未来日記
Ep.1 遭遇
日曜日の昼というのは、大変素晴らしいものである。
澄んだ青空を背景にゲームをしていても、録りためたアニメを見ていても、特に何もせずごろごろしていても、誰からもお咎めをうけない。
俺はひとり、パーフェクトタイムを満喫するため、悠々自適にパソコンを開き、お気に入りの動画サイトのランキング表示を眺めていた。
二十七歳、彼女なし配偶者なし。かつての高校の同輩のなかには、もう子供が生まれたというおめでたい事態になっている者もいるが、二十七年間生きてきて、他人を好きになったのは一度だけ、告白された経験などというものはもちろんない俺にとっては、縁のない話だ。周りから気を遣われるこの事実、俺はあまり気にしていなかった。
学生時代、休日すらも勉強に費やさなくてはならなかった俺にとって、社会に出てからの日曜日の昼というのは何にも替えがたい、とても稀少且つ貴重な時間である。この時間を家族や恋人などに盗られて堪るか……などというと周りにはやせ我慢だと言われてしまうのだが、俺は本当にそう思っている。別に、明後日訪れるクリスマスを危惧などしていない。
現に今日、俺は朝から夢のような生活を送ってきた。そう、送ってきたのだ。送ってきたはずだった。だがしかし。
俺の夢は、けたたましく鳴り響くインターホンによって覚まされてしまった。
「……しつこいなあ。」
かれこれ五分は連打されているだろうか、これでは物事に集中することなどできやしない。
俺は溜息をつきながら立ち上がり、ドアを開けた。
「はい、どなた……」
「嫁です!」
部屋を間違えたようだ。
「ああーっ、ちょっと!なんでドア閉めるんですか!私ですよ、嫁ですよ!」
「誰だよ!」
「嫁です!」
昨今の日本では、オレオレ詐欺ならぬ嫁嫁詐欺でも流行っているのだろうか。だとしたらやはりこの国はどこかがおかしくなってしまっている。俺は一瞬、本気で国外逃亡を考えた。
「聞いているのは俺との関係性じゃない、お前の名前だ!」
「名前ですよこれ!私の名前!」
「俺の友人に嫁なんて名前のやつはいない!」
「しらを切らないでください哲人さん!」
おや、と俺は怒鳴るのをやめた。俺の名前を一発であてられる人はそう多くない。間違わずに読んだということは、俺が忘れているだけで本当にどこかであったことのある子なのだろうか。
「……どうやら、部屋を間違えたわけではなさそうだな。どうして俺のことを知っている?」
「どうしてもなにも、一緒に青春を送った仲じゃ……ひょっとして、私のこと覚えていないんですか?」
一気にドアの向こうの声が暗くなった。慰めてやるべきかもしれないが、ここはやはり変な期待を持たせないためにも、現実を突きつけてあげた方がいいだろう。
「申し訳ないけれど。」
そもそも俺は青春と呼ばれる時期の間、ずっと男子校に通っていた。今でも女性免疫がほぼないこの俺に青春時代をともにした女の子などいるわけがない。
どう納得してもらうかを考えていると、何やら外から彼女が呪文のように何かを呟く声が聞こえてきた。
「……好きな食べ物はシフォンケーキ、嫌いなものは虫。家事は一通りできるが、部屋の整頓が苦手。身長は哲人さんより十センチ低い。何もない道で転ぶ。運動音痴。」
どこかで聞いたことがあるプロフィールだ。いや、違う。いつだったか俺が考えた、ような。
「周りの人間からはしっかりものだと思われているが、本当は間抜け。水たまりに入って跳びはねるなどの幼い行動を見せることもある。」
なぜだろうか、ずっと前……中学生くらいの時に大好きだった二次元の女の子の説明文に酷似している。
「好きな人に対しては執着しがち。気分の浮き沈みが激しい。」
あの女の子は確か……。
「俺が創った、俺の嫁。」
俺は頭を抱えた。
そうだ、このことを覚えていなかったわけではない、正直に言ってしまえば、最初から予感はあった。
「……思い出しました?哲人さん。」
「…………あまり、思い出したくはなかったけどね。」
「私は嬉しいですよ?私の創造主が私のことを覚えていてくださって!」
そう、こいつは、俺がはるか昔に創ったオリジナルキャラクター、【俺の嫁】だった。
「哲人さんのおうち、物がいっぱいですね!」
俺の家のリビングをきょろきょろと見回しながら、こいつは笑顔で俺に話しかけてきた。
「趣味のものが多いからな、そもそもスペース狭いし。……はい、これ。」
小さなちゃぶ台に二つ、湯呑を置く。
ありがとうございます、とそれを受け取ったこいつは、あまりの熱さに目を白黒させていた。彼女には悪いが、少し面白い。
俺は湯呑みに口をつけつつ、ずっと気になっていたことを訊ねることにした。
「それにしても、一体なんでまた三次元化なんて……。」
「決まっているじゃないですか、三次元の方が都合がいいからですよ。」
「都合がいい?」
こくり、と嫁は頷いた。
「だって、平面のままじゃあなたに触れることも、あなたとこうしてお喋りすることもできない。それに……」
次の瞬間、俺の身体に何か重さと温もりを持った、柔らかい物体が被さってきた。
「……こうして、抱きしめることもできない。」
