7-11 そんなつもりじゃなかった
自分は何も悪いことはしていない。たしかに色々な話を聞いて回りこそしたけれど、陸の暮らしに興味を持つダガンを喜ばせたかっただけだった。
知識は集めれば集めるほど自分を助けてくれる。誰かを口説くときの話の種にもなったし、居場所を移すたび、そこへ馴染むための役にも立った。今まで様々な相手へと向けてきた恋心に嘘はないし、望んで誰かに何かをさせようと思ったこともない。
けれど、たしかにアステラは知っていた。
自分が面白おかしく話した場所に、ダガンは律儀に顔を出す。人魚の話に興味を持つと、権力者たちはアステラにはどう頑張っても叶わぬ方法で、うかつな人魚を捕らえるための網を張る。二つのタイミングがうまくかち合えば、あてもなく海を巡る必要もなく、自分は会いたい相手にまた会えるのだと。
『でも俺は、そんなつもりじゃなかった……!』
少なくとも、最初は。
「嘘ばっかり。いつだって君は自分のことしか考えていない。そうなるかもしれないと分かっていながら止めるための行動をしないのは、自分で手を下すことと何も変わらないんですよ、アステラくん」
なおもイリヤが何かを続けようとしたその時、あからさまな苛立ちを含んだ舌打ちが教会中に響き渡った。
思わず顔を上げると、呆れを隠そうともしていないダガンとぱちりと視線がかち合った。アホ、と囁くようにダガンが唇を動かす。
「本人が言わんことをべらべら喋って気持ちようなってんちゃうぞ、クソ悪魔。アホアステラがしょうもないアホなことくらい、わざわざ言われんでも分かっとんねん。他人にいちいち教えてもらわんでも、そいつのことなら嫌ってほど知っとるわ」
知っているとは、どういう意味なのか。
血の海からもぞりと顔を上げて、ダガンは不敵に口角を上げる。
「本気で逃げられとる性悪悪魔と違って、こちとら何しても切れへん『腐れ縁』やしな。そうやろ、アステラ?」
柔らかく細められたダガンの瞳を、アステラは呆然と見つめ返す。魅入られたようにダガンを見つめたまま、どうして、と喘ぐように呟いた瞬間、ぐいと顎を掴まれ、強引に顔を上向けさせられた。
「……だそうですけど。アステラくんは、あの半魔のことが好きですか?」
『好きじゃない』
反射的に答えると、イリヤは皮肉げに片頬を歪めた。
「そうですね。なら、彼は君の何ですか?」
『友、達。知り合い。俺を、助けてくれようとしただけだ』
「君は誰のものでしたっけ、アステラくん」
求められている答えは分かっていたけれど、言葉にするのは嫌だった。口ごもるアステラを急かすように、イリヤは声を低めて再度問いかけてくる。
「身の程知らずな半魔がこれ以上耳障りな言葉を吐かないように、ちゃんと言葉で教えてあげてください。君は誰のもの?」
両頬を優しく手で包まれ、そっと顔の向きを変えられる。血塗れになったダガンの姿から、アステラが目を逸らせないように。
「ただの知り合いならなおのこと、これ以上彼を傷つけたくはないでしょう? 言うことを聞いてくれないなら、今度こそ力加減を間違えてしまうかもしれません。ねえ、アステラくん」
穏やかなのは口調だけで、イリヤの瞳には、悪魔らしく人の心を踏みにじることを楽しむ優越感と、身の毛がよだつような暗い熱情だけが浮かんでいた。
たった一言口にすれば、それだけで済む。これ以上ダガンを苦しませなくて済む。元より声すら奪われた後なのだから、今更何を気にすることもない。
己にそう言い聞かせて、嫌だと弱音を吐きたくなる気持ちを押し込めながら、アステラは乾いた唇を弱々しく動かした。
『……俺は……イリヤの、ものだ。だからもう、やめてくれ……!』
「ええ。分かっているならいいんです」
血を吐く思いで囁いた瞬間、イリヤはくつくつと悦に入った笑い声を漏らしながら、アステラの目をじっと覗き込んできた。
くらりと意識が遠くなる。悪魔の視線はまるで媚薬だ。夢を見ているかのように、急激に頭に靄がかかっていく。
ちらりと視線を横にやったイリヤは、その先にいる誰かを挑発するように目を細めると、椅子に縛り付けられたアステラに覆い被さるようにして、そのまま深く唇を重ねてきた。
薄く開いたままの唇の合間から、柔らかな感触がそっと忍び込んでくる。動き自体は柔らかいのに、吐息さえ喰らうような容赦のない口づけは、燻るような官能をアステラに与えてくれた。
舌を絡められるたび、今まで何をしていて、なぜそうも抵抗していたのかすら、分からなくなっていく。欲しくてたまらないとばかりにアステラを抱きしめているのが、誰だったのかすら分からない。分かるのは、舌を擦り合わせる行為が気持ちよくてたまらないということだけだった。
自分が求めるのと同じくらい、好いた相手にもずっとこんな風に自分を求めて欲しかった。うっかりと目を閉じ、キスに応えそうになったそのとき、苦り切った声が床の方から聞こえてくる。
「……ほんま悪趣味な野郎やな」
ダガンの声を聞いた瞬間、アステラは急激に正気へ返った。慌てて身を竦め、顔を背けようとするが、それに気づいたイリヤはアステラの顎を強く掴んでくる。
「ダメですよ。逃げないで」
笑い混じりに囁いて、イリヤはダガンに見せつけるように、再度ゆっくりと唇を重ねてきた。
頬へと落ちるイリヤの髪越しに、顔を顰めたダガンとぱちりと視線が合う。イリヤとキスするのが初めてというわけでもないのに、ダガンの視線を意識した途端、ただ唇を合わせるだけの行為が、ひどく罪深いことのように思えてならなくなった。耐えるように、アステラは唯一動く左拳を、爪が肉に食い込むほど強く握り込む。
いやに長く感じた一瞬は、外から人の話し声が聞こえてきた瞬間、唐突に終わりを迎えた。
扉を揺らす音と、緊迫した人々の声が響いた瞬間、ふ、とかすかな吐息を残してイリヤは身を離す。
「……残念。家主のお帰りみたいです」
ばさりと翼をはためかせたイリヤは、天井近くまで高度を上げた。
煌々と差し込んでいたはずの陽光は、気づけばずいぶんと角度を変えていた。薄らと暗くなり始めた空を背に、イリヤはにこやかに微笑む。
「大好きですよ、アステラくん。無意味な抵抗はおすすめしませんけど、あと三日、足掻いてみたいなら付き合います。最後まで一緒に遊びましょうね」
たった今アステラの抵抗の結果を粉々に砕いたばかりの悪魔は、でもね、と声を落として言葉を足した。
「君が僕を選んでくれるなら、これ以上何もするつもりはありません。君にも、君の大事なお友達にも。つらくなったら、君の血でいつでも呼んでください」
天使のような顔をした悪魔は、言葉面だけは優しい甘言を残すと、そのまま空気に溶けるように姿を消した。




