2-8 二十二歳で死ぬ呪い
「うわあ……っ! お、俺、こいつと一緒にいたいから! イリヤとは一緒に行けないよ!」
縋るように、アステラは全力でダガンに抱き着いた。途端にダガンが迷惑そうに顔を顰める。
「痴情のもつれに巻き込むなアホ!」
「もつれてねえし!」
「お前恋人が欲しかったんやろ? よかったやん。あの悪魔ならきっと、お前のことを熱烈に愛してくれるで?」
「人間じゃないやつは対象外だ! 名前も知らねえ親に売られたからって、なんで俺が悪魔の物にならなきゃいけないんだよ!」
「知るか自分で何とかせえや!」
「『契約』はどうなった!」
苦し紛れにアステラは叫ぶ。ぴくりとダガンが片眉を上げたのをいいことに、アステラは今までの貸しを片っ端から必死で並べ立てた。
「ダガンが間抜けに水槽に繋がれてたときだって、俺は鍵を探しに行って助けてやったぞ。檻だって切ったしオークションはぶち壊したし持ち金で競り落としてやったことだってある! 借りより貸しの方がぜーったい多い。今返せ! 俺はダガンを助ける。ダガンは俺を助ける。俺たち、一蓮托生だって最初に言い出したのはダガンじゃないか!」
「ぐ……っ」
言葉に詰まったダガンが、迷いながらもアステラの背に手を回す。ダガンがアステラを引き寄せようとした瞬間、イリヤが脅すように口を挟んだ。
「半魔風情が、獲物の横取りをする気ですか?」
半魔という言葉も気にはなったが、それ以上に獲物という言葉に胸を抉られた。結局アステラは、イリヤにとっては食べ物でしかないのだ。好きだと口では言っていても、本当の意味での好きではない。
じわりと涙を滲ませながら、アステラはなりふり構わずダガンに縋る。
「ダガン、助けてくれよ。今だけでいい。一生のお願いだ……! 俺、まだ死にたくないよ! 頼むよ。……俺を置いていかないで、ダガン」
舌打ちが響く。ダガンの腕が、宙に浮かびかけたアステラの体を、今度こそ乱暴に抱き寄せた。
「このアホ。甘ったれ」
口元を引きつらせながら、ダガンは素っ気なく言い捨てる。
「一度だけやぞ、アホアステラ。それで一切合切、貸し借りなしや」
「何でもいいよ! ここから俺を逃がしてくれ、ダガン!」
「悪魔の恨みなんぞ買わせよって。死んだら祟るからな!」
吐き捨てた直後に、ダガンは大きく息を吸い、ぱくぱくと空中に向かって素早く口を動かした。アステラの耳には聞こえないけれど、海の生き物たちには何かしらの意味があったのだろう。海面から次々に魚たちが顔を出し、イリヤに向かって体当たりをするように、飛び跳ね始める。
「地味!」
「黙っとれ!」
魚に囲まれ、イリヤが鬱陶しそうに高度を上げる。わずかに距離が開いた一瞬を逃さず、ダガンはもう一度、声を発した。
ただし今度は、アステラの耳にも聞こえる声で。
「――!」
それは歌だった。聞いたことのない言語に、聞いたことのない旋律。人魚の歌だ。
しかし――。
「う……っ、下手くそ!」
耐えきれず耳を塞ぐ。ダガンの歌は、よく言えば独創的で、悪く言えば音痴だった。見た目が人魚らしくないだけでなく、歌まで音痴とは、ダガンはどれだけないない尽くしなのだろう。
ダガンと初めて会ったときに聞いた歌はあんなにも美しかったはずなのに。首を傾げながらも、アステラは暴力的な音の波から逃げるように身を丸める。
「ぐ……っ」
身を丸めているのはアステラだけではなかった。空中にいるイリヤは、アステラ以上に苦しみながら耳を塞ぎ、体を傾けている。たしかにずっと聞いていると具合が悪くなりそうな歌だが、そこまでするほどだろうか。
「そ、の歌を……、止めろ!」
髪を振り乱して叫ぶ様は、とても正気とは思えない。魚たちを退けようとしたのか、イリヤは突き出した拳をぐしゃりと握り込んだけれど、海水がわずかに跳ねるばかりで、何も起こらない。先ほどまでと違って、イリヤは力をうまく扱えていないようだった。
アステラを引き寄せていた力が、糸が途切れるように消え失せる。やった、と歓声を上げようと口を開いたタイミングで、瞬時にダガンの手がアステラの鼻から口までをすっぽりと覆った。何をするんだと文句を言う間もなく、アステラの体は海の中へと深く引きずり込まれていく。
「んー! むー!」
もがもがと呻く間も、ダガンの歌は途切れなかった。
歌を追うように、水面から何かが飛び込んでくる。見れば、イリヤが使っていた白いヘビの群れが、猛烈な勢いでアステラたちを追いかけてきていた。
「むー!」
(後ろ! イリヤのヘビが来てるって!)