……どこでこんな積極性を身に着けてきたのだろう。設定か、設定なのか。
俺は心の中で、十五年前の自分に親指をたてた。ナイス俺。
しかし女性に免疫のない俺がその状態を保っていられるわけもない。無理やり引きはがすと、こいつは不満そうに口を尖らせ、もう、と小さく文句をもらした。かわいい。
「……で、お前どうするんだ?」
「何がですか?」
「今後だよ。」
うーん、と唸る嫁。何かないのか、と眺めていると突然、彼女はパッと顔をあげた。
「ちゃんとした名前が欲しいです。」
「名前?」
そういえば、こいつの名前を考えていなかった。彼女は名前のないまま、とても長い月日を過ごしてきたということか。あれだけ設定を付与しておいて、なぜ俺は名前を決めなかったのだろう。俺はさっき立てた親指を百八十度回転させた。
真剣なまなざし。俺もこのまっすぐな気持ちに応えたい。俺は彼女の瞳を見つめながら、正座した姿勢を保ったまま俺は考え続けた。
足の感覚がなくなってきた頃。俺はようやく一つ、良さそうな名前を思いついた。
「……和美、とか?」
かずみ、かずみ、かずみ、かずみ、かずみ。五回ほど反復したところで、彼女は満開の向日葵もびっくりの笑顔を俺に見せた。
「いいですね、素晴らしいです!ありがとうございます、和美、嬉しいです!」
「……そんなに喜んでくれるなら、俺も考えた甲斐があったよ。」
かずみ、かずみと節をつけるようにして呟きながら部屋を歩き回るこの女の子は、とても年相応には見えない。見た目からして二十歳、俺が当時考えた設定からすると、今こいつは俺と同い年の二十七のはずだ。この行動の幼さからして、本物の【俺の嫁】実体化バージョンなのだろう。
だとしたら、本当に守らなくてはならない。俺が生みだしてしまった人間だ。責任は取るべきだろう。
と、すると、色々と問題が浮かび上がってくる。例えば、資金。住居はここでいいとしても、俺の稼ぎではこいつを養うことなどできそうにない。
少し考えて、俺は一つの可能性に行き着いた。
「……で、俺に泣きついてきたっていうわけか。」
腕組をしながら俺に上から目線で話しかけてくるのは、俺の大学時代の友人である笹川だ。あの時、頭の中に浮かび上がってきたのは、顔、中身ともにイケメン且つ収入もイケメン な、笹川の存在だった。あいつならなんとかしてくれる。俺はそんな予感を元に、彼の元にお伺いをたてにきたのだ。
「笹川、この通りだ。頼む!彼女がしっかり暮らせるくらいの量の金でいいんだ。俺に貸してくれやしないか?」
「大の大人がしっかり暮らせるほどの金をホイホイ渡せるわけないだろ……あのなあ、岡林。無理なものは無理だ。第一その、嫁とかいう女。本当に信用できるのか?」
「しんよう?」
うまく脳内で処理できなかったそれは、俺の口から片言となって飛び出した。
「そうだ。……そもそもなんで、そんな素性の知れない女を家に置く気になったんだ?君らしくもない。」
素性の知れない女。
彼の薄い唇から発されたその言葉は、耳に痛かった。
確かに現在、彼女が本物の嫁であることを示す証拠は何一つない。しかし、だけど、それでも。
「……本物だよ。あいつは本物の嫁。そもそも、俺の嫁の設定を知っている人は、この地球上に俺一人なんだ。もしかしたら、設定を書いたノートを覗き見されたことくらいはあるのかもしれないが、あそこまで細かく暗記出来る人なんてそうそういない。それに、詐欺の被害に遭うには俺は収入が低すぎる。」
笹川くらい高収入ならわかるんだけどな、と俺は心の中で自虐した。
「収入が低いからと言ってターゲットにされないわけじゃない。詐欺にしては手が込み過ぎている気もするが、可能性としては捨てきれないぞ。もしかしたら詐欺とかではなく、ただ頭のおかしい人がたまたまお前の嫁っぽい行動をとっているだけかもしれないし……」
「違う。」
俺の低い声に、笹川は一瞬怯んだ表情を見せた。
「あいつは俺の嫁だ。俺にはわかる。」
俺は創造主だぞ。わからないわけがない。直感にすぎないと言われればそれまでだが、俺の勘は比較的よく当たる方なのだ。
俺は相手を射抜くような目で笹川を見つめた。彼はしばらく真顔で俺と向き合っていたが、やがて耐え切れなくなったように笑い出した。
「いいね、いいね!流石俺の親友だ。いいよ、金は貸してあげよう。いや、むしろあげるよ。いくらでも持っていっていい。ああ面白い、うん。いいな!」
晴れやかな顔で頷く笹川。なにがよかったのかはいまいちわからないが、これで資金調達は完了したことになる。
「……ありがとう、笹川。」
「そんなに頭下げなくていいよ。それよりその嫁っていう子、やっぱりかわいいんだろ?今度会わせてくれよ。」
他の男だったら嫌だ、と即答していたのだが、笹川には今借りが出来てしまった。これは会わせるしかなさそうだ。俺は心の中で舌打ちをした。
「時期も時期だし、サンタクロースのコスプレとかさせてほしい。ミニスカサンタ。」
前言撤回。こんな奴とあいつを会わせて堪るか。
Ep.2 反逆
「……ひとつ質問をしてもよろしいですか。」
「許可しよう。」
