1-5 神秘の生き物、海の宝石、心奪われる美しさ
「アステラ、だけど」
「俺はダガン。取引せんか、アステラ」
「取引って?」
問い返すと、ダガンはにんまりと唇を歪めて、ぴんと人差し指を立てた。
「簡単なことや。俺はお前を助ける。お前は俺を助ける。そういう契約や。……ちゅーことで、お前に一滴、俺の血をやるわ!」
「お前の血なんか欲しくもねえよ」
「俺だってやりたないわ。でもお前、死にたくないんやろ。可哀想やから、助けたる。不幸話なんざ、笑い話にしたもん勝ちやで。俺を信じろ、クソガキ」
言うが早いか、ダガンは床に両手をついて、尾びれを引きずりながら身を起こす。
「人魚の肉は不死の薬。血は万能薬で、涙は真珠。せやから人間どもは躍起になって追いかけてくるっちゅうわけや。ここで俺に会えてついとったな、アステラ」
無造作に自分の親指の腹を噛み切って、ダガンは檻の隙間からそっと指を差し出した。出会ったばかりの男の指など舐めたくもなかったが、拒否するだけの気力もない。唇に添えられた指に舌を伸ばして、アステラは与えられるがまま、ダガンの血を舐め取った。
腐った魚の方がマシだと思えるくらいに不味かったけれど、ダガンの血を飲み下した瞬間、体がほっと温かくなった。泣きたくなるような安堵とともに、痛みがすっと引いていく。後には、優しい温かさだけが残った。
アステラに家族の記憶はないけれど、例えば親に抱きしめられたとしたら、こんな心地がするのではないだろうか。そう思った途端に、ぽろぽろと涙が勝手に滑り落ちてきた。
「ほら、泣くな。大丈夫や。お前はこれで、もう死なん。安心せえ」
ぐしゃりと乱暴に頭を撫でてくれた手の感触を、多分、アステラは生涯忘れない。認めるのは非常に癪ではあるが、ダガンはアステラの命の恩人であり、はじめて頭を撫でてくれたひとだった。
「……ありがとう、ダガン」
くしゃりと泣き笑いをしながら、アステラは震える声で礼を言う。肩を竦めて応えたダガンは、「次はお前の番やぞ」と念を押すように告げてきた。
「檻だけ開けてくれればええわ。隣、海のはずやから」
「じゃあ、鍵を探してくるよ」
「いらんわ。そこに机あるやろ。扉の横の。そこに鍵入れとるの見たわ。適当な仕事しとってくれて助かった」
言われるがまま机の引き出しを漁ると、ダガンの言う通り、錆びかけた鍵の束が中に放り込まれていた。
見つけた鍵を使って、ダガンを戒める檻と枷を開けていく。貴重な人魚を逃がしたとバレた日には、きっとアステラは楽に死なせてはもらえないだろう。けれど、ダガンに会わなければ、アステラはここで死んでいたはずなのだ。それを思えば、ためらいは感じなかった。
人には言えない仕事ばかりをたくさんしながら生きてきた。ダガンの言った通り、最後にひとつくらい善行を積むのも悪くない。
近くの窓からは、建物の真下で揺蕩う海面が見えた。アステラが飛び降りれば無事とは行かないだろうが、海に住む人魚にとっては、問題にもならない高さだろう。
窓を限界まで開け放ち、アステラはダガンを促すように後ろを振り返る。
「出られそうか?」
「ちょい高めやけど、まあ行けるやろ」
ダガンが窓枠に手を掛ける。一歩横へと退きながら、アステラは小さな声で別れを告げた。
「じゃあな、ダガン。もう捕まるなよ」
「何言うとるんや。アステラも行くんやで」
「……え?」
ぱちぱちと瞬きをするアステラに構わず、ダガンは窓枠から身を乗り出した。落ちる直前でむんずとアステラの腕を掴んだダガンは、そのままアステラの体を抱きかかえるようにして、窓の外へと引きずり出す。
「えっ、うわああぁっ!」
全身に浮遊感を感じた直後、音を立てて体が海へと落ちていく。ダガンが下から抱きかかえていてくれたおかげか、思っていたほどの衝撃は感じなかったけれど、いきなり水に放り込まれたら、たまったものではない。海面へと顔を出し、アステラはげほげほと咳込みながら、己を抱えるダガンをキッと睨みつけた。
