの千種の話にしても、睦にはまるで別世界のことのように聞こえるのだ。


 臣と之寿――この二人はどういう人間なのだろう?

 彼らは一体何をしようとしているのだろう?


 彼らの目的は一体――?


 自分の身近によもやこんな世界が――いや、それ以前にあの臣が、こんな風に当たり前に金で誰かを動かし、情報を得ているだなんて思いもしなかった。


 彼は…少なくとも彼は、どう考えてもただの学者なんかじゃない――!


「うーん、私が何者かって…ねえ…?」


 雇役こえきされている立場の自分が、この疑問に答えてしまって良いものか――戸惑う眼差しに気付いた臣がそれとなく目配せを返すと、ようやく之寿は意を決して重い口を開いた。


「え…ええとですね、話せば長いんですが――。私は元々紗那軍の人間なんですよ。主に諜報ちょうほう活動を任されていた者です。昔は楼蘭の情報を拾う斥候せっこうとして黄蓮にひそみ、実は薬売りとして宮へも何度か出入りしていました。例の千種はその時の仲間…つまり彼女も元は紗那の斥候なんです。ま、現在の私は本来の名を捨て之寿と名乗り、結婚までしていますけど、そんな暮らしをしていられるのも実は全部、こちらの臣様のお陰なんです」


 睦は驚いて臣を見た。今の話が本当なら、臣が自分の一存で紗那の斥候をかくまっているということになる。


 そんなことが許されるはずはない…!


 ところが――である。


 信じられないことに当の臣本人はどこ吹く風。先ほど同様頬杖を付き、また何か考え事をしているようだ。

 おくする睦を気にするでもなく、またひっそりと何事かに思いを巡らせている…。


 之寿は話を続けた。


「ここに潜んでいた頃にですね、ええと四、五年前ですか…。とにかくその時に、楼蘭のある女性――多鶴たづると言うんですけど、彼女とつい恋仲になってしまいましてね。そんなわけで私は、この国に亡命しようと考えたんですよ。でも、まともに願い出たのでは許可など降りるはずもない。窺見うかみですからね、私は。楼蘭の情報を敵国に流していた人間なんですから――。

 だけど、だからといってこのまま秘密裏に居座るわけにもいきません。だって、私はその時もう父親でしたから。彼女の連れ子はもちろん、更にもう一人。その時すでに、多鶴の腹の中には私の赤ん坊まで息づいていたんです。愛する彼女と我が子らに、日陰の暮らしなんてとてもさせられませんからね…。

 もう一種の賭けでした。内裏へ不法に侵入して内々に直訴するしかなかった。別に皇帝陛下でなくとも構わない。誰でもいい、ある程度権力をお持ちで話の分かる誰かに出会えたなら…。そこで思いついたのが彼――臣様です。先ほども申し上げましたが、この方、あの第一皇子の皇子付きでありながら、おかしなことにまったく無名。あの高名な愁様や睦様ならいざ知らず、あまり聞こえのぱっとしない臣様ならうまく騙し《だま》て泣き落とせるかも――なんて勝手に見縊みくびっていたんですよね」


 恥ずかしそうにくすりと笑うと、


「ほう…それは初耳だ。おまえ如きに見縊られていたとは知らなかった。傷ついたぞ。慰謝料をよこせ」


 積まれた札束から、数十枚の紙幣が乱暴に引き抜かれた。


「あ!ちょ、ちょっと…あなた!聞いていない振りをしてしっかり聞いていらっしゃるんですね!?話を聞くならそう茶々を入れず、最後まで聞いてくださいよっ!!」


 慌てた之寿を軽くいなした臣は、またそっぽを向いてしまった。


 顔を伏せて睦が笑う。


「ええと…それでですね、私は水紅様の宮へ浸入し、わざと捕まりました。こうすれば、私の取り調べには必ず臣様がいらっしゃるはずと踏んでいた。最初は別の楼蘭兵に取り調べを受けましたが、思ったとおり、やはり最後はこのお方だった。まったくもって計算どおりでした」


 なぜだか、また紙幣が抜かれようとしている…。


 そこをすかさず――。


「ちょっと!だからちゃんと聞いてくださいってば!!」


 これ以上逃すまいと、紙幣の端をしっかと押さえ込む。

 そこへ冷ややかな眼差しをれてやると、臣は不機嫌そうに鼻を鳴らした。そのままの状態で話は続く。


「と…とにかくまあ、ここまでは予定どおりです。そこで私は事の次第を正直にお話しました。涙を誘うように、ほんの少し話に色を付け、ちょっとした演技なんかを織り交ぜてね…って、あっ!もう、またっ!!」


 睦へ微笑み掛けた隙を狙って、素早く伸びてきた手がまた之寿の手から強引に紙幣を抜き取っていった。


「正直だと!?嘘をつけ!おまえ、自分の身分を偽っただろうが。久賀くがの調書には、おまえがただの農民だと書いてあったぞ?私が知らぬとでも思ったか!」


 之寿は苦く笑った。


「ええと…あの時、何とか自分の話にこの方を引き込んで、同情を得ようと思ったんです。自分の事情を圧政に苦しむ農民のお涙ちょうだい話にちょっと仕立て直してね。

 でも…何かちょっと勝手が違っていて――ほら、この人ってこういうお方でしょう?私が涙ながらにいくら訴えてみても、じっと真顔で聞いているだけで…。何と言うか…こちらの渾身こんしんの演技が全然響いていないようでした。結構な時間を費やして、あの手この手と頑張ってみたんですけどね、それでもやはり臣様の顔色は変わらなかった。そして、ああ、これはもうだめかも…と、半ば諦めかけていた頃に、やっと一言、おまえの腕を買いたい――と、こうですよ。

 驚きました。下準備に半年近くを費やし、完璧に偽装されていたはずの私の身分は、あのほんの短時間でまるっきり見抜かれてしまっていたんです。本当にあの時は焦りましたよ…。正体がばれているのでは泣き落としなんか効くわけないですからね。いや…むしろね、もうここから生きては帰れないと思いました。血の気が引きましたよ、ほんと…」


 既に睦の瞳は大きく見開かれたまま凍りついてしまっている。時折、思い出したように瞬きがされるのみだ。


「之寿、おまえ馬鹿か?偽装云々の前に、おまえには演技力がまるで足らん。あれで農民だと言う方がおかしいだろう?あの目、どうみても人をたばかる目だ。そんな目つきでいくら泣かれようと、心など動くわけがない。

 それにあの調書の内容にしても、滑稽こっけいとしか言いようがなかったぞ。取り調べる前にひととおり目を通したがな、呆れたことにおまえ、あそこで私を名指しにしたそうだな?考えてもみろ。楼蘭の都でさえまるで無名の皇子付きの名を、紗那のたかが農民風情が知るはずがなかろうが。

 あとな、私があの話を静聴せいちょうしていたというのも単なるおまえの思い込みだ。あまりにあらの多いその内容に、つい閉口したというだけのことさ」


 仕返しとばかり嫌味たっぷりに言い放ち、臣は嘲るように笑った。


「人が命懸けで練った作戦を馬鹿とはひどいな。でも――確かにそう…。そこなんですよね。

 私としたことが、本当に迂闊うかつだった。所詮しょせん相手は無名の学者と、もう完全にめてかかっていましたからね。まさかそういう些細なことに勘付かれる方だとは思いませんでした。今思えばとんでもない話だ。まったく相手が悪かった。そこは素直に認めますよ。なるほど、あの水紅様の皇子付きたるお方だ――と、心底思い知らされました」


「ふふ…。それが私なら、泣き落とされていたかもしれませんよ。化かす相手が臣じゃ、確かに最悪ですよね」


 睦の眉が開く。


「はは…。でもまあ、色々ありましたが最終的にはね…亡命という形で国から認知はしてもらえなかったまでも、こうして名を変え、時々は臣様のお手伝いをするという条件で、極秘裏に釈放して頂けました。でもそれで上等です。私にしたら願ったり叶ったりですよ。ちょっとお手伝いをすればこうやってお給金も頂けるし、望んでまなかった堅気かたぎの人生だって手に入った。

 こういうお仕事をするにしても、元々軍の諜報部隊に身を置いていた私ですから、昔のつてが色々とあります。それにあの国にはね、軍や政府の内部にだって内偵者が大勢あるんです。これしきのことお安い御用だ。ちょっとうちの軒下に矢傷が付いてしまうことにさえ目をつぶれば、本当にどうってことありません。それに――」


 之寿は先刻の矢文を取り出し、そっと二人の前に置いた。


「本当に危険な仕事は、あまりお申しつけになろうとしませんよね、臣様は。そりゃあ時々はそんなのもありますけど、いつだって必要なものはその細部に至るまですべて先回りして用意してくださるし、命に危険が及んだら無理をせず退けと、口癖のように気遣ってくださる。場合によっては、こうしてお給金も弾んでくださいますしね…。まったく…紗那では有り得ないですよ、こんなの」


「五人の子を路頭に迷わせるわけにはゆくまい」

 ふっと口元を緩め、臣は分捕った紙幣を全部之寿の取り分の上に戻した。


「ご…五人っ!?それはまた…随分子沢山なんですね。あ…あの…感服致しました!」


 妙に恐縮する睦。そして今度は――。


「では、臣は…。あなたはどういう方なんですか?とてもただの学者には…」

「ああ、私か…?私はこのとおりうだつの上がらぬ無名の数学者だ。ほんの少し弓が得意で、楼蘭国第一皇子・水紅様の皇子付きをしている――それだけだが?」


 あっけらかんとした顔で適当なことを堂々と言ってのける。彼の正体を知る之寿だけが、人知れず失笑を漏らしていた。


「あ――。ああ、あとちょっとばかり馬にも乗れる…かな…」


 あからさまにむくれた睦を尻目に、臣は気まずそうに言葉を付け足した。


 が――。


 まったく得心がゆかぬとばかり、睦はぎゅっと眉根を寄せた。


「まあ何だ…。そういちいち細かいことを気にするな、睦」

 再び睦を一瞥いちべつすると、臣は声を上げて笑った。


「さて、そろそろ私は失礼しようかな。もう他にないですか?」


 ――と、立ち上がりかけた袖を引き、臣は睦に聞かれぬよう声を潜めた。


「思い出した…もう一つ訊きたい。紗那の軍というのは今、どんな状態だ?その実権はどこにある」


 僅かに微笑んで、之寿も声を落とした。


「なんだ――粗方あらかたはご存知なんじゃないですか。ええ、お察しのとおり今はひどい有様ですよ。上層がほぼ政府に抱き込まれてしまっています。表向きは文民統制とか言っていますがね…事実上はただの専制政治です。軍の意思すら、ほんのごく一部の政治家の手の上です」


 ある程度予想していただけに、臣は眉ひとつ動かさない。


「やはりそうか――。では来栖くるすという人物についてはどうだ。知っているか?」

「ああ…来栖准将ですか。彼が何か?」

「いや、何と言う事もないが…ちょっと彼のことが気になっていてな」

「分かりました。ついでに調べます」


 之寿はにやりと笑った。


「……」


 向こう側で、何やら二人がこそこそと話しているが、肝心の内容までは聞こえない。しかし彼らのことだ、どうせまた怪しい内容に違いない。


 一文字に唇を結び、睦は尚も不審の目を向け続けるのであった。


 そんな疑惑の視線を気にしつつ、


「で…では、よろしく頼む。また多鶴の顔でも見がてら、店の方にも寄せてもらう」


 臣は小さな紙の包みを差し出した。声色は空々しいほど元に戻っている。


 どうも先ほどから見え隠れする彼らの態度は、睦の不信感を沸々(ふつふつ)と刺激するのである。ぷっくりと頬を膨らませ、睦は尚もじっとりと彼らを観察し続ける。


 一方、包みを受け取った之寿は、暫くそれを耳元でかさかさと揺すっていたが――なんとただのそれだけで中身を察したようだった。


「いや、いつもすいませんね、臣様。子どもたちも喜びます」

 にっこりと笑って之寿は軽く頭を下げた。


「え…?あの…何なんですか、それ?」


 二人の間に不思議そうな顔が割り込む。


「ああ、ただのお菓子ですよ。庶民の口には入らないような珍しいお菓子。よくこうしてお土産にくださるんです。さすがに出所は伏せているんですが、子どもがいつも楽しみにしてましてね」


 之寿は実に嬉しそうだった。


「水紅様は甘いものをあまり召し上がらないからな。こういうものを客人に戴いても残る一方だ。こちらも助かっている」


 そんな二人のやり取りを前に、睦はぼんやりと思った。


(なんか…仲が良いんだな、お二人とも。敵国の斥候と楼蘭の皇子付き。互い利益を与えることをもって繋がれた絆――確かにそうであるはずなのに、何だかお二人はまるで旧知の友のよう。こんなこともあるんだな…)


 どうやら彼らは、単に仕事上の付き合いをしているわけではなさそうだ。胸に居座っていた不安や不審が、徐々に薄まり消えてゆく。


「ふふっ。何だか複雑なお顔ですね。変だと思っているんでしょう、こういうの?本当なら、私と臣様は――そう、睦様とだって、敵味方のはずですものね」


 之寿は屈託のない顔で笑うのだった。


「え…いや…。変…と言うか、その…」


 戸惑う睦の耳元へ之寿は静かに歩み寄った。


「内緒ですけどね、あの方…臣様って私より五つも齢下なんですよ。でも…それでも私、ちょっとあの方のお人柄を尊敬しています。いや、崇拝していると言った方がいいかな。

 確かにね、口も根性もそれは悪いし、ぶっきらぼうでどこか飄々(ひょうひょう)としたおかしな方ですけどもね。それでも一本筋は通っているし、頭など恐ろしく切れますよ。敵に回せば手強い相手でしょうけど、こうして味方となれば心強い…そんなお方だ。