夕飯後の団欒タイム。俺はここ二週間、飲み会を全て断り、仕事を早く終わらせて定時にあがるようにしている。間抜けなお前をあまり一人にはしておきたくないという風に和美には伝えてあるが、彼女と少しでも長く一緒にいたいというのが本音だ。ちなみに笹川にこのことを話したら、にやにやしながら俺の肩をバシンと叩いてきた。イケメンは非イケメンを揶揄うのがお好きらしい。
一方、専業主婦として働くこいつは、段々とこちらの世界に慣れてきたようだった。のだが。
「……なぜ私が料理を作ると全て真っ黒になってしまうのでしょう。」
神のお思し召し……?と首を傾げる和美に、そんなことはないだろうとツッコみをいれる。
そう、彼女は料理が極端に下手なのだ。所謂、メシマズ嫁。俺も和美が俺のために心を込めて作ったという事実が無ければ、やつらを胃袋ではなくごみ袋に入れている。
できないものは仕方ない、と言うと、和美は虚ろな目をこちらに向けた。
「私が馬鹿なせいですかね……。」
塞ぎ込みそうになった和美に、それは違うと否定の言葉をかけた。どじっこ属性を付与したのはそもそも俺だ、責任をとる覚悟だってある。ただ、毎晩夕飯が異様に苦いのだけは勘弁してほしい。だから、俺は家事の分担を提案した。
「俺、料理できるからいいよ。和美は洗濯だけして。掃除も俺の方が得意だし。」
なんて家庭的な男なんだ、これはモテてしまう。でも俺は和美以外の女と付き合う気はない。いやあ困ったなあ。
脳内でハーレムを形成してデレデレしていた俺だったが、彼女の瞳にみるみる溜まっていく涙を見、口元を引き締めた。俺は何か、まずいことを言ってしまったのだろうか。
「…………哲人さん、ひどいです。」
「えっ?」
「……わたし、がんばってるのに。哲人さんにおいしいご飯食べてもらいたくてがんばってるのに。」
ひどいです、と連呼しながら泣きじゃくる彼女を見て、俺はようやく自分の過ちに気が付いた。
自分の額を、和美の額と合わせる。こうされると安心する。というのは俺がこの二週間、異様に積極的な彼女から学んだことだ。
こんなことで彼女の気が休まると思ったわけではない。ただ本能的に、なにかをしなければと感じた。
「……ごめん。」
背中に手を回そうと、手を動かした、その時。
「…………もういいです。哲人さんなんて知らない!」
そう叫んで彼女は、家を出て行ってしまった。
……家を出て行ってしまった?
「……まずい。」
俺は鍵とスマートフォンをひっつかみ、ダッシュで家を出た。
あの世間知らずな娘がもし路地裏にでも迷い込んでしまったらどうしよう。俺の住んでいる一帯は、お世辞にも治安がいいとは言えない。それに、道も複雑だ。あのどじっ子が生きて帰れる確率はゼロに等しい。
「早く見つけないと……!」
ネオンが光る街中を走り回る。特異なものを見るような目で見つめられもしたが、この際そんなことはどうだっていい。実際特異だ。スウェット姿で一月のネオン街を駆け巡る三十路男。俺が傍観者なら、思わずスマホを取り出してSNSを開いてしまうだろう。
探すこと二時間。彼女はどこにもいなかった。家に帰っているかもしれない、というわずかな期待を背負って家もくまなく探してはみたが、やはり彼女はいなかった。
「一体、どこに行きやがったって言うんだよ……。」
俺は頭を抱えた。事件に巻き込まれたのかもしれない、事故に遭ったのかもしれない。実体化して二週間でそんなの、惨すぎる。
俺が、あんなことを言ったからだ。足に力が入らないのは、走り過ぎたせいだろうか。それとも。
落胆している俺を励ますように、右隣にある携帯電話が鳴った。
「……はい。」
「岡林、俺だ。今ちょっと来られるか?」
電話の主は恩人である笹川だった。
「いいけど……なんで?」
本当は全くよくない。しかし、今闇雲に彼女を探したところで、見つかるとはとても思えなかった。
「ちょっと、お前にしなくちゃいけない話があるんだ。三十分後くらいに来てもらえると助かる。」
「オーケー、わかった。三十分後だな。家を出る時にまた連絡するよ。」
液晶をタップし、通話を終了させる。放り投げたスマートフォンはソファーの上に、ぱたんと音を立てて着陸した。
あいつからの電話だろうか、という期待をしなかったわけではない。しかし、あいつは携帯電話など持っていない。持たせてもいいのだが、あいつのことだ。変なサイトにアクセスしたり詐欺に引っかかったりする可能性が高い。それに、今まで携帯電話を必要とする場面などなかったのだ。
携帯電話、持たせておけばよかったな。
俺はそんな後悔を飲み込んだ。
午後十一時半。俺は笹川のマンションの前に立っていた。
それにしても、笹川のマンションはいつ見ても立派である。昔の特撮映画に登場する怪獣よりも背が高いのではと思えるような大きさや、オフィスのように設備の整ったロビー階。大理石でできているらしい床は優しい輝きを放っており、管理人と思わしき女性も、物腰柔らかだ。耳の遠くなってきた大家が毎朝箒で雑に木の葉を掃いているだけの俺のアパートとは大違いである。
