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月の雫 ―春霞の抄―  作者: 惠 悠冬(めぐみ ゆうと)
1/14

01//花の名を持つ少女

 その昔。


 楼蘭国と紗那国は一つの国であった。


 物語の発端は、今から七十余年前へさかのぼる。

 時の皇帝は、九代目の陽香ようが。即位の頃は御歳十八。若くして律令統治のいしずえを築き、都城・黄蓮に条坊制じょうぼうせいを整えた名君である。

 だが、そんな誉れ高き彼も、唯一子宝にだけは恵まれなかった。この若さでは無理も無い。


 治世わずか五年余り。

 若すぎる皇帝の突然の崩御――。


 青天の霹靂へきれきが、長く燻り続けた二大執権家の対立を激化させた。


 当時、左の執権と呼ばれた紗那(後の紗那国・初代国王)は、『国家の繁栄は先端技術の発展なくては成し得ず』と説き、産業からまつりごとに至るまであらゆるシステムの近代的改変を唱え、中央高官から地方貴族といった上流階級層の力強い支持を獲得した。

 一方、右の執権・蒼緋はこれに反対。『国力は民の知恵と努力によってのみ育まれる』と訴え、有産階級者に数で勝る下層民衆の熱烈な支持を得た。

 これら二つの勢力を巡る争いは日ごと激しさを増し、やがては互いに武力の蜂起を決意させるに至った。豊かだった帝国は一転、争いの業火に巻かれたのである。


 そうして数年。


 戦という大火は、更なる争いと数多の悲劇を生んだ後、ついには楼蘭国そのものを真っ二つに引き裂いてしまった。


 同じ起源を持ち、同民族でありながら、別々の国家となってしまった楼蘭と紗那。しかしその一方で、この国の分割という一つの結論が、長岐の戦に一応の終止符を与えたのは幸いと言えよう。


 先の見えぬ争い。

 失われた数多の命。

 血塗られた歴史。

 そして、尊い犠牲の上に訪れた平安――。


 戦乱の歴史はようやく終わりを告げ、ついに平和という光が差したように思われた。


 しかし実際は、たもとわかった後も争いの炎は消えたわけではなかった。争いの矛先は、兵の増強や軍備の拡大へ向けられ、一触即発の危機はこれまで同様に――いや、これまで以上の規模で潜在し続けたのである。


 日々、二つの国は互いの懐を探りつつ、時に手を結び時に牽制しながら、辛うじて表向きだけの平穏を保っていたのであった。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 初春のある晴れた日のこと。


 宵もそろそろ近づくころ、楼蘭国第三皇子・篠懸すずかけを乗せた黒漆塗りの牛車は、予定よりもやや遅れて天飛山の峠に差し掛かった。


 一行いっこうが目指すは国境の集落・如月きさらぎである――というのも、ここ数か月もの間、この皇子がたびたび原因不明の発作に苦しめられていたためだ。

 これまでにも、国中の名高い医師が内裏へ呼ばれ、幾度となく治療を試みたが、どの医師も原因を特定するには至らず、故にむ無くこの地に住まう祈祷師の神力に縋る運びとなったのである。


 太古から呪術や占術が息づく楼蘭国で、病人に対してこういった措置をとることはそれほど珍しいことではない。ここでは、科学的に解明できないものには非科学的な力を用い、非科学的手段で解決できぬ事象は科学の力をもって究明する――といった具合に、一見相反するもの同士がそれぞれの力と領域を認め合うことで、いわば一つ屋根の下に同居しているのである。


 まさに今。


 薄暮はくぼ小径こみちを、わずか数名ばかりの御許おもとを従えた牛車がおごそかに進み行く。艶やかな黒漆くろうるしの屋形が、その縁を彩る金細工を夕陽にきらめかせる光景は、あたかも一枚の絵を眺めるような鮮やかさを放ち、萌える新緑に雅やかに映えていた。


