第10話
ライリー・カーマイン医師の自宅は、ドラゴニア駅から徒歩五分程の大通りに立つ二階建ての一軒家であった。
やや縦長の形状で大きい造りではない物の、それが逆に赤レンガの外壁と相まって中々に小洒落た印象を与える。
勤務先であるリアスサン総合病院からも近く、まさに理想的な住まいだ。
駅から徒歩十七分。勤務先まで車で四十分のマンションに住む恵一は、ライリーを恨めしく思いつつ、ビニール袋からあんパンと紙パックの牛乳を取り出してフェイトに手渡した。
「これは噂の!」
あんパンを見つめるフェイトの目は、童心に帰ったかの様に輝いている。
「父さんが良くやってたんだ」
恵一は、ライリーの自宅を見つめながらあんパンにかじりついた。
パンの程良い塩気とこしあんの甘さが、何とも良い塩梅で混じり合う。
魔法犯罪課の刑事だった恵一の父は、張り込みの際に大量のあんパンを買い込む為、よくお土産で持って帰って来た。
そのせいでおやつと言えばあんパンで、幼少の頃あまりケーキ等を口に出来ず不平を唱えた事もあったが、今では食べる度に幼少期の思い出を蘇らせてくれるこの味が恵一は大好きだった。
「でも私、この和洋折衷な感じがちょっとイマイチ」
一方でフェイトは、一口かじった所で苦笑を浮かべていた。
「食べた事あるの?」
「学校でよく出されたんです、張り込みの授業中に」
「先生は東洋系?」
恵一の質問にフェイトは、クスリと笑みを零しながら頷いていた。
「はい。分かりますか、やっぱり?」
「うん。伝統だから」
警察学校の授業で張り込みは、必修科目だが、実際の張り込み現場に連れて行かれる。
そこで東洋系の講師はあんパンと牛乳。西洋系の講師はドーナツかハンバーガー、そしてコーラかコーヒーと相場が決まっていた。
「君はこっちがお好みかな?」
そう言いながら恵一は、バックシートから紙箱を取って蓋を開ける。
そこには種類の違うドーナツが六つ入っていた。シンプルなシュガーコーティングからチョコレート、ストロベリーフレーバー。
色取り取りのドーナツ達に、フェイトの表情があんパンの時以上の輝きを見せる。
「うわードーナツ! はい、こっちが好きです」
飛び付くような勢いでフェイトは、ストロベリーフレーバーのドーナツを取り、一口で半分程も食べてしまった。
「じゃあもったいないから、それ僕が」
恵一は、フェイトが膝上に置いていたあんパンを手に取ると、そのままかぶり付いた。
ふとフェイトを見ると顔色が何故か真っ赤に染まっている。
「あの」
か細い声でフェイトが呟いた。恵一とは視線を合わせようとせず、俯いたままである。
具合でも悪いのかと思い、恵一が声を掛けようとした時――
「間接キス……」
全てを悟った恵一の全身を電流が駆け抜ける。
何故食べる時に気が付かなかったのか。
どうして食べてしまったのか。
恵一の顔がどんどんと青ざめていき、身体中が粟立ち、しまいには激しい吐き気に襲われた。だがここで吐いてしまえば人としての尊厳を失う。
恵一は、牛乳で強引にあんパンと吐き気を流し込んだ。
呼吸が荒くなり、顔の毛穴全体から流水の様に汗がどんどん噴き出しくる。
やがて呼吸が落ちついた所で、恵一はフェイトに大変無礼な真似をしていた事に気が付いた。
「ごめん。今僕すっごく失礼な事したよね」
「いいです。もう慣れましたから」
淡々と告げるフェイトだったが目が笑っていない。
いつか今日までの非礼を詫びようと心に誓う恵一であった。
その間にもフェイトは、黙々とドーナツを食べ進めており、既に四つ目のパウダーシュガーに突入していた。
恵一は、ドーナツを頬張るフェイトの姿が子犬のように微笑ましく見える。
「君は典型的な西洋系だな。僕の教官は西洋系だったから張り込みの時は、よくドーナツを食わされたよ」
