2-6 金髪碧眼の人間は格別にうまい
「知らんけど、多分な。あの悪魔見るまで気づかんかったけど、お前にはあの悪魔の嫌ぁな気配が染み付いとる。行く先々で修羅場になっとんの、さすがにおかしいとは思っとったんよな。その恋愛脳の悪癖のせいで、どっかであの悪魔に恨みでも買ったんとちゃうん?」
「そんなの知らねえし! イリヤと会ったのは今回が初めてだよ! どういうこと?」
「俺に聞かんといてや」
すげなくダガンに突き放されて、しぶしぶとアステラは視線を前に戻す。目が合うなりイリヤは嬉しそうに微笑み、手を振ってくれた。さらりと揺れる空色の髪が、こんな状況だというのに憎らしいほど美しい。ごくりと唾を飲み込んで、アステラはイリヤに問いかけた。
「俺、前にもイリヤと会ったことがあったかな……?」
「ええ。アステラくんがまだ小さかったころ、一度だけ」
「悪魔とか呪いとかっていうのは?」
「アステラくんのご両親が悪魔を探しておられたので、僕が召喚に応えたんです」
まったく心当たりがない。
「なるほどな。契約主はアステラの両親か」とダガンは訳知り顔で頷いているが、何がなるほどなのかすら分からなかった。眉根を寄せるアステラの心情を知ってか知らずか、イリヤは懐かしそうに目を細めている。
「小さいころの君もかわいかったですよ。アステラくんがこれくらいだったころ、元気に育つようにって願いを込めて、おまじないをかけたんです。だから、呪いじゃなくて祝福ですよ」
そう言ってイリヤは、両手を肩幅程度に広げて悪戯っぽく微笑んだ。その話しぶりからすると、イリヤが言うところの小さいころに会ったというのは、どうやらアステラの赤子時代の話らしい。
「……ごめん、赤ん坊の時のことはさすがに何も覚えてないよ。もう少し詳しく教えてほしいな」
眉尻を下げながら頼み込むと、イリヤは唇に手を当て、くすりと笑った。あくどい表情が、ぞっとするほど色っぽい。
「いいでしょう。願いごとには対価をいただくのが悪魔の流儀ではありますが、アステラくんにはたくさん楽しませてもらいましたからね」
初回限定無料サービスです、と妙に庶民じみた前置きをして、イリヤのもったいぶった仕草で人差し指をついと振った。ぐにゃりと空が歪み、夢の中にいるかのように、一気に景色が別の場所へと移動する。
「君はね、シャイレーンの最後の王子だったんですよ。アステラくん」
海のど真ん中にいたはずなのに、気づけばアステラたちは、古びた城の中に立っていた。イリヤが指さす先では、王冠を被った男と、豪奢なドレスを纏った女が、小さな赤ん坊を抱えて微笑み合っている。どうやら、あの金髪碧眼の赤ん坊がアステラらしい。
「シャイレーンってどこだっけ……?」
首を傾げていると、横から呆れたようにダガンが口を挟んでくる。
「住んどる国の歴史くらい勉強せえ。シャイレーン言うのは、ちょっと前……二十年くらい前やったかな。飢饉やったかクーデターやったかがきっかけで崩壊して、この国に併合された国や。美容の国って言われるくらい、やたらと見た目に気ぃ遣うやつらが多い国でな。見つかるとしつこく追い掛け回されるから嫌やったわあ……」
「へー。で、俺がそこの王子? どうりで俺、顔が良いわけだ」
「自分で言ぃなや、ナルシスト」
ダガンに頭を叩かれながらも、イリヤの見せてくれる過去の光景に、アステラはじっと見入っていた。
王も王妃も赤ん坊も、皆が幸せそうに笑っていた。アステラには縁がないと思ってきた、夢のような家族の姿だ。
しかし、赤ん坊が育つにつれて、豪奢だった王たちの身なりは、日に日に質素なものへと変わっていった。演説をする王は石を投げられ、町を視察する王妃は野次を飛ばされていた。みるみるうちに王と王妃は痩せこけ、使用人たちは疲れきった様子で項垂れるようになった。
「シャイレーンが滅びたとき、アステラくんはちょうど一歳になる前でした。平和な小国だろうと、一年足らずで地獄に変わってしまうんですから、人間というのは本当に面白い。悪魔よりよほど恐ろしいと思いませんか?」
