2-5 半年ぶりの再会
「アステラ? なんでお前が海におるんや」
海の中で声が聞こえるはずがないのに、頭の中に直接届くような、不思議な声。陸の上で聞くものとは違うけれど、間違いなくダガンの声だ。非情に不本意ながら、ダガンの声を聞いた瞬間、安堵でくしゃりと顔が歪んだ。なんなら涙と鼻水が同時に溢れてくるくらいには、ホッとした。
「顔、ヤバい色になっとんで。さっきからがんがん沈んどるけど、大丈夫なん?」
(俺は! 泳げねえんだよ! 知ってるくせに!)
糸を伝って、死に物狂いで網を掴む。最後の力を振り絞って網を引きちぎると、アステラは救いを求めるようにダガンへと手を伸ばした。
限界だ。ごぼりと音を立てて、口から空気が抜けていく。
遠くなっていく意識の中で、伸ばした手をそっと握られ、抱き寄せられる感触がした。陸の上ではお荷物でしかないくせに、海中では誰より力強く思えるその感触。ほっとしながら身を委ねる。
急速に上へと引き上げられる感覚に吐き気を感じたのも束の間のこと。肩を抱えられるようにして海面へと押し上げられて、アステラは必死で息をした。
「ごほっ、は……っ、えほっ! うえっ」
「何や上がどたばたうっさいなあとは思っとったけど、いきなり後ろにおるからびっくりしたわ。寝覚めが悪くなるから俺の目の前で死なんといてな、お間抜けアステラ」
「漁業されてたクソ間抜けな人魚に言われたくねえー!」
「うっさいわ! 最近の網は見えにくいねん!」
ダガンの肩を借りてプカプカと浮かびながら、挨拶代わりに口喧嘩をする。ダガンの顔なんて数えきれないほど見ているのに、今日に限っては、思わず抱きつきたくなるほど懐かしく感じた。
「ううっ、会いたかった、ダガン……! 会えて本当に嬉しいよ、俺!」
ひしと抱きつき、思いをそのまま口に出すと、困惑したようにダガンが眉根を寄せた。
「なんやねん。どないしたん?」
「色々あったんだよ! ああ、その海藻みたいなモサ髪が懐かしい! つーか本当に海藻絡まってるぞ。少しは身なりってもんを気にしろよ。相変わらずクソださいな!」
「喧嘩売っとんのか?」
「売ってない。会えて嬉しいって言ってるんだよ! いつぶりだっけ、ダガン?」
「はあ? 半年かそこらやろ、多分」
やっぱり、とアステラは項垂れる。日付の感覚がおかしくなっているのは気付いていたが、本当にそこまでの時間が経っているとは思わなかった。挙動不審なアステラを訝しむように、ダガンは軽く首を傾げる。
「アステラのことやし、どうせまたどこぞの恋路に首突っ込んどったんやろ? 海に突き落とされるなんて、今回はまたずいぶんと過激な修羅場やないか」
「修羅場じゃねえよ! 頭弄くられて色々わけ分かんなくなってたところを、逃げてきたんだよ俺は!」
「頭ぁ? なんや危ない学者でも引っかけたんか。新しいパターンやな。女か? それともまた男か。どんなやつや?」
他人の不幸は蜜の味とばかりに、ダガンが口角をつり上げる。この野郎人の気も知らないで、と苛つきつつも、アステラはぼそぼそと白状した。
「男だよ。美人だけど、多分人間じゃない。記憶、勝手におかしくされてたし」
「ははあ、人外か。そら珍しいなあ。あんな感じ?」
「そうそう、あんな感じ――って、ひいい!」
ダガンが指さす方角には、海の上にふわふわと浮かぶイリヤがいた。浮かぶと言っても泳いでいるわけではなく、文字通り海面を滑るように、宙に浮かんでいるのだ。その背には、鳥によく似た美しい黒翼が一対、陽光を受けて艶やかに煌めいてた。
「なるほどな。お前好みの性悪そうな美人や」
色々な方向に失礼極まりない感想をダガンが零すのを聞きながら、アステラはぶるぶる震えてダガンの腕にしがみつく。
そんなアステラの前へ、イリヤは優雅に翼を羽ばたかせて降り立った。手触りの良さそうな巨大な翼といい、小さな岩礁の上でもバランスひとつ崩さぬ様子といい、見れば見るほど本当に人間ではないのだなあと悲しい実感が湧いてくる。
「無事で良かったです、アステラくん。溺れてしまったんじゃないかって心配しました。さあ、一緒に帰りましょう?」
「ひいっ」
微笑んでいるのに、イリヤの目はまったく笑っていなかった。人ではありえない空中浮遊なんて芸当を見せつけられてはもう、がたがたと震えながらダガンに抱き着くほか、アステラにできることはない。
返事をしないアステラに焦れたのか、イリヤはアステラを抱えるダガンへと視線を滑らせた。
「……はじめまして、海魔さん。会うのは初めてですね」
「『会うのは』も何も、俺は自分のこと、さっぱり知らへんけどな。こいつとどういう関係か知らんけど、俺を巻き込まんといてくれるか」
「場合によります。警戒心の強い海魔が海面に出てくるなんて、それ自体が珍しいですし」
「そらまあ、俺ははみだしもんやし。それに珍しい言うても、契約主でもない人間追いかけまわしとる悪魔ほどは珍しくないやろ」
「……悪魔? イリヤが?」
聞き捨てならない言葉に口を挟むと、ふたり分の視線が一気にアステラに集中する。イリヤとダガンを交互に見つめた後で、助けを求めるようにアステラはダガンの耳元でこしょこしょと問いかけた。
「なあなあ、悪魔とか海魔とか、どういうこと?」
「陸に生きる魔族は陸魔、海に生きる魔族は海魔。悪魔や人魚は人間がつけた俗称や」
「誰が定義を聞いたんだよ! そういうことじゃねえよ!」
「こそばいわ! 聞くなら本人に直接聞けばええやろ! お前を呪った張本人が、せっかくそこにおるんやから」
面倒くさそうにアステラの顔を手で押しやりながら、ダガンがイリヤを顎で指す。聞き捨てならない言葉を拾って、アステラはぎゅっと眉根を寄せた。
「……呪い? 俺、呪われてんの?」