第3話
真っ白な空間が遥か彼方まで広がっていた。本当に何もない空間が周囲に展開されていた。頭がぼーっとするが決して眠いからではない。ここが天国、もしくは地獄なのだろうか?確かに、こんな所にずっといなくてはならないのであれば地獄に等しい。岡安洋は確かに死んだ。だがどういう事か、この白い空間においてまだ生きていた。
「ここは一体何処なんだ?」
超常現象に精通している洋も、さすがに自分が死んで不思議な空間に来るとまでは考えた事がなかった。死後の世界を想像したことは勿論ある。しかし、いざこうしてそれらしき所へ来てみると、知識欲を刺激されるよりは、異世界にいる不安からの狼狽の方が大きかった。とても落ち着いて物事を整理できそうにはない。どうしようもなくてただ周りを見回すだけだ。
時間が経つにつれ死の実感が湧いてきて、洋は淋しさを覚えた。いくらこんな所に生きているとはいっても、現実の世界で死んだのは疑いようのない事実だ。ダンプカーに跳ねられた時の感触は確かに死を連想させた。走馬灯のように今までの生き様も見た。そして地面に頭から落ちた時、全てが失われるような感覚があった。あの時死んだのは確かである。もうおそらく今までみたいに暮らすことは出来ないのだ。一緒に伊豆へ行く筈だった美枝子の事を考えると悲しみが込み上げてくる。死んだ自分の身体を見て嘆いているのではないか?そう思うと涙が出そうに…
「そんな…」
涙を流すような美枝子との思い出から、洋はとんでもない事に気が付いた。自分の心は泣いているのに涙が流れない。涙など出る訳がなかった。何と、何処をどう見ても自分の身体が存在しないのだ。間違いなく意識はこの白い空間に存在しているのだが、岡安洋としての肉体はなくなっている…。本当の超常現象が自分の身体に起こっていた。
「うわあああ!」
口はないけれど、意識上で洋は叫びを揚げた。決して夢などではない。驚愕の事実に洋はパニックを起こす寸前だった。しばらく頭は混乱して、正常な思考能力が欠如していた。そんな洋の意識に不意に女性の声が響いてきた。
「落ち着きなさい…」
「うわあっ」
予想外の事態の連続に、「落ち着け」と言われた所で平静に戻れる筈がなかった。洋はさらにパニックを起こして錯乱した。
「大丈夫、心配しないで…」
謎の声は優しそうな声で、再度洋に落ち着くように促してくる。それは天使の囁きと思われれば、悪魔の誘惑のようにも感じられた。
「だ、誰なんだ、あんたは?」
身体もなく口も持っていない為、洋は心の中で声を発した。ところがそれが通じたようで相手は
「私が誰かなんてどうでもいいことです。あなたの運命を決める者とでも言っておきましょうか」
と応えてきた。
「お、俺の運命を?」
「そうあなたの運命です。それがこれから決まるのです」
「俺の運命って、俺は死んだんじゃないのか?」
謎の声による、とんちんかんな話に洋の頭は再度混乱しかかっていた。
「そう、確かにあなたは死んでいます…」
「じゃあ運命って言ったってもう決してしまっているんじゃ…」
「それは違います。これから私がする質問への答え方一つで全て決まるのです」
「質問?」
「はい。とっても簡単な質問なのです。その答えであなたがこれからどうなるか決まるのです」
「そんな簡単に決まるものなの?」
洋はまだ信じられず訝しげに尋ねる。
「ふふふ、あなたは変わっていますね」
「俺が?変わっている?」
「あなたは生前、常ならぬ現象に興味を持っていたのではありませんか?それなのに今起こっている事態が現実と思えないなんておかしいじゃありませんか?この世には常識で測れない現象もあるのですよ」
「言われてみれば…」
相手の言葉で洋はようやく事実を直視出来た。確かに超常現象に興味を持つ者がこの現実を認められないのは変だ。
「納得して頂けたようですね。では聞きます。あなたは生まれ変わりというものを信じますか?」
「は?」
洋は突然の不可解な質問にまた当惑した。
「ですからあなたは生まれ変わりを信じますか?」
声は戸惑う洋に構わず、再度同じ問いを繰り返す。
「それが質問なんですか?」
「そうです。もう一度だけ聞きますよ。あなたは生まれ変わりを信じますか?」
声に尋ねられ、洋は考えた。いや、考える迄もない…
「はい。信じます」
洋は以前から輪廻転生には興味を持っており、一週間前に美枝子の母にも言った通り、それは『ある』と信じていた。質問の趣旨はわからないものの、真摯な気持ちで答えたつもりだった。それに、もし生まれ変われるのなら、もう一度美枝子に会いたかった。
「そうですか…。信じますか。わかりました。ではもうすぐ裁定が下るでしょう。少しの間お待ち下さい」
その言葉を最後に謎の声は洋の意識から消えていった。
「待てって言われても…」
残された洋の意識はぼーっとその場に漂うしかなかった。すると突然意識が己れの意志とは関係なく振動を始めた。連続で回転を起こし、持ってはいないが脳が揺られるような感覚を覚えた。物凄いスピードで移動し、回転し、いつしか意識が遠退いていった。
気付いた時には生暖かい水の中にいた。今度は自分の身体があるのがわかる。手や足を持っている感覚があり、自分が生命として存在する実感があった。あの声の言う通り『生まれ変わり』をしたのだろうか?
