二話
「ねえいつきー」
五限が終わって、次の授業の準備をしていると、クラスメートの三笠山あずさが声を掛けてきた。
「どうしたの?」
あずさが声を掛けてくるのはいつものことだ。私は、どうせいつもの「一年生が部活頑張らないのー」みたいな愚痴だと思って、机の中から古典の教科書を出しながら答えた。彼女はソフトボール部の副部長をしている。ボーイッシュなショートカットと日に焼けた肌が特徴的だ。
しかし私の予想に反して、今日のあずさは違った。
「今日の放課後ヒマ? 一緒にクレープとか食べに行かない?」
あずさからこういう提案をするのは珍しい。彼女は部活中心の生活で、そんな事をしている暇はないはずだ。……もちろん、私の方から誘うこともないのだが。
「部活は?」
聞くと、あずさは残念そうに答える。
「ほら、今日グラウンドに工事が入ってるじゃない。グラウンド使えないし、空いてるスペースも野球部とサッカー部にとられちゃって、残念ながらオフになっちゃったのよ」
確か、フェンスの修理だったっけ。先生が昨日のホームルームで言っていたような気がする。
「それはそれは。でも、今日は私用事があるから付き合えないよ?」
「えー、残念。じゃあ他の人誘うよ。で、用事ってなに?」
そこまで話す必要はないだろうと思いつつも、あずさは言わなければ引き下がらないことは私も了承している。
「バイトよ、バイト」
そう言うと、あずさが信じられないものを見たような顔をした。
「バイト!? 中学時代クラス一のイケメンに告白されたとき、『ごめんなさい、私、恋愛に興味ないから』って断ったくらい何事にも興味を持たないあの樹が!?」
「やめてよ、もう」
余計な情報を大声でアナウンスしないで欲しい。周りの視線がものすごく痛い。
制止すると、あずさは頭を掻いて、
「あはは、ごめんごめん。でも、あんたがバイトなんてほんとにどうしたの? 頭でも打った?」
「私のことを一体何だと思っているのか、一時間くらい問い質したい気分だわ……」
「そんなこと言わないでよー」
そんな会話をしていると、始業のチャイムが鳴った。古典の五里松先生(通称ゴリ松)はチャイムが鳴り終わると同時に教室に入ってくることで有名である。立っていた生徒もじわじわと自分の席に戻っていく。
「ほら、あずさも席に戻りなよ」
「ちぇっ、今度詳しい話は聞くからねー」
と言い残して、とても残念そうに帰っていくあずさ。私は少しほっとしていた。『興味を持つきっかけにするため』なんて、言えと言われて言えるような理由ではない。
あと、コンビニのような普通のバイト先ではなく、植木屋というところに少しの恥じらいというのもあった。まあ、コンビニならそもそもバイトしようなんて思わなかったろうけど。
扉の開く音がし、ジャージ姿のゴリ松先生が入ってきた。
この人はやっぱり体育教師にしか見えないなぁと思いつつ、私は古典の教科書を開いた。
***
「……こんにちは」
できる限り小さな声で挨拶をすると、なんとその声を聞き取ったのか、奥から昨日の店員さんが出てきた。やはり昨日と同じ緑色のエプロン姿である。
「お、いらっしゃい、新人さん。さ、まずはこっちに来て」
そう言って、私をカウンター奥の部屋へ案内してくれた。
そこには、ホースやジョウロ、植木鉢などの園芸用品が山ほど揃っていた。壁には、鉢を提げるための網や、支柱が立てかけてある。部屋の隅には、椅子と机が一つずつ置いてあり、その上にはマグカップやお皿が出しっぱなしにされていた。
「ここは在庫置き場兼休憩スペース。物を壊さない限りは自由に使ってくれていいから。あ、お手洗いは二階で、世話用の道具は表にあるからね」
手早く説明をしながら、机のほうに向かっていく店員さん。私は頷き、ひとつひとつを頭に収めながらそれについてゆく。
と、そこで一つの違和感に気付いた。それを口にする。
「店員さん、口調変わりましたね」
「そりゃあ、もう君はうちの従業員だからね、堅苦しくする必要ないでしょ。ちなみに僕は店長の八重樫葉っていいます。君の名前は? 名札も作りたいし」
そういえば、昨日はお互い名乗らなかったっけ。私は慌てて自分の名前を口にする。
「佐原木樹です。よろしくお願いします」
私は正直、自分の名前が好きではない。その理由は、言わずとも何となく分かるだろう。あずさや他の友達に名前呼びされるのは慣れたが、あまり接点のない人から樹と呼ばれるのは少し嫌だ。だというのに、
「じゃあ、樹ちゃんで。名札は佐原木でいいよね」
