4-10 俺の人魚様
「……遅いねん。買い物ひとつでどんだけ掛かっとんねん」
慣れた体温を感じた途端、安堵したのを悟られたくなくて、ダガンはわざと憎まれ口を叩いた。何事もなかったかのように朗らかな顔をしたアステラは、わざとらしく片眉を上げて言い返してくる。
「備えあれば憂いなしって言うだろ。港町に着くまでは野宿なんだから、しっかり準備しておかないと!」
「準備はええけど、食い物こんなにいらんやろ絶対。どんだけ食う気や」
「うまい物は食えるときに食っておきたいじゃん」
そう言うアステラの手には、袋詰めの焼き海老が下げられているのをさっき見かけた。渡された荷物からは、海老フライの詰まった箱が顔を覗かせているし、中を覗けば、何やら瓶詰めのジャムのようなものまで入っている。
探し物があると言っていたくせに、一体全体、何を探しに行っていたのか。食い意地の張ったやつ、と顔を引きつらせていると、アステラはさっとダガンを片腕で抱えた。かと思えば、素早く懐を探って、取り出した何かをダガンの口元に押し付けてくる。
「ぶっ! ……酸っぱ! 何食わせんねん!」
反射的に咀嚼して、口内に広がった覚えのある甘酸っぱさに、ダガンは目を見張る。
「これ、カウベリーか……? 今、冬やぞ」
夏に実る果実がなぜここにあるのか。いたずらが成功した子供のような顔で笑ったアステラは、そのまま残りの果実を雑に自分の口に放り込むと、再度ダガンを両腕で抱え直した。
「干しベリーだよ。さすがに生の果実は見つからなかったけど、こういうお菓子とジャムはまだ残ってたから、買ってきた。しばらくは黒パンも美味しく食べられるな」
いひひ、と気の抜けた笑い声を漏らしたアステラは、降り注ぐ雨も、猜疑心に満ちた周囲の目も気にすることなく歩き出す。
「お前、探し物って――」
袋の中に詰められた、赤い果実の瓶詰めを見つめて、思わずダガンは口ごもる。干したカウベリーをもぐもぐと咀嚼したアステラは、いつも通りの愛嬌たっぷりな笑みを浮かべて、当たり前のように答えた。
「カウベリーのジャム、好きなんだろ?」
「……っ!」
アホ、と声にならない声で呟いて、ダガンは唇をきつく噛み締めた。そうでもしなければ、嗚咽のような情けない声が漏れてしまいそうだった。
つい先ほどまで心の奥に居座っていた、消えたくなるようなみじめさは、すっかりどこかへと消えていた。凍えそうに思えた雨さえも、今はちっとも冷たくない。代わりに、喉を締め付け、息を引きつらせる温かな何かが、ダガンの胸を満たしていた。
わざと乱暴にアステラの首へ片腕を回した瞬間、快活な女の声が、まごつく空気を裂くように広場に響く。
「――アステラさん、ダガンさん!」
ひゅっと空気を切り裂く音がして、布作りの白い袋が、放物線を描きながら人垣を越えてくる。慌てて腕を伸ばしたダガンは、硬い何かが入ったそれを、片手でしっかりと受け止めた。ナイスキャッチ、とアステラがのん気に呟く。
「それ、星の石だから!」
息せき切って走ってきたリリーが、広場の端で両手を口元に添えて叫んでいる。ダガンの姿が見えていないはずがないのに、リリーはまるで変わらぬ態度でぶんぶんと手を振っていた。
「――行って! 呪い、解けるといいね!」
「ありがとう! ……村の皆さんも、どうもお騒がせしました。俺たち、これで失礼します!」
先ほどまで村人たちを威圧していたとは思えぬ人懐こさで、ぱっとアステラは頭を下げる。そのままくるりと踵を返すと、人々が止める間もなく街道に続く森へと飛び込んだ。
激しさを増す雨音に混じって、またねと叫ぶ幼い子供の声がする。