 それにね、あの方は信じるに足るものをちゃんとお持ちの方です。あれでなかなか誠実でいらっしゃるし、お気遣いも細やか。偉い肩書きのある方って無駄に威圧的な場合が多いじゃないですか。ここだけの話、陰険で強欲で横暴な宮廷学者様だって大勢存じ上げていますよ、私。でもあの人の言葉にそんなところは微塵もないでしょう?あの口の悪さだってちょっと意地悪なだけですよ。決して本心なんかじゃない。

 私ね、時々思うんですよ…。故国に彼のような上司がいてくれたなら、私はまだ紗那で兵士をしてたかもしれないな、ってね。あんな国でも、私にしたら一応は故郷ですから」


「……」

 驚きに目を見張ったま、睦は何も言えなかった。正直、どんな顔をしたら良いのかも分からなかった。


 だけど――。


「…とまあ、とにかくそういうわけでして、互いに騙し合っているなんて関係じゃないですから、どうかご安心ください。神仏かみほとけに誓って、私は誠心誠意、あの方を信じてお手伝いさせていただいているつもりですから。

 ああ、そうだ。これも何かのご縁ですし、睦様も何かあればお力にならせていただきますよ。いつでも何なりとお申し付けください。睦様のことも尊敬に値する尊いお方と見ましたからね、私は。いや、そんなのかえってご迷惑かな…?」


 人懐こい彼の笑顔に、未だ脳裏にこびりついていた微かな疑念もほろりと溶けてゆく。


「あ…ありがとうございます!本当に…あなたと知り合えて良かった…。今後ともどうか、よろしくお願い致します!」


 麗しき宮の星読み――そう称される彼が、ようやく覗かせた素直な微笑みは、噂をしのいで余りある美しさだ。

 之寿もまたこの睦の姿には心の底から満足したようであった。


 ふと――。


 いつの間にか卓の向こう側で腰を落ち着けた臣が、ひどく冷めた目で二人を見ている。


「おまえたち…たった三人しかいない密室で内緒話とはいい度胸だ。私の陰口はさぞ楽しかろうな?」


 顔を見合わせた二人は、同じ顔をして笑うのだった――。


 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 その後、之寿とはそこで別れ、臣と睦は同じ道を辿り内裏への帰途きといていた。肩を並べて歩いているところを見ると、臣は来た時よりも幾分ゆっくりとを進めているようである。


 足の遅い睦を気遣ってのことだろうか?

 いや、どうやらまた何かを考え込んでいるらしい。


 大内裏に入る手前で立ち止まり、睦は何か思いつめたように臣の袖を引いた。


「ねえ、臣。繋がった――ってどういうことですか?陰陽道とか式神とか――あなた、何をしているんです?まさか何かあったんですか、如月で…いや、あなたや水紅様の周りで」


 そんな睦の顔を臣は暫く黙って見ていたが、やがて小さく肩を竦めた。次いで覗いたのは、思いがけず穏やかな微笑みであった。


「おまえ、その気になればちゃんと自分の意思を口にできるんだな。いつも口ごもってばかりいるのは何だ?演技でもしているのか?」


「え…?」

 言われて本人も驚いた。


 演技だなんて、そんなつもりはまったくない。でも確かに今夜の自分は、いつになく饒舌じょうぜつだ。


 なぜだろう?

 どうしてこんなに言葉がすらすら出るんだろう?


「演技だなんて…違います!でも、ほんと…何でかな…。そう仰られても私には皆目かいもく…」


 複雑な顔で口ごもる。


「あのな、睦。何でも諦めればいいということではないのだぞ?おまえ、いつも逃げるだろう?謝って許されるなら謝る。黙っていて済むのなら黙っている。笑ってやり過ごせるのなら笑っておく。いつもそうだ。おまえの持つおまえらしさ、それを一番殺しているのはそれだ。

 白露様がどうの、香登様がどうの――決してそんなことじゃない。おまえだよ。おまえが自分自身でそうしているんだ」


 そんな風に見据えられると、不甲斐ふがいない自分が恥ずかしくなる。堪らず睦は視線を落とした。


 やっぱり同じだ…。

 臣も堅海と同じことを言っている。みんな見ている…ちゃんと私を見てくれているんだ。


 私は一人ぼっちなんかじゃなかった――。


「今夜のおまえの口数が多いそのわけ――自分でもなぜだか分からないその理由、教えてやろうか?気付いてしまえば別に何のことはない、おまえが殺し葬ったはずのおまえ自身、それがちょっと蘇っただけさ。

 千種のこと…いや、それ以上におまえ、私と之寿の関係に興味を持ったろう?見たい、知りたい、聞きたい、感じたい…これは全部おまえの欲望でありおまえの意思だ。自分を責める者があの場にないと、無意識ながらに悟ったその瞬間、おまえはつい己の欲求に正直になった。密かに望んでいたであろう自由をほんの少しだけ得たんだ――そういうことさ。

 之寿はな、嘘偽りなくああいう奴だ。斥候なんかしていた割に、こちらが不思議になるぐらい自分に正直な男さ。嬉しければ手放しで喜んで見せるし、気に入らなければ雇い主である私に対しても容赦なく突っねて見せる。宮にあんな奔放な奴はいないだろう?おまえもな、奴のああいうところ、少し見習ってみてはどうだ?楽だぞ?」


 睦ははっと顔を上げた。


「まさか臣は――わざわざ私を彼に引き合わせてくれたんですか?千種様のことを依頼するという名目で、本当は私を彼に…?」

「さあて、どうだかね…。ああ、そうそう。奴の店はこの先を少し行った所だ。このぐらいの距離なら白露の目を気にせずとも出てこられるだろう?まあ…そうは言っても、あまりゆっくりはできんだろうがな」


 そう言って再び臣は歩き始めたが、睦はその場に立ち尽くしたまま、すぐに動くことはできなかった。


(今、この胸にある気持ちを何と呼ぶのだろう?》


 つい先日まで、宮中で友と呼べる人間なんか無かったのに…。


 もう、臣のことは友と呼んでもいいのかな…?

 そうだ、堅海。堅海も友と呼べるのかな…?


 臣は、恐ろしく頭の切れる人間――さっき之寿にそう聞いた。之寿という人物は学者に憧れるあまり、その存在に対して熱狂的と思えるほど素直な反応を見せる。そんな彼の心を承知していた臣は、敢えて知名度のある睦を紹介した。


 宮の中で不自由な扱いを受けている睦にしても、宮の外の人物――それも明るく人懐こく威勢のいい彼のような人間と近付けば、きっと良い息抜きとなろう。


 そしてまんまと彼の読みは当たり、之寿と睦はすぐに心を開いた――。


 そういうこと?


 そう言えば、ここに来る前に臣は言っていた。


――もう少し楽に胸の内を吐き出す場が要るな、おまえには。いつか身体を悪くするぞ。


(そうか、それで――)


 急に嬉しくなって一人で笑顔を作ると、睦は臣の後を追って駆け出した。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 翌朝。


 昨夜遅くなってしまったせいでつい寝坊してしまった臣は、起きるやいなやあたふたと水紅の部屋へ向かった。

 ところが、着いてみればあろうことか、肝心の水紅の姿が見当たらない――。


「……?」

 臣は首を捻った。


 いつもならばこの時間、彼は朝食を摂っているはず。しかしながら、卓に置かれた朝食は手付かず。謁見えっけんの時間にはまだいくらも間がある…。


「まさか…水紅様!」


 血相を変え、臣は部屋を飛び出した。


 昨日、水紅に式神の話を聞かせた。如月での一件も余すところ無く語った。彼も知り得る限りのことを正直に話してくれた。頑なに…あれほど口を噤んでいたあの本のことも、彼が拾った紙の鳥のことも…。


 そう、この廊下で拾ったというあの型紙――。


 如月で篠懸を襲った式神の正体とまったく同じあの紙の鳥!

 あれを見て、彼が疑わぬはずはない。


 そこに自分の母親が関わっているということを!

 愛する弟の命を狙った張本人が、実の母親だったということを…!!


 白露の部屋の前まで来て、果たして臣は凍りついた。扉から漏れ聞こえる怒声に、血の気が引いてゆく。


 自分の失態だ――!

 昨日のうちに、しっかりと彼に釘を刺しておくべきだったのに!!


「一体を企んでおられる、母上!!篠懸に――私の弟に何の恨みがおありなのだ!あいつがあなたに何をした!あいつが何の罪を犯したと言うんだ!!」


「と、水紅様…!!お願いですから、どうか落ち着いて!」


 この声…。

 どうやら睦もいるようである。


「うるさい!私に触るな!!関係のない者が口を挟むんじゃない!母上…母上っ!これは何ですか!?あなたの部屋の前にこれがあった。しかも半年も前だ。随分と周到しゅうとうな話ではないですか!なぜ…どうしてあなたは…!!いつからそんなお方に成り下がったのだ!!」


 激しい剣幕の水紅――信じられないほど感情を剥き出しにしている。


 しかし。


「言いたいことはそれだけか、水紅。そなたこそ…この母にいつからそのような生意気な口が叩けるようになった…!」


 返ってきたのはひどく冷ややかな言葉。しかもその声は、怒りに戦慄わななき震えている。


 その時だった。


「!!」


 背後の慌しさに臣ははっと振り向いた。奥の階段を、数名の人影がけたたましく上がってくる。


 まさか、これは…!!


(白露…!実の息子相手に警護兵を呼んだのか!?)


 もはやいくばくの猶予ゆうよもない!


 入室の許可も得ぬまま、夢中で部屋へ飛び込んだ。そして、素早く母子の間に分け入った臣は、白露の足元へ深々と平伏したのであった。


「お、臣…!?」


 水紅にとってもそれは、わが目を疑う光景であった。

 あの誇り高い臣がこんな卑屈な姿を人前に――ましてや主人である自分の前に晒すなど、考えられたことではなかった。


「恐れながら白露様!此度の水紅様の言動、すべては私の監督不行き届きが原因です!どうか平に…平にお許しいただきたい!責めならば、いくらでもこの私が負います!どんな罰も謹んでお受け致します!ですから、どうか白露様、皇子様だけは――何卒なにとぞ、この水紅様だけは…!!」


 ひしと額を擦り、臣はひたすらに許しを請うた。それがいくら無様な姿であろうと、それがいくら惨めな結果を招こうと、水紅が放免ほうめんされるのなら本望だった。


「臣…!!」

 驚いた睦が駆け寄っても、臣は拝伏はいふくしたまま微動だにしない。


 やがて白露に呼ばれた数名の警護兵が、どかどかとなだれ込んできたが、それでも臣は――。


「全部…全部、この私の戯言たわごとを水紅様が真に受けてしまわれたことが原因。皇子付きとしてあまりに軽率、不誠実な行為でした。その私がここで刑を科せられるのは当然!逃げも隠れも致しません!申し訳ありませんでした!!」


「何を言う!やめろ、臣っ!!」


 水紅は弾けるように怒鳴ったが、応えてきっぱりと顔を上げた臣も負けじと大声を放った。


「お黙りなさい、水紅様!!いかなる理由があろうとも、尊いお母上様に楯突たてつくとはどういう了見です!!とはいえ、此度、あなたには何の罪もない。どうかせめてお母上様に対するこの非礼、今ここで一言お詫びください!皇位継承者・第一皇子であるあなた様が、このように礼を弁えぬことでどうします!さあ、ここは潔く謝罪を!!」


 それは、あまりに痛ましい忠誠の形…。


 堪らず睦は目を背けるのだった。一度は皇子付きを務めた睦だからこそ、今の臣の姿はとても見ていられるものではなかった。


(もしもこれが私だったなら…。きっと私も、同じことをする…)


 この楼蘭国において、親への礼を失する振る舞いはもっとも軽蔑される行為とされている。まして、この国の未来の皇帝たる水紅が、自らの母親であり皇帝の后でもある白露に刃向かい散々礼意を欠いた挙句、牢へ送られたとあっては、民に示しなどつくはずがない。それが万が一にも表沙汰おもてざになったなら、やがては皇位の継承すら危ぶまれかねない。


 ここは是が非でも皇子を牢へなど入れるわけにはいかない。

 こんなことで彼の未来を台無しにするわけにはいかない…!!


 昨夜――。


 睦は臣に連れられ、之寿という人物と初めてまみえた。そこで知った数々の信じられない話。そしてそこで目撃した、恐らくは本来の臣の姿。


 それを思えば睦の胸はひどく痛んだ。


 そう…彼は皇子付き。あの計算高さも怪しげな行動も――何もかもすべては水紅様のため。彼はいつも水紅を思い、水紅のために動いていたのだ。


 誰に伝わらずとも、この自分にだけは手に取るように分かる。今の彼を突き動かしているその思い…!