八重樫さんはそう言うのである。私も黙って頷くのではなく、最低限の抵抗は試みる。
「あの、できれば苗字で呼んで貰えませんか? あんまり、自分の名前が好きじゃないので」
「確かに男っぽい名前だもんね。でも、いい名前なんだし、これを機に好きになればいいじゃん」
それを何度言われたことか。それでも好きになれないのだから、そもそも私の名前も例外ではなかったのだろう。好きなものができることを期待するのは、もうやめている。
そして些細な抵抗は無駄に終わり、私の呼び名は「樹ちゃん」になった。
それから私は八重樫さんに、植物の世話の仕方や商品の取り扱い方を教えて貰い、業務についた。エプロンは新品を渡されたので、制服のワイシャツの上に着た。
業務といっても、植物の水遣りにそう時間がかかるわけではないし、商品も、客が来なくては在庫が減ることがない。基本的にすることがないのである。
現に今も、カウンターの裏にある椅子に腰掛けてお客さんが来るのを待っているだけだ。
一応、八重樫さんからはレジスターの使い方を教えてもらったが、そのあたりは適当でいいと言われてしまった。自分でやるのだそうだ。
しかし、だとすると、私が雇われた理由が余計にわからなくなる。何もせず座っていて、ときどき水遣りをするだけで給料が貰えるのはありがたいが、それでは店が損をするだけではないか。
そんなことを考えていると、ドアにつけられた鈴が鳴った。お客さんだ。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、五十くらいの親切そうなおばさんだ。私の顔を見て、少し驚いたような顔をして、
「あら、まあ、新人さん?」
私が頷くとおばさんは再びあらまあと言った。
「店長さんが人を雇うなんて珍しいわねぇ」
雇われて一日の私ですらそう思うので、苦笑いを返しておいた。
「高校生? 店長もまた、随分可愛らしい子を雇ったものねぇ」
「あの、いつもここに来られるんですか?」
尋ねると、おばさんは頬に手を当てて、
「ええ、そうよ。だいたい週に一回は来るかしら。店長さんとお話をしているだけだけど」
新しい店だと思っていたが、どうやら常連客もいるらしい。私が感心していると、二階から八重樫さんが下りてきた。八重樫さんはおばさんに常連のおばさんに気づいて、
「あ、いらっしゃいませ、小田原さん。本日はどうされました?」
「どうもこうも、どうしたのよ店長さん。こんな可愛い子を雇っちゃって」
言われて、八重樫さんは私の方をちらっと見た。
「ああ、彼女ですか。ええ、今日からなので、まだ名札もできてないんですけどね」
と、八重樫さんが何かを促すように右手を動かしている。あ、自己紹介をしろということか。
「佐原木です。よろしくお願いします」
深々とお辞儀をする。人との付き合いは礼儀から、と昔からお婆ちゃんに言われていた。礼儀正しければ、大人は可愛がってくれるらしい。どう考えてもそれには下心があると思うのだけれど、礼儀正しいのが良いことには変わりないので、私はそれに従っている。
どうやら小田原さんはそれが気に入ったらしく、にこにこしながら、
「あらあら、しっかりしてるのね。おばさんが高校生のときなんて、もっと荒れてたわよー」
なんて言っている。悪い人ではないのだろうが、私はよく喋る人は得意ではないので、八重樫さんに目配せをする。八重樫さんもそれを察してくれたらしく、うまく小田原さんの話を誘導してくれている。
「では、今日は土のご相談ですか?」
「ええ、そうなの。そろそろ植え替えたほうがいいかと思って」
さすがに接客が手慣れているというか、上手い。いつの間にか商品の話になっている。
「じゃあ、僕は小田原さんのご相談を受けるから、樹ちゃんはカウンターお願いねー」
「あ、はい」
それから、八重樫さんは小田原さんを連れて二階に戻って行った。土などが置いてあるのが二階なのだ。
私は再び、カウンターの裏の椅子に座った。
客商売で苦手な人がいるのはよくないな、と思った。
***
そんなこんなで、バイト一日目が終わった。
結局、来たお客さんは小田原さんと、あと偶然立ち寄った三人だけだった。想像以上にこの店は流行っていないようだ。
「お疲れ様。今日はどうだった?」
休憩室に入ると、八重樫さんが笑顔で声を掛けてきた。労いの言葉を掛けられるほど、私が何かしたということはない。
「思ってたよりしんどくなかったです」
