不似合いなカーニバル 8
「違う。その配列は日食だ。俺達が真ん中にならなきゃ月食にならないだろ!」
「そんなこと言ったって、普通と何が違うのか全然わからないんだけど。何か意味あるの?」
「意味があるとかないとかじゃないんだ。あと四日しかないんだ、ひたすら覚えろ」
ヴィンチェンツォの苛立った声が、静かな図書館に響き渡る。
眠たげな目を何度もしばたたかせ、ランベルトは「あーー」とうめき声をあげる。
「そんな簡単なところで悩むな。天文学はもういい。幾何の教科書を開け。どうせ、まるで手をつけていないんだろう。そっちの方がまずい」
ランベルトの目の前に、ヴィンチェンツォの手によって新品同様の綺麗な教科書が開かれた。
「勉強していない証拠だ。この本、高く売れるぞ」
めまいがする、とヴィンチェンツォは心の底から思った。
「だからこんなまっさらな状態から、四日でどうやってやっつけるんだよ」
「開き直るな。落第してもいいのか」
そう叱咤するものの、ヴィンチェンツォも心のどこかで諦めよう、とささやくもう一人の自分の存在を意識しはじめている。
ランベルト達が体調を取り戻し、ようやくアカデミアに復帰すると、既に中間試験は終わっていた。
街は既に秋風が吹きぬけ、突き刺すようだった日差しはどこまでも優しかった。
優しい日差しとは対照的に「追試」という厳しい現実が、ランベルトの目前に迫ってきていた。
「俺、もう留年でもいいや」
机に突っ伏すランベルトを見下ろし、ヴィンチェンツォは冷ややかに言った。
「まだ半年くらい残ってるぞ。残りの半年を留年確定で過ごすなんて、針のむしろだ。俺なら耐えられない」
ちくちくと刺すような言葉を投げつけるヴィンチェンツォの横で、ロッカが必要と思われる箇所に印をつけてやっていた。
「今日は終わりにして、家で覚えてきてもらったほうがいいんじゃないかな」
これ以上ランベルトの尻を叩いたところで勉強がはかどる様子はない、とロッカは思った。
ヴィンチェンツォはロッカの提案に同意し、くたびれた吐息をもらした。
「そうだな。俺は帰る。明日おさらいするからな」
「いいなあ、ヴィンス様は暇そうで。俺も四年生になったら、毎日女の子と遊び放題なのかな」
それは絶対ない、とロッカは心の中で呟いた。
ヴィンチェンツォは一瞬言葉に詰まるが再びしかめ面で、ランベルトの頭を普段より乱暴にかき回す。
「余計なことを考えてる暇があったら、やりなさい」
「はーい」
二人を待たずに、ヴィンチェンツォはそそくさと帰宅してしまった。
「そんなに忙しいなら、無理に付き合ってくれなくてもいいのにさ」
ロッカは恨みがましいランベルトをなだめながら、自分も帰り支度を始めた。
切羽詰ったランベルトとは対照的に、余裕のあるロッカである。
自分の勉強もそこそこに、最近はランベルトにつきっきりであった。
「進路が決まる大事な時なんだから、仕方ないよ」
「どうだか。兄上が言ってた。フィオナ様の女官と付き合ってるって。王宮にしょっちゅう顔出してるのだって、どうせ彼女に会う為だろ」
隠さなくてもいいのに、とランベルトは不満そうである。
「そのくせ兄貴風吹かして、妙に口うるさくなったし」
「ヴィンスだけは、まだ見捨ててない証拠だよ。ありがたく思わなきゃ」
ランベルトは複雑そうな表情で、ロッカをじろりと横目で見る。
「形だけでも試験を受けてください。あとはどうにかなると思います。駄目でも来年がありますから、気を落とさないように。人生は長いんですから」
と、一方ではクライシュが、さじを投げたとも思われるような言葉を口にしていた。
二人が門に向かって歩いていると、通りかかった女生徒が「アクイラ殿」と、固い表情で声をかける。
