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第2話

 美枝子の家の前に立ち、改めて彼女を近くに見て、洋は自分を幸せ者だと感じた。美枝子はその容姿の美しさ、活発な性格から大学では人気があり、彼女に惚れて求愛してくる男も多かった。いわゆる整った美人顔で背も高く、出るとこは出ている見事なプロポーション。モデルと言われても大抵の人が信じてしまう程であった。洋も180cm近い身長を持ち、そこそこの顔を持っていたが、不釣り合いと言われれば否定は出来なかった。そんな美枝子が自分の彼女として傍らにいるのだ。嬉しくない筈がない。

「とりあえず飯を食べに行こうよ。俺、朝から何も食べてないんだ」

 洋はまず音を立てだした自分の腹を静めたかった。

「いいわよ。待たせちゃったしね。言う通りにするわ」

 美枝子が素直に言に従い腕を組むと、二人は駅前の方へ歩を進めた。洋は自分の腕に彼女の腕が絡み付いているだけで少しばかりの興奮を覚えていた。付き合ってもう半年近くになるが、実は未だに肉体関係はない。彼女を大切にしたいと思っているのに加え、変にその母とまで仲良くなったりしているので踏み切れないでいること、また彼女に父がいないことなどがその原因だった。洋としては遠慮して、慎重になってしまうのだ。

 もちろんやりたくてたまらないのが男の性であるが、彼女自身の心がそういう気分になるまで待つつもりだった。でも、こうさりげなくも腕が絡んで身体が密着してくると、何とも言えぬ高揚感が溢れてくる。

 そのまま二人の足がある地点に差し掛った時、怒りにも似た叫び声が響いた。美枝子は驚いて洋に寄り添う。

「またか…、この犬いつも俺に吠えるんだ。さっきも凄かった」

 洋の視線は声の主、ジョンに注がれていた。ジョンは今にも噛み付かんばかりの表情で吠え続けている。

「まあ、ジョンったら悪い子ね。私には吠えたことなんかないのに…」

 美枝子は今までに見たこともないジョンの剣幕に驚いているようだった。そして手懐けようと彼女が近付くと、犬は手のひらを返したように「クゥーン」と鳴いておとなしくなった。

「なんだこいつは!ひどいもんだな。男女差別かい」

 洋はジョンの変わり身の速さに呆れ果てた。いつも自分に吠えるのは構わない。しかし美枝子が絡んでくるとなると話は別だった。犬っころが彼女に近付いているのが腹立たしくなってきてその手を引く。すると

「ワンワンワンワン、ワオーン!」

 まるでジョンも洋が美枝子に近付くのが腹立たしいかのように吠えを再開した。それは猛然とした抗議にも見えた。

「なんだよ。俺の彼女だぜ!」

 洋は頭にきてジョンを睨みつけた。しかし犬も全く引く気配を見せない。「喉が潰れてでも吠え続けてやる」といった確固たる意志のようなものが感じられる程、吠え声が凄まじい。

「こらジョン!やめなさい!近所迷惑でしょ」

 美枝子がたまらずジョンを叱った。だがまるで効果なし。むしろ声の大きさが増しただけだ。

「行こう、相手にするだけ無駄だ」

 洋は美枝子の手を引いて、さっさと家の前を離れた。そしてジョンの怒りの咆哮だけがいつまでも辺りに響き渡っていた。

 駅まで辿り着いた二人は洋の腹拵えの為に、イタリアンレストランに入った。イタリアンと言っても格式張ったものではなく、若者でも気軽に入れるチェーン店で、二人共よく利用する場所だった。中に入り席に案内されて注文を済ますと、二人は早速話し込んだ。

