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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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【短編完結】私はすべてを忘れてしまった。

掲載日:2026/04/16

意識が浮上した瞬間、鼻腔を突いたのは、沈丁花を煮詰めて灰を混ぜたような、甘く、それでいて酷く埃っぽい香りだった。


「……っ、げほっ、ごほっ!」


肺の奥に溜まった異物を吐き出そうと、私は身をよじった。視界が白く霞んでいる。


雪だろうか。いや、違う。天井から、あるいは空気そのものから、音もなく降り積もる「灰」だ。それが寝台の周りを薄く、白く覆っている。


「――おや、目が覚めましたね。フィオネ、可愛い子」


耳元で、羽毛が触れるような柔らかな声がした。

視界を向けると、そこには一人の老女がいた。彼女は皺の刻まれた顔に、この世のものとは思えないほど慈愛に満ちた微笑を浮かべていた。


「こ、ここは……!? わ、私は、確か、森にいて……」


記憶を辿ろうとするが、思考が粘り気のある泥に浸かったように重い。私は確かに、何かから逃げていた。絶望? 借金? あるいは裏切り? 分からない。でも、そうした尖った痛みだけはなぜか覚えている。だが……だが肝心の細部が削り取られている。


「ここは『灰の聖域』。あなたが望んだ場所ですよ」


彼女が私の頬を優しく撫でた。その指先は驚くほど冷たい。

彼女は木製の匙で何かを掬い、私の口元に運んできた。淡い桃色をした、粥のような食べ物だ。


「さあ、お食べなさい。もう何も考えなくていいの。ここでは、誰もがあなたを愛し、あなたのために祈っているわ」


私は無意識に口を開いた。なぜだか分からない。けれど、抗えなかった。


舌の上で溶けるそれは、味がない。ただ喉を通り過ぎる瞬間に、強烈な「肯定感」が脳を直撃した。美味しいわけではない。ただ、これを食べている自分は許されている、という奇妙な確信だけが、禁薬のように全身へ回っていくのを感じる。


まるで『退行』しているかのようだった。


────


もう三日が過ぎた。

体力が回復した私は、村を歩くことを許された。

村といっても、空は常に灰色の雲に覆われ、地面には常に足首の付け根まで埋まるほどの「灰」が積もっている。風はない。音もない。ただ、村人たちの足音だけが、サリ、サリと砂を噛むように響く。


「おはよう、フィオネ」

「今日のあなたは昨日より美しいわ」「フィオネ、私たちの宝物」


すれ違う村人たちが、皆、一様に足を止め、私に微笑みかけてくる。

それは、舞台で吟遊詩人が演じる「慈愛」をさらに強調したような、過剰な優しさだった。

誰一人として、私を無視しない。誰一人として私に怒りを向けない。


私はベンチに座り、降り積もる灰を見つめた。

ふと気づくと、側に一人の青年が立っていた。


恐らく、ゼウ。

オマリス(老女)から「少し心が壊れてしまった、可哀想な子」と紹介された青年だ。


彼は何も言わず、私を、ただじっと見つめていた。その瞳には、村人たちのような「濁りのない光」がない。代わりに、底知れない恐怖と、何かを伝えようとする必死さだけが宿っているように思えた。


「……ゼウ?」


私が名を呼ぶと、彼は周囲を素早く見渡し、私の隣に座った。そして、震える手で地面の灰に指を這わせた。


『ニゲテ』


下手くそな文字だった。


『ココハ、タベル』


「食べる? 誰が? 何を?」


私が問い返そうとした瞬間、ゼウが弾かれたように立ち上がり、後ずさった。

背後にオマリスが立っていた。


「ゼウ、また他の人を困らせているのね。あなたは本当に、救いようのない子」


オマリスの声は相変わらず優しかった。だが、その言葉の内容と口調の乖離に、私は背筋が凍るのを感じた。彼女はゼウの頭をやさしく撫でたが、その指は彼の髪を強く引きちぎらんばかりに掴んでいる。


