5-5 茨の悪夢
息さえできなくなるほど、きつく首を絞められる。
埋め込まれた呪いの核たる蛇が、ぞろり、ぞろりと体の中を動き出す。腿から腰へ、腰から胸へと這い上がり、やがて蛇は、またアステラの体の奥深くへと潜っていく。
眠る前には痛みしか産まなかったはずのその動きが、今は身悶えするほど気持ちがいい。皮膚の下を這い回る蛇の動きに耐えかねて、噛み締めた歯の間から呻きが漏れた。快楽を感じているなど信じたくないのに、体は熱を溜めるばかりで、アステラの言うことを聞いてはくれない。
息ができない。目の前が暗くなる。くらくらとする苦しさのせいで、痛みと快楽の境界はますます近づき、自分が何に抗っていたのかすら、しだいに分からなくなってきた。
ぐるりと目玉が上を向く。足の力が入らなくなり、いよいよ意識を失いかけた瞬間、それを察したかのように、首を絞める手が離れていった。
「……っ、ぐっ! げほっ、う……っ」
激しく咳をしながら、アステラはぐったりとイリヤの胸にもたれかかった。自分でアステラを嬲っておきながら、ひどく優しい抱擁を与えてくる、矛盾した男の体に。
「旅は楽しかったですか」
背後からアステラを支えるように抱きしめながら、イリヤが問いかけてくる。答えることもできないまま、朦朧と俯いていると、すらりと長いイリヤの指先が、戯れのようにアステラの額を叩いてきた。瞬間、すべての感覚が一気に鋭敏さを増す。
目を見開いたアステラは、もはや涙を堪えることもできずに、絶叫した。
「嫌、だ……! 嫌だぁ!」
痛い。苦しい。――気持ちがいい。
蛇が我が物顔で体内を這い回るたび、全身をくまなく嬲られているような心地がした。体の中も外も区別なく、暴かれ犯され苛まれる。頭の中を弄られたかのような暴力的な快楽に、たまらずアステラは顔を歪め、啜り泣くような声を上げた。
嫌だと言っても、体内で蠢く蛇は止まらない。
痛いのに気持ちがよくて、怖いはずなのに、何にそうも怯えていたのかすら分からなくなってくる。逃げようとすればするほど、腕を戒める荊は深く肌へと食い込み、痛みが全身を疼かせた。流れる血の量が多くなればなるほど、頭を焼く痛みと快楽は余計に程度を増していく。
気づけば自分を抱くイリヤの腕だけが、狂いそうなほどの苦痛と快楽に耐えるためのよすがになっていた。
「……っ!」
「ほら。泣いていないで答えてください、アステラくん」
あやすようにアステラを背後から抱え直して、イリヤは促すように優しく囁く。
「楽しかったですかって聞いているんです。ずいぶんはしゃいでいましたよね。美味しいものを食べて、美しい景色を楽しんで、見たことのない土地と人とを満喫して」
じゃれつくようにアステラの肩に顎を乗せたイリヤは、次の瞬間、嗜虐的な笑みを浮かべて声を落とした。
「本当はそんなもの、大した興味もないくせに」
「な、に」
イリヤを振り返った途端に、すっと体を離された。アステラの体に埋め込まれた蛇もまた、主の命令を待つように動きを止める。
先ほどまでアステラを苦しめていた異様な感覚は、波が引くように消えていった。しかし、全身を苛む痛みは消えない。イリヤという支えを失った途端に、アステラは体を支えていられなくなった。
腕に絡む茨が、自重のせいで深々と肉へ食い込んでくる。それこそ、茨に腕を食いちぎられるのではないかと錯覚するほどに、深く。
「『旅を楽しみたい』だなんて、よくも言えたものですよね」
茨に繋がれたアステラの正面に回り込んできたイリヤは、にんまりと意地の悪い笑みを浮かべて小首を傾げる。
「食べ物なんて腹が膨れればそれでいい。景色なんて他人を誘惑するためだけに使う小道具だ。そうでしょう?」
見透かすような赤い瞳が、不意に恐ろしくなった。気圧されるように目を伏せながら、アステラは必死に言葉を紡ぐ。
「ち、がう。俺は、本当に――」
「違わない。僕はね、アステラくん。赤ん坊の時からずーっと君を見てきたんです。君がどれだけずるい人間か、僕はよく知っています。あの半魔が君に縋ったとき、嬉しかったでしょう?」
耳を塞ぎたいのに、塞げない。アステラの汚さを突き付けるように、イリヤは耳元で囁き続ける。