 呆然と佇む水紅に、睦は平伏す臣の代わりにゆっくりと頷く。知らず知らず瞳に溜まっていた涙が、その拍子にはらりと床へこぼれ落ちた。


 これで良い。

 もはや、ほかに選ぶ道はなかったのだ――と。


 きっと、まだ水紅には分からぬであろうこの気持ち。ただ安らかに健やかにと――ここでいつか彼が手にするであろう栄華だけを思い願う、この皇子付きの気持ち。


 湛えた笑顔に睦は精一杯の思いを込める。


 どうしようもなく胸が痛い。

 でもこれは臣の痛みだ…。


「申し訳…ありません…でした、母上…」


 ぐっと唇を噛み締め、水紅は頭を垂れた。聞こえるかどうかの小さな声だった。


 途端。


「ははは!!よくぞ言うた!!」


 白露は、高々と声を張り上げて笑った。ふてぶてしく、まるで人を喰った声だった。


「臣よ、貴様、先日もわらわに吹っかけたばかりよのう?せっかくだ。おまえの望み、叶えてやろう。さあ、この狼藉者を引っ立てい!」


「はっ!」

 踵を合わせる音が響く。兵士が命令を聞き入れた合図だ。


 びくりと肩を揺らし、睦は臣の衣を握り締めた。背に縋りついた睦は、ずっと震えていた。


 悔しかった。

 恐ろしくてならなかった…。


 これは、自分が牢に入れられるのとはわけが違う。

 自分の場合は、白露の刹那的感情からの投獄――だからこそすぐに出られるのだ。


 でも彼は…。

 今回ばかりは…。


 荒縄を構えた警護兵が、ぐるりと臣を取り囲む。それを一旦、手振りで制した臣は――。


「睦…」


 それは思いがけず穏やかな声だった。


「すまんが、これな…如月の愁に届くよう手配してくれるか?」


 差し出されたのは一通の封筒だった。


「愁…ですか?」


 僅かに頷き、臣は声を潜めた。


「まず、水紅様に中をお見せしてからにしてくれ。気になるのなら、おまえも目を通して構わない。書いてあるのは、恐らくおまえの抱く疑問の答えだ」


「は…はい。しかと…たまわりました…」


 掠れる声が詰まる。


 気を抜けば泣き出してしまいそうになる…。


 そして。


 ふっと笑んで睦の肩を軽く小突くと、臣は静かに水紅を見上げた。


 見上げるそれは、怒りも悲しみもない瞳。

 ただ深く穏やかな腹心の眼差し――。


 その時、水紅の頬をひと筋の涙が伝った。声も出せず目も逸らさず、ただ目を見開いたまま、水紅は臣を見ていた。


「睦…。水紅様を頼む」


 やがて立ち上がった臣に、待ち構えていた警護兵が縄を打つ。


 しかし。


「……」

 牢へ送られる臣を追うように、数歩足を動かした水紅に――。


「くくく…。水紅よ…早々に次の皇子付きを選んでおくがよいぞ。今度はもっと…そう、品の良い教師をな…」


 びくりと肩を震わせ、水紅は立ち止まった。だが振り向きはしない。ぐっと拳を握り締め、水紅はそのまま白露の部屋を後にした。


 睦だけが、そんな彼らの心を見ていた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 いつもなら、臣と二人で歩いた謁見への道だった――。


 しかしその日、水紅はたった一人でそこを歩き、努めて平静な振りを貫いたまま謁見を終えた。

 費やした時間はほぼいつもどおりだったはずなのに、ずっと長く感じられたのはなぜだろう…。重い心を引き摺って、とぼとぼと戻ってきた自室の前に睦がいた。


「……」


 つと立ち止まり呆然とする。

 いつもなら、自分の母親と通じている睦に皮肉のひとつも飛ばすところだ。


 だが今はそんな元気もない――。


「おかえりなさいませ、水紅様。臣から…あなたに言伝ことづてを預かっております」


 睦は足元へ突い居った。


 だが――。


「……」

 水紅は答えず、そのまま睦の横を行き過ぎて自室の扉を開けると、力ない目配せで彼を中へと促した。


(水紅様…)


 すっかり打ちひしがれ、いつもの精悍せいかんさも強さも――持ち前の自尊心さえも失くしてしまった皇子の姿が悲しかった。胸が苦しくてならなかった。


(このことを言っていたのか、臣は…)


 睦は、最後の臣の言葉を思い出していた。


 水紅様を頼む――。


 いつも気高く、威厳に満ちていた水紅だった。時に向けられる手痛い言葉も、涼やかでむしろ冷たく感じられる眼差しも…何もかもみんな――これまで睦の目にしてきた水紅の在りようすべてを、まさしく彼そのものだとずっと思い込んでいた。


 でも、本当は…。


 窓辺の椅子に腰掛けた水紅は、すっかり疲れきった瞳でぼんやりと睦を見ていた。


 何だか彼がひどく小さくなったように思えた。

 深く傷つきかげる姿がひどく痛ましい。


 だが恐らくは、今睦の前にいる彼こそが、これまで臣だけが知っていた本当の水紅皇子の姿なのだ。


 臣があればこそ彼は、あれほど尊大に振舞えたのに違いない。

 臣がいればこそ彼は、何にも怯まず強くいられたのに違いない。


 臣がそこで見守っていてくれるからこその強さ――それは裏を返せば今の彼のとてつもない弱さ。まるで翼をもがれた鳥のように…ただ成すすべもなく、鳥かごの隅でじっとうずくまる惨めな生命いのち


 羽ばたくことを止めてしまった鳥――それはもはや鳥であっても鳥ではない…。


(水紅様…。臣は決してこんなあなたを望んじゃいない――!!)


 毅然と眉を結び、睦は水紅の前へ進み出た。


「水紅様、これを」


 普段の睦とは異なる口調に仄かな驚きを覚えつつ、水紅は、差し出された手紙を受け取った。


「水紅様にまずお見せしてから、如月の愁の元へ送るようことづかっております」


 文面に目を落とす否や、水紅の顔色は青ざめた。


「こ、これ…は!」


 そこには、これまでに彼が調べ上げた事実とそれらに関する考察、加えて今後起こるであろう懸念などが、何枚にも渡って詳細しょうさいに記されていたのである。


 その内容は銀鏡の一件の真相に始まり、そこから導き出される革命の兆し、更に幾重にも仕組まれた巧妙な罠と、周到に隠蔽いんぺいされているであろう紗那の企みへと進み、加えて篠懸にかけられた呪詛と例の式神との関係。睦の読んだ紅い月の話…。更には、宮に出入りする千種という怪しいやからの存在とその正体。彼女の操る陰陽道。白露と千種の現在の間柄、水紅の見付けた紙の鳥のことなど――。


 そうして、最後に。


『――ここに得た数々の証言と証拠からかんがみても、篠懸様の病と白露の関わりは否定できない。紙の鳥を偶然拾ってしまったことから、水紅様もあの方に疑念を抱いておられる。放っておけば、必ず水紅様はお母上に詰問しようとなさるだろう。だが、それでもあの方は水紅様の大切なお母上様。双方にしこりが残るようなことは避けねばならない。可能不可能に関わらず、我らが彼女に手を下すことはできないのだ。水紅様の将来に影を落とすわけにはいかない。

 となると、これは骨の折れる話だ。責めるべきは白露ではなく千種――あるいはその背景に潜む者。今現在、内々に探らせてはいるが、敵は強力な術者でもある。その上、彼女の所在も真の目的も、正直どこまで掴めるか分からない。だが、止めねばならぬ相手には違いないだろう。

 場合によっては私が直接手を下す心づもりもある。万が一のその時は、今の地位を捨て、砕身さいしんの覚悟を持って事に当たる所存。そこでおまえにひとつ頼みたい。どうか、もしもの場合には――』


 じっと見入っていた水紅もついに顔を覆ってしまった。もはやその先を読むことなんかできなかったのだ。


 あんなに忠実だった彼を、なぜ私は信じなかったのだろう――!!


(彼は、いつだって私のことを思っていてくれていた…。人に言えぬような秘密も打ち明けてくれた。私のために、あのイングラムに命まで捧げようとしてくれたじゃないか。

 そんな彼に私は――!ちゃんと分かっていたのに、どうして…。彼はそういう人間だとちゃんと知っていたのに、私はなんてことを…。

 自惚れ、思い上がっていた。自分の母親だから、自分の弟だからと一人で必死になって、意固地になって…。

 何度も聞いたあの言葉――そう、彼はいつも言っていた。もっと自分を信じて欲しい、と。私がもっと彼を信じたなら…素直に胸の内を彼に打ち明けていたなら、きっとこんなことには…!!)


 浅はかな自分が…。

 身勝手な自分が…。

 素直になれなかった自分が…。


 今、彼の身を謀略ぼうりゃく生贄いけにえにしようとしている。誰よりもかけがえのない彼を、深刻な危機に晒してしまっているのだ。


「睦…私はどうしたらいい?どうしたら…臣を救える…?」

 水紅は声を震わせた。


 顔を覆う両手はすっかり涙に濡れている。懸命に嗚咽おえつを堪えながら、まるで幼子のように、肩を震わせて泣く儚げな皇子…。


 睦は静かに立ち上がり、肩を抱き寄せてやった。すると、驚いたことにあれほど蔑んでいたはずの睦の胸に、水紅は素直に身を預けてくるのである。


 睦の胸は激しく痛んだ――。


「無理ですよね…。他の人間なんて選べませんよね。あなたには、やはりあの臣でなければ…」


 震えるこの細い肩――あれほど堂々としていた水紅の、折れそうに繊弱せんじゃくなこの身体。


 迂闊に触れれば崩れてしまう。

 包んでやらねば消えてしまう。


 儚くももろいこの硝子がらすの心を――。


(そうか、臣はずっと守ってきたんだ…)


 もう迷わない。


 いつかのように、大切なものを諦めたりは決してしない。

 この手が届く限り、この命ある限り――きっと私は守りとおしてみせる…!!


「ねえ、水紅様…。私にとってもね、臣はかけがえのない大切な友人なんです。今のあなたの胸の内と、私の思いはきっと同じ。できることなら今すぐにでも彼をここへ…あなたの元へと連れ戻して差し上げたい。心からそう思っています。

 だけど――お母上と不義を重ねたこんな私でも、あなた、信じてくださいますか?意気地なしで弱虫で…いつも卑怯な生き方ばかり選んできたこんな私でも、あなた、信じてくださいますか?」


 驚くほどはっきりとした口調で、睦は自分の思いを口にした。


 そして――。


 見上げる無垢な瞳に、睦は、かつて心から愛した貴い少年を何度も励ましてきた微笑みを見せたのである。柔らかな優しさの中に、揺るぎない意思と忠義を宿した力強い笑顔を。


「ほんと…長いことずっと忘れてしまっていた。私も皇子付きだったんですよね。だから、今日の彼のね…臣の気持ちなんか痛いほど分かります。だってきっと同じですから…香登様を失ったあの時と。

 失くしたくなかったんですよ、彼は。あなたのね、あなたたる姿をどうしても守りたかったんです。皇子付きなんてね、たったそんなことで簡単に命すら差し出しますよ。たったそんなことでいくらでも強くなれる。馬鹿と言われたらそれまでですけどね、でもそんなもんです。そういうものなんです」


「睦…」

 瞬きもせず、水紅はじっと睦を見ていた。


 本当に、見れば見るほど今日の彼は別人のように頼もしく思えてくる。でもその端正な顔立ちは、確かに彼のものに相違ない。


「信じて…いいんだな、おまえのこと。本当に…信じてもいいんだな…?」

「ええ。あなたが信じてくださるなら、私がちゃんと取り戻してみせます。あなたの大切なあの人を」


 ふわりと頬を綻ばせ、水紅は睦の胸にそっと額を押し当てた。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「――と、いうわけです」


 格子の前に膝を付いた睦は、皇子と交わしたばかりの約束を声を潜めて語った。


「それはまた…。おまえ、えらく安請け合いをしたものだな」


 格子の内側では、壁にもたれた臣がけろりとした顔で笑っている。


「安かろうと高かろうと、そういう問題ではありません。本当に辛かった…。私は水紅様のあんな姿、見たことがなかったですから」


「で…?何か策でもあるのか?」

「全然ないです」


 間髪かんはつれずに戻ってきたのは、ひどく途方のない返答である。

 思わず臣は吹き出した。


「おまえ、よくそれでそういう約束ができるな!?」

「だ、だってこれから考えるんですから!でもね、とりあえず愁に手紙は出しましたよ。あなたの分と、それから私からもちょっと書いて…。ああ、それから水紅様も、愁と篠懸様に宛てて何か書いていらした。中を見ないですぐに出してしまいましたけど――。水紅様直々にめいを下されて右京うきょうに持って行かせましたから、今日のうちに如月に届くはずです」


 睦はにっこりと微笑んだ。


「やれやれ…愁もさぞ困るだろうな。よってたかってみんなに助けを求められたんじゃあ…」


 ぼそりと呟いて、臣は急に真面目な顔になって向き直った。


「そうだ、もしも――もしもな、水紅様に新しい皇子付きを求められたなら、その時は十夜とおやを選ぶといい。水紅様にそう申し上げてくれ」

「どっ、どうして!?まさかそんなこと、私に言えるわけがないじゃありませんか!」


 たちまち睦は目を剥いた。


「仕方がないだろう?おまえが嫌だと言うなら」

「ち…違いますよ!嫌って言うか…水紅様にはあなたじゃなきゃだめだと思ったから、私は――」


「これで私と白露様はなかなか気が合うんだ」

 臣はにやりと笑った。


「は?」

「まだ今のところ何の沙汰さたもないが、それでもお互いにそれは嫌い合っているからな。あの方の頭の中など手に取るように分かるさ。水紅様にさっさと別の皇子付きを付けて、この機会に私を宮から追い払おうと考えているはずだ。そのうちそう言ってくると思うがな」