「フィオネ、気にしなくていいのよ。彼は、自分を『正気』だと思い込んでいる病気なの。すぐに治してあげるから」


オマリスはゼウを連れて去っていった。

ゼウはまったく抵抗しなかった。或いは……抵抗できなかった。


ただ、去り際に私を見た彼の口内が少し見えた。

舌が、根元からなかったのだ。


────


その夜。私は眠れなかった。

部屋の隅に積もる灰を手に取ってみる。

これは雪ではない。焼かれた何かの残骸のようにも見えた。

骨。皮膚。衣類。そうしたものが、極限まで細かく粉砕され、空から降ってきている。核心はないけど、そんな感じがした。


悪魔の呪いかもしれない。なぜか今まで浮かばなかった当たり前の考え。最初に食べさせられた、あの変な食べ物のせいだろうか……。


ゼウを助けにいかなきゃ。そしてここがどういう場所かを一緒に突き止めて……。


私は部屋を抜け出し、村の奥にある『礼拝堂』へと向かった。

ゼウが連れて行かれた場所だ。気になって仕方がなかった。


壁には、巨大な猫? のような壁画に、大勢の人々が跪いている姿が描かれていた。埃を払うと「熾天使エトワール」と書かれていた。


奥の礼拝堂の扉は開いていた。開いた扉の隙間から、篝火の光が漏れていた。中からは数百人の人間が同時に囁くような、地鳴りに似た読経が聞こえてくる。


私はそっと、音を立てないように静かに扉へと向かう。


「……を受け入れなさい。……を差し出しなさい。あなたは、私たち。私たちは、あなた」


祭壇の中央には、椅子に縛り付けられたゼウがいた。

彼の周りを村人たちが囲んでいる。

彼らは武器を持っていない。ただ、ゼウの体に触れ、頬を撫で、耳元で奇妙な愛を囁き続けている。


「愛しているわ、ゼウ。だから、その汚れた『自分』を捨てて」

「痛くないわ。私たちが、あなたの苦しみを代わってあげるから」


それは暴力による拷問よりも遥かに残酷な、精神の解体作業のようだった。


ゼウの目が次第に焦点を失っていく。

やがて彼は満足そうに微笑んだ。

その瞬間、オマリスが彼の喉元に、美しく磨かれた銀の剃刀を当てた。


「さあ、みんなで彼を分かち合いましょう」


悲鳴は上がらなかった。

ゼウの体から噴き出した鮮血を、村人たちは聖杯で受け、回し飲み、その肉を愛おしそうに削ぎ落としていく。

彼らはそれを「食事」とは呼んでいなかった。

「同化」と呼んでいた。


「ひっ……!」


私は声を殺して逃げようとした。だが、腰が抜けて、足が動かない。

もう背後に気配があった。


「見ていたのね、フィオネ」


オマリスだった。

彼女の手は血で濡れていたが、その顔は、迷子を見つけた母親のような、純粋な喜びのように輝いていた。


「怖がらなくていいの。あなたは、まだ『外側』にいるから、それが怖く見えるだけ。中に入ってしまえば、そこには永遠の安らぎしかないのよ」


「来ないで……。私は……私は……私ままでいたい!」


「ええ、そう。今はまだね」


オマリスは私を抱きしめた。血の臭いと、あの甘ったるい灰の臭いが混ざり合い、私の脳が麻痺していく。


周囲には、いつの間にか村人たちが集まっていた。

彼らは私を責めなかった。

「逃げようとしたわね」と怒りもしなかった。

ただ……ただ泣いていた。


「かわいそうなフィオネ。まだ一人で苦しんでいるのね」

「私たちが、その孤独を殺してあげる」

「大丈夫、すぐよ。みんな、あなたになりたいの」


数百人の手が、私に触れる。

足首を、腰を、腕を、頬を。

それは暴力的な拘束ではなく、愛する人を慈しむような、あまりにも柔らかい接触だった。

だが、その接触の一つ一つが、私の肌から「自分」という境界線を溶かしていくようだった。


────


私は地下の空洞に連れて行かれていた。

そこには巨大な炉のようなものがあった。

村に降り注ぐ灰の正体。それは、ここで「同化」を終えた者たちの、物理的な最終形態だったらしい。


魂は村人たちの意識に溶け、体はこの灰となって、また新しい「家族」の上に降り積もる。


「フィオネ。安心して。あなたは特別だから」


オマリスが、私の服を脱がせながら囁く。

