第1話
1999年、結局7月にも9月にも何も起こらなかった。とはいえ、ノストラダムスの大予言に子供の頃から怯えていた、もしくは何らかの関心を示していた人は少なからずいたのではないだろうか。R教大学史学科に在学する岡安洋もそんな一人だった。彼は授業を終えて友人と初秋の大学構内を歩いている最中、その話題で熱くなっていた。
「なあ岡安、やっぱ何にも起こらなかったじゃないか」
同じゼミの同級生、豊田がそう言うと、洋は首を振った。
「それは違うね。当たったかどうかはノストラダムスのみが知るところなのさ。7月にフランスで天文学者達を乗せたロープウェイが落下事故を起こしただろう?ノストラダムスはフランス人だから、それが『恐怖の大王』だったかもしれないんだ」
「お前そんなのこじつけだよ。それじゃ『5月のユーゴの内紛がそうだった』って後から言ってる何とかっていう評論家と一緒じゃないか」
「ぐむむっ…」
洋は豊田のもっともな意見に口をつぐんだ。確かに彼の指摘は的を獲ていた。洋としては評論家が文句を言われまくるのは一向に構わない。予言で金儲けしようと適当な事をほざいている奴も多々いるからだ。
でもノストラダムス本人が批判されるのは納得いかなかった。洋の中では、表面上何も起こらなくても彼は偉大な預言者のままだった。今日まで、人々に影響を与える言葉を残しているだけで素晴らしいではないか。1999年に何が起ころうが起こるまいが、過去の世界から人を右往左往させていることに凄さを感じるのだ。豊田の言うことはわかるが、納得したくないのもまた事実だった。結局、この日はこの話をしている最中に池袋駅に着いてしまい、洋は電車で、豊田は歩きでそれぞれの家路に帰宅した。
電車に乗った洋がカバンから取り出したのは『UFO 宇宙人は存在する』という本。洋の興味はノストラダムスにとどまらない。いわゆるオカルトや超常現象などと呼ばれる事象には全て関心を持っていた。そんな中、今年は夏に掛けてニュース番組までノストラダムスを取り上げて騒ぐ始末で、洋の入っている文化人類学の梅川ゼミでも常にそのことが話題に上っていたのだ。それで最も仲の良い豊田とはいつもそんな話をしているのだった。
一人暮らしの城に帰宅すると、洋は真っ先に寝転がった。彼の部屋は簡素にして、本棚と小さなテーブル、そしてTVが置いてあるだけで、六畳のスペースが広々と使われていた。寝転がってもまだ五人は十分に眠れる広さがある。ゼミの発表をまとめる為、連日徹夜していた彼は疲れていた。時刻はまだ七時半だが、今からでも十分に寝ることが出来そうだった。ただその前にやることがある。
今日は金曜日。洋は土曜日に授業が入っていないので明日から連休である。いつしか彼の手は床に置かれた電話に伸びていた。コードレス受話器を手に取り、番号をプッシュして相手が出るのを待つ。
「もしもし?」
相手から応答があった。女性の声だ。
「あ、岡安だけど…」
「洋君!待ってたのよ、電話」
声の主は洋の彼女、乙山美枝子であった。
「へへへ。嬉しいな。それより明日はどう?会えないかな?」
「大丈夫、空いてるわよ」
「そうか、良かった。今日ゼミに来なかったんで、明日も会えないかと思ったよ」
「今日はお父さんの法事だって言ったじゃない」
美枝子の父は彼女が小学生の頃に亡くなっていた。
「あ、そうか。そうだったね」
「もう!すぐ忘れるんだから…。どうせまた超常現象のことでも、夢中になって考えていたんでしょう?」
「ははは」
図星を突かれて洋は苦笑した。美枝子の言う通り、彼女がゼミに来ない理由などすっかり忘れていたのだ。
「まあいいわ。じゃあ明日はどうする?」
「そうだなあ…」
「映画はどう?私、『マトリックス』が見たいな!」
美枝子は即断即決、意見を出す。
「OK!じゃあ俺が家まで迎えに行くよ。十時頃でいいかな?」
「いいわよ。出掛ける用意して待ってるわね」