正直なところである。アルバイトというと、コンビニバイトのように常にレジに立ち続けていたり、商品点検を行ったりするものだと想像していた。この店は少々――どころかかなり変わっているらしい。
「いつもこんな感じだから気を張る必要はないよ。今日一日やってみて、何か疑問とかあった?」
「あ、じゃあ。この店の名前って、なんて読むんですか? 英語じゃないと思うんですけど」
八重樫さんはあー、と声を出した。
「確かに、店員が知らないと変だしね。『アルベリ・フトゥーリ』って読むんだよ。イタリア語」
私の予想はあながち間違っていなかったらしい。ヨーロッパの言語はどれも似通っている。ただ、それにしても分からないことはある。
「どういう意味なんですか?」
「うーん、言ってもいいんだけど、今はまだ早いかなぁ」
「早い?」
そこに引っかかった。バイトをしているのだから店名の由来くらい教えてくれてもいいじゃないか。
だが、八重樫さんは、
「その話はまた今度ね。他に何かある?」
と私をはぐらかす。
そう言われてしまってはこれ以上追及できない。私は雇われている身で、八重樫さんは雇っている立場だ。だからこの話は終わりにして、他の質問をすることにした。
「失礼かもしれないですけど、この店って赤字じゃないんですか?」
もちろん夕方だったからというだけかもしれないが、それにしても客が少なすぎた。しかも殆ど商品は売れていない。一人でもやっていけそうなのに、バイトなんて無駄に雇って損はしないのだろうか。
八重樫さんはなんでもないことのように言う。
「赤字だよ」
「えっ、この店潰れないんですか?」
「うん。僕の両親が土地持ちでいくつか賃貸マンションを持ってるから、お金には困ってない。親が死んだら僕はそれを継ぐだけだし、この店は趣味でやってるだけって感じだね」
なるほど、八重樫さんからしてみれば老後の道楽みたいな感覚なのだろう。私には理解のできないことであるけれど。
しかし今私が抱えている疑問は解決できた。それと引き換えに一つ気になることも残ったが、それはそれだ。
「ありがとうございました」
最後にお礼を言って、その日のバイトは終わった。
***
「ただいま」
ドアを開けて、呟くように言う。
時刻は六時半。『Alberi futuri』を出たのが六時だから、徒歩で三十分かかったことになる。普段より二時間半ほど遅い帰りだ。
二階に上がって、自分の部屋に鞄を置いてから一階のリビングへ入った。お母さんが晩御飯を作っているところだった。
改めてただいまと言うと、お母さんが手を止めて振り向いた。
「樹、こんな遅くまでどこに行ってたの? お母さん心配したのよ?」
どうやらご立腹らしい。そういえばまだお母さんには『Alberi futuri』で働き始めたことを言っていなかった。
「ごめんなさい、バイト始めたの」
その言葉は少なからずお母さんを驚愕させたらしい。そりゃあ、今まで趣味も持たなかった娘が高二の秋に突然アルバイトを始めれば驚くだろう。
「あんた、受験はどうするの?」
ああ、そういえばこの間進路の話をしたばかりだった。
「今の調子でいけば大丈夫。しんどくなったらバイトはすぐにやめるし」
それだけでは心配する親を安心させる薬にはならないだろうが、気休め程度にはなるだろう。
「そう……ならいいけど」
「うん、心配しないで。それよりお父さんは今日も仕事?」
お母さんは頷いた。
「ええ、大きな事件があったとかで、しばらく泊り込みらしいわ。たまに帰ってくるとは言ってたけど……」
「そう……」
お父さんは刑事をしている。ときどきこうして警察署に泊まることがあるほど忙しいが、親子仲が冷え切っているということはない。むしろ、私はそうして人のために働くお父さんを誇らしく思っているところがある。自分にはないものをお父さんは備えている。
「お父さんにもバイト始めたことは伝えておきなさいよ。あの人のことだから反対はしないと思うけど」
「うん、わかってる」
お父さんは、私のすることに口出しは殆どしない。間違ったことをすれば叱る程度で、基本的には私に任せてくれていた。
電話は出られないだろうから、あとでメールだけでもしておこうと思った。
***
バイトを始めてからおよそ一週間が経った。
その間に特に何かあるわけでもなく、今までとの違いは私の生活の一部に『Alberi futuri』でのバイトが加わったくらいである。特に授業に支障が出たとかはないし、このまましばらくは続けるつもりである。