恵一が言うとフェイトは、五つ目のドーナツに手を伸ばしながら聞き返してくる。
「先輩はMPA《魔法警察学校》に通ってらっしゃったんですよね?」
「そうだよ」
「エリートなんだ」
MPAは魔法犯罪捜査官の登竜門であり、魔法犯罪化を目指す全警察官憧れの場所でもある。
二年間の教育課程は、全て一流の講師陣によって行われ、卒業後はエリートとしての道が約束された場所。
恵一は、そんなMPAの歴史上最も優秀と言われた第二十五期生の一人で、その中でも四番目の成績でMPAを卒業していた。
だが恵一は、あまりMPAに居た事実を語ろうとはしない。
首席卒業ならばともかく、四番目の成績は大した自慢にならないと考えているからだ。
「そんな事無いよ。あそこは入学試験さえ通れば誰でも」
「その試験に通れないんですよ。私も高等枠で受けたけど落ちたし」
フェイトは、いじけた様子で五つ目のドーナツを口に放り込んでいるが、彼女も警察高等学校を首席で卒業したのだ。
魔法犯罪の専門家を育成するため魔法犯罪学や魔法学が優先されるMPAと異なり、警察学校は、警察官として必要なありとあらゆる要素が採点基準となる。
魔法犯罪捜査を特化して学んだ恵一からすれば、全ての課題を万能にこなしたフェイトの方が優れていると感じていた。
「でも君は、首席で警察学校を卒業してここに来たじゃないか。僕よりもすごいよ」
恵一としては、素直な賛辞だったがフェイトは、頬を膨らませて六つ目のドーナツに手を伸ばした。
彼女には嫌味に聞こえてしまったらしい。
「それにキャリアも大違いです。先輩ってMPAの時代から現場に居たんでしょ?」
「うん。それが決まりだからね」
MPAは、卒業後即戦力となる人材を育成するために、生徒は入学最初期から現場の刑事に加わって捜査を行っていく。
そのため恵一は刑事になって四年目だが実質的なキャリアは、六年間に匹敵すると言っていい。
捜査のイロハも知らない頃に、現場で講師や先輩から怒鳴られ、アカデミーと自宅では、勉強と訓練漬けの毎日。
辛くも笑い声が絶えなかった当時の事を懐かしみながら恵一は、指先で頬を掻いた。
「高卒の子供には色々としんどかったけどまぁ乗り越えられたよ」
「子供……」
恵一の言葉にドーナツを食べていたフェイトの手が止まった。
どうやら彼女の地雷を踏んでしまったらしい。
彼女は十九歳。世間一般でいう所の高卒である。
とりあえず恵一は、笑って誤魔化す事にした。
「いや君の事を言ってるんじゃないさ。ごめんよ巡査」
「許しません」
フェイトはそっぽを向いて視線を合わせようとはしない。
相当に怒っている様子だ。
間接的にだが、子供扱いしてしまったのだから無理もないだろう。
「許してよ」
そう言いながら恵一が手を合わせて懇願すると、ようやくフェイトが振り向いた。
「なら」
「なら?」
何か言いたげにしているが、フェイトは何故か気恥ずかしそうにするばかりで中々口を開かない。
このまま待つのも時間がもったいないと、恵一はライリーの自宅を見やったが、
「ちゃんと呼んでください。名前で」
フェイトの思い掛けない言葉に振り返った。
フェイトの浮かべる表情は、今まで見たどんな女性よりも愛らしさに満ちて美しく、普段は不快なはずのこうした色めかしい空気も、今は何故か心地よい。
「フェイトって、呼んで欲しい」
艶っぽい声色のフェイトから、恵一は、視線を逸らして車の天井見つめた。
「いやでもなんか。名前では呼びにくいって言うか。知り合ってそんな経ってないし」
恵一の発言が不服だったのか、フェイトが膨れ顔を近付けて来た。
「でも私、先輩の相棒……なんですよ」
「僕は、もうすぐお役御免だから」
怪我が完治した優子がもうすぐ現場に復帰する。
