1-2 間抜けな人魚と逃避行
「人魚の血は万能薬。サレの病も、きっとこの化け物の血を飲めば治るはずだ」
「いけません! おやめください、旦那様」
「やめない。私は君を生かすためなら、何でもする」
止めようとしたサレを遮り、ヴィンブルク伯爵は鞘から剣を抜き放つ。アステラがごくりと唾を飲み込んだ瞬間、我慢の限界とばかりにダガンが大声を上げた。
「――おい! 無視すんなって、俺はお前に言うとんねん、アステラ! 知らんぷりしとらんと早よ助けろやカス! 隠れてようがその目立つ金髪、ばっちり見えとんねん!」
「馬鹿っ! 黙ってろダガン!」
「……え? アステラ?」
反射的に怒鳴り返すと、今気付いたとばかりにサレがアステラの方を向いた。目が合った瞬間、天使のように美しい青年の顔に、一気に罪悪感が広がっていく。その変化が気に食わなかったのか、顔を歪めたヴィンブルク伯爵は、さっとサレを腕の中に隠してしまった。
「貴様、どこから入った。無礼者」
「えっ」
どこからも何も、屋敷の警備は近衛の仕事である。しかし、眉をつり上げたヴィンブルク伯爵は、答えるより前に、アステラへ鋭く指を突きつけた。
「この人魚と知り合いなのか? 魔族と通じていたとは、近衛の風上にも置けぬな。だから流れ者を雇うなど反対だったのに……! 何の狙いでサレに近づいた?」
「いえ、誤解です!」
「言い訳は牢で聞こう」
顎をしゃくったヴィンブルク伯爵は、「衛兵!」と無情な声を響かせた。
「その者を捕えろ!」
数秒と立たずに駆けつけてきた兵士たちは、同僚であるアステラの顔を見て一瞬だけ不思議そうにしたものの、主君の指示通りにきびきびと動き出す。慌ててヴィンブルク伯爵の腕の中から逃れたサレが「お待ちください!」と声を上げたが、伯爵は聞く耳を持たなかった。
「庇い立てするつもりか、サレ。やはりその男に情があるのか?」
「いえっ、そういうわけでは……!」
そういうわけではないらしい。恋人だと信じていたのは、やはりアステラだけだったのだ。ぐさりと胸に刺さった言葉に崩れ落ちそうになりながら、アステラは滲む涙をぐいと拭った。
「う、うう……! 今度こそうまく行くと思ったのに……!」
初めて恋をしたときから、ずっとこうだ。今度こそ本当の恋人になれるんじゃないかと期待しても、いつもいつもうまくいかない。
いつだってアステラは、誰かの間男であり、キューピッドであり、都合の良い男にしかなれない運命だった。
「のん気に落ち込んどる場合か、アステラ!」
がしゃがしゃと檻を鳴らしながら、ダガンが急かすように声を上げる。
「とっとと俺をここから出せや。早よ逃げんと! 俺はお前と仲良く牢暮らしなんてごめんやぞ!」
「分かってるよ! ああクソ、こんな何度捕まっても懲りないアホ人魚と同列だなんて……!」
嘆きとともに素早く剣を抜いたアステラは、軽々と剣を三度振るうと、ダガンを繋ぐ首輪と檻を一気に切り裂いた。
瞬きの間に細かな残骸と化した鉄の檻が、カラン、カランと甲高い音を立てて床に落ちていく。
巻きワラを斬るがごとく鉄の檻を切り刻んだアステラに、兵士たちは化け物でも見るような目を向けてきた。けれど、周囲の引き切った空気に傷ついている暇はない。
自由になったダガンが、よっしゃ、と騒がしく腕を突き上げる。
「海に逃げるで。窓まで連れてけ、アステラ!」
「抱えられる分際で偉そうにしてんな、クソダガン!」
ぬるりと滑る魚の尾びれを片腕で抱えて、アステラは近くの机を蹴倒しながら、一目散に扉をくぐる。
人魚を小脇に抱えて走り出したアステラを見て、兵士たちはようやく職務を思い出したらしい。号令とともに、矢が雨あられのように飛んできた。
室内で矢を打つなんてあんまりだ。涙を飲みつつ廊下を駆け抜けながら、アステラは振り返りざま、矢のことごとくを剣一本で両断する。
「アステラ、あっちへ逃げて! 大窓があるから!」
呼び声に視線を向けると、衛兵たちの向こう側から、悲痛な顔で左を指さすサレがちらりと見えた。
「色々ごめんね!」
「いいんだ。気にしないで! 幸せに、サレ」
せめて最後くらいは爽やかに、と笑顔を向けて、走り出す。
「逃すな!」と険しい怒号が響いた。大きく手を振るサレに背を向けて、アステラはまっすぐに廊下を掛ける。光差し込む大窓を見るや否や、ダガンが興奮したように尾びれを跳ねさせた。
「よっしゃ窓や! 上出来や、バケモンめ!」
「リアル人外に言われたくねえんだよ、クソダガン!」
「あとは任せとき」
ダガンはするりとアステラの腕を抜けていく。艶やかな尾びれを使って高く跳躍したダガンは、宙で勢いをつけて大きく尾びれを振ると、大窓を盛大に割り砕いた。ダガンを追うように、アステラも覚悟を決めて、割れた窓から海へと飛び降りる。
「息吸え、アステラ。……行くで!」
きらめくガラス片の中、不敵に笑ったダガンが手を差し伸べる。眩しいくらい青い空の下、アステラは反射的に手を伸ばす。ダガンが強くアステラの手を掴むと同時に、ふたりはもつれ合うようにして、窓に面する海へと落ちていった。
どぼん。
全身を叩きつけるような衝撃に、意識がくらりと遠のいた。肺の中にため込んだ空気が、落下の衝撃で抜けていく。息なんて吸うだけ無駄じゃないかと心の中でダガンを呪いつつ、アステラはごぼごぼと海に沈んでいった。