不似合いなカーニバル 3
それからしばらくランベルトは周囲を安心させる為に、良い生徒である努力を自分に課した。
兄に怒られるのもいやだったし、不可抗力とはいえヴィンチェンツォやロッカ達を巻き込んだのは正しくなかった、と反省したからである。
毎日真面目に宿題をやり、弓術大会の練習にも熱心に取り組んでいた。
遅刻も少々、減ったようである。
そんなランベルトを見たロッカは、無理がたたって爆発したらどうしよう、と不安を募らせる。
「それで普通だから。宿題は毎日やるものだし、何もしないで大会に出るなんて考えられない」
とロッカの心配をよそにヴィンチェンツォは、しごく真っ当な意見を口にしていたが。
マルティノが帰宅すると、華やかな笑い声が庭から響いてきた。
客人に挨拶するため、マルティノは襟元を正して裏庭へと向かう。
「お帰りなさい。最近、何か楽しいことはあった?」
遠縁の伯母が、色濃く縁取られた瞼を何度もしばたたせながらマルティノに向かって微笑んだ。
子爵家に嫁いだ伯母は大層はぶりが良く、また暇を持て余してマルティノの家にも頻繁に顔を出していた。
「いつもどおりですよ。生意気な奴らが幅を利かせていて…って、前にもお話しましたっけ」
「ええ、ロッカ・アクイラね。夫が彼の信奉者なの。この前も絵を譲っていただいたのよ。素直で、可愛らしい子じゃない」
昨年、権威ある美術展で入賞したロッカは一躍時の人となった。
「まだ十三歳でしょう、少しは手加減しておあげなさいな」
苦い顔をするマルティノを手招きし、子爵夫人はゆったりとした仕草で長椅子に寄りかかる。
「その取り巻きみたいな奴も気に入らない」
マルティノの率直な言葉に、子爵夫人は自然と笑いを誘われる。
子爵夫人は、ロッカの母親の茶のみ友達でもあった。
友人同士のお茶会で、ロッカの話題には事欠かない。
平凡な甥が、有名人であるロッカに対して嫉妬心らしきものを抱いているのがなんともおかしかった。
あまり虐めても可哀想だと思い、子爵夫人はロッカの話を早々に切り上げる。
少年達の賑やかな学校生活の話は、子爵夫人の楽しみの一つでもあった。
「他には?何か面白い話を聞かせてちょうだい」
子爵夫人の纏う香水が初夏の夕暮れに溶け込むように、濃厚な香りを放っていた。
ロッカは自室で飼い猫のスケッチをしていた。
必ずと決めたわけではなかったが、一日一枚落書きをするのが日課になっていた。
寝る前となると、必然的に目の前にいる猫の絵が多くなる。
他のものもたまには描こうかな、と丸くなる猫を見つめ、ロッカは思った。
その時、部屋の外から母親の声がした。
「まだ起きてるよ」とロッカは言う。
「あなたに話があって。とてもいいお話なのよ。お隣の国の美術学校に行ってみない?」
「お母さん、僕、学校に入ったばかりだよ」
「こんなに揉め事が多いなら、あなたをアカデミアに入れるんじゃなかったって思うわ。王太子殿下達がいらっしゃるから、安心して送り出したのに…」
黙りこむロッカに、母親は話を続ける。
「美術学校につてのある方が、知り合いにいるのよ。個人的に援助してくださるともおっしゃってるし、あなたの助けになると思うのだけど、どうかしら」
「絵は、趣味だよ。僕は別に」
「あなたの才能を高く評価してくださる方が、大勢いるのよ。アカデミアなんてあなたにしてみれば、行っても行かなくても同じでしょう」
ロッカは黙ったまま、母親の友人達の姿を思い浮かべた。
揃いも揃って、裕福な貴族ばかりである。
ロッカは、その人達が苦手だった。
「明日、弓術大会があるんだ。そろそろ寝るよ。お母さんも見に来る?」
さりげなく話題を変えつつ、ロッカは本心を隠してにこりと微笑んだ。
そうね、と母親は返事をするが、これといって弓術大会に興味があるわけでもなかった。
母親の心は、既にアカデミアから離れていたからである。
王太子という強力な後ろ盾があったはずなのに、蓋を開けてみれば心ない嫌がらせの数々だと学長から報告を受けている。
今ではすっかりあてが外れた、とさえ思うようになっていた。
名門といえども、自分の息子を凌ぐ優れた生徒が大勢いるわけでもなかった。
