7-1 声を失った日
船旅を初めて四日目の朝。運悪く嵐に見舞われたことで、若干の足止めこそ食ったものの、アステラたちは無事にヴィンブルク伯爵領周辺の海域へと辿り着いていた。
夜が明けきる前の早朝の空は暗い。朝日を見ようと甲板に上がってきたアステラとダガンは、見張り番の目を忍ぶように、操舵室の影で肩を並べて座っていた。
「アステラ」
ナイフの刃先を指の腹に滑らせながら、ダガンが促すように名前を呼ぶ。差し出されたダガンの手に、アステラは恭しく左手を添えることで応えた。
呪いが腹に回ってからというもの、水以外の物をろくに口にできなくなったアステラを案じて、ダガンは毎日こうして自分の血を分け与えてくれる。同じことをするのは今日で三度目になるが、意識が朦朧としているときならともかく、正気の状態で自分から相手の指に舌を這わせるのは、妙な気恥ずかしさと罪悪感があった。
血の滲むダガンの指先を見つめて、ためらうように目を泳がせていると、焦れたようにダガンがもう一度アステラの名を呼んでくる。
「飲め、アステラ」
低く優しい、ダガンの声。聞き慣れているはずの声なのに、普段と違って静かに囁くような声を聞くと、くらりと頭にもやがかかる心地がした。
そっとダガンの指先へ口元を寄せたアステラは、そろりと唇を開くと、鉄臭い血をおそるおそる舐め取った。空腹で舌が馬鹿になっているせいなのか、それとも人目を避けてこんなことをしている背徳感のせいなのか、あんなにも不味かったはずのダガンの血が、不思議と甘く感じられる。
飲み下した瞬間、じわりと体中に広がる温かさに息を漏らしながら、気づけばアステラは、舌のみならず唇までもをダガンの指先へと触れさせていた。口内へダガンの指先を迎え入れ、ちゅうと吸い付くように唇を添わせる。傷口を舌先でなぞるたび、かすかに滲むダガンの血を、夢中になってアステラは貪った。
やがて、指を舐めても血の味がしなくなったころ、くすりと笑うような吐息が隣から聞こえてきた。ぼんやりと視線を向けると、片膝を立てたダガンが、愛おしむようにアステラを見つめていた。唇に咥えられたままの指を動かし、ダガンはからかうようにアステラの舌をくすぐってくる。
「……足りへんか?」
苦笑の気配を滲ませたその声を聞くと同時にハッと我に返って、アステラは慌ててダガンの指から口を離した。
今は人間の姿をしていても、決して人間そのものではないダガンは、いつか本人が言っていた通り、普通の人間とは比較にならないほど傷の治りが早い。あっという間に塞がった切り傷の跡を見るともなしに見つめながら、きまり悪い思いでアステラはダガンの手を放した。
「……いや、もう十分! ごめん。ありがとう、ダガン」
「ごめんは余計や」
「でも、昨日からずっと迷惑かけっぱなしだし」
掠れた声で言いながら、アステラはそっと目を伏せた。
初日が右腕、一昨日は腹で、昨日が右脚。
順調に広がっていく呪いは、日ごとにアステラの体から機能を奪っていた。まだ片足は残っているものの、それも明日にはどうなるか分からない。
腹に呪いが広がってからというもの、薬の効きも弱くなった。船旅にはしゃぐ余裕があったのも初日だけで、寝不足と痛みの相乗効果は、順調にアステラの心身を蝕んでいた。どこへ行くにもダガンへ頼りっぱなしになっている上、その血で命を繋いでもらっている現状は、さすがに胸に来るものがある。
体を縮こませるアステラの背を、励ますようにダガンが叩いた。
「アステラが手ぇ掛かるのなんて、今に始まったことやあらへんわ。海の中なら肩貸すどころか全身運んでやっとるんやし、いちいちいらんこと気にせんとき。デカい貸しが作れると思えば、迷惑どころか俺には得にしかならんしな」
言い方こそぞんざいだけれど、言っている内容は気遣いに満ちている。ダガンらしい物言いに、アステラは掠れてほとんど音にならない声で「ありがとう」と呟いた。
ひどい風邪を引いたときのような掠れ声は、昨日の夜から始まって、どんどんとひどくなっている。喉元まで迫ってきた呪いのタトゥーを指でなぞっていると、そんなアステラの気を紛らわせようとするように、ダガンは大袈裟な動作でがばりと肩を組んできた。
「もう少しで伯爵領に着くって言うとったし、きついんは今日だけや。とっとと呪い移して、それで終いや。全部終わったら、今日はゆっくり宿で休むとしよか」
「……うん。そうだな」
ぎこちなく笑みを作りながらも、アステラは本当にそうだろうか、と気弱なことを考えずにはいられなかった。
たとえ死の呪いから逃れられても、アステラが赤ん坊の時にイリヤへ差し出された生贄だという事実は変わらない。ひとつ呪いを解いたところで、また新たな呪いを掛けられれば、同じことの繰り返しになるだけだ。優しげな見てくれとは真逆の、あの恐ろしい悪魔から逃れる方法なんて、本当にあるのだろうか。自分は、ダガンを巻き込むべきではなかったのではないか。
日が経つごとに、焦燥感だけが強くなっていく。
俯くアステラの顔を照らすように、ふと白い光が差し込んできた。
朝日が昇る。七色に染まった空の淵から、眩い太陽がじりじりと顔を出す。夜闇を払う朝日の冷たい光は、しかし朝の清々しさよりも、憂鬱を強く呼び起こした。
自分が死ぬまであと三日。朝日が昇るたび、アステラは人形に近づいていく。
――今日も何かを奪われる。
清らかな光が、朝の訪れを告げた。手でひさしを作りながら、ダガンが眩しそうに目を細める。
「朝やな」
ダガンの言葉に相槌を打とうして、直後に、己の喉が何の音も生み出せないことに気づいて、アステラは力なく頭を振った。




