3-1 半魔の人魚
「アホ。ドアホ。死ぬなよアステラ。とっとと水吐き出して生き返れや、このクソ男!」
罵る声が耳に入り、もはや慣れ切った心肺蘇生の感触を、唇と胸に感じる。
水を吐き出すと、即座に顔を横向きにされた。ひと通り水を吐き終わったところで、喉に触れそうなほど深く、血の滲むダガンの指を突っ込まれる。
「ぅ、ぐ……っ」
えずきかけるが、それを咎めるようにダガンはアステラの頭を抱きかかえてきた。
「飲め!」
何度も味わったダガンの血の苦味が、舌の上に広がっていく。溺れてすぐなら血を与えられるところまでいかないけれど、今回はよほど死に近いところまで行ってしまったらしい。反射的に吐き出しそうになるが、ダガンは許してくれなかった。
人魚の血は毒を消し、衰弱した体を温める、いわば万能薬だ。頭では分かっているが、この不味さだけはどうにかならないのだろうかと飲むたび思う。それともこれは、不味さで身を守る、神秘の生き物なりの生存本能というやつなのだろうか。動かすことさえ億劫な舌を、やっとの思いでダガンの指に絡めて、アステラは血を飲み下す。
後頭部を支える手にぐったりと身を預けて、身体中に広がっていく心地よい温かさを追いかけていると、疲れ切った声が上から降ってきた。
「ほんま手間のかかるやつやわあ……」
「ごめん。助かった。ありがとう、ダガン」
「なんやしおらしいな。気色悪い」
「俺だって礼くらい言うっつーの」
ダガンの手を借りながら、身を起こす。見上げると首が痛くなるほど背の高い木に、見慣れぬド派手なショッキングピンクの果実が鈴なりに実っているところをみると、まず間違いなく大陸の南側だろう。ぽかぽかとした陽気が気持ちいいが、見渡す限りの白い砂浜に見覚えはない。
「ここ、どこ?」
きょろきょろと辺りを見渡しながら呟けば、「ロナマイの浜」とダガンが教えてくれる。ヴィンブルク伯爵領からちょうど対角線上に位置する、辺境の地名だ。
「ロナマイか。来たことないなあ……」
「田舎やけど、ええとこやで。ロナマイフルーツ言うたら有名やろ」
ショッキングピンクの果実を指差しながらダガンが言う。ロナマイフルーツは、甘酸っぱく腹持ちも良い、庶民御用達の果実だ。手のひら大の赤い果実だった覚えはあれど、あんなド派手な色をしていた覚えもなければ、両腕で抱えるほどの大きさだった覚えもない。そう指摘すると、呆れたようにダガンが鼻で笑った。
「木になっとるところ、見るのは初めてか? アステラが知っとるロナマイフルーツは、あれの中身や」
首を傾げつつも、アステラはダガンに促されるがまま、落ちたピンクの果実を拾い上げ、近くの石で殻を割ってみる。なるほどたしかにダガンの言う通り、どろりと溢れてくる赤い液体の中に、手のひら大の丸いロナマイフルーツが六つ、所狭しと詰まっていた。
取り出したロナマイフルーツをダガンと分け合いながら、アステラは感嘆する。
「海に住んでるくせに詳しいんだな。ダガンはこの辺り、よく来るの?」
「たまにな」
ぺろりとふたつ果実を平らげた後で、ダガンは森を指差した。
「あの森をまっすぐ抜けたら村があるはずや。港町も近くにある。職探すなり解呪の方法を探すなり、好きにせえ。ちゃんと生き返ったし、悪魔からも逃したったし、もう十分やろ。達者でな、アステラ」
そっけなく早口でまくしたて、ダガンはずりずりと尾びれを動かし、海に向かおうとする。慌てて立ち上がったアステラは、通せんぼをするようにダガンの前に立ちはだかった。
「まあ待て、ダガン! いつもいつも、そう冷たく置いてけぼりにすることないだろ? たまにはゆっくり話でもしようじゃないか」
「なんでお前と仲良しこよしせなあかんねん」
「そう言うなよ。俺、ダガンともっと話したいんだよ。ちょっとでいいからさ! お願い!」
「はあ? まあ、ええけど……」
アステラが呼び止めるのは珍しいからか、気持ち悪がりながらもダガンは砂浜にとどまってくれた。
よしよし、とアステラは内心でほくそ笑む。ダガンはどうしようもなく警戒心に欠ける間抜けな人魚ではあるが、こと知識だけに関して言えば、アステラの知る誰より物知りだ。悪魔を相手にするとなれば、頼りにしない手はない。
にこにこと愛想よく笑いながら、アステラはダガンの隣に座り込む。寄せては返す穏やかな波の音に耳を傾けつつ、アステラは上目遣いにダガンの顔を見上げた。
「さっきは助けてくれて、本当にありがとうな。ダガンが人魚っぽくないのは知ってたけど、歌まで人魚らしくないから、驚いたよ」
「なんや悪口言うために呼び止めたんか。海岸で海魔に喧嘩売るとはええ度胸やカナヅチ。買ったるわ」
拳を握るダガンを、アステラは慌てて両手を挙げて宥めにかかる。
「だから売ってないって! 感想! ただの感想だから、そんな怒らないでくれよ」
こほんと咳払いをしつつ、アステラは気になっていたことをダガンに尋ねた。
「人魚の歌って、人間を惑わして海に誘うって言い伝えだろ。でも、ダガンの歌は人間より悪魔に効いてるように見えた。何か理由があるのか?」
ずいと顔を近づけ、問いかける。ダガンはきまり悪そうに尾びれを揺らしながら、ふいと視線を脇に逸らした。
「何でもええやろ。アステラには関係のないことや」
「頼むよ。教えてくれ。イリヤから逃げる手掛かりになるかもしれないだろ。俺には時間がないんだ」
「時間がない?」
「これ! 見てくれよ!」
訝しむように眉根を寄せたダガンへ、アステラはずいと己の右腕を突き付ける。イバラと林檎のタトゥーが刻み込まれたアステラの腕を見て、ダガンは反応に困った様子で呟いた。
「えらい尖ったタトゥーやな」
いつ入れたん、とのんきなことを言うダガンに、地団駄を踏みたい気分でアステラは掴みかかる。
「俺が入れたんじゃねえよ! イリヤだよ! イ・リ・ヤ! ヘビに噛まれたと思ったら、牙跡から俺の体に入ってきて、勝手にこのタトゥーになってたの!」
ダガンに噛みつきそうだったから追っ払おうと思ったのに、目算を誤ったのだと、アステラは泣く泣く訴えた。
「俺が二十二になったら、全身にこの呪いが広がって死ぬんだって。海の中で声が聞こえたんだ」
「ははあ、そら気の毒にな」
「そうだろ? そう思うよな? 俺が死んでもいいのかダガン! イリヤから逃げられる方法があるなら、なんでもいいから教えてくれ!」
ほとんどダガンに土下座するようにして懇願すれば、憐れむようにダガンはアステラを見下ろして、しぶしぶと教えてくれた。
「悪魔の契約から逃げる方法なんざ知らんけど、あいつが俺の歌を嫌がったんは、単に俺の体質のせいや」
「体質?」
問い返すと、いかにも嫌そうに頬を引きつらせつつも、ダガンはぼそぼそと自身の体について教えてくれた。
「あの悪魔も言うとったやろ。俺は半魔なんや。父親が海魔――人間流に呼べば人魚で、母親が人間。せやから俺には半分、人間の血が流れとる」