王都に一つしかない学校ではたかが知れている、世界は広いのだし、と母親は更なる高みを目指していた。
丁度いい機会である。
学長と息子の今後について相談するのもいいかもしれない。
母親は別の思惑で「楽しみにしてるわ」と言った。
***
星明かりほどのわずかな光さえもない暗闇に、ランベルトは立ち尽くしていた。
時々話し声のようなものが聞こえるが、何を話しているのかはわからなかった。
それよりも、この喉が焼け付くような感覚は何だろう。
喉だけでなく、全身が燃えたぎるように熱を放っている。
苦しい、と真っ暗闇の中でランベルトは手を伸ばす。
いやだ、誰か助けて。
ああ、またこの夢だ。
今日もまた同じ「死を待つ」夢を見て、自分は出口を探している。
ヴィンチェンツォは参加者の中では最高得点に近い点数を取得し、満面の笑みを浮かべていた。
上位十名ほどで、決勝が行なわれる予定だった。
今のところヴィンチェンツォは、予選通過が決定したも同然である。
だが、ランベルトやロッカの結果が出ていないことには、まだまだ安心できそうになかった。
「ランベルトは俺より早い順番だったと思うけど、まだ来てないのか。なんだってこんな日に」
ランベルトを見捨てて登校したのは、正しい選択だったようだ。
「大目にみて順番を入れ替えたようですが、間に合わなければ失格扱いになるそうです」
ランベルトを制御できない君にも問題がある、とクライシュは古株の教官から嫌味を言われたばかりであった。
遅刻くらいならよしとしよう、とクライシュは自分に慰めの言葉をかけた。
一方ヴィンチェンツォは、遅刻してくるような奴に負けるのもしゃくだな、と思っていた。
「失格でいいじゃないか。そうすれば俺が優勝できるのに」
ヴィンチェンツォの語尾に重なるように、観客席から歓声が沸き起こった。
「ロメオ・ミネルヴィーノがヴィンスと同点で、暫定一位です」
瑠璃は軽薄そうな笑みを振りまいているロメオを、面白くなさそうに見ていた。
「そう簡単に優勝できると思ったら大間違いだよ」
戻ってきたロメオは高笑いをしつつ、挑戦的な言葉をヴィンチェンツォに投げかけた。
「ちょっとどいて!遅れる!」
進路をふさいでいたロメオを突き飛ばし、ランベルトが全速力で控え室へと駆け込んでいった。
もう遅れてます、と諦め顔になるクライシュの後ろで、瑠璃がかすかに眉をひそめていた。
自分の背後で浮かない顔をする瑠璃に気付いたクライシュは「どうしました」と声をかける。
「ごめんなさい、ちょっと気分が」
「珍しいですね、ルゥが具合が悪いという時は大抵…」
よくないことが起きている。
「ランベルトが、変です」
「変というか頭が弱いのは知ってます。ですが瑠璃」
自分にもたれかかる瑠璃を抱き寄せ、クライシュは小声でささやいた。
「君が言う『変』は、穏やかではありませんね」
どうしたものかと思うが、顔色の悪い瑠璃の方が遥かに心配だった。
その時だった。
控え室の方から穏やかならぬざわめきが聞こえる。
やがてそのざわめく方向から、ロッカがぱたぱたと競技場へと走ってきた。
「ランベルトが。誰か、止めて」
「今度は何でしょう」
嫌な予感がする、とクライシュはその答えを半ば自分で導き出していた。
「前みたいに、ううん、前よりも酷いんだ。控え室でマルティノ達と…」
自分もとうとう気持ちが悪くなってきた。
最近心労で寝つきもよくない。
とクライシュは半泣きのロッカをぼんやりと眺めていた。
「おい風紀委員。行かなくていいのか」
唯一ヴィンチェンツォだけは動じる様子もなく、選手席で優雅に足を組みなおすと背もたれに踏ん反り返っていた。
叫び声をあげながら頭をかきむしるロメオを見上げ、ヴィンチェンツォはにやりと笑っていた。
全然僕は面白くない。
ヴィンチェンツォを席から引きずり出すと、ロメオは「お前も来るんだよ!」と強引に控え室へと向かう。
「なんで俺が」
「お前の舎弟みたいなもんだろ!」
「俺はもう嫌だ。あいつがどうなろうと知ったことか!」
抵抗するヴィンチェンツォの焦り声が、虚しく辺りに響く。
「先生、私達も行きましょう」
いつからランベルトはあのように禍々しく、不快な気配を漂わせるようになったのだろう。