「何するんだよ! なんで俺まで落とすんだ!」
「下っ端が商品逃がしたら、普通に考えて責任取らされるやろ。せやから夜逃げや、夜逃げ。今、昼やけど」
濡れた髪をかき上げながら、ダガンはうんざりしたようにそう言った。
「え……?」
睫毛を濡らす海水の雫が落ちると同時に、視界がすっとクリアになる。目の前にあるダガンの顔を正面から見た瞬間、比喩でなくアステラの息は止まった。限界まで目を見開いて、絶句する。
ダガンの長い前髪の下に隠されていたのは、二色の美しい切れ長の瞳だった。
右目は吸い込まれそうに深い蒼色。左目は優しく神秘的な薄紫色。見たこともない色合いのオッドアイに、場所も状況も忘れてじっと見惚れる。海の宝石があるとしたら、こんな色をしているのではないだろうか。
愛想が良いとはお世辞にも言えない仏頂面は、美しいというよりは気難しそうな印象が先に立つけれど、同性として憧れるほど精悍に整っていた。陸の上ではくすんで見えた銀髪も、濡れてきらきらと光を受けると、さらに神秘性を増して見える。
「……人魚だ」
「今さら何や」
神秘の生き物、海の宝石、心奪われる美しさ。
今まで出会った誰より優しくやかましい人魚が、アステラの心に消えぬ思い出を焼き付けた瞬間だった。
* * *
あの日もこうやって、適当な砂浜に置いていかれたことを懐かしく思い出す。ダガンは海があれば生きられるのだろうが、アステラは陸だけあっても生きられないのだと、何度言えば分かってくれるのだろうか。
闇業界から逃げ出したアステラは、海賊になり、傭兵になり、流れ者として生きてきた。いい加減真っ当な仕事をしろとダガンが言うから貴族仕えの兵士になったというのに、認めてくれるどころか、今度は人間の町へ帰れときた。あんまりである。
致命的に抜けているダガンは、幾度となく人間に捕まっては死にかけていたし、老若男女問わず恋の対象とみなすアステラは、痴情のもつれに巻き込まれては死にかけてきた。そのたび、アステラとダガンは、十年に渡って幾度となく窮地で顔を合わせては、助け合って逃げてきた。
たとえ一生当て馬ライフが続くとしても、ダガンとの腐れ縁が続くのであればそれも悪くない。そう言ったら、あの人魚は鼻で笑うだろうか。
ぐったりと休んでいるうちに、日が暮れていく。辺りが暗くなるにつれ、意識がふわりと遠のいていく。
「アステラくん」
近くに誰かがしゃがみ込む気配がした。甘く耳に心地よい、悪魔のような声が名前を呼んでいる。不思議と聞き覚えがある気がしたけれど、誰の声だか分からなかった。肩を揺さぶられても、目を開けるだけの元気が出ない。
「お疲れですね。まあいいです。そっちの方が、都合が良いですから」
膝裏と肩の下に腕を入れられ、そっと体を抱き上げられた。奇妙な浮遊感に目を開けると、どんどんと遠ざかっていく砂浜が見える。まるで空を飛んでいるかのようだ。
夢だな、と雑に結論付ける。
何しろ人間が空を飛べるはずがない。むずがるように体をひねると、アステラを抱える誰かが、くすりと笑う気配がした。
「赤ん坊のころから変わりませんねえ。二十二の誕生日にはちょっと早いですけど、待ちきれなくて迎えに来ちゃいました。契約ですから、いいですよね?」
知らない。どうとでもなれ。誰に拾われたのか知らないが、アステラは疲労で限界なのだ。
「安心してください。君が二十二になるまでの半年間、大事に大事に囲ってあげますから」
くすくす、くすくす。背筋がぞっとするような笑い声を聞いているうちに、意識を保つことさえ難しくなってきた。薄れゆく意識の中で、ばさりと翼が広がる音を聞く。黒い羽を視界の端に捉えたのを最後に、アステラは深い眠りに落ちていった。