 無下に投獄され、これからどんな処遇が待っているかも知れぬというのに、どういうわけか臣の声音も表情もまるっきりいつもと変わらない。


 逆に不安に駆られたのは睦の方である。


「臣…あなた、この状況でなぜ簡単にそういうこと仰るんです?あなたこそ何か考えがおありなんですか?ご自分の身のことでしょう?」

「考え…?そんなものないぞ、何も。ただ――ま、単なる慣れだな」


「慣れ?」

 睦は目を丸くした。


「これまで牢になど飽きるほど入った。別に珍しくもない。確かに久しぶりではあるが…逆に懐かしくて居心地がいいぐらいだ」

「飽きるほどって…。ほんとにあなたって、どういう…」

「どうもこうも見たままだ」


 またも答えをはぐらかされた睦は一瞬むっとふくれたが、それ以上執着(しゅうちゃく)するでもなく、すぐに別の話題を切り出した。


「あの…十夜様ってあの常磐ときわ様といつもいらっしゃる政治学の方ですよね?」

「ああ。学者連中は基本的に好かん。何と実の伴わぬやからの多いことか。信用に足る者も、尊敬に値する者も驚くほど少ない。

 だが、そんな学者の中にあって、彼は数少ない私の認める人物だ。彼ならば、ある程度気心も知れているし適任だと思うがな…。とにかく皇子付きを求められ、どうにも逃げようのない状況になったなら、臨時にでも彼を指名したらいい。

 でもまあ…あいつのことだ、私が牢に入れられたと聞けば、放っておいてもそのうちここへ出向いてくるさ」

「あなた、十夜様ともお友達だったんですか…」


 この意外な人物の名は、再び睦を驚かせるのに十分なものであった。臣と十夜――いくら考えても、この二人の間に接点が見出せないのである。


「まあな。おっと…噂をすれば、ほら…。早速誰かさんの気配がする」


 耳を澄ませば、確かに階上から靴音が微かに――。


 息を詰め、眼差しを向けていると、果たして臣の言うとおり噂の人物はそこにひょっこりと現れたのであった。


 顔をのぞかせるなり男は、

「いい格好だな、臣。笑いに来てやったぞ!」


 何とも嬉しそうにそう言うと、言葉どおりに笑ったのだった。


「ほらな?こういう奴だ」


 肩を竦める臣の前で、ぎこちない愛想笑いを浮かべた睦が固まっている。


 壁に据えられた松明に照らし出されたその人物――十夜は、楽しそうににやつきながら睦の隣にどっかりと腰を下ろした。


「奥方様に喧嘩を売ったんだってな。いいねえ、若いというのは」


 妙に演技がかった遠い目をして十夜は言うのだった。


 政治学の十夜――。


 内裏でも一、二を争う長身と、武人と見紛うほど立派な体格を備える一風変わった政治学者だ。

 もっとも、持ち前の豊富な知識と思察の深さを買われて、今ではただの学者ではなく執権・常磐の相談役兼秘書のような役割を果たしているが、そこからも分かるようにその道ではちょっとした実力の持ち主なのである。

 齢は臣よりもひと回り上だ。かつて水紅の皇子付きになったばかりの臣が、この国の政治について数々の教えを請うた人物――実はその人こそが彼であった。


「おまえもその場にいたそうだな、睦。羨ましいな、私も見たかったよ。ほら、この間のおまえの星読み。あの後の会議も私は急な用事で見逃したんだ。どうせまたあの時のように奥方様に食ってかかったんだろう、こいつ?」


「あ…。え、え…と、そういうのじゃ…ないと思います…けど…」


 睦はしどろもどろになって答えた。

 初対面の相手の前では、まだうまく言葉が出てきてくれない。


「まったく…。一体どう聞いたんだ、おまえは!あの状況でまさか食ってかかったりなどするものか。一方的に捕らえられてこのざまだ!喧嘩らしい喧嘩もしてはおらん!!」


 臣はむっかりと声を荒げた。


「一方的――?なんだ、つまらんな。おまえらしくもない」


 どうも本気でがっかりしているようだ。

 昨晩といい今日といい、またも風変わりな人物を前に、圧倒されっぱなしの睦なのであった。


(十夜様とは初めて言葉を交わすけど…。この宮にもこんな豪気ごうきな方がいらっしゃったんだ?もう六年も宮にいるのに…何だか私の知らないことばかりだな)


「で――どうする、臣。ここで終わりか?」


 よいしょと胡坐あぐらを組み直し、十夜はにっかりと笑った。


「心配せずとも睦がここから出してくれるそうだ」


 不意に呼ばれてはてなと顔を上げたその時、ようやく睦は自分に視線が集まっていることに気付いた。


「え!?え…えっと…」


 途端に熱を帯び始めた頬と騒ぎ出す鼓動。そのどれをごまかすすべも見つからず、睦はおろおろとうろたえた。


 そして、次第にその声は小さくなってゆき――。


「あ、その…。まあ…は…い……」


 ついには言うべき言葉にも詰まり、例によって睦はまたしょんぼりと俯いてしまった。

 先ほどの強気はどこへやら――今は何とか上目遣いにこちらを覗くばかりである。


「やれやれ…。本当にこれで大丈夫なのか、こいつは」

「さっきまでは威勢が良かったんだがな。ま、ちょっと人見知りするもんでね、彼は」


 そそくさと擦り寄った十夜が、俯く睦の前へ回り込み、


「麗しき宮の星読み様――それでこれからどうなさるのですか?この私にも、どうか作戦をお聞かせ願いたいな。不肖ふしょうながらこの十夜、多少のお力にはなりましょうぞ…?」


 などと努めて優しく――気持ち悪いぐらいに優しく協力を申し出てやるが…。


「え…。えっ…と…」

 睦は更に真っ赤になって口ごもってしまった。


 完全に逆効果である。


「こら、あまりいじめてやるな。かわいそうに」


 するとにっかりと歯を見せて笑い、十夜は改めて睦の前へ向き直った。


「何なら私が上に口を利いてやろうか、睦。そうだな…常磐様か、蘇芳様か…。そうは言っても、どれほどの効果があるか保障はできんが」


「ほ、本当ですか!?」

 睦はぱあっと瞳を輝かせた。


「まあ、そのぐらいは何とかな…。だがあまり期待はしてくれるな。白露様はあれで特別なお方だぞ。ご自分の后でありながら、あの蘇芳帝も必要以上に関わろうとなさらぬだろう?ごうが深いと言うか、得体が知れぬと言うか…どうも人を遠ざける方だ――と、こんなこと、今更私が言わずとも分かるか、毎日お世話しているおまえならば」


「あ…」

 小さく声を上げ、またもや睦はしゅんとなってしまった。


「い、いやいや…別に私はな、皮肉っているわけでも、いじめているわけでもないぞ、睦?そういうことではなくてだな…ええと…困ったな…どう言えばいい?臣っ、何か扱いづらいぞ、こいつ!どうすりゃいいんだ!?」


 傍観者よろしく胡坐をかき、頬杖をついていた臣がため息混じりに笑う。


「どう扱おうと構わんが、泣かすなよ。私の身柄如何(いかん)は、今や睦のその細い肩に懸かっているんだからな」


「泣かすなと言われてもな…。うに手遅れだろうが…」

 十夜は唇を尖らせた。


 臣を見る睦の瞼には、うっすらと涙が溜まっている。


「臣は――なぜそう平気なんですか?こんな所に押し込められて、今や明日をも知れぬ身なのに…。白露様はそんな生易しい方じゃないですよ?あの方を怒らせて…それで宮を追い出されて…それであなた、どうするんですか?ここで水紅様を放り出して…それでどうなさるつもりなんです!今、あなたを失ったら…あの水紅様はどうなってしまうんですか…っ!?」


 感情的に言葉を吐けば自然と声が上擦ってしまう。睦は袖で何度も目頭を押さえた。


「だからな…睦、今言ったろう?こんな所に入れられたままの私に何ができる?何もかも全部おまえに懸かっているんだ。

 おまえ、水紅様に約束してきたんだろう?私を必ず連れ帰ると、自分を信じて待てと――そう申し上げたんだろうが。ならば私もおまえを信じて待っていれば良い…そういうことではないのか?大体おまえ、泣いている暇などないぞ。あの白露がそうのんびり事を構えてくれるとも思えん」


(そ、そうだった…。自分で決めたんだもの!私がしっかりしなきゃ。でなければ何も始まらないんだ!)

 ごしごしと涙を拭いて、睦はぐっと眉を結んだ。


「睦、とりあえずは足止めが要るんじゃないのか?あまりさっさと動かれたのでは手の打ちようがないぞ」


 十夜の言うのももっともだ。


「足止め…」

 そう呟いたきり、睦は何事かを考え込んでいたが、やがて――。


「あの…」


 二つの視線が注がれる。


「千種様のこと…上に申し上げてしまいましょうか」


「千種…?誰だ、それは?」

 十夜が首を傾げている。


「まだ事の全貌が分からぬのにか?」

「ええ。でも、当面の足止めにさえなれば良いのでしょう?彼女について、今分かっていることだけでもい摘んで報告すれば、蘇芳様は元より常磐様が動かぬわけにはいかない。白露様の身辺で何事か不穏が動いたと、そう思わせるだけでいいんです。そうやって白露様の気をそちらに向かせれば、あるいは…」

「つまり、情報を操作するわけだな…」


 睦は小さく頷いた。彼なりに勝算の手応えを感じているらしい。


「なあ、話がまるで見えんのだが?」

 痺れを切らした十夜が睦の袖を引いた。


「あ…。後で全部ご説明します。構いませんよね、臣?」

「ああ。判断はおまえに任せる」


「はい。では、改めて…」

 かしこまって向き直り、睦は床に手を付いた。


「どうかご協力ください、十夜様。お願い致します」


 丁寧に揃えられた白い指先。

 柔らかな仕草。

 お辞儀の瞬間に覗いた細い首筋。


「……」

 男ながらに妙にあだのある姿に、迂闊にも十夜は暫し目を奪われるのだった。


「い、いや…これほどの美人にこうも頭を下げられたら、無下に断るわけにもいかんさ…。なあ?」


 十夜はぎこちなく笑った。

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 部屋へ一歩足を踏み入れるなり、睦は呆然と立ち尽くすのだった――。


「何か…全然違う…」


 確かに、一介の学者でしかない自分の部屋と、皇帝らから特別な信頼を集める十夜の部屋とを一長一短に比べるわけはゆかぬのだろうが――それにしたって、ゆったりとした間取りから調度家具に至るまで、どれをとってもあまりに違いすぎるのである。狭く質素な自分の部屋を思えば、ここはまるで貴族の屋敷だ。


「同じ学者なのに、常磐様や蘇芳帝に懇意こんいにしていただいているというだけで、こうもお部屋が違うものですか…!?」


「はは…。な、なかなか広かろう?」

 恨めしげに歪む顔に苦笑しつつ、とりあえず十夜は睦に席を勧めた。


 弾力クッションの効いた洋風の椅子…。これも睦の部屋の物とは違う。


「……」

 再びむっと頬を膨らませた睦は、その弾力を確かめるかのように――いな、親のかたきのように、ぽんぽん椅子を叩きまくっている。座り心地については申し分なさそうだが、とにかく不機嫌になる睦なのだった。


「さっきはどうも態度のはっきりせん奴だと思ったが、なかなかこれで正直な男だな。おまえ…見た目にらず、少し気が短くないか?」


 呆れ顔の十夜が笑う。


 その時。


「ようこそいらっしゃいませ、睦様」


 澄んだ声に振り向いて、睦はぴたりと固まった。

 佇んでいたのは、盆を手にした清楚な女性。


 しかし、あろうことかその人物は…。


「み…瑞穂みずほ様!え…?あ、あの…これはどういう…?え…??ええーッ!?」


 目を白黒させ、睦は一人で混乱している。


「どういういうことかと言われてもな…。まあ、こういうことだな」


 顔を見合わせた十夜と瑞穂はくすりと笑った。


「だ…だって、瑞穂様って常磐様のところのお嬢様でしょう!?確か陛下とゆかりのあるお方とご婚約されたはずじゃあ…」


「あのお話は…結局お断りしたんです」


 丁寧に湯呑を並べながら、瑞穂は恥ずかしそうに微笑んだ。


「あ…。そ、そう…でしたか…。すみません、つい不躾ぶしつけなことを申し上げてしまって…。でもあの…いつの間に…その、お二人がご結婚されていたのかなって…。いや、これも不躾かな…」

「籍など入ってはおらん。とはいえ、まあ当然ながら常磐様はご存知だが」


「内縁の――ということですか…」

 にわかに、ぽおっと頬を上気させ、睦はため息を漏らした。


「ま、まあ…そういうことだ。今、下手に祝言など挙げたら、見合いの世話をしたばかりの陛下の面目は丸潰れだろう?それに、たかが一介の学者がだな、かの執権家の一人娘をめとったとなれば、宮の輩は黙ってはいないぞ。やれ跡目を狙った政略だ、やれ一国を手中に収める気だとな…。もちろんそんな気は毛頭もうとうないが、ここであらぬ噂になるのも忍びない。故に当面はこのままだ。

 さて、瑞穂。今日は込み入った話だ。すまんが、おまえ、席を外してくれるか?」


 にっこりと笑って頷くと、瑞穂は部屋を出て行った。


 が…。


「で――なんなんだおまえ、その顔は!気持ちの悪い奴だなっ」


 十夜はじろりと睦を睨んだ。


 ところが、ほんのりと頬を染めた睦は、焦点の定まらぬ目線をうっとりと彷徨さまよわせたまま、一人でまだにやけている。


「ああ…すごいなあ…。ほんとに私は…知らないことが多すぎる。そっか…こんなこともあるんだ…。宮で芽生えた恋…かあ…」


 やがて睦はまた切なげなため息をついた。


「ったく、本当におかしな奴だな!!臣の話はいいのか!?ええ?」


 その言葉でようやくうつつへ戻った睦は、目を何度かしばたかせて理性を取り戻すと、本題のすべてを余すところなく語ったのであった。


「なるほどな…そういうことか。変に頭が回るからな、あいつは。いつの間にか、とんでもないことを掴んでしまっていたわけだ。だが、奴は今どうにも動きのとれぬ身。涼しい顔をしてはいたが、その心中はさぞ歯痒はがゆかろうな…」


 睦はこくりと頷いた。


「で、どうする?私は何をすればいい?」


 今、真正面から十夜を見る眼差しは、麗しき宮の星読みと称された彼とはまったく一線を画す、切れ者らしきそれである。十夜はしみじみとそんな睦の姿に見入るのだった。


「千種様は、その見てくれからしても怪しさについては申し分ありません。白露様はあの方を旧友だとはっきり私に仰った。でも、見た感じはまるでほんの子どもです。彼女の能力や性別、それから正体については今は伏せておきましょう。そこまでいくと怪し過ぎますから。

 今朝の騒動――あの時、水紅様は紙の鳥を白露様へ突きつけてしまっている。ここで私たちが、彼女が実は陰陽師であるという事実を上に申し上げてしまえば、式神と彼女の繋がり…延いては白露様の企みまでも我々が掴んでいると、変に勘ぐられてしまいます。きっと白露様は、水紅様が徒党ととうを組んで自分をおとしいれようとしているとお思いになるはず。しかし、それはこちらの望むところではない。

 これ以上の水紅様の関与を、あの方に悟られるわけにはいきません。未来の皇帝陛下をけがすわけにも参りません」


 この時の睦の口調は、驚くほど滑らかで堂々としていた。どもることもつかえることも、声が震えることもない。毅然としたその姿は、いつもの彼を思えば別人だ。


 彼は――彼自身はそんな自らの姿に気が付いているのだろうか…?


