10//月の引力
「こ…この紋章は、我がゼノビア公国・ルントシュテット公の…!!」
その長剣を目にした途端、蘿月は激しい憤りに戦慄いた。血走る瞳に映るは、かつて彼が仕えた王家の証――彼がその命をもって守り続けた尊い紋標であった。
「ふん…。やはりそうか」
手元の書類をぱらぱらと捲りながら、橘は鼻を鳴らした。
「この剣をどこで手に入れたのです!?彼奴がこの紗那に潜伏しているのですか!」
息巻く蘿月に――。
「先日焼き払った銀鏡の里の真ん中に突き刺してあったそうだ。森に巣食う野犬の群れを全滅させ、更にご丁寧なことに、見せしめにとわざわざあの場に残しておいた子鬼の死骸を残らず焼却してな。さしずめこれは墓標のつもりだろう。まったくお優しいことだ。涙が出るね」
至極何の感情もない顔で、橘は手にしていた書類をばさりとテーブルへ投げ置いた。
「一体いつの話です、それは!!」
「国境の警備が今朝方見つけてきた。つまりは、昨晩のことだな」
橘は、懐から取り出した煙草をおもむろに咥え火をつけた。
(臣――!!)
蘿月は拳を震わせた。
「まだいくらでも機会はある。蘿月よ、そう躍起になるな」
嘯く唇の端が吊り上がる。
「彼はこちらに面が割れているからな。まさか紗那に長居などできぬはず。真夜中に忍んで来ているのがその証拠だ。顔を見られるのを嫌ったんだろうよ。貴様がそうして悔しがったところで、今頃彼はとっくに国境を越えて楼蘭に戻っているさ」
「ですが、私は!!」
蘿月は力任せにテーブルを殴りつけた。
その衝撃で卓上の灰皿が大きな音を立てても、平然と蘿月を一瞥した橘は、また先の書類に目を落とす。
「分かっている。六年越しの仇を討ちたいと言うのだろう?確かにこちらとしても、あの皇子付きを亡き者にして貰えるのならありがたい。調査書を見るまでもなく実際に見えても感じたが、あの強かさと皇子への忠誠心、それに加えてこの怪しげな経歴となると――。彼がいつか、私の行く手を塞ぎにかかるであろうことは疑いない。
だが今、両国間に波風を立てるわけにはゆかぬ。大事を運ぶには万全を期さねばな…。なに、必要な時にはちゃんと貴様に討たせてやるさ。そう急くな」
橘は、臣が敢えて残していったであろう剣を手に取った。
「それにしても、こんなものをわざわざ残して行くとは…。ついにあちらも喧嘩腰ということか。もはやいつかのように黙って首を差し出してはくれんぞ、蘿月」
橘はうっすらと瞳を細めた。
「さて…。果たして彼が討てるのかな、貴様に」
「橘殿ッ!」
即座にかっと眼を滾らせ、蘿月は一層声を荒げた。
「聞けば、彼は相当な手練れだそうじゃないか。例の通り名をちょっと出しただけで、あの猊倉のご老体、目を白黒させて震え上がったぞ。私はまた、あのまま天つ国へ旅立たれるのかと思った」
そう言って橘はせせら笑った。
「猊倉様は――猊倉中将殿は、彼奴と剣を交えたことがおありなのですか」
「いや…。だが戦場で何度か目にしたことはあると言っていた。時として摩訶不思議な技を操り、目にも留まらぬ鮮やかさをもって敵を断つ――。なんと居合いのたったひと振りで、味方ごと優に五人は刻んだそうだ。彼の後には何も残らんとさ」
橘はうっとりとため息をついた。
「しかし――それが本当ならまったく素晴らしい。出来ることなら手に入れて、我が御神楽に加えてみたいものだ。だが、楼蘭の皇子付きとなるとそういうわけにもいかんだろうな。実に残念だ」
蘿月は、懐に忍ばせていた赤い薬包を取り出した。
(月華香から生まれし『御神楽』――。神楽獅子衆か…)
蘿月を見る眼差しの端で、怪しい光がぎらりと煌めく。
「それが必要ならいつでも飲めよ。望むままいくらでも神楽が舞えるぞ。別に貴様でなくとも、その薬さえ服用すれば、彼を倒すぐらい造作もないことだ。だが飲んだら最後、後戻りはできん。驚異的な身体能力と引き換えに、一生月華香の虜となる。そら――そこの千歳のようにな」
そうして顎で示された扉の向こうでは、点滴を注された千歳が静かに眠っていた。
「どうかされたのですか、千歳様」
「毎度のことながら、また薬を飲み忘れたんだ。先ほどここで卒倒してな」
橘は鼻先で笑った。
「ふん。どうせわざとそうしているんだろうがな…。まったく甘い奴だ。そんなことで死ねるものか」
やがて、遠ざかる彼らの気配を悟ると、千歳はそっと瞼を開けた。橘と蘿月の会話など本当は全部聞こえていた。
(くそっ!)
感情的に腕の点滴を引き抜く。
(私は…私はこんなところで何を…。なぜまだ生きてるんだろう。どうして、私は…)
どうしようもなく涙がこみ上げた。
本当に命を絶ちたいのなら、いつも携えている刀で己の胸を突けば良いのだ。そう、それだけで簡単に楽になれる。
分かっている。
そんなことは、ちゃんと分かっているのに――。
ごろりと仰向けに寝転び、瞼に腕を押し当てる。
それでも湧いた涙はどうしても止まらなかった。こめかみを通り抜けた雫がつうっと頬を伝い、枕元へと落ちてゆく。もう一度寝返りを打ち、千歳は体を硬く丸めた。
いつも何かあるたびに、取り返しのつかぬ思いに囚われる。
己の甘さ。
己の弱さ。
どうにも贖えぬ過ちの数々。
そんなものに押し潰されそうになる。
責めたところで変わらない。
悔いたところで許されない。
もはや自分ではどうしようもない。
だから、どうか。
どうか、誰か――。
心と躯が、全霊の彼方で悲鳴をあげ、様々な感情が幾重もの渦となって全身を駆け巡り始める。
堪らず胸を掻きむしる。
消えろ!何もかも全部!!
冥境の淵に沈んでしまえ!
苦しい。
苦しい。苦しい。
苦しい。苦しい。苦しい。
苦しくてたまらないんだ。
お願い、誰か。
ダレカ。
ダ レ カ タ ス ケ テ … 。
ふと千歳は、辺りに静けさが戻ったことに気付いた。どうやら蘿月が下がったようである。
それでもそのままじっと気配を探り続けると、やがて扉が開く気配がして、聞き覚えのある靴音が近付いてくるのを感じた。
途端、言い知れぬ恐ろしさに、体が自然と強張ってゆく…。
「おまえ、いつまでそうしているつもりだ」
千歳の枕元へ立つや否や、橘はいきなり布団を剥ぎ取った。
「……っ!」
潤んだ瞳が燃える。いっぱいの涙を湛えたそれは、怒りと悲しみに染まる気丈な瞳――。
「事あるごとに感傷に浸るな、千歳。苦しむだけだと何度言えば分かる。月華香を飲めばもう戻れん――初めにそう言ったはずだ。ちゃんと選ばせてやったろう?」
震える千歳を映す瞳――その奥で、らんらんと迸り始めた狂気が嘲り笑う。そうして浴びせられた言葉は、そんな橘の内なる昂ぶりを否応なく見せ付けるものだった。
「そうさ、おまえが選んだことだ…。薬漬けになりながら、惨めに生き長らえる道をな。こうなることをおまえ自身が望んだんだ」
「の――望んでなんか…ない…っ!」
恐ろしさに耳を塞ぐ。
強気な言葉を吐きつつも、千歳はぶるぶると震えていた。その姿に、雲英と剣を交えたあの日の賢しさは微塵もない…。
現を拒み続ける両の手を無理に引き剥がし、執拗に千歳を覗き込むと、橘は尚も言葉を続けた。
「ははは…!笑わせてくれるな、千歳!!望んでいなかったのなら、今のこの醜態は何だ?居場所がないから、行くところがないから…と、おまえが泣き付いたんだろうが!ここに置いて欲しくてあれを飲んだんだろう?ならば願いは叶ったじゃないか。紗那軍特殊部隊・神楽獅子衆に身を置き、副隊長などと栄えある地位までも得、この薬のお陰で楽しい毎日だって手に入った――違うか!!いや…違うなどとは言わせん。あの日、鬼狩りと称して剣を振るい、逃げ惑う小鬼らを次々に斬り刻んでゆくおまえの顔は、それは狂喜に満ちていたからな!さぞ楽しかったろうな、無抵抗な稚児らの柔肌を裂くのは!噎せ返るほどの返り血に、あの時おまえ、興奮していたろう!?」
見開いた瞳をぎらつかせ、橘は咲笑う。
「ち…ちがっ…。そ…そんな…っ…わた…私は――っ!」
見据える瞳にみるみる涙がこみ上げた。
血の気の引いた白い顔。
痙攣する唇。
今の千歳を支配するのはとてつもない恐怖。そしてやり場のない怒り――。
橘は千歳の髪を掴み強引にベッドから引き摺り下ろした。
「さあ、千歳。お喋りは終わりだ。意識が戻ったのならさっさと任務に戻れ!!」
その足元に無様に這いつくばったまま、暫く千歳はじっと橘を睨んでいたが…。
「…っ!」
やがて、うっすらと血の滲む唇を噛み締めると、逃げるように部屋を飛び出して行った。
「まったく…。少し甘い顔をするとこれだ」
嘲るようなため息をつき、橘は再び煙草に火をつけた。
* * * * * * * * * * * *
どこをどう走ったのか、気が付けば牢へ続く階段を駆け下りていた。
きっと今、この顔は涙で濡れているに違いない。暗い石段の途中で立ち止まり、千歳は袖でごしごしと涙を拭った。
そして。
「……」
千歳は、膝を抱えて蹲った。
(あの娘…。李燐とか言ったな)
この先にいるであろう銀鏡の少女を思う。
白刃に照らし出されたあの顔。
怯えながらも、気丈にこちらを睨みつけたあの顔…。
(どこかあいつに似ていた…)
うな垂れると、ぽたりとまた雫がこぼれた。
もう忘れた。
とっくに何もかも捨てたはずだ。
なのに、なぜ今頃――。
「神の…裁き、か…」
もう一度顔を拭い、千歳はゆらりと立ち上がった。
階下の雲英の腕の中では、涙に瞼を腫らした李燐がようやく小さな寝息を立て始めたところだった。
小さな格子窓から、月が二人を見つめている…。
純白の柔らかな光が棒になって差し込み、身を寄せる二人を優しく包み込む。
音のない静かな晩だった。
ぼんやりと月を仰いだ雲英は、不意に手を差し伸べた。掌を染めた白銀の輝きに触れ、嬉しそうに目を細める。その顔は、まるであどけない幼子のそれだ。
突如。
「!」
何者かの気配を察した雲英は、息を潜め耳を澄ました。
カツン。カツン。カツン…。
ゆっくりと階段を下りる靴音が、少しずつこちらへ近付いてくる。
李燐をすっぽりと腕に包み、雲英は薄明かりの漏れる石段をじっと見据えた。
現れたのは、角灯を下げた千歳であった。
「……」
じりじりと体の向きを変え、自らの背で李燐を庇う。その間も、雲英の視線が千歳から外されることはない。
「ふっ…。おまえがその姫の騎士というわけか。雲英――とか言ったな、確か」
肩を竦める端正な顔に憂いが浮かぶ。
「守る者があるというのはいいな…。羨ましいよ」
千歳は格子の前に座り込んだ。ひっそりと肩を落すその姿は、昼間雲英と剣を交えた彼とはまるで別人のような儚さだ。
「……」
何も答えない代わりに、なぜか雲英は結んでいた眉を解いた。途端に現れた赤子のような眼差しが、きょとんと千歳を見つめ返してくる。
「妙な奴だな、おまえ」
思わず吹き出すと、雲英は不思議そうに首を傾げた。
「おまえの――銀鏡の夜叉の噂は、かねがね耳にしている。あたかも妖麗に舞いながら、その刹那に獲物を狩る。燃える鬣と真紅の瞳を持つ羅刹――そう聞いた。だがそれは、目の前にいるおまえとはまるで似ても似つかぬな」
千歳を見る無垢な瞳に昼間の激しさはない。無表情な中に強い敵意だけを露にしたあの時の彼の顔を、今再び思い起こせばやはりまるっきり別人だ――と千歳は思った。
「昼と夜とで違う顔か…。おまえの方はどこか私に似ているようだ。あいつと私、そして李燐と雲英――か。おかしな巡り合わせだな…」
呟いて千歳はまた笑ったが、雲英にはその言葉の意味が分からなかった。
「彼女はおまえの恋人か?」
そう問うと雲英の表情が少しだけ変わった。考え込むような悩むような複雑な顔をして、じっと李燐の顔を眺めている。答えるべき言葉に迷っているようだ。
「好きなんだろ?」
言葉を改めて訊き返すと、雲英は素直に頷いた。
「ん…」
どうやら李燐が目を覚ましたようだ。
「おっと…。ついに姫を起こしてしまったな」
「!?」
起き抜けに聞こえた声には覚えがある。
瞬く間に蘇ったのは、昼間の恐怖――。
李燐はしがみつく手に力を込めた。相手の姿を見ることもできず、ただひたすらに李燐は雲英の懐で身を強張らせていた。
「すまんな、起こしてしまって」
「…?」
これがあの神速の剣を放った少年?