「可哀想にね。人々に冷たい目を向けられて、彼はさぞかしつらい思いをしたでしょうに。当の君は、彼を守れる機会を歓迎して、喜んでいた。分かりますよ。縋ってほしかったんですよね。依存してほしかったんですよね。だから人の世界に慣れていないと知っていたのに、君は彼をひとりで置いていった。問題が起こるかもしれないと予想しなかったわけではないのに、自分の欲を優先した」
「違う。ちがう……!」
喜んでほしかっただけだ。
――好意を持ってほしかった。
人の世界を見せてあげたかっただけだ。
――頼って依存して必要としてほしかった。
イリヤの言う通りだ。アステラはダガンが思ってくれるほど純粋でもなければ、素直でもない。自分が汚くて浅ましい人間だということは、自分が一番よく分かっている。
「自分の命を盾にとれば断られないと分かった上で、旅に誘ったんでしょう。おかげで人間の世界に無理やり連れ出された彼は、しなくてもいい苦労ばかりをすることになっている。君は自分のことしか考えていない。自分勝手で、ずるい子ですね、アステラくん」
「違う! 俺は、そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、どういうつもりだったんですか? 大好きな半魔と旅ができて、君ひとりだけが楽しそうにしているじゃないですか」
「好きじゃない。楽しくない。知らない。違う……! 俺は――」
イリヤの言葉を、アステラは必死に否定し続けた。
好きではない。好きでいてはいけない。ダガンとアステラの繋がりは、腐れ縁。それだけだ。そうでなくてはならない。だって、そうでなければ――。
くつり、と喉を鳴らす音がした。悪意を集めて煮詰めたような、意地の悪い笑い声だった。
「そうですね。違わないと、いけませんよね。君が愛する人は、誰も君を愛さないから」
美しい悪魔は、毒を吹き込むようにアステラに言い聞かせた。
言われなくたってちゃんと分かっている。アステラが慕った人は皆、アステラを裏切った。誰かのためにアステラを捨てて、踏み台にして、あなたも幸せになってと耳ざわりの良い言葉だけを投げつけ、アステラを置いていった。
けれど、ひと時だけの恋を楽しめる程度には、アステラだって大人になった。
本物の愛など期待しない。本気の情など求めない。自分が相手にとって有用である限りは、相手だってアステラに何かを返してくれる。
アステラがダガンを助ける限り、ダガンもアステラを助けてくれる。愛を向けない限り、あの優しい人魚はきっと、アステラのそばにいてくれるはずなのだ。
「俺は……ダガンと、取引をしただけだ。何も関係ない。だって、ただの腐れ縁なんだから」
「『腐れ縁』ねえ……」
含みを持たせて繰り返し、おかしくてたまらないとでも言うように、イリヤは口元に手を当てて笑った。
「それを本気で言っているんですから怖いですよね。本当に欲しいものを欲しがれないというのは、どういう気持ちなんでしょう? 君は本当に、見ていて飽きません」
嘲るように呟いて、イリヤはアステラの肌に刻まれた蛇をそっとなぞった。
蛇が皮膚の奥へと潜ると同時に、アステラを戒める茨がぎちぎちと音を立てて成長していく。肌に容赦なく食い込み、アステラの右腕をすっぽりと飲み込んだ茨は、もはや痛みも快楽も与えない。それどころか、茨が触れている感覚さえも消えていた。
腕そのものがなくなってしまったかのような奇妙な感覚に、ぞっとアステラは身を震わせる。
「な、にを――」
「残り七日、悪あがきをするつもりなら、ご自由に。苦しむ時間が長引くだけですけどね。君は苦しんでいるときが一番かわいらしいですから、それもいいかもしれません」
何をしたのかと問い詰めたいのに、喉が詰まって声が出ない。身を竦めたその時、不意に空から光が差してきた。海の底のように暗い闇の中に、一筋の光が揺れている。波打つ光を忌々しそうに睨んだイリヤは、闇に溶けるように消えていく。
「逃げたくなったら、呼んでください。楽にしてあげます。僕はいつでも君の味方ですからね。アステラくん」
額に口付けられて、ぞっと全身に鳥肌が立った。
「また会いましょう」
後に残ったものは、静かな暗闇と、空から落ちてくる、ひどく音痴な歌だけだった。