少女はすぐさま清々しい笑みを浮かべ、二人に駆け寄った。
「あれ、また背が伸びたんだな」
「そうですか、自分はあまりわからないんですけど」
ロッカと同級生の女生徒らしかった。
黒髪の少女の名前は、確かステラだったような気がする、とランベルトは少女の切れ長の瞳にぼんやりと魅入っていた。
この美しい少女は珍しく男子の制服を着用していたが、それがかえって彼女の美貌を引き立てていた。
男勝りな性格だと聞いていたが、ロッカに向けられた笑顔は爽やかで、好感が持てる人物だとランベルトは思っていた。
現宰相の孫娘だというその少女と会話をかわしているロッカを残し、ランベルトは再び教科書をぱらぱらとめくりながら歩き出す。
雑念よ消えされ。
今は余計なことを考えている場合じゃない。
ちょっとロッカが羨ましいなんて、全然俺は思ってもいないし。
目だけは文字を追っていたが、明らかに雑念に支配されはじめようとしていた。
渋々ながらも覚えた内容をそらで繰り返しながら、ランベルトは門に向かって歩いていた。
俺だって、やればできる。
ぶつぶつと呟いているランベルトを、ロッカが走って追いかけてきた。
「お前はいいよな、追試も楽勝だろ。女の子と話す余裕があるくらいだから」
「最近、ひがみっぽくなってきたよね」
犬がランベルトの元を去ったにも関わらず、怪しげな後遺症状とも思われる行動や発言が増えた。
やたらと寂しがり、わがままを言い、なけなしの集中力でさえ激減していた。
「とんでもない置き土産だ。俺は、犬は賢い生き物だと最近まで思い込んでいた」
と評したヴィンチェンツォに同意する人々だった。
「ヴィンス様だけじゃなくて、ロッカまで俺を置いてけぼりにするんだ」
「してないだろ」
「じゃあ今度俺も混ぜて」
「普通に話せばいいじゃない。ステラはいい人だよ」
無事に復学したものの、ロッカは以前よりも無口になり、意図的に女生徒を避けるようになった。
ロッカの周辺は、相変わらず女生徒の黄色い声が絶えなかった。
休学前より、更にその声が増しているような気がする。
冷めたような表情がまた素敵、と女生徒達は言う。
だがロッカにしてみれば、女の子は怖い生き物、の一言に尽きた。
愛らしい仮面の下に歪んだ欲望を隠しているのだ。
不用意に近寄ってはいけない、とロッカは肝に命じていた。
それでも女性を感じさせないステラは、ロッカが緊張することなく気楽に会話ができる稀な存在だった。
「だってあの子がロッカに話しかける時は、俺のことなんてまるで無視してるんだもん。俺なんて眼中にないって態度だもん」
「気のせいだよ。深読みしすぎ」
陰りを帯びたロッカの横顔に思わず見とれ、ランベルトはうーむ、と感心したようにうなっていた。
急に大人っぽくなった、と騒ぐ女生徒達の気持ちはわからなくもない。
女生徒に対して冷淡ともとれる態度をみせるわりには、ちゃっかり綺麗な子と仲良くしている。
ランベルトは今まであまり気にしたことはなかったが、正直ロッカが羨ましかった。
もはや雑念しか存在しない会話に成り代わり、ランベルトはこの世の終わりのようなため息をついた。
「寒くなると人肌恋しくなるっていうし…いいなお前もヴィンス様も、ぽかぽか春の陽気で幸せだ。俺も彼女欲しい」
弁明する気も起きず、ロッカは哀れみの眼差しをランベルトに向けていた。
「そういう寝言は、試験が終わってから言え」
ひえっ、とランベルトは情けない声をあげ、後ろを振り返った。
「帰ったんじゃなかったの」
分厚い紙の束を掲げ、ヴィンチェンツォがわずかに顎をつんと上げた。
「クライシュ先生から預かった。いらないなら捨てる」
試験問題の横流しではなかろうか、とロッカはすぐさま気付くが、黙って二人のやりとりを眺めていた。