幾人もの兵を毅然と従えていたあの将校…?
「……」
李燐は恐る恐る顔を覗かせた。
「嫌われたもんだ。ま、それも仕方ないか」
ひどく寂しそうなその声はどうして?
この人、一体…?
「確か、千歳…様…と仰いましたよね?」
「ああ」
囁くような声で尋ねると、千歳は静かに頷いた。
僅かに見せた微笑みには、まだあどけなさも感じられる。見れば見るほど昼間の姿が嘘に思えてくる。
「雲英…。あなた、千歳様とお話してたの…?」
雲英は小さく頷いた。その顔には怒りも憎しみもない。いつもの雲英だ。
雲英と千歳が――?
不思議だった。
一体これはどういうことなのだろう?
彼は憎い仇のはずだ。なのに、なぜ…。
「敬称など要らんぞ。どうやらどちらも私と同じぐらいの齢のようだし、上司だ部下だというような間柄でもないしな」
再び雲英は千歳を見る。感情のない無表情な顔がまた首を傾げている。
そして、唐突に――。
「ち…とせ…?」
片言と雲英はその名を口にしたのだった。
「!?」
目をまん丸にした李燐が振り向く。
心底驚いた。
よく知りもしない人間と口を利くような雲英ではないのである。相手の名前だって、一度や二度顔を合わせた程度では覚えた試しがない。
まして雲英は、彼と一度剣を交え、その足元に叩き伏せられているのである。
それなのに――。
「そうだ、千歳だ。ここではそう呼ばれている。覚えてくれたか、雲英」
千歳は嬉しそうだった。
「さて…。おまえたちに二、三尋ねたいことがあるのだが、構わんかな?」
李燐は雲英の懐から這い出ると、千歳の前にしっかりと向き直った。雲英もその隣にぴたりと寄り添う。
「はい、でも…。必ずお答えするという約束はできません」
李燐はぎゅっと眉を寄せた。気丈な少女だ。
「そうだろうな…。構わないよ、それで」
ふっと短いため息をついた千歳の表情は一変。にわかに厳しさを孕み出す。
千歳は真っ直ぐに李燐を見据えた。
「さて、では――。まず、銀鏡の鬼の首領は一体誰だ?あの中には幼子ばかりがいたように思うが」
「首領というものはおりません」
毅然と答える。
「いない?では、誰がおまえたちを取り仕切っている?例えば、こちらから依頼した仕事をこなすに当たっても、そこにそれを仕切る者が必ずあるはずだろう?」
胸がどきりと鳴った。
(それを言うなら氷見だ――)
咄嗟にそう思いはしたが、李燐は返す言葉に詰るのだった。
政府や軍が持ち込む仕事は、どれも危険なものばかり。これまでだって、それで何人も命を落としている。
結果、今、里でそんな仕事をこなせる者は雲英と氷見だけ。
雲英の方が年齢は上だろうが、彼は従うことしかできない。つまり、妖からの連絡を得て、雲英や他の者に指示を出し、実質上事を運んだ中心は氷見。
李燐の大切な弟、氷見――。
「お答え…できません」
無論、その名を明かせるはずはない。
実は千歳のほうも、彼女が見せたごく一瞬の変化に気付きはしたが、すぐに平静の顔を取り戻し頷いている。どうやら深く追求する気はないらしい。
「そうか…。では質問を変えよう。『月の雫』なるものを知っているか?銀鏡に存在すると聞いたが…」
「月の…雫…?どういうものですか、それは?」
李燐は首を傾げた。
ところがである。
「……」
その言葉を聞いてか否か、なぜかその時、雲英だけが急に視線を逸らしたのである。
千歳の目は、彼のその小さな兆しをも見逃すことはなかった。
(どうも李燐の方は確かに知らぬようだが、雲英は――。今、まさか反応した…のか?)
胸の内で呟くが、顔色は変えない。二人をつぶさに観察しつつ、千歳は更に言葉を続けた。
「一説には、天空から授かった石だとか地中深くに埋もれた宝玉だとか言われているようだが、しかとは分からん。ただ、とてつもない力を持つ物質であるそうだよ。通説では、楼蘭のどこかに密かに存在するというが、この紗那からも多少なり見つかったことがある――そう書かれた古文書が先ごろ発見されたんだ」
尚も俯き続ける雲英。しかし、その挙動は明らかにおかしい。
(やはり彼は何かを知っているな…)
千歳は確信した。
「それが銀鏡だと、そう仰るのですか?」
「ああ。まあ、何分古い文献だし、暗号のようなもので書かれているのでな。もう少し読み進めて、細部を突き詰めねば何とも言えん。しかし、これまでに解読できた部分をかい摘んでみれば、恐らくはその辺りだろうと…な」
千歳は尚も観察を続けていたが、肝心の雲英がなかなか顔を上げようとしない。
「雲英――」
呼ばれて、ようやく顔を上げた雲英。
「どうやらおまえは嘘がつけぬ性分のようだな」
千歳はふっと目を細めた。
「雲英!!あなた、何か知ってるの!?」
すぐさま李燐が向き直った。
「……」
雲英は小さく首を横に振る。閉じられた口元が、更に固く結ばれる。
と――。
「ちゃんとこっち向きなさい、雲英ッ!!」
肩を掴み、再びしょんぼりと俯く顔を強引に覗き込む。なかなか手厳しい娘である。
仕方なく雲英は、瞳を上げたが――。
「……」
唇はぎゅっと瞑ったままだ。雲英はまたふるふると首を振った。
「ぷっ…くく…。あははは…!」
とうとう千歳は吹き出した。
「分かった、分かった。もういいよ、その話は。二人は本当に仲が良いな。だが恋人などとは程遠い。まるで親子のようだぞ!」
くすくすと肩を震わせる。
「こっ…恋人でも親子でもありませんっ!」
李燐が耳まで真っ赤にして怒鳴った。
「どちらにしても羨ましい話だ。親も兄弟も友も――もはや持てるすべてを失くした私から見ればな…」
千歳は短いため息をついた。
「貴重な話をありがとう。今日のところはこれで失礼する。また近いうちに差し入れでも持ってお邪魔するとしよう」
そう言って立ち上がり、千歳はひらひらと手を振りながら去って行ってしまった。
「……」
「……」
残された二人には、ただ後姿を見送るしか術がない。
「千歳って…。彼は――あの人は一体どういう人なの?敵よね、あの人。ね。そうよね、雲英?」
雲英は、いつもの真顔で頷くのだった。
* * * * * * * * * * * *
自室の窓から、千歳はぼんやりと空を仰いだ。
夜空にぽかりと浮かんだ月が無言で地上を見下ろしている。そっと窓を開ければ、ひんやりと透明な夜気が滑り込んでくる。
眠れぬ夜にいつもしているように、千歳は桟に腰掛けた。
天頂で鎮座するあの月の気高さに惹かれる。周囲の星々をも圧倒する圧倒的な存在感。夜天の頂でただ一人、孤独に孤高にいつもそこに在り、暗闇をもかき消してしまう強く清雅なその姿。
その前に何を隠すことができるだろう。
あんなふうに生きたい。あんなふうに気高く強く――。そう彼に思わせるのが月の思惑だろうか。
これが『月の引力』…?
かつて彼に、月の神秘を教えた者がある。こうして夜空を見上げれば、いつだって、ありありとその姿が蘇る。彼にとっては、誰よりも尊いその人物――それは忘れようとして忘れられるものではなかった。
穏やかに微笑み、千歳はそっと瞼を閉じた。
今も胸に残る懐かしい面影に寄り添うように…。
失くした過去の温もりにその身を委ねるかのように…。
「――実は、月と地上の生き物の体には密接な関係があると言われているんですよ」
星屑を散りばめた天鵞絨のような空の下、すらりと背の高い青年は振り向いて微笑んだ。
今宵は見事な天満月――。
真上に浮かぶ丸い月は、鏡さながらの清々しい輝きを放ち、彼らの足元へ濃い影を落としている。
佇む青年のすぐ横で、幼さの残る小さな皇子は、彼の用意した窺天鏡を興味深げに覗き込んでいた。
いつも見ている月が目の前に大きく見える。
ずっと真っ白ののっぺらぼうだと思っていた月が、実はとても変化に富んでいて、その色も白よりはむしろ灰に近いということを、皇子はこの日はじめて知った。
「どういうこと?」
窺天鏡から目を離し、皇子は澄んだ眼差しを青年へ向けた。
「そうですね…。例えば――満月の夜にしか産卵しない海の生物が実際にいるんです。でも、これってどこかおかしいでしょう?いくら水が綺麗であっても、深い海の底から月の姿が拝めるとは限らない。波に揺らいだ水の天井を、彼らがいくら仰ぎ見たところで満月かどうかすら分からない。なのに、その生物は――珊瑚の一種なんですが、彼らはどうやって満月を知るのでしょう?皇子様はどう思います?」
小さな皇子は考え込んでしまった。難しい顔で何度も首を捻るその姿を、青年は穏やかにじっと見守った。
「うーん…。では、仲間の一人が水面まで月の様子を見に行くというのはどうだ?」
再び青年はにっこりと笑った。まるで女のように美しいその顔は、煌々と注ぐ月明かりの中で、ひと際に優しい。
「それはいい考えですね。でもね、皇子様。珊瑚というのは確かに動物には違いありませんが、一旦大人になってしまえば、互いに身を寄せ合い、まるで植物のような格好に姿を変えて生涯を送る風変わりな生物です。一度固く繋がれたその身はもう離れません。さて、どうしましょう?これでは誰も月見には行けませんよ?」
再び皇子は、うーんと眉を寄せ、思案を始めたが――。
ならば…と呟いたきり、ついに皇子は黙り込んでしまった。
「降参します?」
目線に合わせて横に屈むと、皇子は素直に頷いた。
「それは、潮の干満に関わりがあるんです。私たちの住まうこの星の潮の満ち引きは、実はあの遥か彼方に浮かぶ月の引力によるものなんです」
「月の…引力…?」
そっと青年の指差す先を、皇子は目をまん丸にして眺めている。
「ええ。月とこの星は見えない力で常に互いを引っ張り合っているんです。海の水は、その影響で満ち引きを繰り返す」
再び窺天鏡に貼りついた皇子の横で、柔らかな微笑みを湛えた青年は、そのまま言葉を続けた。
「ちょうど満月の頃は大潮と呼ばれていて、もっとも海が満ちる頃合です。それを狙って珊瑚たちは一斉に産卵する。そうすることで、彼らはその子孫を大いなる潮の流れに乗せ、遥か遠くへと旅立たせてやることができる…というわけなのです」
「そうか…。ではつまり、月がなければ彼らの繁栄はないのだな」
皇子は、頭上の宙を仰いだ。
月が地上を見下ろしている。瞬く星々さえも霞ませるほど強く清らかな輝きが、今、彼方の空から我が身の上へと注いでいる。このちっぽけな自分を、凛と清かに照らし出している――。
「そういうことになりますね。でもそれは私も皇子様も同じですよ」
「え…?」
持ち前のつぶらな瞳を一層大きくして、皇子は振り向いた。
「皇子様の体の中にも水はたくさん流れているでしょう?人体は、その八割が水ですから」
「では、この私も月に…引っ張られていると言うのか?」
青年は、柔らかな皇子の髪をそっと撫でた。
「現に、満月の頃は出産が多かったり、病人の血色がひと際良くなったりするそうです。私たちは何気なく日々を過ごしていますが、こうして時に夜空を眺め、己の内なる声に耳を傾ければ、いつか月の引力にだって触れることができるかもしれませんね――」
いつも優しく微笑んでいた青年の顔を思い出して、千歳はまた涙をこぼした。
彼に逢いたくて堪らなかった。彼ならば、きっと罪に穢れた我が身を抱き締めてくれる。きっとこの涙を止めてくれる。
しかし、それはもう決して叶うことのない夢――。
「ごめん…睦。頑張って探してみたけど、やはりどこにも幸せなんかなかったよ。あれほどおまえが願ってくれたのに、いつも私はただおまえを傷つけるばかりで…。本当に…すまない…」
千歳はがくりと泣き崩れた。
* * * * * * * * * * * *
「これでもう何本目だったかな、繭良」
山と書類の積まれた机の引き出しから、男は小さな瓶を取り出した。中には薄桃色の粉末が入っている。
「確か三本目ですわ」