ばたばたと手足を動かして、アステラは必死でダガンに伝えようとする。分かっているとばかりに、アステラを抱くダガンの腕の力が強まった。
次の瞬間、ぐわん、と視界が回転した。
ダガンがランダムな軌道を描きながら、でたらめな速度で遊泳する。容赦のない軌道は、恐ろしい顔をしたヘビの大半を振り払うのには効果的だったが、同時にアステラをも殺しかけていた。
息が続かない。
「うぅ……っ」
もう限界だと空気を吐き出しそうになったその時、不意に口を覆う拳を外された。何をする気かと考える間もなく、ダガンの顔がゼロ距離に寄せられる。近すぎる距離におののく間もなく唇が重なり、ふう、と空気を吹き込まれた。
唇を合わせても、嫌悪感はまるで感じない。記憶こそアステラには残っていないけれど、海で溺れるたび、いつもこうして息を吹き込んで助けてもらっていると知っている。不思議な思いで目の前にあるダガンの顔を見つめていたその時、執念深く追い縋ってきた一匹のヘビが、ダガンの首筋目掛け、大きく口を開く様子が目に入った。
(――ダメだ!)
身を乗り出したアステラは、咄嗟にダガンを庇い、己の腕をヘビの口に割り込ませる。
ヘビの牙が皮膚を破ると同時に、ズキリと体の奥深くに響くような鈍痛を感じた。笑うように体をよじらせたヘビは、牙跡目掛けて飛び込むと、アステラの体の中へと消えて行く。ヘビが姿を消すと同時に、アステラの上腕には、ヘビが林檎に絡みついたようなタトゥーがひとつ、焼印のように刻み込まれていた。
『契約を守らない悪い子には、お仕置きです』
柔らかいのに酷薄な声が、体の中から響いてくる。どくりと嫌な脈動を感じるとともに、視界が揺れ、アステラの体から急激に力が抜けていった。
『君が僕の元へと来ない限り、この呪いはじわじわと広がって、苦痛のうちに君の魂を器から剥がします。期限は二十二の誕生日。僕からの誕生日プレゼントですよ、アステラくん。……楽しんでくださいね』
おどろおどろしい呪いの言葉から耳を背けたくて、アステラは強く頭を振る。けれど、悪魔の声は離れない。
『忘れないで。君が愛する人は、誰も君を愛さない。君を愛してあげられるのは、僕だけです。痛みに耐えられなくなったら、いつでも君の血で喚んでくださいね。待っていますから』
くすくす、と恐ろしい笑い声が響くと同時に、腕に刻まれた林檎のタトゥーを中心として、上腕を覆うようにイバラ状の紋様が広がっていく。恐怖で身がすくみ、ただでさえ苦しかった呼吸は、とうとう限界を迎えた。
ごぼりと音を立てて、空気が口から抜けていく。
「アステラ⁉︎ おい、しっかりせえ!」
焦りの滲んだダガンの声が耳元で聞こえる。返事をする余裕もなく、アステラの意識は闇へと沈んでいった。