3-3 貞操観念ってもんはないんか
さっき溺れたばかりの人間になんてことをするのだ。
ダガンの胸板をばしばし叩くが、腕力で意志を通せた陸とは違って、水中で人魚に敵うわけもない。まわりを取り巻く水に怯えて身をすくめることしか、アステラにはできなかった。
(冗談! 冗談だから! もうちんこ貸せなんて馬鹿言わないから、許してダガン!)
伝わらないと知りつつ目で訴えるが、悲しいかなダガンは取り合ってくれなかった。珊瑚と小魚が美しい、澄んだ海底までアステラを引きずりこんだダガンは、首から下げていた真珠を一粒千切ると、無言でアステラの口元へ押し付けてくる。
(死ぬ死ぬ死ぬ! 何すんだやめろや馬鹿人魚!)
ぶるぶると首を振って拒否するアステラに焦れたのか、ダガンは大きな舌打ちをひとつする。次の瞬間、あろうことかアステラの鼻をむんずと摘んだダガンは、口の中へ無理矢理指を突っ込んできた。
「んんんんん!」
ぐいと顔を上向かされる。口内にねじり込まれた指が、海水ごと真珠を喉元に届けてきた。半泣きになりつつ、アステラは真珠を反射的に飲み下す。なにすんだ、とダガンの腕をつねるが、ダガンはどこ吹く風でアステラを見つめ返すだけだった。
苦しい。息がもうもたない。――死ぬ!
腕をバカつかせて海面に上がろうとするけれど、呆れたようにアステラを抱え直すダガンのせいで、ろくろく動くこともできなかった。
「何しとるんや。息できるやろ。吸うてみい」
呆れたようにダガンがアステラの背を叩く。うっかり咳をした後で、海中で口を開けててしまったというのに不思議と苦しくないことに気がついて、アステラは目を丸くした。
「……え? 何? なんで息できんの?」
体のまわりに、一枚空気の膜でもあるかのようだった。薄らと光る何かが、アステラを守るように全身を包み込んでいる。息もできるし、普通に喋れる。首を傾げながら、アステラは違和感の残る喉をさすった。
「真珠飲んじまったじゃねえか。もったいねー」
「仕方ないやろ。お前は純人間なんやから、ズルせな海にもいられへん」
「ズルって? あれ、何?」
「俺の涙」
「げー」
「失礼な奴やな! あれ欲しさに追いかけてくる人間だっているくらい、貴重なものなんやぞ!」
装飾品としても使えるし、飲めば海に潜り放題の、人魚の涙。欲しがる者はたしかに多そうだ。人魚とは、つくづく便利な生き物である。
「よく分からないけど、まあいいや。海ってこんなに綺麗だったんだな! 初めて見た」
ダガンにしがみついたまま、アステラはじっと上を眺めた。水中から見上げる水面は、光がゆらゆらと揺れて幻想的だ。ゆるく渦を巻く海水の流れに身を任せるように、隊列を組んだ魚たちが下から上へと昇っていく。透き通った水も、見たこともない色とりどりの海の生き物たちも、この世のものとは思えないほど美しかった。
目を輝かせるアステラとは対照的に、ダガンは困惑したように眉間に皺を寄せている。
「お灸据えたろ思ったのに、全然懲りとらんな。何度も見とるくせに何言うとんのや」
「溺れてるときに周り見てる余裕なんて、あるわけないだろ! なあ、これで俺、ずっと泳げるのかな」
うきうきとしながら尋ねるも、ダガンはつれなく首を横に振った。
「んなわけあらへんやろ。一粒九十分や」
「なんでそこだけケチなんだよ」
「文句言いなや。俺は半魔やって何回言わす気やねん。奇跡っちゅうのは安いもんやないんや」
「ふーん……まあいいや。俺、底に行きたい」
「行けばええやろ」
「俺が泳げないの知ってるくせに! ケチケチせずに連れていってくれよ」
「面倒なやつやな!」
ぶつくさと言う割には、ダガンはアステラを抱えたまま、望み通りに底へ向かって泳いでくれた。ダガンが尾びれをうねらせるたび、小さな気泡が生まれては、光を受けて七色に輝きながら上へ上へと消えていく。
体の重みから解放される、水中特有の浮遊感を満喫しながら両手を伸ばす。
魚に水草、白い砂。のんびり穴掘りをしている貝もいれば、岩の上を転がる、動物なのか植物なのかも分からぬ棘だらけの黒い生き物もいた。
どれも陸では見たことのないものたちだ。ぼんやりと海底を漂うだけなのに、楽しくてたまらない。先ほどまで死にかけていたことも、呪いについて頭を悩ませていたこともすっかり忘れて、アステラは目の前の美しい景色にただ見入っていた。
水のうねりが、ゆるりと肌を撫でていく。心地よさにうっかり目を閉じかけた瞬間、不意に、ダガンの肌と己の肌が擦れるのを感じた。自分のものではない肌の感触を意識すると同時に、アステラは海に入る前のやり取りをはっと思い出す。
「ははあ、なるほどな。海の中じゃないとできないとか、そういうやつ? 人魚だもんな」
「はあ? 何の話や」
「セックス。ちんこ貸してくれるって言ったじゃん」
「言っとらんわアホ! お前には貞操観念ってもんはないんか? ええかアステラ。そういうことは、恋人とするもんやで」
お前には本当の恋人がいたことないから分からんかもしれんけど、そういう行為は誰彼構わずするもんやないんやで。
アステラの両肩に手を置いたダガンは、貞操観念を叩き直すと海岸で喚いていた通り、さながら物知らぬ子どもを諭すように、性行為の意味とリスクについて真摯にアステラに言い聞かせてきた。人を一体何だと思っているのかとキレそうになったけれど、ダガンの目に浮かんでいるものが、嘲りでもからかいでもなく、どこまでも本気の憐れみなのだと気づいてしまうと、怒りよりもみじめさが勝り、怒鳴る気も失せてくる。
「……ダガンには、いんの? 恋人」
なんとなく面白くない気持ちで問い掛ければ、ダガンは目を逸らして「今はおらんけど……」と言葉を濁す。
「今はってことは、前はいたのか?」
「いたような、いないようなってやつやな」
もごもご言っているところに往生際の悪さを感じるが、要は過去にも今にも、特定の誰かはいないということだ。ならばそう自分と変わらない。ほっとしながら、アステラはにかりと笑った。