そうなったらフェイトの新人教育は優子の担当となるだろう。
もしかしたら今後コンビを組む可能性もあるが、しばらくは一緒に仕事をする機会はない。
その事を考えると恵一も少し寂しくはあった。
それはフェイトも同じようで、先程とは打って変わって彼女は、子供がおもちゃをねだるような声を上げる。
「先輩と組んでいたいです」
「槙村の方が適任だよ。僕よりも優秀だ」
恵一は、自分の言葉に絶対的な確信を持っていた。
槙村優子こそがMPA第二十五期生の中で首席卒業を果たした人物なのだから。
知識面と射撃では彼女に勝っていた――これは恵一の自慢でもある――が、体力テストを始めとしたその他では圧倒的大差で上回られていたのである。
だから恵一もどの分野もそつなくこなす優子の方が教育役には適任であると考えていたのだ。
そんな事情を伝えようとした矢先、フェイトは拗ねてしまったのか、唇を尖らせながら囁いた。
「先輩は、私と一緒に居たくないんだ」
「そんな事、別にそうは言ってないだろ」
恵一が諌める様に語気を強めると、フェイトは叱られた直後の犬の様に大人しくなる。
「すみません。生意気言って」
落ち込むフェイトに言いすぎたかもしれないと後悔した恵一が謝罪を口にしようとすると靴音が耳をついた。
「巡査」
「フェイト~」
どうやらフェイトは、名前で呼ぶまでこだわるらしいが、今はそれどころではない。
「それはいいから。ほら」
二人が外を眺めると、家に入っていくライリー・カーマインの姿を捉えた。
「帰ってきましたね」
フェイトの表情は、先程とは打って変わって、冷静さと聡明さを感じさせる微笑を湛えている。
それを見た恵一は、フェイト・リーンベイルに誰よりも強い信頼を抱きながら、
「うん。ここからが正念場だ」
自身も笑顔で返した。
「間違いないのか、河内」
警察庁長官室。
そこでラルフ・カートマン長官は、豪勢な木製のデスクに座り、緑茶の入ったティーカップを口に運びながらデスクの前に立つ河内春之を見つめている。
つい先ほど長官室を訪れた河内は、ラルフに恵一の抱いている疑惑について聞かされた。
いつもは笑顔で語らう二人だったが、この時ばかりは笑みが消え失せている。
「私はあの新巻を結構信頼してます。その彼が言うなら可能性は高いでしょう」
河内は、若いながらも恵一を優秀な捜査官として信頼している。
まだ足りないところはあるがそれでも推理力と正義感に関しては一目置いているのだ。
その恵一が確証もなしにそんな告発をするはずがない。
だからこそ河内は、恵一の疑惑を信じたのである。
だがそれを聞かされたラルフは、椅子に深く腰掛けて息をついた。
「だがもし本当だとしたら、警察史上始まって以来の不祥事だ」
「だからあなたに話しているんですよ。あなたは、いつでも不正に立ち向かっていた」
若いころから正義感の塊であったラルフは、上司や上層部の不正を見つければそれを暴こうと躍起になっていた。
そんなラルフに全幅の信頼を寄せるからこそ河内は、隠蔽されかねない疑惑について話しているのだ。
しかし当のラルフは、困り果てた様子で微笑んだ。
「もう老いたよ」
「それでもあなたは」
食い下がろうとする河内に、ラルフは重々しい呼気を吐き出した。
「私も敵は多い。現場主義は上層部では嫌われるからなぁ。まぁ出来る範囲でとしか約束は出来ない」
「それで構いません」
河内がいつものように破顔するとラルフは、溜息交じりに手にしていたティーカップをデスクに置いた。
「まったく。私がトップになってこの組織を変えたかったが、結局変わらん物だな」
自虐的なラルフの口調に河内は、口元に笑みを浮かべた。
「貴方がトップになってから警察は少しずつ変わっている」