背後から、しなやかな女の細腕が伸びてくる。しかし、それは手の中の小瓶ではなく、彼の耳をするりとなぞり上げ――そのまま女は、胸の内に彼を抱きすくめた。
「そろそろ効果が出てもいいはずだがな…」
熱い吐息が甘く頬の辺りを掠めた後、女の唇は男の首筋を焦らすように沿い、か細い指先は何かをせがむように彼の胸元を弄り続けた。
しかし、それをまるで気に留めるふうもなく男は言葉を続けた。
「おまえ、ちゃんと毎食差し上げているんだろうな?」
「ええ、もちろん…。この私が橘様のご命令に背くなど、有り得ませんでしょう?」
「愛い奴だ」
薄く笑って繭良の顎を引き寄せた。紅く熟れた唇に優しく触れる。
「だが、この唇もこの身体も…。毎夜のようにあの印南に弄ばれているわけか…」
小さくため息を漏らすと、不意に繭良は両手で橘の頬を包み、じっと瞳を覗き込んだ。
「あら…お珍しい。妬いてくださるの?」
「まあ、少しはな」
橘は、長く艶やかな黒髪を指の間に絡め、そっと口付けて笑った。
「では、今夜はどうかその倍も三倍も愛してくださいな。私の心にはあなたしかありませんもの」
魔性の笑みを湛えて橘の膝に腰を下ろした繭良は、彼の手を懐へ導きながら妖艶な視線を注いだ。
「こら。まだ仕事中だ」
一度は拒んで見せたが――。
つんと聞こえぬ振りの繭良は、続く言葉を唇で塞いだ。
同じ夜の只中で、身を切る思いに哀哭する者と、快楽に身を焦がす者。
彼らの上に平等に浮かぶ宙の真澄鏡――互い月に磨かれたその影は、それぞれの真の姿を映し出す。
閉ざされた心は月明の下に震え、偽りの姿はひっそりと月影に濡れてゆく。
それはほんのひと時だけの幻影。
たまゆらの夢幻…。
やがて、幾ばくかの時が過ぎ――。
白々と夜が明けようとしていた。
そそくさと身形を整える繭良の傍らで、裸のままベッドに横たわった橘は、ゆったりと煙をくゆらせていた。ぼんやりと煙に注がれる眼差しはまだ少し眠そうだ。
「随分と早起きなんだな、印南の御仁は…。毎朝これでは堪らんな」
繭良はくすりと笑った。
「あの方もあれでもう結構なお年ですもの。お年寄りってそういうものでしょう?それに…」
繭良は、橘の耳元へするりと唇を沿わせ、昨夜の夢の余韻をせがんだ。
「お食事の支度を他の者にさせるわけには参りませんし」
「それはそうだ」
応えて橘は、彼女の唇に触れた。
「では、橘様。また後ほど」
床で肘を付いたまま、橘は繭良を見送った。
「やれやれ…情の深い女だ。これではこちらも体が持たんな」
橘は鼻先で薄く笑った。
* * * * * * * * * * * *
朝一番で軍の詰め所へ向かう途中、不意に――。
「おはようございます、千歳殿」
振り向くと、通路の奥に来栖が立っている。
千歳はごく事務的な会釈だけを返して、早々に立ち去るつもりだった。
ところが。
「おや?」
愛想良い笑顔で近寄ってくるなり、来栖はおもむろに千歳の顔を覗き込んだ。
「また一晩中泣いておられたのかな?瞼が少し腫れておるようだが…」
千歳は、足元に視線を落としたまま口を開こうともしない。
「ちゃんと睡眠をお取りにならねばお体に障ると、いつもあれほど申し上げているのに…困ったお方ですね」
来栖は肩を竦め、小さくため息をついた。
「またどうしても眠くなってしまったら、いつものように私の部屋においでなさい。あなたが眠っておられる間、他の者には適当にごまかしておきますから」
「いつもすみません、来栖准将」
さっと頭を下げ、踵を返す。
ひどく素っ気のないこの態度――それは彼の罪悪感から来るものだ。来栖はそれを理解している。
しかし――。
「お待ちなさい、千歳殿!!」
すれ違い様、来栖は再び千歳の腕を捕まえた。
「あなた、昨日また倒れられたそうですな?そのお気持ちは分からぬでもないが、どうか薬だけはきちんとお飲みください!もはやあなたはそうするほかにないのだ。辛くとも苦しくとも、簡単に死に逃げてはなりません!」
祖国を捨て、その敵国である紗那で生きる千歳に、来栖はここで唯一優しく接してくれる人物である。
彼の言いたいことはよく分かる。自分のことを心から心配してくれているのも、本当は千歳もよく分かってはいるのだ。
でも…。
「……」
千歳は無言で佇んでいた。振り向きもしなければ頷きもしない。
「千歳殿!」
来栖は僅かに声を荒げた。
すると。
「申し訳ないが、准将。私は亡くなったご子息の代わりになどなれませんよ。どうかこれ以上のお気遣いは無用に願います」
小さな声でそう言うと、千歳は静かに顔を上げた。
「な…何っ?今、何と仰った!?」
来栖の声色が変わる。掴んだ腕を今一度引き戻し、力ずくで千歳を向き直らせると、来栖は彼の瞳を正面から見据えた。
「私のこの名前、事故で亡くなったあなたのご子息のものだそうですね。それに、生きておられれば私と同じくらいの年だとか…。私はあなたの感傷にお付き合いするつもりはありません。正直申し上げて迷惑です」
「……」
そんなつもりなどなかった。しかし、どこかで彼に我が子の面影を追っている自分もまた否定できない。
来栖はそっと手を放した。
「ご存知でしたか…。このような名を付けておいて、確かにそう取られても仕方がない。それがあなたを傷つけてしまったかもしれません。だが、私は感傷に浸るつもりも、千歳殿を我が子と掏り替える気もござらん。失礼だと言うなら謝ります。だが、傷ついた仲間を気遣い心配することがそれほど問題であろうか…?」
千歳とて来栖の思いは分かっているのだ。しかし、どうしてもそれを素直に受け入れることができない。
その優しさを振り切るように、千歳は声を荒げた。
「私は軍や政府の人間に施しを受けるのが嫌なだけだ!!私に構うな!放っておいてくれ!!」
気を抜けばその温もりに甘えてしまいそうになる――。
来栖を思い切り突き飛ばすと、千歳はそこから逃げ出した。
いつも信じるたびに裏切られた。
差し伸べられた優しい手に迂闊に縋れば、また一層の闇に引き摺り込まれる。何度ももがき、何度もあえぎ、もう何度も抗ったじゃないか。
誰かを信じるなんてもうできない。
誰かの思惑に踊るのは、もうたくさんだ――!
「千歳殿…。皇子の気高さだけは、まだお持ちなのだな。何と不憫な…」
ぼんやりと呟いて窓辺に立つ。
眼下では、城の敷地内に植えられた木々が、風に優しく揺れている。しかし、その向こうに広がる空はどんよりと灰色に垂れ込め、あの楼蘭で見た胸の空くような青い空はどこにもない。
同じく続く空の下であるはずなのに、彼の――千歳の故郷と、ここは程遠い。あまりにも違いすぎるのだ。
来栖がかの国で見たもの、それは本来の彼の心の如く健やかで澄みきった蒼穹。幼い日から、彼を守り育んだであろう紺碧の大空であった…。
その身に染み付いた気高さも優しさも、そして胸に残る温かな追憶の日々や、彼自身を固く繋ぎ止めているその理性すらも――。そのすべてを捨ててしまえたなら、千歳は今よりもずっと楽になれるだろう。
しかし、それは彼が自らを葬り去るということだ。
(橘殿――。これは本当に正しい選択か?これがあなたの言う理想のための必要最小限の犠牲か?最小と言うにはあまりに深い…。あまりに痛々しいではないか)
ぐっと握り締めた拳が、微かに震えた。
(千歳――。千歳よ!まだそこに在るか。この大空におまえはまだ息づいているか。今もそこにおまえの魂が宿っているのならば、どうか聞き届けて欲しい。おまえと同じ名のあの方を――どうか彼を、その手で救ってやってくれ…!!)
硝子に額を押し当て、来栖は唇を噛み締めるのだった。
* * * * * * * * * * * *
紗那軍の特殊部隊・神楽獅子衆――通称『御神楽』は、実質橘の私設部隊である。
現在、宰相・印南の片腕として傍に控える橘は、元々は印南専属の医師を務めた人物であった。既にその道を退き、印南の補佐役を務めているが、胸に持病を抱える印南にとって、今もかけがえのない存在であることに変わりはない。そういう意味では、印南の命は橘の手に握られていると言って良かった。
執務室へ入ると、橘は恭しく一礼した。
「先の銀鏡討伐の報告書です。お待たせして申し訳ありません」
軽く咳き込みながら、印南は書類の束を受け取った。部屋の中央に置かれた大きなソファへ腰を下ろし、じっくりと目を通す。読みながら、印南は再び何度か咳き込んだ。
「つまりは、すべて銀鏡の一派の企てということか…。あの辺りは、周辺の集落も含めて反体制分子の動きが顕著だからな。長く捨て置きすぎたようだ。近頃は子どもといえど侮れぬ」
印南は眉を寄せ、またも咳払いを繰り返した。
「ええ。どうやら、敢えて我々との繋がりを公示することで、自身と政府の双方に世の敵意を向けさせること――これがすなわち、彼らの目的であったと思われます。彼らには市民権がありませんから、直接手を下すよりも裏から手を回す方が賢明と考えたんでしょう。言ってみれば謀反の種蒔き。しかし、この死なば諸共という発想は…まったく幼稚な作戦と言わざるを得ませんね」
冷嘲を浮かべ、橘は尚も言葉を続けた。
「ご指示通り残党謀反人への見せしめとして、遺体はその場に置いて参りました。しかし先日――何者かの手でそれも燃やされてしまい、もはや跡形もありません。まるで目が行き届きませんで、面目次第もございません」
「燃やされた?取り逃がしたという子鬼らの仕業か?」
印南はあからさまな不快を覗かせるが、橘については口から放った言葉ほどに感じ入る様子もない。
「さて、それはどうですか…」
ため息混じりに呟くと、橘は背もたれ深くに身を預けた。
その時。
「失礼します」
奥部屋から姿を現したのは、若く、仄かに色めかしい女性だ。初老の印南とは親子ほども年が違うであろうこの人物は、印南の妻・繭良である。
「どうぞ」
たおやかな笑みを浮かべて、そそと歩み寄った繭良は、手にした盆の上のカップを静かに二人の前へ並べた。
「おや、このお茶の香り…。これは舶来のものですか、繭良様?」
繭良は貴やかな微笑を浮かべた。
「ええ…。この銘柄、主人が好きなものですから。ねえ、あなた?」
応える代わりに、印南は誇らしげに瞳を細めている。その眼差しを見れば、彼女に対する印南の愛欲の深さは明らかだ。
橘は、僅かに口角を吊り上げた。
(すっかり彼女に骨抜きか…。何も知らずにお幸せなことだな、この御仁も)
繭良と目が合うと、橘はさり気なく視線を装い、カップを唇に運んだ。
「それはそうと印南様…。先ほどから随分と咳き込んでおられるようですが、お風邪でも召されましたか?」
にわかに鋭い眼差しが、印南へ注がれる。
「いや、そうではなくて…どうもこのごろまた胸の具合が良くないように思う」
そう答えてすぐに印南はまた咳いた。
「私の見立てでは、気管支からくる咳のように思えますが…。以前申し上げたように、煙草の方はお控えいただいているので?」
「まあ、若干減らした…という程度だがな」
「愛煙家の私に言えたことではありませんが、そろそろ本気で辞めていただかないと」
そう改めて念を押し、橘はすっくと立ち上がった。
「さて、そろそろ失礼致します。おいしいお茶をごちそうさまでした」
印南へきちんと一礼してから、ちらと一瞥すると、繭良はうっすらと笑んで応えてくる。
「また例の薬の研究か?多忙な身だな、おまえも」
「宰相補佐と言えど、これで根の方はまだまだ医師なんですよ。それに、御神楽のこともありますしね」
印南を振り向いて微笑み返し、橘は扉に手を掛けた。
* * * * * * * * * * * *
窓の外には真っ青な空が広がっていた。
彼方の山際に、薄灰色の雲堤が伸びている。確かあの雲の下あたりが如月のはずだ。あの様子では、あちらは今ごろ雨でも降っているのではなかろうか…?