 陽はうに傾きかけていた。


「皇子様、じき陽も暮れます。少し風が冷たくなって参りましたので、すだれをお閉めになったほうが」


 傍らに従う若い男が囁いた。皇子の一の側近であり、彼専属の教師である。


「うむ、そうしよう…。それにしても、如月の里とやらはずいぶん遠いのだな、しゅう

「!」


 『愁』と呼ばれた教師から車内の篠懸の姿はまったく見えない。それでも愁は、主の声色にごく微かな変調を感じたようであった。


「皇子様、今しばらくご辛抱を」

 短く言い置いて足早に隊列を追い越した愁は、先頭を歩く近衛・堅海かつみの耳元へ何事かを命じ、程なくして一行は静かに歩みを止めた。


 そうして愁は――。


「失礼します!」

 言うが早いか牛車へ飛び乗り、簾を一気にめくり上げた。


「……」


 果たして、おわす皇子はまだほんの少年なのであった。


 年の頃は、十二、三といったところであろうか。あおみがかった銀の髪に、折れそうに華奢きゃしゃ身体からだ。そして、青白く透けるが如き繊細な肌――。

 それでも、その幼い顔立ちには、涼やかな気高さが確かに備わり、皇族らしい気品を遺憾なくうかがわせる。


 篠懸皇子は、細い腕で白磁はくじの頬を支えながら、牛車のへりに寄りかかっていた。


「さ、どうぞお気を楽に」

 ひざまずいた愁が懐から取り出した小さな包みは白い粉薬が入っており、気分を落ち着ける作用がある。ぐったりとしな垂れる肩を慣れた手つきで抱き起こし、背後の供人ともびとから水の入った器を受け取ると、愁は皇子に薬を飲ませてやった。


 小さく喉を鳴らして水を含み――。


「よく分かったな」

「ええ、分かります。もう何年もお世話させていただいておりますから」


 ようやく篠懸は深いため息をついた。


 遠くの空を、かぎに連なった雁がゆく…。


「もう暫くここで休みましょう。先ほど先方へ使いを遣りましたから、少々遅れても問題はありません」

「そうだな。少し…外の空気が吸いたい」


 そっと手を取り、愁は皇子を山路へと導いた。まだ少し優れぬのか、おぼつかなげな足取りが見守る者の眼差しを不安にさせる。


 やがて。


 ささやかな風に触れ、夕焼けを仰いだ皇子の頬は、ほんのりと朱色に染まった。歳のわりに小さな爪先――それがそっと大地に触れた途端、一斉にくつ音が響き、供人らはその場に平伏したのであった。


「ああ、どうか皆、楽にしてくれ。出先でさえその調子では、こちらも肩が凝って仕方がないからな」


 照れくさそうにはにかむその姿に、空気がふわりと和らいでゆく心地がした。ここに控える者のみならず、山の木立も下草も、皆の髪をくすぐるそよ風さえも――。


(ああ、篠懸様…。本当にこの方は、何と素晴らしいお方なのだろう…)


 まだあどけないこの皇子に、かねてより愁は他の皇族らとは異なる何かを感じていた。いや、愁だけではない。恐らくは、ここに控える誰もがそうだったことだろう。


 なぜか。


 それは、この国において高位の者が下々に対してこのような気配りを示すなど、あってはならぬことであるからだ。特に、彼のような皇族や高位の貴族が、召使いや下人といった下賤げせんと馴れ合うなど、卑しむべき行為とされている。


 だが、そんな風潮の只中に身を置きながら、なぜか篠懸は、自らよりもまず他の者を思いやる心をごく当たり前に備えていた。目上の者であろうと目下の者であろうと、彼の態度に隔てはない。

 貴族連中の中にはそんな篠懸を嘲笑し、「これだから庶民出の妾の子などは…」と陰口を叩くやからも大勢あると聞く。それでも、そのすべてを承知しながら篠懸が自らの姿勢を崩すことはなかった。


 そして、専属の教師として篠懸のお目付け役を仰せつかっている愁は、学問のみならず、皇族たる立ち振る舞いや心構え、各般の作法に至るまで、あらゆることを彼に身につけさせねばならなかった。つまり、立場上彼は、この篠懸の威厳に欠ける行為を改めさせるべきなのだ。


 しかしながら、いまだ愁にはそれができずにいる。


 それは、無闇に権威を振りかざし、自尊心ばかりを重んじる皇族の在り方に、愁自身がずっと疑問を抱いていたため――そして、篠懸が頑なにたもち続けようとするこの心こそが、今の楼蘭国の指導者に必要不可欠な心だと、堅く信じていたためであった。


