2-4 君は誰?
イリヤの形の良い唇が、アステラくん、と甘く名前を紡ぐ。妖しく濡れた瞳を見つめた瞬間、ぐらりと目眩がした。
出会ったときからずっと、イリヤはアステラのことを「アステラくん」と親しげに呼んでくる。けれど思い返せば、いつアステラは自分の名を名乗っただろう。
「僕のこと、好きって言いましたよね? アステラくん」
イリヤが優しく頭を撫でる。溺れては助けてもらうたびに、こうして優しく頭を撫でてもらった覚えがあった。
そう考えた瞬間、頭が割れそうに痛くなる。
――違う!
イリヤの手は、しなやかで美しい。しかし、アステラが知っているのは、この手ではない。
海で溺れたアステラを助けてくれたのは、イリヤではない。
目覚めた瞬間、下手くそな手つきで頭を撫でながら、ほっとしたように笑ってくれたのは。
いつだって見捨てずに、アステラを助けてくれるのは。
「う、あ……!」
「……アステラくんは本当に、精神の抵抗が強いですね。気を抜くとすぐに思い出そうとする。誰かに祝福でも受けましたか?」
顎を掴まれたかと思えば、イリヤがぐっと身を乗り出してくる。深い赤色の瞳が、視線を逸らすことすら許さないとばかりに、強引に目を合わせてきた。
「何も考えないで。僕のことだけ考えてください。ここで、楽しく一緒に暮らしましょう?」
イリヤの目を見つめていると、頭がふわふわとして、気持ちが良くなってくる。何も覚えていないけれど、今まで何度もこうしてイリヤに語り掛けられたことだけは覚えていた。
けれど、アステラが欲しいのは、イリヤではない。今まで自分を生かしてくれたのだって、彼ではない。
唇に強く歯を立てる。ぷつりと皮膚が切れる痛みが、少しだけアステラに正気を取り戻させてくれた。
動かぬ体を必死で捩り、イリヤの目から視線を背ける。
思い出せ。
溺れた自分を助けてくれたのは誰だ。いくら好みの相手だからといって、他人の家で日付感覚までなくして寛ぐほど、自分は警戒心のない人間ではなかったはずだ。
それこそ、人間だらけの港で昼寝をするような、あの間抜けな人魚男でもあるまいし。
檻に囚われた野暮ったい人魚を思い出した瞬間、ざあっと霧が晴れるように、頭が冴えていく。
「ダガン。……そうだ、ダガンだ!」
名前を呼んだ途端に、意識がすっと鮮明になる。忘れようにも忘れられない強烈な思い出を、よくも今まで抑え込んでくれたものだ。自分が大切に思う記憶を無遠慮に書き換えられていたと思うと、それだけではらわたが煮えくり返りそうな気分になった。
「……夢を、破った? 人間が、自力で? 驚きました」
イリヤが目を丸くした一瞬の隙に、アステラはすうっと大きく息を吸い、怒りをぶつけるように宙に叫んだ。
「クソダガン! 全部、お前があんなところに俺を置いていったせいだからな! いつもいつも俺を置いてけぼりにしやがって!」
「おっと」
全力で体をよじってイリヤを振り落としつつ、アステラはふんぬ、と全身に力を込めた。
ばきばきばき、と木材が折れる嫌な音が響く。無理矢理持ち上げたベッドのどこかが折れたのだろうが、知ったことではなかった。拘束が解けないのなら、それごと逃げればいいだけの話だ。
「よ、い、しょっと!」
解けぬ拘束ごと、ベッドを背負うようにして立ち上がる。そんなアステラを見て、イリヤは弾けるように笑い出す。
「あっはは! 嘘でしょう? 夢は破るし、馬鹿みたいに怪力だし……君、本当に人間ですか?」
「俺は人間だよ。イリヤと違ってね。ごめんねイリヤ、俺、人間じゃないひととは――記憶も心も勝手にいじってくる怖いひととは、付き合えない! さよなら!」
やけくそになりながら叫んで、アステラは背負った寝台ごと、木造りの壁に思いっきり体当たりをぶちかます。隣は海で、壁は薄い木、そして小屋の景色は揺らぎ始めていると来たら、一か八か海に逃げ込むしかない。
大穴を開けながら海際の小屋から飛び出したアステラは、迫りくる海面を泣きそうになりながら見据えた。
海はダガンの家だ。もちろんダガンが近くにいるかどうかなんて分からないけれど、これまでの経験から、ダガンが大体一年かけて大陸の周りを巡っていることをアステラは知っていた。
この大陸でこれだけ複雑に入り組んだ入り江があるのは、アステラの知る限り、南の海岸だけだ。今が冬だとすれば、ちょうどダガンの放浪域と重なるだろう。
得体の知れない人外に飼われるくらいなら、一か八か不憫な人魚との腐れ縁にかける方がまだマシだ。たとえただの投身自殺に終わるとしても、アステラにとって宝に等しい記憶を奪われるくらいなら、今この場で海に沈みたい。
覚悟を決めて、アステラは吸えるだけ息を吸い込んだ。
「無茶しますねえ」
海に落ちる寸前で、ぱちりと軽やかに指を鳴らす音が聞こえた。両手両足を戒めていた拘束が解けると同時に、アステラの体は勢いよく水中へと沈んでいく。
がぼっ、と音がした。鼻に海水が入り込んでくる。慌てて口を両手で押さえるけれど、体はひたすら沈むばかりで、どうすればいいのか分からない。
助けてくれ、と縋るようにダガンの姿を思い浮かべたその時、アステラの前に、真っ白な糸が流れてきた。
息も絶え絶えになりながら一筋の糸を掴んで、アステラは一縷の望みを掛けて糸を辿っていく。残念ながら、糸が導いてくれたのは地上ではなく海底だったが、糸の先には、網らしきものが繋がっていた。
漁業用の網だ。中には、無数の小さな魚に混じって、一匹の巨大な魚が捕まっていた。鮮やかな水色をしたその魚は、船に引かれる網の中で、不本意そうにびちびちと尾びれを動かしながら暴れている。
アステラがそっと尾びれに触れると、水色の魚はびくりと上下に跳ねて、頭を小魚の群れから引き抜いた。
巨大な魚の上半身は人間の男の姿をしていた。頭にはどこで引っ掛けてきたのか、うねうねとした海藻が髪と絡み合って揺れている。
こんなにも間抜けな人魚を、アステラはひとりしか知らない。
(お前は魚か!)
死にそうになりながら心の中で突っ込んだ瞬間、ぱちりとダガンと目が合った。