1-4 優しい人魚の子守歌
歌が聞こえた。夢が現かも分からなくなるような、優しい歌だ。声を頼りに床を這い、アステラは狭い小部屋に潜り込む。
そこには、鮮やかな水色の尾びれを揺らす人魚がいた。目を疑いながら見つめていると、ぴたりと歌が止まり、人魚が振り向く。
「何見とるんや、ガキ。金取るぞ」
鎖に繋がれた男の人魚は、当時十一歳だったアステラに向かって、気怠げに尾びれを動かしながらそう言った。
人外らしく見た目が変わらぬダガンは、当時から二十代そこそこの外見のままだった。だというのに、腹を抱えて蹲る子どもに対して、それが仮にも大人の掛ける言葉なのかと失望したことをよく覚えている。
「金なんてねえよ。あったらこんなところに、いるわけないだろ」
床を這い、呻きながらアステラは返事をした。話していると、毒で朦朧としていた意識が、僅かながらはっきりとしてくる。室内にいるのは自分と、檻の中に閉じ込められたこの人魚だけらしい。目だけでそれを確かめて、ほっとアステラは息をつく。
アステラと目線を合わせるように床に頬杖をついたダガンは、にやりと笑って「奇遇やなあ。俺もやで」と軽く答えた。
「海賊船を見に行ったら、うっかりとっ捕まってこのザマや。ここ、どこなん?」
「人材斡旋所だよ」
正確には、曰く付きの人間や人外の生き物を取り扱う奴隷市場、もしくは闇オークション会場と言うべきだが。
「人魚の兄ちゃんはこれから売られるんだ」
稀少な種族は、鑑賞用としても愛玩用としても需要が高い。物心ついたときにはアステラはここで働いていたけれど、人魚を見たのは初めてだった。この人魚が誰の手に渡るにせよ、ろくな目には合わないのは目に見えている。何しろここに来る客は、倫理観の壊れた変態ばかりだから。
「……可哀想だな」
憐れみを込めて囁くと、ダガンは面白がるようにぴくりと片眉を上げた。かと思えば、状況が本当に分かっているのか疑わしくなるような軽快な口調で、ダガンは「お前ほどやないわ、クソガキ」と言い放つ。
「可哀想になあ。顔、紫になっとるやん。元からそうなん?」
「そんなわけないだろ!」
「怒んなや。冗談や、冗談」
けらけらと笑ったダガンは、すん、と鼻をひくつかせながら、「毒の匂いがするなあ」と小さく呟いた。
「それ、放っておいたら死ぬやつやで。どうせ死ぬなら、その前に俺を逃がしてくれへん? こんな真っ当やない場所におるくらいやし、ろくな生き方しとらんのやろ?」
図星だった。返す言葉に悩んで、アステラは唇を噛み締める。
身寄りのない子どもに生き方は選べない。ろくに働けもしない子どもをわざわざ受け入れてくれるのなんて、スラムや海賊船や奴隷市場のような、後ろ暗い場所だけだ。見目と愛嬌を頼りに他者へ取り入ることだけが、アステラの生きる術だった。
もっともそのせいで、こうして死にかけているのだから笑えない。
「……関係ないだろ」
「関係大アリや。最後にひとつくらい、善行する気はあらへんか? 可哀想な人魚、助けたくなってきたやろ。な?」
「さっきからなんなんだよ!」
純粋だったアステラは、それまで人魚という存在に夢を見ていた。
神秘の生き物、海の宝石、心奪われる美しさ。
裏業界で見る人間の欲や汚さとは真逆の、美しさだけを集めたような生き物がどこかにいるのだと、本気で信じていた。だというのにダガンはごくごく普通の男である上、図々しくも自分のことしか言わないものだから、落胆を通り越して怒りが湧いてくる。
「この自己中人魚! 人魚のくせしてもさい見た目しやがって! 俺の夢を返せ!」
「人の見た目をどうこう言いなや! そっちこそ、見た目は良いのに残念な性格しとるなあ。貴重な金髪碧眼が台無しやわあ……。ガキ見とっても目の保養にもならんし、十年歳取ってから出直して来てほしいわ」
――見た目しか取り柄のない役立たずのガキが。一丁前に色気付いてんじゃねえ!
