7-9 嫌がられるとやりたくなる
ぞろりと呪いの蛇が肌の上を動いていく。首を這い、頬を通って、やがて耳へと辿り着く。耳元で蛇のうねりを感じた瞬間、アステラは、やめてくれ、と唇の動きだけで懇願していた。
聴覚を奪われたら、ダガンともう話せない。何度もアステラを助けてくれた、あの優しい子守唄だってもう聞けない。眠れぬほどの痛みや、手足の機能を奪われることには耐えられても、ダガンとの繋がりを絶たれることには耐えられない。
息を引きつらせるアステラを前に、獲物をいたぶる捕食者そのものの瞳をしたイリヤは、にんまりと笑みを深めた。
「怖いですか? でもごめんなさい。嫌がられると、余計にやりたくなっちゃうんです」
嫌な宣言とともに、イリヤのふかふかとした翼が、アステラを閉じ込めるように両脇へと覆い被さってくる。
閉じた暗い世界の中で、爛々と輝くイリヤの瞳をヤケクソのように睨みながら、アステラは必死で思考を巡らせた。
何かないのか。イリヤの気を惹けそうなもの。取引できそうなもの。せめてこの場を凌いで逃げるために、使える何か。
何か、何か、何か――!
ほっそりとしたイリヤの両手がアステラの耳を無情に覆ったその時、聞き慣れたぶっきらぼうな声が教会に響いた。
「――アステラから離れろや、性悪悪魔」
動かぬ顔を必死に動かし、アステラは声の聞こえた方へと目を向けた。
イリヤの翼の隙間から、ふらつくダガンの姿がちらりと見える。打ち付けた頭が痛むのか、はたまた眩暈でもするのか、二、三度確かめるように頭を振ったダガンは、うんざりとした様子でイリヤを睨んだ。
「痛ったいわあ……、いきなり何すんねん。乱暴者はこれだから嫌やわ」
「……乱暴者? 挨拶代わりにもならないでしょう、あんなもの」
アステラから手を離したイリヤは、そっと立ち上がると、勿体ぶった動きでアステラが座る椅子の後ろへと回り込んだ。
「あの程度で傷つくなんて、半魔というのはよほど脆いんですね。さすが半端ものだけある」
ねえ、と同意を求めるように呟いて、イリヤはアステラを見下ろした。声色こそ柔らかなままだけれど、先ほどまでの楽しそうな表情とは違って、イリヤの目の奥には、見ているだけで凍りつきそうになる不機嫌さが覗いていた。
「半端ものなあ……。ご立派な悪魔のくせして、なりふり構わん自分よりマシとちゃう?」
一方のダガンも、いきなり吹っ飛ばされたことがよほど癪に触ったのか、これ以上ない喧嘩腰でイリヤを煽り始めた。
「勝手に時間制限作ったんは自分のくせに、騙して身代わり取り上げるわ、フライングでそいつ食おうとするわ、えらい焦ってみっともないなあ、大悪魔」
「……焦る? おかしなことを言いますね。どうして僕が焦らないといけないんです?」
「そんなん、欲しいもんが手に入らんからに決まっとるやん。見苦しい」
己を挟む形で嫌味を応酬する二人を、アステラは冷や汗を流しながらじっと見守る。正確には、声も出なければ体も動かないので、眺めることしかできないと言うべきか。
「ちっともアステラが根ぇ上げへんの、自分の計画とちゃうかったんやろ。ひとりぼっちにさせて、苦しい思いさせて、そんで最後に慰めてべったべたに依存させる。悪魔のやることなんて、昔っから決まっとるもんな」
血で濡れた前髪を邪魔っけにかき上げて、ダガンはふらりと足を踏み出す。普段、仏頂面にふさわしく冷めた感情ばかりを浮かべている目は、今はダガンらしくもなく、ぎらぎらと怒りに燃えていた。