「じゃあまた明日!」
「うん。おやすみなさい…」
受話器の向こう側で通話が遮断される音が響いた。洋はコードレスホンを本体に戻すと、再び寝転がる。そしてあまりの眠さから、夕飯も食べずにそのまま眠りに就いてしまった。
眩しさに目が痛い。日の光が部屋に差し込んでおり、その直撃を受けて洋は目を覚ました。時計を見る。もう八時半過ぎだった。昨日、美枝子に電話した後、そのままずっと眠ってしまったのだ。腹が鳴っている。夕飯も食べていないので無理もない。洋は飛び起きると、餌を探す恐竜のように荒々しく冷蔵庫を開けて食品を物色した。
だが、すぐに食べられそうなものは見当らない。仕様がないので牛乳だけ飲み干した。まだまだ空腹は治まらないがどうしようもない。美枝子と何か食べることに決め、洋はシャワーを浴びた。出掛ける準備を全て済ませた時にはもう九時半だった。
洋の下宿と美枝子の家は極めて近い距離にあった。歩いて八分程の近さ、その上最寄りの駅も同じで、それが付き合い始めるきっかけになった。よく帰りが一緒になるのは大きかった。帰宅時に話をしている内に仲が良くなり、何時の間にか恋人同士の間柄となっていた。
洋はあまり栄えているとも言えない商店街を横切って、住宅街の方へ入って行った。その住宅が密集している中に美枝子の家がある。
「ワン!ワンワンワン!」
突如、犬の吠え声が響く。その発信地の前に行くと、大きな黒いドーベルマンが家の門を破って今にも出て来そうな雰囲気で、洋に吠えかかっていた。
「ジョン…、どうしてお前はいつも俺に吠えるんだ?」
洋はいつもこの家の前を通る度にドーベルマンのジョンに吠えられるのだった。犬は人の何倍も鼻が効くと言われている。人には気付かれないが、犬が不快に感じる匂いでも出しているのだろうか。それとも洋の先祖か何かが、犬を虐待でもしていたのだろうか。彼はこの犬の前を通る度にそんなことを思った。洋的にはこういう事を考える自体は嫌ではないので、むしろジョンに感謝しているくらいだったが。
ジョンの猛声から逃れ、洋は美枝子の家の前まで辿り着いた。広い庭を持つ立派な家である。門から中に入り、玄関前の呼び鈴を鳴らす。ピンポーンという機械音の後、
「はーい」
とインターホンから声が聞こえてきた。どうやら美枝子の母のようだ。
「あの、岡安です」
洋は若干緊張しながら名乗る。相手がこちらに親しみを持ってくれているのはわかっていても、人の親と話すのは苦手だった。
「ああ、岡安君ね。どうぞ」
「は、はい」
洋は招かれるまま乙山邸に入った。
「岡安君、いらっしゃい」
玄関からドアを開けると、すぐさま美枝子の母が出迎えてくれた。もう十年も前に夫を亡くして、女手一つで美枝子を育ててきた彼女はさすがに顔や頭髪に苦労の跡がにじみ出ており、四十五歳という年齢の割には老けて見える。そのかわり女の優しさを強く感じさせてくれる人だった。洋は、訪問するといつも自分の息子のように世話をしてもらっていた。「ここを自分の家のように思っていいのよ」なんて言われたこともある。その時は、余程信用されているのだと感じて驚いたものだ。
「ほら、美枝子!岡安君が来たわよ!」
彼女は邸内の美枝子に向かって、洋の訪問を教えて呼び掛けた。
「はーい。ちょっとごめん。入っててもらって」
中から美枝子の声が聞こえてきた。まだ取り込み中の様子がうかがえる。
「まったくあの子ったら…。ごめんなさいね。まあ中に入って」
「はい、じゃあおじゃまします」
洋は靴を丁寧に脱いで並べると、招かれるまま家の中に入った。そして畳の部屋に落ち着くと、すぐにお茶が用意された。仏壇が部屋の奥に祀ってあり、そこに厳しそうな顔の男性の写真が飾られている。この人が亡くなった美枝子の父らしい。
「怖そうな顔してるでしょ?」
何時の間にか隣に座っていた美枝子の母が、夫の写真を指差して言った。
「いえ、そんなことは…」