四、一、七とボタンを押し、インターホンを鳴らす。どうぞー、という楽しげな声をバックに、俺はマンションの中へと入った。
鍵かけてないから勝手に入って来い、という笹川からの言葉を思い出しつつ、俺はがちゃりとドアを開けた。
「お邪魔しまー……和美!?」
そう、そこにいたのは、俺の最愛の嫁、和美だった。
気まずい沈黙。それを破ったのは、やはりイケメン笹川だった。
「俺が岡林のところに様子見行こうと思ったら、ばったり階段で和美ちゃんと出くわしてさ。目ぇ真っ赤に腫らしてるもんだから、俺の家に連れてきたんだ。勝手にすまんな。」
あはは、と乾いた笑いが彼の口から洩れ、消えた。
俺はと言えば、そのことを黙っていた笹川と、勝手に家出をした和美、そして何より、自分が無神経なことを言ったせいで起きた騒動であるのにもかかわらず、俺以外の人間に腹を立てている自分自身に憤りを覚えていた。
そんな俺の雰囲気を察したのか、和美が固く結んでいた口を開いた。
「……家出して、ごめんなさい。」
またもや沈黙。ここで「いいよ」などと言って許してあげられるほど、俺は人格者ではない。
「なんで家出なんかしたんだよ。俺、いつも言ってたよな?嫌なことがあったら、勝手に怒らないで俺に言ってくれって。」
「……はい。」
「そりゃあ、俺だって悪かったさ。お前に対して無神経なことを言ったとは思ってるし、反省だってしてる。でも、なんで家出したんだ?もっとほかに方法はあっただろう?」
「…………はい。」
消え入りそうな声。やめなければ、やめなければとわかっているのに、やめられない。DV男というのはこんな気持ちなのだろうか。俺は脳の片隅で冷静に、そんなことを思った。
「ここら一帯の治安が悪いのはお前だって知っているはずだ。それなのに、なぜ無計画に家出なんかした?今回は笹川がたまたまお前を拾ってくれたからよかったものの、こいつがいなかったらお前は暴行を受けていたかもしれないんだぞ?」
「………………はい。」
泣きそうな顔の和美。それを見て、また俺の苛々は加速した。
彼女にまた説教を垂れそうになった俺を制止したのは、笹川だった。
「もうやめてやれ。」
いつになく強い口調の彼に、俺は口をつぐんだ。
「和美ちゃんだって、お前が憎くてやったことじゃない。許してやれ。」
「……なぜこいつの肩を持つ。」
「肩なんて持っていない。俺は事実を述べているだけだ。……和美ちゃんへの説教は、俺がもうした。きみは説教より前に、やるべきことがあるだろう?」
だんだんと、幼い子に語り掛けるような優しい口調になっていく笹川。これは彼が相当怒っているというサインだ。謝らなければ命が危うい気すらする。
笹川の優しい声に背中を押された俺は、彼女に謝罪することを決意した。
「……すまん、和美。酷いこと、言った。」
「……はい。」
「…………嫌いに、なったか。」
「こんなことで?……なるわけないでしょう。」
なんのために、わざわざ実体化したと思っているんですか。
真っ赤な目を擦りながら微笑む彼女は、とても頼もしかった。
あれから二週間。
「和美、料理格段にうまくなったな。」
毎日毎日笹川の元へ通い、料理を教えてもらっていた和美は、この短い期間ですさまじく腕を上げていた。
「えへへ、でしょう?もう俺の方がうまいなんて言わせませんよ。」
だから悪かったって、と言うと、冗談です、と返事が返ってきた。
「……笹川のところに通うのは、もうやめてほしいんだけどな。」
聞こえないように呟いた台詞も、地獄耳の彼女には聞こえていたようだ。皿洗いをしていた手を止め、和美はこちらを向いた。
「なぜです?」
「……迷子になりそうで心配だからさ。」
Ep.3 休日
「ペンギンが見たいです。」
彼女がそう言ったのは、俺が深夜のバラエティ番組を惰性で見ながらゴロゴロしている時であった。
「ペンギン?お前、ペンギンなんて好きだっけ。」
和美は何も答えず黙って新聞の隅っこを指差した。そこには【空飛ぶペンギン】の文字。なるほど、広告に触発されたという訳か。水族館よ、君の出資は無駄ではなかったようだ。
「いいよ、行こうか。」
思ったよりあっさりオーケーが出たことに驚いたのか、和美は数秒、きょとんとした顔をキープしていた。
「……一緒に行ってくれるんですか?」
「当たり前だろ。お前を一人で外に出すつもりはないよ、俺。」
ましてや水族館などという人の多そうなところは尚更だ。ナンパでもされてしまった日には、俺は失神してしまうかもしれない。
和美は顔を輝かせ、俺に抱き着いてきた。
「私、私……嬉しいです。ありがとう、哲人さん。」
「い、いや……水族館位一緒に行くよ。」
「哲人さん、出不精だから来てくれないかと思いました。」
なるほど。だから今まで一ヶ月半、一度もデートのお誘いが無かったのか。俺は、彼女に要らない気を遣わせていたことを反省した。
「……ごめんな、そんな風に思わせて。」
和美をぎゅっと抱き寄せる。彼女が腕の中で、ふふんと笑った。
「いいんですよ。……おかげで、デートに特別感が生まれました。」
にかっと笑う彼女は、やっぱりとてもかわいらしかった。