「自分が気まぐれでかけた呪いのせいで、こいつが今までどんだけしんどい思いしてきたと思っとんねや……! どんだけ追い詰めたって、アステラが自分に縋るわけあらへんやろ。好き勝手虐めた挙句に心も欲しいなんて、そんな馬鹿げた話、通らへんわ」
「……痛い目に遭いたくなければ、その不愉快な口を今すぐ閉じてくださいね」
聞くだけで背筋が凍る、冷たい声でイリヤは呟く。けれどダガンは警告を聞き入れる気はないらしい。つんと顎を上げて、ダガンはイリヤの言葉を鼻で笑う。
「閉じるかアホ! 自分には言いたいこと山ほどあんねん。悪魔様が聞いて呆れるわ。癇癪起こして暴れるしかできんなんて、みじめなもんやな!」
嘲りでしかない口調で言い放つと同時に、ダガンの体は、再度轟音を立てて壁へとめり込んだ。
「……っ、ぐっ!」
「ここで死んでいきますか? ずっと目障りだと思っていたんです、君のこと」
「よう言うわ。殺せもせんくせに」
苦しげに顔を歪めつつも、なおもダガンは言葉を止めない。それ以上挑発するなと叫びたくても、アステラの喉から出るのは引きつった息の音だけだった。
「夢と幻で誤魔化せる範囲にも限りがある。俺はアステラのこと、ガキの頃からずっと知っとるんやぞ。自分が面白がって、欲しがっとるそいつはな、人生の半分以上俺と腐れ縁繋いできた生粋のアホや。俺を消したら、そいつの心、それこそ二度と手に入らんくなるやろな。それが分かっとるから、自分はこんな回りくどいことしとるんとちゃうん?」
「……そう思います? 別に僕は、試してみたっていいんですよ。ひ弱な半魔」
アステラの顔の真横で、イリヤが静かに手を握る。途端にダガンの体は、見えない手で締め付けられているように宙へと浮いた。
「君が子供の頃から知っているというなら、僕は赤ん坊の頃からアステラくんを知っています。我が物顔で語るのは、やめてもらっていいですか」
「……っ、ぐ……!」
苦しげに顔を歪めて、ダガンは見えない手を剥がそうとするように、首元を必死で掻く。
『ダガン!』
「喚かんでも……聞こえとる。何ちゅう顔しとるんや、アステラ。情けないで」
強がりだといやでも分かる、掠れた声でダガンは呟く。
助けに行きたいのに動けない。どれだけ剣の腕を磨こうが、使えないなら意味がない。自分の意思では動かせない人形のような体が、忌々しくて仕方がなかった。
強く奥歯を噛み締めて、アステラはイリヤを仰ぎ見る。
『やめろ、イリヤ! ダガンは関係ないだろ!』
怒鳴ることさえままならない。掠れた息を吐き、視線へ射殺さんばかりの怒りを込めるアステラを見て、イリヤは苛立った様子で顔を歪めた。
「自分のことは怒らないのに、あの半魔のことだと怒るんですね、アステラくん。さっきまでは、あんなに怯えていたくせに。……なんだかそれって、とっても腹が立ちます」
言いながら、イリヤはパチリと一度指を鳴らした。
途端に、どこからともなく数十匹の蛇が生まれ、床を這ったかと思えば、ゆっくりとダガンの体を登っていく。
喘鳴のような息を漏らすダガンが、ひくりと頬を引きつらせる様子がはっきりと見えた。
「殺さずに苦しませる方法なんて、いくらでもあるんですよ。アステラくんが言うことを聞いてくれないなら、代わりに彼にツケを払ってもらうことにします」
『……やめろ!』
「全部君が悪い。君が彼を巻き込んだからですよ、アステラくん」
アステラの耳元に唇を寄せて、イリヤは囁く。何をする気だと問うより前に、一斉に顎を開いた蛇たちが、ダガンの全身に噛み付いていた。




