一話
高校二年生の秋にもなると、自然と自分の将来のことを考え始めるものらしい。教室の中では、どこの大学に行くだとか、学科はどうするだとか、そんな話がちらほらと聞こえてくる。
私、佐原木樹も、周りと同じように自分の将来を考える……のだが、他とは少し事情が違う。
一言で言えば、夢がない。
特に趣味はない。部活は何もしていない。好きなことはない。憧れるものはない。やりたいことはない。とにかく願望がない。
一つでもそういったものがあれば、ある程度未来を考えることができるのだろうが、私はそれすらできないのだ。
先日提出した進路希望調査にも、聞いたことがあって、自分の学力に最もふさわしいと思われる大学の名前を書いた。私学だったが、私は一人っ子で、家庭がお金に困っているわけでもない。国公立にすべきなのかもしれないが、やりたいことがないのにわざわざ受験勉強をして入学するというのも変な話だと思う。
進学希望にしているのも、周りが軒並み進学するということと、両親が進学を希望しているから、ということ以上の理由はない。
そして私は、そんな私のことが好きではない。
***
ホームルームが終わり、部活に行く人は急いで着替えに向かい、そうでない人もぽつぽつと教室を出て行く。私も鞄を持ち上げ、教室を出た。
「佐原木、ちょっといいか?」
声を掛けてきたのは担任の松戸先生だった。彼は数学教師で、授業がわかりやすいと生徒の間では評判である。
「どうしたんですか?」
「こないだ出してもらった進路希望調査なんだけど、ホントにS大志望でいいのか? このまま勉強してれば間違いなく受かるだろうけど、お前ならもっと上を目指せるだろう。行きたい学科でもあるのか?」
「いや、ないですけど」
最小限の努力で行ける大学を書いただけなのだから、当然である。先生はそこを理解していないし、私も、理解してもらうつもりはない。
私の言葉を聞いて、松戸先生は頭を掻いた。
「うーん、それなら俺としてはもうちょっと上を目指して欲しいんだけどなぁ」
「私の学力が急に上がれば、それも考えますね」
「はぁ、そうか……。ま、気をつけて帰れよ」
「はい、さようなら」
挨拶を交わして、先生は去っていった。私のような生徒を相手するのはさぞ面倒臭いことだろう。先生の心労を考えると、同情したくなってくる。しかし私には夢というものがないのだから、どうしようもない。
帰路につく。
校門を出てから十五分ほど歩けば家だ。自転車登校をしないのは、最低限の体力を養うため。往復三十分くらいの徒歩なら、毎日でもさした苦労にはならない。
普段なら真っ直ぐ家に帰るところだが、今日は珍しくそういう気分ではなかった。少し寄り道をして帰ろう。別に当てがあるわけではないけれど、ぶらぶらするだけでも気分転換にはなるだろうし。
私の通う学校は大きな通りに面しているが、校門はそれとは反対方向にある。私の家はその通りとは逆の方向にあるので、普段ならば通りに出る必要はない。だから今日は、普段行くことのない大通りの方に出てみようと思った。
大きな通りといっても、基本二車線、ところどころ三車線になっている程度の通りである。住んでいるところが田舎なので、比較的、という言葉が一番初めにつく。
その道を渡って少し歩くと、見慣れない建物があった。
「あれ、こんな店あったんだ」
その角にあるのは、小さな土産物屋くらいで、正面はガラス張りの白い二階建ての建物だ。軒先には大きいものは私の背丈以上、小さいものは両手で抱えられるくらいの、鉢植えが幾つも置かれている。少し視線を上げると、控えめな緑色で『Alberi futuri』と書かれている。どうやらそれが店名らしい。
「アルベリ、フューチュリ……?」
口に出して発音してみるが、如何せん違う気がする。どういう意味かはわからないが、少なくとも英語以外の言語であることは間違いないだろう。
興味を惹かれた。普段湧き上がらない、いわゆる好奇心というやつがふつふつとこみ上げてきた。