イリヤは朗らかに微笑んでいるが、言っている内容はまったく朗らかではなかった。アステラにしてみれば、得体の知れない悪魔の方がよほど怖い。
豪奢だった城は、瞬きの間に血と炎で汚れていった。業火に包まれた城内には怒号と悲鳴が絶え間なく響き、王を守る兵士たちが、次々に血に濡れては死んでいく。
城の奥深くに追い詰められた王たちは、泣きながら像に祈りを捧げていた。見るからに禍々しい、悪魔の像に。
「あの人たちが祈ってるの、何? 神樹の像じゃなくね?」
この大陸での神といえば、崩壊する世界から人を救ったという神樹だけだ。しかしあれはどう見ても樹ではない。顔を引きつらせるアステラに、ダガンはさらりと「邪神像やろな」と答えた。
「お前の両親、ヤバい宗教にハマってたんとちゃうか」
「ええ……、顔も覚えてないけど、ちょっと複雑だな」
アステラとて別に信心深い方ではないが、亡き両親があからさまに怪しい宗教に傾倒していたとは知りたくなかった。
王と王妃は、自らの血を使って、床に怪しげな魔法陣をひとつ描き上げた。陣の上に何人もの使用人の死体を積み上げて、王と王妃は地に額づく。短い祈りの言葉を鍵として、魔法陣は黒い翼を背負った悪魔を呼び出した。
「イリヤだ」
「赤ん坊だったアステラくんは、翼がお気に入りだったんですよ」
記憶を愛おしむようにイリヤが呟く。その言葉どおり、揺りかごの中に入れられた幼いアステラは、きゃっきゃっと笑いながら、今と全く同じ見た目のイリヤの翼を、嬉しそうに掴んでいた。
赤ん坊を見つめて、面白がるように過去のイリヤが口角を上げる。
「『――契約を』」
映像の中で微笑むイリヤと、目の前で浮かぶイリヤが、同時に同じ言葉を囁いた。
「この国と自分たちを苦境から救ってくれ、とアステラくんの両親は僕に願いました。僕は、この方々の願いを叶える代わりに、金髪碧眼の赤ん坊を――アステラくんを要求しました」
「え」
「綺麗な色だったので、欲しくなってしまったんです」
「綺麗? 割とよく見る色じゃないか……?」
首をひねりつつ、アステラはちらりとダガンに視線を向けた。分からないことはダガンに聞くに限る。気は進まない様子ながらも、ダガンはアステラの期待通りに、「迷信やけど……」と説明してくれた。
「金髪碧眼の人間っちゅうのは、魔族にとっては特別なんや。子どものころは綺麗な金髪でも、大体みんな、大人になると色が褪せてくやろ。でもたまに、アステラくらいの年になっても色が変わらんやつがおるんよ。そういう純粋な金髪碧眼の人間は、格別にうまいって聞いたことがあるわ」
「うまいって、何が……?」
嫌な予感を覚えつつ尋ねれば、「全部」と無慈悲な答えが返ってくる。
「血も肉も精気も魂も、頭のてっぺんから足の先まで、ぜーんぶや。アステラが言うところのバケモンどもにとっては、高級珍味みたいなもんや」
ぞっと鳥肌が立った。ダガンの口から覗く鋭い歯も、柔和に微笑むイリヤの顔も、一気に恐ろしいものに見えてくる。身を竦ませたアステラに気付いたのか、心外だとばかりにダガンが顔を顰めた。
「言っとくけど、俺は人間は食わへんぞ。何でも食う悪食どもと一緒にすんなや」
「なんだよ、驚かせるなよ」
「ふん。もっとも、あの悪魔はどうだか知らへんで」
作り物めいた美しい笑顔を浮かべるイリヤを、怖々と見上げる。
アステラを生贄とした契約で、イリヤは国の苦境を救って欲しいと希われた。ならばこの天使のような悪魔は、どうやってその願いを叶えたというのだろう。両親とイリヤが交わした契約の行方を、息を呑んでじっと見守る。
映像の中のイリヤに視線を戻した瞬間、ぴたりと映像が止まり、人形たちが不自然に動きを止めた。
ごとりと重い音が響く。
「……え?」
映像の中で微笑む悪魔が指を振り、アステラの両親の首を落とした音だった。