2-3 貞操の危機
「僕とこういうことをするのは、嫌ですか?」
頬をゆっくりと撫でられて、そんな場合ではないのに頬を染めそうになる。しかし、このままイリヤに流されれば取り返しがつかないことになると、本能が警鐘を鳴らしていた。己を叱咤したアステラは、ベッドの上で磔にされながらも、腹の上に跨るイリヤに必死で声を掛ける。
「嫌とか嫌じゃないって問題じゃなくて、こういうことは無理やりするものじゃないだろ?」
「アステラくんのそういうところ、好きですよ。でもね、君はおかしなところで勘がいいので……待っていると埒が明かない」
穏やかに微笑みながらも、イリヤは有無を言わせずアステラの服をはだけていく。アステラの訴えを聞いてくれる気はないらしい。真面目そうな見た目にそぐわぬ慣れた手つきに、遅ればせながら何かおかしいとアステラも気付きはじめる。
「あの、イリヤ……」
「なんでしょう」
首筋に唇を寄せられるくすぐったさに、びくりとアステラは肩を揺らす。相手の官能を引き出し、緊張を解そうとする仕草には、嫌というほど覚えがあった。普段であれば、アステラは相手にそれを施す側であって、受ける側ではない。
「イリヤは……タチなの?」
「どちらでも。こだわりはありません」
どちらでも良いと言う割には、イリヤの瞳に浮かぶぎらつく欲は、とてもそうは言っていない。表情こそ柔らかいままだけれど、頭から喰われそうな気しかしなかった。なんとか拘束を引きちぎれないかと腕に力を込めながら、アステラは必死に舌を回す。
「じゃ、じゃあ! どっちでもいいなら、抱きたいな。俺、ネコはしたことがないんだ。いきなりは、怖いよ。これ、解いてくれないか? まだ間に合う。まだいける。だからやり直させて。頼むよ、イリヤ」
何がどう間に合うのかも分からぬまま、アステラはひたすらに言い募る。しかし、だらだらと冷や汗を流すアステラを前に、イリヤはそれはそれは楽しそうに目尻を下げるだけだった。
「嫌がられると、余計にやりたくなっちゃいますね。アステラくん、君を抱かせて?」
つ、とむき出しの胸元を指で辿られて、思わずアステラは体を竦ませた。
他人に体を委ねるのは嫌いだ。往々にして閨ごとというのは、修羅場に繋がる確率が高いから。たとえベッドの中だろうと剣を手放す気にはなれないし、体全部を他人に開け渡すなど、恐ろしくてとてもできない。
恋人の性別にはこだわらないが、タチならともかく、下になりがちなネコでは何かあったときに逃げられない。拘束されている現状で逃げるも何もないが、アステラの体に染みついた習性とでも言うべき何かが、他人に無防備な姿を晒すことをひどく拒んでいた。
アステラの焦りを知ってか知らずか、イリヤは肌への愛撫を続けながら、のんびりと呟く。
「緊張してますか? 慣れてないんですね。かわいいなあ。女性は五人、男性は八人……でしたっけ? 大事に大事に抱くことはあっても、アステラくんは誰にも体を預けたことはありませんでしたもんね。そう思うと、余計に欲しくなっちゃいます。綺麗なものほど、汚したくなる」
「えっ」
なぜアステラの性遍歴をイリヤが知っているのか。伝えたことはあったかと考えるが、そもそもアステラ自身にさえ思い出せないことを、伝えられるわけがない。
いや、そもそも――。
「俺、なんでここにいるんだっけ?」
無視できないほど膨れ上がった違和感が、口をつく。ぴたりと手を止めたイリヤは、笑みを張り付けたまま首を傾げた。
「……今さらどうしたんですか? アステラくんが浜で倒れていたところを、僕が拾ったんじゃないですか」
「拾ったって、どうやって? ここ、崖の上にあるよな? 砂浜なんて、近くにない」
誰の助けもなしに、意識のない男ひとり抱えて長距離を歩くことなど、イリヤの細腕でできるとは思えない。
何かがおかしい。致命的におかしい。
血の気が引いていく。ひとつ奇妙な点に気づいてしまえば、噴き出るように疑問は次から次へと湧いてきた。
イリヤと海際を散歩したはずだ。でも、窓から見える景色に砂浜はなく、複雑に入り組んだ入り江が並んでいるだけだ。
町に買い物に行ったはずだ。けれど、町並みも人の顔も、一切思い出せない。
ここは灯台だったはずだ。しかし、一度も船が来るところを見ていない。
存在しない記憶を無理やりに植え付けられたかのような、とてつもない違和感に、怖気が立つ。
「……ここ、どこ?」
「灯台ですよ」
「なんで俺、ここにいるんだっけ?」
「行き場がないからでしょう?」
「出ようとしたこともないのに? 外に出ようとするたび、気がついたら寝てた。おかしいよな」
答える代わりに、イリヤは笑みを深めた。動かぬ体で必死に距離を取ろうともがきながら、アステラはイリヤを睨みつける。
「イリヤ。君は、何? 本当に灯台守?」
「それって今、関係あります?」