クインは、無知ゆえにダガンを警戒しないだけだろう。リリーもきっと、ただの変わり者だ。それでも、ダガンが半魔と知ってもなお、態度を変えない人間がアステラ以外にもいたと思うと、ひどく不思議な気分になった。
「いい村だったな」
息を弾ませ、森を駆け抜けながらアステラが笑う。
賑やかな歌と踊り。人々の営み。夜を照らす花。そしておかしな人間たち。
どれもこれも全部、アステラがダガンを陸に連れ出さなければ、見ることのなかったものたちだ。最後の最後に自分がやらかしたことを除けば、楽しく刺激的な村だったと言ってもいいだろう。
けれど、結局アステラを助けてやるどころか、こうして足を引っ張ることしかできていないことを思うと、素直に同意を返すのも躊躇われた。
返事に悩んだ挙句、ダガンは自嘲混じりにぼそりと呟く。
「……お荷物抱えんの、そろそろ嫌になってきたやろ」
「別にいつものことだろ? もうちょっと村から離れたら、洞窟見つけて雨宿りしようか。乾かせば人間の足に戻るんだよな?」
「そらそうやけど、そういうことやなくて……取引なんて言うて、こんな半魔連れてきたこと、後悔しとるやろって言うとんのや」
吐き捨てるように言うなり、きょとんとアステラはダガンを見下ろしてきた。
たった十年で見違えるほど剣の腕を上げたくせして、そういう顔をすると、まるで幼いころと変わりやしない。クインやリリーを変わり者だと言うのなら、何度邪険にしてもダガンに懐いてくるアステラこそ、まさに変わり者の筆頭だろう。
「海に出たら、置いてってくれればええわ。呪い解く目処も立ったし、俺はもういらんやろ」
「嫌だ。ダガンはついてきてくれるって言った。俺と取引したはずだ。今さらやめたは聞かないからな!」
まるきり駄々をこねる子供のようだ。むくれきった顔をしたアステラは、「半魔、半魔って言うけどさ」と独り言を言うように呟いた。
「俺にとってのダガンは人魚だよ。物知りで、泳ぐのが上手で、歌もうまい。ついでに足まで生えて旅もできるし、イリヤからも守ってくれる。良いこと尽くしのレア人魚だ」
「お前にとってだけやろ」
「そう。俺にとって良いこと尽くしの、俺の人魚様!」
「誰がお前のや、誰が」
むくれていたかと思えば機嫌よく笑い出し、ころころと表情を変えるアステラは、嫌がらせのようにダガンを抱く腕の力を強めてきた。苛立ち紛れに睨み上げると、不意に、心底嬉しくてたまらないとでも言うように、アステラは目元を緩ませた。
「ダガンは嫌かもしれないけど、俺、ダガンが半魔でよかった。おかげでダガンと一緒に旅ができる」
アステラが犬だったなら、全力でしっぽを振っていたことだろう。純粋な好意しか感じられない目を向けられると、わけもなく頬に熱が集まってくる。とうとうまともに顔を見ていられなくなって、ダガンは舌打ちをしながら顔を背けた。
「……呪いのこと忘れてるやろ。遊びに来てんちゃうんやぞ、甘ったれ」
尻の座りの悪さをごまかすように荷物を漁り、真っ赤なジャムの詰まった小瓶を取り出す。
「おいダガン、人が走ってるっていうのにまさかひとりで食う気じゃないだろうな」
「俺に買ぉてきたなら俺のもんや。いつ食おうが俺の勝手やろ。黙って走りや」
「ひどい!」
アステラの抗議の声を聞き流しながら、行儀というものを捨て去り、ダガンは指を瓶へと突っ込んだ。
べたべたとした赤いジャムを、そっと口へと運んで舐めとる。記憶にある味よりもずっと甘く濃厚に感じられるその味を、ダガンは噛みしめるように味わった。
「……ありがとうな」
雨音に隠すようにぼそりと呟き、ダガンはアステラに身を預けた。
――タイムリミットまで、あと十二日。