本日もゴリ松先生の古典がある。その授業の前に、私はあずさと話をしていた。
「最近バイトはどうなの? 一度行ってみたいんだけど、部活が終わる時間には閉まってるんだよね?」
私は頷きを返す。
「うん。六時前には閉めてるから。土日も一応やってるけど、あずさ寝てるでしょ?」
「あー土日はねー」
あずさは、休みの日は部活以外の時間は睡眠に充てているはずで、それを失くしてまで『Alberi future』に来ることはないだろう。
ふと、あずさがじっと私の顔を見ていることに気付いた。
「どうしたの? 何かついてる?」
しかしあずさはかぶりを振った。
「いや、なんていうか……樹、ちょっと変わったよね」
「変わった?」
私が聞き返すと、あずさは首を縦に振った。
「うん。なんか前より楽しそう」
そんなことを言われるとは思ってもおらず、私は少し戸惑った。
「……そうかな」
「絶対そうだって! 明るくなったよ!」
お世辞にしても、そう言われると、なんだか嬉しくなってくるものだ。私は単純な人間らしい。
と、そうこうしているとチャイムが鳴って、今日の会話はそこで打ち止めとなった。
***
帰り際、鞄を持ち上げるとクラスメートに声を掛けられた。
「佐原木、ちょっといいか?」
「あ、えっと……志乃原くん、どうしたの?」
一瞬名前が出てこず戸惑う。彼は確か陸上部に所属している。帰り際によく、グラウンドで走っているのを見かける。しかし私とは全くと言っていいほど接点がない。
志乃原くんはやや落ち着かない様子で、
「少し話があるんだけど、時間あるか?」
「大丈夫だけど、話って?」
志乃原くんから私に話すことなんて何かあったかなぁ、と私は思考を巡らせる。
「いいから、来てくれ」
そう言って志乃原くんが歩き始めたので、私は慌ててそれについて行った。
コの字型の校舎の南側にはグラウンドが広がっていて、北側には囲われるように中庭がある。下校の際にそこを通る人はおらず、また部活に使用されることもないため、この時間はちょうど誰もいない。
中庭の中央には大きな楠があって、志乃原くんは私をその下に連れてきた。
互いに向き合うかたちで立つと、志乃原くんが口を開いた。
「話ってのはさ、なんていうか、その」
ここまで来ると、私も何となく状況が飲み込めてくる。だから、敢えて何も言わなかった。
志乃原くんは顔を上気させて、しかしついに決心したのか、口を開いた。
「直接の関わりとかなかったけど、ずっとお前のことが好きだった。佐原木がよければ、俺と付き合って欲しい」
その告白が、私の中の変化を明確に実感させた。
自分で言うのは変かもしれないけれど、私は昔からそれなりにモテる。告白も頻繁にされていた。しかし、その際に心が揺れ動くことなんて一切なく、ただ「恋愛に興味がないから」と断っていた。
今はそうではないのだ。興味がないと思っているのに、鼓動が早まっているのがわかる。私は志乃原くんが好きなのだろうか。わからない。たぶん違うのだと思う。しかし、この胸の鼓動は収まらない。
だから、何と答えていいかわからず、私の口は自然に、こう言っていた。
「……少し、時間をください」
志乃原くんは玉砕覚悟で来ていたのだろう。私の返事にとても驚いている。
「あ……ああ、もちろん」
私はそれ以上何も言えず、かといって、ここから立ち去ることも出来ずにいた。すると、志乃原くんが、
「意外だったな」
「何が?」
「まさか保留されるとは思わなかったってこと」
返事をした本人もそう感じているくらいだ。された側も当然そう思っているのだ。
「その場で振られると思ってたの? 私が今までそうしてきたから」
自虐気味にそう聞いてみる。私が今までしてきたことが志乃原くんの耳に入っていない筈もない。しかし志乃原くんの口からは予想外の言葉が返ってきた。
「最初っから振られると思ってたら、卒業間際に言うって。俺はただ、普段の佐原木なら、イエスだろうがノーだろうが、その場で返事してただろうから、なんか、変わったなって思って」
「そうかな」
また、「変わった」。今日二度目に聞くその言葉。私はそうは思っていないが、この数日で私には、周りから見れば十分に変化があったらしい。
志乃原くんは頷いて、
「そうだよ。じゃ、俺部活行くから。返事はいつでもいいよ」
「うん、ありがとう。部活頑張って」
私が手を振ると、志乃原くんもそれに応じて手を振ってくれた。
……私も、バイトに行かなくては。