瑠璃は何としてもその理由を確かめたかった。
クライシュも嫌々ながら、不思議な力を持つ自分の助手の言葉を無視することはできなかった。
瑠璃の見立てが外れたためしなど、過去に一度もない。
まずいことになった、とクライシュはため息を封印して瑠璃の後を追った。
「ランベルト!やめなさい!」
完全に意識を失っているマルティノの首を執拗に片手で締め上げ、ランベルトは無表情であった。
「気が狂ってやがる」
マルティノの手下の一人が、怯えた表情で床を這い、転がるように逃げ出していく。
「ランベルト!やめろ!殺す気か!」
ヴィンチェンツォの呼びかけにも答えず、ランベルトはその手にますます力を込めていく。
素早くクライシュやロッカがランベルトを引き離そうとするが、どこにこんな力が、と驚くほどランベルトはありったけの力で抵抗する。
ロメオやヴィンチェンツォも加わり、ランベルトをマルティノから引き離そうとするが、小柄なランベルトからは想像もできない力で全員を振りほどいた。
床に崩れ落ちたマルティノを見つめ、死んでたらどうしよう、とロッカは震えていた。
獲物を取られて怒っているのか、ランベルトが「許さない」と言ったように聞こえた。
その声はこの世のものとは思えぬほど憎しみに満ちていて、瑠璃は体中を襲う嫌悪感に身を震わせていた。
突然、ランベルトの血走った目がロメオに向けられる。
「嘘だろ、落ち着けって」
焦ったように薄笑いを浮かべるロメオの前に立ちはだかり、ランベルトが獣のような咆哮をあげる。
やられる、と恐怖にひきつるロメオの視界には、宙を舞うランベルトの姿があった。
ヴィンチェンツォの渾身の背負い投げに、誰もが声を失っていた。
壁に叩きつけられ、ランベルトはそのまま動かなくなった。
「猪か」
うめき声を上げるランベルトを見下ろし、ヴィンチェンツォは荒々しい息を吐きながらその隣に座り込む。
「で、今日は何が原因なの」
ようやく自分の役目を思い出し、ロメオは隅っこで小さくなっていたロッカを振り返った。
「急にランベルトが暴れ始めたんだよ。マルティノとも、何か話してたわけでもないし」
「顔見るだけでむかつくのかな。それはわからなくもないけど」
こんな凶暴な奴だったかな、と素朴な疑問がロメオの頭に浮かんだ。
「黒い影があの子に。気持ち悪いくらいに、彼を覆い隠すようなものがまとわりついて…」
瑠璃の震えは、一向に収まる気配がなかった。
クライシュは先ほどの瑠璃の会話を思い出し、「ランベルトに?」ともう一度尋ねる。
はい、と瑠璃は青ざめたままうなずいた。
***
「なんだよ、みんなして怖い顔して。反省してるって言ったじゃん」
またやってしまった、と重苦しい雰囲気の中、いつものようにランベルトは謝罪してみた。
自分が何をしたのか、身に覚えはなかった。
だが、自分の意思とは無関係にマルティノを襲う自分を、ランベルトは遠くから見ていた。
二重人格、という文字がランベルトの頭をよぎる。
あり得ない現実に、ランベルトは叫び出したい衝動にかられて頭をかきむしる。
「ルゥの見立てでは、君に何かが取り憑いているそうです」
「はい」
クライシュの助手であるこの少女は、目に見えないものが見えるという話を、以前に聞いたことがある。
「嘘じゃありません。死んだものの思念が、今のあなたを動かしているのです」
嘘だあ、とまるで本気にしていないランベルトに向かって、瑠璃が静かに言った。
「死人が憑いてるっていうこと?」
「人ではありません。犬です」
「犬の霊?どうしてそんなものがランベルトに」
眉をひそめたヴィンチェンツォとは対照的に、腹を抱えて笑い転げるロメオである。
「よりによって犬だって。美人の幽霊ならともかく、とことん間抜けだよなあ」
「あなたは黙っていてください」
瑠璃がじろりとロメオを睨みつける。
「何か思い当たることはありませんか。ルゥの話を信じないなら結構ですが、後でえらい目にあいますよ」
「耳としっぽが生えてきて、本当に犬になっちゃうとか?」
「ふざけないで真面目に答えなさい」
クライシュの声が、いつものお小言より数倍固い。
「犬なんてうちでは飼ってないし、全く縁がないんだけど」