「昨日はゼミに来ないもんだから心配したよ」

「ふふ、バカね。お父さんの法事だって言っていたのに…」

「いや思い出してみればそうなんだけど、もう自分の発表で夢中だったんでね。美枝子が来ない理由が頭からポッカリと抜けちゃったんだな」

「そう言えば山形君来てた?」

 山形とは、同級生で同じゼミに所属する男子生徒だった。

「うん、来てたな。あいつがどうかした?」

「実はこの前、山形君に電話で告白されちゃったのよね」

「えーっ!それでどうしたの?」

 寝耳に水の話に洋は緊張して話の先を尋ねた。

「何心配してるのよ。ちゃんと断ったわよ。『岡安なんかとは別れて俺と付き合ってくれないか?』なんて失礼しちゃうわ!」

 美枝子は話しながら当時の状況を思い出して怒っていた。そんな姿が洋にはまたたまらなく可愛らしかった。

「良かった…。安心したよ」

「私が洋君を捨てて他の男に乗り換える訳ないでしょ」

「はっ、ありがとうございます」

 洋はおどけて応えながらも美枝子の本気な様子を見て安堵していた。

 話をしている内に注文したパスタがやってきた。強烈な空腹感に襲われていた洋は、湯気を立てるペペロンチーノに飛び付いた。

「まあ、お腹を空かせた犬みたいね」

 美枝子が浅ましい姿の洋を見て呆れたように呟く。

「んぐんぐ…、ひょうがないらろ、ひのうのよるはらはにもうっれないんらから…」

「ねえ、何言ってるのか全然わかんないんだけど…」

 食物を口に含んだまま喋る洋の言葉は美枝子にも解読不能だった。取り合っても仕様がないので、彼女も食事に集中した。


「ふうーっ、食った食った」

 満腹の腹をさすり、洋は満足そうな顔をしていた。横目で美枝子の方を見ると、彼女はまだパスタと格闘していた。女の子らしく丁寧にフォークとスプーンを使って食べている。

「そんなパスタ、フォークだけでズルーッと食べちゃえばいいのに。本場イタリアじゃそんなの当たり前だって話だよ」

「別に急いで食べなくたっていいでしょう。私はこれでいいんだから」

 美枝子は自分のスタイルを崩す気はないようだ。

「はーい。すいませんね」

 そうは言ったものの食事も終わり、手持ち無沙汰な洋は退屈になってきた。

「そういえば先週の『ガキの使い』見た?」

 洋はふと何かを思い付いたようで、食事に没頭する美枝子に話し掛けた。

「うん、見たわよ」

 美枝子はスパゲティを口に運びながら答える。

「あれでさ、松本が『宇宙人の正体は未来人だ』って言ってたじゃん」

「うん」

「あれって俺もずっとそう思っていたんだよな。言われちゃってショックだったよ」

「なあんだ、また超常現象の話?」

 料理は美味い筈、なのに渋い顔の美枝子。いい加減、超常現象の話にうんざりしているのだろうか?

「いや、その…」

「クスッ、別にいいわよ。話しなさいよ。ちゃんと聞くから。ただ、よく飽きないなあって思っただけ…」

「びっくりしたあ…、こっちはまた怒られるのかと思ったよ」

「私はそんなに短気じゃないわよ。で、どうしたって?」

「ダウンタウンの松本に、宇宙人が未来から来た人間だって言われてね、悔しかったよ。俺もずっとそうだと考えていたからさ」

「ふむふむ」

「未来の人類ってどんな風になるか知ってる?」

「脳が大きくて頭でっかちになって、顎が細くなるんでしょ?」

「うん。それって今まで言われている宇宙人によく似ていると思わない?」

「うーん。言われてみればそうかもね」

 美枝子も洋の説に多少納得しているようだった。

「それにさタイムマシーンって既に現代でも考えられてはいるじゃん。人類が滅びないで進歩していけば遠い未来にいつか完成するんじゃないかと思うんだ」

「それはそうね。今できればいいのに…」

「でさ、タイムマシーンを使って過去に来る人達は、その時代の人に見つからないようにする訳だ」

「どうして?」

「だって過去と未来の人間が接触すると未来が変わってしまう可能性があるんだよ。だから過去に来たって見学するだけなのさ。きっとタイムマシーンをわざとUFOの形状に作り上げているんじゃないかな。そうすれば宇宙人ということでごまかせるし」