「まだまだだよ。何時だって現場は大変なんだ。だからもっと現場の刑事が仕事をしやすい環境を作るのが上に立った私の責任だ」
「正義を成す為ですか」
「我々の仕事は真実を明らかにし、被害者の無念を救い、犯罪者に法の裁きを与える事だ」
その覚悟は、昔から少しも変わっていない。
河内は、そんな頼もしい旧友を得たことを誇りに思っていた。
そして河内が恵一を気に入っているのは、きっと彼が若い頃のラルフに似ているからであろう。
「新巻も同じような事を言っています。警察の仕事は、犯人を捕まえるだけじゃなく、真実を明らかにする事だと」
「新巻警部補か。新巻さんは、いい息子さんを持ったな。独身貴族には羨ましいよ」
恵一の父、新巻総一郎とラルフは魔法犯罪課創立メンバーであり戦友だ。
河内も総一郎が魔法犯罪課課長だった頃から面識があり、かなりワイルドな人物で恵一とは対照的だったが、彼もまた情熱を持った優秀な警察官であった。
「優秀ですよ、彼は。きっと大物になる」
気が付けば河内の頬が緩んでいた。
ラルフが恵一を認めている事が、まるで我が子が褒められたような、そんなむず痒さと誇らしさを感じて。
「父親のような顔だな」
「え」
ラルフの指摘に河内は、思いがけず声を漏らした。
「我が子を褒められたような笑顔だ」
「部下は仲間であり、家族であり、息子であり、娘である。教えるべき子供であり、教えてくれる親である」
噛み締める様に河内は、言葉を紡いでいった。
突然河内が放った言葉に、ラルフは戸惑いを露わにしている。
「急にどうした?」
「初めてコンビを組んだ時、貴方から言われた言葉です。昔から貴方は、現場主義で仲間を守るために上司に噛み付いていましたね」
「そうだったな」
ラルフは懐かしそうに瞳を閉じてティーカップを口に運んだ。
「この人は出世出来ないだろうなと思っていたのに、よく出世出来ましたね」
「優秀だからな。当然の結果だ」
ラルフが悪戯っぽく笑ってみせた。
それを見た河内は、やれやれといった具合に口を開いた。
「もっと謙虚ならねぇ」
「謙虚さは東洋系の良い所でもあり、悪い所でもある。しかし何時飲んでも緑茶は美味いな。君に紹介されなければ出会えなかった味だよ」
「でも貴方は最初、緑色の液体なんて人間の飲み物じゃない! って仰っていましたね」
河内のラルフのものまねは意外とよく似ている。
それが可笑しかったのか、ラルフは、苦笑しながらティーカップの緑茶を啜った。
「若かったが故の過ちだよ」
「そうですか。そういう事にしておきましょうか。じゃあ私はこれで」
「どこか行くのか?」
河内が去ろうとすると、露骨にラルフの声のトーンが一段落ちた。
子供のようなラルフの態度にも呆れる事無く河内は、笑みを崩さないでいる。
「こう見えて忙しいので」
「そうか。なら仕方ない、か」
渋々と言った様子でラルフは。唇を尖らせる。
ラルフは昔から案外とさびしがり屋のきらいがある。
魔法犯罪科によく来るのもそうした性格の表れであろう。
「なら暇な時、飲みに付き合え。今回の報酬はそれで勘弁してやろう」
どうせ高級キャバクラに付き合わされるのだろう。そう予想した河内が苦笑する。
「あまり飲まないで下さいよ。僕給料高くないんですから」
「保証出来ないな」
偉そうに言うラルフに河内は溜息をついたが、その表情は笑っている。
「分かりました。調査結果出たらお願いします」
「ああ、分かったよ。河内、約束は忘れんじゃないぞー。いいな」
ラルフに追いすがるような声を掛けられて河内は会釈しながら、長官室を後にした。
「なるほど、上層部か……。厄介なものを」
河内が帰り、一人きりになってしまった部屋でそう呟いてからラルフは、ティーカップの緑茶を飲み干すと、息を吐きながら天井を見つめた。