デート当日。二月というだけあって、外はなかなかに寒い。
ダッフルコートを着用し、もふもふだとはしゃぐ和美を眺めながら、俺は家にカメラを忘れてきたことを後悔した。
「魚って切り身で泳いでるんじゃないんですね。」
「切り身は魚を切った身だからな。泳いでるのは、切られる前の魚たちだよ。」
えっじゃあこれから切られるんですか……と青ざめる和美を放置して楽しんでいると、頭上から懐かしい声がした。
「あら、あきじゃない。」
「え、ちょっ……由香さん!?」
目を白黒させる俺を不思議そうに眺める和美。久々に再会したサークルの先輩、由香さんは俺と和美の手を見、何かを察したようにうんうんと頷いた。
「そっかあ、あきもちゃんと彼女出来たのね。よかったわ。」
微笑む彼女の顔が少しこわばっていたのは、俺の見間違いだろうか。
「哲人さん、どなたですか……?」
困惑した表情の和美に、由香さんを紹介する。
「俺が所属していたサークルの先輩だよ。由香さん、こちら、俺の彼女の和美です。」
本当はただの先輩ではないのだが、余計なことを言うと面倒なことになるのは俺もここ一カ月半で重々承知していたので、あえて何も言わなかった。のに。
「はじめまして、和美さん。私、七年前にあきに告白された女、由香です。」
「こ、こく……?」
和美の顔が先程とは比較にならないくらい真っ青になる、のと同時に俺に対して鋭い目線を送ってきた。
「それじゃあ、お二人さん楽しんで。またね。」
ひらひらと手を振り、他の男の腕に腕を絡ませる由香さんは、相も変わらず美しかった。
隣に般若のような顔をした彼女がいなければ、俺はぼうっとまだ由香さんを眺めていたことであろう。
「……何、なんですか。哲人さん、浮気してたんですか。」
「い、いや、そんなわけじゃ……」
「……十五年間、私はこんなに一途でいたのに。哲人さんったら、他の女に現を抜かしていたんですね。」
「それは……その…………。」
言葉が出てこない。
冷や汗を流す俺に、和美はそれまでの雰囲気をがらりと変え、ふんわり笑った。
「……なーんてね。冗談です。」
実体がある女の方が良いに決まっていますものね。
悲しそうに微笑む姿がなんとも儚くて、俺は思わず彼女を抱きしめた。
「ちょっと、哲人さん、きついです。」
「……ごめん、ごめんね。」
「人の話聞いてます?」
「…………ごめん。」
答えになってない……と呟く彼女を無視し、俺は彼女をきつく抱き続けた。
「確かに七年前は、由香さんが好きだったさ。……振られたけどね。でも、今はお前が……和美が好きだよ。」
「……知ってます。」
「……許して。」
「言われなくても、最初から許してます。」
なんていうか、そうじゃなくて。
「これからもずっと、ずっと愛してるから許して。」
「……本当ですか。」
彼女の纏う空気が、少し柔らかくなったように感じられた。
「俺、嘘つかない。」
少し思案するように沈黙した彼女は、こう回答した。
「……一応、信じてみることにします。」
「ペンギンって、可哀想じゃありません?」
帰り道。彼女は唐突にそんなことを言い出した。
「なんでさ。」
「だって、羽があるのに飛べないんですよ。可哀想です。」
なんて当たり前のことを言っているんだろう、としばし考えて、俺は理解した。
彼女には、感情があったのに表現の場がなかった。しかし今、肉体という道具を使い、感情を表現できるようになっている。
「なるほど、だから【空飛ぶペンギン】が見たかったのか。」
自分も【空飛ぶペンギン】だから。
野暮な事には答えないというような顔をする和美に、俺は構わず続けた。
「でもな、和美。ペンギンは、空を飛べない代わりに泳ぐことが出来る。自分にできないことがあると嘆くんじゃなくて、自分にできることを活かしているから、奴らはかわいそうじゃないんだよ。」
至極当たり前のことを言ったつもりだったのだが、和美はひどく感心したような顔をした。
「哲人さんは、やっぱりすごい人です。」
「……それはよくわからないけれど。」
「浮気さえしなければ最高でした。」
「だから、それは本当に申し訳なかったってば。」
許してくれたんじゃなかったのかよ、と訊くと、彼女は意地悪そうに笑った。
「肉まん買ってくれたら許します。」
……百五十円足らずで許される浮気というのもなんだか寂しい感じがするが、まあいい。
「……ちゃんと、好きだからね。」
「なら、手のひとつでもつないでいただきたいですね。」
「…………それに関しては、しばらく待っていただいてもよろしいですか?」
「うーん……仕方ないですね、許可します。」
でもしないのは無しですからね。と釘を刺される。俺は明日、イケメン笹川から勇気を分けてもらうことを決意した。
Ep.4 弁当
「哲人さん、愛妻弁当とはなんですか?」
ぶーっと飲んでいたお茶を噴き出した俺を、汚いですと叱り、彼女はちゃぶ台をクロスで拭き始めた。
「あ、愛妻弁当……?どうしてまたそんなものを?」
「笹川さんが仰っていました。ちょうど新しい年度が始まろうとしている時期なのだから、これからは愛妻弁当でもつくってみたらどうかと。」