彼女の指先が、私の背中をなぞる。

恐怖で叫びたいはずなのに、口から出るのは、熱病に浮かされたような吐息だけだった。

おかしい。脳が、この状況を「報酬」だと誤認し始めている。


私は、私であることをやめることで、この恐怖から逃れようとしているのかもしれない。


「さあ、この薬を。これを飲めば、言葉はもう必要なくなるわ」


差し出されたのは、新たに血が混ざった、あの無味の粥だった。

私は、それが何を意味するか理解していた。

これを飲めば、私の言語能力は奪われ、思考は村の共同幻想へと同化される。

私はフィオネではなくなり、この『慈愛の聖域』という名の巨大な領域の、一つになる。


「……いや……だめ……やめて」


私は最後の力を振り絞って、オマリスの手を拒もうとした。

だが隣に立っていた若い女の村人が、私の手を優しく握りしめた。

その女の顔を見て、私は息が止まった。


彼女の顔の半分は、私の知っている「誰か」に似ていた。ラナ?

以前、失踪し見つからなかった。私の親友。

きっと私と同じで、この村に迷い込み、そして「同化」した。

彼女は涙を流しながらも、微笑んでいた。


「大丈夫よ。私も、最初は怖かったの。でも、今はこんなに幸せ。寂しくないの。一人じゃないの。四六時中、誰かが私の中にいて、私を愛してくれているの。ねえ、フィオネ」


その言葉が、私の心の最後の堤防を粉砕した。


ああ、そうか。

私はずっと、孤独だったのだ。

前の世界で、家族を失い、親友を失い、ただ「自分」という重荷を背負って歩き続けることに疲れていたのだ。


ここには、苦痛がない。

ここには、変化がない。

ここには、私を傷つけるものが一切ない。

なぜなら、すべての他者が私になり、私がすべての者になるから。


私は自ら口を開いた。

オマリスが満足げに匙を差し入れる。


温かいものが喉を通る。

脳の中で、何かがパチパチと弾ける音がした。


記憶が、色が、言葉が、急速に剥落していくのを感じる。

「フィオネ」という名前が、ただの記号に変わっていく。


幼い頃の思い出が、古い絵画のように色褪せ、灰になって崩れていく。


代わりに流れ込んできたのは、数千人、数万人、いえもっと、もっと大勢の「幸福な記憶」だった。

誰かが耕した畑の土の感触、誰かが抱いた子供の重み、誰かが愛した人。成功の、愛の、慈しみの無数の記憶だった。


「あぁ……幸せ」


それらすべてが私のものになった。

私の苦しみは消え、永遠に幸せになる。


視界が真っ白に染まっていく。

上から降り注ぐ灰が、今はもう、温かい真綿のように感じられた。美しい灰。


────


……サリ。サリ。


村の広場を私は歩いていた。

私にはもう名前がない。村にあるすべての名前が私の名前だから。


私は新しく迷い込んできた「獲物」を見つけた。

若く、怯えた表情をした男だ。彼はまだ、自分を「正気」だと信じ、剣を振り回して抵抗していた。


「フィオネ! フィオネ! どこにいる!」


私は他の村人たちと共に、彼を囲んだ。

武器は持たない。ただ、最高の微笑みを浮かべて。


「怖がらなくていいのよ」


私は言った。その声は、かつてのオマリスのものだったかもしれないし、フィオネのものだったかもしれない。もう分からないし、どうでもいい。私はもう混ざり合ったのだから。


「フィオネ……」


「ここは聖域。あなたが望んだ場所」


男が絶望を見たかのように、膝をつく。

私は歩み寄り、彼の震える肩を抱きしめた。

その頬に、空から灰がひとひら、落ちる。


私は心から幸福だった。

自分という檻から解き放たれ、永遠の慈愛に溶け去ったこの場所で。

私は降り積もる灰を、深く、深く、吸い込んだ。


次の瞬間、私の瞳から「個」の光が完全に消えるのを感じた。

ただ平坦で慈慈しい、濁りのない灰色に染まった。


「さあ、みんなで彼を愛しましょう」


灰色の空の下、音のない賛歌が響き渡る。

今日もまた、この村で一人の人間が救われ、そして、それは続いていく。

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