 十夜はふっと眉を解いた。


「そう言えばおまえ、いくつだったかな?確かあいつよりもいくらか下だったように記憶しているが」


「え…?えっと…先月二十一になったばかりですが…」


 睦はきょとんと首を傾げた。口調は元に戻りつつある。


「では、皇子付きをしていた頃はほんの十代か。なるほどな…」

「な…何です?」

「いや…妙に納得した。若いながらも確かに皇子付きにふさわしい。我が国の誇る麗しき宮の星読み様は、そのお手並みもることながら、実に明晰めいせきな頭脳までお持ちだとな…。今、心より感服した。そこに加えてその美貌びぼうか。まったく嫉妬するね。世の中は実に不公平にできている」


 ゆっくりと立ち上がり、なぜか十夜は奥部屋へ消えた。


「???」

 何が何やら、わけが分からない。


 やがて、呆然とする睦の元へ二つの皿を手にした十夜が戻ってきた。皿に乗せられたカップから、ほろ苦い香りが立ち上る。


「とっておきだぞ。飲んだことないだろう?」


 既に睦の目は、目前に置かれた黒い液体にすっかり釘付けだ。しかし、初めてそれを目にする睦に、味の見当が付くはずはない。


「あの学者嫌いの臣も認めるわけだな…。なるほど、なるほど…」


 腕組みした十夜は、何度も頷いて自らの言葉に納得していた――が、固まってしまった睦に気付くと、苦笑しながらカップに砂糖を入れてやった。


「初めは少し苦く感じるかもしれんがな、慣れてしまえばそこが良い。これを出したのはおまえで三人目だ。瑞穂と臣とおまえ、たった三人。あの常磐様にさえお出ししたことがない。光栄に思ってくれて良いぞ」


 にんまりと笑い、十夜は珈琲を一口飲んだ。その様子を真似てカップを手に取り、睦は恐る恐る口を付けた。


(ちょっと苦くて、何だか不思議な味…)


 一瞬妙な顔をしたが、どうやら気に入ったようだ。

 睦は嬉しそうに目を細めた。


「さて、話の続きだ。先の千種とやらにまつわる話な、私の口から上に申し上げるとしようか。正直、白露様と関わりの深いおまえの名を出すことさえ私は危険だと思うぞ。例の千種とやらの怪しげな術――陰陽道な、あれをあなどってはいかん。あれは人の命をもその手中に握る恐ろしい術だ」

「あの…よく分からないのですが、そもそも陰陽道とか呪禁師とか――一体何なんですか?臣も言っていたんですよね、そういうこと…」


 待ってましたとばかり、十夜は頷いた。


「いいだろう、教えてやる。こちらもそこは専門だからな。

 まず、呪禁師というのはその昔、楼蘭と紗那がまだ一つであった頃に存在していたれっきとした官職だ。彼らは、呪禁道と呼ばれる神秘の術を操って国を支えた。主な仕事は、心霊医療と国の防御――であったのだが、そこから転じて、いつしか呪禁師は呪術にも手を染めるようになる。その頃から先の二大執権家の争いは始まったわけだ。左の紗那と右の蒼緋そうひ、この二人の争いがな。

 大きな戦になる前は、互いに贔屓ひいきにしていた呪禁師を巧みに操り動かして、相手をあざむき合ったと聞く。

 ところが、彼らの抱える術者はどちらもなかなかの使い手で、実力のほどはどうやら互角。争いは熾烈しれつを極めたが、いつまでたっても決着などつきはしない。それでも彼らを巻き込んだままの形でついに戦は始まる。つまり、表では戦いの業火が大地を焼き、裏では呪禁師らが暗躍、互いの懐を狙っていたわけだ。実に卑劣で陰湿な争いだな。

 宮中の権力争いにたんを発し、やがては国全体を揺るがしたこの戦は――気が遠くなるほど長岐ながきに渡ったこの激しい戦は、その中心だった執権家や皇族、官僚、兵士、更には何の罪もない国民の心までも深く傷つけ、骨の髄まで疲弊ひへいさせた後に、最終的には国の分割という一つの決着を見るに至った。

 しかし、その後も楼蘭では極秘裏に宮廷呪術が息づいていた。それも呪禁道ではない、別の術――同じ道教の流れを汲みながら、そこに方術の息吹を色濃く宿したより強力な術にその姿を変えてな…。

 それこそが陰陽道――陰陽師と呼ばれる連中が操る術だ。かの術、予見さきみ占いから式神を使った呪殺じゅさつまで…その形は多様。やがてこの陰陽師も、時代の流れとともに内裏から姿を消してしまったが、民間では今もまだ生きている。おまえも知ってのとおり、この国は紗那国のように非科学を切り捨てることなどできなかったからな。

 今でも祈祷きとうだのまじないだのと、目に見えぬ力で食べている者が多くあるだろう?それこそ、篠懸様が滞在しておられる先の遊佐ゆざという霊能師――彼女にしてもそうだ。あのお方も、調べてみれば、恐らくは昔宮が抱えた呪禁師か陰陽師の家系の者だろうな」


「はあ…。あの、お話は大変良く分かりました。でも…どうしてそれが十夜様のご専門になるんです?十夜様、政治学を専攻されているんですよね?」


 顔をしかめた睦に、十夜はさも得意げに口角を吊り上げた。


「ふふ…なかなかいいツッコミだな。まあ、政治とひと口に言ってもな、その背景には歴史や風土、民族性などが根深く絡んでいる。そういった意味合いに取ってもらえればありがたいが…。ま、これだけ詳しく話せば疑いたくもなるよな。実はな、私自身がこの内裏の陰陽師の家系の者だ」


「!!」

 見る間に、睦が青ざめてゆく…。


「こ、こらこら。そう怖がらず、最後まで話を聞け。陰陽師の家系と言ってもな、私にそんな力もなければ具体的な術式も知らん。要するにただの凡人だ。だが、半端な資料だけは自宅に数多く残っていた――それだけだ。私はおろか、両親も祖父も曾祖父の代までさかのぼってみても、そのように怪しげで強力な術が使える者は誰一人おらん。たかが末端の弱小陰陽師――唱門師しょうもじと言ってな、本家の陰陽師の使い走りをしていただけの、まるで程度の低い術者の末裔まつえいさ」


 睦はほっと胸を撫で下ろした。


「な…なんだ、よかった…。あ!あの、今ちょっと思ったんですけど、もう少し他に協力者が要ると思うんです」

「ん…?仲間を増やすのか?だが、増やしてどうする。あまり多いとかえってばれるぞ?」

「ええ、でも少なくとも一人…。そう、あと一人、口の堅い役者が要ると思います。だって、十夜様が千種様を知っているというの、ちょっと不自然じゃないですか?あの方、いつも内裏に入って真っ直ぐ光の宮にお越しになっているみたいですし、どう頑張っても十夜様の目に触れるはずがないと思うんですけど」


 確かにもっともな話である。


 宮廷学者には違いないが、今の十夜は扱いが特別だ。従って他の学者のように水の宮に住んでいるわけではない。まして光の宮に出入りする用もない。

 十夜は今、皇帝の宮殿である嫦娥殿こうがでん近くにあるここ青竜殿せいりょうでんの一画にきょを与えられ、別所帯ながら義父である常盤と一つ屋根の下に暮らしている。そして、毎日ここから嫦娥殿や他の役所へとおもむき、蘇芳の話し相手になってやったり、諸大臣らの雑務を片付けてやるなどして常盤の仕事の補佐をしているのである。


 つまりところ、同じ内裏の中にありながら水紅や臣とは生活の場所がまったく違うのだ。


「そうだな――。となると、目撃者を仕立てねばなるまい。少々のことには動じず機転が利き、ごく当たり前に光の宮に居られて口が堅く…更に欲を言えば、水紅様や臣に一方ひとかたならぬ忠誠心を持っている人間…か。だがそうなると、私は一人しか思いつかんが」

「ですよね…。私も右京ぐらいしか…」


 どうやら二人とも同じ人間を思い浮かべたらしい。


「でも、彼は今、臣の手紙を持って如月へ行ってしまってて…。多分、戻るのは夜遅くになると思います」


 ふと睦は窓の外へ目を向けた。


 もうじきに日が暮れる――。

 陽光はその勢いをすっかり弱め、ほのかに朱みがかった空を紫へと変えようとしていた。


 睦はすっくと立ち上がった。


「これから私が白露様のお部屋へ行って時間を稼ぎ、様子を探ります。十夜様は右京が戻ったら、あの話を彼にしてください。くれぐれも内容は最小に。でないと、右京にまで危険が及ぶ可能性がある。彼は目撃者をただ演じてくれるだけでいい。あとは私たちの仕事です――それで構いませんか、十夜様」


「う、うむ…」

 頬杖をついたまま、十夜は複雑な気持ちで彼を見ていた。


 白露の元で時間を稼ぐ――その言葉の意味は分かっている。そのようなことをここでさせても良いものか…。だが、彼はずっと前に甘んじてそれを受け、以来白露の世話をし続けている。


 一体何が彼をそうさせているのだろう?


「なあ…睦。訊きたいことがあるのだがいいか?答えたくなければ答えずとも構わん」


「はい。何です?」


 向けられたのはまるで女の笑顔だ。

 しかもとびきり美人ときた。


 今、十夜の前に立つ麗人れいじんは、屈託のない微笑みを浮かべ、友を救うためにこれから身売りに行くと言う…。


 確かに、彼にしてみればそれは日常。何の苦もないように見える。


 しかしそれは本当か?

 そうやって笑うことで、彼は胸の傷を塗りこめてしまってはいないか?


「おまえ、なぜ身を売ってまで宮にいる」


 そう口にした途端――。


「!!」

 十夜の言葉は、たちまち睦を凍らせてしまった。瞬きもできず声も出せず、睦はぎゅっと胸を押さえた。


(恐らく…触れてはいけなかったことなのだろう。だが、聞いてやらねばならん。もしかしたら彼は、他人のことに尽力じんりょくしている場合ではないのかもしれぬ。もしも、その胸にひどい辛さや苦しみを抱えているのだとしたら…。敢えて彼がそこに目を向けず、ずっとそれを押し殺して耐え続けているのだとしたら…)


 十夜の瞳はじっと睦だけを捉えていた。


(恐らく…いつか彼は崩壊する)


「わ、私…。私はただ…」


 わなわなと瞳を震わせて、睦は俯いてしまった。


「好きでそうしているのなら、私などがどうこう言う筋合いのことではない。だが、どうもな…私にはそうは思えんのだ。例え自らを傷つけてでも、ここを離れるわけにゆかぬ理由が何かあるのだろう?まさかそれは――」

「違います!そんなんじゃありません!!」


 驚くほど感情的な声を上げ、睦は十夜の言葉を遮った。だがそれは、十夜が言わんとした言葉を肯定したのと同じことだ。


「そうか…。おかしなことを尋ねてすまなかったな…」


 言いかけた言葉を胸の底で呟く。


(まさかそれは…香登様の帰りをお待ちするためか…?)