麗らかなひととき。
高らかな雲雀の囀りが遠くに聞こえる。開け放った窓から入り込んだ春のそよ風が肌に心地よかった。
太陽は疾うに天の真上を越えていた。
ぱらり。
相変わらず窓辺で読書に耽っていた水紅は、頁を捲る手をぴたりと止めた。微かな馬蹄の音を聞いた気がしたのだ。
「……」
いそいそと立ち上がり外へ目を凝らすと、今まさに大内裏を目指して一直線に駆けて来る真っ白な馬が目に留まった。
あれは、我が愛馬・竜華――。
純白のその背に水紅は見慣れた姿を見つけた。学者の衣を靡かせたその人物が、愛馬とともに裏手へ消えるのを認めると自然と頬が綻ぶ。
「やっと戻ったか…」
無意識に漏らした後、まるで何もなかったかのように水紅は再び椅子へ腰掛けた。あたふたと躍る胸を懸命に落ち着かせ、閉じていた本をまた開き、平静の装いで紙面に目を落とす。
だが――。
まだか。
まだか。
まだ戻らぬか。
待ち人はなかなか現れない。
もどかしさを堪え、まんじりとしていると、ようやく扉の向こうからばたばたとひどく騒がしい足音が聞こえてきた。もちろんその主など承知しているが、なぜかそれはいつもとはまるで違う慌しさなのである。
何事かと不思議に思っていると、やがて扉は乱暴に叩かれた。
「私ですっ。ただ今、戻りました!!」
返事も待たず、ひどく慌てて部屋へ滑り込んできたその男――果たしてそれは、水紅がずっと待ちわびた人物その人なのであった。
「何だ、臣。やけに慌てているな…。おかえり」
水紅はくすりと眉を解いた。
見ればまだたくさんの荷物を抱えたままである。
身を屈め、暫し臣は息を切らせていたが、唐突に顔を上げるなり、むんずと一本の刀を差し出した。深紅の鞘に収まった美しい刀だった。
「これ、預かってください!」
「何だ?刀…?」
臣は卓の上にどん!と、問題の品を置いた。
「あちらで遊佐様からいただいたんですが、まさかこんなもの、自分の部屋へ持ってゆくわけには参りませんからっ」
自分の椅子にどっかりと腰掛け、臣は手拭でぱたぱたと顔を扇いでいる。他の者に刀を見られたくない一心で、らしくもなく相当慌てたようだ。
くすくす笑いながら、水紅は卓の刀を手に取った。紅い鞘から、すらりと刀身を抜いてみる。
と――。
「この刀、少し重いな…」
何度か角度を変えて刀を翳しながら、ふとそう思った。
「え?そうですか?」
「うむ…私にとってはな。これでは身ごと振られそうだ」
臣は、はてと首を捻った。
「ああ…。でも遊佐様、何か妙なことを仰ってましたね、そう言えば」
「妙なこと?」
「刀自身が持ち主を選んだとか何とか…。それに魂のこもったものだ、とも。何だかよく分かりませんが、とにかく持って帰って身近に置くようにと言われ、仕方なくここに…。銘を『火蓮』と言うそうですよ」
刀を受け取り翳してみたが、臣には特に水紅が言うような不快な重さは感じられなかった。
しかし――。
「ん…?」
一体何を気取ったか、臣はにわかに眉を寄せた。
「血を吸っていないな…この刀…」
「そうなのか?」
「ええ、恐らく。ほら、まるっきり刃が曇っていないでしょう?打ちたてなんですかね…」
改めて水紅は、示された刀身をまじまじと眺めた。
きんと透き通るような清輝を纏い、火蓮は冷たく滴るような輝きを放っている。確かに臣の言うように、一点の曇りも見えない。
「そうでなければ、あるいは遊佐様が仰るように、本当にここに魂があるか…。つまりは妖刀の類なのかもしれませんね」
臣は再び刀を収めた。
「と、とにかく、ちょっと荷物を置いてきます」
言うが早いか、臣はそそくさと部屋を下がった。
ぱたんと扉が閉まる音――その後には、また昨日までと同じ静寂が残される。しかしそれも構わない。退屈も不安もすっかり掻き消えた今ならば…。
「妖刀・火蓮…か」
壁の刀架へ掛け置いた真紅の刀を見上げ、水紅は誰にともなく呟いた。
* * * * * * * * * * * *
両手いっぱいに荷物を抱えた臣は、足早に光の宮の廊下を進んでいた。そうして、ちょうど白露の部屋の前を通りかかったその時である。
「!!」
突如開かれた扉から、不躾に飛び出してきた何者かと危うく衝突しそうになったのだ。否――飛び出してきたと言うよりも、何者かに押し出されたと言った方が適切だったように思う。
臣はきょとんと立ち尽くした。
「睦…?」
「……」
ゆっくりと振り向いた力のない瞳が臣を見る。そして、あろうことか、その細い身体はきつく荒縄で拘束されていたのである。
続いて出てきたのは、二人の警護兵だった。
「何だ?どういうことだ、これは…!?睦、説明しろ!!」
だが、睦は口を開こうとはせず、ただひたすらにうな垂れている。
「白露様の命で、罪人を牢へ連れて行くところです」
代わりに警護兵の一人がひどく事務的に答えた。
「罪人…?何をしたんだ、おまえ?」
再び問いかけるが、やはり答えはない。頑なに黙りこくったまま、睦は相変わらず自分の足元ばかりを睨んでいる。
「おい、睦!何をしたのかと訊いているんだ!!」
抱えていた荷物を放り出し、臣は睦の肩を掴んだ。
それでも――。
「……」
睦は口を開くどころか微動だに見せない。
「…ったく」
埒の明かぬ態度に苛立ち、もう一人の当事者に直接問うべく、臣は白露の部屋の扉を叩いた。
「今、よろしいですか、白露様」
途端に睦は目を剥いた。
「ちょ…ちょっと、臣!やめてください!」
「うるさい!黙ってそこで待ってろ!!」
頭ごなしに怒鳴りつけると、臣は返事も待たずにさっさと部屋へ入って行った。
「おや。いやに表が騒がしいと思ったら…。珍しいお客様だこと」
長椅子に寝そべった女が怪しく笑む。
後ろ手に扉を閉め、臣はさっと跪いたが、その時ほんの一瞬――。
「…?」
どうしたことだろう?
微かに臣は、謂れのない違和感のようなものに襲われた。
しかし今は、そんなことに怯む間もない。すぐに気を取り直した臣は、毅然とした眼差しを差し向けた。
「一体これはどういうことなのかご説明ください」
「何が」
気だるげに足を組み直し、涼しい顔で白露は言う。こちらを見もしない。
「なぜ睦が牢へ入らねばならないのです」
「妾に狼藉を働けば当然であろう?」
何を問うても、軽賤の笑みを湛えた目は、ほかの何でもなく朱に塗り上げた自らの爪をひたすらうっとりと眺めているのであった。
「ですから、彼が何をしたと言うんです!!」
つい声を荒げてしまってから、ふと本気で腹を立てている自分に気付いた。
(何だ、この焦燥感…。不安?恐怖…?違うな…。何だというんだ、この苛立ちは。妙に胸がざわつく…)
ちらとほんの一瞬臣を見て、白露は再び瞳を細めた。
「差し出がましくも、たかが学者の分際でこの妾にわけの分からぬ言いがかりをつけおるからよ。見えぬものに縋るなだの、見えるものに惑わされるなだのと――無礼にもほどがある。さっぱりわけが分からぬわ」
声高に笑う。
「あやつ…腕利きの星読みかもしれぬが、こうも覚えのないことを言われてはのう。あまりにしつこいので、警護を呼び罰したまで。なに、暫く頭を冷やせというだけの事。首を刎ねるわけでなし、何の関係もないそなたに、そうも言われる筋合いはないと思うがのう?」
「……っ!」
悔しいが返す言葉もない。
だがどうにも拭い去れないこの胸のもやもやしたものは何だ?
そもそも、彼女はいつからこれほど饒舌になった…?
『見えないもの』と『見えるもの』。
どういうことだ?
星は睦に何を告げた――!?
すっくと臣は立ち上がり、潔く頭を下げた。もはやこれ以上ここにいても、得られるものなどないと思った。
「そうですか…。委細承知。大変失礼致しました」
きっぱりと踵を返したその時だった。
「臣、睦に伝えよ。後で妾に詫びに来るのを忘るな、とな」
その言葉の真意を悟り、唇を噛み締める。返答の代わりに小さく頭を下げ、臣は部屋を後にした。
睦と警護兵は、先ほどと同じ姿のまま部屋の前で待っていた。
戻った臣の気配を察して睦は顔を上げたが――。
ひどく口惜しげなその姿に、睦は中で交わされたやり取りの粗方を理解したようだった。
「あなたでもそういう顔…なさるんですね」
睦は小さく呟いた。
「後で…詫びに来いとさ」
足元を睨んだまま、臣はため息をついた。悔しくて堪らなかった。
それなのに。
「はい」
返ってきたのは意外なほど明るい声――。
驚いて臣は顔を上げた。彼の心が理解できなかった。
目が合うと、睦は柔らかに微笑んだ。
「おまえ、なぜ…」
しかし出てきた言葉はそこまでで、またも臣は言葉を失くした。
傷つきこそすれ、悲しみこそすれ、なぜそうも笑っていられる…?
このような屈辱的な扱いを、どうして彼は受け入れてしまう??
「嬉しかったです、臣」
「は――?」
「私を…心配してくれたんですよね?本当にありがとう…」
ぺこりと頭を下げ、両側の兵に自ら目配せを送った後、睦は大人しく連行されていった。
「あ…睦!!後で部屋へ行く!おまえに話がある!」
やっとのことで声を絞ると、睦は小さく頷いた。振り向いた彼の顔は、やはり穏やかに笑っていた…。
「……!」
睦の姿が消えた後、突如としてやり場のない怒りが湧いた。
それらすべてを拳に握り、臣は思い切り壁に叩きつけた。
だが、拳で感じた衝撃と痛みは、今のやりきれぬ気持ちを一時的に紛らわせるにすぎない。激しく胸を焚きつける苛立ちは、一向に治まる気配もない。
(狼藉だと!?あいつはそんな奴じゃない。あの睦が白露に食ってかかるなど、有り得ないじゃないか…!なぜだ?なぜこんなことになる?我が身寂しさに彼を望んだのは、あの白露本人のはずだ。それをこのように――!)
わだかまりが消えない。
どうしても合点がいかない。
あの嫌な感覚――室内で感じたざらついた空気は何だったんだ…?
(一体何だと言うんだ!どうしてこんなことに!?どこかおかしい。何かが狂ってる…!!)
臣は、薄く血の滲む拳を睨んだ。
* * * * * * * * * * * *
「遅くなりまして」
荷物を自室に運び込んですぐ臣は水紅の部屋へ戻った。
相変わらず水紅は同じ場所であの本を膝に広げている。
あの本――東方秘術に纏わる、あの本…。
「……」
立ち尽くしたまま黙っていると、察した水紅が振り向いた。
「どうした?」
そこで一度に我に返った。
「あ…。いえ…あの、ご報告を…」
「銀鏡の森か」
「はい」
臣は、紗那で目にした一部始終を余すことなく語った。
「なんと惨い。残酷だな…」
にわかに惻然とした面持ちになって、水紅は眉を曇らせた。
「ええ…。ですが、これではっきりしましたね。以前、紗那の使者が来た際に紗那軍准将・来栖は、数名を捕らえたが、他の殆どは見つかってすらいない――と、そう堅海に言いました。しかし、それは事実に反する。
遺体の数と焼け落ちた集落の規模とを比較してみても、ほぼすべての銀鏡の子どもがあそこに積まれていたと思いますよ。来栖と橘の双方が嘘を言った…あるいは事実を知らされていないのではないでしょうか?」
「知らされていない…だと?」
「ええ…。いや、そうは言っても橘は宰相補佐――現時点で紗那政府の実権を握る二番目の人物です。彼が知らないはずはない。となると、来栖だけが事実を知らない可能性が考えられます。しかし、来栖とて軍では上から四番目の実力者。やはりどうも不自然です。さて、これをあなたはどう見ます?」
おもむろに臣は、組んだ片膝を包むように指を組んだ。
「えらく勿体ぶるな…」
「お勉強ですよ。こういうの、暫く振りでしょう?」
水紅は姿勢を改めて向き直った。
「ここはきちんと整理して考えるべきだな。人道を外れた虐殺の事実を、政府の人間の橘は承知しているというのに、軍の将校である来栖はまるで知らない…。橘は、あの銀鏡の夜叉と、臣の命を狙うイングラムという異国の者をわざわざ引き連れて楼蘭へやって来た、まるで掴み所のない人物――」
「そうですね。そういうことですね…」
相槌を打ちながら、臣はなぜか楽しそうだった。
「仮に、そのどちらもが堅海に敢えて嘘の情報を与えたとして、自分たちで殺したはずの彼らを、ここでまだ生きているように見せる意味があるだろうか…。取り逃がした鬼の残党を誘き出すため?彼ら、子鬼が楼蘭に囲われているとでも思っているのか?」
「うーん。多分、それはないですね。銀鏡に近い如月に滞在しているはずの堅海が、わざわざ出向いてまで鬼の話を尋ねている時点で、彼らは、堅海と鬼の関わりを疑ったはずです。燻り出してまで鬼を狩りたいと思うのであれば、とっくに如月へ出張って来てますよ。現に鬼の一人は篠懸様とともに如月にいますし」
「な…何だと…?」
水紅の顔色が変わる。
正直な反応に、臣はくすりと眉を解いた。
「ああ、でもどうかご心配なく。今や彼は篠懸様の大切なご学友ですよ。机を並べて毎日一緒にお勉強しています」
それがどういう状況なのか呑みこめず、複雑な表情を貼りつけたまま水紅は固まってしまった。
「本当に微笑ましいぐらいに仲が良いですよ、お二人とも。彼ら、銀鏡の鬼だなんて怪しげな呼ばれ方をしていますが、実際はまるで普通の子どもです。人を殺めることを生業にしている子も確かにありますがね、それもすべて彼らが仲間とともに生き抜くための術です。仲間を守るためにしていることなんですよ。大体、そんな悪どい仕事を彼らに依頼し、させているのはあの政府だ!」
臣はやや感情的に言い放った。その口ぶりからは、紗那では『鬼』と呼ばれたその子どもに、もはや情が移ってしまっていることが窺える。
ようやく安心したか、水紅は興味深げに身を乗り出した。
「どんな奴だ、そいつは」
「紗那ではかなり有名な少年です。腕利きの殺し屋で、『銀鏡の火喰鳥』という異名を持つ子なんですが、接してみれば何のことはない。素直で純朴なごく普通の十五歳の少年です。なかなかいい子ですよ」
「名を馳せた隣国の殺し屋…か。それはまた…とんでもない友を作ったものだな、あいつも」
そう呟いて、水紅ははっと言葉を止めた。何かに思い当たったようだ。
「なるほど、そうか――」
背もたれに深く身を預ける。
「鬼らは政府に嵌められたわけだな。そして多分、その来栖という人物――いや彼を始めとした紗那軍の中枢もだ。現時点で台頭しているのは政府――恐らくは、橘を含むごく一部の人間のみというわけだ。現在、紗那は事実上の有司専制の下にある…。違うか?」
「さすがは水紅様。素晴らしい見解ですね」
満足げな臣を見て取ると、水紅は更に言葉を続けた。
「…と、いうことはもしや鬼ら、何らか政府に逆らったのではないか?そして、他にも志を同じくする輩がいて、鬼と密接に繋がっている…。遺体を放置したのはそんな連中への見せしめとしか考えられんだろう?」
「うーん。まあ、それはそう…なんでしょうがね、どうも私は…。彼ら、そこまでして国に楯突こうとするのでしょうか?社会的に虐げられ、逆境に耐えながらも懸命に日々を生きる子どもらに、国の将来を案ずる暇があるんでしょうか?ただ生きていくだけで精一杯だろうと思うんですけどね…。篠懸様といるあの子を見ても、どうもちょっと…。そんな大義を抱くような子ではないと思うんですが」
「そうか…」
「ですが、ただ…」
再び臣はきっぱりと顔を上げ、水紅を見た。
「そこに大人の思惑が絡めば話は別です。仕立て上げられた反逆者――謀反の偽装ですよ。その意味で子鬼らは文字通り嵌められた。つまり、彼らは目的のための人柱にされた…と、そう考えた方が自然ではないでしょうかね?