だが愛妻弁当というのがなんなのか、彼女にはわからなかったらしい。それを素直に笹川に告げたところ、俺に訊けと言われた。彼女の擬態語だらけの話を聞く限り、そんなところだろう。
「愛妻弁当ねえ……。」
確かに、食べてみたい気持ちはある。和美の料理は美味い。それを三食食べられたら幸せだろうなと思うし、俺の嫁はこんなにすごいんだぞ、というアピールをしてみたい気持ちも無いわけではない。。しかし、朝弱い彼女の負担を考えると、ノリノリで作って!とお願いするわけにはいかなかった。
「でも、和美。俺の弁当作るとなると、毎朝五時くらいに起きないといけなくなるぞ?」
「それでも構いません。私、哲人さんのお弁当作りたいです。」
下を向いて彼女が何か呟いた気がしたが、あまりうまく聞き取れなかった。
「……そこまで言うなら、お願いしようかな。」
本当ですか?と目をきらきらさせる和美。なぜこいつの瞳はこんなに表情豊かなのだろうか。
「うん、本当。……ただ、絶対に無理はしないこと。無理そうだなって思ったら言ってくれ。通勤途中のコンビニでパン買っていくから。あと、紫蘇とセロリはいれないで。あんまり好きじゃない。」
「わかりました!」
恐ろしくエネルギーにあふれた返事。こいつをよく知らない人からしたら、すごくしっかりしている子だと思うのだろう。しかし、俺は知っている。こいつが元気よく返事をしているときは大抵、話半分にしか聞いていない。
これは毎日釘を刺さなくてはならなさそうだ。俺はやれやれと肩を竦めた。
[で、どうよ。]
笹川から、そんな唐突なテキストメッセージがきたのは、約五分前のことだ。
はあ?と返信すると、はあじゃねえよとツッコまれた。
[愛妻弁当。和美ちゃんに作ってもらってるんだろ?]
どうやら、もうすでに漏えいしているらしい。情報化社会とは恐ろしいものだ。
[どうもこうもねえよ。]
[いいもんだろ?愛妻弁当。]
画面越しに、あいつの悪人面が見える。妙に整ったその顔が、俺にこの世の理不尽を感じさせ、俺は苛々を加速させた。
[……まあ、そりゃあ。]
[だろう?俺、いい仕事したな。]
その高い鼻をへし折ってやろうか、と一瞬本気で考えた俺は異常ではないはずだ。
[ああ、そうだ。必ず毎日弁当の感想は言ってあげろよ。]
[感想?]
[そう、感想。女の子って言うのは、自分が作ったものへの感想を求めたがるからな。]
「へえ、初めて知った。」
素直に、ありがとうと返信をしたらそれはそれで気色が悪いと返された。一体俺にどうしろというんだ。
「ただいま。」
後ろ手で鍵を閉めていると、スウェット姿の和美が駆け寄ってきた。
「おかえりなさい!ご飯、あと少しでできますからね。」
そう言ってキッチンに戻ろうとする和美を引き留める。
「あのさ!」
くるりと振り向き、首をぐいっと横に曲げる彼女。しっかり、伝わるように。恥ずかしがらずに。
「……弁当、美味かったよ。ありがとう。」
若干の沈黙。しくじったか、と思った瞬間、和美の顔が真っ赤に染まった。うむ、成功だな。
「最高だった。ありがとうな。」
「……明日は、ものっすごく豪華なお弁当にしてみせます!」
その、やる気に満ち溢れた瞳に見つめられてしまうと、普通のものでいいんだぞとは少し言いにくかった。
翌日、四段重ねの重箱に入った昼食を、同僚と分け合ったのはまた別の話である。
Ep.5 祝宴
「哲人さん、起きて!起きてください!ねえ起きて!!」
午前三時。ニワトリよりも早起きな上に、うるさく鳴く和美に起こされてしまった。声だけなら無視という手もなかったわけではないが、こんな風にゆさゆさと揺すられてしまっては、狸寝入りすらできない。
「……何。」
「デートです、デート!デートするんです!」
「……先週もした。俺、今日は家でごろごろしていたい。」
「今日じゃなきゃ嫌です!」
「…………なんで。」
「えっ、そ、それは、んーと……」
しどろもどろになる和美、を眺めて布団の中でニヤニヤする俺。我ながら趣味が悪いとは思う。
「そういう気分?」
助け舟を出してやると、和美はパッと真剣な顔に戻ってこくこくと頷いた。
「そ、そうです!そういう気分です!」
「そっかあ、そういう気分かあ。」
じゃあ仕方ないな、と俺は大きく伸びをした。
「何時に出たいんだ?」
「四時です!」
目をらんらんと輝かせる和美。
なるほど、あと一時間しかない。俺は超特急で風呂に入ることにした。
「哲人さーん、行きますよ!」
「はいはい……」
眠い目を擦りながら家を出る。外は思ったよりも肌寒く、俺は上着を持ってこなかったことを後悔した。
ふんふんと鼻歌を歌う彼女に俺は問いかけた。
「どこに行くんだい?」
「ふふ、秘密です。」
だと思った。
俺が連れて来られたのは、小高い丘のようなところにある公園だった。
どうやら、俺と一緒に日の出が見たかったらしい。だが。
「……曇ってて、見えないです。」
そう、天気は雨とはいかないまでも、生憎の曇り。梅雨だから仕方ないな、と思いながら俺は和美の頭を撫でた。
「また来ればいいじゃん、な?」
彼女の瞳が潤む。