 ある時、そんな胸の内を打ち明けると、篠懸は朗らかに笑ってこう答えた。


「そんな大げさなことではないよ。ただ、私のことを大切にしてくれる皆のことを、やはり私も同じように大切にしたいと思っている。それだけさ」


 さて――。


 この篠懸の母親で三番目の后でもあるあずさは、ある商家の娘であったが、忍びで都を訪れた現皇帝・蘇芳すおうに見初められ、まずは妾として宮中へ召し上げられた。

 この時、蘇芳には既に二人の后があったが、彼はことのほか梓に寵愛ちょうあいを注ぎ、挙句、周囲の反対を押し切って強引に第三の后にしてしまった。


 これら三人の后には、それぞれ息子が一人ずつあった。


 梓の忘れ形見で、最も末の皇子である篠懸には、当然ながら皇位継承権などありはしない。世継ぎは、第一の后・白露はくろの息子、水紅ときである。

 それでも愁は、良き君主の資質を秘めたこの篠懸こそが世継ぎにふさわしい人物だろうと考えていた。無論、それは彼一人の願いに過ぎないが…。


 ぼんやりとふけりながら愁は、御許らと和やかに語らう皇子の姿を見ていた。

 今、この胸に湧く温かな想いは、まだ幼い彼を守り育む使命を与えられた自らへの喜び。篠懸という尊い皇子に付き従う、側近としての誇りに相違ない…。


 ふとほころんだその時。


「愁!!皇子様を…!」


 堅海の声に振り向けば、子連れの大きな獅子イノシシが、じっとこちらを睨んでいた。この季節に子育て期に入る天飛の獅子は、気が荒く神経質で、時として天敵であるはずの人をも襲うという。


 咄嗟とっさに愁は、篠懸を庇って立ちはだかった。こめかみを嫌な汗が伝う。


「皇子様、このままゆっくりと堅海の元へ。くれぐれも音をお立てにならぬよう」

「わ、分かった…」


 深紅の瞳をぎらつかせ、獅子は威嚇を続けていた。激しく蹄が叩き付けられるたび、緊張と土埃が濛々(もうもう)と立ち上り、周囲を白く包んでゆく。


 皇子の身柄を部下に預け、改めて短槍たんそうを構えた堅海は、身を低くして側面からゆっくりと獅子に近付いていった。


 とにかく今は、皇子から注意を逸らさねばならぬ。


 こうして武器を携えた人間てきに奴が素直に恐怖してくれるなら――そして黙って山奥へ退いてくれるのであれば深追いはすまい。


 だが、もしも人と交えようというのであれば――。


 ぐっと眉を結び、槍を握り直したその時、ついに獅子は堅海を見た。


 ところが。


「!!!」


 一瞬何かにびくりと身を震わせたかと思うと、なぜか獅子は向き直り、愁めがけて地を蹴ったのである!


 とどろに猛進してくる獣をしっかりと捉えながら、完全に竦みあがった愁の足はひたすらに凍り付き、もはや自由にはならない。


 全身の血が引いてゆく。痛むほどの強烈な鼓動が、どくどくと闇雲に胸を打ちつけている。


「愁!!」

 弾けるように叫んで、すぐさま堅海は駆け出した。だが巨大な獅子の足は思いのほか速く、とても間に合いそうにない!


 ともの静止を振り切り、篠懸もまた愁の元へと走った。


 悲鳴が木々の狭間をこだまし、怒涛どとうの地響きが迫り来る。


 もはやこれまでか――!!


 ……。


 ………。


 刹那。


「……?」


 一体何が起こったのか誰にも理解できなかった。


「お怪我はありませんか?」


 小鳥のさえずりを思わせる朗らかな声に我に返った。見れば、ひどく小柄な少女が、愁の腕をしっかりと掴んでいる。


「き…君は…?」

「……」


 少女は答えず、代わりに人差し指を唇に当て沈黙を求めると、ふわりと柔らかな微笑みを浮かべた。


 それでも、今しがたそこを駆け抜けていったばかりの獅子は、再び向きを変え、なぜか執拗に愁ばかりを狙うのである。まだまだ予断を許さぬ状況だ。


 ところが、少女はひらりと前へ躍り出て――。


「さあ、森へお帰りなさい」


 両手を広げ敵意のないことを示すと、あろうことか少女は獅子へ向かって歩き出した。


 一歩。


 また一歩…。


 ゆっくりとした足取りで、少女は間を詰めてゆく。


「い、一体何を…!!」


 誰もが息を呑んだ。


 その一方。


 たぎる獣は一向に落ち着く気配を見せず、この次こそは仕留めてくれようと、けたたましく地を掻きながらこちらの隙を窺っていた。


「危ない…!やめなさい!!」

 愁はありったけの声を絞ったが少女はまるで耳を貸さず、慎重かつ確実にその距離を縮めてゆくのである。


「いい子だから森にお帰り。誰も傷つけたりはしないから――」


 と――。


 まもなく獅子は地を蹴って、再び突進を開始した。


 今、獅子の行く手には、少女がただ一人。ところが、少女はまったく逃げようとしない。そればかりか、なんと少女までもが獅子目掛けて地を蹴ったのである。


「!!」


 堪らず目を覆う。誰もが最悪の事態を予想した――。


 ぐっと狙いを絞り、堅海は槍を振りかぶる!