入り口のガラスのドアには『OPEN』と書かれたプレートが提がっている。音の立たないように慎重に扉を開けるが、上に鈴がつけてあったらしく、少しだけ音が鳴った。店内には誰もおらず、ただたくさんの植木鉢が置かれているだけだ。
「……こんにちは」
小さな声で呟いて、恐る恐る足を踏み入れた。正面のカウンターにはレジスターが置いてあるが、そこに人はいない。カウンターの向こうには奥に続く扉があるが、誰も出てくる様子はない。明かりは点いているのだから、誰かいるはずなのだが、いくらなんでも無防備すぎると思う。泥棒が入ることを考えないのだろうか。
少しの間ドアの前に突っ立っていたが、やはり店員さんが出てくる様子はないので、勝手に店内を物色させてもらうことにした。
店内を見回すと、外から見ていた以上に沢山の植物があった。いわゆる、観葉植物というやつだ。デパートや喫茶店で見たことがあるようなものも混ざっている。
店内は向かって右奥に続いており、そのガラス張りの壁際には大きなテーブルが幾つか並べられ、その上には小さな鉢植えに入った植物が所狭しと並べられている。見覚えのあるものも幾つかある。
焼かれた二枚貝みたいに口を開いているのはハエトリグサだろう。これくらいなら私も名前を知っている。開いた口の中にハエなんかを誘導して、獲物がとまったらぱっと閉じるのだ。睫毛みたいに並んだ棘に閉じ込められた獲物は、溶けて栄養となるのを待つしかなくなる。改めて考えてみると恐ろしいというか、ハエのことが少し不憫になる。
このフロアの一番奥には階段があって、その手前のテーブルには沢山のサボテンが並べられている。オフィスやダイニングにでもありそうな小さなサボテンばかりだ。
日常の中でよく見かける観葉植物も、こうして一箇所に沢山並んでいると、まるで御伽の国に迷い込んでしまったような感覚に陥る。
「お気に召したものがありましたか?」
背後からそんな問い掛けが飛んできて、心臓が止まるかと思った。
振り返ると、いかにも柔和そうな男の人が立っていた。エプロンをしているところを見るに、店員さんだろう。二十代くらいに見えるが、今どき年齢より若く見える人なんていくらでもいるから、本当のところはどうかわからない。
しかし、少し勘違いされているらしい。私には購入意欲なんてないのだ。
「別に、買おうと思って来たわけじゃないので」
そう言うと、店員さんは微笑んで、
「そうでしたか。でしたら、好きなだけ見ていってください」
「ありがとうございます」
在り来たりな会話。それ以上発展することもないので、私は改めてサボテンの並んだテーブルに向き直った。
ふと、目に入ったのが濃桃色の花だった。
その可愛らしい花は、真っ白な棘や綿毛が生えた丸く小さいサボテンについていた。サボテンに花がつくことは知っていたが、実際に見るのは初めてだ。しかも自分が想像していたのとはまるっきり違う見た目をしたサボテンで。
その珍妙なサボテンに魅入っていると、さっきの店員さんが私の横に移動してきた。
「それは白珠丸っていいます。ちょうどこの間から咲き始めたばかりなんですよ」
「変わったサボテンですね」
特に見た目が、という言葉は飲み込んだ。言わずとも伝わってはいるのだろうけど。
「そうでしょう。普通サボテンってこの時期には咲き終えるんですけど、このサボテンは冬の間に開花するので、ちょうど入れ替わりになるんですよね」
あ、どうやら勘違いされたらしい。私はサボテンの花が咲く時期なんて知らない。とはいえそれを言うわけにもいかないので代わりに、そうなんですか、と言った。
好きなものがないということは、すなわち興味を惹かれるものがないというだけである。私がこの店に入ったのは、その雰囲気に珍しく好奇心がそそられたからであって、別に植物に興味があるわけではない。そんなものの解説を聞いたところで耳障りなだけだ。いい加減にこの店員さんもそれを察せば良いのに、と思う。
「何か、好きな花とかありますか?」
「……いえ、特には」
ああもう、別に興味もないし、買うつもりなんてないのに。どうせ、なにか勧めて買わせようって魂胆なんだろう。