ここだけの話、銀鏡と政府の癒着を世に触れ回ったのは彼らではなく、ずばり政府自身だったのではないかと私は考えています。もしこの推測が当たっていれば、この鬼退治の話、敢えて当然の美談としてそのうち公式発表されるはずですよ。彼らが堅海に語ったのも恐らくはそういうこと…つまり、お国の転覆を図った逆賊を、正当なる裁きとして国が退治した――そういう演出ではなかったか、と。
きっと、そうしてでっち上げた言葉の空々しさは水面下に多数潜むであろう反体制の闘志を存分に刺激します。もちろん政府はそれを承知しながら、その一方で此度の蛮行の証拠を握らせ、世論を煽る。そういう筋書きが政府首脳――いや、その中のごく一握りの人間の野望の内にありはしまいか、と。正直なところそんな気がしているんです」
ごくりと喉が鳴る。まさか簡単に信じられる話ではない。
確かに、彼の言葉はさももっともそうに聞こえるが、その内容は恐ろしくとんでもないのだ。
自らの蛮行を偽りの美談で隠して見せながら、まるで手招きをするかのように真実を暴かせている。それもすべて紗那政府自らの筋書き…?
本当にそんなことが有り得るのだろうか?
「しかし、それでは…。そうだ、来栖は…!?軍はどうなっている?
暗躍する政府の膝元にありながら、武力そのものである彼らが、政府の口車にまんまと乗せられ平和ぼけしているというのでは、まるで話にならぬではないか。大体、実際に非道の手を下したのも軍の人間だろうに」
「ええ、確かに。しかし、あの国の兵の中には、家族を養うために已む無く軍へ身を置く者も少なくありません。地方からの『出稼ぎ軍人』などという言葉もあるほどです。そういった細かな事情の分からぬ兵士にいくらか金でも握らせて、事前に手懐けておきさえすれば、この計画は軍上層に勘付かれる前に楽に遂行できますよ。もしやこの時、実際に現場で指揮を執ったのは軍の人間ではなく、別の立場の人間ではないでしょうか。今の紗那軍そのものが、実はこちらの想像以上に弱体化しているとしたら――どうです?」
だが、それでは得心がいかぬ。軍の働きの本筋に政府が関わってくる事ならあり得ても、現場の指揮となるとまた話が違うではないか。
「軍以外の者が軍の指揮を執って末端の兵を動かしている、と?しかしそうなると、それは恐らく政府の人間。だが現実的にそんなことが…」
臣はにやりと笑った。
「まあ、軍の上層を差し置いて、政府の人間が現場に出向き、指揮を執る――普通はちょっと有り得ませんよね。具体的に誰が…となると、そこまではまだ分かりませんが、今回の鬼狩り――そこかしこに政府の意思のようなものは確かに感じられるでしょう?ここでもし、この不自然さを解消する証拠を我々が掴み、うまくこの仮説が成り立てば、来栖が事実を知らないのも頷ける。そして橘の関与についても辻褄が合ってくるんですよねえ…」
天井を仰いで腕を組み、再び臣はじっと考え込んでしまった。
「ちょっ…ちょっと待て、臣。もう一度話を整理してくれ…!どうも話がとんでもない方向に行っているような気がするのだが…!!」
「ええ。なってますよ、とんでもない話に」
頷いて、臣は横目で水紅を見た。しかしその横にあるのは、いつもの涼しげな表情ではなかった。
「つまり――政府は、銀鏡の子どもたちを偽の反逆者に仕立て上げて処した。それを見せしめと称してその場に放置。だが、この残虐な事実を軍の上層は知らない。派兵しているはずなのにね。
それを知っているのは、直接軍の末端に指示を出した政府の首脳と、まんまと政府に懐柔され、鬼狩りに参加した一部の兵士だけ――いや、彼らがまだ生きているとも限らないか…。真実を知る彼らです。ひょっとして鬼狩りのどさくさで殺されているかもしれませんよね。
さて、ここでまたもう一つ。ただでさえ紛争の多い紗那で、この政府による銀鏡の虐殺事件がもしも公になったとしたら、どうなるでしょうか…?この手のネタで世を騒がせるのはきっと簡単ですよ。反体制の輩というのは、抑圧というものに過敏に反応しますからね。むしろ知名度が高い分、分かり易くて都合がいいんじゃないですか、銀鏡の子どもたちというのは。
紗那政府の嘯く美談を背景とした此度の大量虐殺。政府から人として認知されなかった子どもらは、散々利用された挙句に殺された。なんと悲しい末路――。見せしめとしか思えぬ数々のあの遺体が、反体制の人間の目に触れてさえいれば、これ幸いと彼らは紗那政府の非道ぶりを世に訴えるでしょう。ほんの昨日まで一緒になって銀鏡の子どもを差別していた自らを棚に上げて、人畜生と言えど同じ命あるもの…などと、空々しい熱弁をふるいながらね。
さあ、これで準備は整いました。革命が始まりますよ。ですが、よく考えてみてください。銀鏡での虐殺も周辺への牽制も偽りの武勇伝も――すべてこれ、実は政府のお膳立てなんですよね?これでは自分たちを失脚させるために、政府首脳が国民を焚き付けている――そういう話になりはしませんか?軍だって、上はこの事実を掴んでいないんです。
そこで、もし…ですよ?真実を知る誰かがこのことを白日に晒してしまえば――これ、軍の弱体化を国民に知らしめることになりはしませんかね?それだけで、もう軍は形無しです。意思を持たぬ軍は、ただの政府の犬だ。それこそ正義も大義もあったもんじゃない。それに、そのうち彼らは革命の火種を鎮圧すべく各地に向かわされるわけですよね?使われる兵らにしたら、頼りのない軍部や怪しい政府首脳についていって共倒れるより、ここで反体制に寝返って夢を見る方が得だと感じるんじゃないでしょうか。無能な軍上層に顎で使われ続けていれば、そこに疑念を抱く者も多く出るでしょう。
もう軍も政府もてんでばらばら。国民の信頼も地に落ちます。紗那政府はすっかり孤立無援と相成りました。さて、ここでもう一度考えましょうよ。どういうことですか、これ…?」
すらすらと語られる衝撃的な筋書きに、水紅の瞳はわなわなと震えた。
臣は言葉を止めない。それどころか、その眼光は一層の煌めきを孕み、その言葉も声も、まるで張り詰めるような冷厳さを放ち――。
「現在の紗那の最高権力者は宰相の印南、それから形ばかりとはいえ紗那の皇族――もっとも痛手を受けるのはきっと彼らなんです。国民は反旗を翻し、迎え撃つはずの軍は統制が取れる状態にない。恐らくそこなんでしょう、狙いは。別に武力を行使しなくても、悪の独裁者を倒しさえすれば革命なんてそこで終わります。諸悪の根源という汚名を着せさえすることができれば、相手なんか誰だっていいんです。それで敵を討ち倒しさえすれば、そこに革命の意義が生まれ、革命志士らの言う正義に足る。これで見事、新政府樹立の運びとなります。
でも…。この後、君主には誰がなるのでしょうか?軍を内側から密かに掌握し、国民の心理を巧みに操作し、果ては印南や皇族をもまんまと利用して彼らを自滅させた張本人は一体誰なんでしょうか?」
「君主…?民衆を率いて革命を起こした中心人物…ということか?」
「そう――。目的が達成されれば、革命側は議会を開き、新たな統治者を国民の手で決めようとするでしょう。でもこれも簡単な話。実権を握りたければ、ある程度自分もあちらに名を売っておいてから、発言力のある志士を懐に抱き込めばいいんです。またいつかの出稼ぎ兵のように買収すればいい。ほら、これで簡単に国一つ手に入ります。
さて、話を戻しますが、諸悪の根源・印南の一番近くで彼を謀り、もっとも容易く革命の切り札となり得る人物は誰です?その人物が民衆の前に印南と皇族の首を差し出せば、それでこの揉め事はすぐに全部片が付くんですよ。革命志士らと内々に手を結んでおいて闘志が盛り上がったところで印南を引き渡せば、旧体制など明日にでも崩壊するでしょう?それこそ無血革命も可能です。ああ、そう…無血革命――これは民衆から相当に厚い支持を得るような気がしますねえ…」
「まさか首謀者は…橘…なのか?あの印南もまた彼の掌の上だと――おまえ、そう言いたいのか…?」
水紅の声は震えた。
「しーっ。滅多なことを仰ってはいけません、水紅様。これは全部憶測ですから。例えばの話…ですからね?」
人差し指を口元に当て、臣はわざとらしく声を潜めた。
「ですが――どうやら本腰入れて調べた方が良さそうですね、これは」
「……」
かろうじて表には出さずにいたが、まさか平静などではいられない。
もしもこの憶測がすべて本当だとしたら…。いや、これまでだって事の大小にかかわらず、彼の予測することは概ね外れたことがない。
水紅は深く息をついた。
「たったこれしきの情報から、一国の転覆を弾き出すとは…。まったく大した数学教師だな、おまえは」
「偽者ですけどね」
眉を解き、屈託なく臣は笑った。
すると――。
「いや、でも本当に…。世辞などではなく、とても勉強になる。感謝もしている」
「……?」
日頃、あれほど尊大に振舞う水紅らしくもないこの慎ましさは何だろう?
「また…気持ち悪いぐらい殊勝なことを仰いますね。あなたらしくもない」
いつものように毒づきながらも、臣は観察を続けていた。
これはもしや彼の寂しさ?
彼を一人残して宮を空けたことがそうも堪えたか…?