 もはや尋ねるまでもない。


 やはりそうだったのか――。


 睦は逃げるように部屋を出て行った。


「まったく…。皇子付きというのは本当に…どいつもこいつも――」

 気だるげに髪を掻きあげ、十夜は誰に言うでもなく呟いたのだった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 天飛あまだの空には重く分厚い雲が垂れ込めていた。


 やがてはあの灰色の雲海から、大粒の雨が落ちるのだろう。

 彼らの真上で、彼らの心と同じ色をした涙をきっと流してくれるのだろう。


「馬鹿な!こんな…こんなこと!!」


 愁は手紙を握り締めた。


 膝の上には臣のよこした手紙がある。そして今、彼の手に握られているのは、睦の書いたものだ。


 そこには、今朝起こった事件の詳細と、今現在臣が牢に入れられていて、早急に何か手を打たねばどうなってしまうか分からない――といった内容が丁寧にしたためられていた。


「そしてこれは水紅様から…篠懸様と愁様に、と――」


 右京がもう一通の手紙を差し出すと、察した久賀が篠懸を呼びに出て行った。


 すぐさま文面を追った愁は――。


 いくらも読まぬうちにその紙面を伏せてしまった。とても最後まで見ていられるものではなかったのだ。


 まるで懺悔ざんげするようなその文面――そこには、どうしようもない悲しみに縁どられた水紅の心が連綿れんめんと綴られていた。


 つまらぬ意地を張って最後まで臣を信じなかった自分を、水紅はひたすらに責めて続けていた。自分をかばって投獄された彼を、何とかしてやりたいと思ってはいても、実際には何もできない歯痒さと、第一皇子だ次期皇帝だと、いくらちやほやされていても、いざとなれば大切な人間の一人も救ってやれない己の無力さと…。


 止めない涙。

 悲痛な胸。

 やりきれない思い…。


 彼の心をえぐる現実を思えば、とても読むに耐えられたものではなかった。


 深く息を吐いて今一度気分を落ち着かせると、再び愁は文面に目を落とした。手紙の終わりは、篠懸への謝罪で締めくくられていた。


『篠懸――。おまえにとってもかけがえのない彼を、あらぬ危険に晒してしまっていることを本当に申し訳なく思う。何とか彼を救うべく睦が動いてくれてはいるが、あの母の性格を思えばどうにも不安だ。

 同時に、彼を失うかもしれない現状に、少なからず私は動揺し恐怖を覚えている。恥ずかしい話だが、本当に怖くて仕方がないのだ。この気持ち、同じ皇子であるおまえならば、きっと分かってくれると思う。

 どうかおまえは愁を大切に。何があっても彼を信じ、決してその手を放すな。療養中のおまえに、不安をあおることを言うのもどうかとは思ったが、どうしても今、伝えておきたかった。本当にすまない――』


「……」

 居た堪れず、愁は唇を噛み締めた。


 三通の手紙には、それぞれの心が綴られていた。互いが互いへ寄せる熱い気持ちが、痛いほどに詰め込まれていたのである。


「こんな馬鹿な話があるか!!右京、おまえは何をしていた!?おまえ、水紅様の近衛だろうが!近衛長なんだろうが!!」


 やり切れぬ思いに堅海が床を殴りつけたその時。


「……」

 現れたのは久賀を伴った篠懸であった。まだ事態が呑みこめぬも、臣下のただならぬ雰囲気に息を呑む。静かに腰を下ろすと、部屋中の視線が篠懸一点へ注がれた。


「おまえは…右京。どうした?まさか宮で――宮で、何か…あったのか…?」


 恐る恐る尋ねるた篠懸に、愁から差し出されたのは水紅のよこした手紙である。受け取る瞬間、ふと篠懸は愁の瞳を覗いた。


「愁…。おまえ…泣いているのか?」

 既に愁からは失われてしまったいつもの微笑み。そんな彼の変化を篠懸が見逃すはずはなかった。


「兄上様からですよ…」


 それだけ言って、愁は目を伏せた。


 そして――。


「こ、これ…っ。これは一体…!?」

 一読するや否や、篠懸の手は激しく戦慄わななき始めたのだった。


「愁!!どうなるか分からないとは、どういうことだ!臣の身に何が起きる!?こんな…こんなの…!」

「恐らくは…皇子付きを外され、宮を出されるかと」


「そ…そんな!!」

 縋る思いで周囲を見ても、沈む顔が並ぶばかりで誰も篠懸の求める答えをくれない。


「そんなことって…!!なぜだ!どうして臣が…!」


 篠懸は、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。


「も…申し訳ありません、篠懸様!私が…この私がついていながら!!」


 右京はひしと床に額を擦り付けた。


「ひどいよ、こんなの…!こんなの嫌だよ!!だって臣も――臣も私の大事な先生なんだ!それなのに宮を追い出されるって…そんなの!だって、あの臣が…。なぜ彼が牢なんかに入らなきゃならない?そんなはずない!そんな人じゃないよ!!ねえ、助けてよ!助けてやってよ、右京!!」


 真っ直ぐな言葉が胸に刺さる。床にひれ伏したまま、右京はなかなか顔を上げようとはしなかった。


 異変を察して駆けつけた氷見と紫苑も、悲痛の篠懸を前に立ち尽くすばかりだ。

 臣に恩義を抱く面々が今ここにすべて揃った。


 そして――。


「篠懸様」

 ついに眉を結び、愁は静かに口を開いた。いつになく低い冷静な声だった。


「暫くおいとまを頂いても宜しいでしょうか」


 濡れたつぶらな瞳が愁を見る。同時に、取り巻く視線が一斉に愁の元へ集まった。


「あなたのみならず、彼は我々にとっても恩人です。あの日――天飛の山頂に彼が駆けつけてくれて、皆どれほど心強かったか。あの日の彼の言葉に皆がどれほど救われたか…。そんな彼への恩に、今ここで報いるのは当然のことと存じます」


 改めて篠懸へ向き直り、愁は床に両手を付いた。


「し、愁…まさか」


 口を挟んだのは堅海であった。


「宮へ戻る気か…?しかし、それは――」


 愁はここでの全権を持つ者――最高責任者だ。そんな彼が、あるじである篠懸の元を離れ、単独で宮へ戻るなどということが許されるのだろうか?


 幼い篠懸にとっても、ここで彼が傍を離れるのはこくな話だ。

 宮の現状を知った今、篠懸の胸は深く傷ついている。傍で彼を慰め、安心させてやれる誰かが必要なはずだ。それができるのも愁、その人のはず。


「愁…」


 篠懸はそっと愁の手を取った。とてつもない不安と心細さが今、篠懸の胸を覆っていた。


 しかし、それでも愁は――。


「篠懸様。私は尊いあなたの身を預かる者。その私が自らの判断でここを離れることは叶いません。ですからどうか、あなたの口からめいをください。今すぐ宮へ戻れと…!行って彼を救ってこいと、どうか一言――!」


 思いがけぬ言葉にはっとした。瞼を見開いた拍子に、また独りでに涙が膝元へ落ちた。


 愁はきっと…。

 愁ならばきっと臣を救ってくれる…!


 篠懸はそう確信していた。


 寂しい気持ちも確かにある。だがそれよりも、毅然とした愁の態度に宿る心が篠懸の胸を打ったのである。


 気丈に微笑んで、ついに篠懸は頷いた。


「分かった。行って来い、愁。いや、行ってくれ!そして…兄上や睦とともに、必ずや彼を…臣を救って戻って来い!!」

「はっ!畏まりました!」


「し、しかし、篠懸様!!」

 正直なところ、堅海はまだ迷っていた。


 できることなら自分が行って力になりたい。この場合、それが最良の人選であるはずなのだ。

 しかし、相手はあの白露――遥か身分の違う堅海程度が歯の立つ相手とも思えない。


 だが、愁ならばあるいは――。


 やおらに立ち上がり、愁は棚から薬箱を取り出した。中に入っているのは、篠懸のためにいつも持ち歩いているあの薬である。


「我が名において、ここでの全権をそなた――堅海に今、委譲いじょうする。篠懸様をどうか…。よろしく頼む」


 そう言って愁は、堅海に薬箱を差し出した。

 形式にのっとっり神妙に命ずる愁。それは揺るぎのない彼の決意の表れといえた。


 そして。


 愁の腹心であればこそ、堅海はそれを認めぬわけにはいかなかった。


「畏まりました、愁様。ご命令、つつしんでお受け致します」

 もう一度しっかりと愁の瞳を見、堅海は膝を突いて平伏した。


 ここで止めて聞く男ではないのだ。

 無論、もう止める気もない。


「案ずるな。事を成し得たらすぐに戻る。その間、そなたらにも皇子様のことを頼んでおく。支えて差し上げてくれ。良いな?」


 見守る皆の顔を見渡し、愁はうっすらと微笑んだ。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 月が天の真上に上がった。


 格子の嵌った小窓から差し込んだ光が、いつもと同じ強くまばゆい純白の面持ちで、一人ぼんやりとうずくまる臣を見ている。そしてまったくいつもと同じに、臣は明かりの及ばぬ壁際にぴたりと身を寄せるのだった。


(いつまでたっても進歩がない。この齢でまだ牢か。情けない話だな…)


 考える時間だけは持て余すほどある。今朝ここに放り込まれてから、その時間のほとんどを考え事に使った。

 脳裏を巡らせていたのは、愁へ出した手紙と同じことだ。あれから、頭の中を再び整理し、見落としがないか、別な発想はないかとずっと考えを巡らせていた。


 だが実のところ、そうしてただ自分をごまかしていたに過ぎない。


 水紅のことが気がかりだ。またしても彼を傷つけ、泣かせてしまった。あの紗那の訪問の日も、そしてまた今回も――。

 どうせ今頃また泣いている。あの方は弱い方だ。いくら虚勢きょせいを張ってみてもその胸はひどくもろい。

 彼を守り育てる使命の自分が、逆に彼の心を痛める種となってしまった。すべて自分の責任だ。篠懸様を泣かすな、などと愁を責められた義理ではない。


 昼間はいくらでも自分を騙していられる。中身もないのに偉そうに学者の振りなどして、顎で下々を従わせ、次期陛下の皇子付きだ何だと持ち上げられるまま生意気な口を叩き、二流の役者宛さながらに威張って見せている。


 それのどこが尊い?

 あの下らぬ学者連とどこが違うというのだ。


 所詮は罪人、ただの詐欺師。その程度が、あの水紅皇子の心を開こうなど思い上がりもはなはだしい。

 偽りの仮面でいつも本心を隠しているあの方を、ただお救いしたいと――いつか皇帝になるその日に民に背を向けられぬようにと、純粋にそう思っていたつもりだった。だがその前に、当の本人が偽者だなんて…。


(そんな私を信じろという方が無理だ。笑い話にもならん)


 抱えた膝に額を押し当てる。


 どうも夜は勝手が違う。まして月夜など最悪だ。内に隠しておいた弱さが全部あふれ出てきてしまう。


 自分が崩れていく。

 自分が何者か分からなくなってしまう。

 不甲斐ない自分が許せない。


 心許こころもとなさと苛立ちで、頭の中が真っ白になる――。


 何者かの気配に臣はふと顔を上げた。じっと様子を伺っていると、そこに現れたのは…。


「愁!!なぜおまえ…!ここへ何をしに来た!?」


 臣はぎょっと目を見張った。


 ほっと笑みを浮かべ、愁は格子の前に膝を付く。今しがた宮に着いたばかりなのだろう、その息は僅かに荒い。


「臣…。びっくりしましたよ、もう…」


 いるはずのない人物を前に、柄にもなく臣はうろたえた。


「お…おまえ…っ、篠懸様はどうした!?別に私は…そういうつもりであれを書いたわけでは…!」

「その篠懸様のご命令なのですから、忠実なるしもべである私としては致し方もありません。右京に頼み込んで、一も二もなく飛んで参りました」


 その様を見ただけで、愁がここへ出向くために篠懸にめいを『出させた』ことは、容易に想像がついた。


 暫し唖然としていた臣も、やがて――。


「あの方…またひどく泣いたろう?」


 愁にやや遅れて水紅付きの近衛長・右京が姿を現した。右京は階段を下りたところでさっと頭を下げ、愁の後ろに膝を付いた。


 くすりと愁が笑う。


「ええ、今日はあなたのために…。またいつものように号泣ごうきゅうです。右京なんか、もう散々に責められて大変でしたよ。ね…?」


「ああ、まあ…でも本当に見ているだけで辛かったですよ。あの篠懸皇子様があんな風に取り乱される姿…私は初めて拝見しましたから」

 右京は苦笑した。


「堅海には、近衛のくせに何をしていたと怒鳴られるし、篠懸様には、臣を助けてくれと泣き付かれて…。そんなことを言われても、右京だって困ってしまいますよね」


 愁はそこできちんと臣の前へ向き直り、姿勢を正して言った。


「篠懸様を始め、堅海、久賀、紫苑、氷見…そして遊佐様。皆の期待を背負って戻って参りました。我があるじ、篠懸様の下されたご命令は、あなたをここからお出しすること。何としても臣を救い出して来いとの仰せです。それまではあの方の元へ帰ることもできません」


「……」

 強く真剣な眼差しに射抜かれる。思わず言葉を返すことさえも忘れ、臣は呆然と愁を見ていた。


「及ばずながら私もお手伝いさせて頂きたく存じます」

 次いで右京が頭を垂れる。


(何だこれ…?何だと言うんだ…?異国出の私などこの国にとって別段大層な人間ではないはずだ。なぜそうも尽くしてくれる?なぜそうも私などのために身を削る…?)


 そのとき――。


「……?」

 一同は小首を傾げた。誰かの陽気な鼻歌がゆっくりと近付いてくる。


「おや!誰かと思えば愁か!?だが、なぜおまえがここにいる?如月にいるはずだろう?」


 階下に着くなり十夜は目を丸くした――が、それは愁や右京にしても同じことだ。


「と、十夜様…あなたこそ…!?これはどういうことです?」


 ふと見ると、いつの間にかきちんと姿勢を正した臣が肩を竦めて小さくなっている。様々な思いに胸がつかえて言葉が出ない様子である。


「まあ…その辺はな、後で睦にでも聞いてくれ。此度の作戦の指揮官は、かの有名な麗しき宮の星読み――睦様であらせられますぞ?」


 大げさにそう言うと、十夜はにやりと笑った。


「ふふっ。ひょっとして指揮官殿が一番若いんじゃありません?」

 愁は柔らかな微笑みを浮かべた。


「ええと、右京は二十七で…愁は二十三だっけな…。となると、違いない。あいつが一番下だ」

「で…、その指揮官殿は今どちらに?」

「ああ、睦か…睦は、その…。万が一のことを考えて…だな、とりあえずの時間を稼ぐと言って…。つまり、その…」


 十夜の顔が曇る。


「白露様のところへ行った」


「!!」

 息が止まりそうだった。たかが自分一人のために、彼にそんなひどい仕打ちを…!?

