4-9 やらかした
海魔だ、と誰かが呟く声がした。
その声を皮切りとして、ざわり、ざわりと瞬く間に不安が人々の間へと広がっていく。
「どうしたの、にいちゃん」
凍り付いたように俯くダガンの顔を、不思議そうにクインが覗き込む。小さな両手がダガンの肩へ触れようとした瞬間、少年の体は背後からかっさらうように抱き上げられ、ダガンから遠ざけられた。
「近づかないで、化け物!」
焦りと恐怖に満ちた声が響く。「どうしてそんな怖い顔してるの、お母さん」と尋ねる幼い声は、瞬く間に人垣に阻まれ、聞こえなくなった。
(下手打った)
雨でも水でも、濡れたが最後、ダガンの足は尾びれへと戻る。普段であれば絶対にしないミスだというのに、気が抜けていた。こんなにも賑やかな場所は初めてで、アステラ以外の好意的な人間と話すのもずいぶんと久しぶりだったから、油断していたのだろう。
あんなにも賑やかだった集まりの場は、今や動くことさえ躊躇われるような緊張感に満ちていた。歌と笑顔が消えた代わりに、恐怖と混乱に満ちた囁き声がそこらかしこから聞こえてくる。
「半魔が村に入り込みやがった」
「俺たちを食べに来たのか……?」
「声を聞くな。狂わされる!」
見える範囲に海すらない場所で、まともな『歌』さえ歌えぬ半魔に、何ができるというのだろう。ダガンは何もしないし、何もできない。けれど、言ったところで誰も信じてくれないことは、試すまでもなく知っていた。
(前もあったな、こういうこと)
ダガンがまだろくに物を知らなかった子供のころの話だ。
楽しそうに遊ぶ人間の子供たちの輪に入りたくて、人間のふりをした。ボールを追いかけまわすだけの単純な遊びが楽しくて、何回も、何日も、同じことをした。甘酸っぱいカウベリーのジャムを皆で分け合った日の感動を、今でも未練がましく覚えている。
まるで自分が普通の人間かのように錯覚して、友だちができたのだと家族に自慢することさえした。愚かな夢を見ていたのだ。
半魔が人間になれるわけもないのに。
その日は天気が悪かった。雨が降り出す前に帰ってくるようにと言い付けられていたけれど、遊びに夢中で忘れていた。急な雨に降られて親の言いつけを思い出した時にはすでに遅く、ダガンは今と同じように足を失っていた。
手を貸してほしいと腕を伸ばしたダガンに返されたのは、化け物を見るような冷たい視線と、恐怖に満ちた叫び声だけだった。
その結果が、家族揃っての、ほとんど夜逃げのような引っ越しだ。
半魔は所詮、半魔でしかない。人間からも海魔からも爪弾きにされる、はぐれ者だ。たったそれだけの事実を学ぶにしては、ずいぶんと高い勉強料だったように思う。
それ以来、ダガンは人と関わるのをやめた。期待するから裏切られ、夢を見るから不幸になる。ならばいっそのこと、すべてから遠ざかって、波に揺蕩うように生きる方がよほど楽だ。どこぞの当て馬男のように、何度失敗してもへこたれないでいられるほど、ダガンは強くない。時折眩しい世界を覗くだけで満足しようと、心に決めたはずだった。
それなのに、なんて様だろう。欲を抑えきれずに陸に上がった結果が、このやらかしだ。同じ轍は踏むまいと肝に命じてきたはずなのに、己の馬鹿さにほとほと嫌気が差す。
顔を上げるのも嫌で、ダガンは黙って地面を見つめていた。自分を物としか見ない目も、化け物扱いをして怯える目も、見たくない。嫌というほど見てきたせいで、もう見飽きた。
冷たい雨が、ぽつりとダガンの首を叩く。とうとう降り出した雨は、一気に勢いを増していった。
「すみませーん! ちょっと失礼! 通して通してー!」
その時、場に似合わぬ明るい声が聞こえてきた。かと思えば、俯いたままのダガンの上に、暗い影がぬっと差してくる。
「お待たせ、ダガン! 水被ると尾びれに戻るんだな。乾かすと足になるんだから、まあそれはそうか。次は雨避けの外套か何か買った方がよさそうだな」
からりと笑ったアステラは、「これ持ってて」と有無を言わせず大きな荷物をダガンに押し付けると、地面に落ちたままの衣服を拾って、ついでのようにダガンに投げ渡してきた。雑に放られた布と濡れた服は、べしょりとダガンの顔を覆うと、視界を丸ごと覆い隠してしまう。
「おいてめえ、何勝手なことしてやがる!」
村人の怒鳴り声が間近で響く。周りを取り囲むような足音が聞こえた直後、剣が風を切る音とともに、ぼとぼとと何かが落ちる音がした。
「――ダガンに触るな」
聞いたこともない、冷たく鋭い声音だった。威圧と不機嫌が滲んだアステラの声は、声を張っているわけでもないのによく通る。何も見えないのに、びりびりと震える空気が伝わってくるかのようだった。
顔に張り付いた濡れズボンをそろりと剥がす。
「う……ぁ……」
周囲を囲む村人たちは、顔を真っ青にして立ち尽くしていた。視線を下に向ければ、槍の穂先やら鍬の刀部やら、おそらくはダガンに向けられていただろう武器の切っ先が、軒並み切り落とされて転がっている。
傭兵だの騎士だの、いくら腕が立つとはいえ、大型犬のように人懐こいアステラの形で勤まるものなのかとひそかに疑っていたけれど、どうやら要らぬ心配だったらしい。
気圧されたように人々は息を呑み、暗い囁き声はひとつ残らず消えていた。
それに満足したように、アステラがくるりと振り向く。よいしょ、と気の抜けるような掛け声が聞こえた時には、ダガンは渡された荷物ごと、アステラの腕の中に抱え上げられていた。