「僕の家にも犬はいません」
「俺の家もだ」
「その隠している右手は何ですか。あなたは朝からそれをはめていましたよね」
瑠璃の重々しい言葉に、ランベルトの右手に一同の視線が集まる。
「指輪?そんなものしてたか」
「細いし、目立ちにくいから誰からも指摘されなかったんだけど…」
もごもごと言いながら、ランベルトは皆の視線を避けるようにくるりと背中を向けた。
まさか、とランベルトはごくりと唾を飲み込み、無意識に突っ込んでいた右手をポケットの中で握り締める。
「最近の、黒魔術の、犬の、遺棄現場で…」
「拾ったのですか?」
瑠璃が小さな叫び声をあげ、わずかに後ずさっている。
「今すぐ外しましょう」
震える瑠璃の肩を抱き、クライシュは意を決し静かに言った。
「さ、いい子だから右手を出しなさい」
クライシュはヴィンチェンツォ達に目配せをし、「ランベルトを押さえて」と冷たく言った。
「冗談だろ。ただの、どこにでもある普通の指輪だよ」
薄笑いを浮かべるランベルトに向かい、瑠璃は悲しげに首を振った。
「普通じゃありません。呪いの指輪です」
「痛い痛い痛い!指がちぎれる!」
ヴィンチェンツォにロッカ、そしてロメオが三人がかりでランベルトに馬乗りになり、さすがにランベルトも身動きが取れない状態にあった。
絶叫するランベルトを無視し、ひたすら指輪を外そうと躍起になるクライシュだった。
「むくんじゃってるのかな」
痛がるランベルトに同情しつつも、ロッカは必死でランベルトにすがりつく。
「駄目です、外れません」
瑠璃がゆっくりと回しながら指輪を抜こうと試みるが、指輪は食い込むというよりはランベルトの指に吸い付いたようにびくともしなかった。
思いつくままにあらゆる手段を駆使するものの、指輪はがんとして外れなかった。
「こうなったら、指ごと切り落とすしかないんじゃないの」
ロメオの容赦ない一声に、ランベルトは再び絶叫する。
「いやだよ!そんなことするくらいなら、一生このままでいい!」
「駄目です。今は無事でも、そのうちあなたに返ってきます、犬の怨念に蝕まれて廃人か狂人のようになります!」
瑠璃が額に汗を浮かべ、なおも指輪を抜こうと必死であった。
「もう終わったな。残念だが…打つ手がない」
どっしりとランベルトの上に座り込み、ヴィンチェンツォは諦めたように天を仰ぐ。
結局瑠璃が「応急処置です」と、ランベルトの背中に異国の文字が書かれた護符を貼り付け、ようやくランベルトを解放してくれた。
こんなもので大丈夫なのかな、とランベルトは不安になるが、自分が第三者によって操られているのは、まぎれもない事実であった。
「そもそも、どうしてその指輪に犬の怨念とやらが宿ったのかが謎だ」
うなだれるランベルトを見つめ、ヴィンチェンツォは小首をかしげていた。
「数件の犬の事件には、全て共通項があるとか。犬の死体、その血を使った円陣、そして犬の口の中に指輪」
疲れた、と勝手に長椅子に身を投げ出したロメオが、誰にともなくぼそりと呟いた。
ヴィンチェンツォが身を乗り出し、食い入るように自分を見ている。
ヴィンチェンツォだけでなくその場にいた人々の視線に、ロメオは快感に等しい優越感を覚える。
「ただし、最後の遺棄事件の時には、犬の口の中に指輪はなかったらしい。念の為、現場へ確かめに行ったが、指輪は見当たらなかった、と」
得意げに解説したものの、少し喋りすぎたかな、と思うロメオでもある。
「お前が拾ったんだもん、見当たらなくて当然だろ」
「委員長さん、詳しいんですね」
ロッカが驚いたように言った。
「まあね」
「その話が事実だとしてだ」
ヴィンチェンツォは苛立ったように黒髪をかきあげた。
「俺、どうすればいいの」
泣き出しそうなランベルトに、ロメオは「知らない」と冷たく言って会話が終わる。
「その事件の首謀者を見つけだすしかありません。といっても、その人物が呪いの解き方を知っているかどうかは別です。大抵、そういったものは解き方などないそうですから、ですよね、ルゥ」
「ランベルトが暴走しないように、どこかに閉じ込めておくしかないでしょうね」
クライシュにうなずきながら、瑠璃が憐れむような眼差しでランベルトを見ていた。