「……哲人さんと、見たかったです。」
「だから、また一緒に……」
俺は思わず口を噤んだ。
涙を必死にこらえる和美の表情が、“また”などないと言っているようだったからだ。
「ねえ、哲人さん……」
後に続く言葉が怖い。俺は彼女の発する言葉をさえぎるようにして話題を持ちかけた。
「そ、そうだ。なあ。今から、海行かないか?ちょっと時間早いけど……タクシー捕まえてさ。」
「……海。」
「あー、でもその前に腹ごしらえかな。この時間でも入れる飯屋とか行こう。」
「……ご飯。」
少しずつ彼女の顔に笑みが戻り、ほっとする。
「……じゃあ、タクシー拾えそうな所まで行こうか。」
彼女の手を取り、俺たちは嫌な予感から逃れるように丘を下った。
それから俺たちは、海を眺めたり、以前由香さんと遭遇した水族館に行ったり、最近できたばかりで話題になっている展望台に行ってみたり。とにかくいろんなところを回った。
夕飯は、和美が偶然に(・)も(・)予約していたレストランでとることになった。
「……さて、和美さん。白状していただきましょうか。」
デザートのアイスクリームを食べてご機嫌の和美に、俺は今日のデートの説明を求めた。彼女の、ジンジャーエールに伸びかけた手が止まり、目が泳ぐ。このタイミングでこの話題を出されるとは、彼女も思っていなかっただろう。
「…………び、です。」
「はい?」
聞こえないなあ、とにやにや笑うと、彼女はこちらをにらみつけてきた。
「半年記念日……です。」
「ほおん?」
実は、朝の時点……いや、正確には一か月前から、俺は気づいていた。
和美が、半年記念日をサプライズで祝おうとしていること。そして、その計画に潜んだ欠点について。
「ところで和美さん、私の腕時計ご覧いただけます?」
「……はい?」
いいから見てくれと促すと、目に困惑の色を浮かべながら、彼女は俺の時計を覗き込み、そして顔の色を真っ赤に染めた。
「………………いちにち、はやい。」
「いやあ、間違えちゃったねえ。大変だあ和美ちゃん。」
「……うるさいです。」
「一日早かったねえ。」
「…………。」
真っ赤な顔もかわいいよ、とおちょくるとキッと睨みつけられた。おお怖い怖い。
「いいじゃん、二日連続でパーティーしようよ。」
「でも、明日は哲人さん、お仕事でしょう?」
不安げな瞳で見つめてくるのもかわいいが、俺の計画性をなめないでほしい。
「おじさんねえ、頑張って有給取っちゃった。」
どうせ消化しないといけなかったし、とは言わなかった。そういうのを言うのは、野暮というものだ。
現に今、彼女の瞳は嬉しそうに見開かれている。
「じゃあ、ええと明日は……」
「いいよ、明日は俺に任せて。」
えっ、という顔をする和美。それもそうだ。今まで、デートコースを考えるのは和美の仕事だった。
「……哲人さん、考えられるんですか?」
疑いの色に染まった顔を見ながら、俺は苦笑する。
「そりゃあね、一応考えられますよ。」
日付も間違えずにね、と茶化すと、彼女はまた顔を真っ赤にした。面白い。
「でも、哲人さんなんでわかったんですか?」
帰宅後。和美は納得がいかないとでも言いたげな表情で俺に問うてきた。
「そりゃあ、目の前でレストランの予約されたり、パソコンでデートスポットやら記念日の祝い方やら調べた痕跡があれば、ねえ?」
あっ、と目を丸くしている。まさか気づいていなかったとは。
「……今度やる時は、是非もっと秘密にしていただきたいものですね。」
返事は、なかった。
Ep.6 喪失
翌日。
和美に“本当の半年記念日”のケーキを取ってきてもらっている間、俺は“本当の半年記念日”のサプライズプレゼントを探すため、思い出ボックスという名のパンドラの箱をひっくり返していた。俺と彼女の思い出の品――要するに設定が記されてあるノートのことだ――をあげれば喜ぶに違いない。あれだけバレバレでは最早ただのアニバーサリーパーティだ。本当のサプライズというものを見せてやる。
「ええと……ああ、あったあった。」
若干埃を被ったB5サイズのノート。タイトル記入欄には、『未来日記』とある。
これは、俺が中学生の時に、嫁との実生活を想像もとい妄想しながら書いた日記だ。恐らく俺が思い出したくないこともたくさん書いてあるのだろうが、それはこの際目を瞑る。俺の保身よりも、和美の笑顔が優先である。
俺は意を決し、一ページ目を開いた。
『二十七歳の時、嫁が俺の家に来る。』
俺は自分の口元が綻ぶのを感じた。
ああ、そうだ。来たよ。やかましくインターホンを連打しながら、な。
あれからまだ半年しか経っていないのか。俺は時間の流れの速さに驚きながら目を次の文へと動かした。
『嫁が家出をする。』
『実体化した嫁と初めてのデート。水族館に行ってペンギンを見る。』
『嫁が毎日俺の弁当を作るようになる。』
『半年記念日をサプライズで祝われる。しかし一日早い。』
どれも、俺がこの半年体験した出来事ばかりだ。
ということはひょっとして、と俺は考えた。未来日記の通りに物事が運んでいるとしたら、この先のページにはこれからの俺たちのことが書いてあるんじゃないか?