見つめれば見つめるほど、水紅は照れくさそうに目を逸らす。ほんの僅かながら齢相応の表情がそこにあった。
「そんなに褒めたって何も出ませんよ……と、そう言いたいところなんですが…」
そう言って臣は袖の中をごそごそと探った。
「お土産ならちゃんとあります」
差し出されたそれは、丁寧に四つ折にされた紙片であった。
「何だ…?」
恐々受け取り、中を開く。
それは――。
「篠懸様からのお便りです。花火、とても喜んでいらっしゃいましたよ」
すぐさま文面に目を通す。静かに文字を追う瞳の端に、自ずと柔らかな笑みが浮かんでいるのが分かる。
こんな無意識の仕草が愛おしい。できることなら、ずっとこんな風に…この温かな心を殺さずに、その胸に抱いていてくれたなら…。
ぼんやりと皇子を見つめながら、臣は思った。
「氷見――と言うのか。例の銀鏡の少年は」
紙面に目を落としたまま、水紅は独り言のように口を開いた。
「ええ」
「皇子であると知りながら、自分を呼び捨ててくれる唯一の友だと書いてある」
確かにそうだ…。臣は苦笑した。
「あいつ…どうもしょっちゅう愁に叱られているようだな。だが楽しく過ごしているようで何よりだ」
ため息の如く呟いて、水紅はほっと瞼を伏せた。
「随分変わられたんですよ、篠懸様。良く言えば正直におなりになった。でも悪く言えば少し幼くなられたような気も…。どういうわけか、毎日のようにわんわん泣いておられるんですよね」
如月での数々の出来事を思い起こして、また臣はくすりと笑った。
「まあ、確かにここではあまり弱い顔もできぬからな」
それはあなたも同じだろう――と、喉元まで出掛かったが、敢えて口にするのを止める。
彼はもう十八――。
今更幼い頃に戻ることなど出来はしない。まして感情の赴くままに泣き、怒り、笑うなどということが許される立場でもないのだ。
「あ、あの…水紅様」
静かに水紅は振り向いた。深く澄んだ漆黒の瞳が臣を映す。
「あの…」
だが、臣の言葉はそこまでで消えてしまった。
「何だ…?どうした?」
臣は暫く思いあぐねていたが――。
「あの、如月に発つ前に、昔の…その、イングラムと同じ国にいた頃のことをお話しすると、私は確かそう言いましたよね…」
「!!」
どくん!と胸が大きな音を立てた。そんな自らに驚き、水紅ははっと胸を押さえた。
「あなたが聞きたいと仰るのなら、包み隠さずすべて正直にお話しようと思います。けど…」
この告白にどう応えるべきか、あれから――臣が如月に発ったあの日から、ずっと考えていた。彼が自分に隠し事をしているなど、今までに考えたこともなかった。それほどに信じた。一方ならぬ固い信頼だと思っていた。
もちろん今も、それを疑う余地はないけれど――。
「あの…私もあなたに訊きたいことがあるんです。というか、如月を訪ねたことで、どうしてもお訊きせねばならぬことができてしまったんです。どうか、はぐらかさずに正直に話していただきたいのです。
私は、どんな答えもちゃんと受け止めます。絶対にあなたを裏切ったりしません。どんな突飛な話も全部信じます。だから、どうか…」
まるで痛みを覚えるほど真っ直ぐに訴えてくる眼差し――そこに尋常でないものを感じた水紅は、迷うことなく頷いた。
そして、ほっと表情を緩めた後――。
「……」
そこからの臣は、まるで彼らしくもない態度を取り続けた。何度も躊躇うような素振りを見せ、何度も視線を泳がせてはこちらを見る――。
どうも余程尋ねにくいことのようなのである。
ひたすらに水紅は、臣の言葉を待ち侘びた。
やがて。
「あの本…進みましたか?」
ついに意を決した臣は、意外なほど穏やかに事を切り出したのであった…。
「え…?」
どんな一大事かと身構えていた水紅の心は、ある意味で裏切られたと言えた。
彼が訊きたい事とはそんなこと?
臣が知りたいのはあの本の内容なのか――?
「水紅様、どうかお答えください。あの本、どこまで読みました…?」
しかし臣の目はいつになく真剣だ。
「ど、どこまで…って、あと数十頁を残すのみだが…。おまえ、そんな――」
改めて顔を向けた刹那、水紅は声が出せなくなってしまった。こちらを見る臣の瞳に、とてつもない鋭さを感じたからだ。ところが、そうして自分を見つめる彼の肩は僅かに震えているようにも見える。
(何だ?緊張…?恐怖?一体何だと言うんだ?まさか、臣…おまえ、怯えているのか…?)
こんな彼は見たことがなかった。
「もう…そんなにお読みになったんですか…」
臣は気丈に水紅を睨んでいる。しかしその声は、いつになく密かで覇気がない。それどころか微かに戦慄いているような気がした。
普段の彼を知る者から見れば、意外に思えるほど負の感情を露にする臣。だが今、あの瞳の奥底にあるものが何なのか、水紅本人には見当も付かないのである。
ただ――。
迸る剥き出しの感情だけが、痛烈に水紅の身体を貫いている。水紅が全幅の信頼を置く彼が、震えながら今、目に見えぬ刃を向けている相手もまた自分であること――その現実が水紅にはにわかに信じられなかった。
(あの本――。あの本に何がある…?)
臣を直視しながら、水紅また身動きができずにいた。体が竦んだように動けない。
「では…道教のこと――方術というもの、多少はご存知ですよね…?」
うまく答えられずにまごついていると、突然臣は――。
「どうなんです、水紅様!!お願いですから、ちゃんと答えて!」
血を吐くように怒鳴って、臣は掌を卓の上に叩きつけた。
激しい苛立ちを隠し得ぬその姿に、さすがの水紅もびくりと大きく肩を揺らした。あまりに平静とかけ離れた臣の姿は、激しく水紅を動揺させていた。
「そこまで読んでいるのなら、あなた…これが何だかご存知でしょう!?いや、知らないなどとは言わせない!」
臣は懐から鳥の形に切り抜かれた紙片を取り出し、水紅の目の前へと叩きつけた。
(だめだ、いけない。落ち着け…。落ち着くんだ…。もっと冷静に――)
胸の内で何度も繰り返しながら、どうしようもない不安に激しく昂ぶる。落ち着こうとしても、恐ろしさに体が震えて仕方がない。
水紅を信じていないわけじゃない。
だが、望まぬ答えが今にも聞こえてきそうで――。
臣は、真実に怯える自らを必死に抑えていたのだった。
「これは…。おまえ、これをどこで…?」
囁くような声で、ようやく水紅は言葉を返した。
「あなた…これをご存知…ですよね…?」
声を詰まらせながら臣は言った。ひどく掠れた小さな声だった。
「恐らくこれは式神――。剪紙成兵法で使われる…紙人形…」
そう言いながら水紅は、例の本をぱらぱらと捲った。
そして――。
あろうことか、その隙間からまったく同じ紙の鳥を取り出したのである。
恐る恐る卓上に差し出す。
大きさも形もまったく同じ紙人形が、二人の前に二つ並んだ。
うち一つはあの時、遊佐が愁の懐から取り出したもの。
では、このもう一つは――!?
「!!」
瞬間、声を失った。
とても直視できなかった。ついに顔を背け、臣はぎゅっと目を瞑った。
(なぜ…?なぜこれを水紅様が持っている――!?)
愕然とした。胸を殴りつけた鼓動が一層激しさを増してゆく。
胸が苦しい…。
どうして。
なぜ、こんなことが…!
ずっと恐れていたことが現実になろうとしている…!?
そんな…。
まさか――!
「と…水紅様…何です…これ…?一体…どういうことなんです?なぜ、あなた…。あなた、どうしてこんなものを持っているんです?なぜこれがここにあるんですか!?」
努めて冷静を装い口を開く。
しかし、いくら堪えようとしても発する声はわなわなと震え、ちょっとでも気を抜けば情けなく上擦ってしまう。もう顔も上げられない。
脳裏に浮かんでは強引に掻き消してきた恐ろしい想像が、今再び臣の中で首をもたげ始めた。
(水紅様が篠懸様の呪詛に関わっている…?彼が式神を操っていると?そんな…まさか!あれほど弟君を愛しておられる水紅様が――?馬鹿な!そんなことは有り得ない。そんなはずはないんだ…!)
交雑する思いに臣は何度も首を振った。
嫌だ。
そんなことは信じない。
信じるわけにはいかない――!!
(やめろ…違う…。違うはずだ!どうか…頼むから、嘘だと言ってくれ。たった一言でいい。違う、と…!!)
臣は何度も胸の中でそう繰り返した。
すると――。
「拾った」
「――え?」
蚊の鳴くような声で問い返すと、水紅は大仰にため息をついた。
「な…に…?」
「だから拾ったんだ!半年ほど前に!!」
何度も言わすなとばかりの不機嫌な声に嘘は見えない。
見開かれたままの瞳から、不覚にもつうっと何かがこぼれた。どきりとして顔を伏せる。
ほっと体の力が抜けてゆく。ようやく緊張から解き放たれる…。
「ひ…拾った…?」
確かめるように繰り返し、衣の袖でそれとなく涙を拭う。俯く臣の顔に、ようやく微かな安堵が滲む。
「ああ。そら、そこの廊下でな。式神のことは前に何かの本で読んだ覚えがあって多少なり知っていた。ひどく気になったので何度も探したが、その本が一向に見つからない。本の題すら覚えていない。そこでその類の本をおまえに探させた」
臣は改めて水紅の瞳を覗き込んだ。
「それ、ほんとですよね…?本当に拾ったものなんですね?それだけなんですよね?水紅様はこの式神とは何の関係もないんですよね?」
同じく緊張から解かれた水紅もまた、内心ではほっとしていた。臣の声がすっかりいつもの彼に戻っていたからだ。
「くどいな、臣!天地神明に誓って本当だ。おまえが正直に言えと言うから私は…!」
途端。
急に全身の力が抜け、お陰で臣は文字通り糸が切れたように崩れ落ち――。
「お、おい…」
驚いて水紅は立ち上がった。
「はあ、まったく――。水紅様、腰が…腰が抜けましたよ!どうしてくれるんです!?」
へたり込んだ床からむっかりと水紅を見上げ、臣はこれ見よがしのため息をついた。
「そう…ですよね。ただその時期だけがまるで疑いようもないほどぴったりだった、それだけなんですもん。どうもおかしいと思った…。遊佐様はちゃんと呪詛を相手に返し続けているのに、水紅様にはまるでそんな兆候がないし、にわか仕立ての式神が、あんなに長時間ちゃんと動くはずはないし――。動機だってないんだ。そうだよな…。おかしいよ。そんなの有り得ないのに、まったく…」
ぐったりと肩を落とす。
「大体、水紅様がちゃんと話してくださらないから!何を調べておられるのかと、あれほど何度も伺ったのに!」
そして臣はぶつぶつと、いつもの悪態を吐いている。
「おまえな…よくもぬけぬけと…。全然信じていなかったくせに!」
呆れ顔の水紅があからさまに剥れた。
「信じてましたよ!もちろん信じてましたともっ」
むきになって言い返してから、ふと臣は声を落とした。
「だって…。信じているから心配なんじゃないですか…。もしも万が一――なんてこと、どうでもいい人間に対して思うことじゃないでしょう?」
水紅は心底嬉しそうだった。
情けなく床に座り込んだ臣も力なく笑い返す。
だが、これで問題が解決したわけではない。
「さあ、次はおまえの番だ!ちゃんと説明しろ、臣。この式神は何だ?何かあったのか、如月で」
臣は深いため息をついた。
「ええ。あの…篠懸様が呪詛に苦しめられているというのは先に聞いておられますよね?実は同じ人物から差し向けられたと思しき式神が、先日篠懸様を襲いました。数十羽の巨鳥にその姿を変えてね」
水紅の顔が青ざめる。
「ああ…でも、どうかご心配なく。みなさん、ご無事です。擦り傷ひとつありません。でも…」
臣は不意に眉を寄せた。
「まったく同じ紙の鳥がここにあったということは、かの敵はこの内部――光の宮にいる可能性が出てきましたね。ここの人間、あるいはここに出入りしている人物ということですよね、これ…」
「確かに――そうなるな…」
水紅は改めて紙の人形へと視線を落とした。
「そしてそのお陰で、あれが周到に計画された襲撃であった可能性も出てきた。半年も前にこの鳥が存在していたとなると、相手は相当先を読んで動いていますね。予見の出来る者の仕業かな…」
そこまで言うと、臣は寄せた眉をふっと解いた。
「何だか内にも外にも敵だらけですね。ああ、そうそう。水紅様、ご存知です?方術はその昔、この国にも存在したんですよ」
「何…?東方の秘術ではないのか?」
水紅はにわかに目を見張った。
「はい。多分、水紅様がかつてご覧になったという式神の記述は、この国の呪禁師や宮廷呪術に関するものだろうと思うんですけど」
首を捻りながら立ち上がり、水紅は書棚の一番上から一冊の本を取り出した。色褪せた古い歴史書だ。
ぱらぱらと捲ってみると――。
「ああ、確かにこれだ。あの本――そうか、これであったか…。と言うよりおまえ、よくそんなことを知っていたな」
水紅はようやく見つけた問題の箇所を指でなぞる。
「偽者ながらに一応学者で皇子付きですから、それなりの努力はしています。遊んでばかりいるわけじゃありません」
臣はにっこりと微笑んだ。
「道教の流れを汲む術と宮を追われた呪禁師たち――。彼らと関わりがあるのなら、その血筋を辿るべきか…」
何やら呟き、ようやく臣は立ち上がったが――。
「あ…」
水紅の手元を見るなり、臣は小さく声を上げた。
本を捲る手がぴくりと止まる。
ちょうど今広げられている頁には、六芒星の絵が描かれており、その中心には月と桜のような花を模った楼蘭国の紋章が描かれていた。
「ん…?これか?」
水紅は、広げた頁を差し出した。
「これ…ヒランヤですね。『惨刑のヒランヤ』。この国のはこういう形なんですねえ」
臣はなぜかひどく儚げな表情を見せた。
「何だそれは…?ヒラン…ヤ?」
「水紅様。焼印ってご存知です?」
「焼印とは――罪人が押されるというあれか?国家を揺るがす大罪人にのみ与えられる証と聞いたが…。ある意味では死罪よりも重いとか」
「ええ…そう。国家反逆者とか政治犯なんかが主に押されるようですね。国家に深刻な影響を及ぼしかねない罪を犯した者――その中でも、より罪深いと判断された者が、身体のどこかに直接国の紋章を焼かれて、そのまま国外へ追放されるんです。刻印された国には当然出入り禁止。近付くことさえ許されない。故郷の印など押されたら、親兄弟や子どもとも、もう二度と逢えない。逃れ逃れて遠い異国へ渡ったとしても、印の存在はひた隠し。そうしなければ職にも在り付けないんです。万が一にもばれてしまえば、今度はそこの人々に追われますから。近隣に凶悪犯が潜んでいるなんてことになれば、誰しも心中穏やかとはいきませんよね。当然のことです。
つまり、印を持つ者は、常に周囲の目にに怯えながら、ただ孤独に――そして寂々と惨めに一生を送るほかはない。それだけのことをしたのだろうと言われれば確かにそうですから、何とも申し開きもできませんがね…」
いつもの椅子へ腰掛けると、臣はすっと足を組んだ。
「なるほど…。それは確かに死罪よりも重いと言えるかもしれぬな。人目を逃れ、日々怯えながらの人生――考えただけで気が狂いそうだ」
水紅は紙面に描かれた印をそっと指先でなぞった。
「実際、精神を病んでしまう者も多くあるようです。また、食べてゆけずに道端で野垂れ死ぬ者や、孤独に耐えかねて自害する者もあると聞きました…。印を押される時だって、それはとてつもない苦痛です。大勢の民衆の前に晒されて、麻酔もなしに肌に直接焼き鏝を当てられるわけですから。その痛みに失神する者だって、発狂する者だってあると言います」
「相手が罪人とはいえ、むごい話だな…」
「楼蘭ではそういうことはないのですか?ご覧になったこと、あります?」
再び水紅は本を捲り始めた。そこには惨刑のヒランヤなるものに関する記述が数頁に渡って記されている。
「いや…私の知る限りではないな。こうして記述が残っているのだから、昔はあったのかもしれぬが…。それにしてもそう大勢ではないだろう」
臣は目を伏せ、またも深い憂いを見せた。
そして――。
「なんだ…ご覧になったことないんですか。そうですか…」
消え入りそうに呟くと、なぜか臣はおもむろに衣を脱ぎ捨てた。
「…?」
きょとんと首を傾げる水紅に構わず、臣は小袖の中に着込んだシャツの胸元を大きく広げ、そこから一気に右腕を引き抜いた。
そうして晒されたその右腕には。
「……!!」
思わず息を呑む――。声も出なかった。
「こんなものを…。こんな忌まわしきものを二つも背負ってる人間なんて、世界広しと言えど、そうはいないと思いますよ…」
声を落としてそう言うと、臣は向けられた視線を避けるように俯いた。
あろうことか、彼の二の腕には二つのヒランヤが焼かれていたのである。
どちらも見たこともない紋章だった。一つは、剣と竜の様なものが描かれていて、もう一つの方は獅子のような獣が描かれている。
刹那、鼓動は急激に勢いを増し、水紅の中で無尽に乱れ、暴れ始める。この胸を突き破りそうなほど大きな音。耳を覆ってしまいたくなるほどの――。
「お…おまえ、これは…っ!?一体どういう…!?」
やっとのことで声を絞る。示された現実は、こうして目の当たりにしたところで、とても信じられるものではなかった。
臣が国家を揺るがす大罪人――?