不思議なことに目が開けない。いや目だけでなく、全体的に身体の機能が不自由な感じだ。首を絞められているような息苦しさも感じるし、へその辺りがむず痒くもある。身体が不自由なのは自分のせいだけではなく、どうも今いる場所の狭さも関係あるようだ。身体を無理矢理に包み込まれているようで、どうにも窮屈でならない。目が開かない為、出口も探せず、しばらく我慢するしかなさそうだった。
「ワンワンワン!」
遠くの方で犬の吠える声が聞こえたような気がする。途切れ途切れではあるが、繰り返し聞こえてくることからも幻聴とは思えない。どうやら現実の世界に戻って来たことは間違いないようだ。
それにしてもここは一体何処なのだろうか?盲目の洋は全知全能を振り絞り、考えを巡らすが全く検討がつかなかった。今まで一度も経験したことのない場所のような気もするし、遥か昔にいたことがある場所のような気もした。何となく懐かしい感情も湧いてくるのは気のせいだろうか?ここにいると窮屈なのだが、不思議と落ち着く気持ちにもなれるのだった。
もうどのくらい時間が経ったのだろう、洋は退屈さを感じていた。不思議と腹は空かなかった。常識では考えられないが、栄養分が自然と身体に入ってくる感覚があった。何故か空腹をもよおしてこないのだ。放尿も中でするしかなくて、汚いけれどした。眠るのも自由に出来ることから、洋には退屈さだけが敵だった。とにかくいつまでも目が開かないし、この場所から出られそうにないのだ。何も出来ないのは苦痛以外の何物でもなかった。
そんな時、洋は常に美枝子の事を考えた。現実の一日という時間のリズムがどのように動いているかはわからなかったが、起きている時間のほとんどを彼女を思うことで費やした。イメージの中の美枝子は常に彼に微笑みかけていた。身体を取り戻した自分が、彼女に再び巡り会えるのか?いや必ずもう一度彼女の前に現れる!洋はそれだけを夢見て退屈と戦っていた。
だが狭い穴ぐらの生活にもついに終わりが来た。洋がここに暮らして数え上げただけで約60日、本当に退屈な日々だった。いよいよ己れの身体が明るい所へ出される時が来たのだ。
まず自分を包む水が外へ出て行く。そして出口と思われる穴から外界の空気が入ってくるのがわかった。段々と身体がその穴の方へ吸い込まれるように向かって行く。己れの体躯が頭から外に出ようとしているのが感じられた。
外は眩しかった。目の筋肉がやっと開くことを許可してくれたが、急に明るい所へ出た為、まともに開けることが出来ない。まだ身体が濡れてぬめっていて、気持ち良くも悪くもある。姿勢は寝転がった状態の筈だ。洋は子供の頃に水族館で見た寝そべるアシカの姿を思い出していた。
「ぐううっ!」
声を出そうにも変なうめきしか発せない。喉まで変になっている。自分に触れている者が数人いるようで、人の手の感覚が身体に残る。
「そおーっと、そっとよ!」
そんなことを言っている声が聞こえ、洋は自分が大切に扱われているのを感じた。何処か病気にでもなっているのだろうか?それともこの前、ダンプに跳ねられた時点まで時が戻ってでもいるのだろうか?だがその割には身体の何処にも痛みはない。
やっと目が開いた。眼前には見知らぬおばさんと医者風の若者がいて、洋の身体を見下ろしている。おばさんは洋の身体を丁寧にタオルで拭いていた。全裸姿で恥ずかしい洋は
「止めてください!」
と言うつもりが、
「ワンワン!」
と叫んでいた。唖然とする洋。
「ほら、おとなしくしなさい!」
おばさんは優しく洋をなだめている。洋は己れの身体を見回して、初めて何が起こっているのかを悟った。
「ワワワワン!」
洋は叫んだ。しかし叫ぼうにも人の言葉が出ない。何と自分の身体が子犬になっていたのだ。そして今までいたのは親犬の腹の中だった事がようやくわかった。洋は犬としてこの世に転生したのだ。この二ヵ月余り、ただ窮屈で暗い所に押し込められていて、何もわからなかった。
(何てこった…。生まれ変わったと思ったら犬かよ…)洋はがっかりした。この世に転生したのは事実である。しかし犬では人とも喋れないし、世界のシステムもわからない。これからどうやって生きていけば良いのだろう。そして何より美枝子と再会する夢が叶わない。自分が洋だという事を伝えようがないし、仮に伝わったところで犬と人間の恋愛など成立する訳がない。