 臣は十夜の前へ詰め寄り、乱暴に格子を握り締めた。


「十夜!そんなことを許したのか、あいつに!!おまえが傍にいながら何てことを…!!」


 声が震えた。


 許せなかった。

 十夜も…睦も…そして自分自身も何もかも――!!


「すまん…」

 小さく呟いて十夜は目を背けた。


「謝って済むことかッ!!」

 佇む十夜へ吐き捨てるようにそう浴びせ――。


 臣は愕然として崩れ落ちた。


 そのままで暫くは時だけが流れた。

 誰も口を開けなかった。


 内裏ここは…この場所はあまりに歪んだことが多すぎる――。


「あ!」


 聞き覚えのある若い男の声がした。目を向けると、階段の陰から睦の朗らかな顔が覗いている。


「みなさん、いらしてたんですね!」

 嬉しそうにそう言うと、睦は皆の元に駆け寄った。


「お久しぶりですね、睦」

「愁もお元気そうで。遠路、ありがとうございます」


 平静を装う愁に睦はにこにこと笑いかけたが、その笑顔はかえって皆の胸を締め付けるのだった。


 と――。


 突然臣は立ち上がり、格子を握った。


「睦、おまえ――!怪我をしているだろう!?」


「え?ああ…これ?でも大した怪我じゃありませんよ」

 口をもごもごとさせ、睦は恥ずかしそうに笑った。


 どうやら口の中を切っているようだ。


「おまえ何で…何でそんな…。もう…やめろ。頼むからやめてくれ。もういいから…。こんなのもう…たくさんだ」


 握った格子に額を当て、また臣はうなだれてしまった。

 たかが自分一人のために誰かが傷付き、犠牲になってゆく…。それがどうにもたまらなかった。


 そんな自由なら要らない――。


「おまえ、あの女に何をされた?今度は何をされたんだ…?」


 臣は微かに震えていた。


「え…?あ…あの、何て言うか…。えと…ちょっとだけ殴られました」


 無邪気にはにかむ姿に切れた。


 もう見ていられない!

 とても耐えられない!!


「貴様、何が…っ!何がおかしいッ!!なぜそうも笑っていられる!?」


 格子から伸ばされた手が、不意に睦の胸倉を掴んだ。

 引き寄せられた拍子にバランスを崩し、睦は咄嗟とっさに格子にしがみついた。


 びっくりして顔を上げると、そこには――。


 怒りとも悲しみとも取れる強い瞳が、真正面から睦を睨んでいた。二人を隔てるこの格子さえなければ、とっくに臣は睦を殴っていただろう。


(え?臣が…泣いて…る?どうして…?)


 自分の胸を掴まれていることよりも、あの臣の目に涙が浮かんでいることに、睦は激しくうろたえ動揺した。


 自分を睨みながら張り上げられたあの声は、今朝彼が水紅のために白露に許しを請うたあの声と同じ…。まるで喉の奥から無理矢理絞り出すかのような悲痛の声だった――。


「やめて!!どうかやめてください、臣!!」

「臣様――!!」


 愁と右京が慌てて入り、力ずくで二人を剥がす。

 その体に触れてみれば、意外なことに二人ともが震えていた。見開かれた睦の目は臣を凝視ぎょうししたまま動かず、一方で臣もまたそんな睦を睨んでいる。


 睦は泣き出しそうになって叫んだ。


「だって…!だって…ほんとに平気なんですもん!!こんなの何でもないです!こんなの、ほんとに――!!」


 驚いたことにそこでまた睦は笑顔を作った。目にあふれんばかりの涙を溜めながらも、なぜかそこで睦の顔は笑っていたのだ――。


 十夜は静かに立ち上がった。


「ちょっと顔を貸せ、睦」

 そう言うや否や、十夜は強引に睦の腕を掴んだ。


「な…何…!?やだ…っ!嫌ですっ!放して、十夜様…っ!!私はまだ――」


 睦はじたばたと抵抗したが、十夜はまるで意に介さず、嫌がる睦を引き摺って階段を上がっていった。


 そして――。


 蹲る臣の前に、愁と右京…そして夜の静寂だけが取り残された。


 俯く表情までは窺えないが、床についた手にはいくつもの雫が残っている。恐らくは、この場の誰もが初めて目にした臣の涙である――。


「気持ちは分かります。私だって辛いですけど…でも、彼も――。睦も必死ですから…」


 格子に手を差し入れ、愁は震える肩にそっと手を置いた。


「必死だからと言って許せることではない。認めてやることなどできん。あいつに…あんなひどい真似をさせておいて喜べるはずもない!たかが私一人のために…あいつがその身をおとしめてゆく様を笑って見てなどいられるか…!!

 そうまでしてここを出ようとは思わん!!水紅様にしてもそのようなことは決して望まれん!!」


 口惜しそうに言い捨て、臣は手をぐっと握り締めた。


「確かにそうです。そうですけど――。でもね、正直なところ、口では水紅様が…なんて言いながら、実は水紅様を必要としているのはあなた自身でしょう?水紅様なしの人生って考えられますか?いや、五年も皇子付きを務めたあなたが、まさか平気なはずはない。私が同じ状況に置かれたとしても、耐えられることではありませんからね…。

 だからこそこんなことが言えるんです。あなたが今どれほど傷付き、彼を求めているか…それこそ我が身のことように感じられる。

 ねえ、臣。それは同じ皇子付きを務めた睦にだって、分かるはずのことでしょう?彼は、我々の中で唯一愛してやまない皇子様を失った人間ですよ。想像を絶する辛苦しんくを越えてきた人間だ…。

 ただ彼は、同じ思いをあなたにさせたくないんです。水紅様の元にあなたを戻して差し上げたい、確かにそんな思いもあるでしょう。でもきっとそれ以上に、あなたに水紅様を返してあげたい――そう思っているはず。どうかお願いです。彼のその気持ち、少しは汲んでやって頂けませんか…?」

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 嫌がる睦を引っ張り、十夜は地下牢から地上へと上がった。そのまま外へと連れてゆく。


 睦は金切り声を上げて抵抗し続けた。


「放して――!放してください、十夜様!!私には、まだやらなきゃならないことがいっぱい…!」


 やがて、牢舎の裏手まで来たところで、十夜はようやく睦を解放した。しかし、睦は意外なほどの敵対心をあらわにし、十夜を睨みつけている。


 ついに十夜は大きく息をついた。


「睦!おまえ、自分のことをもっとちゃんと考えろ!このままじゃ、本当にいつかおまえ、おかしくなるぞ!!」


 すかさず睦はむきになって反論した。


「一体何です?何なんです!?自分のすべきこと、ちゃんと考えてますよ!ちゃんと自分で考えてやってます、全部!!だから、今――」


 十夜は睦の両肩を掴み、力ずくで牢舎の壁へと押し付けた。


「違う――!そうじゃない!そういうことを言っているんじゃない!!おまえ、感情を殺しているだろう!?怒りや悲しみ…そんな負の感情を殺し始めているだろう!!そんなことを繰り返していたら、いつか本当に笑うことしかできなくなる。そのうちその涙も出なくなるぞ!辛いことも苦しいことも何もかも…たった一人でその胸の奥にしまい込んで、ただ笑っているだけの人形だ!いいのか、それで!?おまえ、そんなものになりたいのか!」


 真剣な眼差しが胸に刺さる。


 まただ――。


 また同じ話。


 堅海も臣も…十夜もみんな結局同じことを言う。


 本当は嬉しい。

 自分は一人じゃない。みんな傍にいる。大切な友達だ、きっとみんな…。


 今は心からそう信じられる。


 でも…。


 だけどもう…今になってそんなことに気付いても――。


「だって…。だって…今更そんなこと言われても…。だって…っ…!!」


 見る間に涙が溜まってゆく。


「おまえ、こんなの本当は嫌なんだろう?望んでなんかいないんだろう?いくら香登様のためとはいえ、毎晩のように白露様の相手をして…もう二年になるじゃないか!そうまでしてここに籍を置いて…。挙句、地位を体で買っただの、欲をかいた娼婦だのと…散々な陰口を叩かれて…。そんなこと、とっくにおまえの本人の耳にも届いているだろう!!」


 堪らず睦は耳を覆った。

 瞳からは、後から後から涙があふれた。止めたいと思ってもどうしても止まらなかった。


 やがて睦はその場に崩れ落ちた。

 肩を震わせ声を殺し、ただ僅かに漏れるは嗚咽だけ…。


 隣に膝を付き、震える肩を抱いてやると、睦は十夜の肩に顔を埋めて泣いた。


 いけない――。

 優しくされたらまた甘えてしまう。堅海に胸の内を語ってしまったあの時のように。


「なぜあの時、あの方の誘いをお受けしたのかなどと、今更どうしようもないことは言わん。おまえも言うべきではないぞ、睦。例え自分自身に対してでもな。

 しかし…自分自身でも気付いてはいないようだが、臣の言うようにな…おまえ、どこか少しおかしい。喜怒哀楽はまだかろうじてそこにあるようだが、どうも――精神と肉体が切り離れてしまっているように感じる。

 おまえ、辛く苦しい胸の内をずっと誰に打ち明けることもできず、ただ押し込むことでやり過ごしてきたんだろう?笑顔を浮かべ笑い飛ばすことで…そうして自分を偽ってきたんだろう…?

 あのな、睦…。逃げられないから、仕方がないからと、無理な理屈で自分を説き伏せ、たった今しがたもあの方の相手をしてきて…。しかも、感情的に暴力まで振るわれて…。それで果たして何ともないなどということがあるか?このぐらい何でもない。本当に何ともない――おまえは何度もそう言ったよな?確かにそれは本心だろう。私から見ても、嘘をついているようにも、耐えているようにも見えなかった。

 だがな、それこそが異常だ!!これ以上自分が傷付かないようにと、いつの頃からか自らが張ったその予防線――きっとそれがそうさせているのに違いない。でなければ、あれほどひどい目にあいながら、まるで何もなかったかのような笑顔を浮かべて、何ともないなどと言えるはずがないからな。

 睦!いいか、睦、よく聞け!!おまえは既に壊れ始めている。本当だ!!こんなことを続けちゃいけない!今のおまえ…本当ならば、臣のことなど構っている場合じゃないはずだ!あいつを気遣う前に、おまえはまず自分の面倒が見られるようにならねばならなかった!」


 十夜は睦の肩をぐっと握った。


「だがこれは、何もかも分かっていながら、これまでずっと手をこまねいてきた私たちの責任でもある。おまえはまだ若い。宮に来た頃など、まだ十代――ほんの子どもだった。そんなおまえがあの白露様に逆らえたはずがないんだ…!謝って済むことではないが、本当にかわいそうなことをした」


 睦は結んだ手を更に強く握り締めた。細い体がぎゅっと強張る。


「遅ればせながら約束しよう。この件が片付いたら私が必ずおまえを自由にしてやる。宮に残るなり、外へ出るなり好きなようにさせてやる。それまでの辛抱だ。いいな、絶対だ。誓えというなら何にでも誓ってやる。だから信じろ、この十夜をな」


 胸の奥をこじ開けられた気がした。


 耳を疑った。

 今の十夜の言葉は、もうずっと前に睦が諦めていた言葉だった――。


「十夜…様…?」


 おずおずと見上げる潤んだ瞳に、十夜はとびきり愛想の良い笑顔を向けた。


「そうしたらおまえ、恋でも何でも思うままだ。それだけの器量があれば女などいくらでも寄ってくるさ」


 美しい顔は涙に濡れ、瞼の周りは赤く熱をはらんでいる。その瞳が瞬きをした拍子に、そこに溜まっていた最後の涙が彼の頬を滑り落ちた。


 だが、そうしてやっと戻ったのは穏やかな微笑み。

 それは作り物ではなく、本心からの笑顔――。


 その頭をくしゃくしゃと撫でてやると、まだ泣き顔の睦は照れたように笑った。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「あの…臣の牢を開けてください。彼と中で話がしたいんです」


 無茶な申し出に、牢番達はにわかに動揺した。


「いや…ですが、しかしですねえ…」


 あからさまな不審を向けられ、思わずひるむ睦。


 ところが。


 その前にむんずと巨体を割り込ませた十夜は、ぎろりと牢番を見下ろした。


「貴様ら…たかが牢番の分際で偉そうに!私を一体誰だと思っている!!」


 にわかに語気を荒げた威圧的な眼差しに、牢番らは一斉に竦み上がった。


「まさかうぬら、この私の言葉が信用できぬなどと、そう言うつもりではあるまいな!?」

「あ…!と、十夜様…っ!!いいえ、そんな、まさか…滅相もありません!では、あの…これ…。お帰りの際にお返しいただければ結構ですから…。我々はここに控えておりますゆえ、万が一にも何事かあった場合は、どうか遠慮なく…!!」


 牢番は一様に平伏し、おののきながら鍵を差し出した。それをふてぶてしく奪い取ると、十夜は悠然と階段へ向かった。


 その後を、目を白黒させた睦が追う。


 あの常磐に仕えているとはいえ、十夜の身分はただの政治学者のはず。その彼に、まさかここまでの権限があったとは…!!


