六
周囲の喧騒も収まってきたころ、俺は男が落ちた場所へと戻ってきた。フェンス越しにそれを眺める。フェンスにかかった血が生々しい。幸い、男は着ぐるみを着ていたためかその下のグロテスクな姿を見られずに済んだ。それだけが救いだろう。
「いや、まいったねこりゃ」
男の声が聞こえる。
「まさかまっててくれると本気で信じちゃってるとは思わなかったよ」
「どう言うことですか?」
「何、君こいつの知り合い?」
「いえ」
る?そうだよ今日あいつに別れを切り出しにきてたんだよあの家族は。こいつの嫁だって僕と再婚してる。数年間どこぞの金で買った女と一緒に暮らしてたクソ野郎なんかとはさっさと縁を切りたがってたんだ。なのにあんなもの見せつけられたんだ。嫁――もう僕の妻だが――はショックを受けるし、子供は泣き出すしで最悪だ。トラウマになっただろうなぁ、かわいそうに。死んだって誰も困らないんだよこんな奴。むしろこれで今日僕は正式に彼女の夫になれる。あいつの遺した子供だって僕の子供になる。まったくいいざまだよ」
俺は終始無言で、この男の話を聞いていた。
「あ、そうそう。こいつはどこかから電話をかけてたみたいだよ。そうして家族とも連絡をとりあっていたんだ。そして昨日も電話をかけてきたんだ。えらく興奮していてね。僕だと気付かなかったらしい。それで今日、ここから出て行こうとしていることを知ったんだ。まったくバカな奴さ」
男はそれきり言うと、鼻を鳴らし、車に乗って外側の街へと戻っていった。俺は死体を一瞥し、着た道を戻った。
「そんで電話は見つかったの?」
「そもそもその死んだ男の家を知らん。掛けんのか?」
「ふーん。でもそれなら今頃電話押収されてんじゃないの?」
「さあな、治安維持機関つっても所詮は民間で運営されてるもんだろ。そいつの住所まではわからんだろう」
「んじゃあさ、探してきてよ」
「嫌だ。めんどい」
「ふーん」
男の家はフェンスの近くのアパートだった。この部屋ごと破棄するつもりだったのか、鍵はかかっていなかった。電話はなにやら複雑な無線機みたいな機械が設置されている部屋にあった。時代遅れの黒電話。ただし線はどこにも繋がっていない。試しにダイヤルを回して自宅にかけてみる。ツーツーツー。おかけになった電話番号は……。一応つながるようだった。
「ふーんじゃ、その電話使えるんだ」
「そうだ。だからお前、姉に掛けてみたらどうだ?」
「どうせ盗聴とかされてるよ。数日後にバーンってドア破って治安維持機関が突入してくるよ」
「今ならまだ大丈夫だって。それになんだかよくわかんねー機械もあったからそれで盗聴だって避けられる……と思う」
彼女と連れだってもう一度アパートの男の部屋に忍び込む。流石に住人にも不審に思われるだろう。時間的にもこれが実質最後のチャンスになることは明らかだった。
無機質な機械が並ぶ。ディスプレイが備え付けられ茫洋とした光を放っている。暗い部屋でのそのディスプレイの光はどこか怪しげで、なんだか男の人生を象徴しているかのような感じがした。その光をたよりに、無線式黒電話を見つける。
「見つかった」
「ふーん。そうなんだ」
彼女は興味なさげだった。
「しばらくぶりに姉と話せるんだろ?うれしくないのか」
「そりゃうれしいよ。でもねTPOってものがあるんじゃない」
「TPO?こんなときだから無事を知らせる必要があるんだろ。きっとねーちゃんも心配してるぞ」
「やっぱり、いい。やめる」
「んな勝手なことさせるか。人に苦労させておいて。それともホントは姉なんかいないのか?」
「いるよ。でも」
「でもなによ」
「こんな着ぐるみ着て、腹に実父の子供までいて、私全然無事じゃない」
「お前は無事だ。そしてお前に罪は無い。お前は救われなきゃならない。その不幸の半分でも姉と分かち合ったらいいだろうが。その権利がお前にはある」
「こっちが不幸になることで、あっちが幸せなら、それでいい。人が必ずしもそう言うのを自覚して生きなきゃならないことなんてないんだよ」
「お前が不幸だからってあっちが幸せとは限らんだろうが。一人で全部背負った気になってるんじゃねえぞ。とりあえず電話だけかけろ」
「わかりました。話せばいいんでしょ。だからそこどいて」
彼女は電話のダイヤルを回す。
「あ、もしもし」
繋がったようだった。
「お姉ちゃんいる?代わって」
久しぶりに話すはずだろうに、わりあい淡々としていた。
「あ、お姉ちゃん久しぶりー元気してた。…うん、うん、そうだね。え、こっち?あ、私は大丈夫。うん。何かねーみんな着ぐるみとか着てんの。マジウケる。うん。ハハハ。うん。じゃあ。またね」
短く別れを告げると受話器を置いた。
「なんで言わなかったんだ」
「だって言ったって無駄じゃん。助けてくれるわけじゃないし」
「だからさっきも……」
「あ、わたし、こっから出て行く」
「え?」
「だから、抜け出すのここから」
「どうやって?あてはあんのか?」
「うーん。考える」
「お前腹ン中に子供いるんだぞ。そしてそいつが死んだらお前だって危ないんだぞ?わかってんのか」
「あ、そうだ」
「今度はなんだ」
「うん。なんかねー廃線になった線路があるってきいたことある」
「線路?そんなとこもうとっくにマークされてるだろ」
「でもねー腐ってたりして危ないんだって」
「だから治安維持部隊の連中もいないってか?」
「いないわけじゃないんじゃない?少ないんだよ数が」
「でもそんな危ないとこ通れるわけないだろ」
「大丈夫だと思うよ。まだお腹膨らんでないし」
「だからってなあ」
言葉が続かなかった。彼女にどういう心境の変化があったかはわからない。だが試してみる価値はありそうだと、一瞬、思ってしまった。