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9-3 翼持つ蛇

「あかんわぁ!」

 

 不穏な嘆きが聞こえた。水柱に突き上げられるようにして、尾びれをくるりと丸めたダガンが海面から飛び出してくる。

 その両腕に抱えられているのが小ぶりな壺であるのはいいとして、陸の上のアステラまでもが水浸しになるほどの派手な水飛沫はどういうわけなのか。当初の計画では、海際へとイリヤを追い込んだところで、クラーケンの幼体を閉じ込めた壺をダガンが運び、アステラのタイミングで使う予定だったのに。

 

(……アホダガン!)

 

 うっかり怒鳴りそうになったところを、アステラは奥歯を噛んでぐっと堪えた。

 ちらりと見ただけでも、ダガンの尾びれには魚なのか魔物なのかも分からぬ何かが鈴なりになって食いついているし、水柱の真下には、巨大な岩の魔物と思わしきものの影が見える。大方、崖に潜んでいた水生のカザンガンあたりを刺激でもしたのだろう。なぜ食われかけているのかは分からないけれど、海なら大丈夫だろうとダガンに単独行動をさせたアステラが間違っていた。

 遠い目をしたダガンは、投げたのか落としたのかも分からぬ勢いで壺をアステラとイリヤの間に放り込むなり、途方に暮れたように海へと落ちていく。

 ダガンの着水を見守る間もなく、アステラの目の前では、鋭い刃で切り裂かれた壺が真っ二つになって宙を舞っていた。あわれ壺から追い出されたクラーケンの幼体は、外の世界を見るなり怯えたように墨を吐き散らかして、べしょりと地面に落ちていく。

 全方位へ噴射された墨は、幸か不幸か、イリヤとアステラの両方を満遍なく真っ黒に染め上げた。

 髪にまで飛んだクラーケンの墨を指で掬って、面白がるようにイリヤが呟いた。


「……色々考えますねえ」

「負ける気はないって言っただろ?」

 

 引きつる口角を無理やり上げて、アステラは震える声で虚勢を張った。だいぶ予定から外れてはいるが、クラーケンの墨がイリヤに掛かればそれでいい。結果オーライというやつだ。

 夜の闇を背景に、人ならざる何かがゆらりと揺れる。それまでイリヤの足だったはずの場所に重なって、墨で染まった太く長い尻尾が、夜闇を塗りつぶすようにぽっかりと浮かんでいた。その長さといったら、ぱっと見ただけでも優にアステラの背丈の三倍はあった。ダガンの推測通り、尻尾の先が斬撃の元となっていたのか、先端だけが凶悪な鉤状になっている。

 項垂れるように尻尾の先をくるりと下げて、イリヤは傷ついたとばかりに目を伏せる。

 

「勝手に見るなんてひどいです。醜い体なんて、アステラくんには見せたくなかったのに」

「ごめん。でも、イリヤはいつだって綺麗だよ。隠さないで見せてほしいな」

「――本当に?」

 

 思わせぶりにそう言って、イリヤはゆっくりと顔を上げる。

 雪のように白い頬に、水色の鱗が浮かんでいた。シャア、と甲高い音を立てながら、イリヤは見せつけるように長く赤い舌を出入りさせる。先端が二つに割れた、蛇の舌だ。ただでさえ濃い赤色だった瞳は血よりも濃い赤色へと変わり、瞳孔は金色の光を薄く纏いながら、みるみる縦へ裂けていく。

 片方だけになった黒翼を威嚇するように大きく広げて、イリヤはアステラを試すように首を傾げた。

 人間とは似ても似つかぬ、人外の姿だ。先ほどまでの優しげな青年の姿とは違って、見ているだけで体が震え出しそうになる威圧感がある。

 人間を模りながらも本性を零れ見せた異形の姿は、しかし見惚れるほどに美しかった。


「それが、イリヤの本当の姿?」


 気圧されまいと、強く剣を握り直す。そんなアステラの虚勢を容易く見抜いたイリヤは、くすくすと嘲るように笑った。

 

「半分くらいは、そうですね。本当はもっと人から遠いですよ。ずっと昔、最初に僕を見た人間は、僕のことを『翼持つ蛇』と呼びました」

「……神様みたいだ」

 

 思ったままのことを呟くと、イリヤはほんのわずかな間、きょとんと目を丸くした。

 白い体躯に、水色の模様。真っ赤な瞳に、艶やかな翼。イリヤのことを何も知らず出会ったとしたら、悪魔でも魔物でもなく、神の使いだと思うだろう。それこそ、アステラの亡き両親がそうだったように。

 苦笑を浮かべたイリヤは、「そう呼ばれたこともあったかもしれませんね」と小さな声で呟いた。

 

「神を気取るあの大樹と一緒で、悪魔(ぼくら)は皆、人間が大好きですから」

「え――」

「もちろん、今一番好きなのはアステラくんですよ?」


 アステラが問い返すより早く、イリヤは朗らかに呟いた。


「――だからね、人間ですらないただの邪魔者には、さっさと消えてほしいんです」


 邪悪に歪んだ口元を見るが早いか、アステラは慌てて海へと視線を向けた。水面には不自然に空いた穴がひとつ。それを中心とするように、ぷくぷくと不規則に泡が上がってくる。

 ――イリヤの尻尾だ。いつ動かしたのか、イリヤの尻尾は海の中に浸されていた。海面に潜って、何かをしている。

 何か。決まっている。イリヤが嫌う、イリヤにとって一番目障りな存在は、つい先ほど間抜けに過ぎる姿を晒したばかりなのだから。

 

(だからやらかすなよって言ったのに!)


 焦りとともに青筋を立てた瞬間、二度目の水柱が海から上がる。

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