「いります!ありがとうヴィンス様!」
気のせいだろうか、ランベルトの後ろに、ちぎれんばかりに激しく動くしっぽが見えるような…とヴィンチェンツォはぼんやりと思った。
すっかり機嫌の直ったランベルトをよそに、ロッカは夕暮れの空をおもむろに見上げて言った。
「早くしないと、遅れるよ」
「お前まで余計な気を遣うな。今日は会う予定はないから、いいんだ」
照れ笑いしてる、しかもいつもと違う笑い方だ、とランベルトは隣のヴィンチェンツォを思わず凝視する。
ヴィンス様が遠まわしに恋人の存在を認めている、とランベルトはそこでまた衝撃を受けた。
どうせ俺は、とすねたように早歩きになるランベルトは、門の前で突然声をかけられる。
「悪かったな。身内がいろいろ迷惑かけたみたいで」
マルティノは門に寄りかかり、神妙な顔つきでランベルトをじっと見ていた。
いつものような、敵意剥き出しの表情はなかった。
「お前のせいじゃないだろ」
自分もロッカもさんざんな目に合わされたに違いないが、責めるべき相手はマルティノではないとランベルトも理解していた。
「俺が、余計なことを伯母上に喋ったせいかもしれない。アカデミアでの出来事とか、お前達の話をすると、とても喜んで聞いてくれたから、つい」
「だったら尚更、お前のせいじゃないだろ。俺達全然気にしてないから、お前もさっさと忘れちまえよ」
ランベルトはつとめて明るく振舞った。
ランベルトにも多少、心にしこりが残ったのは事実だが、何より横にいるロッカを気遣っての発言である。
だがマルティノの寂しげな微笑みは、簡単に消化できるものではないと語りかけていた。
「俺、アカデミア辞めて修道院に入ることになった。ここに来るのも、今日で終わりなんだ」
「そんな急に?せめて春までここにいればいいじゃん」
「もう決めたんだ。ずっと悩んでたけど今回のことで心が決まったというか、後押しになったみたいだ。俺は、伯母上みたいな醜い大人になりたくない」
ランベルトは驚きを隠せず、大きな瞳を見開いてマルティノを見つめていた。
「お前が、その、罪悪感とやらに苦しむ必要なんてないと思うけど。お前のせいじゃないってさっきも言ったじゃん」
多感な時期に身内に事件を起こされては、確かに人生観も変わるのかもしれない。
必要以上に物事を複雑にとらえるのも若さゆえなのか、と若いはずのヴィンチェンツォでさえ、マルティノの決意は早急な気がした。
「ありがとう。酷いこといっぱいしたのに、俺、そんなふうに言ってもらえるなんて思わなかった」
達観したように大人びた表情になるマルティノが、ランベルトはにわかには信じがたかった。
「そっか。お前が決めたんだから、仕方ないよな」
しばらくの沈黙のあと、ランベルトは感傷を振り払い、いつもどおりの茶目っ気たっぷりの笑顔を見せていた。
「元気でな。いろいろごめん」
マルティノはおずおずとロッカに向かって片手を差し出した。
ロッカは無表情であったが、黙ってマルティノと握手を交わした。
ランベルトもマルティノに向かって右手を差し出す。
何もかも水に流して最後くらい気分よく別れよう、と思った。
だがランベルトは驚くような強い力で右手を引かれ、気が付けば自分の体はマルティノの腕の中にあった。
あれ、何が起きたの、と時が止まるランベルトの耳元で、マルティノは悲しげにささやいた。
「ずっと好きだった。最後に会えてよかった。君の幸せを、毎日遠くから祈っている」
後ろを向け、とロッカを抱えるようにヴィンチェンツォがくるりと向きを変える。
間に合わなかった。
マルティノに唇を奪われるランベルトが、二人の視界の隅に入り込んでしまった。