「ふーん。洋君、凄いこと考えているのね。そんなこと考えてみたこともなかったわ」

 美枝子は心底感心しているようだった。

「いやあ、それほどでも」

「それにしてもこういう話をしている時のあなたって本当に生き生きしているわね」

「そう?」

「もっと他の方面でそういう顔をしてくれるといいんだけどねえ…」

「へへへ」

 洋はそう言われるとただ笑うしかなかった。やっぱり人間というものは自分の興味のあることに対する時、最も生き生きとしているのではないだろうか。それが洋にとっては超常現象と美枝子だった。この二つに関わっている時だけは『生きている』実感があった。美枝子やその母が洋を「生き生きしている」と言うのもその辺に起因するのではないか。

「まあいいわ。お話は以上かしら?」

「ああ」

「じゃあ私も食べ終わったことだし行きましょうか?」

 見ると美枝子の皿は空っぽになっていた。全く気付かなかった自分は余程話に夢中になっていたのだろう、としみじみ思う洋だった。


 レストランを出た後、二人は電車で池袋へ行き映画『マトリックス』を鑑賞した。そして共に夕食を取って、また最寄り駅に帰ってきた。洋は美枝子を家まで送ろうとしたが、

「いいわよ。まだ明るいし、またジョンに吠えられるんじゃないの?」

 と彼女は丁重に送りを断ってきた。単に洋に手間を掛けさせたくないのと、ジョンの吠え声による近所迷惑が理由のようだ。

「いいの?」

「うん、大丈夫よ」

「じゃあここで」

 洋が手を振ろうとした刹那、

「ん…」

 美枝子が唇を寄せてきた。慌てた洋だが、すぐに彼女を抱き寄せて、唇を合わせた。美枝子が離れたことで甘い瞬間は数秒で終わった。

「今日は楽しかったわ。じゃあまたね」

 手を振って美枝子は去って行った。

「ああ、お母さんにもよろしく」

 手を振り返して見送る洋。その身体にはまだ美枝子の感触が残っていた。彼女の肌の感触、匂い、美しさ、どれをとってもたまらなくいとおしいものだった。


 デート後の洋はまた勉強に追われるハメになった。彼の履修している授業は生徒による発表が中心で、毎週何らかの発表が課せられた。来週は木曜日に、儀礼と儀式について考察して発表しなくてはならなかった。発表があると、いつも洋は図書館から資料をたくさん集めてきて、家に閉じこもって勉強に没頭する。この間、美枝子とは授業で顔を合わせるだけ。我慢した分、無事に木曜日に発表をこなし、教授からもなかなかの好評を得ることができた。

 そして金曜日、この日の梅川ゼミには美枝子や豊田、山形も集う。毎週の最後の授業なのでこの時間を迎えると洋はいつも充足感に浸るのだった。

「おう、早いな」

 誰もいない教室に一人来て座っていた洋に声が掛かった。振り向くと豊田だった。

「ああ、前の授業が早く終わったんでね」

「俺、今日発表なんだよ。恥ずかしいから寝てていいぞ」

 豊田は己れの発表に自信がないのか、控えめな態度で言う。

「いーや、ちゃんと聞いててやる。この間ノストラダムスの事で俺をバカにしやがったからなあ」

「お前、まだそんなこと根に持っていたのかよ?」

「当たり前だ。超常現象の恨みは大きいのだ」

 洋の訳のわからぬ理屈に苦笑する豊田。その時、部屋の扉が開き、二人の人間が入室してきた。

「ねえ、いいじゃんか。今度俺と遊んでくれるだけでいいからさ」

「嫌だって言ってるでしょ」

 しつこく言い寄る男とそれを突っぱねる女。洋が視線を向けると、それは山形が美枝子に言い寄っているのだった。

「そんなこと言わないでさあ…」

 なおも美枝子にくっついていく山形に、我慢出来なくなった洋が立ちふさがった。

「おい山形、いい加減にしろ!」

「へっ、岡安ぅ。調子に乗ってんじゃねーぞ!」

 山形は美枝子を守るようにして立つ洋を挑発してきた。奴は茶色の長髪、耳と鼻にピアスを入れており、いかにも最近の若者といった風貌。身体も大きく、ケンカも強そうだ。しかし洋も後には引けず一触即発の状態。