好奇心に逆らえなかった俺は、恐る恐るページをめくり、そして、
「……やし、岡林!」
ゆさゆさと体を揺すられて、俺は目を覚ました。
「ん…………笹川?和美は?」
「和美?」
なぜか軽く睨まれた。
「和美なんて知り合い、お前にいたか?」
「いや、知り合いじゃない。嫁。」
「はあ?」
半分苛立ったような笹川の表情に、俺は少し恐怖を覚えた。
「お前の嫁は由香さんだろ?何だお前、不倫でもしてんのか?」
「いや、俺は由香さんにフラれ……あれ?」
俺はそこで、言葉を紡ぐのをやめた。
俺の左手薬指に、見覚えのないシルバーの指輪がはめられていたからだ。
「和美は、ええっと…………同僚?」
「ふうん?」
訝しげな笹川の視線を無視し、俺は未来日記を探しだそうと家中を漁った。
未来日記の最後の行に書いてあった、あの一文。
『交際から半年、嫁が死ぬ。』
何かの見間違いであってくれと願う中、さっきの指輪が脳内にちらつく。もしかしたら、死ぬというのは事故や何かで物理的に死ぬのではなく、存在が世界から抹消されるという意味だったのではないか。そもそも、元々オリジナルキャラクターとして生み出した女の子が実体を持つなんて話、どう考えてもありえない。ファンタジーにも程がある。もともといてはならない人だったんだ、でも、いや。
終わることのない自問自答に辟易としているうちに、俺の視界が歪んできた。
俺があいつと過ごした半年は無駄だったというのか。あんなに濃密で、あんなに幸福で、あれが全て嘘だって?笑えない。笑えなさすぎて笑えてくる。
しかし悪い予感というのは大抵的中するものだ。
「……嘘だろ。」
未来日記は、もう段ボールの中に入ってはいなかった。
「書けた?」
「おう。」
六月二十二日。和美の命日に、俺は手紙をしたためることにしている。
「それにしても、あんたも物好きよね。ただの同僚に、そんなに執着するなんて。」
「……そういうもんだよ。」
無理のある返しを、そっかあと受け流す我が妻、由香。最初の頃こそ、少し妬いているような素振りを見せていたが、最近は全くと言っていいほど嫉妬しなくなってきた。これは慣れなのか、それとも俺への愛情不足なのか。いささか気になるところではあるが、俺も彼女に百パーセントの愛情を注いでやれてはいないのでおあいこだ。
和美への手紙を、紙飛行機にする。
少しでも、和美の元に近づくように。
少しでも、この思いが伝わるように。
願いを込めて飛ばしたそれは、朝日の方へと消えていった。
拝啓
吹く風にもいよいよ夏めいた気配を感じるころとなりました。
お元気ですか?なんていうありきたりな質問を、あなたは面白がらないでしょう。ですが、私には到底あなたが面白がる文章など思いつけそうにないのです。つまらないとは存じますが、どうかお付き合いください。返事は特に期待しません。読んでくれたら嬉しいです。
こういう時は近況を最初に話すのが良いのでしょうね。私の生活は大して変わっていませんが、最近紫蘇を食べられるようになりました。もうあれから十年、どうやら味覚に変化が訪れたようです。このまま好みも薄味へと移行していくのでしょうか。健康にいいとあなたは喜ぶかもしれませんが、年老いたようで私はあまり嬉しくありません。まだ若いうちに、ラーメンでも食べておこうかと思います。
一年に一回のお手紙なのに、こんなことを書いてしまってごめんなさい。話題提供が苦手なのはあなたもよくご存知のはずです。十年も経っているのにまだ成長していないのか、とでも笑ってやってください。
それでは、また来年。
敬具
追伸 まだ、愛してる。