5-6 半魔のシスター
「アステラ。……起きろ、アステラ!」
肩を揺さぶられて、はっと意識が覚醒する。
目を開けると、ダガンが心配そうにアステラを覗き込んでいた。背後には、銀髪の女が心底不快そうに耳を塞いで立っている様子が見える。
「……大丈夫か? あの性悪悪魔、油断も隙もないな」
らしくもなく真面目な顔をしたダガンが、アステラの額を布で拭っていく。世話を焼かれてはじめて、己の全身が冷や汗か脂汗かも分からぬ汗で濡れていることに、アステラは気がついた。
「何、が……、ぅ……っ!」
身を起こそうとした途端に、激痛が全身を襲った。堪らず背を丸めると、慌てたように銀髪の女が駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん、痛み止め持ってきて!」
「いちいち怒鳴らんでも分かっとるわ!」
ダガンと入れ替わるようにアステラを支えた女は、アステラの腕に刻まれたタトゥーをじっと見ると、同情するように眉尻を下げた。
「夢渡りもできる悪魔なんやね。タチの悪いやつに目ぇつけられて、可哀想に。お兄ちゃんのひっどい歌で追っ払ったけど、一応お祈りもしとこうな。悪魔の気配が薄まれば、少しは楽になるかもしれんから」
「『かも』って何やねん。シスターやろ、オクタヴィア。しっかりせえや」
「シスターはシスターでも、私は港町のシスターや。首都でばりばりやっとる悪魔祓いたちと一緒にせんといて。こんな強い呪いも悪魔も、はじめてやねんから」
その言葉に、アステラはオクタヴィアと呼ばれた女の服装に目を向ける。神樹を模ったペンダントを首から下げた彼女は、神職者の証明である、藍色のローブを纏っていた。
「ほら、薬や。飲めるか、アステラ」
のたのたと床を這うように戻ってきたダガンが、丸薬を二つと、水の入ったコップを差し出してくる。先ほどは気づかなかったが、ダガンの下半身は、見慣れた魚の状態に戻っていた。剥き出しの上半身は水で濡れているし、まるで今しがた海から上がったばかりかのようだ。
オクタヴィアに背を支えられながら、アステラは渡された薬を必死の思いで飲み下す。アステラが痛み止めを飲んだことを確認したダガンは、「よし」と満足そうに頷くと、忙しなくまた奥へと引っ込んでいった。どこに行くのかと問うより前に、ダガンは思い出したようにくるりと振り向き、アステラへ念を押すように指を突きつけてくる。
「ヤドリギを探しに行くだけやからな。すぐ戻る。動かんとええ子に寝とけよ、アステラ」
「え、あ……うん」
心を読んだかのようなタイミングで言われたものだから、呆気に取られて、ろくな返事も返せなかった。そうこうしているうちに、「何かあればオクタヴィアに言え。俺の妹や」と言い残したダガンは、大窓から外に出ると、ぽちゃりという水音ひとつ残して海へと消えた。
戸惑うアステラをよそに、オクタヴィアは首飾りを握り込み、祈りを捧げ始める。透き通った声で朗々と紡がれる祝詞に耳を澄ませているうちに、飲まされた薬が効いてきたのか、痛みはしだいに引いていった。
痛みがおさまってくると、ようやく周囲を眺めるだけの余裕がアステラにも戻ってくる。
アステラがいるのは、こじんまりとした一軒家のようだった。二人で暮らしているのか、手作りのリースであったり、揃いのコップであったりと、家族の生活感を感じさせるものがあちこちに置かれている。
クリーム色に塗られた壁の一角には大きな掃き出し窓があり、ひらひらと舞うカーテンの向こう側には、海の上に設置されたテラスが見えていた。辺りは真っ暗で、外からは穏やかな波の音が聞こえてくる。揺れるカーテンを見るともなしに眺めていると、祈りを捧げ終わったらしいオクタヴィアが、静かに寝台脇の椅子へと腰掛けてきた。
「薬、効いてきたみたいやね」
熱の具合を診させてな、と一言断り、オクタヴィアはアステラの額に触れる。
「うん、熱冷ましもちゃんと効いとるな。呪いのせいやって聞いとるよ。災難やったね」
ほっとしたようにオクタヴィアは目元の皺を深めた。慈愛深く微笑むオクタヴィアの顔を、ぼんやりとアステラは見上げる。
長く艶やかな銀髪に、薄紫色の瞳。儚い色合いとは裏腹に、オクタヴィアの表情と佇まいは、さながらご近所のおばちゃんと呼びたくなるような生気に満ち溢れていた。海中で見るダガンほどの神秘性は感じないけれど、辺境の町では珍しい美人なのは間違いない。アステラの母が生きていたとしたら、これくらいの年齢になるだろう。
答えないアステラを訝しんだのか、「聞こえとる?」とオクタヴィアが顔の前で大袈裟に手を振った。
「すみません。見惚れてました」
正直に告げると、吹き出すようにオクタヴィアは笑い出す。
「嫌やわ、こんなおばちゃんに何言うとんの。……アステラくんやっけ? 元気が出てきたみたいで何よりやわ。私はオクタヴィア。ダガンの妹や。はじめまして」
「はじめまして。会って早々、ご迷惑をおかけしてすいません」
この布団も、と誰のものかも分からぬ掛け布団を持ち上げながら謝ると、オクタヴィアは笑みを崩さぬままに首を横に振る。
「気にせんでええ。元々それはお客さん用の布団やし、そもそも夜に押しかけてきたお兄ちゃんが全部悪いわ」
お兄ちゃん。
その呼び方に、まじまじとアステラはオクタヴィアの顔を見る。ダガンはオクタヴィアを妹だと言っていた。彼女もダガンを兄と呼んでいる。けれど、それにしては――。
「えらい老けとんなあと思てんやろ。ん?」
面白がるように片眉を上げて、オクタヴィアがにじり寄る。慌ててアステラは「いや、そういうわけじゃ」と否定した。しかし、兄妹というよりは、もはや親子と言われた方が納得できる見た目の差が気になるのはたしかだ。ややあって、おずおずとアステラは頷いた。