「かかってこいよ、岡ちゃん!」

 山形はなおも挑発を繰り返す。

「何いっ!」

 洋の手が出掛かった時、

「やめなさいよ」

 美枝子がその腕を掴んでいた。

「美枝子…」

 腕を押さえられ、洋は我に返った。

「暴力はいけないわ」

「だけどこの野郎が…」

「いいじゃないの。とにかく山形君ももうやめてよ!私はあなたと遊ぶ気はないから…」

 美枝子がきっぱりと言うと、

「チッ…」

 と舌打ちして山形は離れた席に一人座った。

「あいつ…、いつもああなのかい?」

 洋が山形に聞こえないくらいの小声で尋ねる。

「いつもって訳じゃないけど、今日は特にしつこかったわ」

「また今度言い寄ってきたら俺に言いなよ」

「うん。でも喧嘩はやめてね」

 美枝子は洋と山形を見比べて、心配でならないようだ。

「ああ。大丈夫だよ。あんな奴に手出しはさせないから」

 洋はまだ少し高揚しており、語気を強めて言った。

 話している内に梅川教授が入ってきて、授業が始まった。豊田の発表は本人が言っていたような陳腐なものではなく、かなり興味深い内容だった。洋も寝るどころか夢中になって聞いた。いつも厳しい梅川教授も本日の授業内容には満足なようで、終始ご機嫌であった。まともに聞いてないのは山形くらいで、彼の視線が宙をさまよい時々美枝子の方に向いているのを洋は見逃さなかった。