そんな私にお構いなく、にこにこ笑った店員さんは今しがた話題に上がった白珠丸というサボテンを鉢ごと持ち上げた。片手で持てる程度の鉢植えだ。
「せっかくですから、これ、差し上げます」
「えっ?」
突拍子もない申し出に、意図せず声が出てしまった。しかしそんなことを気にする様子もなく店員さんは続ける。
「これくらいのサボテンなら玄関なんかに置いても邪魔にならないでしょう。育てるのは難しいですけど、興味を持ってもらったものでサボテンデビューしたほうがいいですしね」
そんなことを求めていたわけではない。私は別にサボテンが欲しいわけじゃないのだ。そんなものを無理して貰うことはない。お母さんなら喜んで貰うだろうけど、私は、無料でというところに気が引ける。
「あの、私、別にそういうつもりじゃ……」
「そうですか? では、興味が出たらいつでも仰ってくださいね。おひとつ好きなものを差し上げますから」
そんなこと、あるわけないのに。しかしそれを言い出すこともできず、私はただ頷いた。
店員さんは持ち上げた鉢を元の場所に戻して、
「では、私は用事をしてきますね。何かあればいつでもお呼びください」
そう言い残して、店員さんは入り口のほうへ歩いて行った。
私はサボテンの置かれたテーブルに視線を戻す。真っ白な白珠丸が一際目立っている。
これを受け取っていたら、私はどうしていたのだろう、と考える。
趣味とは興味を持ったからするものであって、私みたいに何にも興味を持てない人間が持つのはおかしい。もちろん、他人から勧められたことをきっかけに始めるということもあるだろうが、仮に、白珠丸を受け取っていたとして、私はそれをきっかけにできたのだろうか。
……わからない。
願望のない私がそういうことを考えても仕方ないのかもしれない。私は思考をやめて、ぼんやりと店内の植物を見つめていた。
***
ふと腕時計を見ると、もう四時半を回っていた。そろそろ帰らなくては、連絡なしに普段より帰りが遅いとお母さんも心配するだろう。帰りに電話だけ入れておこう。
足を入り口に向かって動かすと、ちょうどカウンターの奥から店員さんが出てきたところだった。
「あ、もうお帰りですか?」
私に気付いて、声を掛けてきた。
「はい、ありがとうございました」
「いえいえ。お客さん、そこの高校の生徒さんですか?」
「はい」
「そうですよねー。制服に見覚えがありましたから」
店と学校の位置関係上、この店の前を私の高校の生徒はよく通るはずである。この店員さんは制服を覚えていたらしい。
私が何も答えずにいると、店員さんが続けて口を開いた。
「……バイトに興味とかありませんか?」
「バイトですか?」
唐突な質問だったので、私は反射的に聞き返した。店員さんは明るい笑顔のまま、
「ええ、アルバイトです。やってみないですか、うちで」
つまり勧誘らしい。
口を開いて、それから返答に詰まった。
こんなもの断るべきだという自分と、やってみてはどうかという自分がいる。
こういうアルバイトは、観葉植物に興味がある人がするべきであって、私みたいな人間がするべきではないと思う。それなのに、このアルバイトが、夢や願望といったものを見つけるきっかけになるのではないかとも考えている。
それなら、私は、
「ごめんなさい。こういうことは、植物が好きな人がやるべきです」
そう答えるしかない。興味がないことをして、他人に迷惑をかけるのは間違っている。
店員さんはしかし笑顔で、
「それって、やってみたいという気持ちがあるということですか?」
私は無意識のうちに頷いていた。
それで、店員さんはこう言うのだ。
「なら、やってみてください。今うちの店は従業員がいなくて困っているんです。助けると思って、働いてみませんか?」
私の考えていることを全て見通したかのようだ。それなら、断る理由が何もないじゃないか。
私は意識せず手をぎゅっと握り締めていた。
「……しても、いいんですか?」
尋ねると、店員さんは嬉しそうに頷いた。
「はい、もちろん!」
そして私は、『Alberi futuri』のアルバイト店員となった。