 瞬くほど僅かな切迫の瞬間とき


 ガツン!


 鈍い衝突音がして、立ち上る砂煙に視界一面が覆われた。


 果たして少女は…!?


 ――やがて。


 薄れ始めた砂塵の向こうに、誰もが目を疑った。


 何ということだろう。

 背の丈たった四尺半(約百三十五センチ)ほどのあの少女が、自らの数倍を優に超える大獅子を、易々と素手で押さえ込んでいたのである。


 両牙を掴まれ完全に自由を奪われた獅子は、相変わらず猛り狂っている。それでも、そうしてもがいているうちに、獅子は少しずつ落ち着きを取り戻し始めたようだった。


 そうして、ややあって――。


 少女がそっと首筋をくすぐってやると、あれほど忘我に狂っていた獅子はまるで子犬のように頬を寄せ、気持ちよさそうに瞼を細めるのであった。


「はあ…まったく…。何という娘だ…」


 そこかしこからため息が漏れ、ようやく緊張から解き放たれた篠懸もまたへなへなとその場にへたり込んでしまった。


「み、皇子様!?」

 あたふたと駆けつけた愁に微笑んで、篠懸は自身の無事を告げた。


 だが、それも束の間。


「愁!!おまえ、怪我をしているじゃないか!」

 篠懸はぎょっと目を剥いた。


 見れば衣の腿の辺りが裂けており、うっすらと血が滲んでいる。獅子が掠めていったらしい。


「ああっ!?ち、血が!あの…っ、大丈夫ですか!?」


 血相を変えた少女が駆け寄った頃にはもう、あの獅子の親子の姿は消えていた。


「あ…。そ、そなたは一体…?」


 戸惑う篠懸の前に、少女がふわりと跪く。


「はい…。名を紫苑しおんと申します。如月の遊佐ゆざ様にお仕えする者にございます」


 一行の到着があまりに遅いので、心配した遊佐がどうやら迎えとしてこの少女を遣わしたらしい。


 いつしか辺りはすっかり闇に覆われ、一行は柔らかな月灯りに照らされている。


「如月の里は、もうすぐそこです。ここから遊佐様のお屋敷まで、紫苑がご案内いたします」


 ぺこりとお辞儀をして、紫苑はそそくさと愁の左側へ回った。


「あの…ちょっと背丈が足りないかもしれませんが、よろしければ紫苑に掴まってください。紫苑はとても力持ちですから、遠慮なさらなくても平気です」

 言うやいなや愁の手を取り、紫苑は先頭に立ってさっさと歩き始めた。


 そして、一方――。


 牛車に揺られながら、篠懸はこみ上げる笑いと必死に格闘をしいた。華奢ながら、決して小柄とは言えない愁を支えて歩く小さな少女の姿が、簾越しに見えていたからである。そして、そんな少女の付き添いを、何とか丁重に断ろうと四苦八苦している愁の姿も。


「紫苑――。花の名前か…」


 ふと、独りごちる。


 澄んだ空に丸い月がぽっかりと浮いている。冴え冴えとした夜風が、肌に心地良い。まこと鮮やかな清夜である。


 ゆっくりと瞼を閉じれば、今しがたの戦慄の出来事や不思議な少女との思いがけぬ出会い――そんなすべてが、またありありと脳裏を巡る。


 ああ、思い返すだけでまた胸がどきどきする。

 宮中での退屈な日常の中では、こんな心地は感じたことがなかった…。


 うっとりと息をつき、篠懸はまた声を潜めて笑った。


 治療だ何だと理由をつけて、たらい回しにされた挙句のこの旅に、正直何の期待もなかったけれど、なぜか今度だけは、自らを変える特別なものになりそうな気がしてならない。


 そして篠懸は再び目を閉じた。

 そのまま心地良いまどろみの中へ堕ちてゆく…。


 道端では、薄紫の紫苑が春風に揺れていた。

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