 チャイムが鳴ると同時に授業は終わった。洋は豊田と美枝子と共に教室を出て、薄暗くなった構内を歩いた。

「何だよ、いい発表だったじゃないか」

 洋が豊田の発表の出来を褒める。

「そうよ、凄く詳しく調べてあったじゃない」

 美枝子もそれに同調した。

「いやあ、それほどでも…」

 豊田は口では謙遜していたが、実はかなり自信があったようで、顔が赤くなって照れている。

「何だよ、照れてるのか?」

 洋がそれを突っ込んで軽く叩く。

「痛てて…、まあ俺のことなんか別にどうだっていいからさ、二人でゆっくり話しながら帰れよ」

 言うと豊田は一人走って前の方へ行った。

「おい、そんなことしなくたって…、一緒に帰ろうぜ」

 慌てて洋が引き止めるが、

「いいって。それじゃあな」

 と言い残して豊田は走り去ってしまった。その場には洋と美枝子の二人が残された。

「まったく…、気なんて遣わなくていいのにな。柄でもない…」

「多分、豊田君は授業前に山形君のこともあったから二人きりにしてくれたのよ。二人の方がその話もしやすいし…」

「そうそう山形め、本当にひどい奴だよ」

 洋は言われて山形への怒りを思い出した。

「ホント困っちゃうわ。そんなに悪い人じゃないとは思うんだけど…」

「いや、あんなの、いい奴とは言えないさ」

「洋君も気を付けてね。あの人、荒っぽい感じがするから…。身体も大きいし、喧嘩とかしたら洋君なんてイチコロよ」

「そんなことはないよ。あんな奴に負けるものか」

 洋は美枝子に「山形より弱い」と言われた気がして、ムキになって否定した。

「そんな勝ち負けとか言わないで。私、洋君に何かあったら困るわ。ねえ喧嘩はしないって約束して」

 真剣な表情で懇願する美枝子。美しい顔の上でキツい目が訴え掛けている。

「美枝子…、わかったよ。喧嘩はしない、約束する」

 洋は彼女の迫力に気圧されて約束を交わした。


 二人は池袋駅から電車に乗り、互いの自宅のある同一の駅で下車した。

「洋君、明日はどうするの?」

「そうだな…、久々に日帰りで何処かへ行こうか?」

「ねえ、別に日帰りじゃなくてもいいわよ…」

「えっ?」

 慌てて聞き返す洋。美枝子の言った言葉が信じられなかったのだ。

「だから、日帰りじゃなくてもいいわよ」

 彼女は恥ずかしそうにもう一度繰り返す。

「本当?」

「嘘なんかついてどうするのよ?」

「いや美枝子の口からそんなこと聞くなんて思いもよらなかったから…」

「そんな、別に私だってそんなこと言いたくはないわよ。でも洋君がいつまでも言ってくれないから…」

「それは…」

 洋は、今まで『泊る』という行為を言えなかった理由は口に出せなかった。

「わかってる…、洋君優しいから私の家の事とかまで気を遣ってくれたのよね?」

 美枝子は大体お見通しのようだった。

「かなわないな、美枝子には」

「でも、明日はいいの。いい加減に私も洋君の優しさに応えたいから…」

 そう言う美枝子の目は心なしか潤んでいるようだった。

「美枝子…」

 そんな彼女を見て洋は本当にいとおしいと思った。今の美枝子がこれまで一緒にいた中で一番可愛く見えた。

「本当は山形君から守ってくれた時も凄く嬉しかった…。でも豊田君もいたし、授業が始まりそうだったから…」

「何だ、そうだったのか」

 洋は今日、美枝子が『泊り』を口にした理由がわかった気がした。そして嬉しくなって、人通りのある駅前ながらも彼女を抱き締めようとしたが、

「何かしおらしくしているのは私らしくないわね。それで明日は何処へ行く?」

 美枝子は急にしゃんとして、予定の確認を始めた。スカされた洋は心の中でがっくりしたが、気を取り直して、

「そうだな伊豆辺りはどうかな?」

 と話を合わせた。

「いいわね」

「宿なんかはその場で適当に決めればいいかな?」

「そうね。いいんじゃないかしら」

「じゃあ伊豆に決定!また俺が十時頃、家まで迎えに行くよ」

「うん、待っているわ。それじゃあ明日」

 全てが決まると美枝子は去って行った。一人になった洋は明日への期待に胸が高鳴るのだった。今までに美枝子の裸体を想像したことなど、神命に誓って一度もなかった。勿論抱きたいと思ったことはあるが、洋にとって彼女は大げさでなく神聖不可避の存在だったのだ。その美枝子がついに自ら宿泊をOKしてきたとあっては、洋の興奮は前日から溢れんばかりであった。家に戻っても他のことは手に付かず、そればかりを考える有様。おまけに興奮して夜も眠れず、結局一睡も出来ずに寝不足のまま出掛けることになってしまった。

 その日の朝、眠い目を擦りながら洋は家を出た。眩しい日差しに目を開けることも出来ず、ふらふらと美枝子の家を目指して歩く。いつしか毎度の如く吠え声が響き渡り、ジョンの家の近くに来たことを知った。ここまでは、いつもと何ら変わることのない光景であった。

「うるさいなあ…、眠いんだから静かにしてくれよ」

 ジョンのやかましい咆哮は、ぼーっとした頭に目覚まし時計のように鳴り響いた。我慢できなくなった洋は耳を押さえてその場を走り去ろうとした。その時、

「うわっ!」

 思わず叫びを揚げる洋。

「プップーッ」

「キキーッ」

 というクラクションと急ブレーキの音が鳴り渡り、己れの身体は曲がり角から出てきたダンプカーに跳ね飛ばされ宙に浮いていた。

「ああ、死ぬ時に全部思い出すっていうのは本当だったんだ…」

 宙に浮いた瞬間はまるで時間が止まったかのようだった。走馬灯のように人生のダイジェストが流れていくのを、考察するだけの時間があった。そして、あと何秒間宙に浮いていられるのだろうかと思う程、回想シーンは長く感じられた。

「み、美枝子…」

 人生劇場のラストに美枝子の顔が一瞬脳裏に浮かんだ。そして地面が目の前に迫り、それが最後の言葉になった。洋の身体は、着地と同時に厭な音を立てて砕け散り、周囲に血や脳漿を飛び散らした。

 傍目には強烈に車にはね飛ばされて、地面に脳天を打ち付けて即死という、あっという間の出来事だった。愛する人、乙山美枝子と結ばれる事無く、岡安洋の人生はここに断たれた…


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