1-3 十年続いた腐れ縁
柔らかい感触が唇を覆う。
口から強引に空気を吹き込まれ、容赦のない力で胸元を何度も押された。込み上げる水を吐き出しながら咳き込めば、ほっとしたように傍らの体温が離れていく。
「よしよし。生き返ったな。さすが俺。心肺蘇生も慣れたもんや」
のんきな言葉に、アステラは涙目になりつつ、恨めしい視線をじろりと向ける。
「お、お前……、おれ、を、何度……殺せば、気が済むんだよ! クソダガン!」
「ちゃんと助けてやったやん。俺が居なけりゃ溺死待ったなしのカナヅチのくせして、やいのやいの言いなや」
のたのたと尾びれを動かし、ダガンはアステラの頭側へと回りこむ。アステラの唇の色を確かめ、首元で脈を取る手際の良さといったら、本人の申告通り、確かに慣れたものだった。
ひと通りアステラの体調を確認して満足したのか、「大丈夫そうやな」と頷いたダガンは、ついでとばかりにアステラの頭をぐしゃぐしゃとかき回すと、からかうように口角を上げた。
「また当て馬男やっとったみたいやな、アステラ。飽きへんやつやなあ」
「人のことが言えるのかよ、何度も何度も飽きずに監禁されるアホ人魚め! どうせまた浜で昼寝してたら捕まったんだろ!」
ダガンがぐっと言葉に詰まった。図星らしい。
アステラが永遠の当て馬男なら、ダガンはアホほど抜けた希少種だった。自分が人間から狙われる種族だと知っているくせして、いまいち警戒心に欠けるダガンは、おそらくはアステラが失恋したのと同じ数だけ、人に捕まり監禁されている。
「うっさいわ! 俺がアホ人魚ならお前はなんや。アホ人間か? 相手がおる人間しか好きになれん特殊性癖男め!」
「うるさいぞ! 俺だって好きでそういう相手を選んでるわけじゃねえの。知らなかったんだよ!」
額を突き合わせて睨み合う。唇が当たりそうな近さに薄ら寒い気持ちになったところで、向こうも同じことを思ったのか、アステラとダガンは「ふん!」と同時に顔を背けた。
ダガンの銀髪が橙色にきらめく。海に目を向ければ、ちょうど日が沈んでいくところだった。真っ赤に熟れた太陽が、空を複雑な色合いに染めながら、海へ姿を消していく。美しい夕暮れを眺めていると、どたばたで忘れかけていた感傷がよみがえり、不覚にも視界が滲んできた。
「あーあ、今度こそ本当の恋人になれると思ったのになあ……」
膝を抱えたアステラは、じわり、と涙を滲ませた。隣に座ったダガンは、皮肉げに口元を歪ませる。
「あのあざとそうな男と恋人やって? アステラには無理やろ」
「どういう意味だよ」
「お人好し野郎は、ええように使われて終わりってことや。毎度毎度痛い目見とるくせに、学習せんやつやな。お前の好みはさっぱり分からんわ」
「ああいう儚げな子は、守ってやりたくなるだろ」
もっとも向こうにアステラは必要なかったみたいだが。ぐす、と鼻を啜りながら、アステラは涙混じりに悲しみを吐き出す。ダガンはいかにも面倒くさそうに指で砂浜に絵を描きながらも、一応話は聞いてくれた。
「ああいうのは儚げやなくて、性悪って言うんやで」
「サレは性悪じゃない」
「あっちこっち気ぃ見せてふらふらしとるやつが性悪やないなら、何やっちゅうねん」
「少し気が弱かっただけだよ。サレは何かを決めるのに、人より少し時間がかかるんだ」
恋人も、と付け足すように呟いて、自分の言葉に自分で傷つく。ふぐうと情けなく呻いたアステラを横目で見やって、ダガンは呆れたように頭を振った。
「お優しいこって」
「ダガンに褒められると気色悪いな」
「褒めとらんわアホ。振り回されて捕まりかけたのに、恨み言ひとつ言わんなんて、頭のおめでたいやつやなって言うとんのや」
あからさまに嫌そうな顔ではあるが、失恋するたび、アステラの涙が落ち着くまで話を聞いてくれるこの人魚のことが、アステラは嫌いではなかった。天涯孤独かつ波瀾万丈の人生を生きるアステラにしてみれば、ダガンは長年付き合いのある唯一の友人のようなものだ。
もっとも、向こうがどう思っているかは知らないが。
ふん、と鼻を鳴らしたダガンは、話がひと段落するや否や、尾びれを動かしあっさりと海へと身を浸していく。
「もう行くのか? もう少し一緒にいてくれよ、ダガン」
「そう言うてお前、いっつも一週間も二週間も海岸暮らししようとするやん。付き合うてられへんわ」
「そんなに長く付き合ってくれたこと、ないくせに」
「お前は人間なんやから、いつまでも泳げもせん海のそばにおらんと、人間の町に帰れ。そんで、いい加減真っ当な恋愛せえよ。恋に恋すんのも大概にしとき、色ボケアステラ」
けんもほろろに拒絶され、アステラはぶすくれながら膝を抱える。
「……分かってるよ。そっちこそ、もう海からほいほい上がってくるなよな。行くならとっとと行け」
ひらひらと振った手をうっかりとダガンの背に伸ばしかけ――そんな自分を戒めるように、アステラはそっと拳を握った。
「もう捕まるなよ、お間抜けダガン」
「こっちのセリフや。じゃあな、アステラ」
何度目かも分からない別れの挨拶をぶつけ合い、アステラはダガンを見送った。
もっとも、別れとは言ったものの、本気でこれが最後になるとは思っていない。
アステラとダガンは腐れ縁で繋がっている。十年ずっと続いた、強固な縁だ。
海に沈み行く水色の尾びれを見つめながら、アステラは奇妙な人魚と出会った日のことを、懐かしく思い起こした。