「すごいんですね、十夜様!!皇子付きをしていた頃だって、私にはとてもあんな真似は…」


 地下へと続く暗い階段を下りながら、睦は尊敬の眼差しで十夜を見上げる。


 が。


「ん?そうか?ただのはったりだが――」

 鍵の束を引っ掛け指先でチャリチャリと回しながら、十夜はしれっと答えた。


「え…。は、はった…り…?」


 足を止めた睦の目は、すっかり点になっている。


「あのなあ、たかが学者が牢など開けられるはずがないだろう?そんなことができたら、とっくに臣を出してやっている」


 十夜は得意げに笑った。


 確かにそれはそうだ…。

 仰るとおり。


「ふふふ。まったくちょろいもんだ、簡単に騙されおって。我が国の兵は少々(たる)んどるな。後で右京によく言って聞かせてやらねば…」


 にんまりと浮かべた笑みはまるで悪人のそれである。


 睦は暫しきょとんとした面持ちで十夜を見つめていたが、やがて肩を震わせ――とうとう堪えきれなくなった睦は、声を上げて笑い出してしまった。


 そんな姿を横目で見ながら、内心では十夜もほっと胸をなで下ろしていた。


 階段を一番下まで下りきると、その先の地牢じろうに、先ほどとまったく同じ格好で蹲っている臣が見える。こちらに気付いて振り向いた愁も右京もしんみりと口を噤み、暗く沈んだ空気だけがこごっている。


 意を決した睦はおずおずと格子に近付いた。


「あの…お話を聞いていただきたいんですけど…。そちらへ行っても構いませんか、臣?」


 一瞬横目で睦を見たが、臣は返事をしないばかりか頷きもしない。


「……」

 睦は静かに牢の扉を開けた。


「そ…それ、どうしたんですか!?鍵…っ?」


 目を見張る愁に――。


「十夜様が牢番から借りてくださいました」


 振り向いて微笑んで見せると、睦は臣の真正前に静座した。ひどく取り乱した先ほどとは打って変わり、すっかり落ち着いた様子だ。


 一方その前で、一応ながら臣もきちんと姿勢を正しはしたが、それでもやはり視線を合わせてはくれなかった。


「あのね、臣…。香登様がいなくなった二年前のあの晩――本当は私も最後まで皇子様と一緒にいたんです」


「!!」

 それは、思いがけない告白だった。


 一同は驚いて睦を見たが、それでも臣だけはやや顔を伏せたまま無言だった。


「ちょっと待ってください!だってあなた、あの時陛下に、いつの間にかいなくなった、と…そう申し上げていたじゃないですか!朝、部屋へ出向いたらもういなかった――って。あれは…事細かにあの時の状況を語っていたのは、何だったんです!?まさか全部…嘘!?」


 愁の言葉に睦は小さく頷いて答えた。その顔は、寂しげながらどこか穏やかにも見える。


「香登様は――何て言うか、その…ちょっと繊細すぎて…。さっきの十夜様の話じゃないですけど、例え辛い思いをその胸に抱いていたとしても、いつだって人知れずそれを殺し、じっと我慢ばかりしていらっしゃる方でした。普段は明るく素直で朗らかで…とても愛らしい方です。でも、本当はとても弱く儚い方…。小さな頃から、いつもにこにこしていらしたから分からなかったでしょう?私も初めは全然分からなくて…。気付いて差し上げられなくて…。

 でも、ある時――そう、あの方の皇子付きになって半年ほど経った頃だったかな…。香登様のお部屋から下がった後で忘れ物に気付いた私は、慌ててあの方のお部屋へ戻りました。

 その時のこと、今も忘れられません。

 ふと気付くと、さっきまで普通にお話をして一緒に星を眺め、にこやかに笑っていたはずの香登様の頬に、涙の跡が付いていた。あの方、私が下がった後で一人で泣いていらしたんです。私という者がお傍にありながら…わざわざ私がいなくなってから、あの方は泣いていたんです。手にはお母上・霞深かすみ様の写真が握られていました。

 みなさん、覚えておいでかな…?あの日はね、ちょうど水紅様と白露様が今朝のように遣り合った日です。当時はまだ白露様も今ほど横暴ではなかったし、そもそも親子喧嘩の内容だって今日のようなことじゃなかった。元々は水紅様と香登様の些細ささいな兄弟喧嘩が発端でした。原因は本当に他愛のないことだったんですが、そこで白露様は香登様にこう仰いました。

 次期皇帝の兄君に生意気な口を利くな――と。

 でもね、その言葉に逆上されたのは、香登様ではなく水紅様の方でした。驚いた香登様は慌てて間に割って入りました。私も臣もそうでしたよね。

 あの時の香登様を覚えていますか、臣?

 あの方ね…こう言いましたよ。『どんな理由があれ、確かにそのとおり。私が間違っていました。申し訳ありませんでした』と、あの場で…私や他の御許おもともいる中で、なんと床に手を付いて謝罪された。そして、水紅様にはこう仰った。私なら大丈夫です。庇っていただいてありがとうございました――とね…深く頭を垂れ、笑って見せましたよ」


「覚えている…」

 まるで囁くように呟き、臣は僅かに頷いた。


「あの時、あの方、まだ十四です。皇子とはいえ、まだほんの子ども。なのにあの方、顔や言葉を使い分けるんです。無難にその場をしのぐための顔を、言葉を…。そんな判断がよわい十四の少年にできてしまうんですよ。一体どこでそんなことを覚えてしまったのか…って、私、何度も考えました。でもやっぱり見当も付きません。だって、私だってまだ十八…皇子付きになったばかりで、ほんの青二才もいいところ。大して皇子様と齢も違わないじゃありませんか。

 だけど…今ならば分かる。ようやくね、皇子様を失って分かりました。

 たった一つしか齢の違わない兄弟が、ちょっと喧嘩をしたからといってそれは罪ですか――?

 あの方の中では、もうどっちが正しいとかそういうことは問題じゃなかったんです。我が子を愛する余り、つい身贔屓みびいきなことを口走った白露様の姿にね、あの方はご自分のお母上を見たんです。香登様はご自分がお母上に捨てられたと、ずっとそう感じておられたようでしたから、白露様からあんな言葉をかけてもらえる水紅様が羨ましくて仕方がなかった。だけど同時に、あの方がああして香登様を否定する姿は、自分を置いて宮を出てしまったお母上そのもの。

 霞深様はとても奔放ほんぽうな方だったそうですね。何でも自分の思いどおりにしないと気が済まない――人の心までも自分の手に収めたがる、そんな方だったと聞いています。それでもお母上を思い慕っていた香登様にしてみれば、あの霞深様の失踪しっそうは自分への裏切りに等しい。

 香登様の性格を思えば、きっとあの方、いつもご自分の心を霞深様の前に差し出しておられたはずです。でもついにそれは受け取ってはいただけなかった…。

 ひどいですよね。要らないって言われてるのと同じです。もう本心なんて人前に出せませんよ。また手を返されたら、今度はどれほど傷付くか分からない。それに…あの方、皇子ですから…。水紅様や篠懸様と同じ皇子様ですから――まさか人前で弱音なんて言えるはずがありません。求められるのは皇族たる威厳と自尊心。幼い頃から事あるごとにそうしつけけられているんですから。

 この国の皇子様方は皆様そうだ。悩み傷付き、心を隠す。水紅様は胸の奥に触れられるのを嫌い人を遠ざける。篠懸様はもうずっとお体を悪くされている。香登様は…耐えることができなかった…。

 そんな香登様のところに、ある時、霞深様から便りが届きました。届いたと言ってもどうやって届いたのか分かりません。朝起きたら、部屋の扉の隙間に差し入れられていたと、そう仰っていました。

 だけど、香登様にとって、その便りが本物かどうかなんてどうでも良かった。ただ、あの方が言うには、確かに霞深様の字だと…。書かれていた内容は『三日後のの刻に、風の宮の露台ろだいの下に使いをよこすから、その人物とともに宮を出よ』と…。そして最後には、ともに暮らそう。迎えが遅くなって申し訳なかった…と、そんな風に書かれていたそうです。

 初めは何としてもお止めせねばと思っていました。そんなことが見つかったら、ただでは済まない。それこそ香登様も私も、霞深様だって――。

 ですが…。

 手紙を胸に抱いたあの方は、幸せそうに微笑んだまま泣いていました。そう…とても穏やかな笑顔を浮かべて泣いていらした…。皮肉なことに、あの方が私の前で涙を見せてくださったのは、あの時一度きりです。

 心から香登様を愛し、大切に思っていました。それは本当です。あの方だっていつも私を慕ってくださいました。それでも、やはり香登様はどこかでいつもお母上を欲しておられた――。

 あの方の幸せはここにはない…そう感じた私は、結局その背中を黙って見送りました。

 宮をお出になる時、一度だけ――たった一度だけ香登様は私に仰いました。止めるなら今だぞ、と…。でも私は止めることができませんでした。

 まさか我が身がこの後どうなるかなんて考えもしなかった。だってそんな必要がないじゃありませんか。だって私はあの時、あの方の幸せだけを祈っていましたから…。いってらっしゃいませ、と…。どうかお幸せに、とそう申し上げるだけで精一杯…。それがすべてでしたから…」


「馬鹿な!!おまえが霞深様の倍も三倍もあの方を愛してやれば良かったじゃないか!あなたには私が付いている、何があってもあなたを守ると、そう言ってやれば良かったじゃないか!!それを、なぜおまえ――!」


 臣は睦の肩を強く握った。


 臣の目がまだ微かに潤みを帯びている。


 あの臣が――いつも羨ましくなるほど強かった彼が、自分のために涙を流してくれた。あの会議の後も、昨日、光の宮の廊下で会った時も――きっと彼はとっくに気付いていた。狂い始めたこの心に…。


 だってあんなに見ててくれた。

 あんなに心配してくれた。


 いつだって本気で怒ってくれたもの――。


「ほんと…そう…。どうしてそう言って差し上げなかったんだろう…。きっとそれを待っていらした。あの時、振り向きもせずたった一度仰った言葉――あの時きっと香登様は泣いていた。あの方、止めて欲しかったのかもしれない。

 だけど私…どうしても辛くて…。いくら頑張ってもあの方の心を開いて差し上げられない自分が情けなくて…。

 私はあの方の苦しみを知っていながら、結局は最後まで何もして差し上げられなかったんです。

 失いたくなかった、本当は…。心から大切な人だった。あの方が欲しがっていた幸せというもの、できればそれを私が差し上げたかった――!!

 香登様はそれが霞深様の元にあると、そう思っていたんです。一人、住み慣れた…辛い思い出ばかりの宮を出て、香登様は幸せを探しに行かれた。どこへ向かうのかは、とうとう教えていただけませんでした。どうしていらっしゃるのかも分からない。

 だけどね、あの方のことですから、何だかいつかひょっこり帰って来そうな気もしているんです。『睦、ただいま』って、けろっとした笑顔を浮かべて…。私、霞深様のことはよく知りませんが、人伝ひとづてに聞いた話からも、正直、あの香登様に幸せをくださる方だとは思えませんでした。だからいつか、やっぱりここがいい――って、あのいつもの顔で笑って…そう言って戻って来てくれるような、そんな気が今でもするんです…。

 だけど、そうしたら今度は――今度こそはもう放しません。またあの方が泣いて宮を出たがっても、今度は絶対に出しません。あなたの欲しいものは全部私が持っている。探しに行く必要なんかない。私がすべて差し上げると、そう言ってやります。だから…」


 睦は袖で瞼を押さえた。


 驚くほど気丈に辛い記憶を語った。これまでひた隠しにしてきであろう真実を、その胸の内を、睦らしからぬしっかりとした口調で語った。本当の彼はこんな人間だったのかと、居合わせた誰もが目を疑ったほどだ。

 こうなるまでに何度もくじけそうになり、何度も一人で泣いたことだろう…。


 だが、それもここまでだった。


 睦は肩を激しくしゃくりあげた。話を続けようとしても、涙でうまく声が出ない。どうしても声が上ずってしまう。


「臣はまだ…すぐそこにいる…でしょう…?大切なあの方…まだあなたを…待っててくださるじゃ…ないですか…!まだ…手を…手を伸ばせば…ちゃんと届きます…。届かないと言うなら…背中、押してあげます…だから…!」


 細い手を引き寄せると、睦は簡単に臣の胸に飛び込んできた。その肩を黙って抱いてやる。背中に回した手に力を込めると、ずっと一人で堪えていたであろう睦の心は嗚咽となり、やがては泣き声へと変わった。


 堰を切ったように睦は泣いた。

 ただ声をあげて泣きじゃくった。


 夜が更けていく。差し込んだ月灯りが今彼らをしっとりと照らしていた。辛く悲しい秘め事は、今宵すべて月華のもとに晒される。


 隠すことなんかない。


 苦しいならもがけ。


 辛いなら足掻あがけ。


 疲れたなら時に膝を付いてもいい。


 誰かに縋って泣いてもいいんだ――!


 一頻ひとしきり泣いて、ある程度落ち着きを取り戻すと、睦は小さく呟いた。


「私…おかしいんだそうですね…。心が均衡をなくして…狂っているんだそうですね。十夜様にそう言われるまで全然知りませんでした。でも、臣は気付いていたんですよね?それでいつも叱ってくれたんですよね…?」


 臣は睦の顔を見つめていた。何かを言いたげに…それでも何も言わず、ただじっと静かに――。


 睦の心は澄んだ湖面のように穏やかだった。


 もう何の不安もない。

 何の迷いもない。


 もう一人じゃないから…みんな傍にいるから、きっと大丈夫――。


「あなたをここから出したら、今度は私が頑張ります。だから、今は臣が頑張って…。やめろなんて言わないで。まだ平気です。まだ間に合います。こうしてみんなもついてます。水紅様も寂しさに耐えて待ってます。あなたにも水紅様にも約束したんです。絶対助けるって…私、約束したんですから…」


「そう…だったな…」

 頷いて臣はそっと月を見上げた――。


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