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好き。
清久も浩平へ好意は持っていた。友人として。覆される関係に、頭が付いていかない。
「……どう、しよう」
呟きに答えるかのように鳴り響く着信音。
ディスプレイを確認して兄だと知らされる。何だろう。
「はい?」
『よう、調子はどうだ。メシしっかり喰ってるか?』
家を離れて、たった数ヶ月なのにとても久しぶりに声を聞いた気がする。世間一般でいう所の母親の様だ。もっとも、実際の竹内家の母は放任主義であるが。年が離れているせいか、何かと心配性の兄に知らず顔を綻ばせた清久は、鍵を取り出し自室に戻る。
「元気だよ。兄貴は?」
『変わらないな。……あぁ、そういえば』
言葉を切られ、訝しげに携帯に集中する。
『コーチをな、任された。まぁ、母校のOBとしてだけどな』
「っす、すごいじゃんっ!!」
彼の通っていた学校は陸上でとても有名な所だ。歓声を上げた弟に、兄は静かに諭す。
『光栄なことだよ。……清久。兄ちゃんはもう、走れない』
知ってる。
あんなに速くて、あんなに嬉しそうに走る人間は見たことなかった。
同時に浮かぶ、スパイクの袋を抱えてひとり涙する姿。扉の隙間から盗み見た、絶望に打たれた背を。
自分に教えてくれた兄が無くした「走る」を、自分だけがいつまでも続けていい訳がない。そうして清久も誰にも言わず、そっとスパイクを押入れに仕舞った。
『──でも、な。走れなくても、好きなんだよ』
「……うん」
それも、知ってる。
『本当に清久が嫌で止めたなら、何も言わない。ただ、俺に遠慮してるなら怒るぞ。俺は清久が走ってるのを見るのも好きなんだぞ』
「っう、ん……」
視界が滲む。
『必要だったら、使えよ』
引越し用品に入れた覚えのなかったクツを発見したのは、浩平が跳ぶのを見てから。グラウンドに面した窓から何気なく目をやって、ひと際洗練されたフォームに胸が高鳴った。
『我慢しなくていい』
「……っ」
やさしく響く声に、何度も無言で頷く。
見えるはずもないのに。
──いっしょに、走りたい。
浩平と。
さっきのように、手を引かれてではなく。
兄とのように、後を付いてまわるのではなく。
「ありが、とう……」
知らぬ内に心に巣くっていた澱みを一掃される。