無魔の世界の缶コーヒー ~ハイテク魔導都市で始める密輸ライフ~
白銀の超高層ビルが雲を穿ち、夜空に浮かぶ幾何学陣が街を淡い青に染めている。超高度魔導都市ルナ=ヴァリス。
その一角にある私設研究所の自室で、リアムは床に刻み込んだ複雑な魔術式を見下ろしていた。
ひんやりとした床に膝をつき、慎重に指先を這わせる。
青白い微小放電が走るたび、床の刻印が微かに脈打つように光った。ミリ単位で波形を調整し、空間の位相を固定していく。
――ここ数ヶ月、夜な夜な研究室の片隅で続けてきた作業の総仕上げだった。
やがて、目の前の空気がガラスの裏側のようにぐにゃりと歪み、向こう側の景色が滲むように浮かび上がってきた。
雑然と積まれた段ボール箱。埃をかぶった半田ごて。そして、使い込まれた古い基板の数々。
ポータルの隙間から鼻腔をくすぐってきたのは、ルナ=ヴァリスの完全清浄された無機質な空気には絶対に存在しない、油とハンダと、湿った紙の混ざり合った匂いだった。
(……頼む、データが吹っ飛んでるなよ)
胸の奥が熱く鳴る。
前世の深夜、セーブデータを残したまま力尽きたあの部屋の匂いが、今、ほんの数歩先の向こう側に広がっている。
亜麻色の髪を揺らしながら制御端末のダイヤルを回し、不安定な出力を無理やり安定させようとした――その時だった。
背後の自動ドアが、電子音もなく滑り開いた。
「認可外の空間歪曲反応。波形出力は微弱だけど……一体、室内で何をしているの」
背筋に冷たいものが走る。
リアムが慌てて振り返ると、純白の白衣をまとった少女が立っていた。
十七歳にして国家最高峰の魔導理論学者であるシエル。彼女は手元のタブレット端末に視線を落としたまま、不機嫌そうに眉をひそめている。
リアムは引きつる頬を必死に抑え、起動中の空間の歪みを隠すようにその前へ一歩踏み出した。
「やあ、シエル。なんでもないよ、ただの空間干渉の個人的なテストさ」
「テスト?」
シエルは端末から目を離すと、金色の瞳を鋭く細めた。
足音もなく歩み寄ると、言い訳の余地を探すリアムの横をすり抜け、その背後にある空間の歪みに視線を直撃させる。
「……空間の位相が、既知のどの領域とも合致しないわ。それになによこれ……マナ粒子が完全に途切れている。魔力が存在しない次元だというの……?」
シエルが困惑を露わにして息を呑んだ、次の瞬間だった。
――スパァンッ!
空気を割るような甲高い破裂音が響き、ポータルの境界線から青白いスパークが弾け飛んだ。
マナの濃度差に耐えかねた空間が軋み、部屋の空気が風となって吸い込まれていく。
「っ、不味い……!」
「きゃっ……!?」
リアムは咄嗟にシエルの肩を抱き寄せ、手繰り寄せるように床へ倒れ込ませた。
直後、二人が立っていた空域を、紫色の魔力放電が横切る。
リアムはシエルを庇ったまま制御盤の緊急レバーへ必死に手を伸ばした。
「向こうにはマナがないんだ! 濃度差で僕たちの魔力回路が逆流を起こしてる! このままじゃ生体回路ごと焼き切れるぞ!」
「な……っ、何を馬鹿な……!」
リアムは力任せにレバーを叩き落とし、手元のダイヤルを細かく刻むように回した。
ガガガ……と不快な駆動音が響き、手元の表示器が激しく赤と青に明滅する。出力を限界まで絞り込むことで、どうにか逆流の奔流を抑え込んだ。
部屋を満たしていた狂乱のようなスパークが収まり、ポータルは直径五十センチほどの静かな「空気の歪み」となって床の上に留まった。
シエルは床に倒れ伏したまま、肩を大きく上下させて荒い息を吐いていた。
白衣の胸元をぎゅっと握りしめ、青ざめた顔で空間の歪みを見つめている。
リアムはゆっくりとシエルから身体を離し、床に腰を下ろしたまま深く息を吐いた。
「……言ったろ。危険なんだ。僕の調整が甘かった……ごめん」
「…………」
シエルは無言のまま体を起こし、膝についた埃を払って乱れた髪を耳にかける。彼女は手元のタブレットを慌ただしく数回叩き、画面に浮かんだ数値に目を走らせた。
「……位相偏移 0.42、マナ収支マイナス無限大。既存の空間理論では説明がつかないわ」
「シエル……?」
「もしこのポータルの存在が魔導庁に漏れてごらんなさい。あそこの頭の固い老害どもは、この危険性を理由に研究を全面凍結するか、あるいは私の理論を都合よく切り張りして、自分たちの手柄として発表するに決まっているわ。先月の学会でも、私の多重位相理論を頭ごなしに否定した連中よ。あんな奴らに、この未開の次元データの解析を渡すなんて万死に値するわ」
シエルは激昂の色を収めると、冷徹な理性を宿した金色の瞳でポータルの奥を覗き込んだ。
歪みの向こうに転がる古い電子パーツやプラスチックの筐体。その全景を見て彼女の瞳がわずかに見開かれ、理論家の目つきに変わった。
「だからこそ、私が直接管理するのよ。この『無魔の世界』の物理法則を完璧に解明し、奴らの鼻を明かしてやるわ。……そのためには、あなたが持ち込もうとしている向こう側の娯楽や物質の調達に、私も同行させてもらうわよ」
「……僕の買い出しに、君が?」
「黙認ではなく『調査研究の同行』よ」
シエルは手元のタブレットの画面を一度タップしてロックをかけ、つんと顎を上げて言い放った。
「危険だからこそ、国家最高峰の理論学者である私が見張ってあげるの。感謝しなさい。……でなければ、いますぐ魔導治安局に通報してこの場所を差し押さえてあげるんだから」
「……分かったよ。了解だ、シエル教授」
リアムはポータルの向こうを見やり、小さく呟いた。
(セーブできたか……)
制御盤の出力を最終固定すると、歪みの向こうからハンダと油の匂いが仄かに漂い出した。
静かな光をたたえる円環の前で、二人は並んでポータルを見つめた。