それも一つのみならず、二つの国を追われねばならないほどの大罪を犯した人間だったなんて…!
「ずっと…。ずっと黙っててすみません。ですが、もう…こうなったら、解雇されても文句は言いませんから。隠し事は無しと、先ほど私はあなたにお約束しましたからね」
瞳を伏せたまま、臣は意外なほど穏やかな微笑みを浮かべた。
「どちらもずっと西の…海を越えた更に向こうにある国の紋章です。片方は島国ながらも大きな国でヴィングブルク王国、もう片方はその属国でゼノビア公国のもの。かの地では、当国ばかりか近隣諸国にまで写真が回ってしまったので、私は本当にもうその近海に近付くことすら叶いません。
そして…あのイングラムは、元々はこのゼノビアのルントシュテット大公に仕えていた近衛です」
さあっと血の気が引いた。
ずっと信頼してきた。彼だって忠義に仕えてくれていたじゃないか!
それがこんな――!!
水紅は拳を握り締めた。
落ち着きをなくした唇がわなわなと震える。
「そ、そんな…。一体そこで何をしたんだ、おまえ!!国を追われねばならぬ罪とは何だ…ッ!?何で…何で…こんなこと!」
水紅は驚くほど切なく声を張り上げた。まるで今にも泣き出しそうな声だった。
「あの…ゼノビアの独立同盟を白紙に…。そしてその後、ゼノビア公国はヴィングブルク王国に武力で制圧されて、もはや存在すらしていないそうです。何と言うか…結果的にそうなってしまったんですけど…」
「どういうことだ!?」
一層声を荒げ、水紅は鋭く臣を睨んだ。気丈な眼差しは、信頼を裏切られたことへの怒りの表れなのだろうか…。
だが、床へ落ちた臣の視線は戻らない。今の水紅の心中を思えば、目を合わせることなどできなかった。
「今から…六年ほど前…。当時二十歳そこそこの私は、偶然ゼノビアという国へ流れ着きました。緑豊かで穏やかな土地柄の、本当に素晴らしい国でした。
そこに辿り着いて間もなくのこと。場末の粗末な酒場で一人で飲んでいると、店にある女性が入ってきたんです。
正直、驚きました。だって、もうまるっきり浮いていましたから、彼女…。服装こそ庶民の物を身に着けておられましたが、その立ち振る舞いや仕草、お顔立ちに至るまで、それは高貴で優雅で美しくて…。とてもじゃないが、どこの馬の骨とも知れぬ私程度が出入りするような汚い酒場には、そぐわないお方でした。
無骨な荒くれや怪しげな輩ばかりが屯する店内で、無防備にもにこにこと微笑む彼女――。私は心配になって声を掛けました。彼女の名はクラウディアと言いました。そこでまた色々とごたごたがあったんですが…。まあ、とにかく店から彼女を連れ出し話をしてみると、どうも何も考えずに街を散策しているうちに迷い込んでしまった――ということのようでした。何だかおかしな女性だなとは思いましたが、二人とも似たような齢でしたし、打ち解けるのにさほど時間は要りませんでしたね…。
でも彼女は――。知り合ったその時はお互いに知らなかったんですけど…」
臣はふと窓の外へと目を向けた。いつの間にか空は茜に染まり始めている。
まるで追憶にその身を委ねるように、臣は静かに目を閉じた。
「彼女は、忍びで街を訪れていたゼノビアの姫君だったんです。
まさかそんなこととは知らない私は、その後、ゼノビアの軍に入りました。配属された部署は末端の外人部隊で、持ち場は国境周辺の警備。ですから城の中になどあまり用もなかったですし、当時は私も色々あって、よく牢に放り込まれていたので、あのクラウディアがこの国の姫君だったなんて、最初はまるで気付きませんでした。だいいち公爵家になど興味すらなかった。大公本人の顔すら暫くは知らなかったですよ。軍に身を置いたのも、単に当面の食い扶持が手に入れば良い――という程度の気持ちでしたしね。
でもある時、城で開かれる舞踏会の警護の人員が足りないとかで、私は初めて城の中に呼ばれました。
それで知ったんです。互いに焦がれる相手が、実はどんな人物なのかを。片や一国の姫君、片や末梢の一兵。どう考えても許された話じゃありません。天と地ほどの身分の差です。それに彼女――国の同盟のために、親子ほども齢の離れたヴィングブルクの王に嫁がねばならなかったんです。もうとっくに決まってたんですよ」
不意に。
伸ばされた指先が臣の腕に微かに触れた。
「その…。腕の印に触ってみても…構わんか?」
臣は目を丸くした。意外な言葉だった。
「あ…。え、ええ…」
震える指でそっと触れる。紅く焼かれた肌の瘢痕。痛々しいまでの紅い傷痕。
消えない罪…。
逃れることも抗うことも許されない、忌まわしきその証…。
ついに水紅はその傷痕に額を押し当て、うなだれてしまった。
(水紅様…)
臣の腕に縋ったまま、水紅は微かに呟いた。
「それで…姫は?」
「あ…。ええと…それで…本当ならそこで話は終わりなんですけど、何と言うか、その…。互いの立場の違いに、確かに初めは愕然としましたけど…それでもやっぱり私たちは、相変わらず人目を忍んで逢っていたんです。
場所は決まって城の敷地の外れにある楡の木の下。以前から一人になりたいときには、そこで月を眺めながら考え事をしていました。本当に外れの寂しい場所ですから、人などまるで来ません。まして夜中になど――。更に都合のいいことに、その木の下は城のどこからも陰になって見えなくて、そこが良かったんですけど…。
でもね、後で姫から聞いたんですが、その場所、彼女の部屋からは丸見えだったんだそうですよ」
臣は窓の外を見つめて小さく笑った。
「彼女――クラウディアという女性は、普段は確かに気品あふれる素晴らしい姫君でしたけど、実は少々らしからぬ一面も持っていて…。つまり、ちょっと元気が良すぎて、時々とんでもないことをするんです。
それでその…ある晩のこと、あの場所で一人呆けている私の姿を見つけた彼女は、自室のバルコニーから飛び降りてしまった」
「え…?」
水紅は目を瞬かせた。
「あの場所に彼女が現れた時は、本当にびっくりしました。ですが、以来、彼女は毎晩のようにそこに現れ、私も毎晩そこにいた。とはいえ、本当にただそこで逢って、身を寄せ合い、言葉を交わしているだけでした。物陰に隠れ、月を見上げて…本当に他愛もない話ばかりをいつまでも。それこそ、一晩中語ったことだってあった。その時ばかりは、身分とかそんなくだらない柵は一切関係なかった。
でも、ある時からそれも変わる。正式な婚約の儀が執り行われた某日、またも警備に駆り出された私は終始複雑でした。
宴の真ん中に、華やかに着飾った彼女と、ルントシュテット大公、そして公妃。その隣には、あのヴィングブルク王・ジークフリートがいる。そして、浮かない顔の彼女をよそに、周囲は異様なほど浮かれていて…。だって、それはそうですよ。政略結婚とはいえ、ジークフリートは当時五十歳は優に超えていましたから。まだ十八の彼女には酷な話です。その上あの男――大変な色気違いときている。あの日も物陰に彼女を引きずり込み、手を出そうとしました。見つけて思わず割って入りましたけど…。
でも、あれが後の仇となってしまった」
臣は短いため息をついた。
「その日――ついに彼女に言われましたよ。自分を連れてここから逃げて欲しい、と。いつか言われるだろうとは思っていましたが、でもそんなこと…。到底、私などにできるはずはありません。彼女と二人ここから逃げて、それでどうなるかと――。だって、相手は一国の姫ですよ?私が幸せになどしてやれるはずもない。
心を鬼にして断りましたよ。自分の胸に確かにある彼女への想い。それをを全部殺して、彼女を傷つけた。お国のために犠牲になってくれと言ったんです、私は。心から愛する人に、そんな残酷なことを平然と言ったんですよ。今度こそ、そこで別れるつもりでした。彼女とすっぱり縁を切って、この国を離れようと思っていた。
でも…。そう言いながらその言葉とは裏腹に、私は胸に縋る彼女を抱き締めていました。何か…気持ちがどうしても止まらなくて…。どこかで理性の箍が外れてしまったんですかね。
結局、その晩もその次の晩も…。ずっと、あの木の下で逢瀬を重ねていました。でも、もう以前のようにくだらない話なんかできなくて…。その後は、ただそこで刻々と迫る別れの日を惜しんでいただけです。彼女がかの大国に嫁いでしまえばもう逢えませんから。あの場所で、毎晩彼女を腕に抱いて…時々は思い出したように口付けて…。でもそれだけ。本当にそれだけです。体の関係なんて一切ありません」
「……」
水紅は黙って耳を傾けていた。
そんな過去、臣はこの五年間おくびにも出さなかった。
それでも彼がここに来たばかりの頃、もう既にこの腕にはこの印が刻まれていて、運命に敗れたばかりのその胸は深く傷付いていたはずなのに…。
まるでそんなことは考えもしなかった。
全然気付きもしなかった――。
何も言えず、またヒランヤをなぞる。
「先ほど、姫の部屋からあの場所が見えると申し上げたでしょう?物陰に隠れて忍び逢っていたはずの私たちは、いつしか煌々と降り注ぐ月夕に晒されていました。月の位置というのは日々変わるじゃないですか。きっとそのせいだと思うんですけど…。
お陰で見つかってしまいましたよ。ついに――と言うか、とうとう。実はずっと覚悟はしていました。外れとは言っても一応は城の敷地の中ですから、いつかは…とね。そう思っているうちに、とうとうあの日、あのイングラムに目撃されてしまったんです。
でも――。己の心に正直にいたつもりなんですが、見つかってどこか私はほっとしていました。自分は罰せられるべきだと、いつもどこかでそう感じていた。大体もはやよその男のものですしね、彼女は。ずるずると関係を続けていても、彼女の想いに応えてやれるわけじゃなし、かといってそれを撥ね除けることもできなかった不埒な自分をね…。何だか…誰かに裁いて欲しかったんですよね…。
尊い姫を誑かし、栄えある同盟に水をさした咎とかで、すぐに私は捕えられ、形式だけの裁判もそこそこに大勢の民衆の前に引っ張り出されましてね…。それで即、これですよ。
そうすることで、暗にゼノビアはヴィングブルクに請うたわけです。同盟をふいにしようとした憎き手合いは、極刑に処しました。どうか臍を曲げずに姫をお娶りください、と…ね」
臣は自分の腕の紋章――剣の紋章の方を指し示しながら言った。
「たかが恋――。でも相手は国の未来を担うご結婚を間近に控えた姫君。お陰で私も立派な国家反逆者だ。やれ大切な姫を傷物にしただの、やれ同盟を破棄されたならば云々と、それは散々に責められました。でも、取れと言われて取れるような責任じゃないですしね、こちらだってもう捨て鉢です。今更、どう転んでも自分の人生など台無しだ。別に国がどうなろうと、そんなことは知ったことじゃない。今すぐに首でも何でも刎ねろと、そう思っていた。
