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5-9 海魔の体液

「生きたいって言うて俺に縋ってきたんはアステラや。俺はあいつを生かしてやるって決めて、それをずっと続けとる。それだけや。血の数滴で何がどうなるとも思わへんけど、仮に何かがあったとしても関係あれへん。あいつが後悔しようが俺を恨もうが、それはもう、俺の問題やない。俺に懐いて追いかけてくるあいつが悪い。そうやろ?」


 聞くだけで意識を惹き付けられる、魔性の声。

 ダガンは人を惑わす海魔の歌が歌えないことをコンプレックスに思っているらしいけれど、オクタヴィアからすれば、とんでもない話だ。

 ダガンの声は、海魔の本質そのものだ。人を惑わし、魅了する。たとえその先に破滅が見えていても、耳を傾け、手を伸ばさずにはいられなくなる、そういう声だ。

 何を言おうとしていたのかも忘れて、オクタヴィアは呆然とダガンを見つめた。

 

「俺の手ぇ取ったんはアステラや。俺に染まるなら染まればええ。特別やって言うなら、責任くらい取ったるわ」

 

 ほの暗い声音でダガンが囁く。自分で分かっているのかいないのか、ダガンの唇には、普段の兄であればまず浮かべない類の、艶やかな笑みが刻まれていた。

 自分を追ってくる人間を水底へと誘い、骨まで食らい尽くす化け物というものは、きっとこういう顔をするのだろう。あるいは、ただひとりと定めた相手を堕とす時の海魔もきっと、同じ顔をしているに違いない。

 本人たちに自覚があるのかどうかは知らないが、父を筆頭として、海魔というものは、愛する相手へ気持ち悪いくらいに執着する性質があるようだから。

 

 オクタヴィアは、ダガンのこういうところが苦手だ。

 時折顔を覗かせる、海魔としての一面が恐ろしい。なまじ同じ半魔として生を受けているだけに、自分には到底理解できない振る舞いを目にするたび、どうしようもない嫌悪感に襲われる。

 人間にも海魔にもなれない半端者だとダガンは言うけれど、人間で在ることを望んだオクタヴィアから見れば、ダガンはずっと昔から海魔以外の何物でもなかった。

 それ以上その話題に触れないことを選んだオクタヴィアは、ダガンの視線から逃げるように室内へと目を向ける。

 

「……薬はあくまでその場しのぎや。呪い移しの材料集めるんは結構やけど、アステラくんを助けたいなら、夢守りあたりで呪いを抑えながら、首都の教会連れてった方が確実やない?」

「首都の教会は、金積まんと順番飛ばしはできんのやろ? アステラにそこまでの時間は残ってへん。呪いを抑えようにも――」


 ダガンの言葉を遮るように、じゅうと何かが焼ける音が響く。見れば、アステラの手首に結ばれた夢守りのまじないが、端から焼け落ちるように黒く染まり始めていた。

 絶句するオクタヴィアに横目に、ダガンは「やっぱりな」と苦々しく顔を歪める。

 

「見ての通り、抑えられる呪いやない。道中の神父さんにもひと通り試してもらったけど、何も効かんかった。相手が悪すぎるんよ」

「……どんだけ高位の悪魔に恨み買ってん、あの子」

「国一つ片手間に滅ぼせるくらい、どぎつい性悪悪魔やな」


 肩を竦めたダガンは、ついでのように付け足した。

 

「ちなみに恨みやなくて、好意らしいで」

「そらまた、まさに悪魔的な愛情ってやつやな。大丈夫なん? そんな悪魔に喧嘩売って」

 

 オクタヴィアは恐々とダガンを見る。いつの間にやらテラスの淵に腰掛けていたダガンは、ちらりとこちらを振り返りながら「しゃあないやろ」と小さく呟いた。


「あの甘ったれ、死にたくないって言うんやから。俺しか頼りがないなら、なんとかしてやらなあかんやろ」

「……命懸けになるで」

「分かっとる。覚悟の上や」


 しばしダガンを見つめたオクタヴィアは、ややあって、深々とため息をついた。

 

「ヤドリギ以外の呪い移しの材料は揃っとるん?」

「星の石はある。銀の短剣は、アステラが動けそうなら、明日にでも近くのデカい街で探す予定や」

「デカい街って、レムリアナか? やめとき。最近あそこ廃れてきとるから、行ったところであるか分からん。それに……」


 言葉を切ったオクタヴィアは、ちらりとアステラに視線を向けた。何度か唇を開閉した後で、内緒話をするように声を落として、言葉を紡ぐ。


「あの呪い、広がっとるよ。いつまでアステラくんが自力で動けるかも分からんし、悪魔を敵に回す気なら、わざわざ陸の内側に――相手の領域に行かん方がええと思う。船で、海際の街に行ったら? 明日の朝になれば、ちょうどうちの人が帰ってくるから、乗ってけばええわ」


 オクタヴィアの夫は生粋の漁師だ。月の大半を海上で過ごす彼は、自由に使える船を持っている。


「大聖堂のあるヴィンブルク伯爵領なら、銀の短剣のひとつふたつ、絶対見つかる。四日もあれば確実に着くし、そっちにしたら」

「……ヴィンブルク伯爵領やて?」

 

 陸の情報に疎い兄への親切のつもりで提案したが、伯爵領の名を聞くなり、ダガンは嫌そうに顔を顰めた。


「何? なんかあるの?」

「こっちの話や」


 それ以上の詮索を避けるように切り捨てて、ダガンは一言「よろしく頼んどいてくれ」と呟いた。


「遅くに世話掛けさして悪かったな。もう寝ぇや、オクタヴィア」


 これだけ見た目の年齢に差ができたというのに、その言葉だけは昔と変わらない。懐かしい思いで苦笑して、オクタヴィアはダガンに手を振った。


「お兄ちゃんも、早めに切り上げてな」


 無言でダガンは頷いた。するりと身を滑らせたダガンは、そのままとぷんと穏やかな水音を残して、暗い海へと消えていく。


「……死なんといてな、お兄ちゃん」


 吐息だけで紡いだ言葉は、波音に飲まれて、夜へと静かに消えていった。

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