と言ったものの、確かに「怖そう」というイメージを否定することはできなかった。写真を見た限りでは、それだけの迫力を持った顔をしている人だった。
「こんな鬼みたいな顔をしている人だけど、本当は凄く優しかったのよ。私と美枝子を守って死んでしまったけど、ずっと家族のことを思っていてくれたわ」
彼女は良人との思い出をしみじみと語る。
「守った…?」
洋は話に引き込まれてきて身を乗り出す。
「飲酒運転のトラックが、ちょうど歩いていた私達三人に突っ込んできてね、主人が私と美枝子を安全圏に弾き飛ばして自分が犠牲になったのよ…」
「そんな事があったんですか…。全然知りませんでした。てっきりご病気か何かかと…」
「美枝子も話していなかったのね?あの子も小学生の時は相当ショックを受けていたからねえ。でも良かったわ、あんな明るい子に育ってくれて…」
「ええ…」
「まあ主人が生きていたら、こうして岡安君を招いたりはできないかもしれないけど…」「は?」
「主人は本当に宝のように美枝子を可愛がっていたから、ボーイフレンドなんて連れてきたら叩き出してしまったかもしれないわ」
「ははは…」
「でもきっと最後はわかってくれたと思うわよ。本当にいい人だったのよ。だって生まれ変わったって私きっともう一度あの人と一緒になるわ」
「生まれ変わり…」
洋は自分の得意分野が話に出てきて即座に反応した。
「あら岡安君はこういう話好きなのよね?美枝子から聞いているわよ」
「い、いやそんなことは…」
気恥ずかしくなって否定するも、相手は既に根っ子を掴んでいるようだ。
「別に隠さなくたっていいじゃない。そういう事に興味があるって素敵なことよ。私だって生まれ変わりとかあるのなら信じたいし。遠慮せずにそういう話をしたっていいのよ」
「はあ…。実は、生まれ変わり、いわゆる輪廻転生ですね、そういうのって凄く興味があるんですよ」
好きな話題の披露を褒められて、段々と洋の顔が生き生きとしてきた。美枝子の母とこんなことを話すとは思いもよらなかった。
「なあんだ、やっぱり好きなんじゃないの。だって全然顔つきが変わってきたわよ」
「僕は輪廻ってあるんじゃないかと思うんですよ。その方が人生に夢もあるし…」
と洋が持論を展開しようとした瞬間、障子戸が開いた。そして
「ちょっと洋君!またそんな話をしているの?」
軽い怒声と共に用意のできた美枝子が姿を現した。
「うわあっ。びっくりしたあ!」
虚を突かれた洋は驚いて、その場から飛びのいた。
「こら美枝子、岡安君はこういう話が好きなんだからいいじゃないの」
母が美枝子をたしなめる。
「別にそういうのが好きなのはいいんだけど、あまり人前で話されると洋君がオタクみたいに見られて嫌なのよ」
「ごめんよ。もうしないよ」
美枝子には頭が上がらない洋は、ひた謝りに謝った。
「別にいいわよ。私と二人の時だって話したっていいんだし。ただあんまり他人の前でされるとねえ…」
「かあーっ、情けない。これが現代の男女の姿なのかねえ…」
美枝子の母は二人を見て昨今の男女事情を嘆いた。
「何よっ!お母さんだってお父さんを尻に敷いていたじゃない!」
カーッときて言い返す美枝子。対する母は図星なのか無言になった。そして
「まったくあんたってそういう強気なところは私にそっくりね」
と言って、お手上げという仕草を見せた。洋はただ茫然と母娘の会話を眺めているしかなかった。彼の目にはそれがとても不思議な言い争いに見えた。決して憎しみ合っているのではなく、お互いの言葉に愛情のようなものすら感じるのだ。
「もういいわ。洋君、早く外行こう」
美枝子はしびれを切らして、洋の手を引っ張り外へ連れ出そうとした。
「岡安君ごめんなさいね。こんな荒っぽい娘で…」
連れ去られる洋の目に、母が軽く頭を下げているのが映った。
「いえ…。おじゃましました…」
洋は美枝子に手を引かれるまま玄関から外へ出た。