ダガンの言葉は、奇しくもアステラに毒を盛った男の言葉を思い起こさせた。普段であればいざ知らず、死にかけたアステラの心は、そんなささいな言葉にさえも容易く傷つく。
ぶわり、と両目に涙が湧いてきた。
「う……っ」
「う?」
「う、ううう……! 馬鹿! ばーか! 十年生きられるもんなら俺だって生きてえよ! でも体が動かねえんだよ! 俺、もう死ぬんだよ……! まともな恋人ひとりいたことねえのに! ひ……、っく……うああぁ!」
「なんでいきなり号泣やねん。ガキはこれだから嫌やわあ……」
ぼやきながらも、ダガンは泣きすぎてろくに息さえできなくなったアステラを見かねたらしい。すう、と深く息を吸う音が聞こえたかと思えば、先ほど扉越しに聞こえていた低く優しい旋律が、ふわりと耳を撫でていった。
歌詞のない歌。子守歌など歌ってもらったことはないけれど、きっとこんな歌なのではないかと思うような、穏やかな旋律だ。歌に耳を傾けているうちに、わずかではあるが涙が収まってくる。
「……ひっ、く」
拳でぐしぐしと目元を拭う。旋律が一区切りつくと、「ほら」と促すようにダガンが声を掛けてきた。
「泣いとらんと話してみい。どないしたん。なんでそんな、死に掛けるようなことになっとるんや」
「お、俺……毒、盛られたんだ。飲み物、あげるって……」
後から思えば、一種の痴情のもつれというやつだったのだろう。
当時のアステラは、自分を弟のように可愛がってくれた十も年上の同僚に、恋をしていた。彼女もまた、物知らぬ子供を面白がって、色んな手解きをしてくれた。
問題だったのは、彼女の兄代わりだった男の存在だ。
アステラにとっては仕事の先輩にあたる男は、物事を深く考えない彼女のことを、深く愛していた。それこそ、彼女を部屋に軟禁し、邪魔なアステラを力尽くで排除しようとするくらいには。
「先輩、いつも意地悪だったけど、今日は優しくて……俺、嬉しかったんだ。でも、くれたのは毒だった。俺のことが邪魔なんだって。姐さんも見てたのに、先輩が怖いからって知らんぷりした。『あたしのこと、そんな好きなんだ』って言って喜んで……」
「ははあ……そらまた、ひどい話やな」
ダガンの入れた合いの手に、アステラは涙を飛ばしながらぶんぶんと何度も頷いた。
「好きになる人好きになる人、皆して俺じゃない人とくっつくんだ。俺、何もしてないのに……悪いことなんて、何もしてないのに……!」
「そうかそうか。大変やったな」
慰めてくれるのかと思いきや、口角を上げたダガンは、のん気な声音でアステラの不幸を笑い飛ばした。
「ガキのくせして濃い経験しとんなあ。俺より可哀想なやつ、初めて見たわ」
「そ、そっちの方がどう考えても悲惨だろ! 闇オークションに出された商品なんて、この先きっと、俺なんか目じゃないくらいの生き地獄なんだからな!」
反射的に言い返してはみたものの、お先真っ暗な状況で不幸比べをする虚しさに思い当たって、アステラはがくりと項垂れた。
「……クソ、クソ……死ぬ前にひとりくらい、本当の恋人が欲しかったよ……!」
「恋人恋人言うけど、別に幸せのアイテムとちゃうんやぞ。夢見すぎやろ」
「夢くらい見たっていいだろ! だってみんな、好きな人と一緒にいると、幸せそうじゃんか。俺だって……!」
ひっ、ひっ、としゃくりあげるアステラを困り顔で眺めながら、ダガンは「なら生きればええんとちゃう?」と当たり前のように呟いた。
「たかだか毒やろ。どうとでもなるわ。ガキ、名前は?」