三話
その日の仕事――といっても大したことはしないのだけれど――は全然手につかなかった。水のやりすぎや、土をこぼしたり、ミスも幾つかあり、それを八重樫さんがカバーしてくれたことにも申し訳なさを感じていた。
仕事が終わり、休憩室でエプロンを脱ぐと、八重樫さんが湯気の立ったマグカップを持ってきてくれた。
「紅茶でも飲みなよ」
私はそれを両手で溢さないように受け取って、
「……ありがとうございます」
気分の落ち込みようが声にまで出てきている。私は紅茶を口に含んだ。
「落ち込まなくていいよ。ミスは誰にでもあるし、ほら、失敗は成功の母って言うじゃん」
「そう……ですね」
八重樫さんが私を気遣ってくれているのがわかる。しかし、私の落ち込みの原因はバイト中の失敗ではなく、昼間の出来事だ。しかも落ち込みというよりは、頭の中でもやもやしているという感じだ。
「あの、相談があるんですけど……」
思い切って切り出してみた。
「やめるとかじゃないよね?」
もちろんそんな筈がないので、私は慌ててかぶりを振った。
「違います違います! ……実は、今日、クラスの男子に告白されたんですけど」
八重樫さんの顔に期待感が表れている。面白そうだと思っているに違いない。
「付き合うの?」
「それが、わからないんです。私は、今までずっと恋愛に興味がなかったのに、今日はドキドキしてしまって。でも、別にその男子が好きだっていうわけじゃないと思うんです」
すると、八重樫さんはうーんと唸って腕を組んだ。楽しんでいるのかと思っていたが、案外真面目に考えてくれているらしい。
「そうだなぁ……。樹ちゃんは、昔の僕に似てるんだよね」
「似てる?」
八重樫さんは頷いて、
「そう、似てる。樹ちゃん、自分に好きなこととかないって思ってるでしょ」
言い当てられて、私は驚いた。
「はい、その通りです。どうしてわかったんですか?」
「だから、似てるんだって」
ああ、似てるというのはそういうことか。八重樫さんも昔は私みたいに夢も、好きなことも、趣味なんかもなかったと。今の八重樫さんからではそんな姿を想像することができない。
「僕が高校生のときにも、夢とか好きなこととかなくってさ。だから、樹ちゃんの気持ちもなんとなくわかる。樹ちゃん、ここで働き始めてから変わったって言われない?」
私は頷いた。
「どうして、わかったんですか?」
「僕だってそう思うもん。最初この店に来たときに比べて、すごく楽しそう」
あずさと同じことを八重樫さんも言う。実感はないけれど、私はそれほど楽しそうに仕事をしているのか。
「私は」
言いかけて、やめた。これは楽しいとか、楽しくないとかそういう観点ではないのだろう。なんとなく、八重樫さんの言いたいことがわかってきた。
「樹ちゃんは、好きなこと、興味のあることを認めようとしてなかったんじゃないかな。昔僕がそうだったように」
私は頷く。
そう。そうだ。
私は興味のあることを、心の中ではそうだと認めていなかった。思い返してみれば、このバイトだってそうだ。「やってみたい」という気持ちは、まさに興味を持つことではないか。私はそれを、きっかけにするためだとして、ここでのバイトを始めた。
今までだってたぶんそうなのだ。
何にも興味のない自分に酔っていた。『興味』を他の言葉にすり替えていた。
ここでバイトを始めたことで、私はそれに気付けた。それが私の変化。
初めて自分が興味を持ったことに取り組んでいたのだから、楽しくもなる。
しかしまだ気付いたばかりなのだ。すぐに自分で判断できないこともある。
「私はどうすればいいと思いますか?」
しかし八重樫さんは静かに、首を横に振った。
「それは、自分で考えることだよ」
「そう……ですよね。ありがとうございました」
わかっていた。自分で決めなければならない。他人に答えを求めるのは志乃原くんに失礼だ。
「さ、今日はもう帰りなよ。遅くなったらお母さんも心配するよ」
「そうですね、お疲れ様でした」
***
次の日の放課後、私は志乃原くんを楠の下に呼び出した。
一晩考えて、返事は決まった。それを伝えるために、今度は私が覚悟を決めてきた。
志乃原くんは陸上部の練習着に着替えて来ていた。
「返事、聞けるんだよな」
私は頷く。そのために呼んだのだ。
小さく、そして深く息を吸い込む。それから、私は唇を動かした。
「私、君とは付き合えない」
志乃原くんの反応が少し怖くて、言った直後に目を瞑ってしまった。瞼を上げると、志乃原くんは悲しそうな、しかしどこか嬉しそうな表情をしていた。
「そっか、そうだよな」
志乃原くんからしてみれば、寿命が一日延びただけ、という感じなのだろう。本来ならば、私はその場で振っていたわけで。
しかし、私は変わった。興味がないから断るのではない。
「私、今、興味のあることがあって。恋愛もしてみたいと思うけど、それでも、私にはそれより優先したいことがあるから。だから、ごめんなさい」
言い切ったと思った。私はこれ以上ないくらいに、志乃原くんを振った。
「……やっぱ、佐原木、変わったよな」
「うん、知ってる」
私は変わることが出来た。『Alberi futuri』のお陰で。
志乃原くんは、心底嬉しそうに笑った。
「うん、今の佐原木のほうが、ずっと好きだ」
「私も」
***
「そういえば、『Alberi futuri』の由来教えてもらえてませんでしたけど」
観葉樹に水をやりながら、私は、隣で同じく水をやっている八重樫さんに言った。
「そういえばそうだっけ。っていうか、樹ちゃん自分で調べなかったんだ」
「ええ、意地でも八重樫さんから聞こうと思って。で、どういう意味なんですか?」
八重樫さんはすぐには答えなかった。私が諦めて他のところに水をやりに行こうとした、そのときに口を開いた。
「意味は『未来樹』。未来に向かって伸びる樹だよ」
〆切の都合につき、本来書くつもりだった、樹の名前の由来や進級、卒業の話は割愛。あと最後のほうももっとボリューム出すつもりでした。その残骸は各所に散らばっていると思います。ついでに言うと、八重樫さんの過去話ももっと書くつもりでした。
時間がなかったのが原因。
いつか書き直すのもいいかもしれませんね。