そう…身を切るようなあの方の涙を見るまでは――。
あの方を…。できることなら幸せにして差し上げたかった。でも、そう思いながら、結局私はあの方をどこまでも不幸にすることしかできない。確かに印に値する罪だと思いました。あの方も耐え難きを耐えておられる。私だけが死に逃げるわけにはいきません」
そこで臣は、少しばかり考え込むような仕草を見せた。
「ただ、今でも不思議なんですが、私はあの時、国外追放にはならなかったんですよね。忌まわしき証をその腕に焼かれながら、なぜかまだゼノビアの軍に身を置くことを許されていました。ひょっとすると姫がお父上に泣きつかれたのかもしれません。
そんなある時、私はヴィングブルクの某所で起きた戦に駆り出されることになりました。圧政に苦しむ民衆の蜂起ということでしたが、戦況はなかなかに熾烈で、あちこちでゲリラ戦が展開されていたようです。小隊とともに敵地に乗り込み、こちらも抵抗勢力を遊撃するようにと命じられました。とても危険な仕事です。一兵である私が戦で死んだとあれば、姫も諦めがつくだろうと――どうやらそういう意味のようでした。
ヴィングブルクへ発つ前日、あのイングラムが私のところへやって来ました。姫の婚姻を機に、ともにヴィングブルクへ入り、終生彼女に仕え続けるつもりだと彼は告げ、その代わり私には潔く戦地で散って来いと言って…。ほら、これ」
右腕を返すと、肘から手の甲の方に向けて一本の刀傷があった。ちょうど印の下からすっと一本伸びる深い傷跡――。
「これは…?」
「その時に彼に短刀で裂かれました。利き腕を負傷したとあっては、白兵では圧倒的に不利ですから。これね、医者に見せる暇がなくて自分で何とかしたものなんですけど、どうも思ったより深かったみたいで…。恐らく神経を破っているんですよ。実は今でも薬指がうまく動きません。
この先はあなたもご存知の通り――この後もそんな状態のまま、暫くは紗那で傭兵なんかしてましたが…やはりもうだめですね。剣を振るのに左を添えないと簡単に弾かれてしまう。戦うのに不自由で仕方がなかったですよ」
臣は苦笑した。
「イングラムが去った後、その傷を何とか止血し、呆然としていると、今度は何者かが手紙を部屋に差し入れて行きました。そこには、最後に姫にひと目逢ってやって欲しい…と、そう書かれていました。あの場所が見えるバルコニー。今宵、子の頃、そこにきっと彼女は立つから、どうか逢いに来てやって欲しい、と…。正直迷いました。また彼女を徒に惑わす気がして…。
だけど…。
今思えば本当に馬鹿だったと思いますが、結局ね…逢いに行ったんですよ。案の定、バルコニーから舞い降りてきた彼女は、この腕の中で嬉しそうに笑いました。月明かりの中、久しぶりに見た愛しい笑顔。そしてそれが…私の知る最期の彼女の笑顔でした。この空――互いの真上に続いているこの空の下にあなたがある限り、どこにいても何があっても、ずっと私はあなたを想う――と、その晩そう彼女に誓い、翌日私は戦地に赴きました。
ですが…」
急に臣は言葉を詰まらせた。
窓の外はもう宵闇が迫っている。もういくらもせぬうちに、そこには彼の嫌いな月が覗くことだろう。
臣は静かに立ち上がり、傍らの短檠に火を入れた。俯いた横顔は、その先を言葉にするのを躊躇っているようだった。
やがて、再び椅子へ戻った臣は深くうな垂れ、顔を両手で覆った。辛い記憶が蘇ってしまったようだ。
水紅はそんな臣の肩をぎゅっと握った。
「婚礼を…翌日に控えたその晩、泣き濡れる彼女を見かねた誰かが臣は戦地で散ったと――そう申し上げたそうです。それを聞かされた彼女は、刹那的に城の裏手へ走り、そのまま断崖の下に広がる海へと…身を投げてしまった。きっと私の後を追ったつもりだったんでしょうね。
その時、彼女は言ったそうですよ。同じ空の下にいられないのなら生きる意味がない、と――。
でも、それって…私の言葉でしょう?あの時、のこのこ彼女に逢いに行かなければ…。あの時、あんな言葉を吐かなければ…彼女は今も生きていたかもしれないんです」
臣は拳を握り締めた。
「知らせを聞き、急ぎ城へ戻ったときにはもう…葬儀も何もかもすっかり終わっていて彼女の姿はどこにも…。
罰せられている身でありながら勅命を無視し、恩赦として与えられた任務をも投げ出した私は、またそこで投獄されました。
今度こそ殺されると思いました。だが、それも望むところだ。だって、これでやっと楽になれるばかりか、彼女の元へだって行けるじゃないですか。
でも…そんなに甘くはないですね。すぐにヴィングブルクから私の身柄の引き渡し通告が来たそうですよ。同盟の切り札だったクラウディアを失い、途方に暮れていたゼノビアのルントシュテット卿にとって、そんなことであちらの気が済むのなら願ってもないことだ。
私はと言えば、別に…。どこで処刑されても同じですから、そんなことはどうでも良かった。
しかし、ヴィングブルクの王都で私を待っていたのは、絞首台でも断頭台でもありませんでした。またしても、大勢の民衆の好奇と厭忌の目。そして、忌まわしきあの焼き鏝…。ジークフリートは、私の顔を見て、やはりおまえかと笑いましたよ。以前――婚約の儀の時に、私は彼に食って掛かってますからね。どうやら顔を覚えていらしたようです。それにゼノビアでの一件も…なぜか全部ご存知でした。
結局、私は死刑なんかにはならず、数日に渡る鞭打ちと新たな惨刑の焼印。それから国外追放と近隣の立ち入り禁止…。それで事は済んでしまいました。済んでしまえば本当にあっけないものでした。
それからの一年は、ゼノビアを遥か離れた紗那の地で、イングラムに貰った傷と二つの印の痛み、胸の奥底に巣食う疼きや、どうにもならない呵責――ずっとそんなのと格闘しながら生きていました。それでもやはり、私にできる仕事なんか、傭兵や用心棒ぐらいしかなくて…。
利き腕が殆ど使えないままそんな仕事に従事したり、適当なその日暮らしの労働をしてみたり…。何だか呆然と、ただそこで生き恥を晒していました。そんな私程度が、たまたまふらりとこちらへ謁見に伺っただけで、あなたの目に留まってしまった。今でもそれが不思議なぐらいです」
水紅はぼんやりと潤んだ瞳を上げた。
「臣…。もしやイングラムは…姫を密かに慕っていたのではないか…?」
臣は小さく頷いた。
「ええ、多分。彼のクラウディアを見る目、やはりそういう類の目でしたよ。こちらだって気持ちは同じですから、見ていれば何となく分かります。それで復讐がしたいのでしょうね、恐らく」
「しかし、姫は自ら命を絶たれたのだろう!?それでは逆恨みではないか!!」
思いがけず水紅は、感情的な声を上げた。
今この目の前にある姿こそが真実の水紅皇子、その人――。
こうしてすべてを口にするまで、臣は何度となく迷ったのだ。
ありのままの過去を語ってしまったら、彼は臣を拒絶するかもしれない。これまで培ってきた信頼も、ずっと寄せてきた忠誠も、何もかもがなかったことになってしまうかもしれない…と。
だが、今の姿で改めて気付いた。
我が主・水紅皇子は、決して人が言うような冷血な人物でも傲慢な皇子でもない。断じてそんな方ではないのだ。
若いその胸に息づくは、儚くも脆い清浄の心。それを偽りの仮面で覆い、彼はここで生きている。
彼を守りたい。
このままの彼を、すぐ傍で見守っていたい。
誰にも穢させたりしない。
そう…。
今度こそ、きっと――。
こみ上げる思いに微笑み、臣はふっと肩を竦めた。
「そうなんですかね…?確かに私のせいで亡くなったとも言えます。実際、私だって自分が殺した――と、そう思っています。それに、結局ね…あの後、同盟はふいにされたんですよ。元々、私の身柄一つでなど収まる話ではなかったんです。同盟の破棄と同時に、ゼノビアはヴィングブルクに宣戦を布告され、瞬く間に歴史から消されてしまったそうです。彼は――イングラムは、一瞬のうちに愛する姫と祖国の両方を失ったんです。どう詫びても許してもらえることではない。ならばいっそ彼が望むまま殺されてやってもいいのかな…って、そう思ったことも正直ありました」
蘇ったものは、蘿月と対峙したあの日の苛立ち――。
「お、おまえ、また…っ!」
水紅は乱暴に椅子から立ち上がった。弾みで椅子がごとりと床へ転がる。
これほど感情を露にする水紅は珍しい。
嬉しかった。
胸の中にまた温かいものが湧いてくる…。
思えば、どことはなしに、篠懸の感情が湧き出す時と似ている。腹違いと言えど、やはり兄弟なのだな…と、臣はぼんやり思った。
「でも、今また水紅様が死ぬなと仰るなら死にません。死ねるはずなんかないですよ。こんな私でも、まだあなたが必要だと言ってくださるのならば。で、どうなさいます、この大罪人。思い切って今、解雇しておきますか?」
これまでの態度や口ぶりから本当は返答など分かってはいたが、わざと意地悪く尋ねてみる。だが、その空々しさは却って彼の臍を曲げさせてしまったようだ。
ぷいと拗ねた横顔に、思わず綻ぶ。
「さっさとその腕をしまえっ!」
いつも淡々としている彼が、まるで幼い子どものようだった。
言われるまま素直に身形を整えている間も、水紅はまだ憮然と下を向いている。そうして突然、ぱたん!と卓上の本を閉じると、水紅はぎゅっとその手を握り締めた。
「見ていないからな、何も。私は知らぬ!おまえの過去になど興味もない!!」
臣は声を殺して笑っていた。
なんだか嬉しくて仕方がなかった。
ああ…ようやく月が顔を覗かせたようだ――。
柔らかな月の明かりが部屋に差込み、窓辺を照らしている。
あの白い月気は、いつも辛い記憶ばかりを呼び起こす。贖罪すら叶わぬ我が身…。そして、数多の不幸の果てに、思いがけず手にしてしまった幸せな日々。
そのすべてが今、あの神聖なる光の下に晒されている。
こんな卑怯な生き方は許されない。
あの月は、ああして静かにこの身を裁いているのだろう。
数々の罪に濡れ、大勢の血に染まり、ついには愛する者の命まで奪ってしまった罪人の上に、いつまでも安息などあるはずがないと。いくら隠そうともすべてはここに刻まれている――きっとそう言っているに違いない。
月は…あの月はどこにあろうと、いつもそこですべてを見ていたのだから――。
(姫――。あなたをあれほど不幸にしておきながら、あなたの愛する祖国を奪っておきながら…。あろうことか、私はこんなに幸せです。これは罪ですよね。許されたことじゃないですよね…?こんなのは卑怯だと分かっていますけど…。でも、どうしましょう。今はまだ彼のために生きていたいんです。我が身の持てる力をすべて捧げてでも、どうしてもこの方をお守りして差し上げたいんです。
もう少し生きていても構いませんか?どうか、もう少しだけそこで待っていていただけますか…?)
密やかに臣は月を見上げた。